アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き13)
(f)聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包合されている (1/2)
ご托身の目的――したがって、いっさいの使徒職の目的――は、人類の天主化である。
「キリストが人となられたのは、人を“天主”にするためであった」
Christus incarnatus est ut homo fieret deus.
これは、聖アウグスチノの言葉である。
さらに、聖トマス・アクィナスは、自分で作った、聖体の大祝日の典礼文のなかで、次のようにいっている。
「天主の御ひとり子は、われわれを、ご自分の天主性に参与させようとおぼし召され、そのために、われわれ人間の本性を、おとりになった。人びとを、“天主”にするためにこそ、かれは人となられたのである」
Unigenitus Dei Filius suae divinitatis volens nos esse participes, naturam nostram assumpsit, ut homines deos faceret factus homo.
さて、聖体によってこそ、さらに適切ないい方をすれば、聖体的生活によってこそ、さらにいいかえれば、聖体のうたげに養われる強固な内的生活によってこそ、使徒はおのれを、天主の生命に同化させるのではないか。
右の真理を実証する聖主のお言葉が、ここにある。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に生命はない」(ヨハネ6・53)
Nisi manducaveritis carnem Filii hominis et biberitis ejus sanguinem, non habebitis vitam in vobis.
これは断固として、他のいかなる解釈もゆるさない、ただひとすじの意味に、すなわち字義通りに、とらねばならぬお言葉である。
聖体的生活とは、われわれのうちにおける、イエズス・キリストのご生活そのものである。聖体的生活によって、イエズス・キリストは、われわれの内にお住まいになる。
イエズス・キリストは、われわれが聖体を受けるために、ぜひもっていなければならぬ恩寵の状態によって、われわれの内にお住まいになるのはもちろんだが、それよりもっとありがたいことには、かれはご自分の活動のあふれをもって、われわれの内に、われわれを通じて、お働きくださるのである。「わたしがきたのは、羊に生命を得さえ、なお豊かに得させるためである。(ヨハネ10・10)と聖主は仰せられて、この間の消息を、あきらかにされている。
使徒の任務は、天主の生命を、信者の心にそそぎ入れるために、まず自分自身、この生命に満ちみちていることである。そして、聖体にこそ、天主の生命の泉は、ゆたかにたたえられているのである。はたしてそうであるなら、聖体のお働きなしに、どうしておのれの事業によって、この生命を直接間接わけあたえてやらねばならぬ人びとの上に、事業の効果を及ぼすことができるのだろうか。
イエズス・キリストが、聖体の秘跡をご制定になったのは、聖体をもって、いっさいの活動の源泉にしたい、いっさいの信心の、ほんとうの教会のためになる、いっさいの使徒職の魂にしたいおぼし召しからである。この結論に達しないなら、イエズスが現実に、パンとぶどう酒の形色のもとに臨在する、というドグマを黙想したからとて、なんの役に立つだろうか。人類救済にかかわるすべての奥義が、カルワリオを中心にして、そのまわりを回転しているのは、とりもなおさず、救霊にかかわるすべての恩寵が、祭壇の犠牲なるミサ聖祭から、流れくだることを実証するのではないか。
Impossible de méditer sur les conséquences du dogme de la présence réelle, du sacrifice de l'autel, de la communion, sans être amené à conclure que Notre-Seigneur a voulu instituer ce Sacrement pour en faire le foyer de toute activité, de tout dévouement, de tout apostolat vraiment utile à l'Eglise. Si toute la Rédemption gravite autour du Calvaire, toutes les grâces de ce mystère découlent de l'Autel. Et l'ouvrier de la parole évangélique qui ne vit pas de l'Autel n'a qu'une parole morte, une parole qui ne sauve pas, parce qu'elle émane d'un cœur qui n'est pas assez imprégné du Sang rédempteur.
だから、祭壇の秘跡なる聖体を、自分の生活の中心にしない人は、たとえ福音の言葉を述べ伝える使命をおびてはいても、その語る言葉は、死んだ言葉である。生命がないから、どんなに雄弁をふるっても、けっして世を救うことのできない言葉である。救世主の尊い御血にひたされていない心からでる言葉――ただの人間の言葉にすぎないのだからである。
そんなわけで、救世主が最後の晩さんの後、すぐに、ぶどうの木のたとえをかりて、内的精神に生かされていない使徒的活動が、なんの役にも立たないゆえんを、あれほど強く、あれほど明快にご説明になったのも、そこにちゃんと深いご計画があったからである。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15・4)
Sicut palmes non potest ferre fructum a semetipso, sia nec vos nisi in me manseritis.
しかし、このお言葉につづいて、すぐに聖主は、「もし人が、わたしにつながっており、また、わたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」Qui manet in me et ego in eo, hic fert fructum multum.(ヨハネ15・5)と仰せられて、内的生活に、聖体的生活に生きる使徒によってなされる事業が、どれほどねうちのあるものであるかを、お示しになったのである。
こういう使徒だけが、多くの実を結ぶ。
こういう使徒でなければ、使い物にならぬ。
こういう使徒を通じてでなければ、天主は力づよく、お働きにならない。これが聖アタナジオは「われわれは、キリストの御肉によって天主となった」といっていることだ。C'est que, dit saint Athanase, «nous sommes faits dieux par la chair du Christ ».
説教師や、カトリック要理を教える人が、自分の心に、キリストの御血の熱火を保っているとき、かれらの心が、聖体のなかにいますイエズス・キリストの聖心を燃えたたせている愛の火にもえさかっているとき、そのかたる言葉は、どれほど生き生きとしていることだろう。どれほど熱烈で、どれほど群衆の心をもえたたせることだろう。
天主が、ご自分の福音宣伝の事業のために、お選びになる使徒たちが、聖体拝領によって、かれらの奮発心の火をもやし、ほんとうに“キリスト保持者”Porte-Christとなるとき、聖体の効果はどんなにすばらしく発揮されることだろう。教場でも、病院でも、青年会でも、その他いずこにおいても……。
悪魔がどんなに人びとの霊魂を、無知と誤謬の牢獄につなぎとめるのが上手であっても、また、どんなに不遜で不潔で、たえまなく人びとの霊魂を、傲慢の毒酒によわせて有頂天にしてやろう、肉欲のドロ沼につきおとして溺れ死にさせてやろう、と必死になっていても、使徒職の魂をいかすまことの生命なるイエズス・キリストの聖体こそは、救霊の敵にたいして、無比のはたらきをしてくれることを、使徒に身にしみて実感させるのである。
聖体によって、愛は完成される。多くのことについて、思い煩わねばならぬ事業をやっているうち、使徒の愛も、いきおい冷めざるをえない時もあろう。しかし、キリストのご受難の生ける記念なる聖体こそは、まさに消えようとするこの天主の愛の火を、ふたたび使徒の心に、たきつけてくれる。
聖体は、かれに、ゲッセマニの園を、ピラトの官邸を、カルワリオの惨劇を、まざまざと思い出させる。
聖体は、かれに、キリストのお苦しみとお辱めにかんして、えがたい知識をあたえる。
福音の働き手は、キリストのご受難から、人間苦の解決と慰めを汲みとる。かれがひとたび、なやめる人びとに教えを説くとき、そのかたる言葉は、かれらにも自分のように、救い主のご受難になぐさめを見いださせる。かれの言葉は、イエズスを手本とする諸徳の光かがやく言葉である。かれのかたる言葉の一語一語は、あたかも人びとの上にそそがれる、キリストの御血のひとしずくのように尊い。
聖体的生活を反映しない使徒の言葉は、たとえ福音のおしえを説いても、なるほど人の心をすこしは引くこともあろう。だが、それは、つかのまである。想像とか、感情とか、そういう感性能力は動かしうるかも知れぬ。要塞の外郭だけは、どうにか占領できるかも知れぬ。だが、内部の堅陣――すなわち、心とか意志は、絶対に奪取することができない。
霊魂がいかなる程度に、聖体生活をいとなんでいるか、その同じ程度にしか、かれの従事する使徒職は実を結ばないのが、ほとんど一般の原則となっている。自分の使徒職がりっぱに実を結んでいる、明らかな証拠となるものは、人びとの霊魂にも、聖体のうたげに最もしばしば、かつ効果的に与りたい、つまり聖体拝領をしたい、との烈しい渇望である。しかも、このようなりっぱな効果は、使徒がまず自分自身、ほんとうに聖体のイエズスに生きているという水準でなければ、獲得することができない。
Au degré de vie eucharistique acquis par une âme, correspond presque invariablement la fécondité de son apostolat. La marque, en effet, d'un apostolat efficace, c'est d'arriver à donner aux âmes la soif de participer fréquemment et pratiquement au banquet divin. Et pareil résultat n'est obtenu que dans la mesure où l'apôtre lui-même vit véritablement de Jésus-Hostie.
聖トマス・アクィナスは、なにかむずかしい神学の問題にぶつかったときには、いつも聖ヒツのなかに頭を突っ込んで、難問の解決を、聖主におねがいするのだった。そのように、使徒も、聖体のイエズスに、いっさいの事業を、いっさいの活動を、いっさいの困難を、委託するのである。そして、人びとの上に及ぼすかれの影響こそは、生命のつくり主なるこのイエズス・キリストにたいするかれの信頼を、実行にうつしたものにほかならない。
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き13)
(f)聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包合されている (1/2)
ご托身の目的――したがって、いっさいの使徒職の目的――は、人類の天主化である。
「キリストが人となられたのは、人を“天主”にするためであった」
Christus incarnatus est ut homo fieret deus.
これは、聖アウグスチノの言葉である。
さらに、聖トマス・アクィナスは、自分で作った、聖体の大祝日の典礼文のなかで、次のようにいっている。
「天主の御ひとり子は、われわれを、ご自分の天主性に参与させようとおぼし召され、そのために、われわれ人間の本性を、おとりになった。人びとを、“天主”にするためにこそ、かれは人となられたのである」
Unigenitus Dei Filius suae divinitatis volens nos esse participes, naturam nostram assumpsit, ut homines deos faceret factus homo.
さて、聖体によってこそ、さらに適切ないい方をすれば、聖体的生活によってこそ、さらにいいかえれば、聖体のうたげに養われる強固な内的生活によってこそ、使徒はおのれを、天主の生命に同化させるのではないか。
右の真理を実証する聖主のお言葉が、ここにある。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に生命はない」(ヨハネ6・53)
Nisi manducaveritis carnem Filii hominis et biberitis ejus sanguinem, non habebitis vitam in vobis.
これは断固として、他のいかなる解釈もゆるさない、ただひとすじの意味に、すなわち字義通りに、とらねばならぬお言葉である。
聖体的生活とは、われわれのうちにおける、イエズス・キリストのご生活そのものである。聖体的生活によって、イエズス・キリストは、われわれの内にお住まいになる。
イエズス・キリストは、われわれが聖体を受けるために、ぜひもっていなければならぬ恩寵の状態によって、われわれの内にお住まいになるのはもちろんだが、それよりもっとありがたいことには、かれはご自分の活動のあふれをもって、われわれの内に、われわれを通じて、お働きくださるのである。「わたしがきたのは、羊に生命を得さえ、なお豊かに得させるためである。(ヨハネ10・10)と聖主は仰せられて、この間の消息を、あきらかにされている。
使徒の任務は、天主の生命を、信者の心にそそぎ入れるために、まず自分自身、この生命に満ちみちていることである。そして、聖体にこそ、天主の生命の泉は、ゆたかにたたえられているのである。はたしてそうであるなら、聖体のお働きなしに、どうしておのれの事業によって、この生命を直接間接わけあたえてやらねばならぬ人びとの上に、事業の効果を及ぼすことができるのだろうか。
イエズス・キリストが、聖体の秘跡をご制定になったのは、聖体をもって、いっさいの活動の源泉にしたい、いっさいの信心の、ほんとうの教会のためになる、いっさいの使徒職の魂にしたいおぼし召しからである。この結論に達しないなら、イエズスが現実に、パンとぶどう酒の形色のもとに臨在する、というドグマを黙想したからとて、なんの役に立つだろうか。人類救済にかかわるすべての奥義が、カルワリオを中心にして、そのまわりを回転しているのは、とりもなおさず、救霊にかかわるすべての恩寵が、祭壇の犠牲なるミサ聖祭から、流れくだることを実証するのではないか。
Impossible de méditer sur les conséquences du dogme de la présence réelle, du sacrifice de l'autel, de la communion, sans être amené à conclure que Notre-Seigneur a voulu instituer ce Sacrement pour en faire le foyer de toute activité, de tout dévouement, de tout apostolat vraiment utile à l'Eglise. Si toute la Rédemption gravite autour du Calvaire, toutes les grâces de ce mystère découlent de l'Autel. Et l'ouvrier de la parole évangélique qui ne vit pas de l'Autel n'a qu'une parole morte, une parole qui ne sauve pas, parce qu'elle émane d'un cœur qui n'est pas assez imprégné du Sang rédempteur.
だから、祭壇の秘跡なる聖体を、自分の生活の中心にしない人は、たとえ福音の言葉を述べ伝える使命をおびてはいても、その語る言葉は、死んだ言葉である。生命がないから、どんなに雄弁をふるっても、けっして世を救うことのできない言葉である。救世主の尊い御血にひたされていない心からでる言葉――ただの人間の言葉にすぎないのだからである。
そんなわけで、救世主が最後の晩さんの後、すぐに、ぶどうの木のたとえをかりて、内的精神に生かされていない使徒的活動が、なんの役にも立たないゆえんを、あれほど強く、あれほど明快にご説明になったのも、そこにちゃんと深いご計画があったからである。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15・4)
Sicut palmes non potest ferre fructum a semetipso, sia nec vos nisi in me manseritis.
しかし、このお言葉につづいて、すぐに聖主は、「もし人が、わたしにつながっており、また、わたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」Qui manet in me et ego in eo, hic fert fructum multum.(ヨハネ15・5)と仰せられて、内的生活に、聖体的生活に生きる使徒によってなされる事業が、どれほどねうちのあるものであるかを、お示しになったのである。
こういう使徒だけが、多くの実を結ぶ。
こういう使徒でなければ、使い物にならぬ。
こういう使徒を通じてでなければ、天主は力づよく、お働きにならない。これが聖アタナジオは「われわれは、キリストの御肉によって天主となった」といっていることだ。C'est que, dit saint Athanase, «nous sommes faits dieux par la chair du Christ ».
説教師や、カトリック要理を教える人が、自分の心に、キリストの御血の熱火を保っているとき、かれらの心が、聖体のなかにいますイエズス・キリストの聖心を燃えたたせている愛の火にもえさかっているとき、そのかたる言葉は、どれほど生き生きとしていることだろう。どれほど熱烈で、どれほど群衆の心をもえたたせることだろう。
天主が、ご自分の福音宣伝の事業のために、お選びになる使徒たちが、聖体拝領によって、かれらの奮発心の火をもやし、ほんとうに“キリスト保持者”Porte-Christとなるとき、聖体の効果はどんなにすばらしく発揮されることだろう。教場でも、病院でも、青年会でも、その他いずこにおいても……。
悪魔がどんなに人びとの霊魂を、無知と誤謬の牢獄につなぎとめるのが上手であっても、また、どんなに不遜で不潔で、たえまなく人びとの霊魂を、傲慢の毒酒によわせて有頂天にしてやろう、肉欲のドロ沼につきおとして溺れ死にさせてやろう、と必死になっていても、使徒職の魂をいかすまことの生命なるイエズス・キリストの聖体こそは、救霊の敵にたいして、無比のはたらきをしてくれることを、使徒に身にしみて実感させるのである。
聖体によって、愛は完成される。多くのことについて、思い煩わねばならぬ事業をやっているうち、使徒の愛も、いきおい冷めざるをえない時もあろう。しかし、キリストのご受難の生ける記念なる聖体こそは、まさに消えようとするこの天主の愛の火を、ふたたび使徒の心に、たきつけてくれる。
聖体は、かれに、ゲッセマニの園を、ピラトの官邸を、カルワリオの惨劇を、まざまざと思い出させる。
聖体は、かれに、キリストのお苦しみとお辱めにかんして、えがたい知識をあたえる。
福音の働き手は、キリストのご受難から、人間苦の解決と慰めを汲みとる。かれがひとたび、なやめる人びとに教えを説くとき、そのかたる言葉は、かれらにも自分のように、救い主のご受難になぐさめを見いださせる。かれの言葉は、イエズスを手本とする諸徳の光かがやく言葉である。かれのかたる言葉の一語一語は、あたかも人びとの上にそそがれる、キリストの御血のひとしずくのように尊い。
聖体的生活を反映しない使徒の言葉は、たとえ福音のおしえを説いても、なるほど人の心をすこしは引くこともあろう。だが、それは、つかのまである。想像とか、感情とか、そういう感性能力は動かしうるかも知れぬ。要塞の外郭だけは、どうにか占領できるかも知れぬ。だが、内部の堅陣――すなわち、心とか意志は、絶対に奪取することができない。
霊魂がいかなる程度に、聖体生活をいとなんでいるか、その同じ程度にしか、かれの従事する使徒職は実を結ばないのが、ほとんど一般の原則となっている。自分の使徒職がりっぱに実を結んでいる、明らかな証拠となるものは、人びとの霊魂にも、聖体のうたげに最もしばしば、かつ効果的に与りたい、つまり聖体拝領をしたい、との烈しい渇望である。しかも、このようなりっぱな効果は、使徒がまず自分自身、ほんとうに聖体のイエズスに生きているという水準でなければ、獲得することができない。
Au degré de vie eucharistique acquis par une âme, correspond presque invariablement la fécondité de son apostolat. La marque, en effet, d'un apostolat efficace, c'est d'arriver à donner aux âmes la soif de participer fréquemment et pratiquement au banquet divin. Et pareil résultat n'est obtenu que dans la mesure où l'apôtre lui-même vit véritablement de Jésus-Hostie.
聖トマス・アクィナスは、なにかむずかしい神学の問題にぶつかったときには、いつも聖ヒツのなかに頭を突っ込んで、難問の解決を、聖主におねがいするのだった。そのように、使徒も、聖体のイエズスに、いっさいの事業を、いっさいの活動を、いっさいの困難を、委託するのである。そして、人びとの上に及ぼすかれの影響こそは、生命のつくり主なるこのイエズス・キリストにたいするかれの信頼を、実行にうつしたものにほかならない。
(続く)