2017年11月5日(主日)聖霊降臨後第22主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年11月5日、聖霊降臨後第22主日のミサを捧げています。このミサの後に14時から公教要理の続き、今日はイエズス様がお生まれになった時代を知るには一体どのような資料があるのかについて話をしたいと思っています。
それから公教要理は今日は短くて、その後に15時頃からは、来週の主日のここで歌うミサの固有文の練習もしたいと思っています。この固有文は聖霊降臨後の第23週から最後の週まで、いつも同じ歌を歌う事になっています。それなのでこのとても有名なグレゴリオ聖歌です。ぜひこれを皆さんに少し練習していただきたいと思っています。
16時からは晚課があります。明日は朝の7時からミサもあります。
“Reddite ergo quae sunt Caesaris, Caesari. ”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様が非常に有名な御言葉を仰るのを福音書で聞きました。
そこで、今日のミサの構造はどのようになっているのか?なぜ入祭誦では、「もしも主が邪悪に目を止められたのなら」から始まって、なぜ聖パウロはフィリピ人への手紙を載せて、なぜ福音書ではこの逸話が取られて、なぜこのような繋がりになっているのか?その理由は何なのか?という事を黙想する事を提案します。
次に、ではその中核となる、その構造のその理由を与えている福音書のイエズス様の御言葉の深い意味は何なのか?
「天主のものは主に返せ。」一体何なのか?を黙想してから、
次に、私たちは今日遷善の決心を、これから私たちの生活をどのように改めていかなければならないのか?
を、この教会が私たちに与えるメッセージに沿って、私たちが生活する為にどういう点を決心していかなければならないのか、善に進む為の決心を立てたいと思っています。
では、今日のミサの構造はどうなっているのでしょうか?
これはすでに、教会は11月に入って死者の月に入り、典礼暦年も終わりに近付き、短い時には、もしも復活祭が遅くあれば、もうすでに来週は次の週は、すでにもう最終の主日となってしまいます。という事は、私たちは当然「最後の審判」について、この世の終わりについて、裁き主が私たちの行いを全て裁く日が来る、という事について、私たちの死について、この世の終わりについて、考えさせる事が当然であるからです。
ですからまず入祭誦は、そのような最後の裁きの前に、あるいは最後には、「反キリストが来る」とも言われていますから、そのような恐ろしい日が来る時に、「もしも主が私たちの邪悪に目をとめられたならば、私たちの悪に目をとめられたならば、誰が一体主の前に立っていられる事ができるでしょうか、主の前に正しい人など一体どこにいるだろうか。主の憐れみこそ私たちは願わなければならない。」
では、主の御目にとって「邪悪」というのは何なのでしょうか?邪悪というのは、「私のものは私のもの。あなたのものも私のもの」という事こそ邪悪ではないでしょうか。なぜならばそれは正義に反しているからです。
では、「私のものは私のもの。私の義務は私の義務。そしてあなたの権利はあなたの権利」と認める、そして「私はあなたに、あなたのものと認めなければならない事を私は認める」という事は一体どういういう事なのでしょうか?3つの段階があります。
まず隣人は、まず私たちの保護の下にある人々について語られます、教会は語るように黙想するように提案します。特に聖パウロの作った共同体の中で一番心にかけていたのが、フィリピ人という共同体でした。なぜかというとこの手紙を読むと、聖パウロが特に心をかけていたという事が分かるからです。
そこで教会はこの聖パウロの手紙を取って、自分の保護の下にある者に対する義務を思い出させます、「主の終わりの時の日までに、彼らが私たちの下にある者が、良い実をたくさんたわわに付けて立派な木に育つように」とパウロは言っているかのようです、励ましているかのようです。
次に昇階誦でGradualeで言われるのが、「兄弟たちが一緒に住むのは何と幸せな事か。」です。
ちょうどある方からあるメッセージを頂いて、「修道生活とはどういうものなのですか?」と聞かれた事があります。
私はちょうど30年前に、聖ピオ十世会の神学校に入学してから多くの兄弟たちと一緒に生活する事になって、本当に大きな家族のようだなぁと思って、本当に聖ピオ十世会に入る事になって良かったなぁと思っています。もしも教区の司祭で、たった一人ぼっちで小教区の教会に配置になって、たった一人で全てをしなければならなかったとしたら、本当に大変だろうなぁと思います。
しかし兄弟たちが一緒に生活するという事は何と楽しい、美しい事でしょうか。そして今日昇階誦でも、兄弟たちが、つまり私たちと同等の人々が、私たちの同僚や同じ信仰を生きる人たちが、「一緒に愛徳を持って生活をするのは何と良い事であるか、これは主のお恵みであるか」という事を歌います。
そして福音では、私たちの目上に対して語られます。私たちの権威者というのはつまり、あるいは皇帝であり、あるいは王であり、あるいは大統領であり、あるいは首相であれ、あるいは教皇様であれ、あるいはお父さんお母さんであれ、あるいは学校の先生であれ、あるいは課長であれ、あるいは私たちがその下にある人への態度です。
最後には天主に対する態度です。
そのような義務をよく果たした後に、遂には私たちは主の到来に、主の来臨を安心して受ける事ができる、それがそのリハーサルが、御聖体拝領です。御聖体拝領の時に私たちが受けるのは、私たちの救い主であり、友であり、愛するイエズス・キリストが私の所にすでに来てくださいます。
最後には世の裁き者として来られるでしょうけれども、今日は御聖体拝領では、愛するものとして、憐れみを与えるものとして、慰めを与えるものとして、赦すものとして、お恵みを与えるものとして、私たちと1つとなるものとして来られます。
ではこの私たちの下にある人々、子供や、あるいは部下や、あるいはその私たちの下に世話をしなければならない人々、あるいは私たちの隣人、あるいは私たちの目上、天主、これらに対する義務を果たす時に、その核心というのは一体何なのでしょうか?
それは第2のポイントに移ると、福音で言われるイエズス様の言葉です、「主のものは主に返せ。」私たちは全て天主から頂いて、主から頂かなかったものは何も無いものであるからです。私たちが今ここで息をして存在しているのも、主から頂いたものであるからです。
ところで、イエズス様がこの質問をこの答えをしたその時に同時に、「しかしローマ皇帝に対するものは属するものは、それはローマ皇帝に払え。しかしまず天主に属するものを天主に払って、そして天主が、ローマ皇帝であり私たちの目上を立てたのだから、ローマ皇帝のものはそれに返せ」と言っているのです。
一体なぜこれがそんなに重要な質問だったのでしょうか?私たちにとってとても明確であり、自明なように思われるこの命令も、イエズス様の当時にとっては政治的な状況によって、とてもポリティカルなコレクトネスを、政治的な正しさを追求するか否かによって、非常にデリケートな問題でした。
ファリサイ人たちは、あるいはイエズス様を罠にかけようとする人たちは、イエズス様の言葉尻を捕らえて詭弁を、弁証論的にどっちかを取らなければならない、と罠にかけようとしました。
まず彼らはイエズス様の言葉尻を捕まえる為に、言質を取る為に、まずお世辞を言います、「あぁ、あなたは本当に真実を言う御方だ。あなたは人の目を気にしない、本当の事をズバッと言う。ローマ皇帝の目も気にしない。さぁあなたにぜひ教えてほしい。」罠にかけます、「私たちはユダヤ人で、ユダヤ教を信じている。そしてユダヤの民だ。そして昔からユダヤのヤーウェの神権を認めている。このヤーウェの下にのみ生活しているので、真の天主の民であって、自由の身である。真理にのみ自由があるのだから。だから私たちにとって外国からの、あるいは異教徒の神々の支配を受ける事は、ヤーウェの支配に反する事である。私たちはヤーウェを取るか、異教の神々を取るかローマの神々を取るか。ヤーウェが与えた権威を認めるか、あるいはヤーウェ以外の権威を認めるか、どちらかではないか。さぁ、ローマに税を払っても良いのか、皇帝に税を払っても良いのか。」
イエズス様はこの罠を知っていました、確かにユダヤは天主から選ばれた特別の民であって、天主の民族であって、自由であるはずなのにもかかわらず、でもローマの政治を受けています、この属国となっています、ローマ総督の下にいます。「私たちはローマ総督に従うのか従わないのか。ローマの皇帝にお金を税を払う事は、天主に対する罪なのか罪ではないのか。」
イエズス様はそこで、非常に知恵の深い、そしてカトリックの教えを教えます、「天主のものは天主に返し、皇帝のものは皇帝に返せ。あなたのものはあなたのもの。私のものは私のもの。皇帝のものは皇帝のもの。天主のものは天主のもの。」
そこでこれを教える事によって私たちは、この地上で与えられた権威が、つまり天主から与えられたものであって、そしてその権威を私には善である限り、それが正当である限り、認める義務を教えています。実際、ローマ皇帝の肖像が入ったコインを使っているのならば、まさにそれは私たちがこのユダヤ人たちがローマの支配を認めている事であるので、それをローマに税を払うのは問題はないはずです。
これと同時にイエズス様は、「私たちの霊魂にも天主の肖像が刻まれている。私たちは天主の似姿によって創られている」という事を思い出させているのではないでしょうか。「私たちはだから全て、私たちの霊魂も、肉体も、天主の肖像画で創られているものであるから、実はそれは全ては天主に返さなければならないのだ。そして地上の権威も目に見える権威も、目に見えない権威がその背後にいる」という事を教えています。「国家であれ、両親であれ、あるいは学校の先生であれ、上司であれ、全て天主が、天主の権威の為に彼らに従う。実はこの彼らに従う事は、天主に従う事に繋がるのだ」と教えています。
これこそちょうど、愛徳には、「天主を愛するが為に、隣人を我が身の如く愛する」という愛の掟の裏返しなのです。天主の権威の為に、天主を愛するがゆえに、天主の立てた権威に従うという事です。目に見える権威に従うという事です。
ではこれは、私たちはこれでどのような遷善の決心を立てたらよろしいでしょうか?
この最後の審判の準備をする為に、私たちが自分の義務をよく果たす為に、主のものは主にこれを返し、そして主を愛するが為に主に従順であるが為に、隣人にあるいは目上にそれにふさわしいものを返す事ができる為に、つまり私たちの身分上の義務を良くする事ができる為に、私たちは特別のお恵みが必要だという事です。
ファチマのマリア様も仰いました、「主から与えられたものを、この身分、この義務、この苦しみを、いけにえとして犠牲として捧げなさい」と言われました。
シスタールチアも言っています、「私たちの身分上の義務を捧げる事が、もっとも主の聖心に適う犠牲である」と。
ですから最後の審判を準備する為に、この犠牲を捧げようと提案します。
旧約の時代には2つの祭壇がありました。1つはホロコーストの燔祭の祭壇であり、もう1つは香の祭壇でした。至聖所の中にはこの2つの祭壇がありました。
「焼き尽くす祭壇は、私たちが目に見えるもの(すなわち隣人たち)に対する義務を果たすという事。そして香の祭壇は、私たちが天主に対する祈りの義務を果たす事を意味していた」と聖トマス・アクィナスは言っています。
それと同じように私たちも、この二重の義務をいけにえとして捧げる事に致しましょう。天主様のものを天主に返し、そして隣人のものは隣人に返す。
それがよくできる為には、マリア様は「聖母の汚れなき御心に対する信心を行いなさい」と言いました。特にこの「ロザリオを唱えなさい」と仰いました。
確かにロザリオを唱えると、このロザリオの15の玄義は、私たちにこの2つの義務をよく果たす事ができるようにさせてくれます。
マリア様は天使の御告げを受けた時に何と答えたかというと、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と言われました。「私のやりたい事はこれだから嫌だ」とは言いませんでした。「主のものは主に返したい。全ては主から頂いたので、私は主の婢女として主の御旨を果たしたい」と答えられました。
この直後にマリア様は聖エリザベトを訪問されました。助けたいと思いました、隣人愛を実践しました。またイエズス様は、貧しい馬草桶で生まれました。主に対する従順の為に、聖父に対する従順の為であると同時に、この地上への離脱をも見せていました。私たちが地上のものから離脱すればするほど、隣人に対する義務をよりよく果たす事ができるようになります。
マリア様と共に私たちはイエズス様と共に、神殿に捧げられなければなりません。またマリア様と共にイエズス様を探し求めなければなりません。主の御旨は何かと探し求めなければなりません、など。イエズス様の御受難、苦しみや、あるいはイエズス様の御復活を思うと、私たちのこの人生が本当に短いものであって、犠牲を捧げても主のものは主に返さなければならない、という事を教えてくれます。
そこで最後の遷善の決心として、よくこの務めを果たす為に、マリア様の汚れなき御心に対する信心をよく実践するという事を提案したいと思います。
“Reddite ergo quae sunt Caesaris, Caesari. ”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年11月5日、聖霊降臨後第22主日のミサを捧げています。このミサの後に14時から公教要理の続き、今日はイエズス様がお生まれになった時代を知るには一体どのような資料があるのかについて話をしたいと思っています。
それから公教要理は今日は短くて、その後に15時頃からは、来週の主日のここで歌うミサの固有文の練習もしたいと思っています。この固有文は聖霊降臨後の第23週から最後の週まで、いつも同じ歌を歌う事になっています。それなのでこのとても有名なグレゴリオ聖歌です。ぜひこれを皆さんに少し練習していただきたいと思っています。
16時からは晚課があります。明日は朝の7時からミサもあります。
“Reddite ergo quae sunt Caesaris, Caesari. ”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様が非常に有名な御言葉を仰るのを福音書で聞きました。
そこで、今日のミサの構造はどのようになっているのか?なぜ入祭誦では、「もしも主が邪悪に目を止められたのなら」から始まって、なぜ聖パウロはフィリピ人への手紙を載せて、なぜ福音書ではこの逸話が取られて、なぜこのような繋がりになっているのか?その理由は何なのか?という事を黙想する事を提案します。
次に、ではその中核となる、その構造のその理由を与えている福音書のイエズス様の御言葉の深い意味は何なのか?
「天主のものは主に返せ。」一体何なのか?を黙想してから、
次に、私たちは今日遷善の決心を、これから私たちの生活をどのように改めていかなければならないのか?
を、この教会が私たちに与えるメッセージに沿って、私たちが生活する為にどういう点を決心していかなければならないのか、善に進む為の決心を立てたいと思っています。
では、今日のミサの構造はどうなっているのでしょうか?
これはすでに、教会は11月に入って死者の月に入り、典礼暦年も終わりに近付き、短い時には、もしも復活祭が遅くあれば、もうすでに来週は次の週は、すでにもう最終の主日となってしまいます。という事は、私たちは当然「最後の審判」について、この世の終わりについて、裁き主が私たちの行いを全て裁く日が来る、という事について、私たちの死について、この世の終わりについて、考えさせる事が当然であるからです。
ですからまず入祭誦は、そのような最後の裁きの前に、あるいは最後には、「反キリストが来る」とも言われていますから、そのような恐ろしい日が来る時に、「もしも主が私たちの邪悪に目をとめられたならば、私たちの悪に目をとめられたならば、誰が一体主の前に立っていられる事ができるでしょうか、主の前に正しい人など一体どこにいるだろうか。主の憐れみこそ私たちは願わなければならない。」
では、主の御目にとって「邪悪」というのは何なのでしょうか?邪悪というのは、「私のものは私のもの。あなたのものも私のもの」という事こそ邪悪ではないでしょうか。なぜならばそれは正義に反しているからです。
では、「私のものは私のもの。私の義務は私の義務。そしてあなたの権利はあなたの権利」と認める、そして「私はあなたに、あなたのものと認めなければならない事を私は認める」という事は一体どういういう事なのでしょうか?3つの段階があります。
まず隣人は、まず私たちの保護の下にある人々について語られます、教会は語るように黙想するように提案します。特に聖パウロの作った共同体の中で一番心にかけていたのが、フィリピ人という共同体でした。なぜかというとこの手紙を読むと、聖パウロが特に心をかけていたという事が分かるからです。
そこで教会はこの聖パウロの手紙を取って、自分の保護の下にある者に対する義務を思い出させます、「主の終わりの時の日までに、彼らが私たちの下にある者が、良い実をたくさんたわわに付けて立派な木に育つように」とパウロは言っているかのようです、励ましているかのようです。
次に昇階誦でGradualeで言われるのが、「兄弟たちが一緒に住むのは何と幸せな事か。」です。
ちょうどある方からあるメッセージを頂いて、「修道生活とはどういうものなのですか?」と聞かれた事があります。
私はちょうど30年前に、聖ピオ十世会の神学校に入学してから多くの兄弟たちと一緒に生活する事になって、本当に大きな家族のようだなぁと思って、本当に聖ピオ十世会に入る事になって良かったなぁと思っています。もしも教区の司祭で、たった一人ぼっちで小教区の教会に配置になって、たった一人で全てをしなければならなかったとしたら、本当に大変だろうなぁと思います。
しかし兄弟たちが一緒に生活するという事は何と楽しい、美しい事でしょうか。そして今日昇階誦でも、兄弟たちが、つまり私たちと同等の人々が、私たちの同僚や同じ信仰を生きる人たちが、「一緒に愛徳を持って生活をするのは何と良い事であるか、これは主のお恵みであるか」という事を歌います。
そして福音では、私たちの目上に対して語られます。私たちの権威者というのはつまり、あるいは皇帝であり、あるいは王であり、あるいは大統領であり、あるいは首相であれ、あるいは教皇様であれ、あるいはお父さんお母さんであれ、あるいは学校の先生であれ、あるいは課長であれ、あるいは私たちがその下にある人への態度です。
最後には天主に対する態度です。
そのような義務をよく果たした後に、遂には私たちは主の到来に、主の来臨を安心して受ける事ができる、それがそのリハーサルが、御聖体拝領です。御聖体拝領の時に私たちが受けるのは、私たちの救い主であり、友であり、愛するイエズス・キリストが私の所にすでに来てくださいます。
最後には世の裁き者として来られるでしょうけれども、今日は御聖体拝領では、愛するものとして、憐れみを与えるものとして、慰めを与えるものとして、赦すものとして、お恵みを与えるものとして、私たちと1つとなるものとして来られます。
ではこの私たちの下にある人々、子供や、あるいは部下や、あるいはその私たちの下に世話をしなければならない人々、あるいは私たちの隣人、あるいは私たちの目上、天主、これらに対する義務を果たす時に、その核心というのは一体何なのでしょうか?
それは第2のポイントに移ると、福音で言われるイエズス様の言葉です、「主のものは主に返せ。」私たちは全て天主から頂いて、主から頂かなかったものは何も無いものであるからです。私たちが今ここで息をして存在しているのも、主から頂いたものであるからです。
ところで、イエズス様がこの質問をこの答えをしたその時に同時に、「しかしローマ皇帝に対するものは属するものは、それはローマ皇帝に払え。しかしまず天主に属するものを天主に払って、そして天主が、ローマ皇帝であり私たちの目上を立てたのだから、ローマ皇帝のものはそれに返せ」と言っているのです。
一体なぜこれがそんなに重要な質問だったのでしょうか?私たちにとってとても明確であり、自明なように思われるこの命令も、イエズス様の当時にとっては政治的な状況によって、とてもポリティカルなコレクトネスを、政治的な正しさを追求するか否かによって、非常にデリケートな問題でした。
ファリサイ人たちは、あるいはイエズス様を罠にかけようとする人たちは、イエズス様の言葉尻を捕らえて詭弁を、弁証論的にどっちかを取らなければならない、と罠にかけようとしました。
まず彼らはイエズス様の言葉尻を捕まえる為に、言質を取る為に、まずお世辞を言います、「あぁ、あなたは本当に真実を言う御方だ。あなたは人の目を気にしない、本当の事をズバッと言う。ローマ皇帝の目も気にしない。さぁあなたにぜひ教えてほしい。」罠にかけます、「私たちはユダヤ人で、ユダヤ教を信じている。そしてユダヤの民だ。そして昔からユダヤのヤーウェの神権を認めている。このヤーウェの下にのみ生活しているので、真の天主の民であって、自由の身である。真理にのみ自由があるのだから。だから私たちにとって外国からの、あるいは異教徒の神々の支配を受ける事は、ヤーウェの支配に反する事である。私たちはヤーウェを取るか、異教の神々を取るかローマの神々を取るか。ヤーウェが与えた権威を認めるか、あるいはヤーウェ以外の権威を認めるか、どちらかではないか。さぁ、ローマに税を払っても良いのか、皇帝に税を払っても良いのか。」
イエズス様はこの罠を知っていました、確かにユダヤは天主から選ばれた特別の民であって、天主の民族であって、自由であるはずなのにもかかわらず、でもローマの政治を受けています、この属国となっています、ローマ総督の下にいます。「私たちはローマ総督に従うのか従わないのか。ローマの皇帝にお金を税を払う事は、天主に対する罪なのか罪ではないのか。」
イエズス様はそこで、非常に知恵の深い、そしてカトリックの教えを教えます、「天主のものは天主に返し、皇帝のものは皇帝に返せ。あなたのものはあなたのもの。私のものは私のもの。皇帝のものは皇帝のもの。天主のものは天主のもの。」
そこでこれを教える事によって私たちは、この地上で与えられた権威が、つまり天主から与えられたものであって、そしてその権威を私には善である限り、それが正当である限り、認める義務を教えています。実際、ローマ皇帝の肖像が入ったコインを使っているのならば、まさにそれは私たちがこのユダヤ人たちがローマの支配を認めている事であるので、それをローマに税を払うのは問題はないはずです。
これと同時にイエズス様は、「私たちの霊魂にも天主の肖像が刻まれている。私たちは天主の似姿によって創られている」という事を思い出させているのではないでしょうか。「私たちはだから全て、私たちの霊魂も、肉体も、天主の肖像画で創られているものであるから、実はそれは全ては天主に返さなければならないのだ。そして地上の権威も目に見える権威も、目に見えない権威がその背後にいる」という事を教えています。「国家であれ、両親であれ、あるいは学校の先生であれ、上司であれ、全て天主が、天主の権威の為に彼らに従う。実はこの彼らに従う事は、天主に従う事に繋がるのだ」と教えています。
これこそちょうど、愛徳には、「天主を愛するが為に、隣人を我が身の如く愛する」という愛の掟の裏返しなのです。天主の権威の為に、天主を愛するがゆえに、天主の立てた権威に従うという事です。目に見える権威に従うという事です。
ではこれは、私たちはこれでどのような遷善の決心を立てたらよろしいでしょうか?
この最後の審判の準備をする為に、私たちが自分の義務をよく果たす為に、主のものは主にこれを返し、そして主を愛するが為に主に従順であるが為に、隣人にあるいは目上にそれにふさわしいものを返す事ができる為に、つまり私たちの身分上の義務を良くする事ができる為に、私たちは特別のお恵みが必要だという事です。
ファチマのマリア様も仰いました、「主から与えられたものを、この身分、この義務、この苦しみを、いけにえとして犠牲として捧げなさい」と言われました。
シスタールチアも言っています、「私たちの身分上の義務を捧げる事が、もっとも主の聖心に適う犠牲である」と。
ですから最後の審判を準備する為に、この犠牲を捧げようと提案します。
旧約の時代には2つの祭壇がありました。1つはホロコーストの燔祭の祭壇であり、もう1つは香の祭壇でした。至聖所の中にはこの2つの祭壇がありました。
「焼き尽くす祭壇は、私たちが目に見えるもの(すなわち隣人たち)に対する義務を果たすという事。そして香の祭壇は、私たちが天主に対する祈りの義務を果たす事を意味していた」と聖トマス・アクィナスは言っています。
それと同じように私たちも、この二重の義務をいけにえとして捧げる事に致しましょう。天主様のものを天主に返し、そして隣人のものは隣人に返す。
それがよくできる為には、マリア様は「聖母の汚れなき御心に対する信心を行いなさい」と言いました。特にこの「ロザリオを唱えなさい」と仰いました。
確かにロザリオを唱えると、このロザリオの15の玄義は、私たちにこの2つの義務をよく果たす事ができるようにさせてくれます。
マリア様は天使の御告げを受けた時に何と答えたかというと、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と言われました。「私のやりたい事はこれだから嫌だ」とは言いませんでした。「主のものは主に返したい。全ては主から頂いたので、私は主の婢女として主の御旨を果たしたい」と答えられました。
この直後にマリア様は聖エリザベトを訪問されました。助けたいと思いました、隣人愛を実践しました。またイエズス様は、貧しい馬草桶で生まれました。主に対する従順の為に、聖父に対する従順の為であると同時に、この地上への離脱をも見せていました。私たちが地上のものから離脱すればするほど、隣人に対する義務をよりよく果たす事ができるようになります。
マリア様と共に私たちはイエズス様と共に、神殿に捧げられなければなりません。またマリア様と共にイエズス様を探し求めなければなりません。主の御旨は何かと探し求めなければなりません、など。イエズス様の御受難、苦しみや、あるいはイエズス様の御復活を思うと、私たちのこの人生が本当に短いものであって、犠牲を捧げても主のものは主に返さなければならない、という事を教えてくれます。
そこで最後の遷善の決心として、よくこの務めを果たす為に、マリア様の汚れなき御心に対する信心をよく実践するという事を提案したいと思います。
“Reddite ergo quae sunt Caesaris, Caesari. ”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。