アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅴ)典礼生活の実行(2/2)
(c)典礼の務めは、どのように果たさねばならないか
ああ、わが天主よ、典礼の務めをりっぱに果たす、ということは、あなたの大きな恩寵のおかげです。「全能であって、慈悲ふかい天主よ、主の信徒がふさわしく、ほむべき奉仕をなしえますのは、ひとえに主の恩寵によるのです」(聖霊降臨後第十二主日の集禱文)
主よ、典礼の務めをりっぱに果たす恩寵を、どうぞわたしにもお恵みください。わたしは典礼の務めを果たしているあいだ、天主の“礼拝者”として、いつまでもとどまっていたいのです。“礼拝”という言葉こそは、典礼の務めを完全に果たすための、すべての様式を、みごとに集約しています。
わたしの意志は飛躍して、わたしの心を高く天主の稜威(みいつ)のまえに運び、いつまでも、礼拝のうちに、そこにとどまらせます。わたしは、典礼の務めを完全に果たすための全要領を、三つの言葉――「ふさわしく」「注意して」「信心ぶかく」――のなかに、集約します。そして、「主よ、わたしのくちびるを開きたまえ」の祈りこそは、わたしが典礼の務めを果たす間に、どんな態度を保っていなければならないか、わたしのからだ、わたしの知性、わたしの心は、どんな態度をとっていなければならないか、それをみごとに、適確に表現しつくしています。
ふさわしく、聖務にたずさわる。
つつましい態度。聖務の言葉は、正確にとなえる。重要な部分は、他の部分よりもっとゆっくりとなえる。聖務の規則を、注意して、適確に守る。声も、きめられたとおりに出す。十字架のしるしも、りっぱに、正確にする。定められた箇処では、正確にひざまずく、などなど。――このようにして、主よ、わたしの“からだ”は、いま自分がだれとお話をしているのか、自分はいま何をお話しているのか、ということをハッキリ、人にもわかるようにふるまうのです。このようにして、わたしはどれほどすばらしい使徒職を、発揮することができるのでしょう。そればかりか、外部の態度の謹厳さによって、わたしの“心”も、必然的に、内部のつつましさにさそわれていきます。
地上の国王らの宮廷においては、いちばんつまらない侍臣ですら、自分にあてがわれた仕事がどんなに、いやしいものであったにしても、これを最も光栄ある役目だと思い、知らぬ間に、重々しくいかめしい態度で、その仕事をりっぱに果たすではありませんか。わたしも、自分の典礼の務めを果たすときには、かれらに劣らぬ高貴な態度をとり、いかめしい威厳を発揮できないということはありません。そのためには、霊魂の礼拝にぬかずく態度を、からだの謹厳にみてる風格を、そのまま外部に表わせばよいのです。ましてや、わたしは、王らの王、稜威(みいつ)きわまりなき天主の侍従なのですから!
注意して、聖務にたずさわる。
典礼のなかには、わたしの霊魂のかてとなるりっぱな言葉や儀式が、豊富に盛られている。わたしの心は、そういう霊の宝を集めるために、懸命に努力しなければならない。
それで、わたしは聖務の“言葉の意味”に、注意を集中せねばならぬ。わたしは、一句一句を、注意してとなえる。聖務を、口でとなえながらも、心では特に深い印象を受けた語句について、長く黙想する。他の語句について、また同じように強い印象を受けるまでは、それを続ける。とにかく、聖ベネジクトがいっているとおり、わたしも「精神を、くちびるがとなえる所に一致させる」(『戒律』の言葉)ように、努力しなければならぬ。さらに、わたしの知性は、その日の奥義なり、典礼の季節の主要思想について、ふかく考究しなければならぬ。
だが、知性のはたらきは、意志のはたらきより強いものであってはならない。意志のはたらきは、わたしの霊魂を、天主のみまえに、礼拝のうちにぬかずかせること――この礼拝の態度をいつまでも持続させること、忘れたら再びそれにもどすこと――にあるのだから、この意志のはたらきこそ第一義的であり、知性のはたらきはその次にくるもの、意志のはたらきを助けるもの、その手伝いでしかないのだ。
放心が、どれほどしばしば起こって、わたしの礼拝の態度をつきくずしにかかっても、わたしはすぐに立ち上がって、この放心を霊魂から駆逐し、また元どおり、礼拝者の態度にかえりたい。――静かに、しかし、強い態度で。主よ、あなたのお助けに信頼いたしますから、静かな、安らかな努力で、それができるのです。あなたのお助けに協力いたしますから、それはあくまでも忠実な、忍耐づよい努力がないなら、とうていできないことです。
信心ぶかく、聖務にたずさわる。
主よ、この点が、いちばん大切です。かんじんなのは、“聖務日課、その他典礼のすべての務めを、”信心業“にすること、したがって”心から出る行為“にすることです。
「性急に果たすのは、信心の死滅」(聖フランシスコ・サレジオの言葉)です。聖務日課をとなえるにさいして、ましてやミサ聖祭をささげるにさいして、聖フランシスコ・サレジオは右の格言を、自分の“原則”にしました。ですから、わたしも、ミサ聖祭を執行するにあたって、これに半時間をささげましょう。そういたしましたら、たいせつなミサのカノンばかりではなく、その他すべてのミサの部分を、信心ぶかく、熱心にとなえることができましょう。
ミサ聖祭は、わたしの一日の太陽であり、中心行為であらねばなりません。これを大急ぎで果たすためのすべての“口実”を、わたしはなさけ容赦もなく、排斥しなければなりません。もしわたしが不幸にも、過去のわるい習慣のために、ミサ聖祭のある言葉か儀式を飛ばしている、早口のためにとなえないでいる、といたしましたら、時にはわざとその部分だけ、ゆっくりすぎるほどゆるやかに、となえることにいたしましょう。
程度の差こそあれ、わたしはミサ聖祭をゆっくり、信心ぶかくささげる、というこの決心を、他のすべての典礼の務めにもおしひろげていきたい決意です。――すべての秘跡の執行にも、聖体降福祭にも、死者の葬式・・・などにも。
聖務日課を、何時何分にとなえるか、その時刻を、わたしはちゃんと前もって定めておきます。その時刻がやってくる。わたしはどんな犠牲を払っても、いっさいの雑務からはなれる。どんな犠牲を払っても、わたしは聖務日課をとなえることが、心から出るほんとうの祈りであるように、ふかく念願しているのです。
ああ、イエズスよ、わたしがあなたの代理を努めますとき、または教会の名によって行動しますとき、そのような場合にはいつも、性急に大いそぎで、大切な典礼の言葉をとなえることがどんなに恐ろしいことか、どうかわたしに教えてください。
大いそぎで果たすことは、偉大な準秘跡たる典礼を、台なしにするのだということを、わたしの心にふかく確信させてください。典礼の務めを、大いそぎで果たせば、念禱の精神が確保できなくなる。そしてこの念禱の精神がなければ、わたしは人の見たところでは、なるほどりっぱな、熱心な、よく活動する司祭ではあっても、あなたの目にはごく冷淡な、不熱心な司祭でしかない、いやそれどころか、わるい司祭でしかない、ということを、納得のゆくまで悟らせてください。ちょっときいただけで身ぶるいするような、それほど恐ろしい次の言葉を、わたしの良心に深くきざみつけてください。「天主のわざを、なおざりに果たす者は、呪われねばならぬ」(イエレミア48・10)
心が躍動しますなら、信仰の精神によって、聖節において典礼が祝わう、天主とキリストの奥義の一般的意味を、わたしは容易にとらえることができます。そしてそれによって、自分の霊魂を養うことができます。
このようにして、典礼の奥義の黙想は、わたしにとって、一つの長い法悦となります。信仰と希望、願望と悔恨、献身と愛――これらの心情を、わたしは長時間にわたって、心ゆくまで味わうことができます。
時には、ただ一回の“眺め”だけで足りることもあります。心の目で眺める、じーっと眺める。―― 一つの奥義を、天主の完徳を、イエズス・キリストのご性格の一面を、教会を、わたしの虚無なることを、わたしの悲惨を、わたしの入り用を、わたしのキリスト信者としての尊厳を、司祭という者の、修道者という者の高い尊い身分を、心の目で眺めるのです。
この眺めは、たとえば神学研究のときのような、冷やかな、純然たる理知的行為ではなく、意志の滋味を加えた、熱い、うるおいのある眺めです。それはまた、わたしの信仰をふやしてくれる眺めです。信仰以上に、わたしの愛をますます深めてくれる、ますます盛んにもやしてくれる眺めです。
この眺めは、むろん、至福直観のあわい反映にすぎませんが、しかしそれは同時に、あなたがすでにこの世ながらに、心のきよく熱心にもえた霊魂たちにお約束になったものを、実現してくれます。すなわち、「心のきよい人たちは、さいわいである。かれらは天主を見るであろう」(マテオ5・8)
*
このようにして、典礼の務めの一つ一つは、わたしにとって、このうえなくありがたい“息抜き”となるのです。なぜなら、多忙な日常生活のいとなみによって、ともすれば窒息しようとするわたしの霊魂の呼吸を、典礼は容易に円滑にしてくれるからです。
ああ、聖なる典礼よ、あなたはそのいろいろちがった“務め”によって、どれほどかんばしい香りを、わたしの霊魂に放ってくださることか。あなたは、わたしにとって、荷の重い、いやな苦役どころか、かえってわたしの生活を慰めで満たしてくれる、最大の恩人なのです。そうではない、とどうしていわれましょう。なぜなら、わたしはあなたのおかげで、自分は教会の子どもである、自分は教会の使節である、自分はイエズス・キリストの肢体である、聖役者である、この位階はきわめて神聖だ、との自覚を、いつも心に持つことによって、“選ばれた人びとの歓喜なる”イエズス・キリストを、ますます身に着けていくからです。
イエズスとの一致によって、わたしはこの世の十字架をよく利用することができ、この世の苦難をうまく利用して、永遠の幸福のもとでにするすべを修得するのです。そのうえ、典礼生活によって、わたしは他の人びとも、自分の後から、救霊と聖性の途にみちびいていくことができます。こう考えてまいりますと、典礼生活は、他のいかなる使徒職にもまさって、いっそう効果的である、といわなければなりません。
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅴ)典礼生活の実行(2/2)
(c)典礼の務めは、どのように果たさねばならないか
ああ、わが天主よ、典礼の務めをりっぱに果たす、ということは、あなたの大きな恩寵のおかげです。「全能であって、慈悲ふかい天主よ、主の信徒がふさわしく、ほむべき奉仕をなしえますのは、ひとえに主の恩寵によるのです」(聖霊降臨後第十二主日の集禱文)
主よ、典礼の務めをりっぱに果たす恩寵を、どうぞわたしにもお恵みください。わたしは典礼の務めを果たしているあいだ、天主の“礼拝者”として、いつまでもとどまっていたいのです。“礼拝”という言葉こそは、典礼の務めを完全に果たすための、すべての様式を、みごとに集約しています。
わたしの意志は飛躍して、わたしの心を高く天主の稜威(みいつ)のまえに運び、いつまでも、礼拝のうちに、そこにとどまらせます。わたしは、典礼の務めを完全に果たすための全要領を、三つの言葉――「ふさわしく」「注意して」「信心ぶかく」――のなかに、集約します。そして、「主よ、わたしのくちびるを開きたまえ」の祈りこそは、わたしが典礼の務めを果たす間に、どんな態度を保っていなければならないか、わたしのからだ、わたしの知性、わたしの心は、どんな態度をとっていなければならないか、それをみごとに、適確に表現しつくしています。
ふさわしく、聖務にたずさわる。
つつましい態度。聖務の言葉は、正確にとなえる。重要な部分は、他の部分よりもっとゆっくりとなえる。聖務の規則を、注意して、適確に守る。声も、きめられたとおりに出す。十字架のしるしも、りっぱに、正確にする。定められた箇処では、正確にひざまずく、などなど。――このようにして、主よ、わたしの“からだ”は、いま自分がだれとお話をしているのか、自分はいま何をお話しているのか、ということをハッキリ、人にもわかるようにふるまうのです。このようにして、わたしはどれほどすばらしい使徒職を、発揮することができるのでしょう。そればかりか、外部の態度の謹厳さによって、わたしの“心”も、必然的に、内部のつつましさにさそわれていきます。
地上の国王らの宮廷においては、いちばんつまらない侍臣ですら、自分にあてがわれた仕事がどんなに、いやしいものであったにしても、これを最も光栄ある役目だと思い、知らぬ間に、重々しくいかめしい態度で、その仕事をりっぱに果たすではありませんか。わたしも、自分の典礼の務めを果たすときには、かれらに劣らぬ高貴な態度をとり、いかめしい威厳を発揮できないということはありません。そのためには、霊魂の礼拝にぬかずく態度を、からだの謹厳にみてる風格を、そのまま外部に表わせばよいのです。ましてや、わたしは、王らの王、稜威(みいつ)きわまりなき天主の侍従なのですから!
注意して、聖務にたずさわる。
典礼のなかには、わたしの霊魂のかてとなるりっぱな言葉や儀式が、豊富に盛られている。わたしの心は、そういう霊の宝を集めるために、懸命に努力しなければならない。
それで、わたしは聖務の“言葉の意味”に、注意を集中せねばならぬ。わたしは、一句一句を、注意してとなえる。聖務を、口でとなえながらも、心では特に深い印象を受けた語句について、長く黙想する。他の語句について、また同じように強い印象を受けるまでは、それを続ける。とにかく、聖ベネジクトがいっているとおり、わたしも「精神を、くちびるがとなえる所に一致させる」(『戒律』の言葉)ように、努力しなければならぬ。さらに、わたしの知性は、その日の奥義なり、典礼の季節の主要思想について、ふかく考究しなければならぬ。
だが、知性のはたらきは、意志のはたらきより強いものであってはならない。意志のはたらきは、わたしの霊魂を、天主のみまえに、礼拝のうちにぬかずかせること――この礼拝の態度をいつまでも持続させること、忘れたら再びそれにもどすこと――にあるのだから、この意志のはたらきこそ第一義的であり、知性のはたらきはその次にくるもの、意志のはたらきを助けるもの、その手伝いでしかないのだ。
放心が、どれほどしばしば起こって、わたしの礼拝の態度をつきくずしにかかっても、わたしはすぐに立ち上がって、この放心を霊魂から駆逐し、また元どおり、礼拝者の態度にかえりたい。――静かに、しかし、強い態度で。主よ、あなたのお助けに信頼いたしますから、静かな、安らかな努力で、それができるのです。あなたのお助けに協力いたしますから、それはあくまでも忠実な、忍耐づよい努力がないなら、とうていできないことです。
信心ぶかく、聖務にたずさわる。
主よ、この点が、いちばん大切です。かんじんなのは、“聖務日課、その他典礼のすべての務めを、”信心業“にすること、したがって”心から出る行為“にすることです。
「性急に果たすのは、信心の死滅」(聖フランシスコ・サレジオの言葉)です。聖務日課をとなえるにさいして、ましてやミサ聖祭をささげるにさいして、聖フランシスコ・サレジオは右の格言を、自分の“原則”にしました。ですから、わたしも、ミサ聖祭を執行するにあたって、これに半時間をささげましょう。そういたしましたら、たいせつなミサのカノンばかりではなく、その他すべてのミサの部分を、信心ぶかく、熱心にとなえることができましょう。
ミサ聖祭は、わたしの一日の太陽であり、中心行為であらねばなりません。これを大急ぎで果たすためのすべての“口実”を、わたしはなさけ容赦もなく、排斥しなければなりません。もしわたしが不幸にも、過去のわるい習慣のために、ミサ聖祭のある言葉か儀式を飛ばしている、早口のためにとなえないでいる、といたしましたら、時にはわざとその部分だけ、ゆっくりすぎるほどゆるやかに、となえることにいたしましょう。
程度の差こそあれ、わたしはミサ聖祭をゆっくり、信心ぶかくささげる、というこの決心を、他のすべての典礼の務めにもおしひろげていきたい決意です。――すべての秘跡の執行にも、聖体降福祭にも、死者の葬式・・・などにも。
聖務日課を、何時何分にとなえるか、その時刻を、わたしはちゃんと前もって定めておきます。その時刻がやってくる。わたしはどんな犠牲を払っても、いっさいの雑務からはなれる。どんな犠牲を払っても、わたしは聖務日課をとなえることが、心から出るほんとうの祈りであるように、ふかく念願しているのです。
ああ、イエズスよ、わたしがあなたの代理を努めますとき、または教会の名によって行動しますとき、そのような場合にはいつも、性急に大いそぎで、大切な典礼の言葉をとなえることがどんなに恐ろしいことか、どうかわたしに教えてください。
大いそぎで果たすことは、偉大な準秘跡たる典礼を、台なしにするのだということを、わたしの心にふかく確信させてください。典礼の務めを、大いそぎで果たせば、念禱の精神が確保できなくなる。そしてこの念禱の精神がなければ、わたしは人の見たところでは、なるほどりっぱな、熱心な、よく活動する司祭ではあっても、あなたの目にはごく冷淡な、不熱心な司祭でしかない、いやそれどころか、わるい司祭でしかない、ということを、納得のゆくまで悟らせてください。ちょっときいただけで身ぶるいするような、それほど恐ろしい次の言葉を、わたしの良心に深くきざみつけてください。「天主のわざを、なおざりに果たす者は、呪われねばならぬ」(イエレミア48・10)
心が躍動しますなら、信仰の精神によって、聖節において典礼が祝わう、天主とキリストの奥義の一般的意味を、わたしは容易にとらえることができます。そしてそれによって、自分の霊魂を養うことができます。
このようにして、典礼の奥義の黙想は、わたしにとって、一つの長い法悦となります。信仰と希望、願望と悔恨、献身と愛――これらの心情を、わたしは長時間にわたって、心ゆくまで味わうことができます。
時には、ただ一回の“眺め”だけで足りることもあります。心の目で眺める、じーっと眺める。―― 一つの奥義を、天主の完徳を、イエズス・キリストのご性格の一面を、教会を、わたしの虚無なることを、わたしの悲惨を、わたしの入り用を、わたしのキリスト信者としての尊厳を、司祭という者の、修道者という者の高い尊い身分を、心の目で眺めるのです。
この眺めは、たとえば神学研究のときのような、冷やかな、純然たる理知的行為ではなく、意志の滋味を加えた、熱い、うるおいのある眺めです。それはまた、わたしの信仰をふやしてくれる眺めです。信仰以上に、わたしの愛をますます深めてくれる、ますます盛んにもやしてくれる眺めです。
この眺めは、むろん、至福直観のあわい反映にすぎませんが、しかしそれは同時に、あなたがすでにこの世ながらに、心のきよく熱心にもえた霊魂たちにお約束になったものを、実現してくれます。すなわち、「心のきよい人たちは、さいわいである。かれらは天主を見るであろう」(マテオ5・8)
*
このようにして、典礼の務めの一つ一つは、わたしにとって、このうえなくありがたい“息抜き”となるのです。なぜなら、多忙な日常生活のいとなみによって、ともすれば窒息しようとするわたしの霊魂の呼吸を、典礼は容易に円滑にしてくれるからです。
ああ、聖なる典礼よ、あなたはそのいろいろちがった“務め”によって、どれほどかんばしい香りを、わたしの霊魂に放ってくださることか。あなたは、わたしにとって、荷の重い、いやな苦役どころか、かえってわたしの生活を慰めで満たしてくれる、最大の恩人なのです。そうではない、とどうしていわれましょう。なぜなら、わたしはあなたのおかげで、自分は教会の子どもである、自分は教会の使節である、自分はイエズス・キリストの肢体である、聖役者である、この位階はきわめて神聖だ、との自覚を、いつも心に持つことによって、“選ばれた人びとの歓喜なる”イエズス・キリストを、ますます身に着けていくからです。
イエズスとの一致によって、わたしはこの世の十字架をよく利用することができ、この世の苦難をうまく利用して、永遠の幸福のもとでにするすべを修得するのです。そのうえ、典礼生活によって、わたしは他の人びとも、自分の後から、救霊と聖性の途にみちびいていくことができます。こう考えてまいりますと、典礼生活は、他のいかなる使徒職にもまさって、いっそう効果的である、といわなければなりません。