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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き16)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き16)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


四、“心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である

心の取り締まりの決心(3/3)

(Ⅳ)心の取り締まりの修業

悲しいかな、私は仕事のあいだ、ずいぶん長く、天主の現存の意識をもたず、天主が自分の霊魂に内住しておられる事実を、忘れて生活している。

悲しいかな、私はこのようにすっかり外面の世界に流された、うわべだけの生活をしているうちに、たくさんの過ちにおちいりながらも、それに気がつかないでいる。霊魂は、熱心であると思っても、それに不完全と、時には冷淡さえ混じていることに気づかないでいる。これからは、心の取り締まりの修業をして、この悪習をためなおさねばならぬ。きょうから早速、それに取りかかろう。

朝、黙想するとき、次のような決心をとる。この決心は、強固で具体的なもの、明確なものがなければならぬ。――仕事のあいだ、一定の時間をもうけて、その時刻のあいだは、天主のみ旨に成るこの仕事に、懸命に没頭する。同時に、できるだけ完全に、内的生活をいとなむ。心の取り締まりを実行する。すなわち、ああ、イエズスよ、あたかも私が、あなたのみまえにいるかのように、私自身の上に警戒の目を光らせる。あなたのみもとに馳せていって、助けをこい求める。“何事も、いちばん完全に果たす”という誓願を立てているかのごとく、できるだけ完全に、この仕事をなしとげることができますように。

朝と晩に、五分間、いや、それよりもっと少ない時間でもいい、一定の時間をもうけて、次の反省をし、決心をとる。――私は、この修業の長さよりむしろ、その完全さにねらいをおく。この修業が、ますますうまくいくように努力する。仕事のあいだは、たとえそれがどんなに多忙をきわめ、注意力を独占するものであっても、いや、そうであればあるだけ、私はいっそう精を出して、ちょうどどこかの聖人でもそれをしているかのような仕方で、この仕事をする。――純潔な意向によって。心の取り締まりによって。私の霊肉のすべての能力を、よくコントロールすることによって。りっぱな堂々たる振舞によって。……一言でいうなら、あたかもイエズス・キリストご自身が、もしこの仕事をなされたとしたら、こんな風になされたにちがいない、と思われるような仕方で。

これこそは、実行的内的生活の修業なのだ。
これこそはまた、私の放心、精神の散漫への、事実上の反抗なのだ。
私がほしいのは、イエズスである。
私がほしいのは、イエズスのみ国である。
私がほしいのは、私の霊魂の内部における、イエズスの支配である。

私がほしいのは、たとえ多忙をきわめた仕事の時間がやってきても、イエズスの支配が依然、私の霊魂のなかで持続されることである。霊魂は、カーテンがはずれて、冷たい外気が遠慮なくはいってくる。そのために、イエズスとの一致ができなくなる。イエズスのみまえにめざめていることが、祈ることが、惜しみなき奉仕をすることが、できなくなる。こういう不幸を、私はがまんできない。

仕事のあいだ、ちょっと霊魂の内部に、警戒の目を光らせる。霊魂の動き、行為の動機のうえに、しばらく反省のまなざしをそそぐ。不純なもの、いけないものがあったら、なさけ容赦なく、霊魂からしめだす。私の意志も、この短い間、私に協力して、完全な生活をいとなむためには、だれとも、何事とも安易な妥協はしない、障害物があったら遠慮会釈なくこれを排除する、と固く決心している。私の心もまた、私に加勢して、“聖人修業”をしている私が、どうかいつまでも根気強く、この修業を続けることができるように、とイエズスに祈る。

心の取り締まりの修業は、やり甲斐がある。それにはいつも喜びが伴っている。それをやれば、必らず心が大きくなる。むろん、心で、天主のみまえに長くとどまっているためには、また、私の霊魂の諸能力、すべての感覚から、不純なもの、あまりに自然なものを、みんな排除するためには、たえまなく自分を警戒し、自分を抑制していなければならぬ。だが、私はこのような、消極的修業にばかり満足してはいられない。

とりわけ、私はこの修業を、聖主への深い愛の獲得のために役立てたい。この愛があれば、私はまず純潔な意向のもとに、次に熱心とか没我とか、つねにまさりゆく聖主の奉仕への惜しみなき心とか、こういうものによって、“汝が現在なしつつあることをなせ”の教訓を、最大の注意をかたむけて実行するようになり、私のなす業に、大きな完全と価値を付与してもらえるからである。

夕がた、一般糾明のとき、(または特別糾明のとき、もしこの修業を糾明の題目にしているなら)、イエズスのおそばで、心の取り締まりにあてられた数分間を、どのように使ったか、について厳密な糾明をする。まずい成績だったら、自分に制裁を加える。小さな償いをかける。(たとえば、愛用のぶどう酒、またはおサケをすこし減らす。あるいは食後品に手をつけない。むろん、みんなの目につかないようにすることがカンジン。両手を十字架の形にのばして、短い祈りをとなえる。からだに軽いムチの一打ちか二打ちを加える。指のうえにかたい物をおいて、痛い思いをするなど)

もし私が、心の取り締まりの修業――つまり、活動的生活に内的生活を加味した、理想的な修業において、じゅうぶんまじめでなかった、じゅうぶん熱心でなかった、じゅうぶん祈らなかった、じゅうぶん乗り気でなかった、ということに気がついたら、いつも、右にいったようにしなければならぬ。

心の取り締まりの修業からは、どんなにすばらしい効果が生まれることだろう。心の取り締まりは、どんなにすばらしい聖徳の学校だろう。いままでは、それと気づかないで、平気でおかしていた多くの罪、多くの過ちが、心の取り締まりを実行してからは、どんなにハッキリ目につくことだろう。罪がふえたのではない。罪が目につくのだ。聖霊の光りに照らしだされて! 

ああ、祝福された、心の取り締まりの瞬間よ! それはすこしずつ、次の瞬間にも恵みの余波を伝える。しかし、私はこの瞬間にあまり長くとどまっていない。聖性の地平線がうすれようとするとき、仕事の遂行の完全性がそこなわれようとするとき、愛がその深さを減じようとするとき、そういうことが予感されるとき始めて、私は心を取り締まるために、必要な数刻を都合するであろう。

私は、量より質に、重きをおきたい。あとでは、わずか数刻の、心の取り締まりでは、どうも我慢できなくなる。私の霊魂は、現在この瞬間、どんなものだか、イエズスは私から、何をお求めになっておられるか――こういうことが、ハッキリわかるようになってからは、とくに習慣的な心の取り締まりに向かって、心は渇いていく。そしてすこしずつ、この修業になれてくると、やがて私は心の底から、心の取り締まりの必要を痛感し、その習慣を身につけるようになる。そしてイエズスは、完全にきよめられた私の霊魂のなかに、ご自分と私との一致の生活の秘訣を、お見いだしになるのだ。

(Ⅴ)心の取り締まりに必要な条件

私の日常生活のいとなみ――それは、多少けがれに染まっている。この事実を”確信“する。この確信があれば、私は自身にたいして、被造物にたいして、すこしも信用をおかない。悪魔は、この確信を、私から奪おうと、やっきになっている。この確信は、どうかしてイエズスのものになりきってしまいたい、との私の切望に基づいているから、次のようなりっぱな結果を生む。

まず、私自身に”警戒“を施してくれる。しかもこの警戒は、忠実なもの、正確なもの、静かで、おだやかで、天主の恩寵に信頼し、私の放心をなくし、自然の性急さをなくしてくれる。

それはまた、私の決心を”更新“してくれる。心の取り締まりの理想像に達しようと、一生懸命にたたかっている霊魂にたいしては、イエズスは至って慈悲深くいますゆえ、私をしてこの事実に信頼させて、倒れても倒れても、あらたに立ち上がる勇気をあたえてくれる。自分は単独でたたかっているのではない。イエズス・キリストが、自分にはついていてくださる。母なる聖マリアが、守護の天使が、もろもろの聖人が、私の味方になっていてくださるのだ――との信念を、ますます深めてくれる。天国の有力な味方が、毎瞬、私に加勢してくださる。もし私さえ、心の取り締まりを実行しているなら、もし私さえ、かれらの助けから身をそむけなければ――との信念を、ますます強固にしてくれる。

最後に、心の取り締まりの修業は、私をしばしば、そして熱心に、天主のお助けにおもむかせる。このお助けのおかげで、私は、天主が今私から、お求めになっていられることをする。天主がそれを、お望みになる仕方でする。さらに天主がそれをお望みになるから、自分もする、というぐあいに、一事が万事、天主中心の生活へと向上していくのである。

ああ、イエズスよ、このように心の取り締まりを実行して、私の心を、あなたの聖心に一致させますなら、私の生活はどれほど一新して、あなたのご生活に変容することでしょう。

私の知性よ、おまえは現在の業務に、全精力をうちこむことはできよう。だがしかし、私は経験によって知っているのだ。――ひじょうに多忙をきわめた人たちでも、そのなかには、仕事のあいだ絶え間なくイエズスに向かってあえいでいる、その心は絶えずイエズスと物語っている、感心な霊魂もいるのだ、ということを。私もこの人たちのようでありたい。どんなに忙しい仕事をしている最中でも、かれらのように、私の心も、たえまなく、イエズスに向かって、あえいでいたいものだ。

私は心から悟っている、――心の取り締まりは決して、私が現在果たさねばならぬ身分上の義務をりっぱに遂行するのに、私の霊魂の諸能力から、その自由を奪ってしまうものでない、ということを。それどころか、イエズスという愛のふんい気に、私の霊魂は絶えずひたっている関係上、精神はいっそう伸び伸びと自由になり、かくて私の生活は以前よりいっそう晴々しく、愉快になる。いっそう生気にみなぎり、充実したものとなる。

心の取り締まりを実行しているあいだに、私はけっして傲慢の奴隷となるのではない。利己主義の奴隷、怠慢の奴隷となるのでもない。わるい欲情と空虚な外来の印象の重圧下に、呻吟するのでもない。それどころか、かえって私は、いっさいの束縛から解き放たれて、ますます自由になっていく自分自身を見いだすばかりである。

そして、ああ、天主よ、この完成され理想化された自由を使って、私はあなたに、自分があなたに絶対に従属している、という事実を証明し、これをたぐいない礼拝のみつぎとしておささげすることができるのです。

このようにして、私は“まことの謙遜”の徳に、ますます強く固定されていくでしょう。この謙遜の徳に基づかないなら、内的生活はすべて空虚なもの、うわべばかりのものになってしまいます。かくて、私は心のなかに、あなたへの絶対従属の基本精神を、発展させることができます。この精神――この“天主への絶対従属”――こそは、われらの主イエズス・キリストのご生活の精髄にほかなりません。

ああ、イエズスよ、あなたの聖心の愛の炎に――天父のみ心をお喜ばせしようと、いつも気を配り、いつもそのことに忠実でいらしたあなたの聖心の愛の炎に、私も投げ込んでもらいたいものです。そう致しましたら、天国で、あなたのご光栄にもあずかることができましょう。謙遜と愛によって、あなたのご人性が天父にたいしてなされた、感嘆すべき絶対従属の報いとして、いま天国で享受されているそのご光栄にも! 「キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。…それゆえに、天主はかれを最高に引き上げて…」(フィリッピ2・9)。

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