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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である 二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命

内的生活をいとなまない、使徒的事業家の落ちていく運命!
 それがどんなものだかは、一言でいいきることができる。――そういう事業家は、かりにまだ冷淡(tiède)におちいっていないとしても、しかしそれは、時間の問題である。宿命的に、必然的に、ひどい、とりかえしのつかぬ冷淡におちこんでいく。

 さて、内的生活において、冷淡であること、――感情や、自然の弱さからの冷淡ではなしに、“意識的な、故意的な冷淡”に沈んでいること、それはいったい、どういうことなのか。――霊魂が、習慣的に、しかも自分で承諾して、何の抵抗もなしに、放念とか、怠慢とか、そういったものに、好んでおちいっている、ということだ。自分で知りながらおかす小罪と仲よしになる、ということだ。それは同時に、霊魂から、救霊の保証をうばい取る、ということだ。大罪までもおかす気持ちになる、大罪にまで引きずられていく、ということだ。

 聖アルフォンソは、冷淡について、右のように教えている。そして、弟子のデシュルモン師(P. Desumont)は、それをみごとに解説している。

 内的生活をいとなまない使徒的事業家は、はたして必然的に、冷淡におちこむのか。――必然的におちこむのだ、といわざるをえない。この事実を証明するためには、司教で宣教師でもあったラビジェリ枢機卿(cardinal Lavigerie)が、その司祭たちにあてた次の言葉を引用すれば足りると思う。語る人が、使徒的事業への奮発心にもえる心から、それを発していることと、静寂主義をにおわせるものにたいしては、真っ向から反対する傾向のある性格の持ち主であっただけに、そのくちびるをついて出るものは、いっそう恐るべき強力な真理の言葉となって、ひびきわたる。
 枢機卿は、こういっている。
「この一事を、心に納得させておかねばならぬ。――すべて使徒たる者にとって、完全な聖性(すでに達成した聖性、という意味ではないが、すくなくとも、心でそれを望み、忠実に勇敢に、その達成を追及している聖性)と、完全な堕落とのあいだには、うす紙ひとえの距離しかない!」
« Il faut en être bien persuadé: pour un apôtre, il n'y a pas de milieu entre la sainteté complète au moins désirée et poursuivie avec fidélité et courage, ou la perversion absolue.»

 上の言葉を完全に理解するために、まず思いださねばならぬことは、原罪の結果、三つの邪欲が、われわれの人間性に、すでに堕落のタネをまいている事実である。霊魂の内にも外にも、敵が群がっているから、これとたえまなく戦わねばならぬ。危険は、四方八方から、霊魂をおびやかしている。これが、一方の事実だ。
 他方、使徒職にたずさわっている人で、もしかれが、おのれをとりまく危険にたいして、十分に備えをなし、十分に心をかためていなかったら、どんな運命におちこんでいくかを、研究しておく必要がある。

 Nというカトリック信者が、ここにいる。
使徒的事業に、一身をささげたい、という望みが、かれの心に芽ばえる。ところが、Nはまだ、この方面の経験がない。使徒的人物にあこがれ、使徒職に興味をもっているのだから、情熱の人である。血気にはやる性格である、と信じてもよかろう。活動に興味をもっている、おそらく教会の敵とのたたかいにも、興味をもっている、と想像してよかろう。さらに、仮定をゆるしていただくなら、かれの品行は、方正である。信心もある。熱心な信心家ですらある。だが、かれの信心は、天主のおきてを完全に、忠実に実行する意志の信心というよりむしろ、感情的信心である。さらに、かれの信心は、ただ天主のみをおよろこばせしよう、と決意している霊魂の反映ではなくて、いわば信心家らしい習慣の惰性(だせい)である。それは、賞賛すべき習慣ではある。だが、たんなる仕来たりにすぎない。
 黙想――もしかれが、それをしているとすれば――は、かれにとって、一種の空想、一種の知的遊戯でしかない。霊的読書も、一種の精神的気休めでしかない。好奇心のたわむれでしかない。したがって、かれの実生活にプラスするような効果は、なにひとつ生じない。おそらく、悪魔にだまされたのだろう、つまらぬ霊魂たちがよくそうしているように、かれもまた、ただ芸術的感興だけをもって、内的生活を味わっている。
 天主との一致について、高遠な、異常な道を論述している書物に、ことのほか興味をおぼえる。そしておのれもまた、著者の口まねをして、情熱的にそれを賛美し、それを論じる。せんじつめれば、この人は、ほんとうの内的生活はすこしも持っていないのである。持っているとしても、ごくごくわずかである。よい習慣は、いくらも持っている。自然の美質、自然の長所も、たくさん持っている。感心するほどの良い願望も、いくらかは持っている。だが、それはあまりに漠然と取りとめもない願望なので、天主と忠実に一致して生きる内的生活を、ささえてくれるほどに強烈ではない。
 これが、われわれの主人公Nさんの、ありのままの姿である。 

 いまやかれは、使徒的事業のために働きたい一心から、奮発心にもえて、いよいよこの新しい仕事にとりかかるのである。やがて、新しい仕事は、また新しい環境をいくつも作りだした。そして、この環境のゆえに、かれはだんだんおのれの外にでて、うわッつらな生活をせざるをえなくなった。そのために都合のよい機会が、次から次へと起きてくる。(使徒的事業にたずさわっている人だったら、だれでも、筆者のいっていることが理解できよう!)

 生まれつき物好きにできている、かれの性格を満足させるために、世間はよくしたものだ。浮き世の魅惑が、くびすを接して、面前に姿をあらわす。堕落の機会は、かぞえきれないほどやってくる。今までは、家庭とか、神学校とか、修練院の静かな敬けんなふんい気のなかにあって、または少なくとも、賢明な指導者の保護のもとにあって、なかば安全に守護されていたろうが、今は丸腰で、単身敵地にとびこんだようなもの。

 放心は、ますますひどくなる。なんでも見たい、なんでも知りたい、という危険な好奇心は、ますます強くなる。ちょっとした不愉快な出来ごとにも、がまんできない。すぐに腹を立てる。虚栄心は強くなる。嫉妬心はますます深くなる。あまりにおのれを頼みすぎる自負心、困難を前にしてしりごみする卑きょうな心、不公平、他人の悪口――こういう欠点がふえてくる。

 そればかりでない。心の弱さとか、多少にかかわらず、あらゆる種類の過度の愛情が、――活動の対象たる異性にたいする、または同性にたいする、あまりに自然的な情愛がだんだん心のなかに侵入してくる。かれの霊魂は、こういうことにはあまり訓練されていないので、そのはげしい絶えまない襲撃にむかって、間断なく戦わねばならぬ。かくて、霊魂は、しばしば深い痛手をこうむるのだ。

 そればかりならまだしも、かれはいったい、誘惑と戦うことを、まじめに考えているのだろうか。――うわッつらな信心しかもたないこの霊魂が。すでに自然的な、あまりに自然的な満足に、おぼれきっているかれが。自分は、たいへんりっぱな、たいへん高尚な目的のために働いている。自分の全活動を、全精力を、全能力を、そのためにささげつくし、消耗しつくしている、とウヌぼれているかれが……。

 そのうえ、悪魔は、注意ぶかく、かれの霊魂をねらっている。すでに、うまい餌をかぎつけたからだ。かれの自然的な、人間的な満足に反対するような、ヤボな悪魔ではない。それどころか、かえってその満足の炎に、油をそそぐ。全力をつくして、ますますかれを、おだてる。

 ある日、突然に、かれの目がさめる。シグナルは赤だ! 危険信号が、かれの目の前に出ている。守護の天使が、かれの耳にささやいたのだ。良心が、かれをとがめたのだ。――黙想をして静かに自分の生活を、反省しなければならぬ。自身の内部に、しりぞかねばならぬ。日常生活を取り締まる、なにかの規則を定めて、万難を排しても、それをまもりとおすように、強い決心をとろう。けっしてそれを破らないようにする。こんなにまで可愛くなったこの仕事、あの職務が、たといそのために、台なしになったとしても。

 ここまでは、殊勝な考えである。
 ああ、しかし、もうおそい。

 霊魂は、事業にそそぎこんだ努力が、はなばなしい成功によって、報いられるのをみて、スッカリ有頂天になっている。歓喜の美酒に、酔いしれている。
 「明日、明日になったらやろう。きょうはダメだ!」霊魂はこうさけぶ。「きょうは、とてもできない。だいいち、時間がない。前からやりかけているこの説教を、したくしなければならぬ。あの記事を書かなければならぬ。この信心会を組織し、あの慈善事業を起こさねばならぬ。この演劇会、あの音楽会の準備をしなければならぬ。そうそうこの旅行もしなければならぬ。もらった手紙には、返事を出さなければならぬ。しかもそれが、山のようにたまっている……」
Demain, demain, s’écrie-t-elle. Aujourd’hui, impossible; le temps manque, car je dois continuer cette série de sermons, écrire cet article, organiser ce syndicat, cette société charitable, préparer cette représentation, faire ce voyage, mettre à jour ma correspondance, etc...

 これはりっぱな、いいわけになる。かれは安心する。幸福にさえ感じる。自分の良心とさしむかいにならねばならぬ、と考えただけで、暗い気もちになるかれだ。まじめにおのれを反省するなんて、とうていがまんできることではない。

 悪魔が全力をふるって、思うぞんぶん、破壊と堕落の仕事をするのに、絶好のチャンスである。その時が、いよいよきた。かれの心はもはや、悪魔の加担者になりきっている。堕落のしたじは、もうりっぱにできあがっている。悪魔のぎせいになり終わったかれにとって、いそがしく立ち働くということは、すでに一種の情熱、一種の熱病とさえなっている。アヘン喫煙者が、アヘンなしには生きていかれないように、かれもまた、活動という刺激剤がなければ、すぐにさびしさを感じる。仕事につきものの喧騒を忘れる、おのれの心奥に沈潜する――こういうことは、とうていがまんできない。悪魔がその嫌気をふきこむのだ。そのうえ、悪魔は、次から次へと、新しい計画を、かれの頭にそそのかしてやまない。天主の光栄のためだ、世の人びとの大いなる利益のためだ、といって。じじつ、悪魔がもちだす動機は、いつもきまって、このうえなくりっぱである。

 これが、偉大な使徒を夢みていた、われわれの主人公のなれの果てなのだ! しばらく前までは、善良な習慣もたくさん持っていたのに、今ではもう弱さから弱さへと、さ迷いあるき、その弱さも、いっそうひどくなってゆくばかり。かれはいま、すべりやすい急な坂に、片足をのせているのだ。どうして谷底に、ころげ落ちないですむだろうか。

 不幸な人よ、あなたは良心がくもっているために、自分の活動が、それから生じる心身の焦燥が、すこしも天主のみ心にかなっていないことを、さとらずにいる。あなたは良心の声をちっ息させるため,良心の苛責をまぎらわすために、常にもまして活動へ活動へと、死に物ぐるいになっている。活動の渦巻きの中へとびこんでいく。胸中の苦悶を忘れるために!

 だが、そうすればするほど、必然的に過ちはふえていく。以前は、良心の苛責なしにはやれなかったことも、いまでは平気で、軽べつしながらやってのける。「なあに、自分が細心だから、いけないんだ!」心はそういっている。「時勢におくれをとらないように、注意しなければならぬ。当世の教敵とたたかうには、敵とおなじ武器を使用せねばならぬ!」

 そのために、かれは、いわゆる“積極的善徳”なるものを、さかんに礼賛する。謙遜とか、制欲とか、従順とか、克己とか、そういった消極的善徳は、時代おくれの信心である、中世紀の残骸である、といって軽べつし、排せきする。そのうえ、事業は、いつもよりずっと繁栄するものだから、人びとはかれをほめそやす。毎日毎日、新しい成功が、かれを訪れる。「天主さまは、わたしの事業を、祝福しておいでになる!」あざむかれた霊魂は、こうさけんでホクホクしている。「明日、明日になったらやろう……」といっていたその“明日”は、なるほど、いつものようにやってはくるだろう。だが、その明日は、大きな過ちにおちいっているかれ自身の、みじめな姿をたずさえてやってくるだけだ。――天使たちを号泣させるような、堕落におちこんでいるかれの姿を!
(この章 続く)

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