アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き9)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅲ)典礼の精神――三つの原理 (3/ 3)
*
第三の原理――わたしは“司祭“である。司祭だからこそわたしは、聖体を祝別するとき、または他の秘跡を執行するとき、自分は”イエズス・キリストの聖役者“である、ゆえに、他のキリストである、との信念を、今さらのごとく新たにしなければならないのではないか。同時にまた、わたしはこれらの聖なる務めを執行するその事にこそ、自分の司祭職が要求する、いろいろの善徳を修得するための、特別の恩寵を見いだすのである、その度合いは、わたしの努力いかんによるのである、ということを、確信しなければならないのだ。
ああ、イエズスよ、あなたの信者たちは、みんな集まって一つの神秘体をかたち造っています。だが、この神秘体においては、すべてのえだがみんな、同じ用をつとめるのではありません。(ローマ12・4)おのおののえだが頂いた天主の賜ものは、その分配において、みんなちがうのです。(コリント前12・4)
あなたは、カルワリオの犠牲を、可見的にささげる任務を、地上の教会におゆだねになるおぼし召しから、司祭職を彼女に、ご委託になりました。そのおもな目的は、カルワリオの犠牲を、祭壇上に新たにし、次に秘跡によって、あなたの聖なる救世の御血を、人びとの上に雨ふらせ、あなたの天主的生命をそのなかにそそぎ入れて、神秘体を聖化するためなのです。
最高の大司祭なるあなたは、永遠の昔から、司祭としてわたしをお選びになり、あなたの教役者として聖別するようお定めになりました。わたしの仲介によって、あなたの司祭職を、地上において継続するためなのです。あなたはわたしに、ご自分の権利をおわかちになりました。それは、わたしの協力によって、宇宙の創造よりもっと、もっと偉大な事業をなされるためです。すなわち、聖変化の奇跡をおこない、この奇跡によって、ホスチアとして、教会の宗教的中心として、世の終わりまで、地上におとどまりになるためなのです。
司祭の尊厳の偉大さについて論じている、教父たちの感激にみちた文章を、わたしはどれほどの熱情をもって愛読し、理解することでしょう! かれらの言葉は、必然的にわたしに、自分はキリストの司祭職に参与したのだから、当然“他のキリスト”である、との考えをいだかせねばならないのです。
じっさい、あなたとわたしの間には、互いに通じる“同一性”がないのでしょうか。なぜなら、わたしが“これは、わたしの体である。これは、わたしの血である”との聖別の言葉をとなえますとき、あなたはこれらの言葉を、ご自分のものとされるのですから、あなたの天主的ご人格とわたしの人格とは、こん然一体となって、もはや互いに分離することができないようになっているのではないでしょうか。わたしはあなたに、わたしのくちびるをお貸しするのです。なぜなら、わたしはなんのウソいつわりもなく、「これは、わたしの体である。これは、わたしの血である」ということができるのですから。あなたが、聖変化をお望みになるためには、ただわたしがそれを、望みさえすればよいのです。あなたのご意志は、わたしの意志のなかに、溶け込んでしまいました。あなたが地上でなすことのできる、最も大いなる行為たる聖変化において、あなたのご霊魂はわたしの霊魂に、緊密に一致しています。さらに、わたしはあなたに、わたしの持っているもののなかで、わたしにいちばん本質的なもの――すなわち、わたしの意志をお貸しします。するとたちまち、あなたのご意志は、わたしの意志のなかに溶け込んで、全く一つのものとなってしまうのです。
それは本当に、わたしを通じておはたらきになる、あなたご自身なのです。ですから、もしわたしが、聖体の素材たるパンとぶどう酒にむかって、「これは、イエズス・キリストのおん体である。これは、イエズス・キリストのおん血である」とでも申しましたら、聖別は全然無効なのです。
ああ、イエズスよ、聖体とは、とりもなおさず、パンの形色のなかにこもりまします、あなたご自身なのです。そして、ミサ聖祭の一つ一つごとに、わたしの目にはハッキリと、司祭は、あなたご自身にほかならないのだ、ということ、あなたの聖役者としてお選びになった、ひとりの人間のなかにかくれています、あなたご自身にほかならないのだ、ということ――この事実が浮きぼりにされて、あざやかにうつるのです。
“他のキリスト”――わたしは、どんな秘跡を執行するときにも、そのたびごとに、この言葉が頭のなかに、よみがえってまいります。ただ、あなただけが、救世主のお資格をもって、「われ汝を洗す」とか「われ汝の罪をゆるす」とか、いうことがおできになります。このようにして、あなたは、世界創造のそれと全く同じ天主的権能を、つまり天主の全能を、お発揮になられます。
それで天使たちも、無から万物をひきだした世界創造の“成れかし”のお言葉が、はじめて天主のお口から発せられた時よりも、いっそう大いなる驚嘆をもって、只今、わたしの罪ふかい口から発せられる聖別の言葉に、全身の注意を集中しているのです。なぜなら、わたしの口から出るこの聖別の言葉こそは――ああ、なんと不思議なことでしょう――この聖別の言葉こそは、天地の創造主なる天主を、地上に呼びくだし、この同じ天主と天主性を共有にし、生命を共有にする天主の御子を、地上に生まれさせる、という全能の力を、おのれのうちに持っているからです。
わたしは、自分の司祭職の務めを執行するたびごとに、あたかもあなたが、わたしにむかって、こう仰せられているかのように感じます。――わが子よ、わたしは、天主の全能のちからによって、おまえを“他のキリスト”にしたのだから、おまえが日常の行為において、“非キリスト”または“反キリスト”であることに、どうして我慢できようか。それなのに、なんとまあ、悲しいことがあるものだろう! おまえは今しがた、わたしに溶け入り、わたしと一体になって、司祭職の務めを果たそうとしていた。だが、大罪をもっている。一瞬の後には、わたしの代わりに悪魔が、おまえの心にはいり込んで、おまえを“反キリスト”にしてしまうのだ。もしくは、おまえの霊魂をスッカリ麻痺させて、おまえに、わたしを模倣する義務、「わたしを着る」(聖パウロの言葉)義務のあることを忘れさせる。悪いとは知りながら、故意に忘れさせるのだ。
そんなことは、絶対にあってはならないのだ。ただ人間的弱さのために、どうにもならない、心ならずも、日々の過ちにおちいる、だがすぐに痛悔し、償いをする、というのだったら、おまえはわたしの慈悲に、よりすがることができよう。だが、わざと不忠実の過失をおかしたまま、心は冷えきっている、そして痛悔の心もおこさないで、天使たちをさえ驚倒させる、崇高な務めにたずさわる――こんな調子だったら、わたしの怒りに、ふれずにはすむまい。
おまえの司祭職と旧約の司祭職のあいだには、まさに天地のちがいがある。それでも、わたしの預言者たちは人民の罪のゆえに、または為政者の罪ゆえに、シオンにいかめしい警告を発したものだ。司祭たちの堕落から、どんな不幸が生まれたか。預言者のかきしるすところをきくがいい。
主はその憤(いきどう)りを、ことごとくもらし、
はげしい怒りをそそぎ、
シオンに火をもやして、
その石ずえまでも焼き払われた。
地の王たちも、世の民らもみな、
イエルザレムの門に、あだや敵が、
討ち入ろうとは信じなかった。
これはその預言者たちの罪のため、
その司祭たちの不義のためであった。
かれらは義人の血を、その町の中に流した者である。(イエレミア哀歌4・10~13)
だからこそ、教会は、司祭が大罪をもちながら祭壇にのぼり、または秘跡を授与することを、どんなにきびしく禁ずることか!
さらに、教会は、わたしの霊感を受けて、司祭たちに、もっときびしい要求をもちだす。――その式典の細則によって、教会はおまえをして、信心か偽善か、そのいずれかに、向背をきめなければならないように仕向けるのだ。おまえはどうしても内的生活に生きなければ、必然の結果として、どうしても偽善におちいらざるをえないようにされている。内的精神がないなら、おまえはミサの初めから終わりまで、心にもないことを、わたしにいってみたり、望んでもいないことを、願ったりする。
典礼の言葉や儀式には、それぞれ固有の意味が含まれている。
それぞれ独特の精神が、ただよっている。
わずかな過ちでも、これを痛悔し、償わねばならぬ。
そのためには、心をよく取り締まっておかなければならぬ。
礼拝の精神にひたっていなければならぬ。
そのためには、心を深く沈潜させておかなければならぬ。
信・望・愛の精神に、浸透されていなければならぬ。そのためには、おのれの外的行為と事業について、日ごろ霊的指導をうけていなければならぬ。これらはみな、典礼の言葉や儀式と深いつながりをもっているからである。
ああ、イエズスよ、わたしはよく了承しております。――もしわたしが、聖なる祭服を着用するにあたり、その祭服が表象するいろいろの善徳を、修得するように努力していませんなら、わたしは確かに一種の“偽善”におちいるであろうことを。で、これからは、典礼の儀式のあいだにする平伏や、十字架のしるしや、となえる聖句などが、けっして内的生活の絶無や冷淡や無関心を、おおいかくすのに便利な、ただのまねごとでありませんように。そうすることによって、かずかずの過ちに、いま一つの過ち、すなわち、永遠なる天主のみまえに、いつわりの仕ぐさ、偽善のふるまいをならべたてる、という過ちを、つけ加えないように注意したいものです。
されば、わたしがあなたの恐るべき、奥義の数々に接するたびごとに、どうか聖なる恐怖が、わたしの魂をとらえますように。祭服を着るとき、またはミサ典書や定式書の感動にみち、力のこもった規定の祈りをとなえるとき、どうかそれらが、わたしの魂をさそって、わたしの心の中をくまなくさぐり、はたして自分は内的生活によって、あなたを模倣しようとのまじめな、効果的な望みを心にいだいているかどうか、はたしてわたしの心は、ほんとうにあなたの聖心とうまく調子があっているかどうか、ということを深く、反省させてくれますように。
ああ、わが霊魂よ、おまえは心の中で、こんなことを考えているかもしれぬ。――自分は聖なる務めを執行する間だけ“他のキリスト”であれば、それでいいのではないか。したがって、“反キリスト”でなければ、なにも苦労してまで“イエズス・キリストを着る”という霊的はたらきを、一生懸命になってする必要はないではないかと。
とんでもない。自分は“十字架にくぎづけられたイエズス・キリストの使節である”そればかりか、自分はさらに“十字架にくぎづけられた、他のイエズス・キリストである”と、公けに声明したわたしである。そのわたしに、どうして平凡な信心生活がゆるされるだろうか。どうして“貴族的”な信心に、苦労のない、お上品な善徳に、満足しきっていることがゆるされるだろうか。
いや、修道院の人たちこそは、イエズス・キリストを模倣し、内的生活を修得するために、自分たち在俗司祭よりも、いっそう努力する義務がある……。ああ、わが霊魂よ、おまえはしいて、自分にそういいきかせて、逃げようとするのか。しかし、だれが逃がすものか! おまえは、たいへん、まちがっている。司祭と修道者の義務を、たがいに、はきちがえている。
聖徳を達成するために、修道者は、ある手段をもっている。従順の誓願、清貧の誓願、会則の遵守などがそれだ。在俗司祭のわたしは、こういう手段には束縛されていない。だがしかし、わたしは修道者と同じ目的、同じ聖徳を追求し、達成する義務をせおっているのだ。しかも、キリストの御血を分配する務めなる、司祭職をゆだねられていない修道者にくらべて、この義務がどれほど強く、どれほど重いことか!
わたしが、そのような錯覚におちいっているとは、なんと不幸なことだろう。この錯覚は、むろん罪になる錯覚である。なぜなら、教会や聖人たちの教えをしらべさえすれば、すぐにこの錯覚は霧のように、消えてしまうからである。永遠のしきいをまたぐとき、そのとき初めてわたしは、この錯覚がいかに愚かであったか、いかにまちがっていたかを、いっそう明らかにさとるのだろう。
主よ、わたしが、典礼の務めにたずさわっていますとき、あなたがわたしから、何を要求しておいでなるかを悟るために、典礼の務めをよく利用するすべを心得ていませんなら、わたしはどんなに不幸なのでしょう。また、わたしを取りまく典礼の、いろいろな聖なる物品――祭壇、告解場、洗礼盤、祭器、祭服など――が、わたしの心にささやいている沈黙の言葉に、もしわたしが耳をかさなかったとしたら、わたしはどんなに不幸なのでしょう。
「あなたがたは、手で扱う御者を、模倣しなさい」(司教用定式書)
「主の器を持ち運ぶあなたがたは、清くありなさい」(イザヤ52・12)
「あなたがたは、天主の火祭、すなわち、天主の食物をささげる者だから、聖でありなさい」(レビの書21・6)
こんなぐあいに、聖なる物品は、わたしの心に語っておりますのに。
ああ、イエズスよ、わたしがもし、これらの呼びかけに耳をふさぎますなら、いっそう言い訳ができなくなるだけです。なぜなら、わたしの司祭職の務めの一つ一つは、あなたがわたしの霊魂を、あなたのお姿にあやからしめるためにお与えになる、助力の恩寵の機会となるからです。そしてこの恩寵を、あなたに強くおねがい致します者は、母なる教会なのです。
教会は、わたしがあなたのご期待に、そうことができますようにと、はげしく望んでいます。いつくしみ深い教会の母ごころは、わたしをあたかも彼女のひとみのように、それはそれは大事にしてくださいます。すでにわたしが司祭叙階式のまえ、わたしがあなたに同化して“他のキリスト”にならねばならぬ、その結果は至って重大な義務を負うものである、ということを、特に注意してくださったのは、教会ではありませんでしたか。
「主よ、わたしの頭に、救霊のカブトをおいてください」「主よ、清浄の帯をもって、わたしに帯してください」「主よ、わたしのすべての罪をゆるしてください」「主よ、わたしをして、いつも主のおきてに愛着せしめ、一度でも主から離れることをゆるしたもうな……」(ミサ聖祭の祈り)
このようなお願いを、あなたに致しますのは、ただわたし一人が、わたし一個人のためにするのではありません。すべてのまじめな信者たちが、あなたに奉献されたすべての熱心な霊魂たち――修道者、修道女、聖職者たち――が、わたしのこの貧しい祈りを、自分らのものにして、あなたにおささげするのです。
かれらの叫びは、あなたの玉座まで昇っていきます。そして、あなたのおん耳にひびきますのは、あなたのいとしき花嫁なる、教会の声なのです。かくて、あなたの聖役者たちが、内的生活を追求しようと心にかたく決心して、かれらの心を、そのなしつつある務めに順応させますなら、かれらのために祈る教会のこれらの嘆願は、いつもあなたにききいれられるのです。
ああ、イエズスよ、わたしがミサ聖祭を執行し、または秘跡を授与するにあたって、信者一同のために天父にささげる祈りは、もしわたしが怠慢の過失によってそれより除け者にされないかぎり、きっと自分のためにも、いろいろの恩寵をいただく機縁となるのです。わたしが司祭として務めを果たすたびごとに、わたしの心は、あなたの恩寵のはたらきに向かって、ひろく開かれているのです。そのとき、あなたはわたしの心に、超自然の光りと慰めと力をおそそぎになり、これによってわたしは、障害物がどんなに大きくても、あなたに同化することができるのです。ものの考え方も、愛情も、意志も、あなたのそれと全く同じものになることができるのです。あたかも、あなたがわたしの触媒によって、祭壇上で、生けるホスチアとなり、または霊魂たちの救い主となるときに、わたしの授かった司祭職が、永遠の司祭なるあなたに、わたしを全く同化させますように。
*
わたしは以下に、典礼の精神なる三つの要点を、数語のうちに集約して示したい。
(一)――教会と共に Cum Ecclesia
わたしが、単にキリスト者として、教会に一致するとき、この一致はわたしをさそうて、教会と同じ思いにひたらせる。
(二)――教会 Ecclesia
わたしが、教会から、天主の玉座のもとに派遣された、使節として行動することにより、教会それ自体であるとき、そのときわたしは、教会の念願を自分のものにするようにとの、いっそう強い刺激を感じる。なぜなら、このように行動するとき、至聖なる御稜威(みいつ)の天主に、ものを申し上げるために、いっそうふさわしい者となるのだから。また、典礼という公けの祈りによって、わたしの使徒職はいっそう、実りゆたかになるのだから。
(三)――キリスト Christus
だが、キリストの司祭職に参与することによって、わたしがほんとうに“他のキリスト”
になるとき、ああ、イエズスよ、そのときあなたは、どれほど強くわたしに、お呼びかけになることでしょう――ますますあなたのお姿にあやかりますようにと。かくて、あなたのお姿にあやかることによって、信者たちにあなたをいっそう鮮明に示し、また、善き模範の提示による使徒職によって、かれらをあなたのおん後につき従わせるようにと。切実をきわめた、主のこのお呼びかけは、どんな言葉で表現できるのでしょうか!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き9)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅲ)典礼の精神――三つの原理 (3/ 3)
*
第三の原理――わたしは“司祭“である。司祭だからこそわたしは、聖体を祝別するとき、または他の秘跡を執行するとき、自分は”イエズス・キリストの聖役者“である、ゆえに、他のキリストである、との信念を、今さらのごとく新たにしなければならないのではないか。同時にまた、わたしはこれらの聖なる務めを執行するその事にこそ、自分の司祭職が要求する、いろいろの善徳を修得するための、特別の恩寵を見いだすのである、その度合いは、わたしの努力いかんによるのである、ということを、確信しなければならないのだ。
ああ、イエズスよ、あなたの信者たちは、みんな集まって一つの神秘体をかたち造っています。だが、この神秘体においては、すべてのえだがみんな、同じ用をつとめるのではありません。(ローマ12・4)おのおののえだが頂いた天主の賜ものは、その分配において、みんなちがうのです。(コリント前12・4)
あなたは、カルワリオの犠牲を、可見的にささげる任務を、地上の教会におゆだねになるおぼし召しから、司祭職を彼女に、ご委託になりました。そのおもな目的は、カルワリオの犠牲を、祭壇上に新たにし、次に秘跡によって、あなたの聖なる救世の御血を、人びとの上に雨ふらせ、あなたの天主的生命をそのなかにそそぎ入れて、神秘体を聖化するためなのです。
最高の大司祭なるあなたは、永遠の昔から、司祭としてわたしをお選びになり、あなたの教役者として聖別するようお定めになりました。わたしの仲介によって、あなたの司祭職を、地上において継続するためなのです。あなたはわたしに、ご自分の権利をおわかちになりました。それは、わたしの協力によって、宇宙の創造よりもっと、もっと偉大な事業をなされるためです。すなわち、聖変化の奇跡をおこない、この奇跡によって、ホスチアとして、教会の宗教的中心として、世の終わりまで、地上におとどまりになるためなのです。
司祭の尊厳の偉大さについて論じている、教父たちの感激にみちた文章を、わたしはどれほどの熱情をもって愛読し、理解することでしょう! かれらの言葉は、必然的にわたしに、自分はキリストの司祭職に参与したのだから、当然“他のキリスト”である、との考えをいだかせねばならないのです。
じっさい、あなたとわたしの間には、互いに通じる“同一性”がないのでしょうか。なぜなら、わたしが“これは、わたしの体である。これは、わたしの血である”との聖別の言葉をとなえますとき、あなたはこれらの言葉を、ご自分のものとされるのですから、あなたの天主的ご人格とわたしの人格とは、こん然一体となって、もはや互いに分離することができないようになっているのではないでしょうか。わたしはあなたに、わたしのくちびるをお貸しするのです。なぜなら、わたしはなんのウソいつわりもなく、「これは、わたしの体である。これは、わたしの血である」ということができるのですから。あなたが、聖変化をお望みになるためには、ただわたしがそれを、望みさえすればよいのです。あなたのご意志は、わたしの意志のなかに、溶け込んでしまいました。あなたが地上でなすことのできる、最も大いなる行為たる聖変化において、あなたのご霊魂はわたしの霊魂に、緊密に一致しています。さらに、わたしはあなたに、わたしの持っているもののなかで、わたしにいちばん本質的なもの――すなわち、わたしの意志をお貸しします。するとたちまち、あなたのご意志は、わたしの意志のなかに溶け込んで、全く一つのものとなってしまうのです。
それは本当に、わたしを通じておはたらきになる、あなたご自身なのです。ですから、もしわたしが、聖体の素材たるパンとぶどう酒にむかって、「これは、イエズス・キリストのおん体である。これは、イエズス・キリストのおん血である」とでも申しましたら、聖別は全然無効なのです。
ああ、イエズスよ、聖体とは、とりもなおさず、パンの形色のなかにこもりまします、あなたご自身なのです。そして、ミサ聖祭の一つ一つごとに、わたしの目にはハッキリと、司祭は、あなたご自身にほかならないのだ、ということ、あなたの聖役者としてお選びになった、ひとりの人間のなかにかくれています、あなたご自身にほかならないのだ、ということ――この事実が浮きぼりにされて、あざやかにうつるのです。
“他のキリスト”――わたしは、どんな秘跡を執行するときにも、そのたびごとに、この言葉が頭のなかに、よみがえってまいります。ただ、あなただけが、救世主のお資格をもって、「われ汝を洗す」とか「われ汝の罪をゆるす」とか、いうことがおできになります。このようにして、あなたは、世界創造のそれと全く同じ天主的権能を、つまり天主の全能を、お発揮になられます。
それで天使たちも、無から万物をひきだした世界創造の“成れかし”のお言葉が、はじめて天主のお口から発せられた時よりも、いっそう大いなる驚嘆をもって、只今、わたしの罪ふかい口から発せられる聖別の言葉に、全身の注意を集中しているのです。なぜなら、わたしの口から出るこの聖別の言葉こそは――ああ、なんと不思議なことでしょう――この聖別の言葉こそは、天地の創造主なる天主を、地上に呼びくだし、この同じ天主と天主性を共有にし、生命を共有にする天主の御子を、地上に生まれさせる、という全能の力を、おのれのうちに持っているからです。
わたしは、自分の司祭職の務めを執行するたびごとに、あたかもあなたが、わたしにむかって、こう仰せられているかのように感じます。――わが子よ、わたしは、天主の全能のちからによって、おまえを“他のキリスト”にしたのだから、おまえが日常の行為において、“非キリスト”または“反キリスト”であることに、どうして我慢できようか。それなのに、なんとまあ、悲しいことがあるものだろう! おまえは今しがた、わたしに溶け入り、わたしと一体になって、司祭職の務めを果たそうとしていた。だが、大罪をもっている。一瞬の後には、わたしの代わりに悪魔が、おまえの心にはいり込んで、おまえを“反キリスト”にしてしまうのだ。もしくは、おまえの霊魂をスッカリ麻痺させて、おまえに、わたしを模倣する義務、「わたしを着る」(聖パウロの言葉)義務のあることを忘れさせる。悪いとは知りながら、故意に忘れさせるのだ。
そんなことは、絶対にあってはならないのだ。ただ人間的弱さのために、どうにもならない、心ならずも、日々の過ちにおちいる、だがすぐに痛悔し、償いをする、というのだったら、おまえはわたしの慈悲に、よりすがることができよう。だが、わざと不忠実の過失をおかしたまま、心は冷えきっている、そして痛悔の心もおこさないで、天使たちをさえ驚倒させる、崇高な務めにたずさわる――こんな調子だったら、わたしの怒りに、ふれずにはすむまい。
おまえの司祭職と旧約の司祭職のあいだには、まさに天地のちがいがある。それでも、わたしの預言者たちは人民の罪のゆえに、または為政者の罪ゆえに、シオンにいかめしい警告を発したものだ。司祭たちの堕落から、どんな不幸が生まれたか。預言者のかきしるすところをきくがいい。
主はその憤(いきどう)りを、ことごとくもらし、
はげしい怒りをそそぎ、
シオンに火をもやして、
その石ずえまでも焼き払われた。
地の王たちも、世の民らもみな、
イエルザレムの門に、あだや敵が、
討ち入ろうとは信じなかった。
これはその預言者たちの罪のため、
その司祭たちの不義のためであった。
かれらは義人の血を、その町の中に流した者である。(イエレミア哀歌4・10~13)
だからこそ、教会は、司祭が大罪をもちながら祭壇にのぼり、または秘跡を授与することを、どんなにきびしく禁ずることか!
さらに、教会は、わたしの霊感を受けて、司祭たちに、もっときびしい要求をもちだす。――その式典の細則によって、教会はおまえをして、信心か偽善か、そのいずれかに、向背をきめなければならないように仕向けるのだ。おまえはどうしても内的生活に生きなければ、必然の結果として、どうしても偽善におちいらざるをえないようにされている。内的精神がないなら、おまえはミサの初めから終わりまで、心にもないことを、わたしにいってみたり、望んでもいないことを、願ったりする。
典礼の言葉や儀式には、それぞれ固有の意味が含まれている。
それぞれ独特の精神が、ただよっている。
わずかな過ちでも、これを痛悔し、償わねばならぬ。
そのためには、心をよく取り締まっておかなければならぬ。
礼拝の精神にひたっていなければならぬ。
そのためには、心を深く沈潜させておかなければならぬ。
信・望・愛の精神に、浸透されていなければならぬ。そのためには、おのれの外的行為と事業について、日ごろ霊的指導をうけていなければならぬ。これらはみな、典礼の言葉や儀式と深いつながりをもっているからである。
ああ、イエズスよ、わたしはよく了承しております。――もしわたしが、聖なる祭服を着用するにあたり、その祭服が表象するいろいろの善徳を、修得するように努力していませんなら、わたしは確かに一種の“偽善”におちいるであろうことを。で、これからは、典礼の儀式のあいだにする平伏や、十字架のしるしや、となえる聖句などが、けっして内的生活の絶無や冷淡や無関心を、おおいかくすのに便利な、ただのまねごとでありませんように。そうすることによって、かずかずの過ちに、いま一つの過ち、すなわち、永遠なる天主のみまえに、いつわりの仕ぐさ、偽善のふるまいをならべたてる、という過ちを、つけ加えないように注意したいものです。
されば、わたしがあなたの恐るべき、奥義の数々に接するたびごとに、どうか聖なる恐怖が、わたしの魂をとらえますように。祭服を着るとき、またはミサ典書や定式書の感動にみち、力のこもった規定の祈りをとなえるとき、どうかそれらが、わたしの魂をさそって、わたしの心の中をくまなくさぐり、はたして自分は内的生活によって、あなたを模倣しようとのまじめな、効果的な望みを心にいだいているかどうか、はたしてわたしの心は、ほんとうにあなたの聖心とうまく調子があっているかどうか、ということを深く、反省させてくれますように。
ああ、わが霊魂よ、おまえは心の中で、こんなことを考えているかもしれぬ。――自分は聖なる務めを執行する間だけ“他のキリスト”であれば、それでいいのではないか。したがって、“反キリスト”でなければ、なにも苦労してまで“イエズス・キリストを着る”という霊的はたらきを、一生懸命になってする必要はないではないかと。
とんでもない。自分は“十字架にくぎづけられたイエズス・キリストの使節である”そればかりか、自分はさらに“十字架にくぎづけられた、他のイエズス・キリストである”と、公けに声明したわたしである。そのわたしに、どうして平凡な信心生活がゆるされるだろうか。どうして“貴族的”な信心に、苦労のない、お上品な善徳に、満足しきっていることがゆるされるだろうか。
いや、修道院の人たちこそは、イエズス・キリストを模倣し、内的生活を修得するために、自分たち在俗司祭よりも、いっそう努力する義務がある……。ああ、わが霊魂よ、おまえはしいて、自分にそういいきかせて、逃げようとするのか。しかし、だれが逃がすものか! おまえは、たいへん、まちがっている。司祭と修道者の義務を、たがいに、はきちがえている。
聖徳を達成するために、修道者は、ある手段をもっている。従順の誓願、清貧の誓願、会則の遵守などがそれだ。在俗司祭のわたしは、こういう手段には束縛されていない。だがしかし、わたしは修道者と同じ目的、同じ聖徳を追求し、達成する義務をせおっているのだ。しかも、キリストの御血を分配する務めなる、司祭職をゆだねられていない修道者にくらべて、この義務がどれほど強く、どれほど重いことか!
わたしが、そのような錯覚におちいっているとは、なんと不幸なことだろう。この錯覚は、むろん罪になる錯覚である。なぜなら、教会や聖人たちの教えをしらべさえすれば、すぐにこの錯覚は霧のように、消えてしまうからである。永遠のしきいをまたぐとき、そのとき初めてわたしは、この錯覚がいかに愚かであったか、いかにまちがっていたかを、いっそう明らかにさとるのだろう。
主よ、わたしが、典礼の務めにたずさわっていますとき、あなたがわたしから、何を要求しておいでなるかを悟るために、典礼の務めをよく利用するすべを心得ていませんなら、わたしはどんなに不幸なのでしょう。また、わたしを取りまく典礼の、いろいろな聖なる物品――祭壇、告解場、洗礼盤、祭器、祭服など――が、わたしの心にささやいている沈黙の言葉に、もしわたしが耳をかさなかったとしたら、わたしはどんなに不幸なのでしょう。
「あなたがたは、手で扱う御者を、模倣しなさい」(司教用定式書)
「主の器を持ち運ぶあなたがたは、清くありなさい」(イザヤ52・12)
「あなたがたは、天主の火祭、すなわち、天主の食物をささげる者だから、聖でありなさい」(レビの書21・6)
こんなぐあいに、聖なる物品は、わたしの心に語っておりますのに。
ああ、イエズスよ、わたしがもし、これらの呼びかけに耳をふさぎますなら、いっそう言い訳ができなくなるだけです。なぜなら、わたしの司祭職の務めの一つ一つは、あなたがわたしの霊魂を、あなたのお姿にあやからしめるためにお与えになる、助力の恩寵の機会となるからです。そしてこの恩寵を、あなたに強くおねがい致します者は、母なる教会なのです。
教会は、わたしがあなたのご期待に、そうことができますようにと、はげしく望んでいます。いつくしみ深い教会の母ごころは、わたしをあたかも彼女のひとみのように、それはそれは大事にしてくださいます。すでにわたしが司祭叙階式のまえ、わたしがあなたに同化して“他のキリスト”にならねばならぬ、その結果は至って重大な義務を負うものである、ということを、特に注意してくださったのは、教会ではありませんでしたか。
「主よ、わたしの頭に、救霊のカブトをおいてください」「主よ、清浄の帯をもって、わたしに帯してください」「主よ、わたしのすべての罪をゆるしてください」「主よ、わたしをして、いつも主のおきてに愛着せしめ、一度でも主から離れることをゆるしたもうな……」(ミサ聖祭の祈り)
このようなお願いを、あなたに致しますのは、ただわたし一人が、わたし一個人のためにするのではありません。すべてのまじめな信者たちが、あなたに奉献されたすべての熱心な霊魂たち――修道者、修道女、聖職者たち――が、わたしのこの貧しい祈りを、自分らのものにして、あなたにおささげするのです。
かれらの叫びは、あなたの玉座まで昇っていきます。そして、あなたのおん耳にひびきますのは、あなたのいとしき花嫁なる、教会の声なのです。かくて、あなたの聖役者たちが、内的生活を追求しようと心にかたく決心して、かれらの心を、そのなしつつある務めに順応させますなら、かれらのために祈る教会のこれらの嘆願は、いつもあなたにききいれられるのです。
ああ、イエズスよ、わたしがミサ聖祭を執行し、または秘跡を授与するにあたって、信者一同のために天父にささげる祈りは、もしわたしが怠慢の過失によってそれより除け者にされないかぎり、きっと自分のためにも、いろいろの恩寵をいただく機縁となるのです。わたしが司祭として務めを果たすたびごとに、わたしの心は、あなたの恩寵のはたらきに向かって、ひろく開かれているのです。そのとき、あなたはわたしの心に、超自然の光りと慰めと力をおそそぎになり、これによってわたしは、障害物がどんなに大きくても、あなたに同化することができるのです。ものの考え方も、愛情も、意志も、あなたのそれと全く同じものになることができるのです。あたかも、あなたがわたしの触媒によって、祭壇上で、生けるホスチアとなり、または霊魂たちの救い主となるときに、わたしの授かった司祭職が、永遠の司祭なるあなたに、わたしを全く同化させますように。
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わたしは以下に、典礼の精神なる三つの要点を、数語のうちに集約して示したい。
(一)――教会と共に Cum Ecclesia
わたしが、単にキリスト者として、教会に一致するとき、この一致はわたしをさそうて、教会と同じ思いにひたらせる。
(二)――教会 Ecclesia
わたしが、教会から、天主の玉座のもとに派遣された、使節として行動することにより、教会それ自体であるとき、そのときわたしは、教会の念願を自分のものにするようにとの、いっそう強い刺激を感じる。なぜなら、このように行動するとき、至聖なる御稜威(みいつ)の天主に、ものを申し上げるために、いっそうふさわしい者となるのだから。また、典礼という公けの祈りによって、わたしの使徒職はいっそう、実りゆたかになるのだから。
(三)――キリスト Christus
だが、キリストの司祭職に参与することによって、わたしがほんとうに“他のキリスト”
になるとき、ああ、イエズスよ、そのときあなたは、どれほど強くわたしに、お呼びかけになることでしょう――ますますあなたのお姿にあやかりますようにと。かくて、あなたのお姿にあやかることによって、信者たちにあなたをいっそう鮮明に示し、また、善き模範の提示による使徒職によって、かれらをあなたのおん後につき従わせるようにと。切実をきわめた、主のこのお呼びかけは、どんな言葉で表現できるのでしょうか!