アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
真の天主イエズス・キリストは、私たち(ふさわしくない者ですが!)に永遠の命を与えるために、死者のうちから蘇り給いました!御復活祭を日本で捧げてくださったレネー神父様に心から感謝申し上げます。
次のような報告を戴きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
また、レネー神父様のお説教を翻訳してくださる東京の信徒会長様には心から感謝申し上げます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
*****
アベマリア!アレルヤ!!
ご復活おめでとうございます!
今日大阪で行われたご復活の主日のごミサには、26人の方が与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!
韓国での御ミサを終えてすぐ日本にお越し下さったレネ−神父様に天主様の沢山のお恵みと祝福がありますように!
テレジアさんがお持ち下さったイ−スタ−エッグと手作りケ−キや、色々な方の差し入れを御ミサ後神父様と一緒に頂きました。皆さん顔には特別な幸福が溢れ、主の御復活の喜びを分かち合う素敵一時になりました。
アレルヤ アレルヤ
----------------
アヴェ・マリア!
本日21日ご復活の月曜日には、15名の方々がごミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!
-----------------
2014年 4月20日 復活祭(ソウル/大阪)説教
親愛なる兄弟のみなさん、
「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない。」(ローマ人6章9節)私たちの主イエズス・キリストは「死者の中から最初に生まれたお方であ」(コロサイ人1章18節)り、即ち、体が永遠の命へとよみがえる最初のお方になられたのです。永遠の命は、本質的に霊魂の中にありますが、体へも流れ出るのです:聖人たちの体は霊魂の栄光や喜びに参与することによって永遠に生きるのです。
注意していただきたいのは、地獄に堕ちた人達の体も霊魂と結びつけられ、永遠に結びついたままになるのですが、その条件はあまりに悲惨なものですから、「命」という名にも値しないものです:それは永遠に続く罰、「苦しみ」、「咎(とが)め」です。その意味でこう書かれています:「だから悪人はさばきに、罪人は正しい人の集会に耐えられない。」(詩編1篇5節)と。罪人たちの霊魂は体と結びつけられますが、罪人は再びですから、立ち上がるのではなく、永遠に押し砕かれるという意味で、「復活する」ことはありません。
私たちが「永遠の命」という時、それはこの世の終わりの後、義人達の永遠の状態のことをいっているのです。私たちの主イエズス・キリストは「義人」であり、永遠の命に入る全ての人達を義化してくださるお方です。イエズス・キリストは私たち全てのかたどりであり、また救いの原因でもあるのです。イエズスは、人としては永遠の命に最初に生まれたお方であり、また天主としては「命」(ヨハネ14章6節)であり、全ての命の源です。イエズス・キリストは「万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。」(フィリッピ人3章21節)
罪が死の原因ですから、聖金曜日の十字架上の犠牲による罪に対する勝利こそが復活の主日の死に対する勝利の原因なのです。このように、私たちの主イエズス・キリストは自らの御受難といけにえとによって、このような栄光の復活のための功徳を私たちのために積んでくださったのです。イエズスの功徳は全ての人にも有り余るものですが、全ての人が栄光に復活するのではありません。どうしてでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリストの功徳のお蔭をこうむるためには、キリストと一致していること、愛によって一致していることが必要だからです。愛は天主からの贈り物です:「私たちに与えられた聖霊によって、この心に神の愛が注がれたからである。」(ローマ人5章5節)しかし愛のために、私たちもまた、「すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる神を愛」し、「また隣人を自分と同じように愛」(ルカ10章27節)さねばなりません。
ひとつ非常に重要な概念があります:「究極の目的」です。私たちは他のなにものよりも私たちの主なる天主を、私たちの究極の目的として愛さねばなりません。究極の目的への意志には限りがありません:究極であるからです。ですから教会が教えるのは、人は天主を愛して愛しすぎる事はない:天主は無限に愛すべきお方であり、私たちはいつも天主をもっと、もっと愛すようにすべきだということです!人が天主を究極の目的とする時、行き過ぎを恐れていけません:私たちの天主への信仰が強すぎることはありませんし、私たちの天主への希望がありすぎることもありませんし、私たちが天主を愛しすぎることもありません!それは、天主が客観的にみて、無限に信用できるお方であり、無限に助けを下さるお方であり、無限に愛すべきお方であるからです。
しかし、もし人が被造物を究極の目的としてしまったら、被造物は無限に良いものでも、無限に愛すべきものでもありませんから、人がそのような被造物を愛しすぎることによって、たちまち混乱が生じてしまいます。被造物は天主という究極の目的への手段です。人が目的ではなく手段に過ぎないものに目的を定めてしまう時、混乱が生じ、続いて破滅が起こります。目的は手段を計る物差しです:私たちは、自らの目的を達するにあたって助けとなる範囲で手段を用い、目的を達する障害になるのであればその手段を使ってはなりません。私たちはこの物差しに従って手段を愛します。つまり、その手段が私たちを目的の方に導いてくれる範囲で愛するのですが、私たちの目的に対する愛は物差しとは関係なく、無限定のものです。
私たちが手段を通して進むのは、人が旅の目的地まで途中の地点を通して旅するのに似ています:私たちがこの地上にいるのは、天国への巡礼の途中としてです。旅の目的地に到着するときのように、私たちは目的地で憩います:聖人達はこのように天主に憩いでいるのです。ですから私たちは亡くなった信者のために彼らが「安らかに憩わんことを」、つまり安らぎを得る天主において憩うように、と祈ります。「実に神の国は、飲食にあるのではなく、正義と平和と聖霊とによるよろこびにある」(ローマ人14章17節)が、「『悪人には平和がない』と、私の神は仰せられる。」(イザヤ57章21節)そこで聖パウロはこのように書いています:「私たちはここに不変の都をもっていない。私たちは未来の都を探している。」(ヘブライ人13章14節)と。そして聖パウロは太祖の例を挙げて次のように言っています:「信仰によって、[アブラハム]は、他国にいるかのように約束の地に住まい、同じ約束を嗣(つ)ぐイザアクとヤコブとともに幕屋に住んだ。かれは、神が設計し、建造される、たしかな基礎をもっていたからである。…それらの人々は、みな信仰を保って死んだ。…かれらは…この世では他国人であり、旅人にすぎないことを認めた。そういった人々は、自分たちが一つの故国を求めていることをあらわしていた。それがもし、かれらが出てきた国[アブラハムの出身地はカルデアのウール。]のことであったのなら、いつでもそこに帰れたはずである。事実、彼らは、天にあるさらにすぐれた故国を慕った。そのために、神はかれらの神と呼ばれるのを恥とされなかった。かれらのために、一つの町をそなえられたからである。」(ヘブライ人11章9-16節)
これこそ真にキリスト的な生活の本質的な側面のひとつです:即ち、私たちはこの地上では巡礼者であり、天国に向かって巡礼をしている、ということです。私たちがこの地上でずっと留まる場所はありません:私たちは皆ここを通り過ぎるのであって、この地上に永遠にいるのではありません。ですから、真の信者はすべての心をもって天国に向かい、祝福された報いと永遠の喜びを望みます。この希望によって、信者はこの世で毎日自分の十字架を担うための慰めと力とを得るのです。しかしながら、もし信者が天国のことを忘れてしまえば、聖パウロが言うように、「私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである。」(コリント前15章19節)ことになってしまいます。しかし私たちはこの世の生活のためだけに生きるのではなく、聖パウロが書いているように、「さて私たちも、これほど多くの証人[即ち、天国にいる聖人達]に雲のようにとりかこまれているのであるから、すべての障碍物と包まれている罪とをのぞき、忍耐をもって、私たちにさし出された競争をきそい、信仰の創始者であり、完成者であるイエズスに目をそそぐようにしよう。かれは、さし出されたよろこびのために、恥をもかえりみずに十字架をしのび、今や神の玉座の右にすわっておられる。」(ヘブライ人12章1-2節)
これが、「この世の人々」と真のキリスト教信者との最も大きな違いです。(今日の朝課で)聖アウグスティノが言うように、「この世の人々は、この世を愛する人々」であり、自らの究極の目的をこの世の物に置く人々です。しかし私たちの主イエズス・キリストを本当に信ずる者は、この世から離れ、天国を渇望して、「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ人8章18節)がゆえに、十字架を恐れません。真の信者は十字架を愛し、十字架においてキリストの勝利に参加します。しかしこの世を愛する人々は、「キリストの十字架の敵…かれらの行先は亡びである。かれらの神は自分の腹であり、自分の恥にほこりをおいている。かれらは、この世のことにだけしか興味をもたない。」(フィリッピ人3章18-19節)
この重大な真理を黙想するのは大切なことです。第一の理由は、ここにこそ、「この涙の谷」における真の喜びがあるからです:その喜びとは、聖パウロが「希望のよろこびをもち、艱難(かんなん)に耐え、祈りにうまず」(ローマ人12章12節)と言う、希望の喜びです。また第二の理由は、カトリック教会の現在の危機の根本にあるのが、「この世を愛すること」、つまりこの世の物や目的に意識して向かうことにあるからです。フランシス教皇は治世のはじめ、自分にとって今日の最大の問題は「失業中の若者と孤独な老人」であると言われなかったでしょうか?教皇はもっと大きな問題を考えるべきではないのでしょうか?例えば、何百万人もの人々の信仰の喪失、さらには司祭達の信仰の喪失のような、より高い次元の問題を考えるべきではないのでしょうか?私たちの主イエズス・キリストがこの「世」―つまりこの世を愛する人々―からお受けになった反対のことを考えてみれば、教皇が雑誌タイムズの「今年の人」に選ばれるというのは相当恐ろしいことです。教皇が自らの義務に本当に取り組むならば、沢山の人々、特に熱心な信者達の支持と承認とを得るでしょうが、私たちの主イエズス・キリストがファリザイ人やピラトやヘロデのような当時のこの世を愛する人々から強烈な反対をお受けになったように、そのような教皇はこの世を愛する人々から間違いなく強烈な反対を受けることでしょう。聖ピオ十世のように真に聖なる教皇達はこの世に軽蔑され、この世からひどく攻撃されました。聖ピオ十世は、真の教会のしるしは「一にして、聖、公、使徒伝来、…そして迫害をうけること」とおっしゃいました。
ヨハネ・パウロ二世とヨハネ二十三世の列聖を推進しているのも、またこの同じこの世の愛です:しかしこの二人の教皇としての実績を信仰の光、永遠の光で見るならば、アッシジの教皇、即ち仏教徒達が自分達の偽りの神を礼拝するように教会を提供した教皇、コーランに接吻した教皇、躓(つまず)きとなるような公式のミサ(例えば、明らかに正しい服装をしていない現地の女性ダンサーの参加するミサ)や、また御聖体が正しく敬われていないようなミサを捧げた教皇、さらにはマシエル神父やその他躓(つまず)きとなるような司祭達を保護した教皇がいかにして列聖され得るのでしょうか?しかしながら今日、このような信仰に関する問題は横に置かれて、注意を払われていないのです。この世は喝采し、それが重視されています…しかし永遠の光から見ればそうではありません。聖書にはこうあります:「『私は罪を犯したが、私の身になにか起こったか』と言うな、主は待つことを知っておられる。」(集会5章4節)言い換えれば、主は罰を下すのを待ち、痛悔の時間を与えられますが、この時間を悪用して罪を続け、天主の掟を無視する人もいます。恐るべき怠慢です:天主が私たちに罰を下すのを待たれれば待たれる程、天主の罰がより突然、さらに恐ろしいものになるのだと聖アウグスティノは私たちに警告しています。今日、私たちの多くは突然の死に襲われますが、誰もこれを気にしていないのです。
現代におけるもう一つの大きな誤りに「過ぎ越しの神秘の神学」と呼ばれるものがあります。「過ぎ越しの神秘」というような旧来からの言葉の裏には、新しい、非常に深い誤り、いえむしろ異端が隠されています。この誤りは時間と永遠の違いを実質的に否定するもので、私たちが既に「復活した命」にあると主張し、あらゆるもの、あらゆる聖なる行為に「秘蹟」という言葉を使うことによって、七つの秘蹟とその特別の効果と恩寵の具体性を破壊してしまいます。外的な行為、特に典礼における外的な行為は霊的な行為を示しています:例えば外的な礼拝という行為は、霊魂の礼拝、天主に対する霊魂の崇拝を示しています…しかしこの一般的な「意味」に加えて、七つの秘蹟の各々には、私たちの主イエズス・キリストの御制定によって、非常に特別な力が備わっています:霊魂を清める力、恩寵を与える力、霊魂を挙げ、聖化する力、そしてとりわけ御聖体には、私たちの主イエズス・キリストの現存があります。ところで、典礼におけるすべての行為、例えば聖書の朗読、撒香(さんこう)、聖水の灌水(かんすい)等をあたかも「秘蹟」であるかのように扱ってしまうと―ちなみにこれらは「準秘蹟」であって「秘蹟」ではなく、信心をもって用いられる範囲において恩寵が与えられるものですが、特別な「力」はもっていないものです―これらの準秘蹟と七つの秘蹟との違いが見えなくなってしまい、秘蹟をこれら通常の行為に格下げすることになってしまいます。
この近代的な神学は理解するには相当複雑なものですが、今日では大変広く知られていて多くの人の信仰を傷つけており、またとりわけ近代的な神学校では非常によく教えられているので、多くの司祭の信仰を危うくしています。非常に近代的な司祭が正しい信仰を持っていないと、信者は満たされないままにされ、また度々誤った道に導かれてしまうのです!
ですから今日、私たちの主に忠実であり、また、主が使徒にお与えになった後、カトリック教会の中で何世紀にもわたって正しく守られて来た主の教えに従う御恵みを豊かにくださるよう、復活されたキリストにお祈りいたしましょう。この世から離れ、そして天国に、なにものをも超えて限りなく愛されている天主に向かう御恵みを求めましょう。多くの霊魂が改宗し、彼らにキリストの数えきれない宝が与えられる御恵みを求めましょう。童貞聖マリアが、常に主において喜ぶ御恵みを下さいますように。
アーメン。
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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。
今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。
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次のような報告を戴きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
また、レネー神父様のお説教を翻訳してくださる東京の信徒会長様には心から感謝申し上げます。
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2014年 4月20日 復活祭(ソウル/大阪)説教
親愛なる兄弟のみなさん、
「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない。」(ローマ人6章9節)私たちの主イエズス・キリストは「死者の中から最初に生まれたお方であ」(コロサイ人1章18節)り、即ち、体が永遠の命へとよみがえる最初のお方になられたのです。永遠の命は、本質的に霊魂の中にありますが、体へも流れ出るのです:聖人たちの体は霊魂の栄光や喜びに参与することによって永遠に生きるのです。
注意していただきたいのは、地獄に堕ちた人達の体も霊魂と結びつけられ、永遠に結びついたままになるのですが、その条件はあまりに悲惨なものですから、「命」という名にも値しないものです:それは永遠に続く罰、「苦しみ」、「咎(とが)め」です。その意味でこう書かれています:「だから悪人はさばきに、罪人は正しい人の集会に耐えられない。」(詩編1篇5節)と。罪人たちの霊魂は体と結びつけられますが、罪人は再びですから、立ち上がるのではなく、永遠に押し砕かれるという意味で、「復活する」ことはありません。
私たちが「永遠の命」という時、それはこの世の終わりの後、義人達の永遠の状態のことをいっているのです。私たちの主イエズス・キリストは「義人」であり、永遠の命に入る全ての人達を義化してくださるお方です。イエズス・キリストは私たち全てのかたどりであり、また救いの原因でもあるのです。イエズスは、人としては永遠の命に最初に生まれたお方であり、また天主としては「命」(ヨハネ14章6節)であり、全ての命の源です。イエズス・キリストは「万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。」(フィリッピ人3章21節)
罪が死の原因ですから、聖金曜日の十字架上の犠牲による罪に対する勝利こそが復活の主日の死に対する勝利の原因なのです。このように、私たちの主イエズス・キリストは自らの御受難といけにえとによって、このような栄光の復活のための功徳を私たちのために積んでくださったのです。イエズスの功徳は全ての人にも有り余るものですが、全ての人が栄光に復活するのではありません。どうしてでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリストの功徳のお蔭をこうむるためには、キリストと一致していること、愛によって一致していることが必要だからです。愛は天主からの贈り物です:「私たちに与えられた聖霊によって、この心に神の愛が注がれたからである。」(ローマ人5章5節)しかし愛のために、私たちもまた、「すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる神を愛」し、「また隣人を自分と同じように愛」(ルカ10章27節)さねばなりません。
ひとつ非常に重要な概念があります:「究極の目的」です。私たちは他のなにものよりも私たちの主なる天主を、私たちの究極の目的として愛さねばなりません。究極の目的への意志には限りがありません:究極であるからです。ですから教会が教えるのは、人は天主を愛して愛しすぎる事はない:天主は無限に愛すべきお方であり、私たちはいつも天主をもっと、もっと愛すようにすべきだということです!人が天主を究極の目的とする時、行き過ぎを恐れていけません:私たちの天主への信仰が強すぎることはありませんし、私たちの天主への希望がありすぎることもありませんし、私たちが天主を愛しすぎることもありません!それは、天主が客観的にみて、無限に信用できるお方であり、無限に助けを下さるお方であり、無限に愛すべきお方であるからです。
しかし、もし人が被造物を究極の目的としてしまったら、被造物は無限に良いものでも、無限に愛すべきものでもありませんから、人がそのような被造物を愛しすぎることによって、たちまち混乱が生じてしまいます。被造物は天主という究極の目的への手段です。人が目的ではなく手段に過ぎないものに目的を定めてしまう時、混乱が生じ、続いて破滅が起こります。目的は手段を計る物差しです:私たちは、自らの目的を達するにあたって助けとなる範囲で手段を用い、目的を達する障害になるのであればその手段を使ってはなりません。私たちはこの物差しに従って手段を愛します。つまり、その手段が私たちを目的の方に導いてくれる範囲で愛するのですが、私たちの目的に対する愛は物差しとは関係なく、無限定のものです。
私たちが手段を通して進むのは、人が旅の目的地まで途中の地点を通して旅するのに似ています:私たちがこの地上にいるのは、天国への巡礼の途中としてです。旅の目的地に到着するときのように、私たちは目的地で憩います:聖人達はこのように天主に憩いでいるのです。ですから私たちは亡くなった信者のために彼らが「安らかに憩わんことを」、つまり安らぎを得る天主において憩うように、と祈ります。「実に神の国は、飲食にあるのではなく、正義と平和と聖霊とによるよろこびにある」(ローマ人14章17節)が、「『悪人には平和がない』と、私の神は仰せられる。」(イザヤ57章21節)そこで聖パウロはこのように書いています:「私たちはここに不変の都をもっていない。私たちは未来の都を探している。」(ヘブライ人13章14節)と。そして聖パウロは太祖の例を挙げて次のように言っています:「信仰によって、[アブラハム]は、他国にいるかのように約束の地に住まい、同じ約束を嗣(つ)ぐイザアクとヤコブとともに幕屋に住んだ。かれは、神が設計し、建造される、たしかな基礎をもっていたからである。…それらの人々は、みな信仰を保って死んだ。…かれらは…この世では他国人であり、旅人にすぎないことを認めた。そういった人々は、自分たちが一つの故国を求めていることをあらわしていた。それがもし、かれらが出てきた国[アブラハムの出身地はカルデアのウール。]のことであったのなら、いつでもそこに帰れたはずである。事実、彼らは、天にあるさらにすぐれた故国を慕った。そのために、神はかれらの神と呼ばれるのを恥とされなかった。かれらのために、一つの町をそなえられたからである。」(ヘブライ人11章9-16節)
これこそ真にキリスト的な生活の本質的な側面のひとつです:即ち、私たちはこの地上では巡礼者であり、天国に向かって巡礼をしている、ということです。私たちがこの地上でずっと留まる場所はありません:私たちは皆ここを通り過ぎるのであって、この地上に永遠にいるのではありません。ですから、真の信者はすべての心をもって天国に向かい、祝福された報いと永遠の喜びを望みます。この希望によって、信者はこの世で毎日自分の十字架を担うための慰めと力とを得るのです。しかしながら、もし信者が天国のことを忘れてしまえば、聖パウロが言うように、「私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである。」(コリント前15章19節)ことになってしまいます。しかし私たちはこの世の生活のためだけに生きるのではなく、聖パウロが書いているように、「さて私たちも、これほど多くの証人[即ち、天国にいる聖人達]に雲のようにとりかこまれているのであるから、すべての障碍物と包まれている罪とをのぞき、忍耐をもって、私たちにさし出された競争をきそい、信仰の創始者であり、完成者であるイエズスに目をそそぐようにしよう。かれは、さし出されたよろこびのために、恥をもかえりみずに十字架をしのび、今や神の玉座の右にすわっておられる。」(ヘブライ人12章1-2節)
これが、「この世の人々」と真のキリスト教信者との最も大きな違いです。(今日の朝課で)聖アウグスティノが言うように、「この世の人々は、この世を愛する人々」であり、自らの究極の目的をこの世の物に置く人々です。しかし私たちの主イエズス・キリストを本当に信ずる者は、この世から離れ、天国を渇望して、「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ人8章18節)がゆえに、十字架を恐れません。真の信者は十字架を愛し、十字架においてキリストの勝利に参加します。しかしこの世を愛する人々は、「キリストの十字架の敵…かれらの行先は亡びである。かれらの神は自分の腹であり、自分の恥にほこりをおいている。かれらは、この世のことにだけしか興味をもたない。」(フィリッピ人3章18-19節)
この重大な真理を黙想するのは大切なことです。第一の理由は、ここにこそ、「この涙の谷」における真の喜びがあるからです:その喜びとは、聖パウロが「希望のよろこびをもち、艱難(かんなん)に耐え、祈りにうまず」(ローマ人12章12節)と言う、希望の喜びです。また第二の理由は、カトリック教会の現在の危機の根本にあるのが、「この世を愛すること」、つまりこの世の物や目的に意識して向かうことにあるからです。フランシス教皇は治世のはじめ、自分にとって今日の最大の問題は「失業中の若者と孤独な老人」であると言われなかったでしょうか?教皇はもっと大きな問題を考えるべきではないのでしょうか?例えば、何百万人もの人々の信仰の喪失、さらには司祭達の信仰の喪失のような、より高い次元の問題を考えるべきではないのでしょうか?私たちの主イエズス・キリストがこの「世」―つまりこの世を愛する人々―からお受けになった反対のことを考えてみれば、教皇が雑誌タイムズの「今年の人」に選ばれるというのは相当恐ろしいことです。教皇が自らの義務に本当に取り組むならば、沢山の人々、特に熱心な信者達の支持と承認とを得るでしょうが、私たちの主イエズス・キリストがファリザイ人やピラトやヘロデのような当時のこの世を愛する人々から強烈な反対をお受けになったように、そのような教皇はこの世を愛する人々から間違いなく強烈な反対を受けることでしょう。聖ピオ十世のように真に聖なる教皇達はこの世に軽蔑され、この世からひどく攻撃されました。聖ピオ十世は、真の教会のしるしは「一にして、聖、公、使徒伝来、…そして迫害をうけること」とおっしゃいました。
ヨハネ・パウロ二世とヨハネ二十三世の列聖を推進しているのも、またこの同じこの世の愛です:しかしこの二人の教皇としての実績を信仰の光、永遠の光で見るならば、アッシジの教皇、即ち仏教徒達が自分達の偽りの神を礼拝するように教会を提供した教皇、コーランに接吻した教皇、躓(つまず)きとなるような公式のミサ(例えば、明らかに正しい服装をしていない現地の女性ダンサーの参加するミサ)や、また御聖体が正しく敬われていないようなミサを捧げた教皇、さらにはマシエル神父やその他躓(つまず)きとなるような司祭達を保護した教皇がいかにして列聖され得るのでしょうか?しかしながら今日、このような信仰に関する問題は横に置かれて、注意を払われていないのです。この世は喝采し、それが重視されています…しかし永遠の光から見ればそうではありません。聖書にはこうあります:「『私は罪を犯したが、私の身になにか起こったか』と言うな、主は待つことを知っておられる。」(集会5章4節)言い換えれば、主は罰を下すのを待ち、痛悔の時間を与えられますが、この時間を悪用して罪を続け、天主の掟を無視する人もいます。恐るべき怠慢です:天主が私たちに罰を下すのを待たれれば待たれる程、天主の罰がより突然、さらに恐ろしいものになるのだと聖アウグスティノは私たちに警告しています。今日、私たちの多くは突然の死に襲われますが、誰もこれを気にしていないのです。
現代におけるもう一つの大きな誤りに「過ぎ越しの神秘の神学」と呼ばれるものがあります。「過ぎ越しの神秘」というような旧来からの言葉の裏には、新しい、非常に深い誤り、いえむしろ異端が隠されています。この誤りは時間と永遠の違いを実質的に否定するもので、私たちが既に「復活した命」にあると主張し、あらゆるもの、あらゆる聖なる行為に「秘蹟」という言葉を使うことによって、七つの秘蹟とその特別の効果と恩寵の具体性を破壊してしまいます。外的な行為、特に典礼における外的な行為は霊的な行為を示しています:例えば外的な礼拝という行為は、霊魂の礼拝、天主に対する霊魂の崇拝を示しています…しかしこの一般的な「意味」に加えて、七つの秘蹟の各々には、私たちの主イエズス・キリストの御制定によって、非常に特別な力が備わっています:霊魂を清める力、恩寵を与える力、霊魂を挙げ、聖化する力、そしてとりわけ御聖体には、私たちの主イエズス・キリストの現存があります。ところで、典礼におけるすべての行為、例えば聖書の朗読、撒香(さんこう)、聖水の灌水(かんすい)等をあたかも「秘蹟」であるかのように扱ってしまうと―ちなみにこれらは「準秘蹟」であって「秘蹟」ではなく、信心をもって用いられる範囲において恩寵が与えられるものですが、特別な「力」はもっていないものです―これらの準秘蹟と七つの秘蹟との違いが見えなくなってしまい、秘蹟をこれら通常の行為に格下げすることになってしまいます。
この近代的な神学は理解するには相当複雑なものですが、今日では大変広く知られていて多くの人の信仰を傷つけており、またとりわけ近代的な神学校では非常によく教えられているので、多くの司祭の信仰を危うくしています。非常に近代的な司祭が正しい信仰を持っていないと、信者は満たされないままにされ、また度々誤った道に導かれてしまうのです!
ですから今日、私たちの主に忠実であり、また、主が使徒にお与えになった後、カトリック教会の中で何世紀にもわたって正しく守られて来た主の教えに従う御恵みを豊かにくださるよう、復活されたキリストにお祈りいたしましょう。この世から離れ、そして天国に、なにものをも超えて限りなく愛されている天主に向かう御恵みを求めましょう。多くの霊魂が改宗し、彼らにキリストの数えきれない宝が与えられる御恵みを求めましょう。童貞聖マリアが、常に主において喜ぶ御恵みを下さいますように。
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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。
今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。