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レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5月は聖母マリア様の月です。聖母マリア様にロザリオをたくさん唱えましょう。

さて、大変遅れてしまいましたが、1年前の2013年3月にアジア管区に所属して私たちのために日本に来てくださるレネー神父様が『偽りの反リベラル主義者の錯覚』という文章を書いてくださいました。「我こそは "反リベラルだ"」と言って聖ピオ十世会を批判するような人々が何人かいますが、そのような人たちのいい振り回すいわゆる「反リベラル」なるものが、権威を否定するが故に、実は、リベラルそのものだ、ということをわかりやすく説明してくれています。実は、私もそのような人を何名か身近で見てその現実を知り、全くレネー神父様のおっしゃるとおりだと、頷くばかりです。正しく、彼らの主張は、錯覚であり、幻想であり、現実から乖離した頭の中での話であり、イリュージョンにしか過ぎません。願わくは彼らがみずからを正し、謙遜に聖ピオ十世会にもう一度受け入れられることを請いますように! 聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフが彼らのためにこの恩寵を勝ち得てくださいますように! 聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

 これはすでに長らく前から日本語に翻訳されていたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にお知らせするのが遅れてしまったことを深くお詫びします。またこれを日本語に訳す労を執ってくださった姉妹の一人に心から感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

======偽りの反リベラル主義者の錯覚======

原文はこちら或いはこちらをご覧ください。


偽りの反リベラル主義者の錯覚
The pseudo-anti-liberal illusion


 ある人々が、聖ピオ十世会の長上方に反対してほとんど強迫観念といえるほどの最悪の非難を発表し続けてしばらくたちます。彼らは、自分たちが現実との接触を失ってしまったと気がつかないまま、私が「偽りの反自由主義(反リベラル主義)」と呼ぶ間違いに陥ってしまっています。なぜなら彼らは自分たちが排斥するまさにその問題(リベラル主義)へとみずから陥ってしまっているにも関わらず、反リベラル主義者を装っているからです。それはちょうど聖パウロがこのように書いたそのままです。「他人を是非することによって、あなたは自分をさばいている。他人をさばくあなた自身が、同じことをおこなっているからである」(ローマ二章一節)


教会法的正常化──それ自体は善いことである

 リベラル主義者の概念を──天主と天主の法の権威を拒否する人々──と定義した後に、聖ピオ十世会の指導者たちがリベラル主義者だと結論づけるためには、彼ら[反リベラル主義を装う人々]は必然的に、この指導者たちは天主と天主の法を拒否したと証明する必要が出てきます。が、彼らはフェレー司教様と聖ピオ十世会の指導者たちは、天主と天主の法を拒否したと証明できなかっただけでなく、天主と天主の法に正確に従うためにこそ──ルフェーブル大司教様の模範(ルフェーブル大司教様は常に教皇聖座空位論を拒絶なさいました)にならって──この指導者たちがカトリック教会に執着していると認識できてもいません。カトリック教会は実際には今日のようなありさまですが(キリストが十字架上において外観を損なったように、悲しむべきことに近代主義とリベラル主義によって外観を損なっています)、それにも関わらず、キリストがペトロの岩の上にお建てになり、地獄の門はこれに勝たざるべしとおっしゃったカトリック教会のままなのです。聖トマス・アクィナスは、すべての法は本質的に秩序 ordo rationis であると説明しています。つまり天主の法への服従は、必然的に秩序への愛を暗示することになり、従って天主の教会の内部の秩序のうちにあるべきだという熱望を暗示するのです。教会法的正常化とは、この目的のために他なりません。ですから、この中にリベラル主義的なものはなにもありません。その反対です。


ペトロの後継者への服従ということを区別する

 では、問題はどこにあるのでしょうか? 今日、教会内で職権を持つ人々が、程度の差はさまざまであれリベラル主義に感染しているという事実が原因です。フェレー司教様も聖ピオ十世会のどんな司祭もこれを否定しません。しかし、フェレー司教様と聖ピオ十世会の忠実な司祭たちが、ルフェーブル大司教様の模範にならって、リベラル主義者としてではなく、否、リベラル主義に反対しつつ、十二使徒の後継者としてペトロの後継者に服従することとの間に区別をつけている一方で、フェレー司教様に反対する人々は、感情的になってこのような区別をつけられず、聖アウグスチノのドナトゥス派に反対した教え「善い人々は悪い行為に同意しない限り、教会内において悪い人々と交っても害を被らない」を知らずに邁進しているのです。この悪い人々という言葉は、ラテン語のmaliの翻訳です。リベラル主義者という言葉を悪い人々という言葉に置き換えてみて下さい。リベラル主義は悪ですから、聖アウグスチノの原則は間違いなくフェレー司教様の立場となり、司教様に反対する人々への反論となります。すなわち、カトリック教会において、リベラル主義者たちと交わることは、善い人々が彼らのリベラル主義に同意しない限り、害を被らないのです。

 聖アウグスチノの原則を理解するためには、カルメル神父様がたびたび喚起させていたこと「教会のかしらはキリストである」という偉大な真理を忘れてはなりません。教皇はキリストの代理者にすぎません。教会のメンバーたちとの交わりは、まず第一にキリストとの交わりであるがために、善い人々は悪に同意しない限り害を被ることはありません。そして、ある人々は、キリストが教会のかしらであることを忘れているので、教会の人間的側面だけに注意を払い、キリストの教会で万事を支配されるイエズスの聖心を忘れ、この交わりをとても恐れています。彼らの苦々しい熱心──ルフェーブル大司教様の精神とは正反対の──は、このイエズスの聖心を軽視していると告白しています。彼らのために祈りましょう。

リベラル主義の度合い

 ルフェーブル大司教様がよく指摘していたことは、リベラル主義の度合いは多岐に渡るということです。ある人々はあらゆる法と義務の原則を一つ残らず拒絶しています。このようなリベラル主義者たちには間違いなくまことの信仰がありません。
別の人々は、天主と天主の法、そしてカトリック信仰のすべての真理を認めつつも、自分の置かれた具体的な状況に天主の法と信仰とを充分に適応せずに、あるいは、近代社会において天主の法と信仰との持つ論理的結論を認める勇気を持っていません。そして、これらリベラル主義者たちの中でもリベラルの度合いもまた、多岐に渡るのです。私たちの主が使徒たちに向けた叱責「ああ、信仰薄き者よ!」(マテオ八章二十六節、十七章十六節など)がふさわしいとはいえ、これらの人々にはまだ信仰はあります。ですから、リベラル主義に染まっているすべての人々を、まるで、彼らが全て等しく、恐るべき重罪、すなわち天主との敵対に陥っているかのように、誰彼かまわず非難してはなりません。さらに、リベラル主義者のすべての行為を一つ残らず邪悪であると解釈すべきではありません。十九世紀には、教皇ピオ九世やピ枢機卿のような偉大な反リベラル主義者たちは、リベラル主義を猛然と非難しつつも、デュパンルー枢機卿やモンタランベール伯爵のようなリベラル主義者が行った善いことを賛美するのを恐れませんでした。

眼に見える教会

 その上、フェレー司教様を告発する者たちには驚くべき論理の欠如があります。引用してみましょう。「私たちは眼に見える教会に加わらなければならない、なぜなら眼に見える教会はカトリック教会であるから、と彼ら[聖ピオ十世会の指導者層のこと]は言います。しかし、英国国「教会」は依然としてイギリス中に眼に見えるものです。これはアングリカンをカトリックにするというのでしょうか?」この論拠は聖ピオ十世会の指導者たちが「眼に見えるものなのでカトリック教会です」あるいは「すべての眼に見える教会は、カトリックです」と言った場合に限り有効です。ですが聖ピオ十世会の指導者たちは明らかにそのようなことは言っていません。従ってこの見せかけの反論(「しかし、英国国「教会」は云々」)は単なる詭弁に過ぎません。

 フェレー司教様と聖ピオ十世会の指導者たちが強調して主張している真実は、カトリック教会は、昨日だけでなく今日も、眼に見えるものである、ということです。この教会は、過去にルフェーブル大司教様によって認識された、そして、今日、フェレー司教様と(私たちが一九七〇年の創立からずっと現在もその会員であり、その中において私たちの義務はその "秩序" の中にあることである)聖ピオ十世会によって承認されている、眼に見える、具体的な、ローマの、カトリック教会のことです。この中にはどのようなことであれ、リベラル主義的なものは何もありません。

 今日、フェレー司教様に反対する人々が、この眼に見える、具体的な、ローマ・カトリック教会を拒絶するなら、どれが彼らの教会なのでしょうか? それはどこにあるのでしょうか? 目に見えるものなのですか? さもなくば、権威も義務もない彼らの言う「緩やかな結束」のようなものでしょうか? このような構想にはカトリック的なものは何ひとつありません! こうれが教会についての彼らの考えであるとは思いません。

しかし、彼らの誤りは、次のことであるようです。つまり、教会の一致とは副次的であり、信仰に付け足しの飾りだと考えていることです。まるで信仰を持っているならば、教会の他の成員たちがリベラル主義者である場合、聖職者同士の交わりから免除されるのだといわんばかりです。確かに信仰は純粋なまま固守しなければなりません。なぜなら「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない」からです(ヘブライ十d一章六節)。でも、愛徳なしの信仰は無に等しいのです(コリント前書 十三章二節)。これは、聖アウグスチノがたびたび説明したように、交わりの絆を保つために用いるように強いる愛徳であり、「完徳の絆」(コリント三章十四節)です(ディノイア大司教はこのことについて美しい文章を引用していますし、だれにでも非常に多くの類似の文章が簡単に見つかります)。ここに、現実的かつ奇妙な危険があります。それは、聖伝の信仰を守るために、彼らは「信仰のみ sola fide 」という【プロテスタント式の】考えに傾いているのではないか? ということです

 三ヶ月前、私は「いろいろな「教会」とは?」というタイトルの記事の中で、このような文章を書きました。

「(彼らの主張の記事の一つに)このような文章があります。「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。すぐに次のような疑問が湧き起こります。カトリック教会とは「眼に見える教会の中の一部分」にすぎないのか、と? そして、これはさらに次のような基本的な別の疑問へと導かれます。つまり、キリストの教会たるカトリック教会と、(それとは別の)眼に見える教会という区別をつけることは正当なことだろうか? と。それどころか、カトリック信仰により、私たちはキリストの教会たるカトリック教会と眼に見える教会との間にある同一性を告白する義務があるのではないのか? その通り! キリストの教会とはカトリック教会であり、この教会は眼に見えるものなのです!」
 ルフェーブル大司教様の信仰とはこのようなものでした。


「公会議のローマ」に対する戦い

 「ルフェーブル大司教の信仰を決して理解したことがなかった」人々とは、実のところ、大司教様が信じ、大司教様が晩年を含むその全生涯をお捧げになった、この眼に見える、具体的な、ローマ・カトリック教会を拒絶している人々であると、私には思えます。

 フェレー司教様に対するもう一つの非難は「フェレー司教は自分の権威を、配下の者たちが聖ピオ十世会に入会したときに持っていた指導方向と反対のこと、すなわち、公会議のローマに対する戦いの放棄を彼らに強いている」というものです。初めからこの公会議のローマという表現を明確にしておかなければなりません。つまり、彼らがこの言い方で、公会議の精神、第二バチカン公会議の誤謬とそれらの多様な適用を指しているなら、このような非難は中傷です。すなわち、これは偽りであり、フェレー司教様の評判を深く傷つける重大な攻撃です。

 ローマとの神学的討論に対する聖ピオ十世会の会員の選択は、フェレー司教様が、公会議の新奇なことに反対するカトリック真理の擁護において一切の脆弱を望まなかったということ、そして昨年のまさに初めに、司教様はご自分の最初の原則である「信仰について一切の妥協なし!」を明確に据えていたと教えています。それに続く数ヶ月は、フェレー司教様が聖ピオ十世会を妥協させるだろうと吹聴された偽の予言にも関わらず、司教様はこの原則に忠実であったと証明するのみでした。

 反対に、もしも「公会議のローマ」ということによって、それがカトリック教会の組織であると言うよりも別の教会組織を意味するのならば、このようなことを言う人々は、教会の危機について間違った理解、ルフェーブル大司教様のものとは違う理解をしていると言わねばなりません! いいえ、フェレー司教様は「下劣な父親」ではないどころか、むしろ(一握りの反抗的な子どもたちをも持っている)「忠実な父親」です!


カトリックのローマのために

 次のことを付け加えましょう。これは基本的な論拠ですが、ルフェーブル大司教様の本質的立場とは、反対とう立場ではなく、むしろ、そのためにという立場でした。大司教様はすべての時代のカトリック信仰に完全に忠実であったために、公会議の新奇なことに反対されたのでした。このような態度はまず第一に「そのために」であり、そのつぎに「反対」なのです。このことは、大司教様の有名な宣言の中ではっきりしています。

「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。私たちは、しかしながら、第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した」と。

 しかし、自分たちを一九七〇年代と八〇年代のような近代主義が華々しかった状況に反抗することを第一とした人々は、もはや異なった状況、例えば、明らかな逸脱を正し、典礼と教会の生命をより聖伝に近づけるために戻そうと(不完全ですが現実的に)努力したベネディクト十六世の状況下においてどうやって対処するのかがわかりません。何故なら、彼らは、あらゆる状況下で依然として有効である、優れた肯定的な原則を持たない(あるいは忘れてしまった)ので、自分たちの身の処し方がわからないのです。


的外れな抵抗

 こういった批判の中に、もう一つあまりにも頻発している錯覚が存在します。すなわち、彼らはフェレー司教様への抵抗を、ルフェーブル大司教様の公会議の新奇なことへの抵抗になぞらえているということです。彼らが「公会議の革命と【ローマと聖ピオ十世会の】同意の革命」とが類似していると耳にしますが、この比較はむしろ彼らの立場の愚かさを示しています。それどころか、この二つの比較は、際立って全く違う対照的なものであることがわかります。三つの側面を考えることが出来ます。
第一に、ルフェーブル大司教様は公会議の新奇なことが導入されたのちに抵抗しました。つまり、公会議の後にそして新ミサが導入されたのちにエコンでの事業を開始し、アシジの集会ののちに司教聖別をなさったのです。反対に、この批判の数々がフェレー司教様を攻撃しているのは、いかなる妥協もされる前になされたことです。これらの批判は、将来の妥協が来るだろうとなされましたが、そのようなものは全く起こりませんでした
第二に、原因の規模を考えてみましょう。一方で、まず公会議、新ミサ(そして何一つ見逃されることなく起こった全ての秘跡かかわる典礼全体の改革)、そしてアシジの集会──これらは巨大なスキャンダルであり、何万という霊魂にすさまじい損害をもたらしています。それに対し、彼らは即興で答えたインタビューの中のいくつかの言い回しや、片手で数えることの出来るほんの少数の機会を大問題にして批難しています。この両者は全く正反対の態度であり、このことを理解しない彼らの盲目にただただ驚くしかありません。
第三に、ルフェーブル大司教様は、公会議と典礼改革、アシジの集会の深刻さにも関わらず、パウロ六世の退位もヨハネ・パウロ二世の退位も要求しませんでした。ですが、この批判者たちはフェレー司教様の辞職を要求しています。聖アウグスチノはこう教えています。人を殉教者とするのは苦しみや死ではなく、なによりもまず、その人の大義である、と。つまり、ルフェーブル大司教様には公会議と典礼の新奇さに抵抗する、正当かつふさわしい大義がありましたが、フェレー司教様の批判者たちには、抵抗運動に対してのいかなる釣り合いもありません。これは単なるあからさまな反逆にすぎません。


リベラルな反リベラル主義者

 冒頭で私は「彼らは自分たちが排斥するまさにその問題(リベラル主義)へとみずから陥ってしまっているにも関わらず、反リベラル主義者を装っている」と書きました。正しく、リベラル主義者たちの特徴とは、権威を拒絶すること、教義的真理の権威であれ、天主の法の権威であれ、教会位階の権威であれ、権威の拒絶にあります。「リベラル主義者は、狂信的な独立愛好者である。あらゆる分野で、狂気の沙汰に至るまで独立を促進する」と、ルッセル(Roussel)神父はこのようにリベラル主義者を定義しました。そしてこの定義を、ルフェーブル大司教様は引用しています(『彼らは主の王冠を奪った』十四ページ)。
ところで、見てください。例のご立派な "反リベラル主義者たち" が画策している「独立した細胞(基礎組織)」、すなわち、彼らの間の緩やかな結束、しかも従うべき権威のない結束を! 彼らは従順とは何かを知らないがゆえに、命令の仕方もわからないのです。そして権威とは上から来るので、また彼らは正当な長上たちからみずからを切り離したので、彼らはあらゆる権威を失ってしまったのです。
その反対に、ルフェーブル大司教様は、教会の根幹に良く根付いた生ける枝として、聖ピオ十世会を創立されました。それは、シャリエール司教の教会法的承認によって、従って、権威の正当な線にしっかりと結びつき、まことのカトリック教会のわざとして、創立したからです。これは、私たちを批判する人々の間にあるようにではありませんでした。
ルフェーブル大司教様ご自身、この権威の行使の仕方をご存知でした(たとえば他の例として、聖座空位論者たちを聖ピオ十世会から追放することによって行使しました)。ここにも、一方でルフェーブル大司教様のした正当な抵抗と、他方で、権威の拒絶により、彼らが批判したまさにその間違いへと陥った反逆者たちとの間にある正反対のものを、また見ることとができます。

「父性の模範(これは権威を含む)に頼り、権威的組織そのものによらない」などとうそぶくことには、重大な幻想があります。なぜなら、正しくその権威的組織をきっぱりと拒絶することで、彼らはリベラル主義の典型である権威なしの父性に否応なく転落することになるからです。彼らはこのように言います。「それが矛盾でなかったとするなら、権威なし構造を、しかし父性をもった構造、そう、父性のある構造を目指したい、父性は、不可欠なのだ!」と。
彼らにとって不幸なことには、これは矛盾です! 権威(authority)という言葉はまさしく生み出す者(author)という言葉に由来します。子どもたちを生み出す者ではない父親は、間違いなく父親ではないはずです! 子どもたちの上にまことの権威を持つのを拒否する父親は……リベラル主義者の父親でしょう! 権威なしのまことの父性などというものは存在しないのです。

 彼らはリベラル主義を「なんの規則もない、あるのは自己の意志だけ、という宗教」であると、実にうまく非難します。しかし、それならなぜ、彼らは司祭たちの自由な同盟、なんの規則もない、あるのは彼らのやりたい放題だけという同盟を作っているのでしょうか?

 彼らがみずからを正し、謙遜に聖ピオ十世会にもう一度受け入れられることを請うよう祈りましょう。聖ヨゼフが彼らのためにこの恩寵を勝ち得てくださいますように!

フランソワ・レネー神父



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