アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き11)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅳ)典礼生活の利益 (2/2)
(b)典礼生活は、わたしの内的生活を、イエズス・キリストの内的生活にあやからせるのに、大きな助けをあたえる
b) Elle m'aide puissamment à conformer ma Vie intérieure à celle de Jésus-Christ.
ああ、拝むべき主イエズス・キリストよ、あなたの聖心には、三つの天主的ご心情が特にめだっています。すなわち、
御父への完全な従属の精神――したがって、完全な謙遜。
次に、人類にたいする燃えるような愛、普遍的な愛。
最後に、犠牲の精神。
完全な謙遜 Humilité parfaite. ――あなたは、この世においでになるとき、こうおっしゃいました。
「天主よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、わたしはみ旨をおこなうためにまいりました」(ヘブライ10・7)
あなたのご生活のすべては、万事において、御父をおよろこばせすることのみを、絶えず望む、という一事に集約されるのだ、とあなたはしばしばご声明になりました。
「わたしは、いつも御父のみ心に、かなうことをしている」Ego quae placita sunt ei, facio semper.(ヨハネ8・29)Meus cibus est, ut faciam voluntatem ejus qui misit me. (Joan., IV, 34.)
「わたしが、天からくだってきたのは、自分のこころのままを、おこなうためではなく、わたしをつかわされたかたの、みこころをおこなうためである」(ヨハネ6・38)Descendi de coelo, non ut faciam voluntatem meam, sed voluntatem ejus qui misit me. (Joan., VI, 38.)
「そして、イエズスよ、あなたは“従順”の化身でいらっしゃいます。あなたは、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、お従いになりました」(フィリッピ2・5)
Factus obediens usque ad mortem, mortem autem cruds. (Philip., II, 5.)
今も、昔にかわらず、あなたの司祭たちに、お従いになるのです。あなたは、司祭たちの声に応じて Obediente Domino voci hominis、天の玉座から、地上の祭壇へと、お降りになるのです。
天父への、あなたの絶対従属を、わたしに模倣させるために、主よ、典礼はどれほど、すばらしい学校であることでしょう。しかし、そのためには、わたしの心が、典礼の最も些細な規定にも、よく従わなければなりません。――天父への絶対従属の精神を、おのれのうちにつちかい、常に自由の天地にあこがれている“自我”の勢力をよわめ、滅ぼしたい、わたしの判断を捨て、いつもその反対の方向に走っている、わたしの意志をまっすぐにして、これをあなたの根本精神たる、天父のみ旨への尊崇と服従に向かわせるように努力したい、との願望が、心に燃えていなければなりません。
わたしが、あなたに従うように、教会にも従うため、自分の小さい頭を、自分の“個我”を屈するように努力するそのたびごとに、さらに教会の名によって行動し、教会に一致する、したがってあなたご自身に一致するように努力するそのたびごとに、どれほど貴重な効果が、わたしの霊魂聖化のうえにあらわれることでしょう。典礼を執行するとき、最も些細な規定にも従いますなら、そしていつまでも忠実にしたがっておりますなら、この小事への忠実は、わたしが、のちほど最も困難な、最も重大な事態に出あったとき、どれほどすばらしい効果を生じることでしょう。「小事に忠実な人は、大事にも忠実」(ルカ16・10)だからです。
典礼の利益は、もっとあります。典礼はわたしに、あなたのご生活が、わたしの内に確実に再現されていること、あなたの恩寵がなければ、自分はタッタ一つの良い考えすらも、自分の頭から生みだすことはできないのだ、あなたの恩寵がないなら、救霊と聖化の面で、自分はなにもできないのだ、ということを、わたしに想起させますから、典礼そのものが、実はわたしの自負心や自己満足を、完ぷなきまでに滅ぼしつくしてくれるのです。しかも、こういう精神的傲慢こそは、わたしの内的生活の宝をだいなしにする、獅子身中の虫なのです。
Il y a plus. En me remémorant la certitude de votre vie en moi et la nécessité de votre grâce pour utiliser avec fruit même une simple pensée, la Liturgie combat la présomption, la suffisance qui seraient capables de tout dévorer dans ma Vie intérieure.
典礼のほとんどすべての祈りは、「われら主イエズス・キリストによりて」との文句をもって結びますが、この文句をとなえるとき、わたしがもし今まで忘れておりましたら、すぐに思いだすことでしょう――あなたの恩寵がなければ、わたしは何もできないのだ、絶対に何もできないのだ、もしできることがあるとすれば、それは罪だけだ、功徳のない仕業だけだ、という真理を。
Le Per Dominum nostrum qui conclut presque toutes les prières de la Liturgie, me rappellerait, si je pouvais l'oublier, que seul je ne puis rien, absolument rien, sinon pécher ou accomplir des actes sans mérite.
典礼のすべてはわたしに、しばしばあなたのみもとに馳せて行って、お助けをこい求めねばならぬ、という恩寵の必要を、心にふかくしみとおらせてくれます。わたしの内的生活が、あやまりの霧の多い世界にさ迷わないためには、どうしても嘆願の叫びを発しながら、あなたのみもとに馳せていかなければならぬ、あなたはこのことをわたしからお求めになっておられる、――典礼のすべては、わたしにくり返しくり返し、こういっているのです。
Tout me pénètre de la nécessité de recourir fréquemment à vous. Tout me redit que vous exigez de moi ce recours suppliant pour que ma vie ne s'égare point vers les mirages trompeurs.
どうしても、天主のお助けが必要である、そのためには、どうしても祈らなければならぬ、天主に嘆願の叫びを発しなければならぬ、――教会は典礼を通じて、子らにこう呼びかけています。ですから、教会は典礼を、ほんとうに“祈りの学校”としているのです。祈りの学校ですから、それは同時に、謙遜の学校なのです。教会は、典礼の祈願文によって、いろいろの秘跡、準秘跡によって、わたしにこう教えています。――いっさいの恩寵、いっさいの恩恵、いっさいの神助は、あなたの聖なる御血の功徳によって、わたしに賜わるのだ、あなたの御血の功徳を、ゆたかに恵んでいただこうと思うなら、わたしの方から、謙遜な、切実な嘆願によって、われわれにそれを恵んで上げようと、しきりに望んでいらっしゃるあなたご自身の念願に、わたしも溶け入らなければならないのだと。
ああ、イエズスよ、どうかわたしが、教会が絶え間なく、お与えくださるこの教訓を、よく利用することができますように。利用してもって、わたし自身の惨めさを、小ささを、身にしみて実感することができますように。そして、あなたの神秘体という、この巨大なホスチアになかで、わたしはそのごく小さな一ㇳかけらにすぎないのだ、ということ、あなたご自身じかに指揮される、この宇宙大交響楽団のなかで、わたしはそのごくつまらない一箇の楽器にすぎないのだ、ということを、身にしみて実感することによって、わたし自身の無能と卑賎を、深く深く悟ることができますように。
どうか典礼のおかげで、わたしがだんだんハッキリ、次の真理を理解していきますように。すなわち、謙遜によってこそ、わたしは、ごくつまらぬ楽器にすぎないわたしは、自分の貧弱な声を、ますます大きく妙えなる響きにしていくのだ。謙遜によってこそ、ホスチアの一かけらにすぎないわたしは、ホスチアの色をますます清く、純白に輝かせていくのだと。
Que, grâce à la Liturgie, je voie de mieux en mieux que c'est par l'humilité que je puis rendre cette voix de plus en plus pure et cette parcelle de plus en plus blanche.
普遍的愛――ああ、イエズスの聖心よ、あなたの聖心はすべての人に、おん贖いの使命をおしひろげていきます。
ご臨終のとき、あなたが十字架のうえで「わたしは渇く! Sitio 」と、世の人びとにむかってお叫びなった、血をはくようなお言葉は、今もなお祭壇のうえで、聖ヒツのなかで、そして、栄光の玉座で、叫びつづけられているのですが、このお言葉こそは、どんな信者の魂にも、反響を呼ばずにはおかないでしょう。
「わたしは渇く! Sitio 」――このお言葉が、ひとたびキリスト信者の魂にひびきわたりますとき、かれらも心のなかに、おのが兄弟たちの救霊と聖化のために、おのれの全心全霊をかたむけて働きたい、そのためにおのれの心身のエネルギーを消耗し尽くしたい、という強い烈しい渇きを覚えなければなりません。司祭、修道者の召し出しが盛んになるように、主の聖役者らが数おおく輩出するようにとの、大いなる奮発心を感じなければなりません。信者たちが各自の義務をよく理解し、忠実にこれを果たすように、司祭、修道者たちが、内的生活の必要をふかく悟るようにと、そのために熱心で切実な祈りを、主にささげるようにならねばならないのです。
このような熱い望みは、あなたの聖役者らの魂を、どれほど熱心の火にもえたたせることでしょう。――自分たちは、キリストの神秘体のなかで、特別の地位を与えられている、それはできるだけたくさんの霊魂を、キリストに合体させるためである、と典礼はかれらに教えてくれるからです。
かくて、あなたの聖役者らは、「細殿と神殿との間」(ヨエル2・17)で、世の罪のために泣いて祈るにさきだって、すでにあなたと共同の贖い主であり、あなたと共同の仲介者になっているのです。そして、そのために、自分自身を聖化するばかりでなく、他人も聖化するのです。人びとの霊魂を聖徳の学校で教育し、手を取るようにみちびくのです。かれらの霊魂に、あなたの生命をそそぎ入れるのです。「かれらが聖別されるように、かれのため、わたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17・19)
キリストの聖なる教会よ、あなたの子どもであって、わたしの兄弟なるすべての信者たちの母なる教会よ、わたしの典礼を生きるためには、わたしはどうしても、あなたの天配なるキリストのご心情に、――すべての人を永遠の亡びから救いたい、煉獄に苦しんでいるすべての霊魂を、一刻も早く救って天国に行かせたい、というその燃えるようなご念願に、わたし自身溶け入らねばなりません。
じじつ、わたしは、わたしのささげるミサ聖祭の功徳をいただくのに、わたしのとなえる聖務日課の功徳をいただくのに、それをたくさん分けていただくための優先権をもっております。だがしかし、これらの功徳が、第一番に施されるのは、なんといっても、あなたご自身その救霊と聖化をご配慮になっておられる霊魂たちの集団なる、すべての信者たちなのです。「まず、あなたの聖なるカトリック教会のために、あなたにこれをおささげいたします」(ミサのカノンの祈り)あなたは、わたしの心をひろくするため、わたしの内的生活をイエズス・キリストのそれにあやからせるために、たくさんの方法をおもちです。
わが親愛なる典礼生活よ、わたしの心に、母なる教会への愛を、ますますふやしてください。すべての信者の共通の父なる、天父への孝子の愛を、わたしの心にますます燃やしてください。教会の上長らにたいして、わたしがますます忠誠に、ますます従順になりますように。かれらの配慮をよく理解し、ますますそれに、おのれを適応させていきますように。
典礼生活よ、どうかわたしを助けて、次の真理を忘れさせないでください。すなわち、わたしが日常生活のいとなみにおいて、つきあいをしていかねばならぬ人びとの一人一人のなかに、イエズス・キリストがほんとうに住んでおいでになる、そしてイエズス・キリストは、かれらをご自分の聖心に、愛情こめてしっかりと抱きしめておいでになる、ということを。
どうかわたしが、この人たちに、忍耐と寛容,受けた過ちのゆるしとその忘却、柔和と奉仕のまごころを、あらわすことができますよう、わたしを助けてください。そして、このようにして、心やさしい救い主の柔和を、かれらの間に放射することができますように。
聖なる典礼生活よ、あなたのおかげで、次のような実感を、わたしがいつまでも心に、もちつづけることができますように。すなわち、十字架の道をたどらないでは、絶対に天国へは行けない。わたしの礼拝、わたしの賛美、わたしの犠牲、その他のわたしの行為――すべてこういうものが、天国のために何か役に立つとすれば、それはひとえに、イエズス・キリストの御血の功徳によるのであり、それ以外のなにもののおかげでもない。わたしは自分だけが一人、天国に行ってはならぬ。すべてのキリスト信者と共に、天国をもうけなければならぬ。なぜなら、選ばれたすべての人と共に、わたしは天国の幸福を永遠に楽しまねばならぬ、イエズスの指揮下に、かれらの一員となってこの世から始めた賛美の宇宙大交響楽を、同じくかれらと共に、永遠に続けていかなければならぬからである。――聖なる典礼よ、以上の真理を、どうかわたしの心に実感させてください。
犠牲の精神――ああ、イエズスよ、あなたはこのことをよくごぞんじでいらっしゃいました。――罪ふかい人類は、血みどろの犠牲によらないでは、絶対に救われることができない、ということを。だからこそ、あなたは地上生涯のすべてを、一つの絶え間なき燔祭の犠牲となされたのです。
このようなあなたに同化され、このようなあなたと一体になったわたし――このわたしが、司祭として、あなたと共に、ミサ聖祭をささげますとき、ああ、十字架にくぎづけられたもうた天主の人イエズス・キリストよ、わたしもまたあなたと共に、ホスチアに、いけにえになりたいのです。あなたのすべての奥義は、あなたの十字架を中心として、そのまわりを廻転しております。わたしの生活のすべては、わたしのミサ聖祭を中心として、そのまわりを廻転しております。ミサ聖祭こそは、わたしの日常生活の中心であり、太陽です。あたかも、あなたの十字架の犠牲が、典礼の中心でありますように。
典礼は、祭壇と聖ヒツから、すぐにカルワリオの犠牲を、わたしに連想させます。ですから、典礼はわたしにとって、“犠牲の精神の学校”です。ああ、イエズスよ、典礼はわたしに、あなたの教会の心情に、そしてそれを通じて、あなた自身のご心情に、ひたらせてくださいますから、わたしは聖パウロのいった次の言葉を、わたしのうちに実現することができるのです。すなわち、「キリスト・イエズスが、いだいておられたのと同じ思いを、あなたがたも互いにいだきなさい」(フィリッピ2・5)さらにわたしは、司祭叙階式のときにいわれた、「あなたがたは手で扱うところの御者を模倣しなさい」との言葉を、地で行く者となるのです。
ミサ典書も、定式書も、聖務日課祈祷書も、きわめて聖化に富むいろいろの仕ぐさにより、無数の十字架のしるしのような、些細な仕ぐさによってさえ、わたしに次のことを思いおこさせてくれます。すなわち、人類の犯罪いらい、いけにえは人類の“おきて”になった、とうこと、そして人類のいけにえは、あなたの御いけにえに一致するのでなければ、何の効力もない、ということを。されば、天主なる世の贖い主よ、わたしはあなたのホスチア(いけにえ)にたいして、わが身のホスチアをもって報いるのです。わたしは、わが身を完全な燔祭のいけにえとして、これをあなたの血染めの御いけにえに一致させたいのです。――ゴルゴタの丘で、ただ一度ささげられ、そして今なお世界じゅういたる処で、いくたびもいくたびも、新たにされている新約の御いけにえに……。
典礼はわたしの自己奉献を、容易にしてくれるでしょう。そして、わたしは、「あなたのご受難の欠けた処を、お体なる教会のために、わたしの身において補う」(コロサイ1・24)ことができるのです。かくて、わたしは、「すべてのキリスト信者の犠牲(いけにえ)」(聖アウグスチノ『神国論』一〇・六)から成る、この世界的大犠牲に、わたし自身の分も加えるでしょう。この義性は、こころよい香りを放ちながら天にのぼっていき、もって世の罪を除き、戦闘の教会の上にも、苦悩の教会の上にも、あなたの贖いの功徳をゆたかに雨ふらすのです。
もしそのような結果になりましたら、わたしは本当に、典礼生活をいとなんでいる者といえましょう。なぜなら、ああ、十字架にくぎづけられたもうたイエズスよ、わたしはあなたを着ることによって、実行的にあなたの御犠牲にあずかるのだからです。“おのれを捨てる”ことによって、わたし自身を、燔祭の犠牲にするのだからです。これこそは、ああ、わが救い主よ、これこそは、あなたの教会が、その祈りと聖なる儀式によって、わたしをあなたのご心情にひたらせ、あなたの内にあって一切をリードし、一切を支配していた“犠牲の精神”を、わたしの心にも通じてくださることによって、わたしをそこにみちびこうとする究極の理想境ではないでしょうか。
Tunc demum sacerdoti hostia proderit si, seipsum hostiam faciens, velit humiliter et efficaciter imitari quod agit (Petr. Blesens. Epist. cxxiii).
[その時初めて、司祭にとってホスチアは利益となる、もしも自分をホスチアとなしつつ、自分が執行していることを謙遜に効果的に真似ようと望むならば。]
Qui Passionis Dominicae mysteria celebramus, debemus imitari quod agimus. Tunc ergo vere pro nobis Hostia erit Deo, cum nosmetipsos hostiam fecerimus (St. Gregorius, Dialog, iv, c. 59).
[主の御受難の神秘を祝う私たちは、私たちが執行することを真似ようとしなければならぬ。もしも私たちも自分自身を犠牲とするなら、その時、私たちにとってこれは天主へのホスチアとなるだろう。]
このようにして、わたしは、「生ける石、選ばれたる石、試練によってみがき上げられたれた石」Scalpri salubris ictibus, Et tunsione plurima, Fabri polita malleo,[救いのノミで削られ、石工の金槌で何度も、叩かれ磨かれた](聖堂献堂式賛美歌)となることでしょう。天上のイエルザレムを建設するために選ばれた、幸福な石の一つとなるのでしょう。
(C)典礼生活はわたしに、天上の生活をいとなませる
c) La Vie liturgique me fait vivre de la vie du Ciel.
「われわれの国籍は、天にある」Conversatio nostra in coelis est(フィリッピ3・2)と聖パウロはいった。このプログラムを実現するにあたって、典礼にもまさって容易なものが、どこに見つかるのだろうか。そして、この地上の典礼こそは、キリストの愛弟子聖ヨハネが、黙示録のなかに描写している“天国の典礼”の模倣、その生き写しではないか。わたしが聖務日課をうたい、またはとなえるとき、わたしは天使たちが天主の玉座の前にはべって、天主を礼拝し賛美しているのと全く同じ務めを果たしているのではないか。
これ以上、わたしは何をいおうか。各詩篇、各賛美歌のおわりにある、三位一体をたたえるドクソロジー、各祈願文の結びの文句こそは、いつもわたしを、至聖なる三位一体のみまえにぬかずかせ、礼拝させずにはおかない。
数えつくせないほどの聖人たちの祝日は、わたしをして、天国にいるわたしの兄弟たちとむつましく生活させてくれる――天国からわたしを護り、わたしのために祈ってくださる聖人たちと。聖母マリアの祝日は、わたしにこういうことを教えてくれる。――おまえは天国に、たいへん慈しみ深い、全能の母親をもっているのだ、そしてこの母親は、子たるおまえが、御子イエズス・キリストのみ国に安全に到着するまでは、一刻の休息もなく、おまえの身の上を見守っていてくださるのだと。最後に、わが主のすべての祝日、すべての奥義の祝祭――わけても、ご降誕、ご復活、ご昇天などは、わたしに“天国への郷愁”を、ひしひしと感じさせる。そして、この天国への郷愁こそは、きっとわたしも天国にはいることができるのだ、という保証になる。――大聖グレゴリオ教皇は、こう考えている。
Serait-il possible que toutes ces fêtes, que les mystères de mon doux Sauveur, Noël, Pâques, l'Ascension surtout, ne me donnent pas la nostalgie du Ciel que saint Grégoire regarde comme un gage de prédestination.
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き11)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅳ)典礼生活の利益 (2/2)
(b)典礼生活は、わたしの内的生活を、イエズス・キリストの内的生活にあやからせるのに、大きな助けをあたえる
b) Elle m'aide puissamment à conformer ma Vie intérieure à celle de Jésus-Christ.
ああ、拝むべき主イエズス・キリストよ、あなたの聖心には、三つの天主的ご心情が特にめだっています。すなわち、
御父への完全な従属の精神――したがって、完全な謙遜。
次に、人類にたいする燃えるような愛、普遍的な愛。
最後に、犠牲の精神。
完全な謙遜 Humilité parfaite. ――あなたは、この世においでになるとき、こうおっしゃいました。
「天主よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、わたしはみ旨をおこなうためにまいりました」(ヘブライ10・7)
あなたのご生活のすべては、万事において、御父をおよろこばせすることのみを、絶えず望む、という一事に集約されるのだ、とあなたはしばしばご声明になりました。
「わたしは、いつも御父のみ心に、かなうことをしている」Ego quae placita sunt ei, facio semper.(ヨハネ8・29)Meus cibus est, ut faciam voluntatem ejus qui misit me. (Joan., IV, 34.)
「わたしが、天からくだってきたのは、自分のこころのままを、おこなうためではなく、わたしをつかわされたかたの、みこころをおこなうためである」(ヨハネ6・38)Descendi de coelo, non ut faciam voluntatem meam, sed voluntatem ejus qui misit me. (Joan., VI, 38.)
「そして、イエズスよ、あなたは“従順”の化身でいらっしゃいます。あなたは、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、お従いになりました」(フィリッピ2・5)
Factus obediens usque ad mortem, mortem autem cruds. (Philip., II, 5.)
今も、昔にかわらず、あなたの司祭たちに、お従いになるのです。あなたは、司祭たちの声に応じて Obediente Domino voci hominis、天の玉座から、地上の祭壇へと、お降りになるのです。
天父への、あなたの絶対従属を、わたしに模倣させるために、主よ、典礼はどれほど、すばらしい学校であることでしょう。しかし、そのためには、わたしの心が、典礼の最も些細な規定にも、よく従わなければなりません。――天父への絶対従属の精神を、おのれのうちにつちかい、常に自由の天地にあこがれている“自我”の勢力をよわめ、滅ぼしたい、わたしの判断を捨て、いつもその反対の方向に走っている、わたしの意志をまっすぐにして、これをあなたの根本精神たる、天父のみ旨への尊崇と服従に向かわせるように努力したい、との願望が、心に燃えていなければなりません。
わたしが、あなたに従うように、教会にも従うため、自分の小さい頭を、自分の“個我”を屈するように努力するそのたびごとに、さらに教会の名によって行動し、教会に一致する、したがってあなたご自身に一致するように努力するそのたびごとに、どれほど貴重な効果が、わたしの霊魂聖化のうえにあらわれることでしょう。典礼を執行するとき、最も些細な規定にも従いますなら、そしていつまでも忠実にしたがっておりますなら、この小事への忠実は、わたしが、のちほど最も困難な、最も重大な事態に出あったとき、どれほどすばらしい効果を生じることでしょう。「小事に忠実な人は、大事にも忠実」(ルカ16・10)だからです。
典礼の利益は、もっとあります。典礼はわたしに、あなたのご生活が、わたしの内に確実に再現されていること、あなたの恩寵がなければ、自分はタッタ一つの良い考えすらも、自分の頭から生みだすことはできないのだ、あなたの恩寵がないなら、救霊と聖化の面で、自分はなにもできないのだ、ということを、わたしに想起させますから、典礼そのものが、実はわたしの自負心や自己満足を、完ぷなきまでに滅ぼしつくしてくれるのです。しかも、こういう精神的傲慢こそは、わたしの内的生活の宝をだいなしにする、獅子身中の虫なのです。
Il y a plus. En me remémorant la certitude de votre vie en moi et la nécessité de votre grâce pour utiliser avec fruit même une simple pensée, la Liturgie combat la présomption, la suffisance qui seraient capables de tout dévorer dans ma Vie intérieure.
典礼のほとんどすべての祈りは、「われら主イエズス・キリストによりて」との文句をもって結びますが、この文句をとなえるとき、わたしがもし今まで忘れておりましたら、すぐに思いだすことでしょう――あなたの恩寵がなければ、わたしは何もできないのだ、絶対に何もできないのだ、もしできることがあるとすれば、それは罪だけだ、功徳のない仕業だけだ、という真理を。
Le Per Dominum nostrum qui conclut presque toutes les prières de la Liturgie, me rappellerait, si je pouvais l'oublier, que seul je ne puis rien, absolument rien, sinon pécher ou accomplir des actes sans mérite.
典礼のすべてはわたしに、しばしばあなたのみもとに馳せて行って、お助けをこい求めねばならぬ、という恩寵の必要を、心にふかくしみとおらせてくれます。わたしの内的生活が、あやまりの霧の多い世界にさ迷わないためには、どうしても嘆願の叫びを発しながら、あなたのみもとに馳せていかなければならぬ、あなたはこのことをわたしからお求めになっておられる、――典礼のすべては、わたしにくり返しくり返し、こういっているのです。
Tout me pénètre de la nécessité de recourir fréquemment à vous. Tout me redit que vous exigez de moi ce recours suppliant pour que ma vie ne s'égare point vers les mirages trompeurs.
どうしても、天主のお助けが必要である、そのためには、どうしても祈らなければならぬ、天主に嘆願の叫びを発しなければならぬ、――教会は典礼を通じて、子らにこう呼びかけています。ですから、教会は典礼を、ほんとうに“祈りの学校”としているのです。祈りの学校ですから、それは同時に、謙遜の学校なのです。教会は、典礼の祈願文によって、いろいろの秘跡、準秘跡によって、わたしにこう教えています。――いっさいの恩寵、いっさいの恩恵、いっさいの神助は、あなたの聖なる御血の功徳によって、わたしに賜わるのだ、あなたの御血の功徳を、ゆたかに恵んでいただこうと思うなら、わたしの方から、謙遜な、切実な嘆願によって、われわれにそれを恵んで上げようと、しきりに望んでいらっしゃるあなたご自身の念願に、わたしも溶け入らなければならないのだと。
ああ、イエズスよ、どうかわたしが、教会が絶え間なく、お与えくださるこの教訓を、よく利用することができますように。利用してもって、わたし自身の惨めさを、小ささを、身にしみて実感することができますように。そして、あなたの神秘体という、この巨大なホスチアになかで、わたしはそのごく小さな一ㇳかけらにすぎないのだ、ということ、あなたご自身じかに指揮される、この宇宙大交響楽団のなかで、わたしはそのごくつまらない一箇の楽器にすぎないのだ、ということを、身にしみて実感することによって、わたし自身の無能と卑賎を、深く深く悟ることができますように。
どうか典礼のおかげで、わたしがだんだんハッキリ、次の真理を理解していきますように。すなわち、謙遜によってこそ、わたしは、ごくつまらぬ楽器にすぎないわたしは、自分の貧弱な声を、ますます大きく妙えなる響きにしていくのだ。謙遜によってこそ、ホスチアの一かけらにすぎないわたしは、ホスチアの色をますます清く、純白に輝かせていくのだと。
Que, grâce à la Liturgie, je voie de mieux en mieux que c'est par l'humilité que je puis rendre cette voix de plus en plus pure et cette parcelle de plus en plus blanche.
普遍的愛――ああ、イエズスの聖心よ、あなたの聖心はすべての人に、おん贖いの使命をおしひろげていきます。
ご臨終のとき、あなたが十字架のうえで「わたしは渇く! Sitio 」と、世の人びとにむかってお叫びなった、血をはくようなお言葉は、今もなお祭壇のうえで、聖ヒツのなかで、そして、栄光の玉座で、叫びつづけられているのですが、このお言葉こそは、どんな信者の魂にも、反響を呼ばずにはおかないでしょう。
「わたしは渇く! Sitio 」――このお言葉が、ひとたびキリスト信者の魂にひびきわたりますとき、かれらも心のなかに、おのが兄弟たちの救霊と聖化のために、おのれの全心全霊をかたむけて働きたい、そのためにおのれの心身のエネルギーを消耗し尽くしたい、という強い烈しい渇きを覚えなければなりません。司祭、修道者の召し出しが盛んになるように、主の聖役者らが数おおく輩出するようにとの、大いなる奮発心を感じなければなりません。信者たちが各自の義務をよく理解し、忠実にこれを果たすように、司祭、修道者たちが、内的生活の必要をふかく悟るようにと、そのために熱心で切実な祈りを、主にささげるようにならねばならないのです。
このような熱い望みは、あなたの聖役者らの魂を、どれほど熱心の火にもえたたせることでしょう。――自分たちは、キリストの神秘体のなかで、特別の地位を与えられている、それはできるだけたくさんの霊魂を、キリストに合体させるためである、と典礼はかれらに教えてくれるからです。
かくて、あなたの聖役者らは、「細殿と神殿との間」(ヨエル2・17)で、世の罪のために泣いて祈るにさきだって、すでにあなたと共同の贖い主であり、あなたと共同の仲介者になっているのです。そして、そのために、自分自身を聖化するばかりでなく、他人も聖化するのです。人びとの霊魂を聖徳の学校で教育し、手を取るようにみちびくのです。かれらの霊魂に、あなたの生命をそそぎ入れるのです。「かれらが聖別されるように、かれのため、わたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17・19)
キリストの聖なる教会よ、あなたの子どもであって、わたしの兄弟なるすべての信者たちの母なる教会よ、わたしの典礼を生きるためには、わたしはどうしても、あなたの天配なるキリストのご心情に、――すべての人を永遠の亡びから救いたい、煉獄に苦しんでいるすべての霊魂を、一刻も早く救って天国に行かせたい、というその燃えるようなご念願に、わたし自身溶け入らねばなりません。
じじつ、わたしは、わたしのささげるミサ聖祭の功徳をいただくのに、わたしのとなえる聖務日課の功徳をいただくのに、それをたくさん分けていただくための優先権をもっております。だがしかし、これらの功徳が、第一番に施されるのは、なんといっても、あなたご自身その救霊と聖化をご配慮になっておられる霊魂たちの集団なる、すべての信者たちなのです。「まず、あなたの聖なるカトリック教会のために、あなたにこれをおささげいたします」(ミサのカノンの祈り)あなたは、わたしの心をひろくするため、わたしの内的生活をイエズス・キリストのそれにあやからせるために、たくさんの方法をおもちです。
わが親愛なる典礼生活よ、わたしの心に、母なる教会への愛を、ますますふやしてください。すべての信者の共通の父なる、天父への孝子の愛を、わたしの心にますます燃やしてください。教会の上長らにたいして、わたしがますます忠誠に、ますます従順になりますように。かれらの配慮をよく理解し、ますますそれに、おのれを適応させていきますように。
典礼生活よ、どうかわたしを助けて、次の真理を忘れさせないでください。すなわち、わたしが日常生活のいとなみにおいて、つきあいをしていかねばならぬ人びとの一人一人のなかに、イエズス・キリストがほんとうに住んでおいでになる、そしてイエズス・キリストは、かれらをご自分の聖心に、愛情こめてしっかりと抱きしめておいでになる、ということを。
どうかわたしが、この人たちに、忍耐と寛容,受けた過ちのゆるしとその忘却、柔和と奉仕のまごころを、あらわすことができますよう、わたしを助けてください。そして、このようにして、心やさしい救い主の柔和を、かれらの間に放射することができますように。
聖なる典礼生活よ、あなたのおかげで、次のような実感を、わたしがいつまでも心に、もちつづけることができますように。すなわち、十字架の道をたどらないでは、絶対に天国へは行けない。わたしの礼拝、わたしの賛美、わたしの犠牲、その他のわたしの行為――すべてこういうものが、天国のために何か役に立つとすれば、それはひとえに、イエズス・キリストの御血の功徳によるのであり、それ以外のなにもののおかげでもない。わたしは自分だけが一人、天国に行ってはならぬ。すべてのキリスト信者と共に、天国をもうけなければならぬ。なぜなら、選ばれたすべての人と共に、わたしは天国の幸福を永遠に楽しまねばならぬ、イエズスの指揮下に、かれらの一員となってこの世から始めた賛美の宇宙大交響楽を、同じくかれらと共に、永遠に続けていかなければならぬからである。――聖なる典礼よ、以上の真理を、どうかわたしの心に実感させてください。
犠牲の精神――ああ、イエズスよ、あなたはこのことをよくごぞんじでいらっしゃいました。――罪ふかい人類は、血みどろの犠牲によらないでは、絶対に救われることができない、ということを。だからこそ、あなたは地上生涯のすべてを、一つの絶え間なき燔祭の犠牲となされたのです。
このようなあなたに同化され、このようなあなたと一体になったわたし――このわたしが、司祭として、あなたと共に、ミサ聖祭をささげますとき、ああ、十字架にくぎづけられたもうた天主の人イエズス・キリストよ、わたしもまたあなたと共に、ホスチアに、いけにえになりたいのです。あなたのすべての奥義は、あなたの十字架を中心として、そのまわりを廻転しております。わたしの生活のすべては、わたしのミサ聖祭を中心として、そのまわりを廻転しております。ミサ聖祭こそは、わたしの日常生活の中心であり、太陽です。あたかも、あなたの十字架の犠牲が、典礼の中心でありますように。
典礼は、祭壇と聖ヒツから、すぐにカルワリオの犠牲を、わたしに連想させます。ですから、典礼はわたしにとって、“犠牲の精神の学校”です。ああ、イエズスよ、典礼はわたしに、あなたの教会の心情に、そしてそれを通じて、あなた自身のご心情に、ひたらせてくださいますから、わたしは聖パウロのいった次の言葉を、わたしのうちに実現することができるのです。すなわち、「キリスト・イエズスが、いだいておられたのと同じ思いを、あなたがたも互いにいだきなさい」(フィリッピ2・5)さらにわたしは、司祭叙階式のときにいわれた、「あなたがたは手で扱うところの御者を模倣しなさい」との言葉を、地で行く者となるのです。
ミサ典書も、定式書も、聖務日課祈祷書も、きわめて聖化に富むいろいろの仕ぐさにより、無数の十字架のしるしのような、些細な仕ぐさによってさえ、わたしに次のことを思いおこさせてくれます。すなわち、人類の犯罪いらい、いけにえは人類の“おきて”になった、とうこと、そして人類のいけにえは、あなたの御いけにえに一致するのでなければ、何の効力もない、ということを。されば、天主なる世の贖い主よ、わたしはあなたのホスチア(いけにえ)にたいして、わが身のホスチアをもって報いるのです。わたしは、わが身を完全な燔祭のいけにえとして、これをあなたの血染めの御いけにえに一致させたいのです。――ゴルゴタの丘で、ただ一度ささげられ、そして今なお世界じゅういたる処で、いくたびもいくたびも、新たにされている新約の御いけにえに……。
典礼はわたしの自己奉献を、容易にしてくれるでしょう。そして、わたしは、「あなたのご受難の欠けた処を、お体なる教会のために、わたしの身において補う」(コロサイ1・24)ことができるのです。かくて、わたしは、「すべてのキリスト信者の犠牲(いけにえ)」(聖アウグスチノ『神国論』一〇・六)から成る、この世界的大犠牲に、わたし自身の分も加えるでしょう。この義性は、こころよい香りを放ちながら天にのぼっていき、もって世の罪を除き、戦闘の教会の上にも、苦悩の教会の上にも、あなたの贖いの功徳をゆたかに雨ふらすのです。
もしそのような結果になりましたら、わたしは本当に、典礼生活をいとなんでいる者といえましょう。なぜなら、ああ、十字架にくぎづけられたもうたイエズスよ、わたしはあなたを着ることによって、実行的にあなたの御犠牲にあずかるのだからです。“おのれを捨てる”ことによって、わたし自身を、燔祭の犠牲にするのだからです。これこそは、ああ、わが救い主よ、これこそは、あなたの教会が、その祈りと聖なる儀式によって、わたしをあなたのご心情にひたらせ、あなたの内にあって一切をリードし、一切を支配していた“犠牲の精神”を、わたしの心にも通じてくださることによって、わたしをそこにみちびこうとする究極の理想境ではないでしょうか。
Tunc demum sacerdoti hostia proderit si, seipsum hostiam faciens, velit humiliter et efficaciter imitari quod agit (Petr. Blesens. Epist. cxxiii).
[その時初めて、司祭にとってホスチアは利益となる、もしも自分をホスチアとなしつつ、自分が執行していることを謙遜に効果的に真似ようと望むならば。]
Qui Passionis Dominicae mysteria celebramus, debemus imitari quod agimus. Tunc ergo vere pro nobis Hostia erit Deo, cum nosmetipsos hostiam fecerimus (St. Gregorius, Dialog, iv, c. 59).
[主の御受難の神秘を祝う私たちは、私たちが執行することを真似ようとしなければならぬ。もしも私たちも自分自身を犠牲とするなら、その時、私たちにとってこれは天主へのホスチアとなるだろう。]
このようにして、わたしは、「生ける石、選ばれたる石、試練によってみがき上げられたれた石」Scalpri salubris ictibus, Et tunsione plurima, Fabri polita malleo,[救いのノミで削られ、石工の金槌で何度も、叩かれ磨かれた](聖堂献堂式賛美歌)となることでしょう。天上のイエルザレムを建設するために選ばれた、幸福な石の一つとなるのでしょう。
(C)典礼生活はわたしに、天上の生活をいとなませる
c) La Vie liturgique me fait vivre de la vie du Ciel.
「われわれの国籍は、天にある」Conversatio nostra in coelis est(フィリッピ3・2)と聖パウロはいった。このプログラムを実現するにあたって、典礼にもまさって容易なものが、どこに見つかるのだろうか。そして、この地上の典礼こそは、キリストの愛弟子聖ヨハネが、黙示録のなかに描写している“天国の典礼”の模倣、その生き写しではないか。わたしが聖務日課をうたい、またはとなえるとき、わたしは天使たちが天主の玉座の前にはべって、天主を礼拝し賛美しているのと全く同じ務めを果たしているのではないか。
これ以上、わたしは何をいおうか。各詩篇、各賛美歌のおわりにある、三位一体をたたえるドクソロジー、各祈願文の結びの文句こそは、いつもわたしを、至聖なる三位一体のみまえにぬかずかせ、礼拝させずにはおかない。
数えつくせないほどの聖人たちの祝日は、わたしをして、天国にいるわたしの兄弟たちとむつましく生活させてくれる――天国からわたしを護り、わたしのために祈ってくださる聖人たちと。聖母マリアの祝日は、わたしにこういうことを教えてくれる。――おまえは天国に、たいへん慈しみ深い、全能の母親をもっているのだ、そしてこの母親は、子たるおまえが、御子イエズス・キリストのみ国に安全に到着するまでは、一刻の休息もなく、おまえの身の上を見守っていてくださるのだと。最後に、わが主のすべての祝日、すべての奥義の祝祭――わけても、ご降誕、ご復活、ご昇天などは、わたしに“天国への郷愁”を、ひしひしと感じさせる。そして、この天国への郷愁こそは、きっとわたしも天国にはいることができるのだ、という保証になる。――大聖グレゴリオ教皇は、こう考えている。
Serait-il possible que toutes ces fêtes, que les mystères de mon doux Sauveur, Noël, Pâques, l'Ascension surtout, ne me donnent pas la nostalgie du Ciel que saint Grégoire regarde comme un gage de prédestination.