2018年4月21日(土)教会博士証聖者司教聖アンセルモのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年4月21日、聖アンセルモ証聖者司教教会博士の祝日を祝っています。このミサの後に、来たる初土曜の聖母の汚れなき御心の信心の黙想のテーマとして、イエズス様の御昇天のテーマを黙想する準備をしようと思っています。もし時間がありましたらいらして下さい。
5月3日から6日までは秋田の巡礼があります。もう締め切りはすぐに迫っていますので、ぜひ皆さん今年の巡礼に参加するように、ぜひ計画を立てて下さい。
5月は大阪ではミサが2回あります。5月の主日のミサと12日のミサと、それから19日・20日の金・土とミサがあります。どうぞいらして下さい
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は小さなお友達がミサに来てくれて、とっても嬉しく思います。
今日は、聖アンセルモという教会の立派な聖なる司教様の祝日です。この聖アンセルモというのは一体どんな人だったのか?いつどこで生まれて、どんな事をして、何で司教様になったのか?司教様になって何か偉い事をしたのかな?何でこんなに偉くなったのだろうか?
この今、この聖アンセルモという人が、私たちに何を教えているのだろうか?僕もどうすると、こんな聖アンセルモのような立派な人になる事ができるだろうか?という事を一緒に黙想しましょう。
黙想の後で、今日は遷善の決心、これから良くなろうという決心を立てる事にします。このミサの御恵みをたくさん頂く、というお願いをします。
聖アンセルモという人は、3つの場所で働きました。
(1) 1つはアオスタというイタリア、
(2) もう1つはフランスのノルマンディーという地方にあるベックという所、
(3) それから最後にはイギリスのカンタベリーという所なのです。それでその3つの場所に分けて、聖アンセルモという人がどういう人生を送ったのでしょうか?
最後に (4) どうやってどうして聖人になったのか?という事を見て、今日の良い決心を立てましょう。
(1)聖アンセルモは、イタリアの北の方のアルプスの見える、とても綺麗なアオスタという所に生まれました。神父様も神学生の時に、スイスとイタリアの国境のすぐ近くにいたので、このアオスタというのは知っています。ローマに行く為に車で行くと、アオスタという所があって、そこからはスイスのアルプスが見えて、とっても綺麗な所なのです。そこに1033年に生まれました。今から約1000年ぐらい前に生まれた方なのです。
長男で、お父さんもお母さんも貴族でした。カトリックの家に生まれました。お父さんの名前はゴンドルフォスと言います。お母さんの名前はエルメンベルガと言いました。でもお父さんはどちらかと言うと、あんまり信心にお祈りに興味がなかったような人で、それよりももっと政治とか、この世俗の事に興味を持っていた人のようです。裕福な人でした。お母さんはそれよりも、信心深く子供の教育を良くしようと思っていた人です。きっと今日いらした小さなお友達のお母さんのようだったでしょう。
それでお母さんは、聖アンセルモがまだ小さかった頃、「あぁ、この子には良い教育をつけなければならない。だからベネディクト会の修道士たちがいる修道院に預けよう」と思って、「神父様、この私の子供をぜひ預かって下さい。そしてこの子に立派な教育を授けて下さい」と言って、子供の教育を委ねました。
子供ながらアンセルモは、文字を学んだり、アルファベットを学んだり、読み書きを学んだり、数学を学んだり、色々頭の良い子であるという事をぐんぐんと見せていきました。それで子供ながらにもう、「あぁ、この神父様や修道士の方々が一緒にこうやってお祈りをしている生活は素晴らしい。そしてこのいつもお祈りしている天主様の御国というのはどこにあるのだろうか?きっとアルプスのこの綺麗な山の、雪のかかっている綺麗な所の高い極みの、一番きれいな黄金のきっと素晴らしい御殿があって、そこの彼方の素晴らしい所に天主様がいらっしゃるに違いない」と思っていました。
ある日、実際に夢の中で、その空の高い彼方の所から、天主様がイエズス様が、「さぁ、アンセルモや、おいで」と呼びかけているのを見て聞いたのです。それで長い間、夢の中でイエズス様と親しく語らって話して、「あぁイエズス様、そうなんですか」という色々お話をして、イエズス様がとても優しくアンセルモに教えてくれて、そして最後には、「さぁアンセルモや、このパンをあげよう」と言って、真っ白いパンをアンセルモにあげたのだそうです。
聖アンセルモはその夢の事を起きてもずっと覚えていて、「僕はこのここに行きたい。イエズス様の白いパンを食べたい。イエズス様と一緒に生活したい。イエズス様から与えられる使命を果たしたい」と思いました。そして「修道院に入りたい。ベネディクト会に入りたい」とお父さんに言うのです。
するとお父さんは、「ダメだ!お前は働いて、お金を儲けて、俺のようになれ」と言われたのです。すると、そうするとそれを聞いてがっかりして、「お願いですから」と言ってもお父さんはウンともしないので、遂には病気になってしまいました。
病気もどんどんどんどん重くなるばかりで、もうこれで熱も出て、苦しんで、もうこれでこの子の命もない、という風になりました。するとアンセルモはお父さんに、「お願いだから、もうこれでもう命がないかもしれないから、少なくとも修道士の着ているような服を着させてほしい。そしたらそれで良い。それでもうこのまま天国に行きたい」と言ったのですけれども、それもお父さんは許しませんでした。非常にがっかりして、辛い思いをしたのです。でも、特別のお母さんのお祈りで、アンセルモの病気は治りました。
ところがその代わりに、アンセルモが死ぬ代わりに、お母さんが亡くなってしまいました。それに非常にがっかりしたアンセルモは、家を出てしまったのです、「もう希望はない。お父さんは修道院に入るのを許してくれなかったし、今までの支えだったお母さんもいなくなってしまったし、もう、もうこの世はもう僕にとって何の意味もない。それよりもこの世の何か面白おかしいものがあるんじゃないか」と言って、放浪の旅に出てしまったのです。15歳の時です。
(2)そうやって3年間、フランスや色々な所で遊び呆けて、放浪の旅をした後に、遂にノルマンディーに、ベネディクト会の修道院に辿り着いたのです。もしかしたらお金が無くなったのかもしれません。もしかしたら「家に泊めてほしい」とお願いしたのかも、「宿が無い」と言ったのかもしれません。
するとそこには、非常に立派な神父様がいらしたのです、修道院長様がいらしたのです。ランフランクという方です。その方がそのアンセルモに、「お前、勉強したらどうか。お前頭が良い子だ。」そして今まであんなにベネディクト会で、イタリアのアオスタのベネディクト会の修道院で勉強して、とても頭の良い子だという事を示したのですけれども、もう遊び呆けてしまっていた、不良になっていたこのアンセルモを、この神父様がお祈りの力で元に戻してくれたのです。
すると、「あぁ、このような立派な神父様の仰る事だったら、僕はやる」と言って、そして勉強をし出して、そしてまた今までのように遊び呆けている生活を止めて、祈りの生活と立派な生活をしようと思ったのです。
そして遂に、「やっぱり昔子供の頃思ったように、修道士になるのが良い。なりたい」と思って、27歳の時に、そのベネディクト会に入会する事にしました。そしてそれと同時に、とても頭が良い子だったので青年だったので、その修道院長様のランフランク神父様が、「お前は今まで勉強してきたから、神父様にもなりなさい。」そして司祭に叙階されました。27歳でした。
ところがそれから3年後、その今まで居たこの指導して下さったランフランク神父様修道院長様が、別の大きな、もっと大きなカーンという所にある街の、大修道院長様に任命されたのです。今までの修道院長よりももっと位の高い、大修道院長という所で、小さな修道院をたくさん指導する立場になったのです。とても聖徳の高い立派な神父様だったので、そうなって当然でした。
では一体、この小さなベックの修道院の修道院長は誰がやるのか?となったら、ランフランク修道院長が、「私は今からカーンに行くから、お前が後を継ぎなさい。」「え!?でも、私はたった3年しか修道生活をしていません。まだ神父様になったばっかりです。他の方はもっと経験も積んでいるし、何十年もやっている方がたくさんいますから、このような神父様がなさったら良いのじゃないでしょうか。」「いや、お前がやりなさい」という事で、修道院長に任命されました。ベックでの修道院長の生活が始まりました。
でも若い、修道院に入りたての若造が、この司祭が神父様がいきなり修道院長になって、他の人に「こうして下さい」「こうして下さい」と、「神父様、朝寝坊してはいけませんよ。お祈りの時間にちゃんと、遅れてはいけませんよ」などと言うと、「何だお前、若いくせに」と言われたかもしれません。そこで最初は、妬みとか、嫌がらせとか、このアンセルモが修道院長になるのは反対した人々もいました。
しかし聖アンセルモは、お祈りと、そしてたくさんの犠牲と、たくさんの謙遜と、柔和と、愛徳で、他の人たちを皆自分の友達にして、そして天主様の友達にして、その人々の生活をますます変えていったのです。
そしてアンセルモが今度は、修道院にいる人たちを教育する立場になると、今までのようにこう強制的に「こうやりなさい」「ああやりなさい」ではなくて、「こうするともっと良くなるよ」「これをするとこんなに良い事があるんだ」と色々説得や、優しいやり方で、あるいは自由を与えながらも、それでも健全な自由を与えながらも、自ら進んで徳に進むように、習得をするように、犠牲を払うように、お祈りをするように、と勧めていったのです。
すると聖アンセルモの立派な模範に倣って、今まで「そうかなぁ」と思った、「嫌だなぁ」と思った人たちがますます、「私もこうなりたい」と言って、アンセルモに倣ってお祈りと、苦行と、犠牲をたくさん捧げるようになりました。
聖アンセルモはそれでも満足しませんでした。今までお祈りと、他の仕事を規則通り正しくやったのみならず、今度は夜の時間を使って、祭壇の前に行って、涙ながらにたくさんイエズス様に、マリア様にお祈りをしました。たくさんのお祈りをして、たくさんお願いをしました。祈れば祈るほど、聖アンセルモの言った一言が他の人々の心に響いて、人々の生活をますます変えていったのです。
そうすると、このベックの修道院の創立者であったおじいさんの神父様の、ヘルルイン神父様が亡くなりました。その神父様が一番の方だったのですけれども、「それの後継者になるように」と言われて、1079年、そのヘルルイン神父様の後継者になりました。46歳の事でした。
(3)そうこうしている間に、今までお世話になったランフランク様は、カーンの大修道院長だったのですけれども、是非、カンタベリーというイギリスで一番立派な、一番地位の高い教区の司教様になってほしい。
日本では色んな司教様がいますけれども、その中で一番地位の高いのは東京の司教様です。フランスでは色んな司教区がありますけれども、その中で一番地位が高いのはリヨンの司教様です。イギリスでも色んな所がありますけれども、ロンドンの司教様よりももっと地位が高いのが、カンタベリーの司教様です。そこの大司教様になってほしいと言われて、なりました。
ランフランク大司教様がイギリスでの大切な仕事をしている時に、「もしこの自分の仕事が立派にできる為には、助けが必要だ。その助けは、この世界中どこを探しても一人しかいない。それは祈りをしている聖アンセルモだ。アンセルモ神父に来てもらおう」と言って、「ベックの修道院からカンタベリーに来てくれるように」とお願いしました。
それで、やはりランフランク大司教様の助けをする為に、イギリスの全ての道徳と信仰をますます盛んにする為に、人々の生活をますます良くする為に、聖アンセルモは一生懸命働きました。が、そうこうする内に、ランフランク神父様は亡くなってしまいました。するとそのまま、フランスに帰る事ができずに、「そのランフランク大司教様の後継者となってほしい」と皆から頼まれて、イギリスのカンタベリーの大司教になりました。
ところが、そこの当時イギリスの王様はとても野心家でした。3つの事をしました。何をしたかというと、「教会の司教様を選ぶとか、誰かを任命するという権利は、ローマの教皇様じゃなくて、俺が持っている、王様が持っている」と主張していました。これは嘘なのですけれども、「でも自分にその権利がある。だから任命させろ」と言っていました。
でも聖アンセルモは、「ノーノー。ノーノー。いや、あなたにはありません。教会の事は、教会で決めます。王様は、王国の事だけを考えて下さい」と言って、王様に「ノー」と言いました。「教会は、王様の支配から自由です。」
また王様は、教会に多くの人が、「神父様、この財産を使って下さい。」「この土地を寄付します。どうぞここの土地を寄付しますので、教会を建てて下さい。」「ここで土地を寄付するので、学校を作って下さい。子供を教育して下さい」と言うと、王様が行って、「そこの教会の土地には税金をかける。」或いは「この教会は俺のものだ」と言って没収してしまったり、欲を出して来ました。
それでも聖アンセルモは、「王様、教会はこれは寄付で成り立っているのです。営利企業ではありません。税金をかけてもらっては、私たちはどこから税を払うのでしょうか。修道士はただで働いています。王様、これは他の方の善意で頂いた土地です。なぜ王様が取ってしまうのですか」と言って反対しました。
すると非常に怒ったウィリアム王は、このアンセルモに対して迫害を始めます、反対をします。そして遂には、「アンセルモよ、もしも言う事を聞かないなら、お前の土地を、お前の教会を没収してしまうぞ。お前の地位を取ってしまうぞ。イギリスから追放するぞ!」「王様、私は本当の事を言っているだけです。もしもそうなさりたいならそうなさって下さい」と言って、イギリスの国外に追放されました。
そして聖アンセルモは、ローマに行きます。教皇様の元に行って、すると教皇様は、「あぁアンセルモよ、よく来た!お前の助けが必要だ。」と言って、実はその当時「公会議」と言って、「バリの公会議」という特別の教会の会議があって、「今ギリシャの人々の異端説があるので、これを説得しなければならない。どうぞ神学の知恵と、祈りの知恵を与えてほしい」と言って、そしてそのバリの公会議では、聖アンセルモが大活躍しました。祈りと犠牲のそのおかげでした。
聖アンセルモがその公会議で活躍をし終わったような時に、ちょうど今までアンセルモに意地悪をしていたイギリスの王様のウィリアムは亡くなってしまいます、死んでしまいます。すると兄弟のヘンリーが王様になって、アンセルモに言います、「アンセルモ大司教様、もうこれからは没収もしませんし、教会に税金もかけませんし、それから司教様の任命などもしません。ですから戻って来て下さい。」
そして聖アンセルモはカンタベリーに戻って、そして聖職者や、その教区民や、イギリスの人たちから大歓迎を受けます。それからますます祈りと犠牲を以て、イギリスの国民をますます良い生活に、「イエズス様に倣った生活をするように」と言って、模範と、言葉と、愛徳を以て一生懸命働いて、イギリスに戻った後の3年後、1109年の4月21日の今日、ちょうど今から900年前、聖アンセルモは亡くなります。
その時に聖アンセルモは、「こういう声を聞いた」と記録に残しています。「お前は、私の試練の時に、私と共に留まってくれた。だから私はお前に、私の王国を与えよう。さぁ、お前は私の王国のテーブルに食卓について、一緒に食事をするだろう。」ちょうど子供の頃見た、夢の中で見たイエズス様との対話がまたよみがえってきて、「さぁ今こそお前は、私がお願いした全ての事を果たしたのだ」という事を理解しました。
(4)では、アンセルモはアオスタで生まれて、フランスのノルマンディーのベックという所で働いて、そしてイギリスのカンタベリーという3つの所で働いたのですけれども、900年の後に2009年には、アオスタの人も、ノルマンディーの人も、カンタベリーの人も皆1つになってローマに来て、大きな900年祭を祝いました。
一体何が、このイタリア人も、フランス人も、イギリス人も、国を超えて、聖アンセルモにおいて1つになって、この偉大な修道者を司教様をお祝いして、記念をしようと思ったのでしょうか?
このその理由は1つしかありません。それは、聖アンセルモというのが、「いつもイエズス様と一致していた、イエズス様とお祈りをしていた、イエズス様の事を黙想していた、イエズス様の事を考えていた」からです。
だからこそこの人に特別の価値があったのです。
ちょうど塩が塩の味を付けていなかったら、役に立たずに捨てられてしまうように、私たちも一番価値があるのは、イエズス様とのお祈りをして、イエズス様の事をいつも考えて、イエズス様と一致していて、イエズス様を愛している、イエズス様の御旨を果たしている、ここに私たちの価値があるのです。
聖アンセルモは私たちに、「人間というのは、天主様にお祈りしてなんぼやで」と教えています。
お祈りをすればするほど、人間に価値が出てきます。そうすればするほど、国を超えて、場所を超えて、時代を超えて、「立派な人だ。これこそ本物だ」と、ますます塩の味が効いてくる人になります。世の光になります。
ですからこの聖アンセルモが子供の頃から考えていた、この祈りに、イエズス様への愛に、今日来てくれた小さなお友達たちもぜひ倣うようになさって下さい。
イエズス様に今日はたくさんお祈りして下さい、「イエズス様、僕もイエズス様と親しく、イエズス様の事がよく知りたいと思います。イエズス様の事を、イエズス様と親しくお話したい、イエズス様を喜ばせたいと思います。どうぞ助けて下さい。」
「マリア様、僕が聖アンセルモのように、イエズス様をよく知り、愛する事ができるように、お祈りして下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年4月21日、聖アンセルモ証聖者司教教会博士の祝日を祝っています。このミサの後に、来たる初土曜の聖母の汚れなき御心の信心の黙想のテーマとして、イエズス様の御昇天のテーマを黙想する準備をしようと思っています。もし時間がありましたらいらして下さい。
5月3日から6日までは秋田の巡礼があります。もう締め切りはすぐに迫っていますので、ぜひ皆さん今年の巡礼に参加するように、ぜひ計画を立てて下さい。
5月は大阪ではミサが2回あります。5月の主日のミサと12日のミサと、それから19日・20日の金・土とミサがあります。どうぞいらして下さい
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は小さなお友達がミサに来てくれて、とっても嬉しく思います。
今日は、聖アンセルモという教会の立派な聖なる司教様の祝日です。この聖アンセルモというのは一体どんな人だったのか?いつどこで生まれて、どんな事をして、何で司教様になったのか?司教様になって何か偉い事をしたのかな?何でこんなに偉くなったのだろうか?
この今、この聖アンセルモという人が、私たちに何を教えているのだろうか?僕もどうすると、こんな聖アンセルモのような立派な人になる事ができるだろうか?という事を一緒に黙想しましょう。
黙想の後で、今日は遷善の決心、これから良くなろうという決心を立てる事にします。このミサの御恵みをたくさん頂く、というお願いをします。
聖アンセルモという人は、3つの場所で働きました。
(1) 1つはアオスタというイタリア、
(2) もう1つはフランスのノルマンディーという地方にあるベックという所、
(3) それから最後にはイギリスのカンタベリーという所なのです。それでその3つの場所に分けて、聖アンセルモという人がどういう人生を送ったのでしょうか?
最後に (4) どうやってどうして聖人になったのか?という事を見て、今日の良い決心を立てましょう。
(1)聖アンセルモは、イタリアの北の方のアルプスの見える、とても綺麗なアオスタという所に生まれました。神父様も神学生の時に、スイスとイタリアの国境のすぐ近くにいたので、このアオスタというのは知っています。ローマに行く為に車で行くと、アオスタという所があって、そこからはスイスのアルプスが見えて、とっても綺麗な所なのです。そこに1033年に生まれました。今から約1000年ぐらい前に生まれた方なのです。
長男で、お父さんもお母さんも貴族でした。カトリックの家に生まれました。お父さんの名前はゴンドルフォスと言います。お母さんの名前はエルメンベルガと言いました。でもお父さんはどちらかと言うと、あんまり信心にお祈りに興味がなかったような人で、それよりももっと政治とか、この世俗の事に興味を持っていた人のようです。裕福な人でした。お母さんはそれよりも、信心深く子供の教育を良くしようと思っていた人です。きっと今日いらした小さなお友達のお母さんのようだったでしょう。
それでお母さんは、聖アンセルモがまだ小さかった頃、「あぁ、この子には良い教育をつけなければならない。だからベネディクト会の修道士たちがいる修道院に預けよう」と思って、「神父様、この私の子供をぜひ預かって下さい。そしてこの子に立派な教育を授けて下さい」と言って、子供の教育を委ねました。
子供ながらアンセルモは、文字を学んだり、アルファベットを学んだり、読み書きを学んだり、数学を学んだり、色々頭の良い子であるという事をぐんぐんと見せていきました。それで子供ながらにもう、「あぁ、この神父様や修道士の方々が一緒にこうやってお祈りをしている生活は素晴らしい。そしてこのいつもお祈りしている天主様の御国というのはどこにあるのだろうか?きっとアルプスのこの綺麗な山の、雪のかかっている綺麗な所の高い極みの、一番きれいな黄金のきっと素晴らしい御殿があって、そこの彼方の素晴らしい所に天主様がいらっしゃるに違いない」と思っていました。
ある日、実際に夢の中で、その空の高い彼方の所から、天主様がイエズス様が、「さぁ、アンセルモや、おいで」と呼びかけているのを見て聞いたのです。それで長い間、夢の中でイエズス様と親しく語らって話して、「あぁイエズス様、そうなんですか」という色々お話をして、イエズス様がとても優しくアンセルモに教えてくれて、そして最後には、「さぁアンセルモや、このパンをあげよう」と言って、真っ白いパンをアンセルモにあげたのだそうです。
聖アンセルモはその夢の事を起きてもずっと覚えていて、「僕はこのここに行きたい。イエズス様の白いパンを食べたい。イエズス様と一緒に生活したい。イエズス様から与えられる使命を果たしたい」と思いました。そして「修道院に入りたい。ベネディクト会に入りたい」とお父さんに言うのです。
するとお父さんは、「ダメだ!お前は働いて、お金を儲けて、俺のようになれ」と言われたのです。すると、そうするとそれを聞いてがっかりして、「お願いですから」と言ってもお父さんはウンともしないので、遂には病気になってしまいました。
病気もどんどんどんどん重くなるばかりで、もうこれで熱も出て、苦しんで、もうこれでこの子の命もない、という風になりました。するとアンセルモはお父さんに、「お願いだから、もうこれでもう命がないかもしれないから、少なくとも修道士の着ているような服を着させてほしい。そしたらそれで良い。それでもうこのまま天国に行きたい」と言ったのですけれども、それもお父さんは許しませんでした。非常にがっかりして、辛い思いをしたのです。でも、特別のお母さんのお祈りで、アンセルモの病気は治りました。
ところがその代わりに、アンセルモが死ぬ代わりに、お母さんが亡くなってしまいました。それに非常にがっかりしたアンセルモは、家を出てしまったのです、「もう希望はない。お父さんは修道院に入るのを許してくれなかったし、今までの支えだったお母さんもいなくなってしまったし、もう、もうこの世はもう僕にとって何の意味もない。それよりもこの世の何か面白おかしいものがあるんじゃないか」と言って、放浪の旅に出てしまったのです。15歳の時です。
(2)そうやって3年間、フランスや色々な所で遊び呆けて、放浪の旅をした後に、遂にノルマンディーに、ベネディクト会の修道院に辿り着いたのです。もしかしたらお金が無くなったのかもしれません。もしかしたら「家に泊めてほしい」とお願いしたのかも、「宿が無い」と言ったのかもしれません。
するとそこには、非常に立派な神父様がいらしたのです、修道院長様がいらしたのです。ランフランクという方です。その方がそのアンセルモに、「お前、勉強したらどうか。お前頭が良い子だ。」そして今まであんなにベネディクト会で、イタリアのアオスタのベネディクト会の修道院で勉強して、とても頭の良い子だという事を示したのですけれども、もう遊び呆けてしまっていた、不良になっていたこのアンセルモを、この神父様がお祈りの力で元に戻してくれたのです。
すると、「あぁ、このような立派な神父様の仰る事だったら、僕はやる」と言って、そして勉強をし出して、そしてまた今までのように遊び呆けている生活を止めて、祈りの生活と立派な生活をしようと思ったのです。
そして遂に、「やっぱり昔子供の頃思ったように、修道士になるのが良い。なりたい」と思って、27歳の時に、そのベネディクト会に入会する事にしました。そしてそれと同時に、とても頭が良い子だったので青年だったので、その修道院長様のランフランク神父様が、「お前は今まで勉強してきたから、神父様にもなりなさい。」そして司祭に叙階されました。27歳でした。
ところがそれから3年後、その今まで居たこの指導して下さったランフランク神父様修道院長様が、別の大きな、もっと大きなカーンという所にある街の、大修道院長様に任命されたのです。今までの修道院長よりももっと位の高い、大修道院長という所で、小さな修道院をたくさん指導する立場になったのです。とても聖徳の高い立派な神父様だったので、そうなって当然でした。
では一体、この小さなベックの修道院の修道院長は誰がやるのか?となったら、ランフランク修道院長が、「私は今からカーンに行くから、お前が後を継ぎなさい。」「え!?でも、私はたった3年しか修道生活をしていません。まだ神父様になったばっかりです。他の方はもっと経験も積んでいるし、何十年もやっている方がたくさんいますから、このような神父様がなさったら良いのじゃないでしょうか。」「いや、お前がやりなさい」という事で、修道院長に任命されました。ベックでの修道院長の生活が始まりました。
でも若い、修道院に入りたての若造が、この司祭が神父様がいきなり修道院長になって、他の人に「こうして下さい」「こうして下さい」と、「神父様、朝寝坊してはいけませんよ。お祈りの時間にちゃんと、遅れてはいけませんよ」などと言うと、「何だお前、若いくせに」と言われたかもしれません。そこで最初は、妬みとか、嫌がらせとか、このアンセルモが修道院長になるのは反対した人々もいました。
しかし聖アンセルモは、お祈りと、そしてたくさんの犠牲と、たくさんの謙遜と、柔和と、愛徳で、他の人たちを皆自分の友達にして、そして天主様の友達にして、その人々の生活をますます変えていったのです。
そしてアンセルモが今度は、修道院にいる人たちを教育する立場になると、今までのようにこう強制的に「こうやりなさい」「ああやりなさい」ではなくて、「こうするともっと良くなるよ」「これをするとこんなに良い事があるんだ」と色々説得や、優しいやり方で、あるいは自由を与えながらも、それでも健全な自由を与えながらも、自ら進んで徳に進むように、習得をするように、犠牲を払うように、お祈りをするように、と勧めていったのです。
すると聖アンセルモの立派な模範に倣って、今まで「そうかなぁ」と思った、「嫌だなぁ」と思った人たちがますます、「私もこうなりたい」と言って、アンセルモに倣ってお祈りと、苦行と、犠牲をたくさん捧げるようになりました。
聖アンセルモはそれでも満足しませんでした。今までお祈りと、他の仕事を規則通り正しくやったのみならず、今度は夜の時間を使って、祭壇の前に行って、涙ながらにたくさんイエズス様に、マリア様にお祈りをしました。たくさんのお祈りをして、たくさんお願いをしました。祈れば祈るほど、聖アンセルモの言った一言が他の人々の心に響いて、人々の生活をますます変えていったのです。
そうすると、このベックの修道院の創立者であったおじいさんの神父様の、ヘルルイン神父様が亡くなりました。その神父様が一番の方だったのですけれども、「それの後継者になるように」と言われて、1079年、そのヘルルイン神父様の後継者になりました。46歳の事でした。
(3)そうこうしている間に、今までお世話になったランフランク様は、カーンの大修道院長だったのですけれども、是非、カンタベリーというイギリスで一番立派な、一番地位の高い教区の司教様になってほしい。
日本では色んな司教様がいますけれども、その中で一番地位の高いのは東京の司教様です。フランスでは色んな司教区がありますけれども、その中で一番地位が高いのはリヨンの司教様です。イギリスでも色んな所がありますけれども、ロンドンの司教様よりももっと地位が高いのが、カンタベリーの司教様です。そこの大司教様になってほしいと言われて、なりました。
ランフランク大司教様がイギリスでの大切な仕事をしている時に、「もしこの自分の仕事が立派にできる為には、助けが必要だ。その助けは、この世界中どこを探しても一人しかいない。それは祈りをしている聖アンセルモだ。アンセルモ神父に来てもらおう」と言って、「ベックの修道院からカンタベリーに来てくれるように」とお願いしました。
それで、やはりランフランク大司教様の助けをする為に、イギリスの全ての道徳と信仰をますます盛んにする為に、人々の生活をますます良くする為に、聖アンセルモは一生懸命働きました。が、そうこうする内に、ランフランク神父様は亡くなってしまいました。するとそのまま、フランスに帰る事ができずに、「そのランフランク大司教様の後継者となってほしい」と皆から頼まれて、イギリスのカンタベリーの大司教になりました。
ところが、そこの当時イギリスの王様はとても野心家でした。3つの事をしました。何をしたかというと、「教会の司教様を選ぶとか、誰かを任命するという権利は、ローマの教皇様じゃなくて、俺が持っている、王様が持っている」と主張していました。これは嘘なのですけれども、「でも自分にその権利がある。だから任命させろ」と言っていました。
でも聖アンセルモは、「ノーノー。ノーノー。いや、あなたにはありません。教会の事は、教会で決めます。王様は、王国の事だけを考えて下さい」と言って、王様に「ノー」と言いました。「教会は、王様の支配から自由です。」
また王様は、教会に多くの人が、「神父様、この財産を使って下さい。」「この土地を寄付します。どうぞここの土地を寄付しますので、教会を建てて下さい。」「ここで土地を寄付するので、学校を作って下さい。子供を教育して下さい」と言うと、王様が行って、「そこの教会の土地には税金をかける。」或いは「この教会は俺のものだ」と言って没収してしまったり、欲を出して来ました。
それでも聖アンセルモは、「王様、教会はこれは寄付で成り立っているのです。営利企業ではありません。税金をかけてもらっては、私たちはどこから税を払うのでしょうか。修道士はただで働いています。王様、これは他の方の善意で頂いた土地です。なぜ王様が取ってしまうのですか」と言って反対しました。
すると非常に怒ったウィリアム王は、このアンセルモに対して迫害を始めます、反対をします。そして遂には、「アンセルモよ、もしも言う事を聞かないなら、お前の土地を、お前の教会を没収してしまうぞ。お前の地位を取ってしまうぞ。イギリスから追放するぞ!」「王様、私は本当の事を言っているだけです。もしもそうなさりたいならそうなさって下さい」と言って、イギリスの国外に追放されました。
そして聖アンセルモは、ローマに行きます。教皇様の元に行って、すると教皇様は、「あぁアンセルモよ、よく来た!お前の助けが必要だ。」と言って、実はその当時「公会議」と言って、「バリの公会議」という特別の教会の会議があって、「今ギリシャの人々の異端説があるので、これを説得しなければならない。どうぞ神学の知恵と、祈りの知恵を与えてほしい」と言って、そしてそのバリの公会議では、聖アンセルモが大活躍しました。祈りと犠牲のそのおかげでした。
聖アンセルモがその公会議で活躍をし終わったような時に、ちょうど今までアンセルモに意地悪をしていたイギリスの王様のウィリアムは亡くなってしまいます、死んでしまいます。すると兄弟のヘンリーが王様になって、アンセルモに言います、「アンセルモ大司教様、もうこれからは没収もしませんし、教会に税金もかけませんし、それから司教様の任命などもしません。ですから戻って来て下さい。」
そして聖アンセルモはカンタベリーに戻って、そして聖職者や、その教区民や、イギリスの人たちから大歓迎を受けます。それからますます祈りと犠牲を以て、イギリスの国民をますます良い生活に、「イエズス様に倣った生活をするように」と言って、模範と、言葉と、愛徳を以て一生懸命働いて、イギリスに戻った後の3年後、1109年の4月21日の今日、ちょうど今から900年前、聖アンセルモは亡くなります。
その時に聖アンセルモは、「こういう声を聞いた」と記録に残しています。「お前は、私の試練の時に、私と共に留まってくれた。だから私はお前に、私の王国を与えよう。さぁ、お前は私の王国のテーブルに食卓について、一緒に食事をするだろう。」ちょうど子供の頃見た、夢の中で見たイエズス様との対話がまたよみがえってきて、「さぁ今こそお前は、私がお願いした全ての事を果たしたのだ」という事を理解しました。
(4)では、アンセルモはアオスタで生まれて、フランスのノルマンディーのベックという所で働いて、そしてイギリスのカンタベリーという3つの所で働いたのですけれども、900年の後に2009年には、アオスタの人も、ノルマンディーの人も、カンタベリーの人も皆1つになってローマに来て、大きな900年祭を祝いました。
一体何が、このイタリア人も、フランス人も、イギリス人も、国を超えて、聖アンセルモにおいて1つになって、この偉大な修道者を司教様をお祝いして、記念をしようと思ったのでしょうか?
このその理由は1つしかありません。それは、聖アンセルモというのが、「いつもイエズス様と一致していた、イエズス様とお祈りをしていた、イエズス様の事を黙想していた、イエズス様の事を考えていた」からです。
だからこそこの人に特別の価値があったのです。
ちょうど塩が塩の味を付けていなかったら、役に立たずに捨てられてしまうように、私たちも一番価値があるのは、イエズス様とのお祈りをして、イエズス様の事をいつも考えて、イエズス様と一致していて、イエズス様を愛している、イエズス様の御旨を果たしている、ここに私たちの価値があるのです。
聖アンセルモは私たちに、「人間というのは、天主様にお祈りしてなんぼやで」と教えています。
お祈りをすればするほど、人間に価値が出てきます。そうすればするほど、国を超えて、場所を超えて、時代を超えて、「立派な人だ。これこそ本物だ」と、ますます塩の味が効いてくる人になります。世の光になります。
ですからこの聖アンセルモが子供の頃から考えていた、この祈りに、イエズス様への愛に、今日来てくれた小さなお友達たちもぜひ倣うようになさって下さい。
イエズス様に今日はたくさんお祈りして下さい、「イエズス様、僕もイエズス様と親しく、イエズス様の事がよく知りたいと思います。イエズス様の事を、イエズス様と親しくお話したい、イエズス様を喜ばせたいと思います。どうぞ助けて下さい。」
「マリア様、僕が聖アンセルモのように、イエズス様をよく知り、愛する事ができるように、お祈りして下さい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。