アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham, O.F.M. Cap., Hl. Bruder Konrad von Parzham)についてご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ドイツのバイエルン州の最も豊饒な土地の一つであるロット川(Fluss Rott)の谷間の一村に、極く質朴な村民が住んでいた。彼らの目附きはすっきりと澄んで、心は如何にも素直で飾気なく、新奇な物にはすぐに心を引かれると云う様な特徴をもっていた。祖先の遺風はどこまでも尊重し、昔から伝えらえて来た伝説や旧慣(ふるいならわし)等を、他ではめったに見られない程の忠実さを以て守り通していた。又その上、彼等村民の心には、真(まこと)の信仰が根ざしていたので、カトリック教会の熱心な信者として如何なる場合にも彼等の熱烈な信仰を表している。
この村民の一人が私共の物語の主人公なる聖修士で、彼は1818年パルツハム(Parzham)の小さな村の「ヴェヌスホフ Venus-Hof」と呼ばれる農場の地主であったビルンドルフェル(Bartholomäus Birndorfer)の十二人の子供の十一番目の息子であった。洗礼のとき、ヨハネ(Johann)と命名された。小さいヨハネが生い立って行ったこの家庭には、キリスト教的精神がただよっていた。朝夕は家中そろって祈を為し、主日祝日を祝い貴(たうと)び、その他聖(とうと)い秘蹟に度々与っては幼子の心も日々養われて行ったのであった。毎年、大天使聖ミカエルの祝日から御復活祭までは、家族そろって毎晩、ロザリオを誦えるのであった。家には六人の下男がいたが、皆子供達と同じ様にかわいがられた。家の中には常に秩序と整頓がある様に努め、一人も不真面目な者がいるような事を許さなかった。斯様にしてヴェヌスホフの土地は、経済的に宗教的に困難な問題が国家に襲いかかっていたその時代に、安全な要塞となり、そこには他の多くの地方のように、信心、労役、質素、純なるドイツ魂とキリスト教的家庭の精神等、美しい雰囲気が漲っていた。
金髪の青い目の小さなヨハネは、至って信心深い、静かな子供であった。余り無邪気なので、皆は彼を「小さな天使」と呼んでいた。(„Der Birndorfer Hansl ist ein Engel“, sagten die Leute.) 毎日どんなにひどい雨でも、大風でも、家から可成遠いヴェンク(Weng)と云う村まで、御ミサに与りに行った。又彼は幼い頃から聖母マリアに孝愛の情を表していた。ロザリオの祈りは彼を日々天の聖母に親しく一致させた。学校へ行く道には彼の小さな手の中に自分の宝の如くロザリオをかくして、騒がしい友達等から離れて、一人静かに誦えるのであった。もっと後になって、彼が立派な青年になってからも、農場で仲間の者が皆一緒に集まって仕事の疲れを休め、互いによろこび興ずる休憩時間に、誰にも気づかれずに静かに、ロザリオの宝石(たま)が我等のヨハネの豆の出来た手から滑り落ちて行ったのであった。
青年ヨハネはバイエルンの有名な巡礼地アルテッティング(Altötting)へ屡々参詣した。彼は家で祈るよりは此の聖所で天の聖母(みはは)に祈る方が聖母(せいぼ)にもっと近く在る様に感じ、従って聖母からお恵みを受けるにもっと有効だと考えた。そしてこの天の元后への彼の心の捧げを外部の目に見える奉献によって尚一層確証する為にとて、彼は1843年、アルテッティングの聖母会に自らの名を記名して、聖母の子供となった。
青年ヨハネの厳格な苦業の生活は遊んだり煙草をふかしたり御酒を飲んだりして主日や祝日を過ごしていた同年輩の仲間の青年たちの生活に合わなかった、日増しに彼等の反感を招く様になった。最も軽率浮薄な者等は口をそろえて彼の信心を嘲り、彼の家の下男等が前にいるのもかまわず、皮肉な戯談(たわむれごと)を彼に吹きかけたりした。然しいくら何と云われても、彼は平静を保っていて、誰も彼をその目的からそらす事が出来なかったので、間もなく嘲弄も止み、遂にはこの労働と祈祷と苦業と慈善とがよく結合されている徳高い百姓の青年の生活に感心し、褒めそやす程までに至った。
1840年から41年まで、彼はイン川(Fluss Inn)の流れるアイゲン市(Aigen)の巡礼所に居た。ドウリンゲール霊父を指導者と仰いで、毎週か一週間おきに、彼の元へ告解をするため又良き勧めを受けるため、五時間もかかる道程をも厭わず訪ねて行った。一生を修道士として天主にささげようという彼の希望(のぞみ)はその頃から起り、日増しに加わり、アルテッティングのカプチン会修院の労働修士として身を捧げるまではじっとしていられなかった。遂に望は聴き入れられて修院に入り、名もヨハネを変え、コンラードと呼ばれる事になった。
この修士は世間にいる時から既に修道生活を営んでいたようなものである。今までの彼の沈黙と大斎、小斎、祈祷(いのり)、及びその他の己に対する如何にも厳格な鍛錬生活によって、世の総べての罪の危険に在りながら、洗礼の時の清浄無垢を保つ事が出来ているのであるから、修道生活の厳しさにも容易く慣れた。然し、たった一つまだ専心修養を積まなければならない点があった。それは己れの遺志の放棄であった。今までは自分の思うままに何でも行っていたが、これらは聖書の「他の者汝に帯して、好まざる所に導かん」との言葉が実現されなければならなかった。
相当の年輩になってから修院に入り、しかも世間にいる時から既に徳にすぐれた信心深い生活を送っていた者には、普通有りがちの事であるが、新しい生活に入っても、今までやってきた信心業や、他にも何か妙な癖をもっていて、それを取除くのはなかなか骨の折れるものである。彼にもこの事が烈しい心の戦の機会を与え、多くの償いとはずかしめとを齎(もたら)す原因となったとはいえ、彼の仲間の修士等は皆、彼は修練期間にも非常に熱心であったと云っている。
三年の試練機関に長上者(めうえたち)はコンラード修士の精神と彼の自然的傾向とを充分に調べた。
既に彼は34才にもなっているのであるから、世間ならば立派な一人前の男とみなされるはずであるが、然し修院では、未だ何と云っても初心者、見習の取扱しか受けられなかった。その上、彼が誓願を立てて後、修院長が彼をアルテッティングの聖アンナ修院の門番の役を命じたので、尚お妙に思う者もあった。
此の役目は毎日あらゆる階級の人と交渉を持たなければならない。なぜかというと、この有名な修道院の玄関には、ひっきりなしに沢山の人達が押し寄せて来るのであったから。その中には、巡礼者も、乞食も、貴族も、平民も、老若男女、貧富貴賤を問わず我も我もと玄関へおしかけるのであった。この様な総べての人達にコンラード修士は対応しなければならないのであるが、それには、非常に賢明な分別と手腕(うで)とが必要で、のみならず多大の犠牲心をも有合(もちあわ)せなければならなかった。可愛相に、31年ものあいだ、静かな片田舎のパルツハム村に住んで、人々との交際を常に避けて、修道院の隠れた孤独に憧れていたこの気の小さい農夫のコンラードは、生憎と彼の性質に全く反対な仕事、騒がしい商売の様な事務の真中に置かれたのであった。偉大な事を為さしめんが為に屡々弱い者を選び給う天主は、斯くお計らい給うたのである。コンラード修士は、これからはこの修院と世間との間の用務に携わらなければならないのであった。この仕務(つとめ)こそは、彼自身にとっては非常に辛いものであったが、世の人の為には多くの祝福を齎すものであったのである。彼は天主と隣人とへの愛の使徒たるべき者であった。彼の姿を見ただけで人々は尊敬の念を起し、罪人は改心し、貧乏人は慰め助けられ、不幸な者には希望を呼び起さしたのであった。かくして彼は沈黙の説教家となったのである。
初めアルテッティング修院の玄関番の役にあてられると云う通知を受けた時、彼は一時は強い恐怖感に襲われた。然し長上(めうえ)の命令に対して忠実に、少しも躊躇うことなく、この新しい務めに立ち向かった。この恐怖感なるものは彼が新参の玄関番として是から打ち克って行かなければならぬ総べての困難に対する予感であったと推察されるのであるが、その困難と云うのも、務めそれ自体に対するそれではなく,寧ろ長上(めうえ)や修院の他の修士達から生ずるものであった。
彼のこの務めは隣人への奉仕に於いて己れを全く犠牲にする事であって、最大の努力を要するものであった。修院を訪れる多数の訪問者を丁寧に迎えたり、商人等に対する勘定の支払、通帳の控え、又は多くのミサ謝礼を記載したり、後援者から寄付を受けたり、告解や霊的相談をしたいと願う人の為に各々(めいめい)の望に応じて霊父を呼びに行ったり、或は貧乏人にパンを与えたり、種々様々の用事が彼を求めていた。彼は此のために間断なく修院内を往き来した。こうした終日の烈しい労働にぐたぐたに疲れるのであったが、それでもいつも喜んで聖修士は自分の尊い役目を完全に果たしていた。
七時の夕食の後、コンラード修士は聖アレキシウスの部屋に黙想しに行くことになっていたのであるが、この間こそ彼の真の慰安(なぐさめ)の時で、此の避難所で彼はゆっくりと愛する聖主のお側で身心を休めることが出来た。然しその時でさえ玄関の呼鈴はおかまいなく鳴る事があるが、それでも彼は忠実に急ぎ馳せつけるのであった。然し冬期は八時に、夏期は九時に、修院と聖堂の門が閉じられるので、それからは一日の疲れの後に思う存分祈祷(いのり)に耽る事が出来た。この時は最早誰も彼の祈を邪魔する者がないので、彼は聖なる黙想を充分に満足するまで長く続けていた。夜中に修士等が朝課(ちょうか)を誦える為に起きる頃には、こんにちは!ちゃんと先に聖堂に行っていた。彼は非常な疲労の為に鐘が聞こえないことがあり得るのを恐れて、当番の者に皆よりニ三分前に彼を起してくれる様にと頼んであった。然し大抵の時は当番が起しに来る前に目ざめていて、その親切に対して「有りがとう」といつもやさしく返礼した。そして夜明けの三時半には又もう起床しているのであった。というのは聖堂係りの修士が少し体が弱かったので、これに代って教会の入口を開ける為で、後引続き自分の玄関番の務めにかかるのであった。
斯うして役目を果たしながら短気も起さず、常に忍耐心を保つことは彼にとって決して容易な事ではなかった。
殊に乞食の群にとり囲まれたり、子供達がパンをもらいにやって来たり、果ては聖堂巡礼者等が到着して、どっと押寄せる時など真(まこと)に以て困難な時であった。一人はミサを頼みたいと云う、一人の巡礼は蝋燭とロザリオとメダイを祝福してもらいたい、三人目のは某(それがし)霊父に面会を申し込む等、銘々がそれぞれ異(ちが)った事を云うのである。
それを彼は一々皆を満足させなければならないのである。しかし勤勉な玄関番はそれを自分のつくすべき義務と考え、あくまでも忠実につとめた。仲間の修士ギルベルトは彼と一緒に同じ務めに当っていたが、次の様に彼について語っている。
「年々歳々幾千もの人が修院の玄関へ押掛けて来るのであるが、有(あ)らゆる種類の人がいて、中には無作法や横着な貧乏人等もいて、乱暴な振舞いを彼に見せる事もあったが、私は長年の間に一度でも彼が怒ったり興奮したりするのを見た事がなかった」と。
手仕事を途中で何度遮(さえぎ)られても彼はいやな顔一つ見せず、忍耐強く人の云う事を聞いてやり、親切な優しい調子で対応し、落ちついて仕事を続けた。これは己れを制し、天主をその中(うち)に有(も)っている魂の徴(しるし)である。此の様な人はめったにいるものではない。彼の此の従容(しょうよう)乱されざる如何にも温和な物腰が世人に大きな感銘を与えるのであった。人々が「あなたのところの玄関番は聖人ですね。どんな事があってもいつも落ちついていますよ。そしてけっしていらいらした様子を見せませんよ」と幾度口にしていた事であろう。
コンラード修士は貧しい者に対しては真(まこと)の父の様であった。心からの喜びを以て、聖なる服従の誓願に背かない範囲で出来るものは之を皆彼等に分配していた。彼は非常に言葉数の少ない人で、彼を列福する為の調査中にも、一人の証人は彼についてこう云っている。
「毎日一緒に働いていた間、用事で二人は話をしなければならないのであったがそれでも百度も話したかどうか疑われる程無口な人であった。天主の僕コンラードは、一見して近寄れぬ一種の威厳の如き性質(もの)を有(も)っていた。が、それにも拘らず私には少しも厭な感じを与えなかった。今から考えてみるとそれは彼の一つの大きな徳の宝の様に思われる。この性格は世間の人達との交際、特に女性との応対に於いて大いに助けとなったにちがいない。」
此の聖修士を知っている人達はいずれも、彼の深い沈黙について語り、愛徳に背くようなことを口にするようなことは、決してなかったと云っている。
聖コンラードの生涯は毎日々々が同じ様な平凡な日の連続であった。祈祷と労働、来る日も来る日も、肩の上に同じ重荷を負うて暮らせば、大抵の人は気が弛み、緊張を欠き、果ては怠惰に流れ、不機嫌にもなり勝ちなものである。しかるに此の聖なる修士は41年間というもの、彼の任務(つとめ)の重みを終始一貫些(いささ)かも変るところなく一つの愚痴さえこぼさず、他に何の野心を抱くこともなく、周囲の者が皆驚嘆する程の喜悦(よろこび)をもって此の務めを果たしたのであった。鐵の如き忍耐力と不平を云わずに己を棄てること、―之こそは人間の強い意志の二つの大きな特徴なのである。
聖コンラードに於いても同じで、最(いと)も高き御者に対する完全な奉献によって、彼の愛を証拠だてる堅固な意志は、彼に、最後の一息までも、断固たる決心と不動性とを与えたのであった。実に彼は一生を天主への全き奉仕に委ねてしまっていた。そして只天主の中に天主の為のみに生きていた。このことの故に、いと高き所より、恰(あたか)も電流が機械を動かす如く、力強い惠(めぐみ)の扶助(たすけ)が彼を動かしていたのであった。
「独逸バルツハムの聖コンラード修士」より
アルテッティンの聖母よ、われらのために祈り給え!
聖コンラードよ、われらのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドイツ パルツハムの聖コンラード修士(St. Conrad of Parzham, O.F.M. Cap., Hl. Bruder Konrad von Parzham)についてご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ドイツのバイエルン州の最も豊饒な土地の一つであるロット川(Fluss Rott)の谷間の一村に、極く質朴な村民が住んでいた。彼らの目附きはすっきりと澄んで、心は如何にも素直で飾気なく、新奇な物にはすぐに心を引かれると云う様な特徴をもっていた。祖先の遺風はどこまでも尊重し、昔から伝えらえて来た伝説や旧慣(ふるいならわし)等を、他ではめったに見られない程の忠実さを以て守り通していた。又その上、彼等村民の心には、真(まこと)の信仰が根ざしていたので、カトリック教会の熱心な信者として如何なる場合にも彼等の熱烈な信仰を表している。
この村民の一人が私共の物語の主人公なる聖修士で、彼は1818年パルツハム(Parzham)の小さな村の「ヴェヌスホフ Venus-Hof」と呼ばれる農場の地主であったビルンドルフェル(Bartholomäus Birndorfer)の十二人の子供の十一番目の息子であった。洗礼のとき、ヨハネ(Johann)と命名された。小さいヨハネが生い立って行ったこの家庭には、キリスト教的精神がただよっていた。朝夕は家中そろって祈を為し、主日祝日を祝い貴(たうと)び、その他聖(とうと)い秘蹟に度々与っては幼子の心も日々養われて行ったのであった。毎年、大天使聖ミカエルの祝日から御復活祭までは、家族そろって毎晩、ロザリオを誦えるのであった。家には六人の下男がいたが、皆子供達と同じ様にかわいがられた。家の中には常に秩序と整頓がある様に努め、一人も不真面目な者がいるような事を許さなかった。斯様にしてヴェヌスホフの土地は、経済的に宗教的に困難な問題が国家に襲いかかっていたその時代に、安全な要塞となり、そこには他の多くの地方のように、信心、労役、質素、純なるドイツ魂とキリスト教的家庭の精神等、美しい雰囲気が漲っていた。
金髪の青い目の小さなヨハネは、至って信心深い、静かな子供であった。余り無邪気なので、皆は彼を「小さな天使」と呼んでいた。(„Der Birndorfer Hansl ist ein Engel“, sagten die Leute.) 毎日どんなにひどい雨でも、大風でも、家から可成遠いヴェンク(Weng)と云う村まで、御ミサに与りに行った。又彼は幼い頃から聖母マリアに孝愛の情を表していた。ロザリオの祈りは彼を日々天の聖母に親しく一致させた。学校へ行く道には彼の小さな手の中に自分の宝の如くロザリオをかくして、騒がしい友達等から離れて、一人静かに誦えるのであった。もっと後になって、彼が立派な青年になってからも、農場で仲間の者が皆一緒に集まって仕事の疲れを休め、互いによろこび興ずる休憩時間に、誰にも気づかれずに静かに、ロザリオの宝石(たま)が我等のヨハネの豆の出来た手から滑り落ちて行ったのであった。
青年ヨハネはバイエルンの有名な巡礼地アルテッティング(Altötting)へ屡々参詣した。彼は家で祈るよりは此の聖所で天の聖母(みはは)に祈る方が聖母(せいぼ)にもっと近く在る様に感じ、従って聖母からお恵みを受けるにもっと有効だと考えた。そしてこの天の元后への彼の心の捧げを外部の目に見える奉献によって尚一層確証する為にとて、彼は1843年、アルテッティングの聖母会に自らの名を記名して、聖母の子供となった。
青年ヨハネの厳格な苦業の生活は遊んだり煙草をふかしたり御酒を飲んだりして主日や祝日を過ごしていた同年輩の仲間の青年たちの生活に合わなかった、日増しに彼等の反感を招く様になった。最も軽率浮薄な者等は口をそろえて彼の信心を嘲り、彼の家の下男等が前にいるのもかまわず、皮肉な戯談(たわむれごと)を彼に吹きかけたりした。然しいくら何と云われても、彼は平静を保っていて、誰も彼をその目的からそらす事が出来なかったので、間もなく嘲弄も止み、遂にはこの労働と祈祷と苦業と慈善とがよく結合されている徳高い百姓の青年の生活に感心し、褒めそやす程までに至った。
1840年から41年まで、彼はイン川(Fluss Inn)の流れるアイゲン市(Aigen)の巡礼所に居た。ドウリンゲール霊父を指導者と仰いで、毎週か一週間おきに、彼の元へ告解をするため又良き勧めを受けるため、五時間もかかる道程をも厭わず訪ねて行った。一生を修道士として天主にささげようという彼の希望(のぞみ)はその頃から起り、日増しに加わり、アルテッティングのカプチン会修院の労働修士として身を捧げるまではじっとしていられなかった。遂に望は聴き入れられて修院に入り、名もヨハネを変え、コンラードと呼ばれる事になった。
この修士は世間にいる時から既に修道生活を営んでいたようなものである。今までの彼の沈黙と大斎、小斎、祈祷(いのり)、及びその他の己に対する如何にも厳格な鍛錬生活によって、世の総べての罪の危険に在りながら、洗礼の時の清浄無垢を保つ事が出来ているのであるから、修道生活の厳しさにも容易く慣れた。然し、たった一つまだ専心修養を積まなければならない点があった。それは己れの遺志の放棄であった。今までは自分の思うままに何でも行っていたが、これらは聖書の「他の者汝に帯して、好まざる所に導かん」との言葉が実現されなければならなかった。
相当の年輩になってから修院に入り、しかも世間にいる時から既に徳にすぐれた信心深い生活を送っていた者には、普通有りがちの事であるが、新しい生活に入っても、今までやってきた信心業や、他にも何か妙な癖をもっていて、それを取除くのはなかなか骨の折れるものである。彼にもこの事が烈しい心の戦の機会を与え、多くの償いとはずかしめとを齎(もたら)す原因となったとはいえ、彼の仲間の修士等は皆、彼は修練期間にも非常に熱心であったと云っている。
三年の試練機関に長上者(めうえたち)はコンラード修士の精神と彼の自然的傾向とを充分に調べた。
既に彼は34才にもなっているのであるから、世間ならば立派な一人前の男とみなされるはずであるが、然し修院では、未だ何と云っても初心者、見習の取扱しか受けられなかった。その上、彼が誓願を立てて後、修院長が彼をアルテッティングの聖アンナ修院の門番の役を命じたので、尚お妙に思う者もあった。
此の役目は毎日あらゆる階級の人と交渉を持たなければならない。なぜかというと、この有名な修道院の玄関には、ひっきりなしに沢山の人達が押し寄せて来るのであったから。その中には、巡礼者も、乞食も、貴族も、平民も、老若男女、貧富貴賤を問わず我も我もと玄関へおしかけるのであった。この様な総べての人達にコンラード修士は対応しなければならないのであるが、それには、非常に賢明な分別と手腕(うで)とが必要で、のみならず多大の犠牲心をも有合(もちあわ)せなければならなかった。可愛相に、31年ものあいだ、静かな片田舎のパルツハム村に住んで、人々との交際を常に避けて、修道院の隠れた孤独に憧れていたこの気の小さい農夫のコンラードは、生憎と彼の性質に全く反対な仕事、騒がしい商売の様な事務の真中に置かれたのであった。偉大な事を為さしめんが為に屡々弱い者を選び給う天主は、斯くお計らい給うたのである。コンラード修士は、これからはこの修院と世間との間の用務に携わらなければならないのであった。この仕務(つとめ)こそは、彼自身にとっては非常に辛いものであったが、世の人の為には多くの祝福を齎すものであったのである。彼は天主と隣人とへの愛の使徒たるべき者であった。彼の姿を見ただけで人々は尊敬の念を起し、罪人は改心し、貧乏人は慰め助けられ、不幸な者には希望を呼び起さしたのであった。かくして彼は沈黙の説教家となったのである。
初めアルテッティング修院の玄関番の役にあてられると云う通知を受けた時、彼は一時は強い恐怖感に襲われた。然し長上(めうえ)の命令に対して忠実に、少しも躊躇うことなく、この新しい務めに立ち向かった。この恐怖感なるものは彼が新参の玄関番として是から打ち克って行かなければならぬ総べての困難に対する予感であったと推察されるのであるが、その困難と云うのも、務めそれ自体に対するそれではなく,寧ろ長上(めうえ)や修院の他の修士達から生ずるものであった。
彼のこの務めは隣人への奉仕に於いて己れを全く犠牲にする事であって、最大の努力を要するものであった。修院を訪れる多数の訪問者を丁寧に迎えたり、商人等に対する勘定の支払、通帳の控え、又は多くのミサ謝礼を記載したり、後援者から寄付を受けたり、告解や霊的相談をしたいと願う人の為に各々(めいめい)の望に応じて霊父を呼びに行ったり、或は貧乏人にパンを与えたり、種々様々の用事が彼を求めていた。彼は此のために間断なく修院内を往き来した。こうした終日の烈しい労働にぐたぐたに疲れるのであったが、それでもいつも喜んで聖修士は自分の尊い役目を完全に果たしていた。
七時の夕食の後、コンラード修士は聖アレキシウスの部屋に黙想しに行くことになっていたのであるが、この間こそ彼の真の慰安(なぐさめ)の時で、此の避難所で彼はゆっくりと愛する聖主のお側で身心を休めることが出来た。然しその時でさえ玄関の呼鈴はおかまいなく鳴る事があるが、それでも彼は忠実に急ぎ馳せつけるのであった。然し冬期は八時に、夏期は九時に、修院と聖堂の門が閉じられるので、それからは一日の疲れの後に思う存分祈祷(いのり)に耽る事が出来た。この時は最早誰も彼の祈を邪魔する者がないので、彼は聖なる黙想を充分に満足するまで長く続けていた。夜中に修士等が朝課(ちょうか)を誦える為に起きる頃には、こんにちは!ちゃんと先に聖堂に行っていた。彼は非常な疲労の為に鐘が聞こえないことがあり得るのを恐れて、当番の者に皆よりニ三分前に彼を起してくれる様にと頼んであった。然し大抵の時は当番が起しに来る前に目ざめていて、その親切に対して「有りがとう」といつもやさしく返礼した。そして夜明けの三時半には又もう起床しているのであった。というのは聖堂係りの修士が少し体が弱かったので、これに代って教会の入口を開ける為で、後引続き自分の玄関番の務めにかかるのであった。
斯うして役目を果たしながら短気も起さず、常に忍耐心を保つことは彼にとって決して容易な事ではなかった。
殊に乞食の群にとり囲まれたり、子供達がパンをもらいにやって来たり、果ては聖堂巡礼者等が到着して、どっと押寄せる時など真(まこと)に以て困難な時であった。一人はミサを頼みたいと云う、一人の巡礼は蝋燭とロザリオとメダイを祝福してもらいたい、三人目のは某(それがし)霊父に面会を申し込む等、銘々がそれぞれ異(ちが)った事を云うのである。
それを彼は一々皆を満足させなければならないのである。しかし勤勉な玄関番はそれを自分のつくすべき義務と考え、あくまでも忠実につとめた。仲間の修士ギルベルトは彼と一緒に同じ務めに当っていたが、次の様に彼について語っている。
「年々歳々幾千もの人が修院の玄関へ押掛けて来るのであるが、有(あ)らゆる種類の人がいて、中には無作法や横着な貧乏人等もいて、乱暴な振舞いを彼に見せる事もあったが、私は長年の間に一度でも彼が怒ったり興奮したりするのを見た事がなかった」と。
手仕事を途中で何度遮(さえぎ)られても彼はいやな顔一つ見せず、忍耐強く人の云う事を聞いてやり、親切な優しい調子で対応し、落ちついて仕事を続けた。これは己れを制し、天主をその中(うち)に有(も)っている魂の徴(しるし)である。此の様な人はめったにいるものではない。彼の此の従容(しょうよう)乱されざる如何にも温和な物腰が世人に大きな感銘を与えるのであった。人々が「あなたのところの玄関番は聖人ですね。どんな事があってもいつも落ちついていますよ。そしてけっしていらいらした様子を見せませんよ」と幾度口にしていた事であろう。
コンラード修士は貧しい者に対しては真(まこと)の父の様であった。心からの喜びを以て、聖なる服従の誓願に背かない範囲で出来るものは之を皆彼等に分配していた。彼は非常に言葉数の少ない人で、彼を列福する為の調査中にも、一人の証人は彼についてこう云っている。
「毎日一緒に働いていた間、用事で二人は話をしなければならないのであったがそれでも百度も話したかどうか疑われる程無口な人であった。天主の僕コンラードは、一見して近寄れぬ一種の威厳の如き性質(もの)を有(も)っていた。が、それにも拘らず私には少しも厭な感じを与えなかった。今から考えてみるとそれは彼の一つの大きな徳の宝の様に思われる。この性格は世間の人達との交際、特に女性との応対に於いて大いに助けとなったにちがいない。」
此の聖修士を知っている人達はいずれも、彼の深い沈黙について語り、愛徳に背くようなことを口にするようなことは、決してなかったと云っている。
聖コンラードの生涯は毎日々々が同じ様な平凡な日の連続であった。祈祷と労働、来る日も来る日も、肩の上に同じ重荷を負うて暮らせば、大抵の人は気が弛み、緊張を欠き、果ては怠惰に流れ、不機嫌にもなり勝ちなものである。しかるに此の聖なる修士は41年間というもの、彼の任務(つとめ)の重みを終始一貫些(いささ)かも変るところなく一つの愚痴さえこぼさず、他に何の野心を抱くこともなく、周囲の者が皆驚嘆する程の喜悦(よろこび)をもって此の務めを果たしたのであった。鐵の如き忍耐力と不平を云わずに己を棄てること、―之こそは人間の強い意志の二つの大きな特徴なのである。
聖コンラードに於いても同じで、最(いと)も高き御者に対する完全な奉献によって、彼の愛を証拠だてる堅固な意志は、彼に、最後の一息までも、断固たる決心と不動性とを与えたのであった。実に彼は一生を天主への全き奉仕に委ねてしまっていた。そして只天主の中に天主の為のみに生きていた。このことの故に、いと高き所より、恰(あたか)も電流が機械を動かす如く、力強い惠(めぐみ)の扶助(たすけ)が彼を動かしていたのであった。
「独逸バルツハムの聖コンラード修士」より
アルテッティンの聖母よ、われらのために祈り給え!
聖コンラードよ、われらのために祈り給え!