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2018年4月22日(主) 復活後第3主日 「少ししたらお前たちは私を見なくなる。が、しばらくしたら、また私を見るであろう」の御言葉を黙想する

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2018年4月22日(主日)復活後第3主日のミサ
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年4月22日、主の御復活後第3主日のミサです。今日この御ミサの後で、ミサの後の祈りの後に、非常に短いものですけれども、御聖体降福式をしようと思います。これは特に日本と世界の平和の為にも、朝鮮半島や中国大陸や、あるいは日本で戦争が起こりませんように、また多くの召命が日本に与えられますように、という事を願ってしたいと思っています。

その後に14時30分から公教要理があり、そしてそれが1時間くらい、そのまた後に聖歌の練習もしたいと思っています。聖霊降臨の祝日の聖歌を、少し皆さんと一緒に歌いたいと思っています、いらして下さい。明日は朝7時からミサがあります。

5月2日から6日は秋田での巡礼があります。その為に、本当ならば第1主日ではここでミサをするのが普通の予定でありますが、それができなくなっております、どうぞご了承下さい。次のミサは5月20日、聖霊降臨の大祝日です。


“Modicum, et jam non videbitis me et iterum modicum, et videbitis me.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日主の復活の後の第3主日では、イエズス様の有名な、「少ししたらお前たちは私を見なくなる。が、しばらくしたら、また私を見るであろう」というその御言葉があります。この意味を一緒に黙想する事にしましょう。

(1) まず、一体なぜ教会は、この言葉を選んだのか?

(2) 第2に、この教会はだからそれを聞いて、悲しんでいるのか?喜んでいるのか?喜んでいるのです。入祭誦で「喜べ」と歌った通りです。では一体なぜ喜んでいるのか?その理由としてイエズス様が2つ(2の1と2の2)を与えています。それでその2つの理由を見る事に致しましょう。

(1) 第1に、なぜ教会はこの言葉を選んだか?です。

イエズス様の御復活の後に、その復活が確かなものである事を証する為に、イエズス様は40日の間色々な弟子たちにお現れになって、一緒に食べたり、体を触らせたり、あるいは特に使徒たちに頻繁に現れて、今後教会をどのように運営していくべきか、という事を教えました。聖ペトロに、「私の羊を牧せよ」と言ったのも、復活の後でした。

そこで教会はまず、復活の後の第1主日には、聖使徒トマスと一緒に、イエズス様の傷跡に私たちの手を入れて、あるいはその体に触れて、「我が主、我が天主なり」という事を読みました。

第2の主日(実は先週ですけれども)は、このイエズス様が復活する事によって、私たちを導いて下さっている、善き牧者として導いて下さっている、という神秘を黙想しました。

第3の主日、今日は、これからイエズス様は私たちに何を期待しているのか?そして私たちに対して何をなさろうとしているのか?という事を黙想させます。

今日イエズス様が仰りたい、そして教会が私たちに伝えたいと思うのは、イエズス様は御自分の昇天についてです。イエズス様は、天に昇られるという事について話されて、そして私たちを準備しようとしています。「自分は天に昇る。聖父の元に行く。ではお前たちはどうするべきか。」


(2) 第2のポイントは、ではイエズス様はこの事で何を仰りたいかというと、まずイエズス様を見ないという間は、“Modicum”「しばらくの間だけだ。しかしその後には、私をまた見るだろう。」

(2-1) 【この人生は、ほんの束の間のこと】
この地上にいる間は、イエズス様を見ない間はほんの束の間だ、という事を教えています。これが第2のポイントの第一です。

ですから教会は今日書簡の中で、巡礼者への手紙を書いています、聖ペトロは私たちに向かって、「私たちが一体何であるか」という事を言います。


一週間前は、「私たちは失われた羊だ」とペトロは言いました。しかし今日は、「私たちは旅人だ。私たちは巡礼者だ。私たちは外国人だ。他所者だ。ここのこの地上に長くいる者ではない。ただ通り過ぎるだけだ。だから重い荷物を持って引きずって行くのではなくて、身軽に、そしていつも自分の帰るべき故郷の事をふるさとの事を、イエズス・キリストの事を思い出せ。だからこの地上においてはほんの束の間の事だから、この地上の間では王に従い、兄弟を愛し、そして奴隷たちであっても、どんな主人であっても従いなさい」と言います。なぜならば、この短い間の悲しみはあっという間に過ぎてしまうからです。

実際イエズス様は仰っています、「お前たちは私を見ないが、ほんのしばらくの間私を見ないだろうが、その間あなたたちは悲しむだろう。そしてこの世は喜ぶだろう。」

はい。カトリックのキリスト教のこの地上での生活は、確かにこの地上のものを、この地上での旅人であるという事を、天国への旅人である事を知っているので、巡礼者であるという事を知っているので、この地上のものに愛着したりとか、この地上のものを楽しんでそれに溺れてしまうという事がないので、あたかも悲しんでいるかのように見えます。そしてこの世は喜んでいるかのように見えます。でもそれはほんの束の間の間です。

確かに私たちの人生は、生まれた時から、赤ちゃんとして生まれた時から涙を流して、無意識の内にも、悲しい、お腹が減った、寒い、お母さんどこにいるの、あぁわ~んわ~ん、赤ちゃんの時から私たちは泣いています。そして大きくなっても、辛い事や、悲しい事、失望、思い通りにいかない事、友達からの誤解、善意の無視、あるいは嫌がらせ、事故、病気、あるいは愛する人との別れ等、辛い事もたくさんあります。私たちはこの地上での悲しみや苦しい事をたくさん経験しています。この苦しみのない人は誰一人もいません。

イエズス様もそうでした。イエズス様は私たちの苦しみをよく御存知です。子供の頃から、十字架の上に架かって亡くなられるまで、私たちが経験するであろう全ての苦しみと悲しみを、御自分で経験しておられます。もっと経験されました。更に深いものを経験しました。私たちが「まさかそこまで」と想像もつかないようなものまでも、イエズス様は敏感な聖心で体験して、涙を流されました。

そのイエズス様は私たちに、「この短い、この私たちの地上での生活は短いのだから、さぁ頑張れ」と励まして下さいます。

そればかりではありません。この短い生活の中にでさえ、私たちに多くの慰めと、希望と、そして御恵みを与えて、私たちがこの短い時間の悲しみと苦しみの生活を、よく耐え忍ぶ事ができるように、と助けて下さいます。

確かにイエズス様は目に見える形で、人間の形としては天に上げられて、そして聖父の右に座し給うのですが、しかしミサにおいては、私たちの目の前に、そして御聖体拝領においては私たちの霊魂に、私たちの体と1つになって、いつも傍にいて下さいます。

聖トマス・アクィナスは、もしも神学で難しい問題があったら、すぐに御聖櫃の方に行ってお祈りしたではないですか。聖人たちはいつも苦しい事、悲しい事があると、すぐにイエズス様の元に行って、「イエズス様、助けて下さい、憐れんで下さい」と言って、多くの慰めと光を受けたではないでしょうか。

イエズス様は私たちをどのように慰めるか、私たちの涙を乾かす事ができるか、励ます事ができるかをよく御存知です。「さぁ、この私の十字架をご覧。私の傷をご覧。私の脇をご覧。お前の為に苦しんだよ。その私の苦しみをちょっと考えてごらん」と招いています。そしてイエズス様の復活された御体を私たちが受けて、「これが待っているのだ」と仰って下さいます。

(2-2) 【束の間の人生の後に、永遠の喜びが待っている】
第2のポイントのその2は、イエズス様が「しかし、しばらく後に、お前は私を見るだろう。」ということです。

主語が変わっています、この福音の最後に。「そしてお前たちの悲しみは喜びに変わる。誰もこれを取る事ができない。」

これは遂に天国で、イエズス様と至福直観で、目と目を合わせて、顔と顔を合わせて、「天主が何であるか」という事をはっきりと見て、イエズス様の御憐れみの深さ、その愛の深さを、「そうだったのか!」という事をますます理解して、喜びに満ち溢れるその事です。誰もこの喜びを取る事はできません。

イエズス様は私たちを無から創りました、私たちにこの喜びを与える為に。アダムとエヴァはほんのちょっとしか要求されませんでした、この喜びを得る為には。しかしそのほんのちょっとさえも、アダムとエヴァはする事ができませんでした。そして全てをパーにしたのですけれども、それにもかかわらず、天主は人となって、私たちの上に私たちの為に赤ちゃんとしてお生まれになりました。私たちの為に30年間貧しい生活をされました。私たちがこのえも言えないとてつもない幸福を得る為に。

イエズス様は天主の聖子は、奴隷にこの幸せを与える為に、十字架に付けられて、御血を流されました。天主の聖子は私たちにこの永遠の命を与える為に、その手段として、パンとなって私たちに食べられる事さえも、たとえそれが粗末に扱われる危険にあったとしても、それが無視される、冷たく取り扱われる危険にあったとしても、私たちの為に御聖体を制定されました。世の終わりまで私たちと共にいて、私たちを慰めようとされています。「さぁ悲しむ者、苦しむ者は私の元に来なさい。私のくびきは軽く、甘美であるから。私はお前たちを回復させよう」と招いておられます。

このイエズス様が準備しておられる、今天国に行こう行こうとして、天の聖父の前で御自分の傷を、傷跡を見せて、「聖父よ、どうぞ彼らを憐れんで下さい。彼らが天国へ行くのを許して下さい」と懇願されています。その懇願を見て、聖父は決して拒む事ができません。

イエズス様はしかも私たちに、私たちに準備されているその至福というのは、聖パウロの言葉によると、「目でも見た事がなくて、頭でも考えた事がなくて、耳も聞いた事がなくて、心でも思った事もない、とてつもないものすごい喜びが待っている。その時にはもう、私たちの目の涙が全て渇いて、死もなければ、悲しみもなければ、苦しみもない。ものすごい喜びが待っている。この至福が待っている。」

この世の中でとっても嬉しい事があって、『ヤッター!わぁー!』と言いたい。それも天国と比べれば、この地上の喜びは何でもない。飛んでしまうような儚いもの。私たちがもう思う事もできないような喜びが、私たちの為に準備されている。

だから教会は今日入祭誦の中で、“Jubilate Deo, omnis terra, alleluia.”「全地よ、さぁ主に喜べ、アレルヤ」と喜びを歌っています。

ですから、「イエズス様が天に昇り給うて、私たちに最高の喜びを準備しようとしている」という事を教会は教えようとしています。「この地上の苦しみは短い。しかし終わりのない、無限の喜びが待っている」と。

(3) では、もしも私たちがその事を理解したとしたら、一体実際生活にどんな行動となって現れるでしょうか?それを遷善の決心として提案します。

1つは、「この世は短い。天国はものすごい」というと、私たちのこの信仰こそが、私たちの人生の全規定でなければなりません。

信仰は私たちにとって一番大切なもの、のみならず、全てをこの人生を決定する原理でなければなりません。つまり私たちがこの地上での悲しみや苦しみがあった時には、すぐに「これは手段であって、目的は何か」最終の目的まで目を向けなければなりません。手段と目的を混同してはいけません。多くの人はそれをこんがらがっています。

第2に、「この世は短い。永遠は素晴らしい」という事が分かると、イエズス様が私たちに、このいつも私たちを助けたい、と思っているその事を思い出して、私たちは日々、特に辛い事や悲しい事があった時に、イエズス様に射祷を唱えて下さい。

射祷というのは私たちの心の中で、口に出さなくてもイエズス様の事を思い出して、「イエズス様、憐れんで下さい。」「イエズス様、助けて下さい。」「イエズス様、愛しています。」などと祈ることです。

「イエズス様、私に御恵みをお願いします。」「イエズス様、このお友達の為に御恵みをお願いします。」「イエズス様、この彼らを憐れんで下さい、このお友達が苦しんでいます」「イエズス様、」と頻繁にイエズス様と一致して、心の中でコミュニケーションする事です。これを射祷と言います。是非なさって下さい。

私たちのこの地上での、短い地上での苦しみが、あっという間に慰めに変わります。なぜかというと、私たちには全てが与えられているからです。イエズス・キリストが与えられているからです。

第3にはそして最後には、イエズス様は確かに天国に行かれますが、肉体、目に見える人間の形としては。しかし御聖体としては、私たちの前に留まっています。御聖体をぜひ愛して下さい。

御聖体をどうぞ愛を以て、真に私たちを愛する善き牧者、復活したイエズス・キリスト、そして私たちに天国のとてつもない恵みを報いを与える方として、受け取って下さい。恭しく、深い礼拝を以て聖体拝領なさって下さい。

もしもできれば、ここのミサの会場でも、2ヶ月に1度ぐらいの割合で御聖体礼拝をたくさんしたいと思っています。イエズス様の聖心がますます、実は日本では非常に御聖体が粗末に取り扱われているので、ますます愛されて、ますます礼拝されますように、御聖体を愛して下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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