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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き10)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き10)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き10)


  (e)内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする (1/3)

 初版に付け加えられた本章を書くのは、私たちの兄弟である司祭たちの一人一人の心へと語りかけた手紙の形をとっている。
C'est en forme de lettre adressée au coeur de chacun de nos confrères qu'il conviendrait d'écrire ce chapitre ajouté aux premières éditions.

 冒頭において考察したように、すべて使徒的事業が成功するか、しないかは、もっぱら、それに従事する使徒自身の、内的生活いかんにかかっている。
 次に、わたしは多く祈り、かつおのれに反省したあげく、ある事業が、実を結ばない、骨折り損のくたびれもうけに終わるのがあるが、これはいったい何に起因するのか、ということを、まじめに考究し分析してみた。そして今では、こういう結論に達している。――もし福音の働き手が、霊魂たちを、内的生活に生まないなら、そのたずさわっている事業は、超自然的に深く根をはっていない、ほんとうに堅固ではない、したがって長続きのするものではない、と。
 事業が、深く根をはり、ほんとうに堅固であり、したがって長続きするためには、どうしても使徒自身が、深奥で強力な内的生活につちかわれていなければならない。本書の第二部第三章に、チモン・ダビド神父(chanoine Timon-David)の言葉をかかげておいたが、それはすべて使徒的事業をやるには、まずその事業の核心となる熱心な信者をつくる必要がある、そうすれば、かれらがその仲間たちにたいして、真の使徒職を発揮することができる、ということであった。
 この人たちは、じつにかけがえのないパンダネのようなものであって、かれらの協力があれば、使徒はその活動力をどれほど増大することができるか、これは誰の目にも、自明の理にひとしい。そのとき、使徒は、ただ一人で働かない。活動の手足となる者がふえるので、活動そのものが、幾倍にも拡大されるわけである。
 だが、急いでつけ加えねばならぬことがある。それは、ただ内的事業家だけが、ただ超自然的生命に充満している使徒だけが、同じ生命に充実するキリスト信者をつくることができる、ということである。
 自分の事業を、宣伝し拡張するために、友情や党派心や競争心によって、熱烈な運動員をかり集めることは、純然たる世間的・営利的な事業だったら、りっぱにできる。熱狂的な事業欲や競争心、党派心や自負心、興味や野心――こんなものに刺激され、促進されて、事業はりっぱにやっていけるものだ。
 ところが、イエズス・キリストの聖心の要求にかなった使徒をつくる、――その柔和と謙遜、その没我的な親切心、天父の光栄のためにのみ燃えさかるその奮発心、に参与できる使徒をつくりだす、という段になると、そうはいかぬ。深い内的生活だけが、そのための唯一の手段なのである。
 事業が、こういう美しい成果を生みださないかぎり、その存続は一時的である。朝に生まれて夕べに死ぬ、かげろうの運命である。そういう事業は、創立者の死とともに滅びる。これは、ほとんど確実な真理だといっていい。

 なぜ、ある事業が“時”の破壊力によく耐えて、ながく存続するのか。その理由は、次の事業にかかっている。すなわち、事業にたずさわっている人が、事業の対象となっている人びとの心に、おのれの内的生活のあふれから、新しいもう一つの内的生活を生みだしてやる、という一事にかかっている。理論は、ともあれ、事実にうったえて、筆者の議論を証明する。

 アルマン神父(l'abbé Allemand)といえば、ご存じの通り、高い聖徳の香りのうちに死んでいかれたりっぱな司祭だが、かれはフランス大革命の起こる前、マルセイユで、学生や労働者のための事業を創設したのであった。この事業は、いまなお創立者の名前をいただいており、百年後の今日といえども、驚くべき繁栄を誇っている。
 ところで、創立者のアルマン神父はどうかというに、かれは自然的な方面からみれば、きわめて恵まれない素質の人であった。ひじょうに近視で、内気で、弁舌の才能などほとんど持っていない。人間的な言い方をすれば、この神父は、その事業の要求する感嘆すべき活動には、とうてい耐えきれないのである。もし霊魂の美しさが、そのまなざしに、そのすべての挙動に、反映していなかったら、かれの生まれつきいかにもまずい、みにくい顔だちをみて、いたずら盛りの若い人たちは、どうしてもふきださずにはいられなかったろう。
 だが、霊魂の美しさのおかげで、天主の人なる神父は、血気にはやる若い人たちのうえに、隠然たる勢力をもっていた。この勢力が、若い人たちを支配し、統御し、かれにたいしてどうしても、敬慕の念を禁じ能わざらしめたのである。
 アルマン神父が、イのいちばんに心がけたことは、自分の事業を、強固な内的生活の土台のうえに、築き上げることだった。かれはまもなく、事業の中心に、一群の若い人たちを、事業の推進力として置くことに成功した。そして、かれらにどしどし、強い要求をもちだしていったのである。すなわち、かれらの境遇のゆるすかぎり、内的生活を完全のいとまねばならぬ。心の取り締まりを十分に実行するように。毎朝の黙想を欠かさないように。一言でいうなら、初代キリスト教徒が理解し、実行していた通りのキリスト教的生活を、かれらもまた完全に実践するように、と要求するのだった。
 さて、このようにして養成された若い使徒たちは、次から次へと続々輩出し、じじつ、マルセイユでは、この人たちが、かれの事業の魂ともなったのである。かれらの中から、数名の司教が、主の教会に送りだされた。いまなお、いくたの在俗司祭が、宣教師が、修道士が、かれらのグループから出ている。そればかりか、げんにマルセイユで、教区事業のいちばん大切な中心人物となっている、無数の善良な家庭の父親を、つくりだしている。そしてこの人たちこそは、商工業会において、事務的職業の分野において、光輝ある集団を形成しているばかりでなく、使徒職を生みだす、ほんとうに幸福な家庭をつくっている。
 「善良な家庭の父親」――と今さきいったが、おそらくこういう言葉をきけば、いまどき方々で、ずいぶんやかましく論議されている家庭問題に、おのずと反響をよびおこさないではおくまい。ある人は、こんなことをいっている。
 「若い男たちや娘たち、それに奥さんたちあいての使徒職は、比較的にやりやすいのだが、年をとった男たちあいてだと、むずかしいどころの話じゃない、しばしば不可能の時すらある。ところで、われわれが家庭の父親たちを、ただ熱心なキリスト信者にするだけでなく、なおそのうえ、かれらをりっぱな使徒にまで仕上げることができないなら、母親たちがどんなにいちじるしい好影響を、家族員に及ぼすことができるにしても、それはいつも未然に防止されるか、それとも一時的のものでしかない。こんな調子では、キリストの社会的王座を、家庭内にすえることは、とうていできない相談である。
 ところで、町の教会でも田舎の教会でも、工場でも病院でも、どうやっても大人たちを、ほんとうにりっぱなキリスト信者にすることができない、どんなに工夫してもダメだ、という泣きごとをきくが、さてさて困ったものである……」
 なぜ、こんな泣き言をならべ立てて、おのれの無能を告白するのか。――それは、自分の内的生活が足らぬ、自分は内的生活の落第生である、というらく印を、自分で自分のひたいに、おしているようなものだ。教会の務めから遠ざかる、大人たちの数はたいへん多い。かれらが教会の務めから遠ざかるのを、未然に防いでくれる、うまい工夫はないものか。
 ――ある。
 ただ、内的生活だけが、それをわれわれに、みつけてくれるのだ。
 不信心な大人たちの、石のようにかたい頭に、氷のように冷たい心に、深い信心を、熱い愛を、強い決心を、起こさせる説教をするためには、まじめに、根気よく、準備しなければならない。それは、ずいぶん、骨の折れる仕事である。骨が折れるからこそ、それよりももっとやさしい労苦ですみ、そのうえ、もっと手っとり早く効果の現われる、若い人や奥さんたちあいてにするあまい話、お涙頂戴式の説教のほうを、先にするのではないか。いうことをきかぬ、年をとった男たちの霊魂に、教えのタネをまく仕事は、じっさい情けないこと、つらいことである。ながくたっても、芽は生えてこない。すくなくとも表面では……。
 このつらい使徒職にたずさわるとき、われわれの勇気をささえてくれるものは、ただ内的生活だけである。われわれの活動に、祈りの労苦と苦業のつらさが、どれほど強い力をあたえてくれるか、また、われわれがイエズス・キリストのすべての御徳を模倣し、その模倣がだんだん進んでいくとき、それがわれわれの使徒職の効果を人びとの上に、どれほど増大させることができるか、これらのことを教えてくれるものは、ただ内的生活だけである。
 仏国ノルマンジーのある大きな町で、兵隊あいての使徒職をやっている神父があったが、それが大変に成功した。その成功のいきさつを、ある人がしてくれたのだが、話がどうも、あんまりうますぎるので、筆者にはちょっと信じかねるのだった。
 その話というのは、こうだ。――兵隊たちを集めたいと思って、音楽会をやる。映画や芝居の催しをやる。むろん、兵隊は多少は集まるのである。ところが、こんどは、兵営内で侵されている冒瀆の罪や、わるい遊びの罪をつぐなうために、夜ふけまで聖体礼拝をやるぞ、といえば、こはいかに、兵隊たちの数は、音楽や映画をする日に比べものにならないほど激増する、というのだ。
 百聞一見にしかずで、筆者はわざわざ汽車賃をつかって、現場を見に行ったのだが、見てはじめて、事実と寸分ちがいのないことがわかった。ナゾは解けた。兵隊付きの司祭が、じつに偉かった。このチャプレンは、聖櫃のなんたるかを、よく悟っていた。そして、聖櫃のそばで、いかにすばらしい使徒を養成することができるか、そのすべを心得ていたのである。

 こんなみごとな実例もあるのに、世の中には今もなお、やれ映画だ、やれ演劇だ、やれダンス・パーティ―だ、こんなものがなければ人は集まってこない、これは聖ヨハネ福音書の次にくる、第五福音書のようなもので、これさえあれば、人びとの回心はお手のものだ、などと、トンデモナイことを考えている使徒たちもいらっしゃるようだが、まことに笑止の至りである。
 なるほど、他に方法が見つからない場合、そのようなものを使っても、人びとは集まってくるにちがいなかろう。したがって、罪悪から人びとを遠ざけることもできるに相違なかろう。こういう効果は、むろん、ある。だが、それは、いつも範囲が限られている。そして最もしばしば、一時的のもので、長続きはしないのだ。
 しかし、誤解しないで頂きたい。自分は、こういう方法を用いねば、他に妙案がない。それを考えだすことも、いわんや使用することもできない――と思っている人は、よろしく従来どおりのやり方をつづけるがいい。けっして奮発心を、冷却させてはならない。または、筆者がまだ若い、まだ経験のないころ、そう考えていたように、自分たちはこういう近代的伝道方法を、成功への絶対要件だと信じている、せっかくの仰せだが、それをいっさいやめにしたら、われわれの青年会は空になってしまう、そういう予感がする――とのことだったら、なんにも遠慮しないで、今までどおりにして頂きたいのである。

  (続く)

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