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フランシスコ教皇様来日準備のための霊的花束(2019年11月2日現在)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
こんにちは!現在東京では、フランシスコ教皇様の来日準備のために次の霊的花束が報告されています。
ミサ聖祭 41
聖体拝領 41
霊的聖体拝領 123
十字架の道行 86
ロザリオ(環) 700
小さき犠牲 66
その他 68

多くの場合お祈りを宜しくお願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!トマス小野田神父




聖ピオ十世会 名古屋で初めて聖伝のミサが捧げられました

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは!
昨日、2019年11月4日(月曜日)には、振替休日で。東京での朝ミサをお休みさせていただき、名古屋で初めて聖伝のミサを捧げることができました。子どもたちを含めて、27名がミサに与ることができました。天主様に感謝します。
このミサが実現することができるように、準備、協力、サポートをしてくださった多くの兄弟姉妹の方々に感謝します。

天主様の豊かに祝福がありますように!
トマス小野田神父







教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』Libertas praestantissimum(人間の自由について) 1888年6月20日

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教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』(人間の自由について)
1888年6月20日
訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会
Copyright © Society of Saint Pius X, 2001 All rights reserved


DE LIBERTATE HUMANA


いとも聖なる私たちの主の、天主の御摂理による教皇レオ十三世の、
天主の恩寵と使徒座との交わりを持っている
カトリック全世界の総大司教、首座大司教、大司教、司教たちに宛てた
人間の自由に関する回勅

導入:自由の偉大さ
主イエズス・キリストは、自然の最高の善である自由に、特別な助力をお与えになり、カトリック教会は自由を尊重する。

自由、すなわち自然の最高の善 (Libertas, praestantissimum naturae bonum) であり、知性ないし理性を持つ者にのみが持つ特性である自由は、人間にかの際立った尊厳 ――― 人がその尊厳のおかげで「自らの思量の手の間に」置かれ、自らの行為の主人となる尊厳 ――― を付与します。しかしこの特性においてとりわけ重大な問題は、かの尊厳をどうやって行使するかということです。何故なら自由の用い方いかんによって、最高の善が生み出されるように、甚だしい悪も生み出されるからです。実に人間は自らの理性に従い道徳的な善を実践し、己の最終目的へとたゆまず前進する事が出来る能力を持っています。しかしそれと同時に人間は、それが何であれ、かかる究極の目的以外のものに向かって、単にうわべだけの善の虚しい幻を追い求め、こうして正しい秩序を乱し、自ら進んで選んだ破滅へと真逆さまに落ちて行くことも出来るのです。イエズス・キリストは人類の解放者であり、人間の自然本性の原初の尊厳を回復しさらにより良く高められました。そして主イエズス・キリストは人間の意志に特別な影響をお与えになり、御自分の恩寵の賜によりこの地上においてそれを助け、また天国の至福により天国への見通しを開き、人の意志をより気高い状態に置かれました。従って同様な理由によりカトリック教会は我が人間の本性の持つ優れた賜の為に素晴らしく貢献してきましたし、また将来も常に貢献しつづけるでしょう。なぜならカトリック教会にのみ、イエズス・キリストが私たちのために勝ち得てくださった諸々の恩典を保証し世々に伝え広めていく使命が委ねられているからです。しかしながら、教会が人間の自由に対立するものだと思い込んでいる人が多数くいます。その原因は、自由が何であるかについての誤った、正反対の考えにあります。自由という観念そのものをねじ曲げてしまうか、あるいは自由に観念をあまりにも誇張し拡大してしまい、健全な理性の判断に従えば人が自由であるとは言えない多くの物事にそれを適応させてしまっているからです。

正しい自由の観点を知る必要性

現代、誤った意味での自由が主張されており、この問題を別個に取り扱う必要性がある

私は他の機会に、特に回勅『インモルターレ・デイ』の中で、いわゆる「現代のいろいろな自由」について述べたことがあります。その中で善とそうでないものとを区別し、これらの自由において見出される要素の中で善いものは何であれ、真理自体と同じくらい古くから存在すること、また教会は常に心から進んでそのような意味での自由を承認し、かつ実践に移してきたこと、その反対に、それに新たに付け加えられたものは、真実を求めるもににとっては、倒錯したものであり、時代の混乱による産物、新奇なものへの飽くなき渇望の結実に他ならないことをも示しました。しかしながら、なおも多くの人々がこれらの自由について自らの考えに固執し、こういった現代の悪い意味での「自由」が、それらが実際は腐敗したものであるにも関わらず、私たちの時代の最高の誉れ、かつ政治構造上の必要な根幹を成すものであり、それなしには、どんな全うな政府も考えられないと主張しつづけるのを目の当たりにして、私は公の利益のためにこの問題を別個に論じる必要があると思われました。

真の自由とは

自然的自由に関する教会の教え

自然的自由は、全ての自由の基礎であり、人間の理性的な本性に由来する

私がまず第1に取り扱おうとするのは、個人のあるいは共同体における「道徳的自由」Libertas moralis についてです。しかし、その前に「自然的」な自由(libertas naturalis)というものについて手短に述べておくことはむだではないでしょう。と言うのも、この自然的自由は、道徳的自由とは区別され、別個のものではありますが、にも関わらずそれは、あらゆる種類の自由がそこから、「自らの力で、自発的に」流れ出る源泉だからです。人々が余儀をはさむ余地もなく一様に同意し、判断するところ ――― それは自然の信頼に値する声にほかなりませんが ――― に従えば、このような自然的自由は知性ないし理性を持ったものにのみ見出されるのであり、そしてこの自由の行使に基づいて人は、自らの為す行為に対して責任を有し、正しくも見なされるのです。と言うのも、他の動物は自らの感覚にしたがい、ただ本能のみによって自らにとって益となるものを追い求め、害をもたらすものを避けるのに対し、人間は人生において為す1つ1つの行為を理性の導きに従って為すよう創られているのです。理性はまた、この世界で善いと見なされているあらゆるものが、存在しても、存在しなくてもよいものであり、それらの中1つとして自らの意志を必然的に引きつけ得ず、したがって意志は自らの望む対象を自由に選び得ることを見ぬきます。さて、人間がこのように自らの意志の対象となるものの「偶然性」を見通すことができるのは、単純で精神的かつ知性的な霊魂、 ――― つまり、物質によって作り出されるのでも、物質にその存在を負うのでもなく、天主から直接に創造され、物質的な事物に固有な制約・条件をはるかに凌駕し、自ら独自の生命と活動とを持つ霊魂 ――― を有しているからに他なりません。このようなわけで、真にして善なるものの変わることのない必然的な理念を認識するにいたった霊魂は、いかなる特殊的な種類の善も私たち人間にとって必然的ではないことを了解するのです。したがって人間の霊魂が不死のものであり、理性を備え、物質的な事物に拘束されないということが明らかな事実として確立されるやいなや、自然的自由のゆるぎない基盤が据えられるのです。

不死の霊魂が自然的自由を持つことを、教会はあらゆる誤謬に対抗して教え続けてきた

霊魂が単純であり霊的であり死なないことを宣言するカトリック教会は、同様に霊魂が自由なものであることをも絶えず、公に明言してきました。教会はこれらの真理を常に変わらず教え、信仰すべきドグマとして定めてきたのであり、異端者あるいは偽りの改革者たちが人間の自由を攻撃するときはいつも、これを擁護し、この尊い賜が破壊されてしまうのを防ぎました。歴史を紐解いてみれば、どれほどの熱意をもって教会がマニ教の教徒およびそれに類した者たちの憤激に立ち向かったか、またその後、ヤンセニストの不合理な教説に対し、トリエント公会議をとおしてどれほどの真摯な善意をもって人間の自由を擁護したかは誰の目にも明らかでしょう。教会はかつていかなる時も、いかなる場所においても「運命論」を受け入れたことはありませんでした。

精神的自由とは

自由とは知性と意志とによって選択することが出来るものに属する能力

したがって、これまで述べてきたように、自由は理性ないし知性を有するものだけに属しています。その本性について言えば、それは「既に定まった目的の達成に適した手段を選択する能力」です。多くある中から1つを選ぶことができるものだけが自らの為す行為を支配していると言われ得るからです。さて、手段として選ばれるものはすべて、善もしくは役立つものとして見なされ、また善とは私たちの欲求・願望の固有な対象なのですから、選択の自由とは意志に具わった特性、あるいはむしろ、はたらきにおいて選択の能力を有しているかぎりでの意志に他なりません。しかし、意志は知性の認識・知識によって照らされることなしには、はたらくことができません。言いかえると、意志が欲求する善は、それが知性によって善いものとして知られているかぎりにおいて必然的に善いものなのです。何故なら、意志のあらゆるはたらきにおいて選択は善いものとしてたち現れる事物が本当に善いかどうかと言うことについての判断に引き続いて成され、どの「善」を優先すべきかを表明するからです。そして分別のある人なら誰でも、判断は意志のはたらきではなく、理性のはたらきであることをわきまえています。したがって理性的な意志、および理性的意志のもつ自由の目的ないし対象となるのは、理性に適った善だけだろうということが分かります。

誤った知性と弱き意志のために悪しき選択を犯す可能性がある

しかしながら、人間の理性と意志は共に絶対的な完成を欠く能力であるので、先に指摘したように、理性が実際には善ではないが、善に見えるものを欲求すべき対象として意志に示し、意志は知性の提示にしたがって見かけだけの善を選択するという事態が生じ得ますし、よくこのことが起こります。ちょうど知性が誤りうるということならびに実際に誤ってしますことは、知性の欠陥であり、知性の不完全さを示します。知性が善の見せかけをもった対象を追求することは丁度、病気が私たちの生命力のしるしであるのと同様、私たちが自由を持っていることの証しではありますが、やはり人間の自由の欠陥を示唆します。意志もまた、それが理性に依存するものであるという事実のゆえに、もし理性と対立する対象を欲求すれば、即自らの選択の自由を乱用し、さらに自らの本質自体を損なってしまうことにもなります。したがって、無限に完全な天主は最高に自由でありながらも、その知性ならびに天主が本質的に善であるという比類なき卓越性のゆえに、悪をお選びになることが出来ません。これは至福直感を味わう天使、聖人たちも同様です。聖アウグスチヌスおよびその他の聖なる教師は、ペラジウス主義者に対し、もし真の善からの離反が自由の本質ないし完全性に含まれるのであるとすれば、これを有し得ない天主、イエズス・キリスト、および天使、聖人らは自由を全く有しないか、あるいは天国への巡礼者という不完全な状態にある私たち人間よりも少ない自由しか持っていないということになる、と見事に反駁しました。この問題については聖トマス・アクィナスも、罪を犯し得る可能性は自由ではなく、隷属状態であることを証明し、頻繁に論じています。ここでは、この天使的博士、聖トマス・アクィナスが『誰であれ、罪を犯すものは罪の奴隷である』(ヨハネ8章34節)という主の御言葉について巧みに注釈している箇所を引用すれは充分でしょう。『あらゆるものは、自ら生まれつきの自然に従ってあることが適している。故にそのものが自らの外にある力によってはたらくならば、自らによってではなく他のものによって、つまり奴隷としてはたらくことになる。しかるに、人間はその本性上、理性的なものであり、理性に従って行為するとき、自ら自発的に己の自由な意志にしたがって行動する事となりこれが「自由」である。しかるに、罪を犯すとき人は理性に逆らい、他のものに動かされ、自分以外のものの支配下におれたかの如くになる。それゆえ、「誰であれ、罪を犯すものは罪の奴隷」なのである。』

古代の哲学者たちでさえ、この真理をかなりはっきりと認めました。中でも、賢者だけが自由であると説いた者たちは特にこの事実を良くわきまえていました。そして、ここで言う賢者とはもちろん、自らの本性に ――― 即ち正義と徳に ――― 従って生活するよう鍛錬した人のことを指しています。

自由は法を要求する

したがって、人間の知性と意志とは、法という指導者が必要である

さて、人間の自由の状態がこのようなものだとすると、人間は自らの自由意志をもって行動するにあたって、しかるべく善を為し、悪を避けるために光と力添えとが当然、不可欠となります。そして、それなしには私たちの意志の自由は、私たちを破滅へと導くものとなるでしょう。

まず第1に、「法」 ――― すなわち、何を為すべきであり、何が為されるべきでないかを教える確固とした規範 ――― がなければなりません。人間以外の動物は、本来の意味でこの種の規範に服することは決して出来ません。自らの自然的本能にのみ従い、それとは異なった仕方で行動することが出来ず、したがって常に必要に駆られて行動するからです。反対に、自由を有する人間は、先に指摘したとおり、自らの好むままに行動することも、しないことも出来ます。判断が選択に先行して成されるからです。そして、この判断は何が正しくて、何が誤ったものであるかを、そのことがら自体の本性にしたがって決定するのみならず、実際の現実的な状況に則して何が善であり選択すべきなのか、また何が悪で避けるべきなのかをも決めるのです。つまり、理性は意志に対し、すべての行為がそのために為されるべき人間の究極目的の達成のために、何を求め、何を避けるべきかを定めるのです。そして「理性」によるこの秩序付けを法と言います。したがって、人間の自由意志の中に、もしくは私たちが理性に則して為す意志的行為の道徳的必然性の中に、法の必要性の根拠があるのです。それゆえ、人間は本性上自由なのだから、法から免除されると考え、あるいはそう公言するのは、この上なく愚かなことと言わざるを得ません。もし、このとおりだとすれば、自由なものとなるために私たちは理性を棄ててしまわなければならなくなってしまうでしょう。しかし、実際は、私たちが本性上自由なものであるという、まさにこのことのゆえに、私たちは法に服従する義務を負うのです。なぜなら、法とは人間の行為の指針であり、報いをもって人を善へと向かわせ、罰によって悪から遠ざからせるものだからです。

全ての法は天主からの法である

個人において天主の永遠法が刻まれた自然法がある。天主の聖寵に助けられてこれを守らねばならない

さて、このはたらきをなす第一のものが、あらゆる人の心に記され刻まれている「自然法」であり、これは私たちに正しいことを行わせ、罪を禁じる私たちの理性に他なりません。しかしながら、人間の理性による規定が法としての効力を持つのは、それらが私たちの理性と自由とが必然的に依拠する特定の、より高い権威の声ないし、その意向を伝えるものであるかぎりにおいてのみです。なぜなら、法の効力とは義務をを課すこと、あるいは権利を与えることに存するので、義務と権利とを定め、自らが出す全ての命令について、報奨と懲罰による必要な制裁を割り当てる力に他ならない「権威」こそが全ての法の唯一無二の基盤となります。しかし、明らかにこれら全てのことは、一つとして人の中には見出されません。たとえ人間が自ら自身にたいする究極の立法者として自らの行為の基準・尺度となろうとしても、上で述べたような法の基盤となる[客観的な]権威を思うままに生み出すことはできません。したがって、自然法とは理性的被造物の中に植えつけられ、それらをして、自らが本来めざすべき「正しい行為および目的」へと向かわせる「永遠法」に他なりません。そして、かかる永遠法こそ、まさに全世界の創造主にして支配者たる天主の理性なのです。さて、この行為の基準および悪への歯止めに関して人間の意志を強めるために、天主はもっとも適切な、特別の助力をお与えになりました。この助力の中で第一かつ最もすぐれたものが、ご自身の神的な恩寵の力であり、これによって人の精神は照らされ、意志は健やかな活力を得、道徳に適った善を常に追い求めるようになり、こうして私たちの生まれ持った自由の行使はより容易かつ安全なものとなります。しかし、天主の恩寵による助力が私たちの意志の自由なはたらきをいかなる意味においても妨げるということは全くなく、事実はまさにその反対です。と言うのも、恩寵は人の内側で、人が持つ自然的傾向性と調和した仕方ではたらくからです。恩寵とは、人間の知性と意志の創り主である天主御自身からもたらされるものであり、すべてのものを、それぞれの自然本性にしたがって動かすのですから、これは当然のことと言えましょう。聖トマス・アクィナスが指摘するように、天主の恩寵は、それが自然本性の創り主から来るものであることのゆえに、あらゆる自然本性を保全し、それぞれの特色、効能、はたらきとを保つのに、素晴らしく適合しているのです。

天主と自然法を実行させ援助すべく、社会には人定法が存在する

個人の自由について述べてきたことは、個々の人が市民社会において一つのまとまりを成しているとき、そうしてできた共同体についても当てはまります。と言うのも、理性と自然法が個々人に対して為すことを、国家の市民として見た彼らに対して、その善を目して公布される「人定法」が為すからです。人々によって制定される法の中で、あるものは、その本性自体によって善または悪であることがらに関わり、そのような法は賞罰による適切な制裁措置をともなって、人々が正しいことを行い、あやまったことを避けるよう命じます。しかし、この種の法は決して市民社会にその根源を有するのではありません。なぜなら、ちょうど市民社会が人間の自然本性をつくったのではないのと同様、この市民社会が自然本性に適った善およびそれに反する悪とを定めることはできないからです。 法は人々が社会において共に生活する前から存在しているのであり、その根源を自然法、そして究極的には永遠法のうちに有しているのです。

それゆえ、自然法上の規定には人間が制定する法の規定に内容として含まれていますが、人定法の効力を持つに止まらず、同時に自然の法および永遠法に属する、より高く、より威厳をともなった制裁権を有しています。そして、この種の法の領域における公の立法者の責務は主として、「共通の規律の採択」および「不服従かつ邪悪な傾きを持った者たちへの抑制」によって共同体を従順なものとすることにあります。このようにして、悪に陥るのを阻まれた彼らが、善へと向かう、あるいは少なくとも国家に対して問題を起こし、その治安を乱すことがなくなることが立法者の意図となるのです。

さて、公権による法規の中には、自然法から直接にではなく、いくぶん距離を置いて由来し、自然の法がただ一般的かつ漠然とした仕方で扱う多くの点をはっきりとしたかたちで定めるものがあります。例えば、[人間の]自然[本性]は、全ての人が公共の平安と繁栄とに寄与するよう命じますが、それがどのような仕方、および状況において、またいかなる条件の下に為されるのがふさわしいかは自然本性によってではなく、人々の知恵によって決定されねばなりません。そして、理性と賢慮とによって考察され、しかるべき権威によって発布されるこれら社会生活上の個々の規定にこそ、固有な意味での人定法が存するのであり、この人定法は全ての市民を共同体がめざすべき共通善の達成のために結束させ、かつこの目的に背を向けることを禁じます。こうして人定法は、それが自然の命ずるところと合致しているかぎりにおいて人々を善いものに導き、悪から遠ざけるのです。

自由は天主の法を要求する
したがって真の人間の自由は、天主の永遠法との一致に存する

以上の事実から、天主の永遠法こそが人間の自由 ――― それもただ個人の自由だけでなく、その個々人が一つのまとまりとして構成する共同体および市民社会のそれをも含めて ――― の唯一の尺度かつ基準であることは明らかです。したがって、人間社会の真の自由は人がみな自分のしたいようにすることにあるのではなく ――― それはただ騒動と混乱をまき起こし、国家の転覆に至らせるだけでしょう ――― 、却って法の命令によって全ての人が永遠法の規定により容易にしたがうことができるということにあるのです。同様に、権威の座にある者たちの自由は、その配下にある者たちに不合理で勝手気ままな命令を下す ――― このようにすることは国民の側の無秩序な「自由」と同様犯罪的であり、国家の滅亡につながるでしょう ――― 、かえって人間が定める法の諸規定の拘束力は、それらが永遠法の具体的な適用であると見なされ得、またあらゆる法の原理・根源としての永遠法に含まれていないことがらについては何も承認することはできないという点にこそ存するのです。この意味で、聖人アウグスチヌスは、次の示唆に満ちた言葉を残しています。『私はあなたもまた、人々が永遠法から得たところのもの以外には、この世の法には正当で合法的なことは何一つないということを了解されることと思います。』« Simul etiam te videre arbitror, in illa temporali (lege) nihil esse iustum atque legitimum quad non ex hac aeterna (lege) sibi homines derivarint. » ですから、もし誰か権威の座にある者によって正しい理性の原理から逸脱したこと ――― したがって国家社会の福祉に有害なこと ――― が許されるならば、そのような法令は正義に適った法規ではないため、法としてのいかなる拘束力をも持たず、ただ人々を市民社会の目的である善から遠ざけてしまうのが必定です。

天主の権威が人間の自由を、人間の完成という善まで、導き完成させる

11.したがって、人間の自由の本質は、それをどのような観点から考察しても ――― 個人におけるそれであれ、あるいは指導的立場にある人もしくは従う者におけるそれであれ、何らかの最高かつ永遠の法 ――― もちろんそれは善を命じ悪を禁じる天主の権威に他なりません ――― への恭順の必要性を前提としています。したがって、人々に対する天主のこのきわめて公正な権威は私たちの自由を減じたり、あるいは消滅させてしまったりするようなことは到底なく、かえってそれを守り、かつ完全なものとします。あらゆる被造物の本当の完全さは、それぞれが自らに固有な目的を追求し、到達することにあり、しかるに人間の自由が慕い求める最高の目的は天主であるからです。

教会は自由を擁護する
カトリック教会はこの真の自由を常に擁護してきた

12.理性自体の光によって把握されるこのきわめて真実かつ至高の教理を教会は、その天主である創始者の模範と教えに照らされて常に喧伝し、主張してきました。事実、教会は常にこの教理を基準として自らの職務およびキリスト教国家の教導を行ってきたからです。道徳に関して言えば、福音の戒律は異邦人の知恵をはるかに凌駕するばかりでなく、古代の人々のあずかり知らぬ聖性の状態へと招き、導き入れるものです。それは人をして天主へと近付け、人を直ちにより完全な自由を享受する者とします。このように教会の強い影響力は人々の社会的、政治的自由の保全・保護において常に明らかに示されてきました。この点に関して教会の功績を数え上げることはこの回勅の意図するところではないので、ここではただ異邦の諸民族におけるとがむべき因習であった奴隷制が、主に教会の慈善の精神に根ざした努力によって廃止されたことを思い起こすにとどめましょう。法律が、かたよらず公正であるべきこと、また人間同士が互いに真の兄弟であることはイエズス・キリストによって初めに主張され、また使徒たちは師のこの教えをこだまするかのように、今後はユダヤ人も異邦人も野蛮人もスキタイ人もなく、すべての者はキリストにおいて兄弟であると宣言したのでした。

 この点におけるカトリック教会の影響がいかに強力で際立ったものだったかは、たとえそれがどこであれ、教会が一旦足を踏み入れた地では、野蛮な習俗はもはや存続し得ないということを証するおびただしい経験上の事実によって分かります。[このような場所では]温良さがすぐさま凶暴さに取って代わり、真理の光がたちどころに未開の暗黒を払いのけます。また教会は、あらゆる時代の文明化された国々に対しても同様に豊かな恩恵を与えてきましたが、それは、邪悪な者らの圧制に抵抗したり、あるいは潔白な生活を送りながらも、身を守るすべのない弱い人たちを危害から守り、あるいはまた、その公正さによって国民の支持を受け、外的からはその力のゆえに恐れられた政治体制を、それがどのような形態のものであれ、自らの影響力を行使して支持することをとおして為されました。

教会は権威を天主に向けさせ、真の従順を高め、専制に対して防壁を置く。

13.そもそも、最高の義務とは権威を尊重し、正しい法律に従うことであり、こうすることによって共同体の成員は、邪悪な人々の悪行から効果的に守られます。合法的な権力は天主からのものであり、『したがって、権威に逆らう者は天主の定めに逆らう』のです。ですから、従順が全ての中で最も公正かつ至高の権威に対して向けられるとき、それはきわめて気高く尊いものとなります。しかし、命令を下す権力が欠如している場合、または理性ないしは永遠法、もしくは天主の何らかの定めに相反する法律が制定される場合、[それに対する]従順は非合法であり、そのようにすることは人に従って、天主に従わないことになります。

このようにして、専制的な圧制に対する効果的な防壁が存在するので、国家の権力はすべてを自らの好きなようにはできず、個人の、あるいは家庭の、さらには国家共同体の全ての成員を含んだあらゆる者の利害と権利とが保護されます。こうして皆が法と正しい理性とにしたがって生きる自由を享受することとなり、そして先にも指摘したとおり、ここにこそ真の自由が存するのです。

真の自由から偽りの自由へ
教会の知慧から遠ざかるリベラル派の愚かさ

14.もし人々が自由の問題について語り合うにさいして、ちょうど今、理性に適った仕方で論理的に解明したごとく、その真の正当な意味を注意して把握するならば、教会に対して、個人と社会の自由の敵だという中傷を投げかけたり決してしないでしょう。

しかし、サタンの足跡にしたがい、彼の「私は従わない」という逆らいの叫びを自らのモットーとし、その結果、真の自由をこの上なく浅薄なまったくの放埓に置き代えてしまう多くの人がいます。この種の人には、例えば、自由の名を不当にも自らに付し、「自由主義者」を標榜する、広く普及しかつ強力な組織に属する人々が含まれます。

偽りの自由:自由主義者の主張

個人における理性絶対主義
人間理性を絶対とし、天主の権威を否定

哲学における「自然主義」と「理性主義」との信奉者たちが目指すことを、「自由主義」の信奉者は道徳および政治の分野で成就させようとしています。何故なら彼らは道徳と実際の生活の中に自然主義によって打ち立てられた原理を導入しているからです。「理性主義」の根本的原理は人間理性が最高主権者として支配することであり、これは天主の永遠の理へのしかるべき恭順を拒んで自らの自立性を主張し、こうして自らを真理の最高の原理、起源、判定者とするものです。このように、自由主義の信奉者は従うべきいかなる天主の権威の存在をも否定し、全ての人は自らに対して自分固有の法であると公言してはばからないのです。そして、このような思想からは彼らが「独立的な道徳」と称する倫理体系が生じます。これは、「自由」という口実のもとに天主のお命じになることに対するいかなる従順からも人を解き放ち、その代わりに際限のない放縦を置くものです。こういった考え方の行き着くところがどのようなものであるかは容易に想像できます。なぜなら、一旦人が自分は誰に対しても従属するものではないという確信を抱くならば、市民社会を一つにまとめ上げる根拠は人間にとって外的な、あるいはより上位のいかなる原理の中にも求めるべきではなく、ただ個々人の自由意志にのみ見出され、国家における権力は人民に由来し、そしてあたかも全ての人がそれぞれ有する理性がその人の生き方の唯一の基準であるかのように、共同体の集団としての理性は、あらゆる公の事柄を執行するにあたっての最高の指導原理となるのです。ここから、「数の優越の絶対性および全ての権利と義務は多数派に存する」という教説が生まれます。しかし、すでにこの前に述べたことから、こうしたこと全てが理性に反していることは明らかです。人および社会と、創造主であり、したがって最高の立法者である天主とを結ぶいかなる絆の存在も認めないのは、全く人間のみならずあらゆる被造物の自然本性に反することです。なぜなら、あらゆる結果は何らか固有な仕方でその原因に結び付けられていることが必然であり、また、あらゆる[ものの]自然本性にとっての完成には、自然が定めた領域および段階の内にとどまること、すなわち、より下位のものがより上位のものに服従し、従順であることが含まれているからです。

国家における理性絶対主義

快楽が道徳、多数決が法、反乱は至る所に広がる

それに加えて、この種の教説は個人および国家にとってきわめて有害なものです。と言うのも、一旦人間の理性に何が真実で何が善いものであるかを決める権能が与えられるなら、善悪の実際の区別は打ち消され、名誉なことと恥ずべきこととの間には本質自体ではなく、ただそれぞれの人の考えや判断の違いしかなく、快楽を生むものが即、合法的なものとなり、こうして人間の無秩序な傾きを抑え鎮める力をほとんど持たない道徳律の下で、普遍的な堕落・腐敗への道が当然のごとく開かれます。公共のことがらに関して言えば、権威は共通善を有効に実現する力をそこから汲み取るべき、真実かつ自然な原理から切り離されてしまいます。そして何を為すべきであり、何を為すべきでないかを定める法は、多数派の思うがままとなるのです。人間および社会に対する天主の支配権が一度否定されると、公の社会的な制度である宗教は自らの存在についていかなる権利も主張できず、また、宗教に属することがらはすべて全くの無関心と言っていい中立的態度で扱われることになります。さらには、主権を握ることへの熱望に駆られて、人々の間では騒乱ないし反乱が日常茶飯事となり、そして、人々が義務や良心といったことにもはや魅力を感じなくなれば、彼らを引き止め得るのはただ暴力のみです。もっとも、暴力はそれ自体では、こういった人々の心中の欲望を抑えることはできないのですが。このことの証左は社会主義者およびその他、相当前から国家を根底から転覆させようと絶えず働きかけている組織とに対するほとんど毎日と言っていいくらい生じている衝突の中にあります。こういった教説が人間にふさわしい真の自由を促進するものであるどうかか、或いはむしろ人間の自由をひっくり返し全く破壊してしまうのではないかと言うことを、少しでも判断力のある人はそれを判断し、告げることができるでしょう。

個人における穏健な自由主義

天主の自然法を受けながらも天主が啓示した法を拒否するものは、天主を拒む

もちろん、中には自由主義を奉じながらも、その自然な結論として出てくる、こうしたあまりにも人の道にもとり、真っ向から真理に反し、きわめて甚だしい害悪のもととなる見解には組みしない人もいます。事実、彼らの非常に多くは、真理の持つ、同意を促さずにはおかない力に動かされて、そのような自由は劣悪なものであり、それが真理と正義とを軽んじてまでも自らの権利を主張するにあたっては、もはや全くの放縦に他ならないことを認めるのにやぶさかではありません。したがって、この点において彼らは自由が正しい理性によって指導され、導かれること、その結果、自然法ならびに天主の永遠法に服従することを良しとします。しかし、彼らはそこまでで十分だとします。彼らは、自由な存在である人間は、ただ自らの自然な理性[のはたらき]を通して認識するよう天主がお計らいになったことがらのみに関して、天主の法に従う義務があると考えるからです。この点において彼らは明らかに一貫性を欠いています。なぜなら、すべての人は天主の権能の下にあり、天主に対して自らの目的として向かうものなのですから、立法者としての天主の意志に従わなければならないのです。このことは、彼らも当然認めねばならず、また誰もこれを否定することはできません。すると、いかなる者も天主の立法権に制限を設けることはできず、もしそうしようとすれば天主に対して示すべき従順に欠けることになります。 実際、もし人間の精神が天主の権利および自ら自身の義務を定めるほど思い上がったものであるならば、神法に対する敬意は本物ではなく見せかけだけとなり、自分勝手な判断を天主の権威と摂理とに優先させることになります。したがって、人間は誠実で宗教的な生活の規範を永遠法から取り、および天主がその限りない叡知と権能によって制定することを良しとされ、「その真正さならびに神的起源に関して」一点の疑いの余地もない程、かくも明白かつ誤り得ない印によって私たちに知らされることを思し召しになった他の全ての法から取らねばならないのです。なぜなら、この種の法は永遠法と同じ起源、同じつくり主をもち、正しい理性に完全に合致し、自然法を完成へと至らせます。これらの法こそは、人間の知性と意志とが誤りに陥らないよう、恩寵をもって導き、指導される天主の統治を具現化するものです。ですから、分離され得ず、また分離すべきでないものを聖なる侵しがたい一致のうちに留めましょう。そして正しい理性自体が命ずるとおり、全てのことがらにおいて天主が実直かつ従順に仕えられますように。

国家における穏健的な自由主義

個人を天主のもとに服従させながら、国家を天主から切り離すことも、愚かである

さて、この他にも、先の人々のそれに比べるとまだいくぶん穏健であるとはいっても、やはり一貫性のないことにおいては例にもれない意見を唱える人たちがいます。彼らによると個人の道徳は確かに神法によって導かれるべきであるが、国家の道徳はそのかぎりではなく、したがって公共のことがらにおいては天主の命令は等閑に付され、法の作成においては全く無視されてかまわないことになります。そして、ここから教会と国家が分離されねばならないという致命的な理論が生じます。しかし、このような見解が荒唐無稽なものであることは明らかです。自然自体が、それをもって共同体がしかるべく ――― すなわち天主の法に従って ――― 存続すべき手段と機会とを国家が供給する必要があることを告げています。と言うのも、天主こそがあらゆる善さと正義との源なのですから、国家がこれらの法にまったく注意を払わない、あるいはそれを反対の法規によって無効としてしまうなどということは愚の極みに他なりません。さらに、権威を有するものは社会共同体に対して、ただその外的な福利と生活の利便とを供給する責務を抱くのみならず、いやそれ以上に人々の霊的な福利を自らの立法において配慮しなければなりません。しかるに、この種の恩典を増進するに当たって、天主をその作者とする法以上に適当なものを考えることはできません。したがって国家の統治にさいしてこの種の法を意に介さない者は政治的権力をその本来の目的であり、自然[本性]自体が定めるところからそらせて悪用することになります。そして、さらに重要なことは、これまでに再三指摘してきたように、国家の権威は霊的な権威と同じ直接的目的を有さず、また同じ仕方ではたらくのではないとしても、双方はそれぞれ別々の権力を行使するにあたって、時として互いに行き当たることになるからです。なぜなら、この両者は同じ人々をその成員として有し、さらに往々にして同一のことがらを ――― 同じやり方ではないにしても ――― 取り扱うからです。対立的状況は、天主のこの上なく聡明な定めに全く合致しないことですから、このような事態が生じる場合はいつでも、相違と競合の機会を取り除き、あらゆることがらにおいて調和を確保するための何らかのやり方ないし手順が必然的に存在せねばなりません。この調和は身体と霊魂との間に存在する調和にたとえられてきましたが、これは不適切な比ゆではありません。霊魂と身体との調和は、それぞれの福利のためとなっているのであり、両者を切りはなしてしまうことは身体に取り返しのつかない害を及ぼす ――― つまり、その生命自体を消滅させてしまう ――― こととなるからです。

個人における礼拝の自由

「礼拝の自由」と言うことは、個人がいかなる宗教をも、好みのままにその信仰を表明することが出来ると言うことを意味する

上で述べたことをより明らかにするために、私たちの時代に帰される自由の増進ということについて、そのさまざまな面から詳しく見ていくことにしましょう。まず第一に、宗教(religio)の徳に真っ向から反した、個人における自由、いわゆる「礼拝の自由」について見てみましょう。この「自由」は、人は誰でも自らが選ぶ宗教を自由に公言することができ、あるいは全く何も信仰しない自由も有するという原理に基づいています。

全ての人は天主ご自身が立てた宗教を見分けてこれを信じなければならない

しかし、確かに人が果たすべき義務の中で疑いもなく、天主を篤く敬虔に礼拝するよう命じるそれがもっとも主要かつ聖なる義務です。これは私たちは常に天主の権能の下にあり、絶えずその意志と摂理とによって導かれ、そして天主から生じてきたものであるかぎり、その同じ天主へと戻らねばならないという真理から必然的に帰結することです。さらに、宗教[の徳]なしにはいかなる真の徳も存在し得ません。なぜなら、倫理的徳は人をして自らの至高かつ究極の目的としての天主へと導く諸々の事物に関わるものであり、したがって「天主の誉れに直接かつ直に秩序付けられた行為を為す」宗教の徳は、全ての徳を支配し、調えるのです。そして多くの互いに相容れない宗教の中でどれを選ぶことが必要なのかと問うならば、理性と自然法とはためらうことなく私たちに、天主がお命じになり、そして人々が特定の外的な印によって容易に見分けることのできる ――― 実際、天主の御摂理は、この種の印を通してそれが識別されることを望まれたのです ――― 宗教をふみ行うよう告げます。なぜなら、このように重大なことがらにおける誤りは、もっとも甚だしい損失を招いてしまうことになるからです。したがって、今述べたような自由が人間に与えられるとするなら、義務の中でも最も神聖なものを支障なしに歪め、あるいは捨て去る権能、また、かけがえのない善を悪と取り換える権能が人に与えられることになってしまいます。しかし、このようなことは先に述べたように自由ではなく、かえって自由の堕落したものであり、同時に、罪に対する魂の惨めな従属です。

国家における「礼拝の自由」

国家も天主に由来するものであり、真の宗教を持たなければならない

この種の自由を国家との関係において考察した場合、それは明らかに次のようなことを意味することになります。すなわち、国家が天主に対していかなる崇敬を払ったり、天主が公に認められるようはからったり、また特定の礼拝形態を他の礼拝形態より優先する道理は全くなく、そして国民の宗教が、たとえそれがカトリックの信仰であろうとも配慮すべきではなく、反対に、あらゆる種類の礼拝が同じ立場に立つべきであるということです。しかし、このような理論を正当化するためには、国家は天主に対していかなる義務も持っておらず、たとえ持っていたとしても、支障なくそれを放棄することができるということを正しいものとして認めねばなりませんが、この2つの主張はいずれも明らかに誤っています。と言うのも、天主は人々が国家的社会において一つになることを望まれたからです。このことは、国家社会を構成する部分、すなわち市民あるいは何らかの権威を前提とするその形態、ないしはそれの存在する目的、あるいはまた、それが人間にもたらす計り知れない巧益を見ても明らかです。人を社会で生きるようにつくり、また人を自らと同様の他の者たちと共におかれたのは天主であり、それは人間が自らの本性が必要としながらも自分ひとりの力では獲得することができないものを、他者との協同によって得ることができるようにするためでした。したがって、国家社会は天主を自らの創立者かつ生みの親として認めねばならず、同時にその権能と権威とを尊び、従わなければなりません。ですから、国家が天主を認めないこと、あるいはそのような不敬神にいたらせるような政策 ――― すなわち、さまざまな宗教(あるいはそう自称するものを含めて)を同様に扱い、それらに対し無差別に同等の権利と特権を与えること ――― をとることを正義は禁じ、理性自体も禁止します。したがって、国家において1つの宗教が公に表明されることが必要なのですから、その宗教は、ただ真の宗教だけであり、また容易に見分けられることのできるものでなければなりません。ところで、殊にカトリック国家においてはこの唯一の宗教を認めることが容易であるはずです。なぜなら、真理の印がその宗教、つまりカトリック信仰に言わば刻みつけられているからです。それゆえ、もし国家が賢明かつ有益なしかたで共同体の善を取り計らうならば ――― 無論、国家は当然このようにすべきなのですが ――― この宗教を保ち、守らねばならないのです。なぜなら、国家の権威は、それが統治するところの人々と福利のために存在するのであり、また、その直接の目的は人々をこの世での繁栄へと至らせることであるとは言え、この営みにおいて、永遠の幸福がその中に存する究極の善へと達する人間の可能的能力を減じるべきではなく、かえってそれを増大させるべきであり、そしてこのことは宗教が無視されるならば決して達成され得ないからです。

真の宗教こそが国家を援助するのに引き替え、「礼拝の自由」は国家に害をもたらす

しかし、こういったことがらは全て、他の機会により詳しく説明してきました。ですから、ここでは偽りの自由は為政者および被為政者双方における真の自由を大いに傷つけ、損ねてしまうものであることを付け加えるのみにとどめましょう。宗教は、その本性からして国家に対して非常な助力をもたらすものです。と言うのも、宗教はあらゆる権力の第一の起源を天主ご自身から直接に由来するものとして捉えるので、教会は為政者に対しては自らの責務に注意を傾け、不正義あるいは行き過ぎた厳格さなしに統治し、国民をほとんど父親のような愛情を持って治めるよう重大な権威をもって命じます。教会はまた、被為政者には、合法的な権威を天主の役務者とみなして従順であるよう諭し、また単なる従順のみでなく、畏敬と愛情をとおして為政者に結びつけます。教会は同時に被為政者[たる国民]に、公の秩序と平安を乱すよう計画され、結果として国民の側の自由により大きな制限がおかれる原因となってしまうような全ての反乱や向こう見ずな企てを禁じます。いかに宗教が潔白な道徳を生み、また道徳が自由を生むかをここであえて述べる必要はないでしょう。国家の道徳がより高まるにしたがって、より大きな自由、富、権勢とを持つに至るということを理性は示し、歴史はそれを確証しています。

言論の自由

「言論及び報道の自由」は、巧妙な、煽て上げる、死をもたらす誤謬によって人民を圧制することを意味する

さて、今ここで「言論」あるいは「報道」などあらゆる事を表現する自由について考察しましょう。確かに、この自由が適当に制限されず、また、それがあるべき境界ないし限界とを超え出てしまうものならば、そのような自由は、権利ではありません。そのようなことはあえて言う必要はほとんどないでしょう。なぜなら、これは先に述べたことであり、また再三繰り返して述べなければならないことですが、権利とは道徳的な権能であり、自由がが真理と偽りとに、また善と悪とに、無差別に区別無く自然に属していると考えるのは馬鹿げたことだからです。真実や善に関しては、人はそれらを賢明な自由で国中に広め、できるだけ多くの人がそれから利益を得ることができるようにする権利を有しています。しかし、偽りの言説 ――― 精神にとってこれほど危険なものはありません ――― 、あるいは人々の心と道徳的生活をむしばむ悪徳は、公の権威によって入念に抑圧されねばなりません。知性の無制限かつ適切な度合いを越したはたらきは、結果的に単純素朴な人々に対する抑圧を確実に招くことになってしまうので、弱者に対して加えられる暴力と同様、法の権威によって正当に抑制されます。何故ならば社会共同体の圧倒的に大部分の人々は、特に欲情を喜ばせるような惑わしや、微妙な言い回しによるうそ偽りから逃れることが全くできないか、あるいは非常な困難を伴ってでなければできないからです。ですからもし言論と著述に関して無制限な自由が全ての人に与えられたとすれば、神聖かつ侵しえないものとして何一つとして残されるものがなく、人類の共通かつもっとも尊い精神的財産と正しくも見なされているものさえ例外とならないでしょう。このようにして、真理が徐々に暗黒によって暗まされ、きわめて有害できわめて様々の誤謬がいとも簡単に支配するようになってしまいます。そして、これは非常にしばしば起こっていることです。放縦が前進する分だけ、自由が後退することになります。何故なら放縦さが抑止される程度に応じて自由はより大きくなりかつ確固としたものとなるからです。しかしながら、天主が人の自由な議論の対象としてお残しになる、異なった見解をゆるすようなことがらについては、誰もが意見を持ちとそれを自由に表明することが許されています。と言うのも、このような自由は決して人々をして真理を押さえつけ、おおい隠してしまうようなことはなく、往々にしてそれを見出し、かつそれを他に知らせるよう導くからです。

教育の自由

真理のみが人間精神の善であるが、「教育の自由」はこの善に反対する

「教育の自由」と呼ばれるものについても同様の判断が下されねばなりません。ただ真理のみが人々の心に注がれるべきであるということには、いかなる疑問の余地もありません。真理にのみ、あらゆる知性的本性[を有したもの]の福利、目的、完成が見出されるからです。したがって、真理だけが無学な人および教養のある人のどちらに対しても教えられねばなりませんが、それは真理を持たない者はそれを持つにいたり、すでにそれを有している者は、それを保つためです。それゆえ、教える立場にある人は全て、[教えを受ける人の]精神から誤りを駆逐し、確かな安全策をもってあらゆるいつわりの信条から保護することが当然の義務となります。したがって、[誰の目にも]明らかなように、ここで問題となっているような「自由」は甚だしく理性に反しており、なんでも好きなことを教える権利を主張するかぎりにおいて、それはまったく人々の精神を変節させてしまうものです。このような自由を認めるならば、国家は自らの責務を怠ることとなります。今述べたことが重要なのは、教師の権威は聴講者にとってたいへん重みのあるものであり、また、弟子が自分で教師の教えの真偽を自ら見定めることができるというのは極めて稀であるからです。
ですから、この自由も、その名に値するものであるためには、一定の枠の中で保たれねばならず、それは教育の職務が堕落を生む道具となってしまわないためです。さて、教育は真理を唯一取り扱うべきですが、その真理には2種類があります。それは自然的真理ならびに超自然的真理です。自然的真理には、自然の法則や、理性によってそこから直接導き出される諸々の真理が属しています。自然的真理は、人類の共通財産とでも言うべきものを形成しています。そしてこの確固とした基盤の上に道徳、正義、宗教、そして人間の社会の存在そのものが存立しています。ですからこの自然的真理を侵しまた破壊する者たちに何の罰も与えずに放任することは、全くの不敬虔でまたきわめて愚かで非人間的なこととなるでしょう。
しかし、私たちはこれに劣らぬ入念な注意を払って、天主ご自身がお教えになった真理の偉大にして神聖な宝を保ち守らねばなりません。キリスト教の擁護者によってしばしば用いられる数多くの同意を促さずにはおかない論拠によって、特定の主要な真理がはっきりとした形で打ち立てられました。すなわち、天主によって特定のことがらが啓示されたということ、その御ひとり子が真理を証しするために託身されたこと、また彼によって教会という完全な社会が創立されたこと、また彼はその教会の頭であり、世の終わりまで共にいてくださると約束されたことなどです。この[教会という]社会に主は、ご自分がお教えになった全ての真理を託され、こうして教会がそれを保ち、守り、しかるべき権威をもって説明するようにされたのです。そして同時に主は全ての民々に、教会の声にあたかも御自分の声として聞き従うようお命じになり、聞こうとしないものには永遠の滅びを宣告なさいました。したがって人間の最もすぐれた、また最も確実な教師はあらゆる真理の源にして原理たる天主であり、また、御父の懐におられ、道、真理、生命、すべての人を照らす真の光であり、その教えに皆が聴き従わなければならず、『そうして彼らは全て天主によって教えられる』こととなるその御ひとり子であることは明らかです。

リベラル派は、天主に従順である自由を国家に対する攻撃とする

信仰、また道徳を教え授けるにあたって、天主ご自身は教会を自らの神的な教導権に参与するものとなさいました。こうして教会は天主の賜物により誤ることのないものとされました。したがって、教会は人類の最も偉大かつ信頼に値する教師であり、教会は人々を教える侵し得ない権利を充全に有しています。天から受け取ったその教えにおいてその固有の支えを見出しつつ、教会は常に天主から託された使命を宗教心を込めて果たすべく努めること以外に何も心しませんでした。教会は、四方から取り囲む数多の困難にも屈することなく、自らのもつ教育の自由をたゆまず主張してきました。こうして異教の厭うべき迷信は駆逐され、この広き世界はキリスト教の知恵に至るまでに新たにされました。

教会は真の教育と学習の進歩を常に保護してきた

いたるところで事実が証明しているように、教会はキリスト教信仰の擁護に主要かつ第一の注意を払いますが、同時にあらゆる種類の人間的学問を育み、促進するのに余念がありません。なぜなら、学問はそれ自体として良く、称賛に値し、かつ望ましいものだからです。また、健全な理性の実りであり事物の真理に合致したすべての教養は、天主の権威によって私たちが信じることがらを理性的なかたちで確認するのに大いに役立ちます。事実、教会は古代の叡知の最高のものを注意深く保護し、またいたる所に科学的探究のための施設を築いてきました。さらに教会は、私たちの時代の文化がそれによって大いに進歩したところの諸技芸をきわめて熱心に育成することを通じて知的な発展を奨励してきたのであり、これらすべてのことは私たちに大きな利益をもたらしています。最後に、きわめて広い領域が人間の自由な巧知と創意工夫とに開かれていることを指摘しておかねばなりません。そしてこれには、キリスト教の信仰と道徳となんら必然的な関係を持たない、あるいは教会がその権威を行使せず、専門家たちの自由で規制を課せられない判断にゆだねる全てのことがらが含まれます。
これまで述べてきたことから、自由主義の信奉者たちがかくも熱心に唱道し、公言するところの自由の本質と性格とが理解されたと思います。こういった人たちは、一方では自分たち自身および国家とに、あらゆる種類の倒錯した謬説へと道を開く放縦さが認められるよう要求します。しかし他方、彼らは教会をさまざまな仕方で妨害し、その自由を最小限に狭めようとします。教会の教えにはおそれるべきことは何一つなく、それどころか、あらゆる点で有益なものであるにも関わらずです。

良心の自由

望みのままに礼拝する「良心の自由」と言うことは、意味をなさない。キリスト者は天主に従順に従わなければならない

ひろく喧伝されているもう一つ別の自由があり、それは「良心の自由」と呼ばれるものです。もしこの言葉によって表されているのが、人は誰でも天主を礼拝するかしないかを選択する自由があるということなら、それはこれまで示してきた論拠によって充分反駁されます。しかし、この言葉はまた、国家において誰もが天主の御旨に従い、また[果たすべき]義務という意識に基いて、いかなる妨げもなしにその命令に従うことができるという意味にも解することができます。この意味でなら、これは真の自由であり、天主の子らにふさわしい自由です。このような自由は人間の尊厳を保ち、いかなる暴力、不正よりも強いものであり、また教会が常に望み、非常に大切にしてきたものです。これこそが使徒たちが臆することのない大胆さで主張した自由であり、また護教家たちが著作を通して確証した自由に他ならず、さらにはおびただしい数の殉教者たちが自らの血をもって確立した自由です。そしてそれは至極もっともなことでした。なぜならキリスト教的な自由は、天主の人間に対する絶対的かつこの上なく正当な主権ならびに人間の天主に対する主要かつ最高の義務を証し立てるものだからです。[したがって、]これは反抗的で反乱を好む精神とは無縁のものであり、公の権威に対する従順をいかなる名目においても減じさせることはありません。と言うのも、命令し従順を求める権利は、それが天主の権威と合致し、天主が定められた基準の範囲内にとどまるものであるかぎりにおいて存在するからです。しかし、もし天主の意志に明らかに反したことが命じられた場合、それは天主によって定められた秩序から大きく離反することであり、同時に天主の権威に真っ向から対立することですから、従わないのが正しいのです。

「穏健的な」自由主義は、超自然の掟「だけ」をうち捨て、教会と国家の分離を主張する

自由主義の擁護者たちは、国家に専制的で無条件の権力を帰属する一方、同時に他方では、人間の生活には天主のことなどいささかも考えなくて良いと唱え、誠実さと自由とに緊密に繋がっている私たちが話しているところの自由を全く認めようとしません。そしてこの意味での自由を守るためにすることは全て、国家に対する損害・違反として見なされます。しかし、もし彼らが正しいことを言っていたとすると、人が耐え忍び服従しなければならないようなそれほど圧制的な支配は無かっただろうと言います。

教会と黙認

教会はより大きな悪を避けるためにこれらの誤った自由を黙認することが許されているが、しかしこれらを決して承認しない

教会は先ほどその輪郭を示した、この問題についてのキリスト教の教えが社会のあらゆる層に、実際に、実践を伴った仕方でゆきわたることを真摯に望んでいます。少なくも、わずかでもない今日の諸々の害悪を癒すのに最も効果のある者だと思われるからです。これらの害悪は大部分、大いにまつり上げられ、また安寧と栄華との芽生えを含むと[誤って]考えられた偽りの自由の結実です。しかしこの望みは、その結果によってくじかれました。その実り[として出て来たもの]は甘くて健やかであるかわりに、腐って苦いものだったからです。もし解決策を探しているなら、それは健全な教理の再興の中に求められなければなりません。健全な教えにのみ秩序の維持、およびその結果として真の自由の保護とが確信をもって期待されうるからです。

しかるに、教会は真に母親のような分別をもって、人間の弱さに由来する大きな重荷を推し量り、そして人々の心と行動とが今日において流されている方向をよく把握しています。このため、教会は真実で誠実なことがらの他はいかなるものにも一切の権利を認めないとは言え、公的な権威が真理と正義にもとることがらを、あるいはより大きな害悪を避けるため、あるいは[当の悪よりも]より大きな善を獲得し、保全するために容認することを禁じません。天主御自身も限りなく善く、力強い方でありながら、その御摂理において、一つには[当の悪よりも]より大きな善が妨げられないため、もう一つにはより大きな悪が結果として生じないために悪がこの世に存在することをお許しになります。国家の統治において世界の統率者をまねることは禁じられていません。また人間の権威はあらゆる悪を防止することができないため、(聖アウグスチヌスの言うように)天主の摂理によっては正しくも罰される多くのことがらを看過し、処罰を与えずにおかざるを得ません。しかしもし、このような状況において共通善のために(そしてこれのみが唯一の正当な理由付けとなりますが)人間の法が悪を容認することができ、またそうするべきであるとしても、それは[当の]悪をそれ自体として認め、あるいは望むことはできず、またそうすべきではありません。なぜなら悪はそれ自体として、善の欠如であり、あらゆる立法者が望み、力の及ぶかぎり保護すべき共通善に対立するものだからです。[ですから、]この点において人間の法は天主を模倣しなければなりません。聖トマス・アクィナスの教えるところに従えば、悪が世界に存在することをお許しになる際に、天主は『悪が為されることを望まれず、さりとてその悪が為されないことも望まれず、ただそれが為されることを許すことをお望みになるのであり、そしてこのことは善いことである。』neque vult mala fieri, neque vult mala non fieri, sed vult permittere mala fieri, et hoc est bonum この天使的博士の表現は、悪の容認についての教理の全体を簡潔なかたちで含んでいます。

しかし、この問題を正しく捉えるために、私たちは次のことを確認しておかなければなりません。すなわち、ある国家が悪を容認(tolerantia)する必要に駆られる程度にしたがって、当の国家はそれだけ完全な状態から遠ざかっているということ、そしてまた、政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、それを正当化する公共の福祉という目的が要請する程度までに厳しく制限されねばならないということです。したがって、もしこのような[悪の]容認が公共の福祉にとって有害となり、また国家にとってのより大きな悪を伴う場合、それは合法的なものではありません。そのような場合、[より大きな]善のためという動機付けが欠けているからです。また、昨今の尋常ならざる状況において教会がある種の現代的な自由をふつう認めているとは言っても、それはそういった自由をそれ自体として良しとしているからではなく、[ただ]便宜上それらを容認することが適当だと判断するからであり、もっと良い時勢には自ら自身の自由を行使してきたのです。ですから、そのような時には説得ならびに勧告、そよび嘆願とにより、人類の永遠の救いを供給するという天主から託された、義務としての使命を果たすべく努めるのです。しかし、一つ常に変わらず真理であることがあります。それは全ての人に与えられるべきだと主張されている、皆が自分のしたいことを何でもするという自由は、これまで再三述べてきたように、それ自体として望ましいものではなく、それは誤謬と真理とが同当の権利を持つということは理性に反するからです。

また「容認」に関しても、自由主義と呼ばれるものを唱えている人々が教会の公正さと賢明さとからいかにかけ離れているかを見るにつけ、驚きを禁じ得ません。と言うのも、先で述べた無制限の放縦を許すことによって彼らはあらゆることがらにおいての限度を超過し、ついには真理と偽、および品行の正しさと不品行[不徳]との区別をほとんどなくしてしまうまでにいたります。そして真理の柱、土台、かつ道徳の誤り得ない教師である教会がそのような投げやりで、犯罪的な性格を持った容認をことごとく咎め、断罪するよう否応なしに強いられるので、彼らは教会を忍耐と温情とに欠けると言って中傷します。[しかし]このようにして彼らは、自分たちが教会に対して実際は称賛すべきことを落ち度として非難していることに気づかないのです。しかしながら、そのような寛容さの見せかけにも関わらず、彼ら自由主義者は全ての者にあふれるほどの自由を与えるつもりであると公言しながらも、教会に対しては自由に行動する自由を許さず、全く不寛容であるということがきわめてしばしば見られます。

結論:自由主義の要点

自由主義の本質的な悪

自由主義は天主の権威をうち捨てるが、天主の権威のみが自由をその目的地まで導くことが出来る

さて今ここで、今まで述べられてきたことを、そこから直接出てくる結論と共に整理し、主な題目につづめると次のようになります。すなわち、人間はその自然本性上の必要[必然性]から、天主のこの上なく誠実で片時も絶えることのない権能にことごとく服従するものであること、またしたがって、天主に服従し、かつ天主の意志に従うもの以外、いかなる自由も考えられないということ。天主の中にあるこの権威を否定すること、もしくはそれに服従することを拒むことは、自由な者としてではなく、天主に対する裏切りを犯し、自らの自由を悪用する者としてふるまうことを意味すること。そしてそのような精神のあり方にこそ、自由主義の最も甚だしい死に至る悪徳が本質的に存するのです。しかしながら、この罪は多種多様の形をとります。なぜなら、天主ないし天主の権威に参与する者たちに対して抱くべき従順から離反する仕方および程度はさまざまであり得るからです。

絶対的自由主義は、公的にも、個人的にも、天主を完全にうち捨てる

と言うのも、天主の至高の権威を拒絶し、また公的なことがら、ないしは私的および家庭内での物事において天主に対するあらゆる従順を打ち捨てることは自由の最も甚だしい腐敗であり、自由主義の中でも最悪のものです。そしてこれまで述べてきたことが完全な意味で当てはまるのはこの一事のみです。

さて今度は、世界の創造主にして支配者である天主に服従する義務を、全自然界がその意志に依拠している限りにおいて事実認めている自由主義者の思想体系を取り扱うことにしましょう。こういった人たちは他方、自然的理性[の把握能力]を超え出、天主の権威によって啓示される、信仰と道徳に関する全ての法を尊大にも拒絶します。あるいはそこまで行かなくても、こういった法に国家が注意を払う ――― ましてや、公にそうする ――― べき理由は何一つないと厚顔にも主張します。これらの人々[の考え方]がどれほど誤っており、またどれほど首尾一貫性に欠けているかを、私たちはすでに見てきました。[しかし、彼らが奉じる]この教説から、教会と国家との分離という[まさに]致命的な原則が生じます。しかるに[教会と国家という]この2つの権力はその機能を異にし、地位において上下の差を有していますが、にも関わらず調和して働き、またそれぞれの義務を忠実に果たすことを通じて和合的関係の中に(友好的に)共存するべきものです。

教会と国家との分離を主張するものの中には、教会を全く無視するものもいる

しかし教会と国家の分離という、この教説は2通りに解することができます。多くの人は国家が教会から丸ごと完全に分離されることを望んでいます。そうすれば人間的社会におけるあらゆる権利に関して、諸々の組織、慣習、法律、国家の職務および青少年の教育においては教会があたかも存在しないかのように、考慮に入れずに済み、あとはせいぜい市民がもしそうしたければ個人的に自分の宗教を私的に行うことを許すだけでよくなるからです。このような考えを抱く者たちに対して、教会と国家の分離の意見の論駁を私たちは既に述べましたが、その議論はここでも有効です。これに加えて、市民が教会を尊重する傍ら、国家が教会を軽視して構わないというのは全くおかしなことだという点を指摘しておかなければなりません。

教会と国家との分離を主張するものの中には、教会が完全な社会として持つ権利を認めないものがいる

一方、別の人たちは教会が存在することには反対しませんが ――― 実際、それは反対できるものではありませんが ――― 教会が完全な社会としての本質と権利とを有していることを否定します。そして教会には法規を定めたり、裁いたり、罰を下したりする権利はなく、ただ自らの下にある者たちを訓戒や勧めを与え、かつ彼ら自身の同意と意志とに基づいて治めることのみが許されるのだと主張します。このような考え方によって彼らは教会というこの神的な社会の本性を歪め、その権威と教権、ならびにその機能全体を弱めかつ狭めるのです。これと同時に、彼らはまた国家の政府の権力を実際よりも[はるかに]大きいものとし、こうして天主の教会を国家の支配と影響力の下に置くのです。この種の教説を完膚なきまでに反駁するためには、キリスト教の擁護家および私自身により ――― 殊に回勅『インモルターレ・デイ』中で ――― 示された議論は大変役立ちます。なぜなら、これらの議論によって、天主の計らいにより、正当かつ卓越し、全ての部分において完全である社会に本質的に備わるべきあらゆる権利が教会に存することが証明されるからです。

教会と国家との分離を主張するものの中には、教会が国家に従っている間は教会に権利を認めるという

最後に残るカテゴリーとして、次のように考える人たちがいます。すなわち、教会と国家を分離することは認められないが、教会は時代に自らを適合させ、現代の政治体系の要求するところに順応しなければならないと言うのです。このような見解は、真理と正義に基づいた公正な調整の意味をするならば健全なものです。教会は何らかのより大きな善のために寛容な態度をとり、その聖なる職務が許すかぎり時代に適合することができるからです。しかし、腐敗した道徳とゆがんだ判断が不法にももたらした慣習や教条については、このことは言えません。宗教、真理、正義とは常に保持されねばならず、また天主はこれらの偉大にして神聖なことがらを教会の管理に託されたのですから、教会は決して自らの職務に不忠実たり得ず、したがって虚偽、または不正義のことがらに関して率直に真意を表明しなかったり、あるいは宗教にとって有害なものを黙認することはできないのです。

人間は、いかなる分野においても、束縛を無条件的に欠いた権利というものを持たない

これまで述べてきたことから、次のことが結論として導き出されます。つまり、思想、言論、著述、および礼拝についての無条件の自由を、あたかもこれらが自然によって人間に授けられた多くの権利であるかのように求め、弁護し、あるいはこれを与えることはきわめて不法であるということです。と言うのも、もし自然が本当にそれらを与えていたとすれば、天主に対しての従順を拒むことが合法的なものとして許され、人間の自由にはいかなる歯止めもなくなってしまうだろうからです。同様に、こういったことがらにおける自由は正当な理由が存在する場合にはいつでも容認されえますが、それはただ、そうして与えられる自由が放縦と超過とに堕してしまうのを防ぐに足りる適切な度が守られるかぎりにおいてです。また、これらの自由が用いられる際には、人々はそれらを善を為すために用い、そして教会がするのと同じようにそれらを評価しなければなりません。なぜなら、自由が正当なものであるのはただ、善を行うためのより大きな利便をもたらすかぎりにおいてであり、この基準を越えてしまえば、もはや正当な自由たりえないからです。

人間は、善を為すために、悪に対して「反抗の権利」がある

人々に対する不当な抑圧、または教会の自由の剥奪が存在し、あるいはその怖れがある際にはいつでも、しかるべき行動の自由が得られるよう、政権の変化を求めることは合法的です。そのような場合、度を越した悪い自由が求められているのではなく、公共の福祉のために、ただいくらかの救済が求められるに過ぎないのです。そしてそれは、国家により悪を行うための放縦が許されている一方で、善を行うための権能が妨げられないためです。

権威が天主から来るものであることを認めるならば、いかなる政治形態でも構わない

さて、民主的な政治形態を他の政治体制に優先して選択するのはそれ自体として間違ったことではありません。もちろん、権力の起源と行使についてのカトリックの教えが守られるという条件の下でですが。さまざまな政治形態の中で教会は国民の福利を獲得するのに適したものであれば、いかなるものをも拒みません。教会が望むのはただ(このことは事物の本性自体が求めることなのですが)、当の政治体制がいかなる人への不正を含まず、また特に教会の権利を侵害することなしに存立することだけです。
物事の何らか尋常ならざる状況により、別様に定められるのでなければ公的なことがらの執行に参加するのは有益なことです。そして教会は誰もが共通善に貢献し、自らの出来るかぎり、母国の防衛、保全、繁栄のために尽力することを是認しています。

人間は、正義に服従した上でのみ、「独立権」と「財産権」とを持つ

教会はまた、それが正義をそこなうことなしに成され得るかぎり、自国をいかなる外国または専制的国家権力からも独立させようとする人々を断罪することはありません。さらに教会は国家には自治権が、国民には可能な限りの繁栄が与えることを望む人々を非難しません。教会はいつも国家の自由をきわめて誠実に促進してきたのであり、このことはとりわけイタリアにおいて顕著に見られます。同国で、都市国家の繁栄、富、栄誉とが達成されたのは、ちょうど教会の有益な(権)力が国家のいたる所に、何らの対立も生むことなしに広まったその時だったのです。

使徒的祝福

尊敬すべき兄弟たちよ、私はこれらのことを信仰と理性の導きの下に、私の使徒的職務の遂行のために書き送ります。願わくは殊にあなた方の協力によりこの書面が非常に多くの人々のためになりますように。へりくだった心をもって私は嘆願の眼を天主へと上げ、主がいつくしみ深く、その知恵と賢慮との光を人々の上に照らしてくださるよう祈ります。それは、これら天よりの賜物によって強められて、人々がこのように重大なことがらにおいて何が真であるかを(正しく)識別し、しかる後、公共の場においても個人的にも、絶えず揺らぐことのない堅実さをもってその真理にしたがって生活することが出来るためにです。これらの天的な賜物の保証のしるしとして、またあなた方に対する私の行為の証として、尊敬すべき兄弟たち、そしてあなた方に委ねられた聖職者および信徒に、主において使徒的祝福を送ります。

ローマの聖ペトロ大聖堂にて。私の教皇在位10年目の1888年、6月20日
教皇レオ十三世

2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話 第一部「アマゾン・シノドスについて」

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2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話
第一部「アマゾン・シノドスについて」
同時通訳:東京信徒会長

今日ちょっとお話をする用意をしてきたのですけれども、今、教会で色々な事が起こっています。特にローマで今、シノドスというのが起こっていますので、ひょっとしてそれに関してご質問をされたいのではないかという風に思っています。

このシノドスの事ですとか、今の状況については英語では色々情報があります。インターネットにも載っています。アメリカのジャーナリストが色々詳しいレポートを書いています。けれども、日本語でそれがどのくらいあるのかはちょっとよく存じておりません。

もし何か最初にご質問があるのであればそれにお答えしますが、もしなければお話を先にさせて頂きたいと思います。

まず、非常に疑わしいと誰でも思うのは、ドイツ人の、ドイツの司教団がどうして、この「アマゾン」という国の所の話に注目して、入って来ているのだろうか?それは何か、ドイツの方からやりたい事があって、秘めた目的があってやっているのではないか?というような疑いがまずあります。

ドイツ人がアマゾンの事に興味があるというのは、別に植民地にしようとか、植民的な事でやっているのではありません。そしてこのドイツの司教団の方々が言われているのは、その「アマゾンというのは、世界では非常に例外的な所である」と、ですから「世界中どこでもその司祭というのがいたのだけれども、ここの人だけは、その独身の司祭というのでは足りないのだ」と、「結婚した男性が司祭にならなきゃいけないんだ」という事を、ドイツの方が、アマゾンについて言っている、というのが状況です。

「司祭が独身である」という事ですけれども、司祭が独身であるという事は、これはキリスト教的な事なのです。

ですからアマゾンについて、このドイツの方々が、「いや、ここはそのキリスト教的ではないので、独身の人ではなくて、結婚した男が司祭にならなければいけない」というのは、何を言っているかというと、例えば、「教会がじゃあアフリカに行った時はどうしたか?」と、そして「アフリカに行った時に、アフリカの人は、そのキリスト教が伝わる前には、一人が何人もの女の人と結婚していた。じゃあ司祭はそうすれば良かったのか?」というのと同じ理論になってしまいます。非常におかしな事を言っています。

そして今ドイツの司教の方々とか、教皇様もその一部かもしれませんけれども、やっていらっしゃるのは、このアマゾンの人たちをローマに呼んできて、そしてその人たちに、「ちゃんと自分の民族衣装だとか、こんな羽を付けるのだとか持って来て、やって下さい」と、そして「この人たちを連れて来ると、私たちのやりたい変更が教会で出来るのだ」という事を言っているようです。

そして過去にもこういう事がありましたが、例えばこういう、その「結婚をしている人が司祭になる」という事をアマゾンで例外的に許したというと、次に何が起こるかというと、「いや、実験的にも他の所でも許してみよう」という事が起こります。そしてこの方たちが仰るのは、「アマゾンという所では、その『司祭』という男の人が独身であるという事が分からない。アマゾンの人たちには、それが分からない」と言うのですけれども、まさに分からないからこそ、キリスト教の福音を伝えなければいけない。それは反対の事であると思います。

この司祭が独身であるという事は、非常にキリスト教的な考えです。例えばその前のユダヤ人が旧約の時に何をしていたかというと、ユダヤ教の司祭というのは、儀式をする時に一週間、神殿に籠もるという事がありました。その一週間を独身と言えるかどうか分かりませんが、独身になりたかったのかもしれませんが、奥さんの所から一週間神殿に籠もって、儀式をして、奥さんの所に帰る、という事をしていました。それからそういう時代でしたから、イエズス様がこの世にいらっしゃって、「結婚しなかった」というのが初めての事です。

そして使徒たちの数多くは結婚していませんでしたし、例えば聖ペトロは結婚していましたけれども、奥さんの元を去って、イエズスに従うという事をしました。

そしてこのアマゾンのシノドスという所で、そのそれを促進しようという方がやっていらっしゃるのは、「結婚している人を司祭にしよう」という事と、それから「もっと女性に、その典礼の何か位置を与えよう」と、例えば助祭というのでしょうか、いわゆる「女性の助祭というものを作ろう」と。それはなぜかというと、「召命が足りないからだ」という事で、そういう風に言っているのですけれども、これはもう実際、その場では何か起こっていて、女性がミサのような、まぁ真似事ですけれども、ミサのような事をやっている、という事が実際やられているそうです。アマゾンでは。

それから典礼については、この人たちが言っているのは、「もっと(いわゆる日本でも起こりましたが)、インカルチュレーション、その地元の文化を典礼に入れる」という事を望んでいる、そしてそれを実行しようとしています。

皆さんひょっとして写真を見られたかもしれませんけれども、このシノドスの最初の頃に、写真を見ると、そのバチカンの宮殿で何かピクニックをしているような写真がありまして、そのアマゾンの方がいらっしゃっている傍に、司教様とか教皇様も座っていて、何か儀式のようなものをしていて、なんとその後に、偶像の像を持って、サンピエトロのバジリカの中まで行進しているという、こういうとてつもない事をやっています。

ですから私たちが予想しますのは、通常こうシノドスというものがありますと、その後その議論をまとめた書類を誰かが作りまして、そしてその書類を見て、教皇様が何かをその結論を出す、何かを認可するような書類を出される。ですからおそらく1年後ぐらいに、教皇様から何か書類が出て、これは「アマゾンというのは非常に特別な所なので、ここだけに結婚した司祭を許す」というような書類が出るのではないかと思います。そして私たちは、これは完全にやりすぎだと思います。

それから、いわゆる保守的な方で、「聖ピオ十世会はやりすぎだ」と言っていた方も、これを見て、「いや、やっぱり今の教皇はやりすぎだ」と、意見を変えていらっしゃる方も多いと聞いています。

ですから、「教皇フランシスコ、教皇になって頂いてありがとうございます」と言う人がいます(^^;)。ですから、非常に変な意味なのですけれども、フランシスコ教皇のやっていらっしゃる事によって、「聖伝というのが逆にいかに重要だったか」と、そして「今起こっている事がいかにおかしいか」という事で、目覚める人がいるので、教皇様ありがとうございます、という変な感情になる事もあります。

教会というのは民主主義ではなくて、階級があるものですから、教皇様というのはそのトップにいらっしゃる方なので、もちろん御自分でお決めになる事ができるのですけれども、こういう会議とか、何かの形を取りながら、結局自分でやりたい事をやっていらっしゃる、そして個人的に思われた「これが良い」と思う事を、勝手にやっていらっしゃるようです。

このフランシスコ教皇様というのは、選ばれた次の日の朝にお話になった時に既に、カスパー枢機卿、近代主義的な方ですけれども、その方の神学が、「非常に素晴らしい」という風に仰っていたので、そこからその「誤った憐れみ」に繋がって、「離婚して同棲している方に、じゃあ御聖体を」というような話に繋がっていくのが非常に最初から明らかでした。

教会というのは民主主義ではなく階級がありますので、では私たち下にいる者は、一体何ができるのでしょうか?あなた、私、皆さんは、私たちは、別に教会のどこか高い階級にいる者ではありませんから、やれる事は本当にありません、限られています。

今日最初に申しましたけれども、これは別に聖ピオ十世会の方ではないですけれども、アメリカのジャーナリストのような方は、このローマに行って、「このシノドスが何が起こっているのか」という事を詳しく報道されていますし、そのシノドスをやっている人たちに対して、「一体何をしているんですか?」と、「これはおかしいんじゃないですか?」という事を明らかにして、それを全て逐一インターネットに載せて下さっているので、それはそれで非常に良い仕事をされていると思います。

この日本語でそういうのがどれくらいあるか分かりませんけれども、追ってこういう内容が少しでも日本語に翻訳されて、日本の方も読めるようになると非常に良いと思います。

また、お祈りをするのを忘れてはいけません。教会というのは超自然的なものですから、この悪い人、おかしい人がそれを一生懸命変えようと思っていても、教会というのは、イエズス・キリストのものですから、イエズス・キリストがどうしていらっしゃるのか、寝ていらっしゃるのか知りませんが、ある日起きて、この酷い事を全部止めて、綺麗になさる日が来ます。

この教会に起こっている事で、あまりガッカリしないで下さい。急にお酒を飲みすぎるような事はしないで下さい。

私たちのできる事は限られていますけれども、でもその限られた事を、私たちはちゃんとしなくてはなりません。そのガッカリしょんぼりしてはいけないというのは、ガッカリしょんぼりするというのは、カトリック的ではありません。「しょんぼりしてしまう」というのは、「イエズス・キリストが、これは負けている人だ」と思う事です。

そうではありません。イエズス・キリスト様が、そのこれからどうする、というのを私たちに伝える義務があるわけではありません。私たちには分かりません。けれども、イエズス・キリスト様は、必ずその為すべき事を為さいますので、私たちも自分の為すべき事を為さなくてはいけません。

フランシスコ教皇様というのは不死身ではありませんから、いつかお亡くなりになると思いますので、次の教皇様もどういう方か全然分かりません。ですから、ちょっとはそれでマシになるかしれません。

この後ちょっと全然違う事をお話しするので、この件についてもしご質問があれば、今何かして頂きたいと思いますけれども、ご質問はありますでしょうか?

質問者Aさん:ギリシャ正教のビザンチン典礼をやっている所で、カトリックに戻ったところがありますね?そこは司祭が妻帯しているのだと思うのですが、それはどうなのでしょうか?

ワリエ神父様:まず古い教会、初期の教会では何が起こったかといいますと、初期の教会の頃は、神学校というのがあったわけではないので、どういう風に司祭とか司教が選ばれたかというと、市民の中でその学を持って、司祭・司教にふさわしい人というのが選ばれて、そしてその中には結婚した人も選ばれて、司祭とか司教になった事がありました。そしてその初代の教会では何が起こったかというと、その司祭とか司教に選ばれた方は結婚していたのですけれども、その家を離れて、まぁいわば独身の司祭・司教としての職務を果たされる、という事がありました。それが初期の教会のお話です。

その後教会はどうしたかと言いますと、教会の形が出来てきた時に、若い男性の中から司祭の候補を選んで、その人を司祭にするという事を始めました。

それで確か6世紀から7世紀の頃だったと思いますけれども、東の方で公会議がありまして、この結婚している司祭を認める、という決定がなされました。それにローマは強く反対したのですけれども、それによってそこの東の方が全部離教するという事を恐れたので、ローマはその「場所を限って、それを一応許す」という事を始めました。その「場所を限って」という場所が、今の言葉で言うと、「東方典礼をやっている所」です。

ですから、ローマがこれを積極的にやったわけではなくて、「そこの地区が全部離教してしまうのを防ぐ為に、しょうがなくて許した」というのも、それも、「非常に限定した地域で許した」という歴史があります。

しかし私たちは、このギリシャ典礼のそのカトリックの方も、「独身」というのを非常に大事だと思っている事が分かります。なぜかというと、このギリシャとかその東方典礼のカトリックの方がやっている事というのは、司祭がまず結婚するのではありません。結婚した人が司祭になる事があるという事で、ただ結婚した司祭は、決して司教にはなれません。司教は、その結婚していない独身の司祭の中から選ばれます。

そして西方の教会でも、11世紀頃に大変酷い問題がありました。司祭の中には、女性と一緒に住んでいるような人がいっぱい現れました。そしてそれを見て教会は、いやぁ、じゃあしょうがない、じゃあ結婚しても良いか、とは言わずに、教会はやはりそこで、そういう司祭がいなくなっても、「独身を守らなければならないのだ」という風に、西方のローマの教会は、そういう決定をしてきました。

それからずっと後の事になりますけれども、第二次世界対戦後以降だと思いますが、ローマの教会で唯一この例外を認めたというのは、英国国教会、アングリカンの方ですとか、ルター派の人がカトリックに改宗する時に、ほんの少ない例外を認めた事があります。例えばピオ十二世教皇様がなさった事は、アングリカンの英国国教会の、結婚しているあそこは牧師さんと言うのですかね、牧師さんとその信者が何千人いらっしゃる、そしてこの牧師さんが、「カトリックになりたい」というケースがありました。そしてその牧師の方が訓練を受けて、カトリックの司祭に叙階される、と。奥さんがいらっしゃったのですけれども、それを認めると、その「何千人のそこの信者の方も、一緒にカトリックになります」というケースがあって、それで教皇様はその何千人の為に、「ではこれを、例外を認めましょう」という事を仰いました。

ですから大事な事は、教会というのは、こういう事は確かにありましたが、結婚した人が司祭になるというのは、いつも「例外」でした。ですから例外というのは、いつも例外であるべきであって、それを一般化してはなりません。

ですから、今そのドイツの司教団の方がやろうとされているのは、ドイツの本当に一部で、いや例外だ、と言って、実は「ドイツ中でやろう」という事を狙われている、というのが明らかです。

質問者Bさん:日本にはあまりカトリック教徒がたくさんいない、少ししかいないというのは皆知っているのですけれども、教皇様が何でそのわざわざ遠い日本までいらっしゃるのでしょうか?その何か近代主義的な狙いがあっていらっしゃるのでしょうか?

ワリエ神父様:教皇様がいらっしゃるのは、主な訪問地は広島・長崎だと聞いていますので、この教皇様というのは、いつもそういうその近代主義的な何か狙いがある事を、どこに行っても年中喋る方ではありません。その場所を選んで喋る方なので、おそらく来月になってみないと分かりませんが、日本では核兵器反対だとか、環境を守ろうとか、そういう事を中心にお話しされるのかと思います。

こういう事を聞いてガッカリするというのは先ほど違うと言いました。私たちが死んでしまった時に、イエズス様は私たちに聞かれるのは、その教会でどういう問題があったんだ、という話ではなくて、「私たちが、カトリックとしてどういう生活をしてきたんだ?」と、「家族と世界の中でどうしたんだ?」と、「カトリックとしてどうしたんだ?」という事を聞かれますので、そっちに注力しなくてはいけません。

ですから、こういう事が起こっているというのをある程度分かっている事は重要ですけれども、毎日毎日、「こんな問題がある」「あんな問題がある」「スキャンダルがある」というのを探し回る事はしないで下さい。

2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話 第ニ部「聖ルカに関するクイズ」

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2019年10月20日(主日)聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様霊的講話
第ニ部「聖ルカに関するクイズ」
同時通訳:東京信徒会長

もっと霊的な、ちょっと違うお話を致します。

何日か前に、聖ルカの祝日を祝いました。ですからこれから、聖ルカに関してちょっとクイズをしますので、答えて下さい。

Q.四人の福音史家がいますけれども、そのうち使徒であった人は何人でしょうか?
A.二人です。

Q.その二人はどなたでしょうか?
A.マテオとヨハネです。

ですから考えてみますと、そのマルコという方とルカという方は、使徒ではなかったという事です。

この二人について面白いのは、そのマルコという方は、何かペトロの為に、聖ペトロに成り変わって書いている人で、聖ペトロの何か弟子のような感じで、ルカという方は、聖パウロの代わりに書いているのか、その聖パウロの弟子であったような感じがします。

聖マルコの福音を読んでみますと、これは一番短いのですけれども、自分で見たようには書いていません。何か「見た人から聞いた」という風に書いている、そしてその「見た人」というのは、「ペトロ」のようです。

この四つの福音は、特に受難の所に関しては、皆同じ関係のある、同じ事を書いています。

例えば奇跡に関しては、この三人の最初の福音史家は同じような事を書きますけれども、ヨハネはむしろ、そのイエズス様の仰った「御説教」を一生懸命詳しく書いています。

この「聖ペトロが主を否んだ」という話は、皆四つとも書いています。しかしこのマルコの福音書を見ると、その「否んだ時に、イエズス様が後ろを振り向かれた」と、「そしてその顔を見て、ペトロが泣き出した」という表現があります。ですからマルコという方は、聖ペトロからこの話を直接聞いたという事がよく分かります。

そして先ほど申しましたように、そのルカのお話をしたいのですが、

Q.この聖ルカという方はどういう人だったでしょうか?
A.お医者さんです。

アンティオキアという今のトルコですけれども、そこのお医者さんでした。ですから、どうやらこの聖パウロのお医者さん、担当したお医者さんだったみたいで、なぜかというと、聖パウロというのは何か体に問題があった方だったので、そのお医者さんとしてやっていたのが聖ルカだったようです。

Q.ところで、新約聖書というのは何語で書かれたかご存知でしょうか?
A.ギリシャ語です。

そうですね、ギリシャ語で書かれています。その頃のその中東の地域ですけれども、ギリシャ語というのは、今アジアでいう英語のような感じで、皆どこの国に行っても、まぁ知っていて、一応コミュニケーションには役に立つ、というのがギリシャ語でした。ですからこの聖書の出来事が起こったパレスチナという所では、アラマイ語というのを話していたのですけれども、皆少しそのギリシャ語ができて、ギリシャ語でコミュニケーションができたという場所です。

ですからこの聖ルカの書いた福音書というのは、彼の書いたギリシャ語というのは、彼はお医者さんですから、学のあった方ですので、他の三つの福音書のギリシャ語より、良いギリシャ語、より優雅な良いギリシャ語で書かれています。

聖ルカの福音書の特徴のひとつというのが、「聖母マリア様が、イエズス様をお生みになった、あるいはその前の話、これが非常に詳しい」というのも特徴です。ですから、「めでたしのお祈り」ですとか、私たちが言っている「喜びの玄義」というのは、これはみんなルカの福音書から来ています。

ですが考えてみますと、このルカという方は、直接見た人ではないので使徒ではなかったので、こんなに直接的な話をどうやって書けたのでしょうか?伝統的に考えられていますのは、聖パウロという方はチェザリアですか、そこで2年間幽閉されている事がありました。そしてその時に、おそらくマリア様から直接話を聞くチャンスがあって、そしてその話をその福音史家のルカに伝えたのだと思われます。

聖ルカという方は、「天主の憐れみの使徒」と言われる事があります。なぜかというと、その天主の憐れみに関する事で、他の福音には見つからない事がここに書かれているからです。

例えば、「放蕩息子の話」というのは、彼の福音書だけに書かれています。ご存知だと思いますけれども、この例え話というのは、天主様というのは、私たちの父親のような方で、私たちが父親を裏切ってしまうのですけれども、いつ帰ってくるか、いつ帰ってくるか、と見てて頂いて、そして私たちがそれを悔いて帰って来た時に、喜んで迎えて下さるような憐みのある方だ、というのを示す例え話です。

イエズス様が十字架に付けられている時に、七つの言葉を仰いました。これは何かお祈りの本を見たら出ていると思いますけれども、イエズス様の七つの言葉というのは、四つの福音書に全部きれいに並んでいるわけではありません。この中で聖ルカが伝えるのは、やはりイエズスの憐れみに関するお話です。そしてこの話というのは、私たちが知っている「良い盗賊」のお話です。

「良い盗賊」というのは、考えてみたら非常に変な表現です(^^;)。良い盗賊と悪い盗賊がいる、というので変な感じですが、聖アウグスティヌスも同じように言っています。ですからこの良い盗賊の話というのは、聖ルカのみが伝える話です。

そしてこの話が非常に良いのは、この良い盗賊と言われる方が、「いかにそれまでの人生を悔いたか」というのが非常によく分かる事です。それは「ごめんなさい」と言うだけではなくて、「自分のやってきた事がいかに悪い事であったか、という事を認めている」という事が明らかになっているところです。

ですから考えてみますと、私たちの主というのは、この十字架に付いていたのですが、単にその有罪になって死刑になったというだけではなくて、一緒に処刑された二人が泥棒であったと、そして泥棒と一緒に処刑された、という事で非常に名誉が傷付けられて、という状況で本来はありました。

そしてこのいわゆる悪い盗賊という方は、私たちの主を侮辱する方に行きました、「本当にメシアだったら、自分で降りてみろ」と、「私を助けてくれ」とそういう主張でした。そしてこの良い盗賊という方が言うのは、「私たちは、この死刑になって当たり前なのだ」と、まず言います。

ですからこの良い盗賊という人は、その「私が死刑になるのは当たり前だ」と、「それが正義だ」と、「私のやった事は悪い事だ」というのを認めて、「その為に自分が死刑になるというのも当然だ」という風に言っています。

この「正義」と言うのですけれども、彼は一体どういう事をしたのでしょうか?この人がした事を考えてみますと、まず「私たちの主を守ろうとした」それも「非常に勇気のある事だった」というのは、もちろんその主の傍には、聖母だとかヨハネだとか、マリア・マグダレナとか何人かはいましたけれども、ほとんど全員の方は、主を攻撃していたので、この横で、死刑になった人を守ろうとしたというのは、大変な勇気のあった事です。

そしてこの人が言ったのは、「主よ、あなたが王国に行く時は、私の事を思い出して下さい」と言いました。

この盗賊の言った事を考えると、非常に驚くべき事が分かります。この盗賊というのは、おそらく死刑になる前は牢屋に入っていたでしょうし、イエズス様の御説教を聞いた事がないかもしれません。しかし、「御自分の王国に行く時には、思い出して下さい」という事は、単なるそのどこかの王かというだけではなくて、「この方が、天主である」という事も分かっていたようです。

この条件を見ますと、罪が赦される条件が全て綺麗に整っています。彼は悪いと思っていますし、主の事を守ろうとしますので、そこで主はこの人の罪を全て赦されます。

あとルカという方はお医者さんだと言いましたが、それが分かるのは、彼の聖ルカの福音を読んでいますと、何か奇跡のような事を書く時に、お医者さんらしい事を書くので分かります。
Q.こういう表現をご存知でしょうか?
A.ゲッセマニです。

はい。ゲッセマニで主が苦しまれた時に、「血の汗を流された」というのは、聖ルカだけに書いてあります。他には書かれてありません。ある人が、その何か悪魔に憑かれているようなという表現で書いてあるのですが、その人の症状を見ると、何かてんかんの症状のように説明がされています。

Q.ルカという方は、他の何か福音書以外も書かれたでしょうか?
A.使徒行録です。

福音書の後にある使徒行録も彼の筆によるものです。ですからこの使徒のやった事を書く所で、一章一節を見て頂きますと、「私は前の本では、主の行なわれた事を書いたが…」という風に言っていますので、同じ方が2冊目を書いたというのがよく分かります。

「この使徒が為した事はこうである」という事を書いているのですけども、よく読んでみますと、ルカが書いてるのは、「聖ペトロと聖パウロが何をしたか」という事を主に書いています。まず最初は、「聖ペトロが何をしたか」と書いてあります。しかしその後、聖ペトロはローマに移る事になります。それは迫害があったからです。そしてその後ルカが書きますのは、「聖パウロがどこに行って、何をしたか」そしてそれはその頃のアジア、今のトルコですけれども、そこですとか、ヨーロッパ、それから牢屋に捕まっていた時の事も書きます。それは彼が聖パウロとずっと一緒にいたからです。

この使徒行録での一番最後のところは、聖パウロがローマで牢屋に捕まっているところまで書いてあります。

何かご質問はありますでしょうか。

ありがとうございました。


Photo Credit

聖ピオ十世会日本 ミサ報告 2019年11月1日~4日 東京・大阪・名古屋 SSPX Japan Traidional Latin Mass at Tokyo, Osaka & Nagoya

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪では、11月1日(初金)の諸聖人の祝日の御ミサ、初金の御聖体降福式、2日(初土)の全ての死せる信徒の記念のミサ(3回)、初土の御聖体降福式をすることができました。

東京では、11月3日(主日)のミサと、初主日の聖体降福式と主日の晩課をすることができました。63名の方々がミサ聖祭に参加することが出来ました!

11月4日には名古屋でも聖ピオ十世会としては初めての聖伝のミサを捧げました。今回は27名が参加することが出来ました。次回からは、名古屋である場合にも、東京や大阪と同じようにここで愛する兄弟姉妹の皆様に告知いたします。

今回は初めて、日本では東京でも大阪でも、御聖体降福式の中で、諸聖人の連祷をラテン語で歌う事ができました。特別に教皇様と公教会の為に御聖体の前に跪いてお祈りを捧げることができたことは、幸福でした。

よろずの國の 君たる主イエズス
やまとの國を なれにぞ捧ぐ
きみの聖心に 我等とこしえに
誠をぞ誓わん 主よ王たり給え!

わが日の本の 國をさきわい
神の御國と なさしめたまえ
きみの聖心に 我等とこしえに
誠をぞ誓わん 主よ王たり給え!

闇にむか伏す 敵をくじきて
御旗のもとに 勝ち歌あがる
きみの聖心に 我等とこしえに
誠をぞ誓わん 主よ王たり給え!

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 31人(内、子供4人)
女: 32人(内、子供4人)
計: 63人(内、子供8人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!!
トマス・小野田神父様

いつもお世話になっております。
無事に東京のごミサに与らせていただき、出席できました事、感謝いたします。ありがとうございました。
大変うれしく思いました。
また、名古屋でもごミサが捧げられていることも、とても嬉しいお知らせでした。
これからも多くの場所で聖伝のごミサが捧げられますことをお祈りいたします。

ミサ参列の際に実行の札・約束の札を提出してもらうことをすっかり忘れておりました。
神父様のブログを拝見して、私も10月7日よりカウントしております。
このメールにて今までの分の霊的花束をお知らせしたいのですが、よろしいでしょうか。
わずかではありますが、皆様のご報告に加えていただければ幸いです。
約束の札
霊的聖体拝領 30回
ロザリオ   60環
小さき犠牲  30回

実行の札(11/4までの分として)
霊的聖体拝領 15回
ロザリオ   25環
小さき犠牲  13回

『王たるキリストの祝日』に書かれた娘の手紙が今日届きました。当日の晩課の『彼は権力・力・恐怖によって国を支配したのではない、自分自身が付けられた木によって支配する。』という箇所のイエズス様の優しさに心打たれたようです。(…)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第二十一主日の御ミサをありがとうございました。

今回は1回だけのミサで残念でしたが、名古屋にてはじめてのごミサがありましたことを嬉しく思っています。

この日の聖福音では人を赦すことの大切な意味が語られ、お説教により深く黙想に導いてくださいました。赦さない、赦すという言葉は、口に出していうのは簡単ですが、感情も含めすべてをもって心底ゆるすということが場合によっては難しいです。そして、自分がゆるしていないことを自分でもわかっていないままに、心の中のわけのわからない刺に悩まされていることがあります。

お話を伺いながら、天国にいくためには天の父に赦してもらわなければならず、そのためには赦すという気持ちをもたなければならないとわかりました。

どんなときにも、赦すという気持ちを持てるというのは、きっと聖寵によらなければと思いました。深い罪びとの私には、イエズス様の御血のお恵みを望むしかないとわかりました。その目に見えない御血が流される御ミサに与ることのできることは、この上ない幸福なこととあらためて思いました。

「主の祈り」を祈るとき、いつもぞんざいに祈っていた「われらが人に赦す如く」という言葉が本当はとても大切な意味を含んでいることを教えられました。本当にいつも自分がどれほど赦されたか忘れてしまっています。

イエズス様がこの祈りを「主禱文」に入れて、私たちにいつも祈るよう教えてくださったのは、それだけ大切で重要だからだとあらためて考えさせられております。

残酷な処罰をうけた殉教者が、その苦痛だけでなく、自分を殺そうとする者にさえ悪意を持つことなく恨むことなくすべてを赦してこの世の命から離れられたことについての神父様のお話しも噛み締めました。、

昔の聖人方はよく殉教の望みを持ったと書かれているのを読みます。カトリック信仰を守るために栄えある死を望むのみならず、死ぬときにすべてを赦すことができるお恵みをいただくことも願っていたのでしょうか。それは毎日の祈りの生活のなかで唱えている「主の祈り」を良く祈っていたからなのかもしれないと思いました。彼らには、いつも天上の永遠の世界が見えていたのでしょう。

普段の何気ない生活の中で、自分を苦しめるような嫌なことや理不尽なできごとに遭遇して悲しんでしまうことがあったとしても、なおイエズス様はそれにより天国に行ける資格を一つ多く与えてくださったのだと思えるようになりますように。天国の種をいただいたことを、その相手に感謝するほどまでにはなれないにしても。

そして、苦しみと涙の谷であるこの世の生活のなかでもこのような平安をいただけるのは、まことのカトリック信仰をいただける者が持つことのできる幸せと思いました。

この日は、アマゾン・シノドス会議での偶像崇拝の罪を償うための御ミサでもありました。このニュースにはひどい衝撃を受けました。でも、私たちを聖なる信仰に導いてくださる聖なる司祭様がいらっしゃることをありがたくおもいます。

日本のカトリックが、いつの間にか偶像崇拝を混ぜこむ汚聖にも鈍感になっているかもしれないなら恐ろしいです。でもすべてをご存知の天主さまにより頼み、そのような方々に敵意や悪意は持つことは致しません。赦しを願います。イエズス様はきっとすべてをよくしてくださるに違いありませんから。御ミサに続いてご聖体降福式が行われました。償いの諸聖人の連禱がラテン語で捧げられました。

神父様まことにありがとうございました。
聖マリアの汚れなき御心のうちに


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初水曜日「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します

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愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2019年11月6日は、11月の初水曜日(月の初めての水曜日)であります。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

一体なぜ、私たちはこの地上に生きているのか?その目的は何なのか?この地上の全ての創られたものの本当の意味と価値とは?諸聖人の大祝日のミサの黙想

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2019年11月1日(初金)諸聖人の祝日のミサ 聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教 聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。 今日は2019年11月1日、諸聖人の大祝日で、初金曜日でもあります。 今日このミサの直後に、初金曜日の信心である聖時間を行ないましょう。そして御聖体拝領も、初金の信心で御聖体拝領なさって下さい。 今日は、49年前に、聖ピオ十世会が教会法に従って正式に認可されて、創立された誕生の日でもあります。どうぞ聖ピオ十世会の全ての司教様、司祭、修道士、修道女、そして信徒の方々の為に、皆様のお祈りをお願い致します。 「そして私は天に、誰も数える事ができないほどの大群を見た。」 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。 愛する兄弟の皆さん、今日黙示録で、聖ヨハネが天の荘厳な壮大な様子を描写します。 ユダヤの十二部族の印をされた、選ばれた人々をまず見ます。次に、全ての異邦の民から、全ての民族、全ての国民、全ての言葉、全ての血統の人々、あらゆる階級の人々が、誰も数える事ができないほどのものすごい大群が、何億何十億何百億という人々が、手に棕櫚の勝利の枝を持ち、そして真っ白な服を着て、天に、天主の玉座と子羊の前に立って、讃美の声を大きな声で、轟くほどの声で、感謝を捧げている、「天主に、私たちの天主に、そして子羊に救いあれ!」と。 そしてその大きな天群の、感謝の大群がこの声をあげると、その子羊と天主の玉座の前には、天使たちが、無数の天使たちがやはり同じように、それを取り巻いて、そして老人とそして動物が同じように、その天主に、「祝福と、讃美と、感謝と、栄光と、誉れとが、代々にありますように!」と言って、この顔を額突いて、地に平伏して、その天群の大群と共に、天主を讃美する。 この壮大な栄光の風景を、私たちに語っています。 これが天国での現実です。今日の諸聖人の大祝日は私たちに、遂に私たちが至るべき、私たちの辿るべき目的地を見せてくれています。永遠の救い、永遠の命、永遠の至福。その私たちの創造された究極の目的。それに既に到達されている多くの聖人たちの姿。「私たちもこれに加わらなければならない。これに辿り着かなければならない。その為に子羊が屠られた。天主が人となって、私たちの為に、尊い天主の御血を流された。」 今日、この私たちの母なる聖なる公教会は私たちに、慈愛の心を以て、「さぁ、ごらん、子供たちよ。ここにこそ、私たちの究極の目的があるのだよ」と教えてくれます。 一体なぜ、私たちはこの地上に生きているのでしょうか?何でこの日本の地に生まれて来たのでしょうか?なぜここに今、2019年11月1日に、ここに、今ここでこう生きているのでしょうか?その目的は何なのでしょうか? 私たちの目的は、たった1つしかありません。「永遠に幸せになる事」です。諸聖人のこの大群の前に加わる事です。イエズス様の流された、御血のその目的を完成させる事です。 私はつい最近、ある人にこう質問を受けました、「教皇様が、フランシスコ教皇様が日本に来られるけれども、日本にとって、日本にいる私たちにとって、一番大切なイシューとなる事は何なのでしょうか?何だと思いますか?」 これは私たちに聞くまでもありません。私たちにとって、日本人にとって最も大切なイシュー、最も大切な大問題というのは、「私たちの永遠の救い」です。 日本の国民の霊魂が永遠に救われるか、救われないか、これこそが創造の最も大切な問題であって、私たちの人生の最大の問題であって、私たちの人生の唯一の大事業です。カトリック教会のその創立の目的であって、イエズス様の御託身と贖いの神秘の目的であります。 オリンピックの話ではありません。天皇陛下の跡継ぎの問題でもありません。「私たちの霊魂、国民一人一人の霊魂が、永遠に幸せになるか、あるいは地獄に落ちるか」これこそが私たちの最も大切な問題です。 私たちのみではありません。アマゾンにいる人々にとっても同じです。中国に住んでいる人にとっても同じです。アマゾンにいる人にとっての最も大切な目的は、彼らの霊魂の永遠の救いです。森林の保存とか、あるいは大地の環境とか、それは二の次です。 なぜそういうのは二の次なのでしょうか? それが第2のポイントです。 なぜかと言うと、私たちが今この住んでいるこの地上の全てのもの、創られたもの、被造物は、私たちが永遠の命に到達する為の、「手段」に過ぎないからです、「道具」に過ぎないからです。 日本という国家も、あるいはアマゾンという大森林も、あるいは王様がいることも、天皇陛下をいただいていることも、あるいはこの私たちの今住んでいる、持っている、目に見える全ての財産も、自然環境も、全て手段に過ぎないからです。私たちが永遠の命に到達する為に、上手く使うべき手段に過ぎないからです。 その為に天主は、三位一体の愛を込めて、私たちが永遠の幸せに到達する為の手段として、これを私たちに下さいました、「これを良く使うように」と。 「良く使うように」というのは、これを目的と切り離して、これだけを見て、これを保存する、これだけを、というのではなくて、これを「目的の為に使う」という事が良い使い方です。 一番良い使い方、目的に到達する為の使い方をするのが、一番良い使い方です。ですからこそ私たちは、自然を大切に、清貧の精神で使わなければなりません。 しかし、これをあるいは被造物を、天主を忘れて、あるいは天主とは全く無関係に、自立的に、天主の事を無視して、盲目的に、これを、地上の事を愛する事はできません。それは悪い使い方です。「全ての地上のものは、全ての被造物は、目的ではなくて、手段だ」という事を、私たちは一瞬も忘れてはなりません。 最後のポイントです。 では私たちはどうやったら、この諸聖人の後に加わる事ができるでしょうか?諸聖人はどのように天国に行ったのでしょうか?どのように被造物を上手く使って、天国に到達したのでしょうか? 彼らは、イエズス・キリストの後に従いました。私たちが罪を赦されるには、たった1つしか方法がありません。それは、イエズス・キリストです。イエズス・キリストの流された御血です。イエズス・キリストの御恵みを、超自然の御恵みを、私たちが受け取る事です。 主の流された御血によって私たちの罪が赦され、洗礼の秘跡を受ける事によって私たちが赦され、そして超自然の命に参与する事です。私たちの今生きているこの自然では不完全で、更にそれに加えて、超自然の天主の命に与らなければなりません。 私たちのその超自然の命をいつも保つ事ができる為に、通らなければならない道があります。それがイエズス様が通った道であって、諸聖人がやはり通った道であります。ある諸聖人は、ある聖人たちは、殉教の道を辿りました。でも同じイエズス様の道でした。ある聖人は、貞潔の道を辿りました。童貞女。ある聖人は、王として、イエズス様の掟に従いました。しかし全ての聖人たちが通った道は、「十字架の道」でした。 この十字架の道の最高のレベルが、最高の生き方が、福音の勧告であって、「清貧・貞潔・従順」この三つです。 それにより、この私たちの地上の被造物を愛してしまう、あるいは貪欲、富への欲望、あるいは肉体の欲望、あるいは更には自分を天主として、自分の意志を天主よりも更に重んじようとするその誘惑に打ち勝ちます。 「この諸聖人たちが、十字架の道行きを辿った。そしてこれこそが、私たちに与えられた唯一の道である」という事を今日、もう一度確認致しましょう。そしてその道を通ってこそ初めて、私たちは遂に栄光に、復活に、天国の栄光に達する事ができるからです。 今現在では、2つの問題があります。 1つは、私たちのこの「目的」が、この地上での幸せであるかのように錯覚をしよう、としている事。そして天国での目的を思い出させようとする人がますます少なくなっている事。 第2の問題は、十字架の道を通らなければならない、天国に行けない、という事を、誰も語らなくなっている事。それはあまりにも難しいので、私たちはもう何もしなくても、十字架の道をしなくても、既に天国に行って、復活を味わっているのだ、という事だけを強調しようとする人が多くなっている事です。 私たちは今日、諸聖人の歩んだ十字架の道を、もう一度歩む事を決心致しましょう。 そのこれができますように、マリア様にお祈り致します。悲しみのマリア様、汚れなき聖母マリア様にお祈り致しましょう。 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。 Photo Credit

フランシスコ教皇様来日準備のための霊的花束(2019年11月3日現在)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんにちは!
2019年11月3日現在東京では、フランシスコ教皇様の来日準備のために次の霊的花束が報告されています。
These are the updated numbers we have received to date from the Tokyo faithful (as of 11/03/2019):

ミサ聖祭 47
聖体拝領 47
霊的聖体拝領 150
十字架の道行 86
ロザリオ(環) 828
小さき犠牲 73
その他 68

多くの場合お祈りを宜しくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父

毎日「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げましょう。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主の先駆者聖ヨハネも、私たちの主イエズス・キリストも、同じ言葉で公生活を始めました。Poenitentiam agite. Appropinquavit enim regnum caelorum. 悔い改めよ・悔悛せよ・償いせよ、天の国は近づいた。
悔悛しなければ、私たちは皆、滅んでしまいます。
インターネット上の記事によると、秋田の聖母のシスター笹川の守護の天使は、シスター笹川に「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げることを招きました。
私たちも、ファチマの聖母が子ども達に伝えたように、償いと祈りを、毎日のロザリオを捧げましょう。ファチマの子ども達ののように、単純に、寛大に。
特に、フランシスコ教皇様の為に祈りましょう。
御参考までに、シスター笹川への守護の天使のメッセージをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!トマス小野田神父
これはシスター笹川が言われたことを直接聞いたシスターMの言葉です。

「(2019年)10月6日(日)の午前3時半頃に、秋田で30何年か前に私(シスター笹川)に現れたと同じ天使(注1)が現れました。天使は最初に私(シスター笹川)にプライベートなことを話しました。

皆さんに伝えて良いのは、「灰をかぶって(注2)悔い改めのロザリオを毎日祈ってください。あなた(シスター笹川)は幼子のようになって、毎日犠牲を捧げてください」」

シスターMからこのことを聞いたSさんは、皆さんに知らせて良いですか?とお聞きしたところ、シスターMを介してシスター笹川は、良いと言われました。また、「私(笹川)が幼子のようになって、毎日犠牲を捧げることが出来るように祈って下さい」とSさんにシスターMを介して言われました。

注1:秋田でシスター笹川に現れた天使で、思わずシスター笹川は「お姉さん」と言ってしまいました。亡くなったお姉さんに似ていたそうです。その方は、「いいえ、私はあなたを守るものです」と言われました。そして、「聖堂に行きましょう」と笹川を導かれました。

注2:ヨナの預言3:1~10(10月8日の第1朗読)粗布をまとって灰の上に座し

以上です。
WQPH 89.3 FM | EWTN Catholic Radio in Northern Worcester County - A new message from Sister Agnes of Our Lady of Akita : WQPH 89.3 FM | EWTN Catholic Radio in Northern Worcester CountyUPDATE 11/2: we have included a new translation from a English/Japanese speaker, and made a few other small edits to this article WQPH has obtained a new message from Sister Agnes Sasagawa, the nun who received the message of Our Lady of Akita, who is sometimes referred to as the daughter of Our Lady of […]
WQPH 89.3 FM | EWTN Catholic Radio in Northern Worcester County - A new message from Sister Agnes of Our Lady of Akita : WQPH 89.3 FM | EWTN Catholic Radio in Northern Worcester County

聖ピオ十世会日本では、毎年、聖母聖月の5月に、秋田巡礼を行っております。愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にご招待いたします。このサイトを謹んで秋田の聖母マリア様に奉献いたします。【聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITA】




11月2日は、教会の典礼の精神に従って全ての死せる信徒の記念を行う。煉獄の霊魂たちの為に、私たちは一体何ができるのか?

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2019年11月2日(初土)全ての死せる信徒の記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年11月2日、死せる信者の記念の日です。

今日は公教会の意向に従って、3回ミサを捧げています。今日は同時に初土でもありますので、このミサが終わった後、感謝の祈りの後に、初土の信心も行ないましょう。
御聖体拝領も、初土の信心の意向で、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向で、御聖体拝領なさって下さい。

明日は東京で10時半から、また月曜日にも名古屋の駅前で10時半からミサがあります。皆様のお越しを歓迎致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は諸聖人の祝日の翌日、全ての死せる信者の霊魂の記念を行なっています。

天国での栄光ある凱旋教会、数を数える事ができないほどの無数の霊魂たちの勝利の姿を見た、栄光を見た後に、そしてこの聖人たちが、マリア様を筆頭に、天使たちと共に、声高らかに主を讃美して、感謝して、永遠に喜びの中に入っているのを見て、教会は母親の眼差しで、信仰を持ち、そして成聖の状態において亡くなった全ての義人の霊魂、しかしまだ浄めが終わっていない煉獄の霊魂たちに、眼差しを注ぎます。

「煉獄で浄めを受けている、清い聖なる霊魂たちが、一刻も早く、その浄めを終わり、天国に行く事ができるように、至福直観を味わう事ができるように。そして最高の喜びに入る、目的を、創造の目的を達する事ができますように。そうする事によって天主にますますの栄光を、御稜威に栄光がありますように」と、教会は私たちに、「煉獄の霊魂たちの為に祈れ」と励ましています。

特にこの今日は、「天国で早く霊魂が生まれる事ができるように、3つのミサを捧げるように」と、「11月を特に死者の月として捧げて、煉獄の霊魂たちの為に祈るように」、また「11月1日から10日は、墓地を訪問する事によって、煉獄の霊魂の為に全贖宥を受ける事ができる」と、特別の計らいをしています。

そこで私たちは今日、2つの事を黙想して、つまり、

⑴この煉獄の霊魂たちの為に、私たちは一体何ができるのか?

⑵そして私たちはまた、この死者の月からどんな事を黙想するべきか?

最後に、

⑶遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴では、煉獄の霊魂たちの為に、一体何ができるのでしょうか?

なぜ、煉獄の霊魂は、罪の償いをしなければならないのでしょうか?

私たちは、罪を犯すと、罪とそれと同時に、それにふさわしい「罰」を受けなければならなくなります。そして例え天主の御憐れみによって罪を赦されたとしても、しかし当然受ける罰は、まだ償わなければなりません。

例えば誰かが、(これは全く自然の事なので、罪とか罰とかいう概念には当てはまらないのですが、まぁ例えて言えば) 誰かが重力に逆らって、物を上に上げたとすると、その上げた事自体は、「まぁ仕方がない、まぁそれは勘弁しよう」とされたとしても、その上に上げられたものは、当然下に落ちなければなりません。元の位置に戻らなければなりません。そのまま、「上げる事は許された、だからそのまま上に止まっている」という事はできません。

それと似たように、もしも私たちが、天主に従うべき秩序に従わずに、その秩序を壊してしまったとしたら、その「壊した」というその行為自体は赦されたとしても、しかしその秩序を回復しなければなりません。その義務が残ります。そして私たちが罪を犯すと、その天主の御稜威に対して逆らった、その秩序を回復する為に、「償い」が残ります。

つまり煉獄の霊魂たちは私たちに、非常に深い、核心的な真理を教えています、「罪を犯すという事は、何よりもまず、私たちは『天主』に対して罪を犯すのだ」という事です。罪を犯す事によって天主は、天主の御稜威は傷付けられます。

もちろん天主は、永遠の昔から永遠の未来に向かって、全く変わる事のない、普遍の変わる事のない、そして永遠最高の幸せの方でありますけれども、しかし天主の当然あるべき秩序が壊された事によって、その回復を要求されます。つまり、天主の「正義」が、私たちにそれを、罪の償いを当然要求します。天主御自身は変化がないのですけれども、天主の正義が私たちに償いを要求して、天主の犯された当然の権利を要求なさいます。私たちはそれを償う義務が生じます。

これがカトリックの教えです。

では一体誰が、この罪を償う事ができるでしょうか?天使たちでしょうか?あるいは人間でしょうか?私たち罪人でしょうか?

私たちがその天主の傷付けられた御稜威を償う事ができる唯一の方法、唯一の可能性、唯一のチャンス、たった一つだけの手段しかありません。それは、天主でありながら私たちの罪の償いの為に人となった、イエズス・キリストです。「イエズス・キリストの流された、いと尊き御血」です。

これ以外、私たちの罪を償う赦しの手段はありません。そしてもしも、私たちがイエズス・キリストのその御血の功徳に繋がっていなければ、私たちの行動はいかなるものも、全く価値がありません。

日本で何か物を買う時には、日本銀行が発行した紙幣でなければ買う事ができません。いくら私たちがその銀行券よりも綺麗なお札を印刷したとしても、私たちが何をしたとしても、それは全くミッキーマウスのお札で、何の価値もありません。偽札です。

イエズス・キリストの御血、イエズス・キリストに繋がっていない事は、生贄は、祈りは、やはり同じように、永遠の救いの為に価値は無いのです。

これこそカトリックの、永遠の教える真理であって、ですからこそ私たちは何とかして、イエズス・キリストと一致していなければなりません。

その一致する手段というのは、どうやったら一致する事ができるでしょうか?
2つあります、2つ必要です。

1つは、「信仰」。イエズス・キリストを救い主として、イエズス・キリストを、私たちの為に人となった天主として、信じる事です。
「永遠の命とはすなわち、真の天主である御身と、あなたが送ったイエズス・キリストを知る事にあります」とイエズス様は仰いました。

信仰の他にもう1つ必要です。それは「愛徳」です、「成聖の恩寵」です、「天主の本性に参与する事」、「成聖の恩寵の中に生きている事」です。
罪を、大罪を犯す事によって、これは失われてしまいます。

しかしこの2つが必要です。煉獄の霊魂たちは、この2つを持っています。

ただ、私たちが罪を償う事ができるのは、この「生きている間だけ」の事なのです。もしもイエズス・キリストを信じ、そして愛において、この地上で償いを果たし終えなければ、その償いは煉獄で果たさなければなりません。煉獄での償いは、この地上よりもはるかに厳しいものです。

もしもこの「愛徳」がなければ、成聖の恩寵がなければ、私たちの償い、私たちの行ないは、価値がありません。永遠の救いの為に価値がありません。

「天国の救いの為の目方、計り」というのと、「私たちが、この地上で目に見える評価の仕方」とは、全く違います。

私たちはこの地上では、「知恵があれば、山を動かすほどの深い信仰があれば、それで良いんじゃないか」とか、あるいは「神学の深い知識があれば、天主の言葉さえも話すような深い知識があれば、それで良いんじゃないか」、「色々なカリスマを持って、死者を復活させたり、あるいは預言の賜物で、将来の事を預言するような事を、あるいは死者を復活させる等のような奇跡を行なえば、良いんじゃないか」、あるいは「私の持っている財産を全て、貧しい人の為に施し、そしてこの例え、殉教をしようとして、信仰の為に私のこの体が焼かれても、そしたら良いんじゃないか」と思うかもしれません。

聖パウロは、「それでは足りない」と言います。「成聖の恩寵がなければ、愛徳がなければ、天主への命に生きていなければ、それは永遠の為に全く虚しい。価値が無い」と。

これは私たちに、非常に大切な真理を教えています。

では一番、イエズス・キリストと一致する最高の手段は何なのでしょうか?イエズス・キリストの御血を受けるべき、最も良い手段は何なのでしょうか?

「イエズス・キリストの、十字架のいけにえの再現」です。つまり、十字架の祈りであり、十字架に一致する事であり、十字架の道を歩む事です。この地上で最高の手段は、「ミサ聖祭」であり、そして私たちの、イエズス・キリストの為になされる償いの犠牲、あるいはイエズス・キリストの御名においてなされる祈り、秘蹟などです。

これ以外には、本当の意味で私たちに、永遠の命の為に、そして煉獄の霊魂たちの為に、役に立つものはありません。

私たちは何という宝を今、手にしている事でしょうか。そしてこの宝を知らない人々は、どれほど残念ながら多くいるでしょうか。この私たちの最も必要な「救霊」という事を忘れて、その他の事に夢中になっている方々がどれほど多いでしょうか。

⑵では第2に、私たちはどのように今日、この死者の記念、全ての死せる信者のこの日に、何を考えなければならないのでしょうか?

私たちも、遂にはその日を迎える、という事です。

私たちは、それが「いつ」かは分かりません。また「どのように」かは分かりません。「どこで」かも分かりません。しかし必ず、皆さん、私も、全て、私たちは全て、ある日、どこかで、ある方法によって、この地上の全てに、さようなら、さらば、別れを告げる日がやって来ます。

そしてその時には2つの、「信仰」と「成聖の恩寵」において、この地上を去らなければなりません。できれば、もしもその時に罪の償いを果たし終えていれば、天国に。しかし償いを果たし終えていなければ、煉獄に行って、罪の償いを果たさなければなりません。

その時に私たちは、「あぁ、もう天国に宝を積む時間は終わった。あっという間の人生だった。」「あぁ、人生で最も大切なのは、イエズス様と一致している事だった。十字架と一致している事だった。」「私たちの最も価値のあるものというものは、この世で全く軽蔑されているものだった」という事を、その時理解し、はっきりと理解する事です。

私たちはその時に、良い死を遂げるようにしなければなりません。泥棒のように、盗人のように突然やって来る、この「死」を準備しなければなりません。

⑶最後に、私たちは一体何を、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?

まず、煉獄の霊魂たちの為に、そして私たちの良い死を迎える為にも、いつもイエズス様と一致する事できますように、信仰と愛徳において一致する事ができますように。

その為には、一番良い手段があります。もちろん、「マリア様の汚れなき御心」です。
マリア様に是非お祈り致しましょう、「今も、臨終の時も、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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今日は、アマゾン・シノドスでの偶像崇拝に対する償いの大小斎の日です

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、アマゾン・シノドスでの偶像崇拝に対する償いの大小斎の日です。
The Society of Saint Pius X calls for a day of penance on Saturday, November 9Following the Synod on the Amazon, the Superior General of the Society of Saint Pius X, Father Davide Pagliarani, invited all priest members, religious brothers or Oblates, seminarians and tertiaries, to observe a day of prayer and reparatory penance, in order to defend the sanctity of the Church.
The Society of Saint Pius X calls for a day of penance on Saturday, November 9The Society of Saint Pius X calls for a day of penance on Saturday, November 9

2019年10月6日は、バチカンでアマゾンのシノドスが始まった日ですが、同じ、10月6日に、シスター笹川に守護の天使がお現われになって、「悔い改めのロザリオ」と、幼な子の様に犠牲を捧げる事をお求めになられました。
毎日「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げましょう。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたアヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主の先駆者聖ヨハネも、私たちの主イエズス・キリストも、同じ言葉で公生活を始めました。Poenitentiamagite.Appropinquavitenimregnumcaelorum.悔い改めよ・悔悛せよ・償いせよ、天の国は近づいた。悔悛しなければ、私たちは皆、滅んでしまいます。インターネット上の記事によると、秋田の聖母のシスター笹川の守護の天使は、シスター笹川に「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げることを招きました。私たちも、ファチマの聖母が子ども達に伝えたように、償いと祈りを、毎日のロザリオを捧げましょう。ファチマの子ども達ののように、単純に、寛大に。特に、フランシスコ教皇様の為に祈りましょう。御参考までに、シスター笹川への守護...毎日「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げましょう。
毎日「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げましょう。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた毎日「悔い改めのロザリオ」を唱え、幼子のように犠牲を捧げましょう。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

秋田のマリア様は、カトリック教会の危機に対する警告を、カトリックの人口がこんなに数少ない日本でメッセージとして呼びかけて下さいました。

自分自身の罪の償いと、この世の罪の償いとして、悔い改めのロザリオと、ファチマの3人の子供たちのような、単純で寛大な心で犠牲をお捧げいたしましょう。

ファチマの聖母よ、我らを憐れみ給え。
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ロザリオの栄えの玄義 第1玄義黙想 主の復活 私はどれほど自分が「復活」「永遠の命の為に生きている」という目的を忘れて主を裏切った事か

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栄えの玄義 第1玄義黙想
2019年11月2日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『栄えの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて信仰の徳を乞い願わん。』

御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心の前で、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、初土の信心の一環として、15分間、ロザリオの玄義の一つを黙想致しましょう。

今日は、諸聖人の祝日と煉獄の霊魂の為にミサを捧げましたので、「イエズス様の御復活」を黙想する事を提案致します。

「主において死する者は、幸いなるかな。」
「主の義の為に迫害を受ける者は、幸いなるかな。」
「天の国は彼らのものである。その報いは天において、とてつもなく大きい。」

私たちの主イエズス・キリストと同じ栄光、復活、至福の喜び。これを私たちに下さる為に、イエズス様はまず初穂として、復活されました。もはや悲しみも、苦しみも、死も、病もなく、あるものは完全な無限の喜び、満足、楽しみ。天主と共に、三位一体のまどいの中での至福の喜び。

最後のこの世の終わりに、ラッパが鳴らされる時、あっという間に私たちは復活します。義人は永遠の喜びの為に、イエズス・キリストと同じ栄光体になって。そして呪われた者たちは、罰を受ける為に、醜い肉体を、永遠の死を味わう為に、肉体と共によみがえります。

善業を行なった道具であるこの肉体も、もう一度霊魂と合体して、報いを受け、あるいは罰を受け、イエズス様の御復活は、私たちの復活の模範となるべき、私たちに与えられるべきものとして、まず復活されました。私たちの信仰を、希望を、愛を、いや増さんが為に。

そしてこの復活されたイエズス様は、私たちの目の前に生きて、御聖体の形において、真に在し給います。

マリア様、御身は十字架の下に佇み、全てが終わってしまったように思われたとしても、ひたすらイエズス様の御復活を、ただ一人信じておられました。信仰の火をそのまま保ち続けておられました。

私はどれほど、自分が「復活する」という、「永遠の命の為に生きている」という目的を忘れて、主を裏切った事でしょうか。その目的に適わない行ない、言葉、考え、あたかもこの地上だけが目的であるかのように、生活してしまいました。

目も見た事のない、耳も聞いた事のない、人間の本性をはるかに越える特別の御恵みによって与えられる復活、天国の至福、至福直観、この目的を、私たちの復活を、決して忘れる事がないように、助けて下さい。

マリア様の汚れなき御心は、天国に至る道であり、天主に至る道であり、避難所であり、汚れなき御心の信心をする者は、マリア様によって特別に、天主の玉座に備えられた花のように飾られる、と約束されました。

聖母の汚れなき御心、いつも、永遠の目的を復活を忘れる事がないように、助けて下さい。

諸聖人の元后、私たちのこの地上にいる全ての友人、家族、隣人を、天国に導いて下さい。


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天主の求める「正義」というのは、「私たちが隣人を許す事」にある、これこそが天主の求める正義であって、本当の平和だ

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2019年11月3日(主日)聖霊降臨後第21主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年11月3日、聖霊降臨後第21主日のミサをしております。

今日このミサは、アマゾンのシノドスにおいてなされた偶像崇拝の罪の償いとして、特別に捧げられております。

聖ピオ十世会では11月10日にそれを行いますが、私たちは一週間早めて、このミサをその意向で捧げています。

同じく聖ピオ十世会では一週間後に、諸聖人の連祷をこの罪の償いの為に捧げます。
私たちはこの初主日の今日のミサの直後に、御聖体降福式で、諸聖人の連祷を聖母の連祷の代わりに唱えて、罪の償いとして捧げたいと思っています。どうぞ皆さんご参加下さい。

今日午後の3時半頃から、晩課がここである予定です。どうぞいらして下さい。

「天の父も、お前たちに同じようにするだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちは、聖マテオの福音の中の非常に美しい、私も最も好きな箇所の一つを読みました。私たちの最も好きな箇所を読みました。「罪の赦し」という題材のものです。

そこで今日は、11月1日には、天の諸聖人たちが栄光に入ったその姿を見て、そして2日には、煉獄で苦しむ聖なる霊魂たちの姿を見て、苦しみの教会を見て、最後に、地上の教会、戦闘の教会私たちが一体どうしたら、この教会が私たちに伝えようとする事を理解する事ができるか?を黙想する事に致しましょう。

特にちょうどこの11月1日・2日・3日と、非常に論理的に私たちに道を、道標を教えているように思われます。そこでこの3つの、11月1日・2日・3日の主題を簡単に黙想致しましょう。

【その一】
諸聖人の祝日は私たちに、一体何の為にこの地上に私たちが生まれているのか?何でここに生活しているのか?という究極の目的を教えてくれます。

私たちはここにただ、この地上で美味しい物を食べたり、あるいは観光に行ったりする為だけに生きているのではなくて、究極の目的の為に、ある目的の為に、生を受けました。この地上に創造されて今、生きています。

一体私たちの究極の目的は何なのか?それが諸聖人の大祝日が、私たちにはっきりと示しています。

私たちはここに、偶然にいるのではなくて、「天国の永遠の命を享受する為」に、「永遠の天主の命を私たちも頂く為」に、「それに参与する為」に生まれてきました。

もしも私たちがこの大宇宙を、美しい大自然を頂いて、創造を受けて、そして私たちもその中に生きているとしたら、これは天主が私たちに、「この大自然を使って、道具として使って、天国に行くように」とされたからです。

もしもイエズス様が、天主の御言葉が人となって、私たちと同じ生活をされて、人間として生活をされて、そして十字架で血を流された、いけにえとなられたとしたら、これも罪の償いと、そして私たちを天国に導く為です。私たちに永遠の命を与える為です。たった一つの目的しかありません。「永遠の命」です。

つい最近、ある方から質問を受けました、「教皇様の来日の為に記事を書かなければならないけれども、神父様、日本にとって一番重要なイシューというのは何だと思いますか?」

私はこう答えたいと思います、「今、日本で、そして日本に住むすべての人々が最も大切な、重要なイシューというのは、『永遠の命』のものである。」

私たちが一体、この死の後に永遠の喜びを受けるのか、受けないか、天国に行けるか、行けないか、あるいは私たちが創造の目的を達成する事ができるか、できないか、永遠の喜びに入るか、入らないか、それがそれこそが最も大切な大事件であって、最も大切なイシューです。

東京でオリンピックのマラソンをするかしないかとか、あるいはリニアモーターカーが静岡県を通るか通らないか、全くそれらは手段でしかありません。この地上の全てのものは、被造物は、私たちが天国に行く為の手段としてのみ、与えられました。目的ではありません。

天国の今いる諸聖人たちは、この地上での全ての生活、境遇、誘惑、十字架、困難を、「手段」として、それをトランポリンとして、天国に行かれました。

【その二】
では私たちはどうやったら、どのような道を通ったら、その天国に行く事ができるのでしょうか?

道はたった一つしかありません。「十字架の道」です。私たちが天国に行く為には、罪を赦されなければなりません。私たちは全く罪を赦されて、清く浄められなければなりません。なぜかというと「罪」というのは、「天主の反対」であるからです。天主に「No!」と言う事であるからです。

罪の赦しの為の唯一の手段というのは、「イエズス・キリストが流された御血」です。

聖パウロは言います、「流血がなければ、罪の赦しはない」と。天主の御血が、イエズス・キリストの御血が一滴でも流されなければ、私たちには罪の赦しがありません。私たちにとってイエズス様と一致する事、イエズス・キリストの御血の功徳を受ける事が、天国への唯一の道です。それ以外のあらゆるものは、私たちはもしもそれが有効である事を、役に立つ事を望みますけれども、残念ながら、本当の真理は、本当の事は、それだけです。

なぜかというと、イエズス・キリスト様が、この全世界を創った本当の天主であって、私たちの為に人となって、罪の償いとして捧げられた唯一の、効果のある、力のあるいけにえであるからです。これ以外には道がないからです。

煉獄の霊魂たちは私たちに、非常に強いメッセージを送っています。一体なぜ煉獄の霊魂たちが今、煉獄にいるかというと、「罪の償い」をしています。なぜかというと、たとえ罪を赦されたとしても、罪によって当然生じる償いは残るからです。

でも「罪の償い」というのは、「天主」に対してまずなされなければなりません。なぜかというと、罪というのはまず第一に、そして最も、天主を犯すものであるからです。

知性のない、自由意志のないものは、そのまま自然の法則に従っています。物は自然に重力に従って落ちますし、火は法則に従って燃えます。花は法則に従って、自然の法則に従って咲きますが、これは天主がそのように命じて、自然は、大自然はそれに従う義務があるからです。

人間は天主の法則に教えられた掟に、それをよく知り、自由意志を以て、それに従う義務があります。もしもそれに、知りながら、自由意志を以て拒否するならば、私たちはそれの当然の罰を受けなければなりません。償いをしなければなりません。

言ってみれば例えば、これは必ずしも悪ではないのですけれども、非常に簡単な例えで言うと、もしも何かが重力に逆らって上げられたとしますが、たとえその上げたという事が許されたとしても、しかし天主の秩序は、そのそれがまた元に戻る事を要求します。それと似たように、もしも知性的な被造物が天主に逆らった時に、その壊された秩序を、私たちは何とかして償わなければなりません。


【その三】
では私たちは、その償いはどうしたら良いのでしょうか?

「イエズス・キリストの御血」によるしかありません。ところで、私たちがイエズス様の御血の功徳を得る為に、そしてこのそれを有効に得る為に、天主は非常に深い、愛の唯一の条件を与えました、「もしも私たちが赦されるならば、隣人をも許さなければならない」と。

その今日の、第3点のテーマがそれです。

第1は、私たちは、天国に行く為に生きている。

第2は、「罪」というのはまず、「天主」に対して犯される、天主に対して極めて大きな不正がなされる。

第3、私たちがその天主からの赦しを得る為に、罪の償いをする為に、隣人をも許さなければならない。こうして初めて、私たちは当然天主からの赦しを受ける事ができる。

一体なぜなのでしょうか?

なぜかというと、私たちが天主に対して犯したその罪の負債は、あまりにも巨大なものであるからです。私たちが到底支払い切る事ができないものであるからです。例えば今日の福音が、その私たちがどれほどの負債があるか、という事を理解する事ができる為に、今日の福音が例え話を出しています。

1万タレント。1タレントというのは、人が一生働いてようやく築き上げる財産だそうです。1万タレント。1万回生きて、一生懸命労働して、ようやく貯める事ができる事ができないかの額だそうです。

100デナリオ。デナリオというのは、人の1日の労働の給料だそうです。100日働いて得る事ができる。

1万回生きて稼いだお金を許された男が、100日分のお金を「返せ!」と、許さなかったという話です。

しかし本当の事を言うと、私たちが天主に対する罪の負債というのは、それよりももっと無限の差があります。

今日、私たちの主は、「主の祈り」の中でも同じような事を教えています、「もしも祈る時には、こう言いなさい、『我らが人に許す如く、我らの罪を赦し給え。』もしも私たちが許さないならば、私たちも赦されない。」

これは現代の考えと非常に、現代の人は違ったように言うかもしれません、「罪というのは、天主ではなくて人間を傷付けるものであって、人間と人間のものなので、天主は関係ない。だから正義と平和というのは、権利を要求するものであって、人間と人間との正義を回復しなければならない。」

天主の求める「正義」というのは、「私たちが隣人を許す事」にあります。これこそが天主の求める正義であって、本当の平和です。

ある方が私にポロリとこう言ったのを覚えています、「私は、日本の殉教者を素晴らしいと思う。殉教という栄光に憧れる。しかしでも、『人を許す』という事は、殉教よりも大変だと思う。」

ところで、日本の殉教者たちは、自分たちを殺して、迫害して、全財産を奪って、そして命さえも奪って、国外へ追放したような人々を、喜んで許して殉教していった、本当に素晴らしいと思います。

これこそが、イエズス様が教えた精神であります。なぜかというと、私たちは天国の為に生きているからです。この世はあまりにも儚いものであって、ほんのあっという間に過ぎてしまうものであるからです。この地上の事から天に目を上げるようにと招いているからです。

【最後に】
愛する兄弟の皆さん、11月は死者の月です。私たちもいつ天に召されるか、その事を黙想致しましょう。そして私たちはイエズス様から、「罪の赦し」という大きな御恵みを頂いたので、それを全うする為にも、隣人を喜んで許してあげる事に致しましょう。ここにこそ、真のカトリックの精神があります。ここにこそ、キリストの弟子の精神があります。そしてここにこそ、最も愛の深い表明があります。これほど美しい事があるでしょうか。

私たちにもこの精神が与えられますように、特にマリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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聖ピオ十世会日本は恒例の秋田への巡礼にご招待申し上げます。2020年5月3日(日)夕方に現地到着~5月6日(水)お昼まで

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年聖ピオ十世会日本は恒例の秋田への巡礼を計画しております。
愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にご招待申し上げます。

【日付】
2020年5月3日(日)夕方に現地到着~5月6日(水)お昼まで(一部参加だけも可能です) 

巡礼は5月4日(月)の早朝のミサから始まります。
ご宿泊は、5月3日(日)からです。(チェックインは15:00から、夕食付きです)
5月6日(水)は早朝のミサの後、霊的講話を予定。午後1時ごろに巡礼は終了いたします。
2020年の秋田巡礼は、秋田の聖母のメッセージにもある「祈りと償い」のため、教皇・司教・司祭・修道者たちのために祈るため、また、聖ピオ十世会創立50周年のお恵みを感謝し、聖ピオ十世会の日本での創立のお恵みを祈り求めるために捧げたいと思っております。

2020年の巡礼の期間は、例年よりも短いために、最終の5月6日(水)もお昼まで巡礼が続きます。

ご参加については、こちら【メッセージを送る】にご連絡ください。

詳しくは、「聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITA」をご覧ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


12月7日(土)午後6時から東京でミサがありますVigil Prayer for All Nascent Human Life 命のための祈りの集い

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日は、兄弟姉妹の皆様のしもべは、マニラにて、アマゾン・シノドスでの偶像崇拝の償いのミサと諸聖人の連祷を捧げました。

ドモルネ神父様は、ソウルと大阪とで同じ償いのミサと償いの連祷を捧げました。大阪では、主日の夕方には32名がミサに参加されました!

12月7日(土)には、予定通り、大阪で聖伝のミサが午前10時半から行われます。

それに付け加えて、同日の夕方、つまり12月7日(土)午後6時から東京でも、ミサ(読誦ミサ:聖母の汚れなき御心の随意ミサ)があります。

これは、まだ生まれていない赤ちゃんたちの命を守るために、ベネディクト十六世の提案した(Veillée de prière pour toute vie naissante; Vigil Prayer for All Nascent Human Life)「命のための祈りの集い」です。

多くの愛する兄弟姉妹の皆様のミサへのご参加を期待しております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を読んで:マネジメントの問題なのだろうか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を頂きました。これを読んで、私は色々なことを考えました。そこで、この書が切っ掛けとして、今、カトリック教会に何が起こっているのか、ということの考察を書こうと思います。

著者の野村よし氏は、司教たちの反論を期待してこの本を書かれておられ、「信徒は、(…)教会の利害に関することがらについて自分の意見を表明する権利を有し、時にはそうする義務がある」(教会憲章)に基づいて発言されています。私の理解が正しければ、著者は教会の利益のためにこの著作をなしたので、多くの議論を期待されておられ、私にも一言、書くことが許されていると信じています。

野村氏の論点は、明確です。
●ある「目的」に向かうには、それを実現させるために最善の「手段」を選ぶべきである。
●司教団は、「福音宣教」を至上の目的としている。
●しかし、宣教は停滞している。
●しかも、司教団は、宣教のために害になるような発言を繰り返していた。
●しかも、ある目的を立てて、それが達成できなかった理由を検討した痕跡はない。
●従って、私たちは宣教沈滞の理由を分析すべきである。
●宣教という目的に役に立つことをしてこそ「誠実」である。宣教に役に立たないことをいくら立派にしても、それは「誠実」ではない。

野村氏の分析によれば、司教団は、日本人の「福音宣教」のために絶対必要条件である「信頼されること」よりも、特定の政治的主張・社会的言動(日本共産党のそれ)を繰り返している。従って「現在の、日本のカトリック教会の沈滞は、司教団の言動に第一の責任があると思う。」(52ページ)

【本当に司教様たちは、目的を追求するために必要な手段を取らなかったのか?】

私のまず思うことは、本当に司教団は誤っていたのか?です。

ピーター・ドラッカーの『マネジメント』然り、聖イグナチオ・ロヨラの『霊操』然り、グラント・ウィギンズの『理解をもたらすカリキュラム設計 UbD』然り、目的のために最善の手段を選ぶ、ということを司教団が知らないはずがない、と思うからです。

司教団は、自分の信じている「福音宣教」を目的に、それを目指して「誠実」に行動していたと、私は信じています。

司教団は何を目的として政治発言をしてきたのでしょうか?「福音宣教」です。自分たちの理解するその「福音宣教」のために、活動していたと信じます。

ところで目的となる「福音宣教」とは一体何なのでしょうか?司教団の理解しているところと、私たちの理解とは一致しているのでしょうか?

司教団が至上の目的としているところの「福音宣教」とは何でしょうか?
私たちが理解している「福音宣教」とは何でしょうか?

その二つの理解が、もしも違っているなら、議論はかみ合うことはあり得ません。

そこで「福音宣教」の意味を良く定義する必要があります。

【司教団は、別の意味の「福音宣教」を目指している】

私がこれから理由を出して提示したいことは、司教団は「福音宣教」を至上の目的としているが、「福音宣教」の内容が、私たちが想定しているようなものではなく、別のものに置き換えられている、ということです。私はこのことについて日本の司教団が全く同意してくれると信じています。

今までの福音宣教ではなく、新しい概念を持った「福音宣教」に変わった、ということです。

言い換えると、「司教団は、「福音宣教」を至上の目的としている」というこの大前提が、私たちの理解と、司教団との理解で異なっているということです。

司教団は、司教団なりに新しい「福音宣教」の目的に向かって、最も効果的な手段と思われる行動をしており、それは今までの理解による福音宣教の邪魔になっている、と思われます。

つまり、私たちにとって福音宣教とは、私たちの永遠の救霊のために、天国での永遠の生命のために、天主から罪を赦され、聖寵の状態において生活し、功徳を積み、聖徳を実行するために、イエズス・キリストの啓示された真理の光を伝えることです。水と霊によって生まれなければ天の国に入れないのですから、洗礼の秘蹟を多くの方々が受け、頻繁に告解の秘蹟を受けるように、罪を避けて十字架の生活を送るように、進めることです。ただし、信仰は超自然の恵みなので、祈りと犠牲とで始めて受けることが出来ます。

しかし、新しい「福音宣教」は、「社会と文化を変革する」ことであって、「社会の福音化」です。「影響を社会に及ぼす」ことが第一の目的です。そのために、手段として「もっと多数の仲間(ママ)が必要」(1982年3月「洗礼の恵みを一人でも多くの友に伝えよう」)とされ、永遠の救霊や天国や地獄や煉獄などということは、全く眼中に置かれなくなってしまっています。

ですから、いくら司教様が「福音宣教!福音宣教!」と叫んでも、その向かっているところが違っているのです。私たちは天を指していると思っていますが、しかし司教団はこの地上を指して叫んでいるからです。

【新しい「福音宣教」という方針の変化は何故起こったのか?】

では、一体、何故「福音宣教」は新しい方針と方向付けを持つようになったのでしょうか? これは、非常にはっきりしています。第二バチカン公会議によるものです。

個々の司祭が、あるいは司教が、今までの福音宣教を目指していようと、第二バチカン公会議によって、それをさらに上まわる権威で新しい方針が与えられたのです。

司教たちは、この新しい方針に忠実であり、それに従ったまでであり、実は「マネジメントから見た司教団の誤り」というよりは、私の意見によればマネジメントから見れば司教団は誤っていなかった、と思います。

ヨーロッパやアメリカにおけるカトリック教会に起こった、信徒の減少、教勢の衰退をみると、もしかしたら、日本ではむしろ、マネジメントだけから見たら、日本の司教団は、それでもうまくやっている方なのかもしれません。

問題は、マネジメントではなく、第二バチカン公会議の新しい教えであり、「カトリック信仰から見た第二バチカン公会議の誤り」こそが、最も深い問題の核心であると思います。

何故なら、ミサ聖祭が変わってしまったのも、司教が共産党のような政治発言をするようになったのも、日本だけのことではなく、韓国でも、フィリピンでも、南米でも同様だからです。

たとえて言えば、コカ・コーラの本社が、コカ・コーラの代わりにコケ・コーラを世界中で売り出したのだけれど、ヨーロッパやアメリカでは消費者がまずいと言って買わなくなってしまった、あまりにも失敗のために過去のコカ・コーラが復活しだしている。

しかし、日本ではコケ・コーラをコカ・コーラの名前で売り続けることにそれなりに成功している、と。日本では、人々はそれでもまずいコケ・コーラを我慢して買って飲んでいる、と。

もしもこの喩え話しをさらに使うことが許されるならば、もっと続けましょう。たとえば、コケ・コーラは見た目は真っ黒でコカ・コーラと同じに見えます。エコロジーこそがもっとも大切だと主張しだして、苔(こけ)の緑を大切にしようとするところから、コケ・コーラの味はコケのような臭いがして、しかも真っ赤な飲料である共産・コーラと同じような味がします。消費者らは、コカ・コーラの昔の味がよかったとコカ・コーラ・ボトラーズに懇願しても、インカルチュアレーションとアジョルナメントの名前でコケ・コーラを消費者に押しつけています。

コカ・コーラのファンたちに対しては、過去のコカ・コーラは飲んではいけない、「違法だ」と、禁止します。対外的には、どのコーラも皆、同じで良いものだ、コークで一つになろう(エキュメニズム)、と主張し、エコロジーを政府に押しつけることを企業のミッションと考えています。それでも、日本支社は、コケ・コーラの販売を何とか続けている。云々。

以上はあくまでもたとえで、現実のことではありません。実在と同じ名前が出てきたとしても、それとは全く関係の無いことです。

【第二バチカン公会議の新しい教え:新しい人間中心主義】

今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だと私は考えます。

(つづく)


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「めでたし」の祈りについて: エティエンヌ・ドモルネ神父様お説教(大阪) 聖霊降臨後第二十二の主日

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「めでたし」の祈りについての説教
聖ピオ十世会 エティエンヌ・ドモルネ神父

はじめに

私たちカトリック信者は、非常に頻繁に「めでたし」の祈りを唱えます。これは大変素晴らしい祈りですが、これを頻繁に繰り返しますから、私たちがこの祈りをただ機械的に唱えるならば、私たちの主がユダヤ人に対して「この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている」(マテオ15章8節)と非難なさったことが私たちにも当てはまってしまうかもしれません。「めでたし」を唱えるときに私たちの信心を保つ助けとなるように、私は、霊性の大家であるシトー会士ジェローム神父(1907-1985年)のコメントをもとにして、この祈りの意味についてお話ししようと思います。


第一部:大天使ガブリエルのマリアへの言葉

この祈りの第一部は、大天使ガブリエルが御告げの日に使った言葉で作られています。「めでたし、マリア」。私たちは、この童貞聖マリアに対する祈りを、マリアへのあいさつで始めます。このあいさつのあと、私たちが一人で祈る場合は、わずかの間を置くべきです[日本語では、『聖寵充ち満てるマリア』のあと]。それは、自分自身がマリアに注意を向ける時間と、マリアが私たちに注意を向けてくださる時間を取るためです。実際、この祈りには、二人の人物がかかわっています。マリアと私です。しかし、私たちが誰かに会って、その人と話をしたいと思う場合は、私たちは何をしますか? 私たちはその人にあいさつして、それから話を続ける前に、その人が私たちに注意を向けてくれるのを待ちます。祝せられし童貞に対しても同じです。

「聖寵充ち満てる」。これについて、聖ベルナルドは言います。「天主はマリアに、その全善の充満をお置きになった。そういう訳で、私たちが受けるすべての恩寵は、マリアの御手を通して私たちにやって来るのである」。マリアの恩寵の充満とは、あらゆる霊的な豊かさのみならず、あらゆる希望と喜びと力が祝されし童貞にあるということを意味しています。集会書にある次の一節は、童貞聖マリアに当てはめられています。「私は、清い愛、恐れの母であり、知識、尊い希望の母である。私には、道、真理の恩寵のすべてがあり、私には、いのち、聖徳の希望のすべてがある」(集会書24章24節[18節])。私たちがマリアに祈る場合、私たちはマリアの恩寵の充満に触れるのであり、その恩寵の充満から私たちが必要とするどんな恩寵も受けることができるのです。

「主御身と共にまします」。この言葉の意味は、相互関係によって「御身主と共にまします」ともなります。主がマリアと共におられるということは、マリアも主と共におられるということです。ですから、私たちがマリアと共にいるとき、私たちは必ずイエズスと共にいるのであり、マリアは[私たちとイエズスとを]つなぐきずななのです! イエズスのところに行くのにあたかもマリアが障害物になるかのごとく、祝されし童貞を自分たちの祈りから排除したがっているプロテスタントの教えが、いかに馬鹿げていて、聖書に反しているかを見てください! 私たちの天主なる主と一致する最も良い方法は、まさに童貞聖マリアとの一致に留まることなのです。


第二部:聖エリザベトのマリアへの言葉

この簡潔ながら意味の深い大天使ガブリエルの言葉のあと、私たちは、聖エリザベトが聖霊の霊感を受けて述べた言葉「御身は女のうちにて祝せられ」を使って、私たちの祈りを続けます。すべての人間およびすべての天使の中で、童貞聖マリアは、天主によって特別に祝福され、愛されてきました。この特別に愛されたという理由によって、天主はマリアを、すべてに超える尊厳の状態で創造されました。しかし具体的には、私たちは、マリアは女のうちにて祝せられた、と言います。マリアは本当の女性です。では、女性の主な特徴とは何でしょうか? 家庭において家族を愛する存在であること、すべてを見守っていること、人々をくつろがせること、そしてそのお返しとしてただ自分が奉仕したり愛されたりする権利のみを求めることです。マリアは他の人と異なることなく、すべての女性を超えており、理解しがたいところのない、素晴らしい女性です。マリアは、私たちを永遠の家に到達させるため、私たちを優しく愛してくださり、私たち一人一人に完璧な思いやりを向けてくださっているのです。そのお返しに、マリアはただ、私たちから子としての愛を求めておられるだけなのです。

「御胎内の[実、]御子イエズスも祝せられ給う」。子どもというものは、通常はその母親にとってのすべてです。母親は、子どもへの愛のためなら、すべてを、夫のことさえも、忘れることができます。私たちは、この母親の子どもだけを思いやる気持ちを理解することができます。しかしマリアにおいては、全く違っています。マリアのイエズスに対する母性は、私たちに対する母性の土台です。マリアの母としての思いやりは、イエズスから私たち全員に拡げられました。実際、十字架上において、私たちの主は、御母と聖ヨハネに対する次の言葉によって、驚くべき交換を実現されました。「女よ、汝の子を見よ」「汝の母を見よ」。この瞬間、私たちはマリアの子、御胎内の実となり、今やイエズスが祝せられているのみならず、私たちも、自分がマリアの子であると認める限りにおいて、祝せられているのです。


第三部:教会のマリアへの言葉

さて、マリアに対する大天使ガブリエルと聖エリザベトのあいさつと讃美を繰り返したのち、教会は「めでたし」の祈りを続け、祝せられし童貞のすべての特権の土台である偉大なる称号を挙げます。「天主の御母聖マリア」。あらゆるマリア学、すなわち祝せられし童貞の特権についての学問は、「天主の御母」というこの称号のうちにあります。天主がマリアを原罪なしに宿らせ給い、いかなる自罪も免れさせ給い、イエズスのご誕生の前もご誕生のときもご誕生の後も童貞のまま保ち給い、贖いのわざにおいて私たちの主イエズスと密接な関係を持たせ給い、死による腐敗を免れさせ給い、天国へ昇天させ給い、今やすべての恩寵を与える者とさせ給うたのは、聖母がこの天主の尊厳ある御母となられることになっていたためです。天主の御母であるということによって、マリアは天主との境目にまで達しておられます。マリアより天主に近い者は誰もいません。

皆さんお分かりのように、ここまでの「めでたし」の祈りにおいて、私たちは祝せられし童貞への賛辞を続けて言い、その偉大なる力の理由を述べました。主は常にマリアと共にまします。マリアは女のうちにて祝せられ給う。救い主なるイエズスはマリアの子にまします。マリアは天主の御母にまします。これらの称号のゆえに、マリアは私たちにどのような恩寵も必ず取り成すことがおできになります。ですから、願いを聞いていただけるという完全な信頼をもって、私たちはけんそんなお願いをマリアにお示しすることができます。「罪人なるわれらのために祈り給え」。ここで、私たちは驚くかもしれません。この私たちのお願いは、少し短すぎ、単純すぎるのではないかと! 例えば、長い祈りを唱えるのが好きなカリスマ運動の人々と比べてみましょう。本当のところ、このマリアへの単純な祈り「われらのために祈り給え」には、すべてが含まれているのです。実際、祝せられし童貞が私たちのために祈ってくださるとき、それは、マリアが天主のご意志を礼拝し、マリアがお願いになるだけでイエズスがお与えになることを既に予定なさっていた恩寵を与えてくださるよう、イエズスの功徳によって、マリアが天主にお願いされる、という意味なのです。マリアが私たちのために祈ってくださるとき、マリアは常に私たちのために最も良いことお願いし、取り成してくださっているのです。ですから、こういう訳で、「われらのために祈り給え」と唱えるだけで十分なのです。私たちに必要なものはすべて、これに含まれているのです。

「今も[われらのために祈り給え]」。ここで再び、皆さんがロザリオを一人で祈るとき、少し間を置きましょう。なぜなら、祝せられし童貞は、皆さんが今、天主をお喜ばせするのに必要な、信仰・希望・愛において成長するのに必要な、義務を十分に果たすのに必要な、あれやこれやの誘惑に抵抗するのに必要な、あれやこれやの試練に勇敢に立ち向かうのに必要な、すべての恩寵を、皆さんのために獲得しようとして、皆さんのために今祈ってくださっているのですから。皆さんは、まさにこの瞬間、マリアの母としての思いやりとご保護のもとにあるのです。ですから、急ぎすぎないようにして続けてください。

「臨終のときも」。私たちは、何度も何度も、童貞聖マリアに良き死の恩寵を、すなわち成聖の恩寵の状態で死ぬことを、お願いしています。この恩寵こそが、私たちの一生のすべての功徳を意味あるものにする恩寵、私たちに対する悪魔の敗北を保証する恩寵、私たちに対して永遠のいのちを開いてくれる恩寵です。これは、私たちの全存在に関して最も重要な恩寵です。誰であっても、たとえ最も偉大な聖人であったとしても、この恩寵を得る権利は持っていません。これは天主からの純粋な賜物なのです。では、この恩寵を手に入れるのを確実にするために、私たちに何ができるでしょうか? 天主の御母にして私たちの母であるお方にお願いすることに勝る方法はありません。ですから、ここ地上で私たちが生きている間、私たちがマリアの近くに留まるならば、私たちの臨終のとき、つまり私たちの存在に決定的に重要なときに、マリアが私たちを決してお見捨てになることはないということを私たちは確信しなければなりません。

ジェローム神父はマリアのご保護への信頼を次のように表現しています。「この世でのわが長き旅路におけるわが母にして、わが最後の息のときのわが母よ、願わくは、この短き瞬間に御身の外套のふちでわれを隠し給い、そののちわれが、扉を確実に通過し、突然に現れいでたとき、御身がわが笑いを、母の思いやりによってすべてを成就したがゆえに笑いに笑う子としての笑いを、聞き給わんことを」。


結論

この「めでたし」の祈りは、その言葉においてはごく単純ですが、その意味においては非常に深く、非常に力強いものです。「めでたし」の祈りを繰り返すことに、特にロザリオの祈りにおいて、決して飽きることのないようにしましょう。しかし、私たちの心に飽きが襲ってくると感じるときは、「めでたし」の祈りの一つ一つの文の意味を黙想しましょう。そうすれば、私たちが自分の信心をよみがえらせ、自分の祈りを真の祈り、つまり、現実で、生きていて、私たちのことを深く思ってくださるお方である童貞聖マリアとの、真実で、確信に満ちた、愛すべき会話とする助けとなるでしょう。

「死」とは何なのか?一体、死によって何がどうなるのか?死とどう向き合うか?死を避ける事ができるのか?

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2018年11月2日(初金)全ての死せる信徒の記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月2日、死せる信者の記念のミサを行なっています。
このミサの後に教会の習慣に従って赦祷式があります。
今日は同時に初金曜日でもあるので、赦祷式の後に聖時間を行ないましょう。

今日は死者の記念なので、私たちは死について黙想を致しましょう。

⑴一体「死」とは何なのか?一体、死によって何が終わって、どうなるのか?

⑵私たちは死についてどのように対面しなければ、死を取り扱わなければならないのか?私たちはこれを避ける事ができるのか?

⑶そして最後に、遷善の決心を立てましょう。

⑴では、「死」とは一体何なのでしょうか?

公教要理によると、「死というのは、私たちの肉体と霊魂が分離する事」です。

霊魂は、滅亡する事なく、不滅で、永遠に残ります。しかし肉体は腐敗を開始します。死というのはですから、私たちが私たちの霊魂が、この地上から「さらば」と飛び立って行く、その事です。

今まで生きている間、私たちはどれほど楽をしよう、美味しいものを食べよう、綺麗なもので身を飾ろう、健康であろう、名声を得よう、楽な簡単な生活をしよう、面白おかしく、他の人から良く思われて、名誉もあって、権力を持って、お金も貯めて、財産も貯めて、大きな土地を持って、家も建てて、自分の下にたくさんの召使いを抱えて、という事にあくせくしてきました。

そして例えほんのちょっとの利益の為なら、そのたった何円の為ならば、汗水垂らして、そして夜も寝ずに、どんな辛い事も耐え忍んで、「何か利益がないか」「何かこの財産を得る事ができないか」「何か楽をする事ができないか」としてきました。

「良いお医者さんがいる」と言えば私たちはそこまで行き、何㎞の旅もして、そして「良い、美味しい食べ物がある」と聞けば、その噂に従って地の果てまでも行き、外国旅行をして「こんな所も見てきた」と、自慢話もしてきました。

しかし、今までやってきたそのような全てに、「さらば」という日が、それが死の時です。もはやその時には、私たちの頭は頭痛がして、体は冷たくなり、手も足も麻痺して、感覚はなくなり、目も見えなく薄暗くなり、息をするのも苦しい、咳は出る、熱が出る、体は動かない、痛い、苦しい、その時に、「さぁ宝くじが当たりましたよ。」「さぁ皆があなたの事をこう褒めていますよ、こんなことを言っていますよ。」「さぁ、さぁ」と言ったところで、それが私たちにとって何の利益になるでしょうか。

これからそういうものに「さらば」と言って、この地上を出て行かなければならない時に、100万坪の土地も、何件もの高層ビルも、マンションも、ロールス・ロイスも、美味いお蕎麦も食べ物も、あるいは人が何と言おうと、「あぁ、今度は社長になりましたね。」「理事長になりましたね。」「あぁ、総理大臣だったんですか。」それらも、この地上を去ろうとしている時に、一体私たちにどんな価値があるのでしょうか。

その時に、本当に私たちにとって価値があるのは何なのでしょうか?

私たちは、この地上の事を得ようと一生懸命になるがあまり、どれほど天主の掟をないがしろにしてきた事でしょうか。その私たちの利益を得る為に、嘘はついた、盗みはした、人には意地悪をした、損害をかけた。しかしそれらが一体、永遠の為に何の役に立ったのでしょうか?今、天主の前に死を迎えて、これからそれらに「さらば」という時に、一体それらがどのような価値を持つのでしょうか?

その時に、祈りに費やした時間、イエズス様と共に過ごした時間、イエズス様の為に捧げた良い業、苦しみ、イエズス様の苦しみに同情して流したその熱い涙、マリア様に捧げた清い祈り、ミサに与ったその時間、黙想に費やしたその15分は、「あぁ、それをやっていて良かった。あぁ、何でもっとそういう時間の為に、その為に時間を費やさなかったのか?」

「何であの時にYouTubeを見なければならなかったのか?」
「何の為に、下らない事に神経を費やし、『あぁ、あそこのポイントカードが、あそこのお店で買っておけば何ポイント貯まったのに!』とか、何でそういう下らない事に、あっという間に過ぎる事に神経を使っていたのか。」
「何であんなものに時間を費やしたのか。もはやこれで全てにおさらばだ。もうイエズス様の為に、天国の為に、永遠の為に、準備する時間はもうない。」

「あぁ、もっと1日でも長く生きる事ができたら、その為に使いたかったのに。」

もう息も絶え絶え、永遠の世界に入らなければならない、それが死です。

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⑵第2の点には、では私たちは死の時に、一体何が起こるのでしょうか?この世に「さらば」と言うだけなのでしょうか?

それだけではありません。私たちにとってその瞬間、永遠が始まります。私たちの霊魂が肉体を離れた時に、私たちの永遠が決定します。永遠の喜びか、あるいは永遠の死か永遠の苦しみか。

ちょうど木が斜めに立っていた時に、それを切れば、反対側には倒れません。もしも私たちが成聖の状態で死を迎えるならば、そのまま天国に行きます。あるいは浄めが足りなければ煉獄に、浄めが済むまで煉獄に留まり、その後に天国に行きます。

しかし大罪が1つでもあると、たった1つでも、ほんの1個でもあると、残念ながら私たちは、天国に行く全てを失ってしまいます。地獄に行かなければなりません。永遠の火に焼かれなければなりません。たった1つです、たった1つです。

なぜかというと、たった1つでも、私たちにとって成聖の恩寵を失わせるに十分だからです。私たちはその罪を赦される機会と、チャンスと、多くの御恵みが与えられています。しかし、「あぁ、いいわ」「あぁ、どうせ後がある」「あぁ、また次の機会に」等と、「あぁこれくらい」「これくらい」という事で、いつ何時、私たちがその、その思いもかけない時に、その時を迎えるかもしれません。

「死」というのは、いつ、あるいはどこで、あるいはどのような方法で、あるいはどんな状態において起こるか、私たちには知る事ができませんが、1つだけ知っているものは、「必ず私たちは死ななければならない」という事です。これを信じていようが、信じていまいが、同意しようがしまいが、好きだろうが好きでないだろうが、必ず私たちに、皆さんと私に、必ず起こらなければならない、もしもそのようなそれを避ける事ができない、現実なのです。どのようにしてもそれを避ける事ができません。永遠の始まりは、いつか、どこでか、どのような方法でか、必ず来ます。

私たちはですから、それを準備していなければなりません。

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⑶第3に、では私たちはどのように、死に面したら、死を取り扱ったら良いのでしょうか?

聖ベルナルドは、「もしも私たちが死の事をよく黙想するならば、良い生を良い人生を送る事ができる。しかし死の事を思わないならば、良い人生を送る事ができない、良い死を迎える事ができない。」

イエズス様も仰います、「人の子は盗賊のように、泥棒のようにやって来る。だから準備しておれ。」(マテオ24章43節)

同時に、信仰の内に亡くなった全ての死者の為にお祈り致しましょう。彼らが一刻も早く天国に行きますように、煉獄での浄めを済ます事ができますように。

「煉獄でのほんの少しの時間は、地上での何年何十年もの苦行よりも恐ろしい、厳しい」と言われています。多くの霊魂が早く天国に行く事ができますように。

そしてファチマのマリア様の御助けによって、地獄に落ちる霊魂が、今もう落ちてしまった霊魂は私たちはもうどうする事もできませんが、今死につつある霊魂、あるいは今生きている霊魂たちが地獄に落ちないように、彼らが天国に導かれますように、イエズス様に特別の御憐れみを、イエズス様の聖心に乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「死者の為のミサ」は「煉獄の霊魂の存在」と「諸聖人の通功」という2つのドグマを教えている。

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2018年11月6日(火)全ての死せる信徒の為の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は全ての死せる信者の為の随意ミサを捧げています。

では、このミサの利益というのは何なのでしょうか?
この「死者の為のミサ」というのは私たちに、2つのカトリックのドグマを教えています。

⑴1つは、「煉獄の霊魂の存在」という事、

⑵もう1つは、「諸聖人の通功」というカトリックの教えです。
今日は、このミサの、「死者の為にミサを捧げる」という事の素晴らしさ、どれほどカトリックの教えに適った、そのカトリックの教えの実りであるか、それの実践であるか、という事を黙想して、

⑶遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1に、この死者のミサは私たちに、「煉獄の霊魂たちが存在する」という事を教えています。

煉獄の霊魂たちというのは、成聖の状態において亡くなった全ての霊魂、本当ならば天国に行くはずの霊魂、主を愛して、主において亡くなった幸せな霊魂ですが、まだ罪の償いが残っており、永遠の償いではない、つまり地獄に行くほどの償いではないにもかかわらず、有限の浄めが残っている霊魂であって、そして天主はあまりにも聖なる方で、聖にして、聖にして、聖なる方であるので、その最も無限の聖なる御方の前に行くには、まだ汚れが残っている、主を愛しているにもかかわらず、償いが残っている、もしかしたら小罪の償い、あるいは地上への愛着、あるいは何らかの不完全性が残っている、その為に、罪の償いを果たさなければならない霊魂たち。

その霊魂たちは、浄めの場所として、一時的に、一定の期間、「煉獄」という所で、その煉獄の苦しみを通して浄められて、罪の償いを果たした後に、ようやく天主の永遠の光に、三位一体に、この世を照らす為に来られた光、イエズス・キリストのその燦然とした輝きを、目と目を合わせて、顔と顔を合わせて、至福直観で、至福を味わう前に浄められるその場所、それが煉獄です。

そこに霊魂たちが罪の償いの為に、ある者は1日、ある者は何年、10年、ある者はこの世の終わりまで、一定の期間、罪の償いの為に時を過ごします。「煉獄でのほんの1分の罪の償いは、その天主の償いの要求の為の厳しさの為に、この地上での100年の厳しい苦行の生活、断食の生活をはるかに超えたほど、辛い、苦しいものである」と言われています。

しかし天主様の聖性は、天主が聖であるというのは、あまりにも聖なる方であるので、1つの汚れさえも、その天主とは相容れる事ができないので、全てを綺麗に、純粋の、金を炎で純金にするように、霊魂たちも炎によって鍛えられて、そして全く綺麗な天主への愛となって初めて、天国に行く事ができます。

この天国に行く為に待っている煉獄の霊魂は、苦しみの教会に属する霊魂たちで、ただ苦しみを捧げる事によって、その苦しみはもはや功徳を積む事ができない苦しみですが、苦しみを御捧げする事によって、愛によって、愛のうちに捧げる事によって、主との愛の一致を待っています。

これを見ると、マルチン・ルターの新しく作られた宗教が、本当の宗教とどれほど違うか、という事を私たちに教えています。マルチン・ルターは、「煉獄など無い」と言います。「あるものは天国か、地獄か、どちらかである。」そして「死者の為に祈る、という事は無駄である」と言います。

「だいたい私たちの祈りにも、善業、ミサというものにも価値も無いし、そして人間は死んだら、天国に行くか、あるいは地獄に行くかどちらか、それしかないので、もしも天国に行くならば、そのような天国に行った人たちの為に祈るというのは無駄であるし、地獄に行ったならば、もう地獄に行ったのだから無駄である。」
ですから、プロテスタントの人は死者の為に祈りません。

プロテスタントの教えはちょうど、バーゲンセールのクリスマスで出てくる太ったサンタクロースのおじさんが、カトリックの教えとは全く関係ないように、あるいは名前はハロウィンだけれども、しかし悪魔の仮装行列とカトリックが関係ないように、名前は自由・平等・兄弟愛だけれども、フランス革命とカトリックの信仰とは関係がないように、プロテスタントの教えも、煉獄を否定し、煉獄の霊魂の為に祈る事を否定し、善業を否定し、煉獄の霊魂の為のミサの功徳を否定する、私たちの善業を否定する事において、本当の教えとは全く違うものです。


⑵第2に、この死者の為のミサは私たちに、もう1つのカトリックの教えを教えています、ドグマを教えています。それは「諸聖人の通功」という、非常に愛と、恵みと、憐れみに溢れる教えです。

これは、「煉獄の霊魂」という存在が、「天主の聖性が、天主が聖であるという事が、あまりにも聖であるという事、そして私たちがあまりにも不完全であるという事を教えていると同時に、それにもかかわらず、私たちはこの煉獄の霊魂たちを、『諸聖人の通功』という教えによれば、助ける事ができる」という事を教えてくれています。

つまり、「私たちはキリストの神秘体の一部であって、その神秘体の一部として、イエズス・キリストの頭の功徳を、ミサの無限の功徳を、私たちは死者の為に適用させる事ができる。私たちの祈りが、煉獄の霊魂の為に役に立つ。長い、本当ならば長い苦しみを煉獄で受けなければならない霊魂たちが、私たちの祈りや、ミサに与る事や、聖体拝領によって、イエズス様の無限の功徳をもっと適用させる事ができて、そして彼らの苦しみを私たちが代わりに短くさせてあげる事ができる。全くないがしろにされた、もう忘れ去られたような霊魂であっても、私たちが彼らを助ける事ができる。水の一杯を与える事ができる」という「諸聖人の通功」という教えです。

天国の聖人たち、これもマルチン・ルターは否定して、「天国の聖人たちが私たちの為に祈る、という事は全くない。」ですから、プロテスタントの寺院には聖人の像もありません。「キリストだけだ。他はいらない。マリア様もいらない」と言うのです。

しかし、カトリックは違います。「諸聖人の通功」という事は、天国の聖人たち、天使たち、マリア様を始め多くの方々が、私たちの為に祈り、私たちは煉獄の霊魂の為に祈り、マリア様も煉獄の霊魂の為に祈り、そして私たちの祈りを、私たちがマリア様に、「彼らの為に、」あるいはイエズス様に、「彼らの為に祈って下さい」と言えば、彼らは多くの助けを得る、という事を知っています。

そして遂に煉獄の霊魂たちが天国に行った暁には、今度は却ってこの霊魂たちが、恩人である私たちに恩返しをしてくれる、そしてもしも私たちが煉獄に行かなければならない時には、おそらく地上の霊魂たちが私たちの為に祈ってくれるだろう、煉獄の霊魂の為に一生懸命祈った霊魂であればあるほど、天主はそのような霊魂たちの為に、私たちの霊魂が煉獄にいる時には、そのような霊魂たちを起こして祈らせて下さるだろう、と知っています。

私たちはそれらを見ると、この世を創った天主は、非常に聖なる方であって、正義なる方と同時に、憐れみに満ちて、そして私たちを憐れんで下さって、愛に満ちて、愛に満たして下さって、そして互いに私たち、イエズス様に繋がれている者たちは、互いに愛し、愛されている、という愛の団居(まどい)、愛の神秘体を作ろうとしている事を、憐れみの神秘体を作ろうとしている事を、非常に実感します。

私たちも今こうあるのは、マリア様が祈り、諸聖人が祈り、天使たちが私たちの為に祈って下さっているからこそです。そのお陰で、私たちは今、こうして生きています。

そして私たちはそれを感じる、ひしひしと実感すると同時に、煉獄の霊魂たちの為に祈ろうと思います。何という美しい、憐れみに満ちた、天主様の偉大な、調和に満ちた創造の計画、憐れみの、救いの御計画でしょうか。カトリックの教えの美しさ、素晴らしさでしょうか。

⑶この死者の為のミサを捧げながら、ますますカトリックの真髄の中に深く入って下さい。

そして願わくは、カトリックの本当の美しい教えが、愛と、憐れみと、正義と、真理に満ちた教えが、日本の方々に伝わりますように、ますます知れ渡りますように。「ハロウィンというのは仮装行列、悪魔の仮装行列ではなくて、諸聖人の通功のことだ」と。

この世で面白おかしく、快楽を追求してグッタリとしている人たちを見て、この世での事に興奮して、そして疲れ切っている人々の顔を見て、「あぁ本当は、この世の為ではなく、永遠の為に私たちは生きているのだ。この世の短い時間を、永遠の為に生きているのだ」という事をますます深く悟る事ができますように、煉獄の霊魂の為にお祈りしつつ、マリア様にその御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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