栄えの玄義 第2玄義の黙想
(2018年4月21日(土)公教要理にて 小野田神父)
初土の信心の準備を致しましょう。秋田での黙想会があるので、きっとこの黙想は私たちが今から準備をしなくてもうまくできると思いますけれども、提案をしておきたいと思います。
4月の初土では既に、「イエズス様の御復活」を黙想しました。そこで5月の初土では、「イエズス様の御昇天」を黙想するのが良いのではないかと思います。イエズス様の御昇天の祝日もそのすぐ近くにあります。
今日提案するのは、2つのポイントがあります。
⑴ 1つは、イエズス様が弟子たちの目の前で昇天なさった、という事。
⑵ 第2点は、イエズス様が天に昇られて、聖父の右に座し給う。そして天国で私たちの為にお祈りをして、私たちを待っておられる。
というこの2つを黙想したいと思います。この内の1つの、第1の第2の部分の自分のお好きな、黙想しやすいものをなさって下さい。
⑴ 第1の点は、まず「イエズス様が弟子たちを集めて、そして皆の前で天に上げられる」という、「天にお上がりになる」という、その光景を思い浮かべて下さい。弟子たちが皆居る中で、皆さんもその群衆に混じって、私たちも居ると想像して下さい。そしてその私たちが居る前で、イエズス様が十字の印を切りながら、私たちを祝福しながら、天に昇って行かれるその姿を。
イエズス様は復活された後に、弟子たちの教育に特別に力を尽くします、40日間。特に使徒たちに現れて、教会の運営をどうするべきか、罪の赦しを与えたり、ペトロに「私の羊を牧せよ」等と言って、そして他の弟子たちにも現れたり、そして「イエズス様が確かに復活された」という事を表すのですけれども、それでも福音書によると、「まだ疑う人もいた」とあります。でもほとんどの人は、イエズス様のこの復活を信じていて、喜びと、イエズス様に対する愛情に満ちています。
イエズス様、復活されたイエズス様と会って、そしてイエズス様と一緒に、こう他の人たちと一緒にイエズス様を囲んで、イエズス様の話をこうしっかり聞く、聞いているその姿を想像なさって下さい。きっと私だったら携帯で写真を撮ったり、「ブログにアップしよう」とか、「ノートにイエズス様が仰る言葉を取ろう」とか、「日本語に翻訳しよう」とか。でもイエズス様は私たちの為にちゃんと日本語を話して下さいます。
するとイエズス様はその御昇天の前に、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。聖父と聖子と聖霊と御名によりて、洗礼を授けよ」という命令をされます。そして、「世の終わりまで、私はお前たちと共にいる。」
本当にイエズス様は私たちの目の前に、確かに目に見える形ではイエズス様は天に、目に見える肉体としては天に行かれましたけれども、しかし御聖体においては、本当に私たちの前に、私たちと共に留まっておられます。
聖パウロは、「イエズス様が復活して天に居るのだから、私たちの心も天に上げなければならない」と言います。
聖ヨハネは、「この世のものを愛するな」と言います。
イエズス様が天にお昇りになって、そして私たちの為に天の門をもう一度開いて、そして多くの天使たちの喝采とアレルヤの讃美の元に天国に入る、という時にどれほどの喜びがあったでしょうか。イエズス様の十字架の苦しみ、屈辱、辱め、受けた暴言、冒瀆、その他の嫌がらせを全く忘れさせるような、栄光と、喜びと、幸せが、イエズス様を取り囲みます。
もしも私たちが、この世の辛さや、嫌がらせや、何かでくじけそうになった時には、イエズス様のこの栄光が、私たちを勇気づけてくれます。きっと全ての天使たちも、そして聖人聖女も天国で、私たちが天国に上がるのを待って、イエズス様と同じような栄光を受けるのを待ちに待っているはずです。
明日のミサ [復活後第三主日] を見ると、実は既に教会は、イエズス様の昇天の事を私たちに思い出させています。
イエズス様の復活したその直後、最初の主日は、復活から一週間の後には、弟子たちと共に聖トマスと共に、イエズス様の傷跡に手で触れて、あるいは脇に手を入れて、「確かにイエズス様は復活した。」私たちに「お前たちに平和あれ」というその優しい慰めと、赦しと、励ましの言葉を聞かせて下さるのです。
第2週目はイエズス様は、私たちに善き牧者として現れます。私たちを憐れんで、私たちを探して天から降りて、私たちを天に連れて行こうとしている善き牧者。
ところで既に明日の第3週には、イエズス様の昇天について、教会はもう注目するようにしています。明日この2つの読書があります。
1つは聖ペトロが、「私たちは一体どんな状況にいるのか」という事を話します。「私たちは旅人だ。私たちは巡礼者だ。私たちは他所者だ。外国人だ。だからこの地上の、この地上でずっと長く居ると思うな。」
ある信者さんが、昔岩国から大阪のミサに来ていた信者さんの家に遊びに行った事があるのだそうです。その岩国に居た子は外国人で、アメリカ人だったのですけれども、その日本人の信者さんがその子の家に遊びに行ったら、「あぁ、ヨゼフくんの家には何も無いんだよね」と言ったのそうです。外国人なので、別にたくさんの家具を持つ必要もないし、たくさんの物を持って家の中をゴタゴタさせる必要もなく、いつでも日本を発つ事ができるように、いつでも引っ越しをする事ができるように、ほんの必要な物だけしかなかったようです。
私たちも、本当の祖国は、本当の国は、家は、天国にあるので、この地上ではただの仮の住まいで、ほんの一時的な外国生活、旅人であって、実は外国人なので、ですからいつも身軽でなければなりません。そのカバン1つで、軽いカバン1つで移動する事ができるようでなければ、あんまり重たいものを持っていると、リヤカーも引いて、キャンピングカーとかを後ろに何台も引き連れて、「一体何がそんなに必要なんですか?」というぐらい、財産をたくさんかき集めても、結局はここに置いてさよならをしなければならない。
イエズス様の昇天は私たちに、「私たちがこの地上では、ほんのちょっとの間しかいない寄留者であって、旅人である」という事を思い出させてくれます。
私たちは物をたくさん集める傾向があります。イエズス様の例えの中にも、「ある人が大きな倉を作って、たくさんの財産をそこに集めて、『あぁこれで安心だ』と財産を貯蓄し終えたその時に、『あぁ、お前は今日実は天の国に召されるのに。使い切れないほどの貯めた財産は一体誰が使うのだ。一体誰の物なのか。これはきっと遺産相続の争いの種になるだけだ』」というような話を聞きます。
明日のミサはもう1つ、イエズス様が福音で、「私たちが旅人だ」という事をもう一度思い出させて下さって、「しばらくの間お前たちは私を見ないが、しかしもう一度私を見るだろう。そうするとお前たちの喜びは、誰も取り去る事ができないものに変わるだろう。今のお前たちの悲しみは喜びに変わるだろう」という言葉があります。
教会はこれを、「イエズス様の昇天」に典礼では適用させています。しばらくの間私たちはイエズス様を見ないのですけれども、このしばらくが経つと、短い人生が終わると、イエズス様をもう一度見ます。顔と顔を合わせて。その時の私たちはもう、涙はもう、聖ヨハネによると黙示録によると、「涙は拭い去られて、そしてもはや死も、苦しみも、悲しみも、病も全くない。」聖パウロの言葉によると、「目も見なかった、耳も聞いた事がない、そして頭にも考え付いた事がないような、ものすごいとてつもない幸せが私たちを待っている。その為にイエズス様は天に昇って、私たちの為に準備をされている。」
イエズス様が天に上げられた、これを思って下さい。
⑵ 第2のポイントは、イエズス様は天に昇られたのみならず、天の聖父の右に座して、そして私たちの為にいつも執り成しをされている、お祈りして下さっている。聖父の前でこう傷を見せて、「この傷はこの人の為です。これに免じて、どうか憐れんでやって下さい。」それを見ると聖父も、「そうだな。全くそうだ。」聖子の執り成しの通りにされます。
天主聖父は肉体がないので、右も左もないのですけれども、座るとか座らないとかもないのですけれども、しかし公教要理によれば、「『右に座す』というのは、天主聖父のその栄光のその地位のそのすぐ次だ。誰もその上にはない。イエズス様とその聖父の間に、その誰か立つような人はいない。」
イエズス様はその「聖父の右に座す」というのは、天主聖子としてではなくて人間として、被造物としてそうされています。ですから天使ケルビム、セラフィム、その9階の天使たちという被造物をはるかに超えて、「人間であるイエズス・キリスト様が、天の最も高い地位にあげられて、人間として。そしてその地位は揺るぎがない。『座す』というのは非常に安定していて、その地位を所有して確保している、という意味だ」と公教要理は言っています。
誰かが「自民党総裁の椅子に座っている」と言えば、それは日本の首相とか、「政権を執っている党の党首の椅子に座っている」と言えば、これは日本で一番偉い権力がある人になりますけれども、イエズス様は、天主の聖父の右に座しておられます。なぜかというと、それは私たちに御恵みを注ぐ為で、私たちをより効果的に天国に導く為で、より良い最高の方法で、私たちに天国の至福を与える事ができる為です。
誰かが「地位のある座に着く」と言ったとしたら、権力を思いのままに使う為かもしれませんが、しかしイエズス様の場合は、私たちを救う為です。私たちをより良く愛する為。
もしも今の首相の地位に座っている人が、私の友達だったら、「ああ、安倍晋三?お友達で、携帯を知っているよ。LINEもやっている」というかもしれません。
しかしイエズス様は、天主聖父の右に座しているイエズス様はもっとすごいのです。地上の友達どころじゃないのです。LINEをやっているところではありません。ツーと言えばカー。並んで待たなくてもお祈りでお願いをすれば、すぐ「そうか」と聞いて下さる。いつも目の前におられて、そして私たちの為に何かを与えようと待っておられる。
もしも私たちが御恵みを受けないとしたら、それは唯一、私たちがお祈りをしなかったとか、し方が悪いとか、不足しているとか、心が込もってなかったとか。イエズス様が、「さぁ、さぁ、さぁ、何が欲しいのか!」と待っておられるのに。
そこでこの第2のポイントでは、イエズス様が天のいとも高き、最も素晴らしい御稜威の座に、謙遜に、そして憐れみ深く座っておられて、私たちの事をよく耳を澄まして聞いておられる、これを黙想して下さい。
天使は、ファチマの天使はジャシンタとフランシスコ、それからルチアの3人に、「イエズスとマリアのいとも聖なる御心は、あなた達の為に憐れみの計画がある。憐れみのデザインがある」と言いました。耳を研ぎ澄まして、私たちからの祈りを待って聞こうとしているのです、天の最も高きところで。
イエズス様は私たちを幸せにしようと思っているのですけれども、私たちにそれをしなくても、イエズス様はもうそれで別に自分はこれだけ幸せなので、私たちが幸せになろうともならなくとも、別にイエズス様の幸せに変わりはないのですけれども、どんな事があっても私たちを幸せにしたい、と思っています。非常に優しい、非常に憐れみ深い父親であって、そしていつも変わらず、常に変わらずに助けてくれる恩人であって、善き牧者で、私たちの世話をしようと心を砕いている、寛大な救い主です。
その優しい、優しい、憐れみ深い、いつも慈悲の愛と、慈母の心に満ちている甘美なイエズス様が、天の一番高い地位の玉座に座っておられる。何とかして聖父の心を動かさして説得しようと、聖父に私たちの為に取り次いでおられる。私たちが何とか永遠の報いの褒美を受ける事ができるように、一生懸命私たちの為に説明をして、理由をかけて弁護しておられる。
そういうイエズス様がいつも私の傍におられる、というのは、私たちにとって何と力の励みになる事でしょうか、力強い応援になる事でしょうか。
イエズス様の私たちの為に準備して下さった、その無限の終わりのないとてつもない喜び、それを遂に受けたその日には、「あぁイエズス様、この喜びを私に下さる為に、私を無から創造して下さったのですね。イエズス様に何度も逆らって、イエズス様の御恵みを無にしてきたにも関わらず、私を諦めずに、私の為にいつも憐れみ続けて、天国にまで導いて下さったのですね。」
イエズス様の憐れみの深さとその巨大さを思えば思うほど、そして自分のした愚かさと不忠実を思えば思うほど、私たちはイエズス様に感謝して、感謝して、感謝して、感謝して、「ありがとう」と言って永遠でも足りないほどです。「何と素晴らしい救い主を私たちは得た事だろうか。何とイエズス様の憐れみは優しくて、その情は深い事だろうか。何と私はイエズス様に対して冷たくて、そして無礼で、忘恩だっただろうか。そして今この受けている幸せと喜びの大きさ、受けている名誉と栄光の大きさを考えると、一体私が何をしただろうか。」イエズス様の良さと親切さ、憐れみの深さに、もうひたすら感謝と、感謝と、感謝しかありません。
もうこの地上での最高の喜び、最大の幸せというものがあったとして、天国のその幸せと喜びと比べると、全く比べ物にもなりません。この世の幸せが100集まって、あるいはこの世の全ての幸せが集まって、天国のちょっとした幸せと比べたとしても、全然比べ物にもなりません。目も見た事がない、耳も聞いた事がない、頭にも思い付く事ができないほどの、私たちの知性をはるかに超える、想像を超える至福が待っている。イエズス様がそれを今準備している。何という恵まれた私たちでしょうか。
昨日、食事をした後に御聖堂まで戻ってくる時に、「信仰を受けた私たちと、信仰を受けない人の違い」という事を少しぽろっと話して下さった方がいます。
「信仰を受けた私たちは、イエズス様から最高のものを、今この生きている内から受けている。イエズス様の御教え、イエズス様の御恵み、イエズス様の御聖体、命、祝福、あれでもかこれでもか、たくさん受けて、受けて、受けて、受けて。片やもう一方は、全くそれを知らない。これには無限の差がある。」
イエズス様は私たちに、この「とてつもない喜びを受ける事ができるように」と天から私たちを探して来て下さったばかりか、ここに私たちの目の前にずっと留まっておられるばかりか、天国に昇って天主聖父の前で、すぐ前で、「聖父よ、御身を愛し奉る。」そして御自分の従順と、苦しみと、犠牲の証を見せて、「御覧下さい。これに免じて、この霊魂たちを天国に」と絶えず取り次いでくれる。
聖ヨハネによると、第1の書間の3章です、「天主が栄光の内に現れる時に、私たちは天主のようになる。そして天主をそのあるがままに見るだろう。」
聖パウロは言うのです、「今生きている間は、曇った鏡を見るように、おぼろげに見ているけれども、信仰によって。しかしその日には、顔と顔を合わせて、天主をはっきりと認識する。その私たちは天主と1つになって、1つの栄光、1つの命を、えも言えない至福を感じる。至福直観を得る」と言っています。
その私たちが受ける、そのあまりにもとてつもない幸せと比べると、この世の全ての地上の富も、権力も、喜びも、楽しみも、幸せと思える事も、本当に水洗便所で流されるちり紙のようにあっという間にシューッ!という風に思えてしまいます。
この黙想の終わりには是非、イエズス様に心と心でお話なさって下さい。マリア様の汚れなき御心を通してお話なさって下さい。
「マリア様、御身の汚れなき御心は私の避難所であって、天へと導く道です。どうぞイエズス様の元へ連れて行って下さい。この近道を通って、汚れなき御心によって守られて、天国にまで無事に辿り着きますように、お守り下さい。」
「イエズス様、イエズス様は私にそのイエズス様のその幸せと、喜びと、全く同じ喜びを与える為に、私に下さる為にこの苦しみを受けました。イエズス様の愛に感謝します。もしも私が辛い事に直面した時に、重い十字架を担わなければならない時に、『やった!これこそ、この十字架こそが、私がイエズス様のようになる為の道だ!これこそ年金を貯めるチャンスだ!今このここで、この十字架を担う事によって、天国でのものすごいものを今準備する事ができる!』と思わせて下さい。」
聖ヨハネ・ボスコのお母さんマルガリタは、ドン・ボスコがたくさん孤児とか子供たちを、わんぱくな子供たちをたくさん連れて来て、ご飯は食べるわ、洗濯物はたくさんあるわ、服を汚すわ、掃除はしなければならないわで大変だったのです。それである日、「ヨハネ、もうこれ以上私、耐えられません。この子供たち、あんまりにも野蛮で」と言ったら、 ドン・ボスコは、天国の事を言って、イエズス様の十字架を見せたそうです。
コルベ神父様もいつも、「天国!」「天国!」と仰っていました。
そこで私たちもマリア様の汚れなき御心に行って、「天国の事を思い出す事ができますように。特に苦しい時に、辛い時に、日常いつでも。」その良い決心を取って、黙想を終えて下さい。
では、黙想の提案を終わります。何かこの黙想でご質問はありますか?初土曜日には、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向を持って、告解をされて、御聖体拝領をして、そして5連ロザリオを唱えて、15分黙想なさって下さい。
(2018年4月21日(土)公教要理にて 小野田神父)
初土の信心の準備を致しましょう。秋田での黙想会があるので、きっとこの黙想は私たちが今から準備をしなくてもうまくできると思いますけれども、提案をしておきたいと思います。
4月の初土では既に、「イエズス様の御復活」を黙想しました。そこで5月の初土では、「イエズス様の御昇天」を黙想するのが良いのではないかと思います。イエズス様の御昇天の祝日もそのすぐ近くにあります。
今日提案するのは、2つのポイントがあります。
⑴ 1つは、イエズス様が弟子たちの目の前で昇天なさった、という事。
⑵ 第2点は、イエズス様が天に昇られて、聖父の右に座し給う。そして天国で私たちの為にお祈りをして、私たちを待っておられる。
というこの2つを黙想したいと思います。この内の1つの、第1の第2の部分の自分のお好きな、黙想しやすいものをなさって下さい。
⑴ 第1の点は、まず「イエズス様が弟子たちを集めて、そして皆の前で天に上げられる」という、「天にお上がりになる」という、その光景を思い浮かべて下さい。弟子たちが皆居る中で、皆さんもその群衆に混じって、私たちも居ると想像して下さい。そしてその私たちが居る前で、イエズス様が十字の印を切りながら、私たちを祝福しながら、天に昇って行かれるその姿を。
イエズス様は復活された後に、弟子たちの教育に特別に力を尽くします、40日間。特に使徒たちに現れて、教会の運営をどうするべきか、罪の赦しを与えたり、ペトロに「私の羊を牧せよ」等と言って、そして他の弟子たちにも現れたり、そして「イエズス様が確かに復活された」という事を表すのですけれども、それでも福音書によると、「まだ疑う人もいた」とあります。でもほとんどの人は、イエズス様のこの復活を信じていて、喜びと、イエズス様に対する愛情に満ちています。
イエズス様、復活されたイエズス様と会って、そしてイエズス様と一緒に、こう他の人たちと一緒にイエズス様を囲んで、イエズス様の話をこうしっかり聞く、聞いているその姿を想像なさって下さい。きっと私だったら携帯で写真を撮ったり、「ブログにアップしよう」とか、「ノートにイエズス様が仰る言葉を取ろう」とか、「日本語に翻訳しよう」とか。でもイエズス様は私たちの為にちゃんと日本語を話して下さいます。
するとイエズス様はその御昇天の前に、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。聖父と聖子と聖霊と御名によりて、洗礼を授けよ」という命令をされます。そして、「世の終わりまで、私はお前たちと共にいる。」
本当にイエズス様は私たちの目の前に、確かに目に見える形ではイエズス様は天に、目に見える肉体としては天に行かれましたけれども、しかし御聖体においては、本当に私たちの前に、私たちと共に留まっておられます。
聖パウロは、「イエズス様が復活して天に居るのだから、私たちの心も天に上げなければならない」と言います。
聖ヨハネは、「この世のものを愛するな」と言います。
イエズス様が天にお昇りになって、そして私たちの為に天の門をもう一度開いて、そして多くの天使たちの喝采とアレルヤの讃美の元に天国に入る、という時にどれほどの喜びがあったでしょうか。イエズス様の十字架の苦しみ、屈辱、辱め、受けた暴言、冒瀆、その他の嫌がらせを全く忘れさせるような、栄光と、喜びと、幸せが、イエズス様を取り囲みます。
もしも私たちが、この世の辛さや、嫌がらせや、何かでくじけそうになった時には、イエズス様のこの栄光が、私たちを勇気づけてくれます。きっと全ての天使たちも、そして聖人聖女も天国で、私たちが天国に上がるのを待って、イエズス様と同じような栄光を受けるのを待ちに待っているはずです。
明日のミサ [復活後第三主日] を見ると、実は既に教会は、イエズス様の昇天の事を私たちに思い出させています。
イエズス様の復活したその直後、最初の主日は、復活から一週間の後には、弟子たちと共に聖トマスと共に、イエズス様の傷跡に手で触れて、あるいは脇に手を入れて、「確かにイエズス様は復活した。」私たちに「お前たちに平和あれ」というその優しい慰めと、赦しと、励ましの言葉を聞かせて下さるのです。
第2週目はイエズス様は、私たちに善き牧者として現れます。私たちを憐れんで、私たちを探して天から降りて、私たちを天に連れて行こうとしている善き牧者。
ところで既に明日の第3週には、イエズス様の昇天について、教会はもう注目するようにしています。明日この2つの読書があります。
1つは聖ペトロが、「私たちは一体どんな状況にいるのか」という事を話します。「私たちは旅人だ。私たちは巡礼者だ。私たちは他所者だ。外国人だ。だからこの地上の、この地上でずっと長く居ると思うな。」
ある信者さんが、昔岩国から大阪のミサに来ていた信者さんの家に遊びに行った事があるのだそうです。その岩国に居た子は外国人で、アメリカ人だったのですけれども、その日本人の信者さんがその子の家に遊びに行ったら、「あぁ、ヨゼフくんの家には何も無いんだよね」と言ったのそうです。外国人なので、別にたくさんの家具を持つ必要もないし、たくさんの物を持って家の中をゴタゴタさせる必要もなく、いつでも日本を発つ事ができるように、いつでも引っ越しをする事ができるように、ほんの必要な物だけしかなかったようです。
私たちも、本当の祖国は、本当の国は、家は、天国にあるので、この地上ではただの仮の住まいで、ほんの一時的な外国生活、旅人であって、実は外国人なので、ですからいつも身軽でなければなりません。そのカバン1つで、軽いカバン1つで移動する事ができるようでなければ、あんまり重たいものを持っていると、リヤカーも引いて、キャンピングカーとかを後ろに何台も引き連れて、「一体何がそんなに必要なんですか?」というぐらい、財産をたくさんかき集めても、結局はここに置いてさよならをしなければならない。
イエズス様の昇天は私たちに、「私たちがこの地上では、ほんのちょっとの間しかいない寄留者であって、旅人である」という事を思い出させてくれます。
私たちは物をたくさん集める傾向があります。イエズス様の例えの中にも、「ある人が大きな倉を作って、たくさんの財産をそこに集めて、『あぁこれで安心だ』と財産を貯蓄し終えたその時に、『あぁ、お前は今日実は天の国に召されるのに。使い切れないほどの貯めた財産は一体誰が使うのだ。一体誰の物なのか。これはきっと遺産相続の争いの種になるだけだ』」というような話を聞きます。
明日のミサはもう1つ、イエズス様が福音で、「私たちが旅人だ」という事をもう一度思い出させて下さって、「しばらくの間お前たちは私を見ないが、しかしもう一度私を見るだろう。そうするとお前たちの喜びは、誰も取り去る事ができないものに変わるだろう。今のお前たちの悲しみは喜びに変わるだろう」という言葉があります。
教会はこれを、「イエズス様の昇天」に典礼では適用させています。しばらくの間私たちはイエズス様を見ないのですけれども、このしばらくが経つと、短い人生が終わると、イエズス様をもう一度見ます。顔と顔を合わせて。その時の私たちはもう、涙はもう、聖ヨハネによると黙示録によると、「涙は拭い去られて、そしてもはや死も、苦しみも、悲しみも、病も全くない。」聖パウロの言葉によると、「目も見なかった、耳も聞いた事がない、そして頭にも考え付いた事がないような、ものすごいとてつもない幸せが私たちを待っている。その為にイエズス様は天に昇って、私たちの為に準備をされている。」
イエズス様が天に上げられた、これを思って下さい。
⑵ 第2のポイントは、イエズス様は天に昇られたのみならず、天の聖父の右に座して、そして私たちの為にいつも執り成しをされている、お祈りして下さっている。聖父の前でこう傷を見せて、「この傷はこの人の為です。これに免じて、どうか憐れんでやって下さい。」それを見ると聖父も、「そうだな。全くそうだ。」聖子の執り成しの通りにされます。
天主聖父は肉体がないので、右も左もないのですけれども、座るとか座らないとかもないのですけれども、しかし公教要理によれば、「『右に座す』というのは、天主聖父のその栄光のその地位のそのすぐ次だ。誰もその上にはない。イエズス様とその聖父の間に、その誰か立つような人はいない。」
イエズス様はその「聖父の右に座す」というのは、天主聖子としてではなくて人間として、被造物としてそうされています。ですから天使ケルビム、セラフィム、その9階の天使たちという被造物をはるかに超えて、「人間であるイエズス・キリスト様が、天の最も高い地位にあげられて、人間として。そしてその地位は揺るぎがない。『座す』というのは非常に安定していて、その地位を所有して確保している、という意味だ」と公教要理は言っています。
誰かが「自民党総裁の椅子に座っている」と言えば、それは日本の首相とか、「政権を執っている党の党首の椅子に座っている」と言えば、これは日本で一番偉い権力がある人になりますけれども、イエズス様は、天主の聖父の右に座しておられます。なぜかというと、それは私たちに御恵みを注ぐ為で、私たちをより効果的に天国に導く為で、より良い最高の方法で、私たちに天国の至福を与える事ができる為です。
誰かが「地位のある座に着く」と言ったとしたら、権力を思いのままに使う為かもしれませんが、しかしイエズス様の場合は、私たちを救う為です。私たちをより良く愛する為。
もしも今の首相の地位に座っている人が、私の友達だったら、「ああ、安倍晋三?お友達で、携帯を知っているよ。LINEもやっている」というかもしれません。
しかしイエズス様は、天主聖父の右に座しているイエズス様はもっとすごいのです。地上の友達どころじゃないのです。LINEをやっているところではありません。ツーと言えばカー。並んで待たなくてもお祈りでお願いをすれば、すぐ「そうか」と聞いて下さる。いつも目の前におられて、そして私たちの為に何かを与えようと待っておられる。
もしも私たちが御恵みを受けないとしたら、それは唯一、私たちがお祈りをしなかったとか、し方が悪いとか、不足しているとか、心が込もってなかったとか。イエズス様が、「さぁ、さぁ、さぁ、何が欲しいのか!」と待っておられるのに。
そこでこの第2のポイントでは、イエズス様が天のいとも高き、最も素晴らしい御稜威の座に、謙遜に、そして憐れみ深く座っておられて、私たちの事をよく耳を澄まして聞いておられる、これを黙想して下さい。
天使は、ファチマの天使はジャシンタとフランシスコ、それからルチアの3人に、「イエズスとマリアのいとも聖なる御心は、あなた達の為に憐れみの計画がある。憐れみのデザインがある」と言いました。耳を研ぎ澄まして、私たちからの祈りを待って聞こうとしているのです、天の最も高きところで。
イエズス様は私たちを幸せにしようと思っているのですけれども、私たちにそれをしなくても、イエズス様はもうそれで別に自分はこれだけ幸せなので、私たちが幸せになろうともならなくとも、別にイエズス様の幸せに変わりはないのですけれども、どんな事があっても私たちを幸せにしたい、と思っています。非常に優しい、非常に憐れみ深い父親であって、そしていつも変わらず、常に変わらずに助けてくれる恩人であって、善き牧者で、私たちの世話をしようと心を砕いている、寛大な救い主です。
その優しい、優しい、憐れみ深い、いつも慈悲の愛と、慈母の心に満ちている甘美なイエズス様が、天の一番高い地位の玉座に座っておられる。何とかして聖父の心を動かさして説得しようと、聖父に私たちの為に取り次いでおられる。私たちが何とか永遠の報いの褒美を受ける事ができるように、一生懸命私たちの為に説明をして、理由をかけて弁護しておられる。
そういうイエズス様がいつも私の傍におられる、というのは、私たちにとって何と力の励みになる事でしょうか、力強い応援になる事でしょうか。
イエズス様の私たちの為に準備して下さった、その無限の終わりのないとてつもない喜び、それを遂に受けたその日には、「あぁイエズス様、この喜びを私に下さる為に、私を無から創造して下さったのですね。イエズス様に何度も逆らって、イエズス様の御恵みを無にしてきたにも関わらず、私を諦めずに、私の為にいつも憐れみ続けて、天国にまで導いて下さったのですね。」
イエズス様の憐れみの深さとその巨大さを思えば思うほど、そして自分のした愚かさと不忠実を思えば思うほど、私たちはイエズス様に感謝して、感謝して、感謝して、感謝して、「ありがとう」と言って永遠でも足りないほどです。「何と素晴らしい救い主を私たちは得た事だろうか。何とイエズス様の憐れみは優しくて、その情は深い事だろうか。何と私はイエズス様に対して冷たくて、そして無礼で、忘恩だっただろうか。そして今この受けている幸せと喜びの大きさ、受けている名誉と栄光の大きさを考えると、一体私が何をしただろうか。」イエズス様の良さと親切さ、憐れみの深さに、もうひたすら感謝と、感謝と、感謝しかありません。
もうこの地上での最高の喜び、最大の幸せというものがあったとして、天国のその幸せと喜びと比べると、全く比べ物にもなりません。この世の幸せが100集まって、あるいはこの世の全ての幸せが集まって、天国のちょっとした幸せと比べたとしても、全然比べ物にもなりません。目も見た事がない、耳も聞いた事がない、頭にも思い付く事ができないほどの、私たちの知性をはるかに超える、想像を超える至福が待っている。イエズス様がそれを今準備している。何という恵まれた私たちでしょうか。
昨日、食事をした後に御聖堂まで戻ってくる時に、「信仰を受けた私たちと、信仰を受けない人の違い」という事を少しぽろっと話して下さった方がいます。
「信仰を受けた私たちは、イエズス様から最高のものを、今この生きている内から受けている。イエズス様の御教え、イエズス様の御恵み、イエズス様の御聖体、命、祝福、あれでもかこれでもか、たくさん受けて、受けて、受けて、受けて。片やもう一方は、全くそれを知らない。これには無限の差がある。」
イエズス様は私たちに、この「とてつもない喜びを受ける事ができるように」と天から私たちを探して来て下さったばかりか、ここに私たちの目の前にずっと留まっておられるばかりか、天国に昇って天主聖父の前で、すぐ前で、「聖父よ、御身を愛し奉る。」そして御自分の従順と、苦しみと、犠牲の証を見せて、「御覧下さい。これに免じて、この霊魂たちを天国に」と絶えず取り次いでくれる。
聖ヨハネによると、第1の書間の3章です、「天主が栄光の内に現れる時に、私たちは天主のようになる。そして天主をそのあるがままに見るだろう。」
聖パウロは言うのです、「今生きている間は、曇った鏡を見るように、おぼろげに見ているけれども、信仰によって。しかしその日には、顔と顔を合わせて、天主をはっきりと認識する。その私たちは天主と1つになって、1つの栄光、1つの命を、えも言えない至福を感じる。至福直観を得る」と言っています。
その私たちが受ける、そのあまりにもとてつもない幸せと比べると、この世の全ての地上の富も、権力も、喜びも、楽しみも、幸せと思える事も、本当に水洗便所で流されるちり紙のようにあっという間にシューッ!という風に思えてしまいます。
この黙想の終わりには是非、イエズス様に心と心でお話なさって下さい。マリア様の汚れなき御心を通してお話なさって下さい。
「マリア様、御身の汚れなき御心は私の避難所であって、天へと導く道です。どうぞイエズス様の元へ連れて行って下さい。この近道を通って、汚れなき御心によって守られて、天国にまで無事に辿り着きますように、お守り下さい。」
「イエズス様、イエズス様は私にそのイエズス様のその幸せと、喜びと、全く同じ喜びを与える為に、私に下さる為にこの苦しみを受けました。イエズス様の愛に感謝します。もしも私が辛い事に直面した時に、重い十字架を担わなければならない時に、『やった!これこそ、この十字架こそが、私がイエズス様のようになる為の道だ!これこそ年金を貯めるチャンスだ!今このここで、この十字架を担う事によって、天国でのものすごいものを今準備する事ができる!』と思わせて下さい。」
聖ヨハネ・ボスコのお母さんマルガリタは、ドン・ボスコがたくさん孤児とか子供たちを、わんぱくな子供たちをたくさん連れて来て、ご飯は食べるわ、洗濯物はたくさんあるわ、服を汚すわ、掃除はしなければならないわで大変だったのです。それである日、「ヨハネ、もうこれ以上私、耐えられません。この子供たち、あんまりにも野蛮で」と言ったら、 ドン・ボスコは、天国の事を言って、イエズス様の十字架を見せたそうです。
コルベ神父様もいつも、「天国!」「天国!」と仰っていました。
そこで私たちもマリア様の汚れなき御心に行って、「天国の事を思い出す事ができますように。特に苦しい時に、辛い時に、日常いつでも。」その良い決心を取って、黙想を終えて下さい。
では、黙想の提案を終わります。何かこの黙想でご質問はありますか?初土曜日には、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向を持って、告解をされて、御聖体拝領をして、そして5連ロザリオを唱えて、15分黙想なさって下さい。