アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
この御復活をもって私たちの主は真に天主であることを証明しました。
福音書を素直に読むとわかる通り、最初、使徒たちはキリストの復活をまったく信じようとしませんでした。使徒たちは、主の復活を期待してさえいませんでした。弟子たちは恐怖し、失望していたのです。復活などは夢にも思わず、弟子たちが空の墓を発見した時にまず考えたことは誰かが主を盗んだということでした。使徒トマスは他の弟子たちが主を見たと言っても「その手に釘の痕を見、その釘の処に指を入れ、その脇にわが手を入なければ信じない」と頑固に拒んだのです。
しかし、どうしても否定できない、あまりにも確実で明らかな復活したイエズス・キリストを目撃し、その証拠の前に不信を捨て、復活の事実に屈服せざるをえなかったのです。
復活したイエズス・キリストを目撃した証人は、信頼に値する人々でした。彼らは決して嘘をついていたのでも、欺されていたのでもありません。彼らには嘘の証明をする必要も理由も利益もありませんでした。また彼らの強烈なまでの確信、キリストが復活後に彼らと共にあった時間の長さ等から見ても、彼らの錯覚ではありませんでした。
もしも弟子たちが、キリストが復活しなかったことを実際に知っていたとすれば、キリストが彼らを欺いたことを知っただろうし、キリストは偽のメシアになり、天主でもなkれば、何者でもないという確信を持ったはずです。そうならば何のための宣教でしょうか。嘘の復活の宣教から弟子たちはどんな利益を得ることができたでしょうか。迫害、絶えざる労苦、良心の呵責、地獄です。さらに、もしも彼らが本当はキリストは復活しなかったと大司祭のところに行って、キリストは大詐欺師だったと言えば、多額の報酬を得ていたことでしょう。彼らにとってキリストの復活を口にしない方が得策でした。しかし彼らは勇敢に「復活したキリスト」を宣言したのです。迫害と困苦の生涯が立ち向かおうともこれを否定しませんでした。
もしも彼らがキリストから騙されていたとするなら、実はキリストが十字架上で死ななかったこと、高潔で至聖なるキリストが欺瞞を全世界に宣布させて、天主が欺瞞と冒涜の宣布事業を奇蹟的成功をもって祝福したことという、ありえないことを想像しなければならなくなります。
聖霊降臨の日には、エルザレムにおいて聖ペトロは宣言します。「天主はこのイエズスを復活せしめ給えり、われらは皆その証人なり....その肉体は腐敗を見ざるなり」(使徒行録 2:32, 31)と。復活は数週間前の出来事でした。誰もが自らその証拠を仔細に調べることができました。彼らのうち3000名がその日に聖ペトロから洗礼を受けています。
聖アウグスチノは、復活が事実でなかったとするならば、「数人のガレリアの漁夫によって騙された世界の改宗」ということは、キリストの復活に勝る大いなる奇蹟でなければならないと言っています。
主は真に復活されました。私たちの主イエズス・キリストは真の天主、約束された真の唯一のメシアです。イエズス・キリストの創立したカトリック教会こそが真の宗教です。
私たちの主は、ご自分の復活をもってご自分が天主であることを証明し、同時に私たちもご自分とおなじ復活・永遠の命を与えることをお示しになります。私たちの栄光ある復活の保証は御聖体拝領です。真の天主イエズス・キリストは、御聖体拝領でご自分の復活された御体を私たちに与え、ご自分の復活体で私たちを生かします。私たちの主はいいます。「私の肉を食べ私の血を飲むものは、永遠の命を持つ。私は彼を最後の日に復活させよう。」
私たちの主のご受難は、主の私たちへの愛を強烈に物語ります。主の御復活は、私たちが何を愛すべきか、誰を愛すべきか教えてくれます。御聖体のうちにまします復活され生きておられるイエズス・キリスト!
キリストによって贖われなかったなら、私たちがこの世に生またことはいかなる利益もなかった!
おお!御身の私たちに対する何と驚くべきかたじけなき優しさよ!
おお!評価しきれない愛徳の深さよ!御身は、奴隷を買い戻すために、御自分の子を渡し給うとは!
おお!キリストの死によってそれが破壊されるために、確かに、アダムの罪は必要であった。
おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか!
イエズス・キリストの愛の深さ!憐みの巨大さ!
聖母よ、私をして主の聖心の愛の深さを悟らせてください!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
この御復活をもって私たちの主は真に天主であることを証明しました。
福音書を素直に読むとわかる通り、最初、使徒たちはキリストの復活をまったく信じようとしませんでした。使徒たちは、主の復活を期待してさえいませんでした。弟子たちは恐怖し、失望していたのです。復活などは夢にも思わず、弟子たちが空の墓を発見した時にまず考えたことは誰かが主を盗んだということでした。使徒トマスは他の弟子たちが主を見たと言っても「その手に釘の痕を見、その釘の処に指を入れ、その脇にわが手を入なければ信じない」と頑固に拒んだのです。
しかし、どうしても否定できない、あまりにも確実で明らかな復活したイエズス・キリストを目撃し、その証拠の前に不信を捨て、復活の事実に屈服せざるをえなかったのです。
復活したイエズス・キリストを目撃した証人は、信頼に値する人々でした。彼らは決して嘘をついていたのでも、欺されていたのでもありません。彼らには嘘の証明をする必要も理由も利益もありませんでした。また彼らの強烈なまでの確信、キリストが復活後に彼らと共にあった時間の長さ等から見ても、彼らの錯覚ではありませんでした。
もしも弟子たちが、キリストが復活しなかったことを実際に知っていたとすれば、キリストが彼らを欺いたことを知っただろうし、キリストは偽のメシアになり、天主でもなkれば、何者でもないという確信を持ったはずです。そうならば何のための宣教でしょうか。嘘の復活の宣教から弟子たちはどんな利益を得ることができたでしょうか。迫害、絶えざる労苦、良心の呵責、地獄です。さらに、もしも彼らが本当はキリストは復活しなかったと大司祭のところに行って、キリストは大詐欺師だったと言えば、多額の報酬を得ていたことでしょう。彼らにとってキリストの復活を口にしない方が得策でした。しかし彼らは勇敢に「復活したキリスト」を宣言したのです。迫害と困苦の生涯が立ち向かおうともこれを否定しませんでした。
もしも彼らがキリストから騙されていたとするなら、実はキリストが十字架上で死ななかったこと、高潔で至聖なるキリストが欺瞞を全世界に宣布させて、天主が欺瞞と冒涜の宣布事業を奇蹟的成功をもって祝福したことという、ありえないことを想像しなければならなくなります。
聖霊降臨の日には、エルザレムにおいて聖ペトロは宣言します。「天主はこのイエズスを復活せしめ給えり、われらは皆その証人なり....その肉体は腐敗を見ざるなり」(使徒行録 2:32, 31)と。復活は数週間前の出来事でした。誰もが自らその証拠を仔細に調べることができました。彼らのうち3000名がその日に聖ペトロから洗礼を受けています。
聖アウグスチノは、復活が事実でなかったとするならば、「数人のガレリアの漁夫によって騙された世界の改宗」ということは、キリストの復活に勝る大いなる奇蹟でなければならないと言っています。
主は真に復活されました。私たちの主イエズス・キリストは真の天主、約束された真の唯一のメシアです。イエズス・キリストの創立したカトリック教会こそが真の宗教です。
私たちの主は、ご自分の復活をもってご自分が天主であることを証明し、同時に私たちもご自分とおなじ復活・永遠の命を与えることをお示しになります。私たちの栄光ある復活の保証は御聖体拝領です。真の天主イエズス・キリストは、御聖体拝領でご自分の復活された御体を私たちに与え、ご自分の復活体で私たちを生かします。私たちの主はいいます。「私の肉を食べ私の血を飲むものは、永遠の命を持つ。私は彼を最後の日に復活させよう。」
私たちの主のご受難は、主の私たちへの愛を強烈に物語ります。主の御復活は、私たちが何を愛すべきか、誰を愛すべきか教えてくれます。御聖体のうちにまします復活され生きておられるイエズス・キリスト!
キリストによって贖われなかったなら、私たちがこの世に生またことはいかなる利益もなかった!
おお!御身の私たちに対する何と驚くべきかたじけなき優しさよ!
おお!評価しきれない愛徳の深さよ!御身は、奴隷を買い戻すために、御自分の子を渡し給うとは!
おお!キリストの死によってそれが破壊されるために、確かに、アダムの罪は必要であった。
おお!かくも偉大でかのような贖い主をいただけるとは、何と幸せな罪であったか!
イエズス・キリストの愛の深さ!憐みの巨大さ!
聖母よ、私をして主の聖心の愛の深さを悟らせてください!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)