アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2011年7月26日に行われたパリャラーニ神父様とのインタビューを再掲してご紹介いたします。
パリャラーニ神父様についての記事は、次もご覧ください。
s聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその1
聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその2
聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその3
【要約】
ダヴィデ・パリャラーニ神父:
【聖ピオ十世会とローマとの神学義論】
2009年から2011年まで行われた聖ピオ十世会とローマの間で行われた神学上の会談の目的は、具体的な合意に達する事では決してなく、むしろ双方の教義上の立場を記録した、明確で完全な書類を編纂し、さらにそれを教皇様と聖ピオ十世会総長に提出する事だった。
カトリック教会と聖伝の善の為に、聖ピオ十世会がこのような信仰の証をすることの大切さと、いま何が失われつつあり危険に晒されているのかということを明確にすることができたものであった。
聖ピオ十世会の意図は、単に、公教会が自分の聖伝をそのまま完全に取り戻すことが出来るように協力する事だけである。聖ピオ十世会には一日で公教会を変える使命もカリスマもない。
教会法上の正常化があろうとなかろうと、躓きの石であり逆らいの印であり続けるなら、公教会の善の為にゆっくりと働き続ける事は出来る。教会法上の正常化は、御摂理が機が熟していると判断する時にのみ実現するだろう。
現時点で、正常化が仮にあったとしても、だからといって、カトリック教会の緊急事態が突然なくなるのではない。緊急状態はカトリック教会内に存在し続けるだろう。まさにこの緊急状態のために、今までの聖ピオ十世会の活動が正当化されている。
【聖ピオ十世会以外の保守主義】
カトリック教会の革新的状況について基本的に失望し、不安を感じている信徒或いは司祭たちがいる。
この保守派不満分子は、聖ピオ十世会の行っている信仰の戦いに参加しようと望まず、あるいはこの戦いに伴う重荷や様々な否定的な結果を受けることを望まないが、教会法による聖ピオ十世会の正常化からは何らかの利益を期待している。
彼らは、「評論家」らのように、むしろ功利主義的な観点から興味を持っている。もしも聖ピオ十世会が、自分のためにかなり重要なものを獲得するなら、他の司祭たちも懇願出来る教会法上の前例を作り上げるだろう、と。
この功利主義的な評論家たちの態度は、(1)聖ピオ十世会の立場が、結果としては何か興味深いものを生じさせる事の出来る唯一の信じるに値する立場である事を証明している。
また、(2)もしも教義に優先権---これはカトリック教会が自分の聖伝の回復を可能にする為なのですが---が与えられていなければ、外交的・政治の観点へと必然的に滑り込み、悲劇的に失望的な結果を見るだけだと、立証している。
保守派不平分子らは、一方で聖ピオ十世会を「不従順」だと批判する事により、自分たちの「教会法厳守」を見せびらかそうと努めている。他方では、聖ピオ十世会を批判はしておきながらも、聖ピオ十世会の非妥協的な態度も自分たちの為に何か建設的なものを間接的に手に入れてくれるだろうと期待している。彼らは「成り行きを見ようと離れて付いて行った“sequebatur a longe ut videret finem”」(マテオ26:58)という、功利主義的期待がある。
【聖ピオ十世会の教会法上の状況】
現在聖ピオ十世会が置かれている教会法上の状況は、公教会に蔓延する誤謬に抵抗した結果であり、従って、聖ピオ十世会が教会法上の正常な場所に到る可能性は、私たちに懸かっているのではなく、公教会の復興に向けて聖伝がすることの出来る貢献を聖職位階が受け入れるか否かに懸かっている。
もし私たちが教会法による何らかの正常化に達しないなら、それは単に聖職位階が未だに十分この貢献の切迫した必要性を確信していないという意味になる。
聖ピオ十世会はカトリック教会がその聖伝を取り戻すことができるように、出来る事は何でもやる。
聖伝のミサの最も聖なる典礼様式というものは、それ自体で内在的な価値を持っている。聖伝のミサの典礼様式には、典礼様式自体が持っている天主に対する崇拝(latria)という固有の目的と関係した価値がある。
聖伝のミサに与る人々、聖伝のミサを要求する人の主観的な心情によって典礼様式の価値が決まるのではない。聖伝のミサを求める人々が、パウロ六世の新しいミサに不服だろうがそうでなかろうが、それとは関係なく、聖伝のミサは、何世紀もの歳月を経た典礼様式の価値と、それを執り行う正当性を有している。
【ルフェーブル大司教】
ルフェーブル大司教様はカトリック教会の聖伝という不滅なものを体現化した。
当時誤って廃止され禁じられたものとして見做されていた聖伝ミサの執行を公然と一度も止めなかった唯一の高位聖職者が、聖ピオ十世会の創立者だった。彼は、祭壇上に日々現存される正真正銘の生きる宝物を守りそして伝えた。
ルフェーブル大司教について良かれ悪しかれ、語る人は、聖伝を語らずして語る事は出来ない。この聖伝こそが、“ルフェーブル派”などではなく、それどころか、永遠に、カトリック的である。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2011年7月26日に行われたパリャラーニ神父様とのインタビューを再掲してご紹介いたします。
パリャラーニ神父様についての記事は、次もご覧ください。
s聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその1
聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその2
聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその3
【要約】
ダヴィデ・パリャラーニ神父:
【聖ピオ十世会とローマとの神学義論】
2009年から2011年まで行われた聖ピオ十世会とローマの間で行われた神学上の会談の目的は、具体的な合意に達する事では決してなく、むしろ双方の教義上の立場を記録した、明確で完全な書類を編纂し、さらにそれを教皇様と聖ピオ十世会総長に提出する事だった。
カトリック教会と聖伝の善の為に、聖ピオ十世会がこのような信仰の証をすることの大切さと、いま何が失われつつあり危険に晒されているのかということを明確にすることができたものであった。
聖ピオ十世会の意図は、単に、公教会が自分の聖伝をそのまま完全に取り戻すことが出来るように協力する事だけである。聖ピオ十世会には一日で公教会を変える使命もカリスマもない。
教会法上の正常化があろうとなかろうと、躓きの石であり逆らいの印であり続けるなら、公教会の善の為にゆっくりと働き続ける事は出来る。教会法上の正常化は、御摂理が機が熟していると判断する時にのみ実現するだろう。
現時点で、正常化が仮にあったとしても、だからといって、カトリック教会の緊急事態が突然なくなるのではない。緊急状態はカトリック教会内に存在し続けるだろう。まさにこの緊急状態のために、今までの聖ピオ十世会の活動が正当化されている。
【聖ピオ十世会以外の保守主義】
カトリック教会の革新的状況について基本的に失望し、不安を感じている信徒或いは司祭たちがいる。
この保守派不満分子は、聖ピオ十世会の行っている信仰の戦いに参加しようと望まず、あるいはこの戦いに伴う重荷や様々な否定的な結果を受けることを望まないが、教会法による聖ピオ十世会の正常化からは何らかの利益を期待している。
彼らは、「評論家」らのように、むしろ功利主義的な観点から興味を持っている。もしも聖ピオ十世会が、自分のためにかなり重要なものを獲得するなら、他の司祭たちも懇願出来る教会法上の前例を作り上げるだろう、と。
この功利主義的な評論家たちの態度は、(1)聖ピオ十世会の立場が、結果としては何か興味深いものを生じさせる事の出来る唯一の信じるに値する立場である事を証明している。
また、(2)もしも教義に優先権---これはカトリック教会が自分の聖伝の回復を可能にする為なのですが---が与えられていなければ、外交的・政治の観点へと必然的に滑り込み、悲劇的に失望的な結果を見るだけだと、立証している。
保守派不平分子らは、一方で聖ピオ十世会を「不従順」だと批判する事により、自分たちの「教会法厳守」を見せびらかそうと努めている。他方では、聖ピオ十世会を批判はしておきながらも、聖ピオ十世会の非妥協的な態度も自分たちの為に何か建設的なものを間接的に手に入れてくれるだろうと期待している。彼らは「成り行きを見ようと離れて付いて行った“sequebatur a longe ut videret finem”」(マテオ26:58)という、功利主義的期待がある。
【聖ピオ十世会の教会法上の状況】
現在聖ピオ十世会が置かれている教会法上の状況は、公教会に蔓延する誤謬に抵抗した結果であり、従って、聖ピオ十世会が教会法上の正常な場所に到る可能性は、私たちに懸かっているのではなく、公教会の復興に向けて聖伝がすることの出来る貢献を聖職位階が受け入れるか否かに懸かっている。
もし私たちが教会法による何らかの正常化に達しないなら、それは単に聖職位階が未だに十分この貢献の切迫した必要性を確信していないという意味になる。
聖ピオ十世会はカトリック教会がその聖伝を取り戻すことができるように、出来る事は何でもやる。
聖伝のミサの最も聖なる典礼様式というものは、それ自体で内在的な価値を持っている。聖伝のミサの典礼様式には、典礼様式自体が持っている天主に対する崇拝(latria)という固有の目的と関係した価値がある。
聖伝のミサに与る人々、聖伝のミサを要求する人の主観的な心情によって典礼様式の価値が決まるのではない。聖伝のミサを求める人々が、パウロ六世の新しいミサに不服だろうがそうでなかろうが、それとは関係なく、聖伝のミサは、何世紀もの歳月を経た典礼様式の価値と、それを執り行う正当性を有している。
【ルフェーブル大司教】
ルフェーブル大司教様はカトリック教会の聖伝という不滅なものを体現化した。
当時誤って廃止され禁じられたものとして見做されていた聖伝ミサの執行を公然と一度も止めなかった唯一の高位聖職者が、聖ピオ十世会の創立者だった。彼は、祭壇上に日々現存される正真正銘の生きる宝物を守りそして伝えた。
ルフェーブル大司教について良かれ悪しかれ、語る人は、聖伝を語らずして語る事は出来ない。この聖伝こそが、“ルフェーブル派”などではなく、それどころか、永遠に、カトリック的である。