アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き7)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅲ)典礼の精神――三つの原理 (1/ 3)
III. Esprit Liturgique.
ああ、イエズスよ、典礼の生活をいとなむためには、天主の典礼にかんするすべての事がらについて、特別の愛好と興味をもっていなければなりません。ある人びとには、あなたはすでに無償で、典礼生活への愛好と興味を、お与えになりました。他の人びとは、そのような特権を、あまり多くは頂いておりません。しかしながら、それをあなたに、お願い致しさえしますなら、また、かれらが典礼をよく勉強し、深く考察し、自分にそれを適用しさえしまうなら、かれらはまちがいなく、黙想の恩寵をあたえて頂くことでしょう。
典礼生活の利益について、深く黙想すればするほど、どんなにつらいぎせいを払っても、それを手に入れたいとの望みが、渇くように起こってくることでしょう。わたしは今、この生活を他と区別するその特徴に、かつ霊的生活において重要な地位をしめるこの典礼生活のいろいろの特質に、しばし心の目をとどめることに致しましょう。
*
ああ、イエズスよ、ミサ聖祭のあいだ、思いと志をもって、たとえ遠くからでも、あなたの教会と一致しますのは、どんなに偉大なことでしょう。教会の公けの祈りに、そのたえまない祈りに、自分も溶け入って共に祈るのは、どんなに偉大なことでしょう。このようにして、信者の心は、いっそう確実に、いっそう高く、天主の方へと飛んでいくのです。――賛美と礼拝、感謝と償罪、希求と嘆願、の翼にのせられて。
典礼の聖なる奥義、公けの祈り、教会の祭式に、能動的に参加する。敬けんな態度で、かつ典礼の意味をよく理解して。……祝日の奥義や、祭式の奥義を、よく利用しようと心がける。いっそう具体的に申せば、ミサに答えたり、ミサの祈りをとなえたり、聖歌をうたったりする。――これこそは、主よ、あなたの教会の精神に、いっそう直接にひたり入る手段ではないでしょうか。これこそは、まことのキリスト教的精神の流れいずる第一の、そして欠くべからざる源泉から、救いの水を、じかに汲みとることではないでしょうか。(ピオ十世教皇『自発教令』)
しかし、ああ、教会よ、あるいは司祭叙階により、あるいは修道誓願宣立によって、全人類に代わって、公けの祈りを天主にささげるために、天使たち聖人たちと一体になり、あなたの使節たるの資格をもって、毎日、天主の玉座のまえにはべることは、どれほど尊い使命なのでしょう。だが、それよりも、ほとんどくらべものにならないほど、いっそう崇高な使命、そしていかなる言葉をもっても、表現できない神々しい使命――それは、秘跡を執行し、ミサ聖祭をささげることによって、わたしがあなたの神聖な、教役者を務めるときに、他のあなた自身となる、ということです。
*
第一の原理――わたしは“教会の肢体”である。
教会の肢体であるわたしは、キリスト信者として、典礼の儀式にあずかるとき、実は全教会と一体になっているのだ。それも、ただ単に、諸聖人の通功のみによるのでなく、イエズス・キリストの神秘体なる教会が、一箇の“社会”として、天主にささげる敬神行為に、実際に、そして能動的に協力する、という事実によって、自分は全教会と一体になっているのだ、ということを深く確信しなければならない。そして、この一体化によって、教会は容易にわたしの霊魂を、キリスト教的諸徳の修得にむかって、教育することができるのである。
1er Principe : Membre de l'Eglise, je dois être convaincu que lorsque comme chrétien, je prends part à une cérémonie liturgique, je suis uni à toute l'Eglise, non seulement par la Communion des Saints, mais en vertu d'une coopération réelle et active à un acte de religion que l'Eglise, Corps mystique de Jésus-Christ, offre à Dieu comme Société. Et, par cette union, l'Eglise facilite maternellement la formation de mon âme aux vertus chrétiennes.
ああ、イエズスよ、あなたの教会は、一箇の完全な社会であり、その構成員はみな、たがいに密接に一致しています。そしてかれらは、いっそう完全な、いっそう天主的な社会――すなわち、選ばれた人びとの社会なる天国の教会を、形成するように運命づけられています。
キリスト信者として、わたしは、あなたを頭とし生命とする、この神秘体の枝なのです。あなたは、わたしを、ご自分のえだとしてごらんになります。そして、わたしがみまえに出て、あなたはまことにわたしのかしらである、わたし自身は、あなたのオリの羊である、と考えますとき、そのときわたしはあなたに格別のよろこびをお与えするのです。げに、この羊のオリの牧者は、ただあなたお一人であり、このオリのなかに、戦闘の教会、苦悩の教会、凱旋の教会の全員は、たがいに仲よく集まっています。
あなたの使徒聖パウロは、この教義を、わたしに教えています。この教義は、わたしの霊魂をおおらかにし、私の霊生の地平を広くします。聖パウロはいっております。
「一つの体に、たくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな、同じ働きをしているのではない。わたしたちも、数は多いが、キリストにあって、一つのからだであり、また各自は、たがいに肢体である」(ローマ12・4-5)
かれはさらに他の箇処で、「からだが一つであっても、肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である」(コリント前12・12)ともいっております。これこそは、あなたの教会の一体性です。すなわち、教会は、その全体におけるがごとく、部分においても、不可分です。その全体においてはもちろん、全教会の生命がそこにあり、さらにその部分の一人一人においても、全教会の生命がそこに流れています。
教会は、聖霊に一致しています。そして、イエズスよ、教会は、あなたにも一致しています。そしてこの一致から、われわれは、御父と御子と聖霊の唯一の、しかも永遠の、だんらんにまでみちびかれるのです。
教会は、信者の集団であり、信者は同一の権威のもとに、同一の信仰、同一の愛によってたがいに結ばれ、このようにしてキリストに合体される、という同一の目的を追求しています。しかも、この目的を達成するための手段も同一であり、それは“恩寵”という一語のなかに、つづめられます。そして、恩寵の運河は通例、祈りと秘跡なのです。
偉大な祈り、恩寵のすばらしい運河――それは、主よ、教会自身の祈り、典礼の祈りなのです。典礼の祈りは、他のいかなる個人的祈りよりも、他のいかなる信心会の祈りよりも、はるかに有力です。個人的祈りや集団的祈りが、福音書のなかで、どれほどすすめられ、また、どれほど力があるにせよ、典礼の祈りにははるかに及びません。
洗礼の秘跡によって、わたしは真の教会に合体され、天主の子ども、キリストの兄弟となったのですから、当然他の秘跡にもあずかり、聖務日課にも、ミサの功徳にも、免償にも、教会の祈りにも、あずかる権利をあたえられたのです。わたしは、兄弟たちのすべての恩寵、すべての功徳のわけまえにも、あずかることができます。洗礼によって、わたしは永遠に消えない印章を、霊魂にしるされました。この印象によって、わたしは教会から、指定された儀式にしたがって、天主の礼拝に参加する資格をあたえられたのです。
洗礼の秘跡によって、わたしは天主の国の一員となり、聖ペトロがいっておりますように、「選ばれた種族、王的司祭衆、聖なる国民、天主につける民」(ペトロ前2・9)となったのです。ですから、わたしは単にキリスト信者としても、聖なる教役に参加することができます。それは、ごく遠方から、間接的な仕方で、たとえば祈ることによって、わが身を奉献の一部分となすことによって、ミサ聖祭に協力することによって、典礼の聖務にあずかることによって、なされるではありましょう。だが、そのあいだに、聖ペトロが極力すすめているとおり、いろいろの善徳を実行する、天主をおよろこばせしたい、天主に一致したい、との目的をもって万事をおこなう、「わたしのからだを、一つの生ける、聖なる、天主のみ心にかなった、霊的いけにえとして、天主にささげる」(ペトロ前2・5)のです。
[Sacerdotium sanctum, offerre spirituales hostias, acceptabiles Deo per Jesum Christum, (I Pet., II, 5) — C'est dans ce sens que S. Arabroise dit: Omnes filii Ecclesiae sacerdotes sunt; ungimur enim in Sacerdotium sanctum, offerentes nosmetipsos Deo hostias spirituales. (In Lucam, lib. IV, n. 38. — Patr. lat. t. XV, col. 1645) — Sicut omnes Christianos dicimus, propter mysticum Chrisma; sic omnes Sacerdotes, quoniam membra sunt unius Sacerdotis. (S. Aug. De civil. Del, lib. XX, cap. X. — Patr. lat., t. XLI, col. 676)]
この真理を、ああ、教会よ、この真理を、あなたは、司祭がミサのあいだ、両手をひろげて、「わが兄弟たちよ、わたしとあなたたちのいけにえが、天主にこころよく受けいれられるように祈りなさい Orate fratres ut meum ac vestrum sacrificium accepitabile fiat.」というとき、わたしに深く理解させてくださいます。さらに司祭は、カノンの祈りのあいだにも、「主よ、主のしもべ、しもめらを記憶したまえ。……また、ここに集まっているすべての人も記憶したまえ。われらはこの賛美のいけにえを、かれらのためにささげ、また、かれらはこの同じ賛美のいけにえを、あなたにおささげいたします」といい、さらにあとで、「されば、主よ、ねがわくはしもべたるわれらと、また主の全家族とのささげものを、親しく受けおさめたまえ」とも祈るのです。
げに、聖なる典礼は、全教会の共同の聖業です。それは、司祭の業であり、同時に信者の業でもあります。この一致の奥義こそは、使徒信経に宣言されている、われわれの信仰箇条の一つなる“諸聖人の通功”の不滅の効力によって、時々刻々、現実に具体化されていきます。典礼の主要部分である聖務日課とミサ聖祭は、全教会がそれに参加しないでは、全教会が神秘的にそこに臨席しないでは、どうしても執行されないのです。ゆえに、典礼においては、万事が共同で行われます。万人の名によって執行され、万人の利益のために執行されます。そのためにこそ、典礼の祈りはすべて、複数になっているのです。
同一の信仰と、同一の秘跡への参与によって、すべての肢を、一つの体につなぐ、この諸聖人の通功から、人びとの霊魂に、兄弟愛が生まれてくるのです。そして、この兄弟愛こそは、自分が本当に、イエズス・キリストの模倣者であるか、その追随者であるか、を実験するための唯一の試金石であり、キリストの弟子を、他の人びとと区別するための、特徴ともなるのです。「あなたがたが、互に愛しあうならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13・35)
教会の各肢を、密接に結びあわせるこの愛のキズナは、われわれが“諸聖人の通功”によって、超自然的・天主的生命の与え主なる、頭なるキリストの恩寵と愛に没入すればするほど、それだけいっそう強くなる。これらの真理は、典礼生活の基礎であり、典礼生活はいつも、この真理に帰っていく。
ああ、天主の聖なる教会よ、「わたしは、あなたの体の一肢である、わたしは、キリストの肢体である」とのこの考えは、あなたにたいして、どんなに強い、どんなに烈しい愛を、わたしの心に起こさせることか! この愛はまた、わたしに、いかばかりの大いなる愛を、すべてのキリスト信者にたいして感じさせることか! かれらはみな、わたしの兄弟であり、われわれはみな、キリストにおいて“一つ”なのだから。この愛はまた、わたしに、いかばかり深く強い愛を、わたしの頭なる天主の人イエズス・キリストにたいして、いだかせることか!
ああ、母なる教会よ、あなたにかかわりのあることで、わたしに無関心なものは一つとしてありません。わたしの心は、あなたを迫害する者らを見ては傷つき、あなたの征服と勝利を見ては喜びにたえません。わたしが、わたし自身を聖化するとき、そのときあなたは、ますます美しくなり、わたしの兄弟なる教会のすべての子らも、同時に聖化され、かくてわたしは全人類の救霊のためにも、直接に働くことになるのです。このように考えるとき、わたしはどんなにうれしいことか!
ああ、天主の聖なる教会よ、わたしはできるだけのことをして、あなたがもっと美しく、もっと聖に、もっと数おおくの子どもらの母になるよう、心から望み、また、そのために働きたいのです。たくさんの肢から成り立っている、あなたの体のかがやきは、あなたの子らの一人一人の完全さから、生まれてくるのです。あなたの子らはみな、あいたがいに、緊密な連体性のキズナで結ばれ、そしてこれこそは、最後の晩さんの後になされたイエズスの、かの一致を祈求する司祭的祈りの眼目であり、聖心のまことの遺言でもあったのです。「御父よ、かれらが一つになりますように。……かれらが完全に一つになりきってしまいますように」(ヨハネ17・21)
ああ、わが母なる教会よ、わたしはあなたの典礼の祈りを、いかばかり高く評価していることでしょう。わたしは、あなたの数多くの肢のうちの一つだから、典礼の祈りは、同時にわたしの祈りでもあるのです。わけても、典礼にあずかり、典例に協力するそのときに、あなたのものはみな、わたしのもの、わたしのものはみな、あなたのものです。
一滴の水は、ゼロにひとしいけれども、大海原の水にあわされるとき、それは大海の大能と広大さにあずかります。あなたの祈りにあわされるとき、わたしの祈りも、ちょうどそのようになります。天主には、いっさいが、現在ばかりです。天主のおまなざしは、過去も未来も、現在と同時に、一望のもとに抱ようします。その天主のおまなざしの前にあって、わたしの祈りは、天主をたたえる全宇宙の妙なる交響曲のなかに溶け込み、それと一つになって、天主の玉座のまえにのぼっていくのです。この天主の賛美は、あなたが地上に創設されましたその日の朝から、世界終末の夕べにいたるまで、たえまなく、かなでられていくのです。
ああ、イエズスよ、あなたはわたしの祈りが、ある観点からいって、功利的であることを、おのれの貧しさをうったえるものであることを、ある利害関係を頭においたものであることを、お望みになっておられます。だが、あなたは“主の祈り”において、天主にものをお願いする、その願いの順序をお教えくださり、それによって、わたしの祈りが何よりも先ず、天主の賛美にささげられるべきものであるであることを、いかばかり深くお望みになっておられるか、そのこともお教えくださいました。さらに、わたしの祈りが、ただ自分一人だけの利益を目的にした利己的な、狭少な、排他的なものであってはならない、その願いごとは、わたしの兄弟たちのすべての必要を、残らず抱含していなければならない、ということ、これらのことも、お教えくださいました。
このような祈りは、至って高尚で、おおらかな心から出るものなのです。どうか典礼の生活によって、この祈りが、たやすくできますように。このような祈りは、心戦を台なしにせず、天主には大きな栄光を帰します。このような祈りは、天主の愛にみなぎり、兄弟愛に脈うち、そして世界的です。すべての人を抱含し、教会のすべての必要、すべての利害に関心をもっています。
ああ、聖なる教会よ、あなたの天配なるキリストのために、新しき子どもを絶えまなく生み、これを「キリストの全き成長の量に至らせる」(エフェゾ4・13)のは、あなたの使命なのです。そしてこの使命を達成するために、あなたはたくさんの方法をもっておられます。あなたが、典礼を至って大切にされる、そのことがすでに、わたしが天主に賛美をささげるのに、わたしが霊的に進歩をとげるのに、典礼がどんなに効果的であるかを、雄弁に物語っているのではありますかいか。
公生活のあいだ、イエズスは、「あたかも権威ある者のごとくに」(マテオ7・29)お語りになった。ああ、わが母なる教会よ、あなたもまた、このイエズスのように、お語りになるのです。あなたは、真理の遺産の保管者です。あなたはこの使命を、よく自覚していらっしゃいます。あなたは、救世主の御血の分配者です。あなたは救世主から委託された、人類聖化のすべての資源を、すべてごぞんじです。
あなたは、わたしの自然の理性に、救世主のこれらの奥義を、よく調べなさい、よく研究しなさい、とはおっしゃいません。あなたは、わたしの“信仰”にお呼びかけになるのです。「わたしを信用しなさい、わたしは、おまえの母ではないか。わたしは、おまえが毎日、おまえの天主的モデルなるイエズス・キリストに、いっそうよく似ていくようにと、そのことばかり念願しているのではないか。さて、キリストの浄配なるわたし以外に、だれがいっそうよく、キリストを知っているだろうか。典礼のなかでなければ、どこにキリストのほんとうの精神を、見いだせるだろうか。典礼こそは、わたしの考えとわたしの思い――それは同時に、キリストのお考えとお思いにほかならない――を、まちがいなく、正確に、みごとに、表現し尽くしているのだから……」
ごもっともでございます。わが聖にして母なる教会よ、わたしは子供のように、単純と信頼の心をもって、あなたの手にみちびかれ、あなたに教育されるままになっておりましょう。「わたしは、わが母とともに祈ります」といいながら。この言葉は、あなた自身、わたしのくちびるにのせてくださいました。この言葉にみちびかれて、わたしは、あなたの精神にひたり入り、あなたの思いを、わたしの心に通じることができるのです。
ですから、ああ、聖なる教会よ、あなたと共に、わたしは喜び、こおどりしましょう。あなたと共に、わたしは嘆きましょう。あなたと共に、わたしは主のお憐れみを、よびたのみましょう。あなたと共に、わたしは主に希望いたしましょう。あなたと共に、わたしは主をほめたたえましょう。あなたと共に、わたしは主をお愛しいたしましょう。そして、熱烈な心をもって、あなたが感嘆すべき典礼の祈りにおいて、お示しになっている祈願に溶け入りましょう。そういたしましたら、典礼の聖なる言葉と祭式から、ほとばしでる聖なる感動が、わたしの心にいっそう深く浸透し、聖霊のおすすめにはいっそう速やかに従うようになり、かくてわたしの意志は、天主のご意志のなかに、あます処なく、溶け入ってしまうことでしょう。
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き7)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅲ)典礼の精神――三つの原理 (1/ 3)
III. Esprit Liturgique.
ああ、イエズスよ、典礼の生活をいとなむためには、天主の典礼にかんするすべての事がらについて、特別の愛好と興味をもっていなければなりません。ある人びとには、あなたはすでに無償で、典礼生活への愛好と興味を、お与えになりました。他の人びとは、そのような特権を、あまり多くは頂いておりません。しかしながら、それをあなたに、お願い致しさえしますなら、また、かれらが典礼をよく勉強し、深く考察し、自分にそれを適用しさえしまうなら、かれらはまちがいなく、黙想の恩寵をあたえて頂くことでしょう。
典礼生活の利益について、深く黙想すればするほど、どんなにつらいぎせいを払っても、それを手に入れたいとの望みが、渇くように起こってくることでしょう。わたしは今、この生活を他と区別するその特徴に、かつ霊的生活において重要な地位をしめるこの典礼生活のいろいろの特質に、しばし心の目をとどめることに致しましょう。
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ああ、イエズスよ、ミサ聖祭のあいだ、思いと志をもって、たとえ遠くからでも、あなたの教会と一致しますのは、どんなに偉大なことでしょう。教会の公けの祈りに、そのたえまない祈りに、自分も溶け入って共に祈るのは、どんなに偉大なことでしょう。このようにして、信者の心は、いっそう確実に、いっそう高く、天主の方へと飛んでいくのです。――賛美と礼拝、感謝と償罪、希求と嘆願、の翼にのせられて。
典礼の聖なる奥義、公けの祈り、教会の祭式に、能動的に参加する。敬けんな態度で、かつ典礼の意味をよく理解して。……祝日の奥義や、祭式の奥義を、よく利用しようと心がける。いっそう具体的に申せば、ミサに答えたり、ミサの祈りをとなえたり、聖歌をうたったりする。――これこそは、主よ、あなたの教会の精神に、いっそう直接にひたり入る手段ではないでしょうか。これこそは、まことのキリスト教的精神の流れいずる第一の、そして欠くべからざる源泉から、救いの水を、じかに汲みとることではないでしょうか。(ピオ十世教皇『自発教令』)
しかし、ああ、教会よ、あるいは司祭叙階により、あるいは修道誓願宣立によって、全人類に代わって、公けの祈りを天主にささげるために、天使たち聖人たちと一体になり、あなたの使節たるの資格をもって、毎日、天主の玉座のまえにはべることは、どれほど尊い使命なのでしょう。だが、それよりも、ほとんどくらべものにならないほど、いっそう崇高な使命、そしていかなる言葉をもっても、表現できない神々しい使命――それは、秘跡を執行し、ミサ聖祭をささげることによって、わたしがあなたの神聖な、教役者を務めるときに、他のあなた自身となる、ということです。
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第一の原理――わたしは“教会の肢体”である。
教会の肢体であるわたしは、キリスト信者として、典礼の儀式にあずかるとき、実は全教会と一体になっているのだ。それも、ただ単に、諸聖人の通功のみによるのでなく、イエズス・キリストの神秘体なる教会が、一箇の“社会”として、天主にささげる敬神行為に、実際に、そして能動的に協力する、という事実によって、自分は全教会と一体になっているのだ、ということを深く確信しなければならない。そして、この一体化によって、教会は容易にわたしの霊魂を、キリスト教的諸徳の修得にむかって、教育することができるのである。
1er Principe : Membre de l'Eglise, je dois être convaincu que lorsque comme chrétien, je prends part à une cérémonie liturgique, je suis uni à toute l'Eglise, non seulement par la Communion des Saints, mais en vertu d'une coopération réelle et active à un acte de religion que l'Eglise, Corps mystique de Jésus-Christ, offre à Dieu comme Société. Et, par cette union, l'Eglise facilite maternellement la formation de mon âme aux vertus chrétiennes.
ああ、イエズスよ、あなたの教会は、一箇の完全な社会であり、その構成員はみな、たがいに密接に一致しています。そしてかれらは、いっそう完全な、いっそう天主的な社会――すなわち、選ばれた人びとの社会なる天国の教会を、形成するように運命づけられています。
キリスト信者として、わたしは、あなたを頭とし生命とする、この神秘体の枝なのです。あなたは、わたしを、ご自分のえだとしてごらんになります。そして、わたしがみまえに出て、あなたはまことにわたしのかしらである、わたし自身は、あなたのオリの羊である、と考えますとき、そのときわたしはあなたに格別のよろこびをお与えするのです。げに、この羊のオリの牧者は、ただあなたお一人であり、このオリのなかに、戦闘の教会、苦悩の教会、凱旋の教会の全員は、たがいに仲よく集まっています。
あなたの使徒聖パウロは、この教義を、わたしに教えています。この教義は、わたしの霊魂をおおらかにし、私の霊生の地平を広くします。聖パウロはいっております。
「一つの体に、たくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな、同じ働きをしているのではない。わたしたちも、数は多いが、キリストにあって、一つのからだであり、また各自は、たがいに肢体である」(ローマ12・4-5)
かれはさらに他の箇処で、「からだが一つであっても、肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である」(コリント前12・12)ともいっております。これこそは、あなたの教会の一体性です。すなわち、教会は、その全体におけるがごとく、部分においても、不可分です。その全体においてはもちろん、全教会の生命がそこにあり、さらにその部分の一人一人においても、全教会の生命がそこに流れています。
教会は、聖霊に一致しています。そして、イエズスよ、教会は、あなたにも一致しています。そしてこの一致から、われわれは、御父と御子と聖霊の唯一の、しかも永遠の、だんらんにまでみちびかれるのです。
教会は、信者の集団であり、信者は同一の権威のもとに、同一の信仰、同一の愛によってたがいに結ばれ、このようにしてキリストに合体される、という同一の目的を追求しています。しかも、この目的を達成するための手段も同一であり、それは“恩寵”という一語のなかに、つづめられます。そして、恩寵の運河は通例、祈りと秘跡なのです。
偉大な祈り、恩寵のすばらしい運河――それは、主よ、教会自身の祈り、典礼の祈りなのです。典礼の祈りは、他のいかなる個人的祈りよりも、他のいかなる信心会の祈りよりも、はるかに有力です。個人的祈りや集団的祈りが、福音書のなかで、どれほどすすめられ、また、どれほど力があるにせよ、典礼の祈りにははるかに及びません。
洗礼の秘跡によって、わたしは真の教会に合体され、天主の子ども、キリストの兄弟となったのですから、当然他の秘跡にもあずかり、聖務日課にも、ミサの功徳にも、免償にも、教会の祈りにも、あずかる権利をあたえられたのです。わたしは、兄弟たちのすべての恩寵、すべての功徳のわけまえにも、あずかることができます。洗礼によって、わたしは永遠に消えない印章を、霊魂にしるされました。この印象によって、わたしは教会から、指定された儀式にしたがって、天主の礼拝に参加する資格をあたえられたのです。
洗礼の秘跡によって、わたしは天主の国の一員となり、聖ペトロがいっておりますように、「選ばれた種族、王的司祭衆、聖なる国民、天主につける民」(ペトロ前2・9)となったのです。ですから、わたしは単にキリスト信者としても、聖なる教役に参加することができます。それは、ごく遠方から、間接的な仕方で、たとえば祈ることによって、わが身を奉献の一部分となすことによって、ミサ聖祭に協力することによって、典礼の聖務にあずかることによって、なされるではありましょう。だが、そのあいだに、聖ペトロが極力すすめているとおり、いろいろの善徳を実行する、天主をおよろこばせしたい、天主に一致したい、との目的をもって万事をおこなう、「わたしのからだを、一つの生ける、聖なる、天主のみ心にかなった、霊的いけにえとして、天主にささげる」(ペトロ前2・5)のです。
[Sacerdotium sanctum, offerre spirituales hostias, acceptabiles Deo per Jesum Christum, (I Pet., II, 5) — C'est dans ce sens que S. Arabroise dit: Omnes filii Ecclesiae sacerdotes sunt; ungimur enim in Sacerdotium sanctum, offerentes nosmetipsos Deo hostias spirituales. (In Lucam, lib. IV, n. 38. — Patr. lat. t. XV, col. 1645) — Sicut omnes Christianos dicimus, propter mysticum Chrisma; sic omnes Sacerdotes, quoniam membra sunt unius Sacerdotis. (S. Aug. De civil. Del, lib. XX, cap. X. — Patr. lat., t. XLI, col. 676)]
この真理を、ああ、教会よ、この真理を、あなたは、司祭がミサのあいだ、両手をひろげて、「わが兄弟たちよ、わたしとあなたたちのいけにえが、天主にこころよく受けいれられるように祈りなさい Orate fratres ut meum ac vestrum sacrificium accepitabile fiat.」というとき、わたしに深く理解させてくださいます。さらに司祭は、カノンの祈りのあいだにも、「主よ、主のしもべ、しもめらを記憶したまえ。……また、ここに集まっているすべての人も記憶したまえ。われらはこの賛美のいけにえを、かれらのためにささげ、また、かれらはこの同じ賛美のいけにえを、あなたにおささげいたします」といい、さらにあとで、「されば、主よ、ねがわくはしもべたるわれらと、また主の全家族とのささげものを、親しく受けおさめたまえ」とも祈るのです。
げに、聖なる典礼は、全教会の共同の聖業です。それは、司祭の業であり、同時に信者の業でもあります。この一致の奥義こそは、使徒信経に宣言されている、われわれの信仰箇条の一つなる“諸聖人の通功”の不滅の効力によって、時々刻々、現実に具体化されていきます。典礼の主要部分である聖務日課とミサ聖祭は、全教会がそれに参加しないでは、全教会が神秘的にそこに臨席しないでは、どうしても執行されないのです。ゆえに、典礼においては、万事が共同で行われます。万人の名によって執行され、万人の利益のために執行されます。そのためにこそ、典礼の祈りはすべて、複数になっているのです。
同一の信仰と、同一の秘跡への参与によって、すべての肢を、一つの体につなぐ、この諸聖人の通功から、人びとの霊魂に、兄弟愛が生まれてくるのです。そして、この兄弟愛こそは、自分が本当に、イエズス・キリストの模倣者であるか、その追随者であるか、を実験するための唯一の試金石であり、キリストの弟子を、他の人びとと区別するための、特徴ともなるのです。「あなたがたが、互に愛しあうならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13・35)
教会の各肢を、密接に結びあわせるこの愛のキズナは、われわれが“諸聖人の通功”によって、超自然的・天主的生命の与え主なる、頭なるキリストの恩寵と愛に没入すればするほど、それだけいっそう強くなる。これらの真理は、典礼生活の基礎であり、典礼生活はいつも、この真理に帰っていく。
ああ、天主の聖なる教会よ、「わたしは、あなたの体の一肢である、わたしは、キリストの肢体である」とのこの考えは、あなたにたいして、どんなに強い、どんなに烈しい愛を、わたしの心に起こさせることか! この愛はまた、わたしに、いかばかりの大いなる愛を、すべてのキリスト信者にたいして感じさせることか! かれらはみな、わたしの兄弟であり、われわれはみな、キリストにおいて“一つ”なのだから。この愛はまた、わたしに、いかばかり深く強い愛を、わたしの頭なる天主の人イエズス・キリストにたいして、いだかせることか!
ああ、母なる教会よ、あなたにかかわりのあることで、わたしに無関心なものは一つとしてありません。わたしの心は、あなたを迫害する者らを見ては傷つき、あなたの征服と勝利を見ては喜びにたえません。わたしが、わたし自身を聖化するとき、そのときあなたは、ますます美しくなり、わたしの兄弟なる教会のすべての子らも、同時に聖化され、かくてわたしは全人類の救霊のためにも、直接に働くことになるのです。このように考えるとき、わたしはどんなにうれしいことか!
ああ、天主の聖なる教会よ、わたしはできるだけのことをして、あなたがもっと美しく、もっと聖に、もっと数おおくの子どもらの母になるよう、心から望み、また、そのために働きたいのです。たくさんの肢から成り立っている、あなたの体のかがやきは、あなたの子らの一人一人の完全さから、生まれてくるのです。あなたの子らはみな、あいたがいに、緊密な連体性のキズナで結ばれ、そしてこれこそは、最後の晩さんの後になされたイエズスの、かの一致を祈求する司祭的祈りの眼目であり、聖心のまことの遺言でもあったのです。「御父よ、かれらが一つになりますように。……かれらが完全に一つになりきってしまいますように」(ヨハネ17・21)
ああ、わが母なる教会よ、わたしはあなたの典礼の祈りを、いかばかり高く評価していることでしょう。わたしは、あなたの数多くの肢のうちの一つだから、典礼の祈りは、同時にわたしの祈りでもあるのです。わけても、典礼にあずかり、典例に協力するそのときに、あなたのものはみな、わたしのもの、わたしのものはみな、あなたのものです。
一滴の水は、ゼロにひとしいけれども、大海原の水にあわされるとき、それは大海の大能と広大さにあずかります。あなたの祈りにあわされるとき、わたしの祈りも、ちょうどそのようになります。天主には、いっさいが、現在ばかりです。天主のおまなざしは、過去も未来も、現在と同時に、一望のもとに抱ようします。その天主のおまなざしの前にあって、わたしの祈りは、天主をたたえる全宇宙の妙なる交響曲のなかに溶け込み、それと一つになって、天主の玉座のまえにのぼっていくのです。この天主の賛美は、あなたが地上に創設されましたその日の朝から、世界終末の夕べにいたるまで、たえまなく、かなでられていくのです。
ああ、イエズスよ、あなたはわたしの祈りが、ある観点からいって、功利的であることを、おのれの貧しさをうったえるものであることを、ある利害関係を頭においたものであることを、お望みになっておられます。だが、あなたは“主の祈り”において、天主にものをお願いする、その願いの順序をお教えくださり、それによって、わたしの祈りが何よりも先ず、天主の賛美にささげられるべきものであるであることを、いかばかり深くお望みになっておられるか、そのこともお教えくださいました。さらに、わたしの祈りが、ただ自分一人だけの利益を目的にした利己的な、狭少な、排他的なものであってはならない、その願いごとは、わたしの兄弟たちのすべての必要を、残らず抱含していなければならない、ということ、これらのことも、お教えくださいました。
このような祈りは、至って高尚で、おおらかな心から出るものなのです。どうか典礼の生活によって、この祈りが、たやすくできますように。このような祈りは、心戦を台なしにせず、天主には大きな栄光を帰します。このような祈りは、天主の愛にみなぎり、兄弟愛に脈うち、そして世界的です。すべての人を抱含し、教会のすべての必要、すべての利害に関心をもっています。
ああ、聖なる教会よ、あなたの天配なるキリストのために、新しき子どもを絶えまなく生み、これを「キリストの全き成長の量に至らせる」(エフェゾ4・13)のは、あなたの使命なのです。そしてこの使命を達成するために、あなたはたくさんの方法をもっておられます。あなたが、典礼を至って大切にされる、そのことがすでに、わたしが天主に賛美をささげるのに、わたしが霊的に進歩をとげるのに、典礼がどんなに効果的であるかを、雄弁に物語っているのではありますかいか。
公生活のあいだ、イエズスは、「あたかも権威ある者のごとくに」(マテオ7・29)お語りになった。ああ、わが母なる教会よ、あなたもまた、このイエズスのように、お語りになるのです。あなたは、真理の遺産の保管者です。あなたはこの使命を、よく自覚していらっしゃいます。あなたは、救世主の御血の分配者です。あなたは救世主から委託された、人類聖化のすべての資源を、すべてごぞんじです。
あなたは、わたしの自然の理性に、救世主のこれらの奥義を、よく調べなさい、よく研究しなさい、とはおっしゃいません。あなたは、わたしの“信仰”にお呼びかけになるのです。「わたしを信用しなさい、わたしは、おまえの母ではないか。わたしは、おまえが毎日、おまえの天主的モデルなるイエズス・キリストに、いっそうよく似ていくようにと、そのことばかり念願しているのではないか。さて、キリストの浄配なるわたし以外に、だれがいっそうよく、キリストを知っているだろうか。典礼のなかでなければ、どこにキリストのほんとうの精神を、見いだせるだろうか。典礼こそは、わたしの考えとわたしの思い――それは同時に、キリストのお考えとお思いにほかならない――を、まちがいなく、正確に、みごとに、表現し尽くしているのだから……」
ごもっともでございます。わが聖にして母なる教会よ、わたしは子供のように、単純と信頼の心をもって、あなたの手にみちびかれ、あなたに教育されるままになっておりましょう。「わたしは、わが母とともに祈ります」といいながら。この言葉は、あなた自身、わたしのくちびるにのせてくださいました。この言葉にみちびかれて、わたしは、あなたの精神にひたり入り、あなたの思いを、わたしの心に通じることができるのです。
ですから、ああ、聖なる教会よ、あなたと共に、わたしは喜び、こおどりしましょう。あなたと共に、わたしは嘆きましょう。あなたと共に、わたしは主のお憐れみを、よびたのみましょう。あなたと共に、わたしは主に希望いたしましょう。あなたと共に、わたしは主をほめたたえましょう。あなたと共に、わたしは主をお愛しいたしましょう。そして、熱烈な心をもって、あなたが感嘆すべき典礼の祈りにおいて、お示しになっている祈願に溶け入りましょう。そういたしましたら、典礼の聖なる言葉と祭式から、ほとばしでる聖なる感動が、わたしの心にいっそう深く浸透し、聖霊のおすすめにはいっそう速やかに従うようになり、かくてわたしの意志は、天主のご意志のなかに、あます処なく、溶け入ってしまうことでしょう。
(続く)