アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き12)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅴ)典礼生活の実行(1/2)
善き師よ、あなたはわたしに、典礼生活がどんなものだか、よく理解させてくださいました。さて、典礼生活を実行するためには、わたしの方からある種の努力が要る。この努力を、あなたはわたしから要求しておいでになる。わたしの聖役上、それは必然の要求となっている。わたしは、主のこのご要求を満たすための努力をしないのについて、なにか言い訳でもあるのでしょうか。もしあるのでしたら、それに答えて、あなたはきっとこう仰せられることでしょう――私の望みにしたがって、典礼の務めをふさわしく果たすためには、これまでおまえが機械的に、それを果たしていたときよりも、更に長い時間は要らないのだと。
あなたはわたしに、あなたの数おおくのしもべたちの中から、とくに福者ペルブアールを選んで、かれの模範をわたしに示してくださることでしょう。かれは本当に、もうこれ以上はできない、というぐらいに、たいへん忙しい、ちょっとの暇もない仕事に始終たずさわっていたにもかかわらず、それでも選良の典礼的霊魂としてとおっていたのです。
(a)遠い準備
慈しみ深い救い主よ、わたしは典礼生活を送ろうと熱く望んでおります。どうぞこの願望が、すべて天主の礼拝にかんする事がらにたいする、大いなる“信仰の精神”に充満する態度によって、外にも現れますように。
天国の天使、聖人たちは、あなたを目のあたりに眺めています。かれらの精神は、なにものにもさまたげられることなく、永遠の典礼という最高の務めに集中されています。そして、この務めこそは、かれらにとって、いいつくしがたい喜びの一つなのです。だがしかし、このあわれなわたし、――の人間性のあらゆる弱さにまつわられ、意のままにならぬわたし、このわたしが、教会と共に、あなたと語る典礼の務めのあいだ、どうしてあなたのみまえに、いつまでも、注意の焦点をしぼっておくことができるのでしょうか。もし洗礼のとき頂きました“信仰”の賜ものを、わたしのうちにゆたかに進展させませんなら。
わたしはけっして、典礼の務めを、なにかいやな苦役、できるだけ早く片づけてしまいたい苦役のようには、考えたくないのです。または、それに謝礼金がついているからやる、といったような、さもしい心は起こしたくないのです。さらにわたしは、聖の聖なる三位一体の天主とお話をするのに、もしくは典礼の務めを果たすのに、世の中でいちばんつまらない人のまえで、そうするのさえはずかしいと思われるような、そんな無遠慮な、ぶしつけな、なれなれしい態度でやりたくはないのです。
典礼こそは、わたしにとって、教化となり利益となるはずなのに、かえってそれが、つまずきとなり損害となるような、そんな結果に終わらせたくないのです。だがしかし、もしわたしが信仰の精神をもっていませんなら、これをもっているか否かを反省するのを止めるようになりましたら、さてそのとき、わたしはどこまで行くか、どこまで落ちて行くか、予測できません。
ああ、わが天主よ、もしわたしが不幸にも、断崖に立っているのでしたら、どうぞわたしを抱き止めて、谷底に落ちないようにしてください。別の言葉で申せば、どうぞわたしに強い、生き生きとした信仰をお与えください。そして、この信仰のおかげで、典礼の務めがあなたの前に、いかに大きな価値があるか、それをよく悟って、心は大いなる喜びに波うち、意志はますます感激におどるようにしてください。
ところで、もしわたしが、典礼の規則をよく知るために、却ってこれを忠実に守るために、すこしも努力していませんなら、どうして信仰の精神をもっているといえましょう。――いや、自分は典礼の務めを果たすとき、ほんとうに美しい考えが湧いてくる、といってみたところで、ああ、わが天主よ、それでわたしの怠慢のいいわけになりましょうか。典礼の規則、典礼の意義を知ろうとの努力にたいして、たとえわたしが自然の喜びを、自然の魅惑を感じないからとて、それは一向差支えないことではありませんか。要は、わたしの努力、わたしの従順が、あなたの御意に召しさえしたら、それでよいのです。典礼がわたしにとって、大きな利益になりさえしたら、それでよいのです。
黙想会のとき、わたしは次の諸点について糾明するのを、けっして忘れますまい。――自分は、ミサ典書、定式書、聖務日課祈祷書にたいして、どんな態度をとってきたのかと。
ああ、イエズスよ、あなたの教会こそは、その典礼に“詩篇”の富を、最もよく利用した方です。もしわたしが、典礼の精神をもっていましたら、わたしの魂は詩篇の書のなかに、とりわけ、あなたのご受難が表象的に記録されているのを発見するでしょう。苦しみ悩めるあなたのお姿が、そこに預言され、鮮明に表現されているのを見いだすでしょう。
あなたが、地上生涯のあいだ、天父に申し上げましたお言葉のかずかずが、あなたの聖心が天父にたいして、いだいておられたご心情のかずかずが、それをご霊感なされた詩篇作者の預言的辞句のなかに散在している事実を、わたしの霊魂は見逃せないのです。
私の霊魂はまた、詩篇のなかに、あなたの福音書のおもな教えのかずかずが、みごとに、組織的に、前もって記述されているのをみて驚嘆します。
詩篇のとばりをとおして、わたしはまた“教会の声”をきくのです。それは、あなたの地上生活を、世の終わりまで継続し、そしてそれを天父に披歴する声、あなたのご受難とご凱旋のあいだ、親しくあなたのくちびるから洩れでたお声の再生です。天配たるあなたのご心情に浸透された心情――その声の源をたずねれば、ここにたどりつくのですが――この心情をこそ、教会はその子らにも、自分らのものにさせるのです。――誘惑のとき、失敗のとき、戦いのとき、悲しみのとき、幻滅のとき、失意のときに。そればかりか、勝利のときも、得意のときも、とにかくあなたのご生命が、その内にあらわれることのできるすべての霊魂は、このようにして、あなた自身のご心情を、その時どきに応じて、自分のものにすることができるのです。
読経の一部は、いつも“旧新両約聖書”から取られていますが、これによってわたしは、典礼への興趣をますます深め、ますます容易に、聖書の言葉に注意を集中させることができるのです。
聖務日課をとなえるとき、よく注意してその組み合わせをしらべてみますと、そこにはちゃんと根本思想というものがあり、他のすべての教訓は、この思想を中心として、そのまわりを廻転していることがよくわかります。
そんなわけで、ああ、わが魂よ、おまえはなんと強力な武器を持っていることか。――さ迷いやすい想像を、一つのまじめな中心思想に定着させることによって。とりわけ、おまえがもし、典礼にあらわれる“表象”(シンボル)をよく理解し、これを自分の教化にうまく利用することを知ってさえいたら・・・。
教会が、この典礼の表象を使用するのは、典礼のなかに提示されている真理を、まずその子らの感覚にうったえて、生き生きと鮮烈な姿に焼きなおし、このようにして、かれらの精神に捕捉させるためなのだ。「あなたがたは、現在なにをしているか、よく悟りなさい」――わたしは、司祭叙階式のとき、おごそかにこういわれたのだった。じっさい、典礼の儀式にも、儀式に使用するいろいろな物品にも、聖なる祭服にも、これらのすべてのものに、母なる教会はそれぞれちがった深い意味をふくませ、そしてこれらの意味は声高々と、わたしに認識を迫っているようにみえる。
もしわたしが、これらのものが語る声なき言葉に耳をかさないなら、どうして信者たちの知恵を啓発し、かれらの心をとらえることができるのだろうか。――せっかく、母なる教会が、信者たちの霊魂をとらえるために用意している、これらの生き生きとした、そして偉大な声を、解明する秘密のカギを所持していないなら……。
(b)近い準備
「祈るまえに、心の準備をしなさい」(集会の書18・23)
ミサ聖祭の直前、または聖務日課の直前、わたしは潜心を実行しなければならぬ。
それは、静かで、しかも充実したものでなければならぬ。
わたしの思考を、天主の方に向かわせない浮き世の事物から、引き離すためである。
そして、わたしの注意の焦点を、天主にのみしぼるためである。
わたしは今、だれとお話しようとしているのか。――天主とである。
だがしかし、この天主は、同時にわたしの“父”であられる。だから、わたしは、聖母マリアがそのむかし、御子イエズスとお話になるときにそうなさったように、ふかい尊敬にみちたおそれをもって、天主とお語りしなければならぬ。そのうえ、わたしは子供の質朴と単純をもって、天主とお話しよう。これこそは、どんな年老いた人たちにも、天主とお話するときには“小さい子供の心”をあたえてくれる。
天父のみまえにおけるこの態度――この質朴、単純な子供心――こそは、わたしがイエズス・キリストに一致し、これと一つになっている、わたしはいやしい者だが教会を代表する者である、とのわたしの信念を反映するものだ。そればかりか、さらにまた、わたしは祈るとき、祈りの伴侶として、天軍をもっているのだ、とのわたしの信念も反映している。「わたしは、天使たちのまえで、あなたに詩篇をうたいましょう」(詩篇113)
わが霊魂よ、おまえは再び“小さい子供の魂”に帰らねばならぬ。今はもうこれについて、議論したり吟味しているときではない。おまえは善悪の分別ができる年齢に達したころ、母が自分に話してくれた真理を、絶対的なものとして、すなおに受けいれたではないか。それと同じすなおさをもって、いまおまえは母なる教会が、おまえの信仰のかてとして提供しようとしておられるすべての真理を、そっくりそのまま、絶対的のものとして受けいれなければならないのだ。
霊魂のこの若返り! 主よ、これはわたしにとって、なくてはならないものです。
わたしがますます“子供の魂”になればなるほど、わたしはいっそう典礼の宝を、利用することができるのです。また、それだけいっそう、聖なる典礼の詩から魂を奪われて、恍惚の境に遊ぶことができるのです。わたしが子供の魂になりきればなりきるほど、それだけいっそう典礼の精神にも、進歩することができるのです。
子供の魂になりきるときこそは、典礼の務め(儀式・聖務日課・ミサ聖祭・秘跡など)を果たしている間に、すぐわたしの魂は“礼拝”のうちにぬかずき、そのままの姿勢で、長くとどまっていられるでしょう。――教会の肢体として、教会の使節として、天主の聖役者として、典礼の務めにたずさわっているそのときに。
典礼の務めの間に“礼拝のうちにぬかずく”こと――この礼拝の態度から、典礼の利益と功徳は生まれてくるのです。そればかりではありません。天主が典礼の務めをよく果たす者に約束された慰めも、同時に生まれてくるのです。そしてこの慰めこそは、つらい苦しい使徒的事業のいろいろの艱難において、わたしの勇気を支えてくれるのです。
ですから、わたしはまず、天主を“礼拝”したいのです。意志の飛躍によって、わたしのつたない礼拝を、天主の人イエズス・キリストのそれに合わせたいのです。天主にふさわしい尊崇をささげるために。この意志の飛躍は、むろん頭を使ってする仕事ですが、頭よりもむしろ“心”を使ってする仕事なのです。
ああ、イエズスよ、わたしはあなたの恩寵によって、天主を礼拝したいのです。そして典礼の務めを果たすとき、わたしはきまってこの恩寵を、あなたにお願いするのです。例えば、聖務日課をとなえるときには、「天主よ、わが助けにみ心を傾けたまえ」の祈りを、熱心にとなることによって。また、ミサ聖祭をささげるときには、「われは主の祭壇に行こう」の祈りを、ゆっくりと、信心をこめてとなることによって。
わたしはそうしたい、と心から望みます。この望みは、子供の魂から出る、愛情にみちたものです。謙遜にみち、しかも強いのです。あなたのお助けをこいねがう切なる望み――あなたは、この望みを、わたしが持つことを要求されます。
もしあなたの恩寵によって、わたしの知性が、わたしの信仰に、これまで知らなかった広い美しい地平を展開してくれますなら、また、わたしの感性が、わたしの心に、いくらかの信心ぶかい感動をあたえてくれますなら、そのときわたしの意志はそれらをよく利用して、もっと容易にあなたを礼拝することができるのでしょう。
だが、わたしは次の原理を、けっして忘れてはいません。――天主との一致は、究極において、霊魂の深層部で、意志のなかでいとなまれる。だから、たとえ霊魂が、暗闇と乾燥の秘境をさ迷っているにもせよ、また、たとえ意志そのものが、なんのうるおいもなく、なんの熱気もなく、氷りついたように冷たく、味気ないものであるにもせよ、そのときこそは、ただ“信仰”にだけ頼みの綱をかけて、勇敢に、天主への飛躍をこころみなければならないのだ。
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き12)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅴ)典礼生活の実行(1/2)
善き師よ、あなたはわたしに、典礼生活がどんなものだか、よく理解させてくださいました。さて、典礼生活を実行するためには、わたしの方からある種の努力が要る。この努力を、あなたはわたしから要求しておいでになる。わたしの聖役上、それは必然の要求となっている。わたしは、主のこのご要求を満たすための努力をしないのについて、なにか言い訳でもあるのでしょうか。もしあるのでしたら、それに答えて、あなたはきっとこう仰せられることでしょう――私の望みにしたがって、典礼の務めをふさわしく果たすためには、これまでおまえが機械的に、それを果たしていたときよりも、更に長い時間は要らないのだと。
あなたはわたしに、あなたの数おおくのしもべたちの中から、とくに福者ペルブアールを選んで、かれの模範をわたしに示してくださることでしょう。かれは本当に、もうこれ以上はできない、というぐらいに、たいへん忙しい、ちょっとの暇もない仕事に始終たずさわっていたにもかかわらず、それでも選良の典礼的霊魂としてとおっていたのです。
(a)遠い準備
慈しみ深い救い主よ、わたしは典礼生活を送ろうと熱く望んでおります。どうぞこの願望が、すべて天主の礼拝にかんする事がらにたいする、大いなる“信仰の精神”に充満する態度によって、外にも現れますように。
天国の天使、聖人たちは、あなたを目のあたりに眺めています。かれらの精神は、なにものにもさまたげられることなく、永遠の典礼という最高の務めに集中されています。そして、この務めこそは、かれらにとって、いいつくしがたい喜びの一つなのです。だがしかし、このあわれなわたし、――の人間性のあらゆる弱さにまつわられ、意のままにならぬわたし、このわたしが、教会と共に、あなたと語る典礼の務めのあいだ、どうしてあなたのみまえに、いつまでも、注意の焦点をしぼっておくことができるのでしょうか。もし洗礼のとき頂きました“信仰”の賜ものを、わたしのうちにゆたかに進展させませんなら。
わたしはけっして、典礼の務めを、なにかいやな苦役、できるだけ早く片づけてしまいたい苦役のようには、考えたくないのです。または、それに謝礼金がついているからやる、といったような、さもしい心は起こしたくないのです。さらにわたしは、聖の聖なる三位一体の天主とお話をするのに、もしくは典礼の務めを果たすのに、世の中でいちばんつまらない人のまえで、そうするのさえはずかしいと思われるような、そんな無遠慮な、ぶしつけな、なれなれしい態度でやりたくはないのです。
典礼こそは、わたしにとって、教化となり利益となるはずなのに、かえってそれが、つまずきとなり損害となるような、そんな結果に終わらせたくないのです。だがしかし、もしわたしが信仰の精神をもっていませんなら、これをもっているか否かを反省するのを止めるようになりましたら、さてそのとき、わたしはどこまで行くか、どこまで落ちて行くか、予測できません。
ああ、わが天主よ、もしわたしが不幸にも、断崖に立っているのでしたら、どうぞわたしを抱き止めて、谷底に落ちないようにしてください。別の言葉で申せば、どうぞわたしに強い、生き生きとした信仰をお与えください。そして、この信仰のおかげで、典礼の務めがあなたの前に、いかに大きな価値があるか、それをよく悟って、心は大いなる喜びに波うち、意志はますます感激におどるようにしてください。
ところで、もしわたしが、典礼の規則をよく知るために、却ってこれを忠実に守るために、すこしも努力していませんなら、どうして信仰の精神をもっているといえましょう。――いや、自分は典礼の務めを果たすとき、ほんとうに美しい考えが湧いてくる、といってみたところで、ああ、わが天主よ、それでわたしの怠慢のいいわけになりましょうか。典礼の規則、典礼の意義を知ろうとの努力にたいして、たとえわたしが自然の喜びを、自然の魅惑を感じないからとて、それは一向差支えないことではありませんか。要は、わたしの努力、わたしの従順が、あなたの御意に召しさえしたら、それでよいのです。典礼がわたしにとって、大きな利益になりさえしたら、それでよいのです。
黙想会のとき、わたしは次の諸点について糾明するのを、けっして忘れますまい。――自分は、ミサ典書、定式書、聖務日課祈祷書にたいして、どんな態度をとってきたのかと。
ああ、イエズスよ、あなたの教会こそは、その典礼に“詩篇”の富を、最もよく利用した方です。もしわたしが、典礼の精神をもっていましたら、わたしの魂は詩篇の書のなかに、とりわけ、あなたのご受難が表象的に記録されているのを発見するでしょう。苦しみ悩めるあなたのお姿が、そこに預言され、鮮明に表現されているのを見いだすでしょう。
あなたが、地上生涯のあいだ、天父に申し上げましたお言葉のかずかずが、あなたの聖心が天父にたいして、いだいておられたご心情のかずかずが、それをご霊感なされた詩篇作者の預言的辞句のなかに散在している事実を、わたしの霊魂は見逃せないのです。
私の霊魂はまた、詩篇のなかに、あなたの福音書のおもな教えのかずかずが、みごとに、組織的に、前もって記述されているのをみて驚嘆します。
詩篇のとばりをとおして、わたしはまた“教会の声”をきくのです。それは、あなたの地上生活を、世の終わりまで継続し、そしてそれを天父に披歴する声、あなたのご受難とご凱旋のあいだ、親しくあなたのくちびるから洩れでたお声の再生です。天配たるあなたのご心情に浸透された心情――その声の源をたずねれば、ここにたどりつくのですが――この心情をこそ、教会はその子らにも、自分らのものにさせるのです。――誘惑のとき、失敗のとき、戦いのとき、悲しみのとき、幻滅のとき、失意のときに。そればかりか、勝利のときも、得意のときも、とにかくあなたのご生命が、その内にあらわれることのできるすべての霊魂は、このようにして、あなた自身のご心情を、その時どきに応じて、自分のものにすることができるのです。
読経の一部は、いつも“旧新両約聖書”から取られていますが、これによってわたしは、典礼への興趣をますます深め、ますます容易に、聖書の言葉に注意を集中させることができるのです。
聖務日課をとなえるとき、よく注意してその組み合わせをしらべてみますと、そこにはちゃんと根本思想というものがあり、他のすべての教訓は、この思想を中心として、そのまわりを廻転していることがよくわかります。
そんなわけで、ああ、わが魂よ、おまえはなんと強力な武器を持っていることか。――さ迷いやすい想像を、一つのまじめな中心思想に定着させることによって。とりわけ、おまえがもし、典礼にあらわれる“表象”(シンボル)をよく理解し、これを自分の教化にうまく利用することを知ってさえいたら・・・。
教会が、この典礼の表象を使用するのは、典礼のなかに提示されている真理を、まずその子らの感覚にうったえて、生き生きと鮮烈な姿に焼きなおし、このようにして、かれらの精神に捕捉させるためなのだ。「あなたがたは、現在なにをしているか、よく悟りなさい」――わたしは、司祭叙階式のとき、おごそかにこういわれたのだった。じっさい、典礼の儀式にも、儀式に使用するいろいろな物品にも、聖なる祭服にも、これらのすべてのものに、母なる教会はそれぞれちがった深い意味をふくませ、そしてこれらの意味は声高々と、わたしに認識を迫っているようにみえる。
もしわたしが、これらのものが語る声なき言葉に耳をかさないなら、どうして信者たちの知恵を啓発し、かれらの心をとらえることができるのだろうか。――せっかく、母なる教会が、信者たちの霊魂をとらえるために用意している、これらの生き生きとした、そして偉大な声を、解明する秘密のカギを所持していないなら……。
(b)近い準備
「祈るまえに、心の準備をしなさい」(集会の書18・23)
ミサ聖祭の直前、または聖務日課の直前、わたしは潜心を実行しなければならぬ。
それは、静かで、しかも充実したものでなければならぬ。
わたしの思考を、天主の方に向かわせない浮き世の事物から、引き離すためである。
そして、わたしの注意の焦点を、天主にのみしぼるためである。
わたしは今、だれとお話しようとしているのか。――天主とである。
だがしかし、この天主は、同時にわたしの“父”であられる。だから、わたしは、聖母マリアがそのむかし、御子イエズスとお話になるときにそうなさったように、ふかい尊敬にみちたおそれをもって、天主とお語りしなければならぬ。そのうえ、わたしは子供の質朴と単純をもって、天主とお話しよう。これこそは、どんな年老いた人たちにも、天主とお話するときには“小さい子供の心”をあたえてくれる。
天父のみまえにおけるこの態度――この質朴、単純な子供心――こそは、わたしがイエズス・キリストに一致し、これと一つになっている、わたしはいやしい者だが教会を代表する者である、とのわたしの信念を反映するものだ。そればかりか、さらにまた、わたしは祈るとき、祈りの伴侶として、天軍をもっているのだ、とのわたしの信念も反映している。「わたしは、天使たちのまえで、あなたに詩篇をうたいましょう」(詩篇113)
わが霊魂よ、おまえは再び“小さい子供の魂”に帰らねばならぬ。今はもうこれについて、議論したり吟味しているときではない。おまえは善悪の分別ができる年齢に達したころ、母が自分に話してくれた真理を、絶対的なものとして、すなおに受けいれたではないか。それと同じすなおさをもって、いまおまえは母なる教会が、おまえの信仰のかてとして提供しようとしておられるすべての真理を、そっくりそのまま、絶対的のものとして受けいれなければならないのだ。
霊魂のこの若返り! 主よ、これはわたしにとって、なくてはならないものです。
わたしがますます“子供の魂”になればなるほど、わたしはいっそう典礼の宝を、利用することができるのです。また、それだけいっそう、聖なる典礼の詩から魂を奪われて、恍惚の境に遊ぶことができるのです。わたしが子供の魂になりきればなりきるほど、それだけいっそう典礼の精神にも、進歩することができるのです。
子供の魂になりきるときこそは、典礼の務め(儀式・聖務日課・ミサ聖祭・秘跡など)を果たしている間に、すぐわたしの魂は“礼拝”のうちにぬかずき、そのままの姿勢で、長くとどまっていられるでしょう。――教会の肢体として、教会の使節として、天主の聖役者として、典礼の務めにたずさわっているそのときに。
典礼の務めの間に“礼拝のうちにぬかずく”こと――この礼拝の態度から、典礼の利益と功徳は生まれてくるのです。そればかりではありません。天主が典礼の務めをよく果たす者に約束された慰めも、同時に生まれてくるのです。そしてこの慰めこそは、つらい苦しい使徒的事業のいろいろの艱難において、わたしの勇気を支えてくれるのです。
ですから、わたしはまず、天主を“礼拝”したいのです。意志の飛躍によって、わたしのつたない礼拝を、天主の人イエズス・キリストのそれに合わせたいのです。天主にふさわしい尊崇をささげるために。この意志の飛躍は、むろん頭を使ってする仕事ですが、頭よりもむしろ“心”を使ってする仕事なのです。
ああ、イエズスよ、わたしはあなたの恩寵によって、天主を礼拝したいのです。そして典礼の務めを果たすとき、わたしはきまってこの恩寵を、あなたにお願いするのです。例えば、聖務日課をとなえるときには、「天主よ、わが助けにみ心を傾けたまえ」の祈りを、熱心にとなることによって。また、ミサ聖祭をささげるときには、「われは主の祭壇に行こう」の祈りを、ゆっくりと、信心をこめてとなることによって。
わたしはそうしたい、と心から望みます。この望みは、子供の魂から出る、愛情にみちたものです。謙遜にみち、しかも強いのです。あなたのお助けをこいねがう切なる望み――あなたは、この望みを、わたしが持つことを要求されます。
もしあなたの恩寵によって、わたしの知性が、わたしの信仰に、これまで知らなかった広い美しい地平を展開してくれますなら、また、わたしの感性が、わたしの心に、いくらかの信心ぶかい感動をあたえてくれますなら、そのときわたしの意志はそれらをよく利用して、もっと容易にあなたを礼拝することができるのでしょう。
だが、わたしは次の原理を、けっして忘れてはいません。――天主との一致は、究極において、霊魂の深層部で、意志のなかでいとなまれる。だから、たとえ霊魂が、暗闇と乾燥の秘境をさ迷っているにもせよ、また、たとえ意志そのものが、なんのうるおいもなく、なんの熱気もなく、氷りついたように冷たく、味気ないものであるにもせよ、そのときこそは、ただ“信仰”にだけ頼みの綱をかけて、勇敢に、天主への飛躍をこころみなければならないのだ。