アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
7月6日は、聖マリア・テレサ・ゴレッティの祝日でした。そこで聖マリア・ゴレッティの小さな伝記をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
原文はこちらです。
St. Maria Teresa Goretti
聖マリア・テレサ・ゴレッティ
十一歳で亡くなったイタリアの貞潔の殉教者(一八九〇〜一九〇二)
マリア・ゴレッティの物語は多くの人々にとってすでになじみ深いものです。貞潔に反する重大な罪への同意を拒んだ一人の少女の物語。あまり知られていないことですが、マリアは最期の劇的な拒絶の前に、甘い言葉と脅しにも抵抗していたのでした。マリア・ゴレッティの列聖は、罪に抵抗したただ一度の戦いに基づいているのではなく、彼女の短い一生を通じて実行された英雄的徳によるものでした。マリアにとって罪を犯すよりも死ぬことは、もう一つの選択──死を避けるために罪を犯すことよりもずっとずっと自然な選択だったのです。
マリアの物語は彼女の家庭とともに始まります。家庭は彼女の英雄的選びを培った道徳の礎となる場所でした。母アスンタは読み書きを習ったことのない孤児でした。マリアの父は兵役義務を終えた後、故郷のコリナルドに戻り、アスンタと結婚して、生計を立てるため農場を始めました。この夫婦にとって、天主と聖母とお互いへの愛だけが、自分たちを養う術でした。
アスンタは正規の教育を受けるため学校には一度も行ったことがありませんでしたが、天主の愛を教会から学び、この偉大な愛を、言葉と振る舞いで家族に伝えたのでした。夫のルイジも天主への深い愛と信心を持っていました。この勇気ある夫婦は、自分たちの貧しさと生き方を辛く思うよりも、すべてを天主のご意志として受け入れ、子どもたち一人一人の誕生を天主からの贈り物として、喜んで迎えたのでした。このような愛の学びは、子どもたちに受け継がれました。長男が夭折した後、ルイジとアスンタにはもう一人男の子が生まれ、一八九〇年十月十六日、女の子が生まれました。子どもは感謝のうちに聖母とカルメルの大聖女にあやかって、マリア・テレサと名づけられました。マリアは誕生の翌日に洗礼を授けられました。これは死の危険があったからではありません。母アスンタは原罪への大変な嫌悪を持っていたので、とにかく誕生の瞬間からできるだけ早く我が子を原罪から解放してやるための時間を無駄にしたくなかったのでした。マリアとその兄も当時の習慣に従って、コリナルドで堅信を受けました。
四人の子どもが一家に加わり、元々貧しかった家庭はよりいっそう貧しくなりました。コリナルドに、一家は小さな家とわずかな土地を所有していました。ルイジはその土地を豊かにしようと努力しましたが、一家を養う糧を生み出すほどの広さはありませんでした。一家には財産はほとんどなく、聖母の小さなご絵は大切な宝物だと考えられていました。子どもたちにはおもちゃがなかったので、りんごや石が遊ぶためのボールの代わりになりました。マリアにはたった一つのお人形もありませんでした。子どもたちは貧しさのために学校に行ったことがありませんでしたが、このような生活にも関わらず、家族全員が幸せでした。食料不足が非常に深刻になって、ようやく対策を講じなければならなくなりました。
ルイジとアスンタは、イタリアのこの美しい場所にある二人の小さな家を愛していました。しかし、経済的状況をよりよくするため、二人は別の場所で小作人になることを決めました。二人には、この引っ越しが子どもたちに必要なものを与えてやれるだろうとわかっていました。「私たちは自分自身のことを思い煩うべきではないけれど、子どもたちは善い神様からの贈り物だ。あの子たちに必要なものを与えることで、私たちの感謝を示さなければならない」と、ルイジが説明したようにです。
さて、マリアはどうだったのでしょうか? マリアが六歳の時、従順であること、よく祈ること、そして天主とそのおん母を愛することを娘に教えたのは、母親の功績だと父緒は考えていました。他の六歳の子どもたちと同じようにマリアは遊んだし、野原を駆け回り、花を摘んだりしていて、にこにことよく笑う子どもでした。わずか六歳であっても、マリアには年齢を超えた理解力があったようだと、母アスンタは私たちに伝えています。マリアは従順でしたが、助けを願われるのを待っているよりも、自分からこの名誉を乞い願うのでした。遊ぶことが大好きでしたが、弟たちを面白がらせようと一緒に遊んでやり、彼らが母親に面倒をかけないようにしていました。マリアの列福のために証言した人々は、彼女がほがらかであったと口を揃えて言いました。
マリアが八歳のとき、一家はポンティノ沼地(Agro Pontino, Marais pontins, Pontine Marshes)へ引っ越しました。この土地の大部分は農地改革によって現在は改善されていますが,一家が引っ越した時には、イタリアで一番痩せた土地の一つでした。湿地帯であったため疫病が蔓延していました──特に蚊が原因でした。空気でさえ健康には良くないと言われていました。マリアの父は、仕事仲間のセレネリ氏とその十六歳の息子、アレッサンドロとともに、マッゾレーニ伯爵の小作人になりました。
フェリエーレ・ディ・コンカ(Ferriere di Conca)というところで、ゴレッティ一家とセレネリ一家は古い乳牛小屋の二階の家屋へと移り住みました。これ以前に、ゴレッティ家はこのポンティノ沼地の最悪の地域へと引っ越すことを話し合ったとき、ルイジはここの雰囲気が子どもたちに及ぼす影響について憂えていました。アスンタは、マリアはどこにいても自分たちの喜びとなってくれるでしょうと予言しました。その通り、マリアは幸せな、頼りになる子どものままでした。マリアはマリエッタと呼ばれ、優れた善い性質のおかげで、彼女を知るすべての人々から愛されました。マリアは長い明るい栗色の髪の毛の可愛らしい子でした。いつもきれい好きでこざっぱりしていましたが、うぬぼれたところは少しもありませんでした。マリアの友人や遊び友だちの多くは、宝石やレースがないときは、ばらの花で髪の毛を飾っていました。ポンティノ沼地でルイジが最初に小作人となって働いた地主は、見回りの途中、髪飾りの花をつけていないこの少女に気づきました。地主は小作人の親方にマリアを紹介するように頼み、少しばかり会話を交わした後、マリアは遊び友だちのところへ戻されました。親方は地主に「マリエッタはみんなの人気者なんでさ。可愛い上に気だてもいいし、あの年の子にしちゃ頭も冴えてますよ」と説明しました。マリアの美しさを引き立てるためには、ばらの花など必要ないのだと地主にはわかりました。
マリアが九歳になる頃には、一家の雑用を引き受けることになりました。彼女はいつも親切に時間を割いて使い走りをこなし、自分を必要としている家へとできるだけ早く戻るのでした。町中でのちょっとした立ち話のときでさえ、行商人たちは、家事をするために送られるこの子が、特別なものを持った少女だと感じ取っていました。彼らはたいていマリアにささやかな贈り物をしました。マリアが心から感謝してくれるからでした。ある日、マリアは食料品店で少しばかり買い物をしました。店の主人のジョバンニは「ほら、お嬢ちゃん、あんたのためにおいしいりんごを取っておいたよ」と言いました。マリアは大喜びで彼に感謝すると、りんごを買い物袋に滑り込ませました。ジョバンニは驚いて、りんごをどうするつもりなのかと尋ねました。マリアは元気よく、弟のアレッサンドリーノにあげるのだと答えました。りんごは弟の好物だったからです。これを聞くと、ジョバンニはシュガー・クッキーをマリアにあげました。マリアはもう一度彼に心からお礼を述べましたが、クッキーを食べようとはしませんでした。ジョバンニは「マリエッタ、そのクッキーをどうするつもりなんだい?」と聞きました。マリアはひどく申し訳なさそうに、家にいる妹のエルシリアに持って行くつもりだと説明しました。彼女は自分たち一家にとてもよくしてくれた店の主人に感謝して、帰ろうとしました。けれどもジョバンニはマリアのために何かをしてやらねばと決意し、マリアが自分のささやかな贈り物を受け取ってくれないなら、とても辛いよと告げました。彼はクッキーをもう一つマリアに手渡し、これはマリアのためのクッキーだからと言いました。ジョバンニをがっかりさせたくないので、マリアはその場でクッキーを食べ、もう一度彼にお礼を述べました。
マリアの人並み優れた資質──親切、ほがらかさ、従順、そして人なつこさ──のために、この地域の多くの人々は、彼女に注目していろいろと噂をするのでした。マリアはこの噂にはまったく気づいていませんでしたが、母親の耳には入りました。母親は「あの子は自分のやるべきことをやっているだけですよ」と答えるのが常でした。でも、時が経つにつれ、マリアは本当に特別な子どもだと母は感じたのでした。マリアの死後、何年も経ってから、アスンタは、マリアが自分から機嫌を悪くしたり、背いたりしたことをまったく思い出せないと述べるでしょう。ゴレッティ家は経済的にはうまくいったように見えました。セレネリ家と協力して働いた時ですらそうでした。過労のために疲労困憊したルイジは、湿地帯でおなじみの多発していた病──チフス、マラリア、髄膜炎、肺炎にかかりました。彼が死ぬまでの十日間、アスンタは夫の病床に付き添いました。十歳のマリアがすべての料理を作り、雑務をこなし、弟や妹たちをなだめるのでした。マリアもまた絶えず祈っていました。マリアは手首にロザリオを巻きつけておき、すぐ手元にロザリオがあることで、空いた時間に祈ることができるようにしました。一九〇〇年五月、ルイジは死の前に、子どもたちを連れてコリナルドに帰るようアスンタに懇願しました。
ルイジの死によってアスンタは、畑で男がする肉体労働を引き受けなければならなくなりました。アスンタは、この土地から引っ越すことは無理だと感じていたので、一家はポンティノ沼地に住み続けました。マリアはゴレッティ家と、そしてセレネリ家のために必要な家事をしながら「母の務め」の立場を引き受けました。マリアは料理が得意ではありませんでしたが、料理がまずいと責められると、アスンタのように料理ができないことを、ただ詫びました。不幸なことに、一家はさらに悲惨な貧しさへと落ち込んでいきました。原因の大部分はセレネリ氏の吝嗇にありました。彼はある時、自分の食事のとき以外に子どもたちが食べられないよう、食器棚に鍵をかけておきました。アスンタはこの問題を解決するために地主に頼る他はなく、この行動は、セレネリ氏の目にアスンタが反抗していると映り、もう一つの争いの原因となったのでした。
マリアが当時、自分の義務だと心得ていたことの一つは、彼女が教えられたように弟妹たちを教えることでした。マリアは祈りを教え、物語を聞かせてやりました。正式な教育を受けたことはないにも関わらず、マリアはいつも教会から帰ると、教わった聖書の物語をほとんど一字一句間違いなく繰り返すのでした。この当時の一家を知っていた人々の証言によると、マリアが父親の死後、すべての責任を受け入れ、効率よくだけでなく、喜びとほがらかさをもって実行していたという事実が残されています。マリアは疲れた様子をまったく見せませんでした。マリアが遊んでいる時は、自分が楽しむためではなく弟や妹たちを喜ばせるためでした。一家にスープの鍋を運んできた友だちは、マリアは最初、自分以外の全員にスープを配り、自分のためにはほんのわずかしか取っておかなかったと記憶しています。このことを不審に思われると、お母さんと兄さんは重労働をしなければならないので栄養が必要だし、弟や妹たちはまだ小さいのだから、ごちそうが与えられるべきだと言い訳するのでした。それに加え、マリアはたびたび母を慰め、元気づけ、必要なものとご保護を求めて、天主と聖母に全面的に頼るよう勧めるのでした。父の死は、マリアのうちに蓄えられた精神の強さを引き出したのです。
父を失ったことに加え、マリアが口にしていたもう一つの唯一の悲しみは、初聖体まで長く待たされたことでした。アスンタはこの秘跡に対して大いなる敬意を持っていたので、マリアが読み書きができないから、また、一家にはお金がないのでドレスを用意してやれないからだと説明しました。アスンタはマリアが待たなければならないのを心配しました。マリアの返事は「大丈夫よ、ママ、神様がお計らいくださるわ」でした。マリアはというと、自分に要理を教えてくれる人について考えていました。その人は要理の勉強のためコンカへ歩いて行く前に、家事の義務をすべて放棄することを約束しました。一九〇二年の春の間中、十一歳のマリアは聖主をいただくための準備をするにつれて、精神的に成長したように見えました。この天主の愛は、周囲の人々のために、日々の仕事を喜んで、よりいっそう積極的に果たすための意欲へと変えられていったのでした。
五月には教区の司祭がマリアをテストしてみると、マリアがご聖体を受けるための準備がよくできていることがわかりました。白いドレスとレースと真珠をマリアのためには準備できませんでした。その代わり、一九〇二年五月二十九日の朝、マリアはベッドから起き上がると近所の貧しい人がくれた贈り物で身支度しました。贈り主はそのことを名誉に思っていました。アスンタは細かい白の水玉模様のあるワインカラーのドレスを用意しました。ある友人は新しい靴を一足、もう一人はヴェール、三人目はろうそくを持ってきてくれました。さらに別の友人は生花で作ったリースを持ってきました。最後の仕上げに、アスンタは夫ルイジがくれた二つの宝物──珊瑚のネックレスと金のイヤリングを持ってきて、娘を飾り立てました。
マリアの繊細な良心は、もう一つ、最後の準備へと自分を向かわせました。家の中をあちこち回って、自分の家族とセレネリ一家に、犯したかも知れないすべてのあやまちの許しを乞いました。その後、一家全員はもう一度初聖体の儀式のためにコンカへと歩き出しました。初聖体拝領をする子たちに主席司祭が与えた言葉は「いかなる犠牲を払ってでも潔(きよ)くありなさい」でした。マリアがこの教訓をどれほどよく自分のものとしたかは、二ヶ月と経たないうちに証明されたのです。
マリアは六月中に、さらに四回の聖体拝領をしました。またこの月の間に、アレッサンドロ・セレネリは二回、マリアに言い寄りました。アレッサンドロは二回とも家の中でマリアと二人きりになろうとしました。この二十歳になろうとしていた青年に、マリアは兄弟のように接していましたが、彼は急にマリアにおべっかを言い出し、近づいて彼女に触ろうとしました。本能的に、マリアは彼が何をしようとしているのかを悟り、純潔な彼女の霊魂は嫌悪を抱きました。アレッサンドロはマリアがもし誰かにこのことを話したら殺してしまうぞと二回とも脅しました。マリアは沈黙を守りましたが、殺されるかも知れないという恐れからではありませんでした。そうではなく、アレッサンドロの悪事を暴露したら、母に心配をかけ、一家が路頭に迷うことになるかも知れなかったからです。六月の間、マリアはできるだけアレッサンドロに近づかないようにし、彼がいるときにはいつも母から離れないようにしていました。こうすることでアレッサンドロと向き合うどんな機会をもマリアは避けようとしたのです。この残酷な殺人者、マリアを強姦しようと企んでいたアレッサンドロとは、どんな人物なのでしょうか? 彼が幼少期に母親を亡くした後、荒々しく乱暴な父親に育てられたということに、精神分析医は興味を抱くかも知れません。十代の数年間を孤独のうちに過ごし、波止場で働きながら、彼はありとあるゆる悪習の中にさらされました。少しばかりの教育を受けましたが、彼の一家はゴレッティ家と変わらない貧しさの中でずっと生きてきました。アレッサンドロは無口でたいへん内気で、アスンタはのちに、アレッサンドロはいつも自分の部屋に閉じこもっていたと証言しました。彼は自室で暴力描写であふれ返った新聞を読んでいました。伝記作家の何人かは、彼がボルノを読みふけっていたと言っていますが、正確に言えば、こういった新聞は官能的というより、暴力や殺人のニュースを報道して、それを煽るような記事を書いていました。いずれにせよ,不健康な読み物でした。
一方、アレッサンドロと父親がゴレッティ家と共同生活を始めた頃、アレッサンドロは善い性質をたくさん見せていました。ミサにあずかり、ゴレッティ家とともに家族で唱えるロザリオの祈りにたびたび加わりました。畑では働き者で、時には父親の暴言に対抗して、何度となくゴレッティ一家を擁護したのです。アレッサンドロ自身の証言によると、一家で唱えるロザリオの祈りの時に、彼はマリアがどんなに美しいか初めて気づいたのでした。また、祈りの時、この少女はただ口先だけで唱えていたのではなく、心から祈っていたことにも気づいていました。
一九〇二年七月五日、土曜日の朝、ゴレッティとセレネリの一家は、家から約一三〇ヤード離れた畑で働いていました。昼食の後、セレネリ氏は階段の下で眠り込み、他の者たちは畑に戻りました。マリアは踊り場に腰を下ろして、縫い物をしながら眠っている赤ん坊の妹の子守りをしていました。ゴレッティ家の他の子どもたちは、ギイギイと音を立てる脱穀機に母親と一緒に乗っていました。アレッサンドロはアスンタと一緒にいた先頭の牛たちの後ろに移動し、家へ戻りました。彼はマリアを無視して自室へ行き、ハンカチを持ってもう一度マリアの前を通り過ぎ、階下の貯蔵庫へと入って行きました。後になってわかったことですが、彼は九インチ半の長さの先の尖った鋭いナイフを所持していたということでした。彼はふたたび家へ戻り、マリアに自分のところに来るよう呼びました。
マリアが理由を聞き返すと、アレッサンドロは自分の要求を繰り返しました。マリアはなぜなのか理由を言わない限り行くつもりはないと伝えました。アレッサンドロは踊り場へ出て来ると彼女を家の中へと引きずり込みました。マリアのあげた悲鳴は、照りつける太陽のもとでぐるぐる回り続ける脱穀機の立てる大きな音にかき消されました。アレッサンドロによると、マリアの言葉は「だめ、絶対にだめです! 何をするつもり? 私に触らないで! それは罪です──あなたは地獄へ行くわ!」でした。マリアは自分の身を守ろうとの本能的な戦い以上に、アレッサンドロを地獄に落とす罪の機会について考えていたのです。彼女は全力で抵抗しましたが、 頑健な若い男に長時間の抵抗は無理でした。アレッサンドロはマリアの口にハンカチを押し込んで猿ぐつわの代わりにしましたが、自分よりも強力な意志に直面して彼女に触れることはできませんでした。
この時点でアレッサンドロはナイフを取り出し、マリアを刺し始めたのでした。刺し傷がいくつあったのか、報告はまちまちですが、病院では十四カ所の大きな刺し傷を治療しました。脱穀機の音のせいで、畑にいた人々はマリアの助けを求める悲鳴が聞こえませんでした。踊り場にいた赤ん坊が物音に目を覚まし、泣き出しました。赤ん坊の泣き声は階段の下にいたアレッサンドロの父親を起こし、そちらのほうをちらりと見たアスンタは赤ん坊のそばに誰もおらず、踊り場から落ちる危険に気づきました。セレネリ氏とアスンタは家の方へ走って行き、そこで二人はドアに向かって這い寄ろうとしていたマリアを発見したのでした。何があったのかと聞かれ、マリアはアレッサンドロに刺されたのだとはっきり答えました。「彼は私に悪いことをさせようとしたの。私は拒みました」
その地方の医者が到着し、マリアの傷を包帯で縛った時、マリアは苦痛のせいで悲鳴も出ませんでした。ですが、時間が経つにつれ「おお、アレッサンドロ、なんてかわいそうな人! あなたは地獄へ行くわ!」と言いました。救急車が到着するまでには人だかりができていました。何人かが自室に閉じこもっていたアレッサンドロを引きずり出し、警察が彼を連行しなかったら暴行を受けていたかも知れませんでした。多くの人々は救急車の後を追い、徒歩で病院までついて行きました。病院に着くまでの間、死ぬ前の二十時間の激しい苦痛に苛まれた時をマリアは過ごしました。マリアは長い間意識がありました。一言も文句を言わず、痛みで呻き声をあげることもありませんでした。マリアは水を飲ませて欲しいと二回頼みましたが(傷が内蔵にまで達していて、水を飲むともっと傷が酷くなるからと拒まれました)、不満を言わずにこの慰めを放棄しました。また夜の間、母親がそばについているという慰めも同じく放棄しました。面会人は病院には泊まれないという病院の規則があり、アスンタは仕方なく救急車の後部座席で眠りました。
マリアが病院に着いてまもなく司祭が呼ばれました、医者たちは手術しましたが、三人の医者にはもう手の施しようがありませんでした。司祭が到着すると、Bartoli医師は「神父様、できることは限られています。私たちは死の淵にいる少女を残して行きますが、あなたは天使を見つけるでしょう」と言い切りました。
マリアの初聖体の時にご聖体を与えたのと同じ司祭が、最後のご聖体を運んできました。臨終の聖体拝領の前に、司祭は殺人者を心から許すかどうかマリアに尋ねました。マリアはなんのためらいもなく「はい、イエズス様への愛のために、私も彼を許します……天国で私と一緒に天国にいてもらいたいのです……私が彼を許したのですから、神様も彼を許してくださいますように」マリアは午後三時を過ぎてすぐに亡くなりました。
アレッサンドロの裁判は一九〇二年十月十六日、マリアの誕生日に開始されました。アレッサンドロは精神異常であったという口実で弁護されたものの、有罪判決を受けました。未成年だったので禁固三十年の判決でした。シシリア島に送られ、そこで八年間は自分の犯した罪に対してまったく反省や後悔のしるしを見せませんでした。ですが、魂が死んだままの数年間を生きてきたある夜、アレッサンドロは夢を見ました。彼は花畑にいるマリアを見ました。マリアは腕に抱えた白いゆりの花を何本か彼に差し出しました。この夢から数日のうちに、教区の司教がアレッサンドロに会見したいと要求し、それは叶えられました。一九一〇年十一月十日、アレッサンドロは司教に手紙を書き、自分が犯した恐ろしい罪の許しを乞いました。
アスンタは、夫ルイジの最後の望みに従って、子どもたちを連れてコリナルドに帰りました。そこで彼女は一家を養いました。教区司祭の賄い婦としての職を得て、何十年も働きました。マリアの英雄的な生涯と死は忘れ去られませんでした。ご受難会の司祭たちは、マリアの亡骸を恩寵の聖母教会へと移す許可をアスンタに願いました。この願いは一九二九年に果たされました。聖ピオ十世はすでにマリアを、まことの献身の模範、そして若者たちに勇気を与える存在として掲げていました。この同じ年に、アレッサンドロはマリアの列福調査のために証言するよう求められていました。彼はこのときまでには釈放されており、労働者として静かな生活を送っていました。アレッサンドロはあらゆる非難を受ける覚悟で、進んで証言をし、マリアは襲われた時でさえ彼の霊魂の救いを考えていたこと、回心へと導いた夢の話を繰り返しました。一九三七年のクリスマス・イブ、アレッサンドロは司祭館で働くアスンタ自身の口から、確かな許しの言葉を聞くために、彼女を訪ねました。彼は涙を流してアスンタの許しを乞いました。マリアがあんなにも熱心に彼を許したならば、それを拒んだりはできないとアスンタは答えました。アスンタとアレッサンドロは、マリア・ゴレッティに捧げられた教会で、深夜のクリスマスのミサに一緒にあずかりました。
一九四七年、教皇ピオ十二世はマリアを列福しました。彼女の死は殉教であるからとして、列福のためには奇跡は必要なかったのですが、その後、マリアの助けを求める人々の声が上がりだし、彼女の取り次ぎによって大変多くの願いが聞き入れられ、列聖に必要な二つの奇跡が、あっという間になんの疑いもなく証明されました。一九五〇年六月二十五日、マリアの列聖式が執り行われました。列福からわずか三年後のことでした。
そのときまでにはすでに年老いていたマリアの母は、列聖式に出席しました。大変な人ごみだったので、儀式は聖ペトロ大聖堂を前に、外で行われなければなりませんでした。列福から列聖までの期間が最も短かった聖人の一人としてバチカンでは記録されています。
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●ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)
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愛する兄弟姉妹の皆様、
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天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
原文はこちらです。
St. Maria Teresa Goretti
聖マリア・テレサ・ゴレッティ
十一歳で亡くなったイタリアの貞潔の殉教者(一八九〇〜一九〇二)
マリア・ゴレッティの物語は多くの人々にとってすでになじみ深いものです。貞潔に反する重大な罪への同意を拒んだ一人の少女の物語。あまり知られていないことですが、マリアは最期の劇的な拒絶の前に、甘い言葉と脅しにも抵抗していたのでした。マリア・ゴレッティの列聖は、罪に抵抗したただ一度の戦いに基づいているのではなく、彼女の短い一生を通じて実行された英雄的徳によるものでした。マリアにとって罪を犯すよりも死ぬことは、もう一つの選択──死を避けるために罪を犯すことよりもずっとずっと自然な選択だったのです。
マリアの物語は彼女の家庭とともに始まります。家庭は彼女の英雄的選びを培った道徳の礎となる場所でした。母アスンタは読み書きを習ったことのない孤児でした。マリアの父は兵役義務を終えた後、故郷のコリナルドに戻り、アスンタと結婚して、生計を立てるため農場を始めました。この夫婦にとって、天主と聖母とお互いへの愛だけが、自分たちを養う術でした。
アスンタは正規の教育を受けるため学校には一度も行ったことがありませんでしたが、天主の愛を教会から学び、この偉大な愛を、言葉と振る舞いで家族に伝えたのでした。夫のルイジも天主への深い愛と信心を持っていました。この勇気ある夫婦は、自分たちの貧しさと生き方を辛く思うよりも、すべてを天主のご意志として受け入れ、子どもたち一人一人の誕生を天主からの贈り物として、喜んで迎えたのでした。このような愛の学びは、子どもたちに受け継がれました。長男が夭折した後、ルイジとアスンタにはもう一人男の子が生まれ、一八九〇年十月十六日、女の子が生まれました。子どもは感謝のうちに聖母とカルメルの大聖女にあやかって、マリア・テレサと名づけられました。マリアは誕生の翌日に洗礼を授けられました。これは死の危険があったからではありません。母アスンタは原罪への大変な嫌悪を持っていたので、とにかく誕生の瞬間からできるだけ早く我が子を原罪から解放してやるための時間を無駄にしたくなかったのでした。マリアとその兄も当時の習慣に従って、コリナルドで堅信を受けました。
四人の子どもが一家に加わり、元々貧しかった家庭はよりいっそう貧しくなりました。コリナルドに、一家は小さな家とわずかな土地を所有していました。ルイジはその土地を豊かにしようと努力しましたが、一家を養う糧を生み出すほどの広さはありませんでした。一家には財産はほとんどなく、聖母の小さなご絵は大切な宝物だと考えられていました。子どもたちにはおもちゃがなかったので、りんごや石が遊ぶためのボールの代わりになりました。マリアにはたった一つのお人形もありませんでした。子どもたちは貧しさのために学校に行ったことがありませんでしたが、このような生活にも関わらず、家族全員が幸せでした。食料不足が非常に深刻になって、ようやく対策を講じなければならなくなりました。
ルイジとアスンタは、イタリアのこの美しい場所にある二人の小さな家を愛していました。しかし、経済的状況をよりよくするため、二人は別の場所で小作人になることを決めました。二人には、この引っ越しが子どもたちに必要なものを与えてやれるだろうとわかっていました。「私たちは自分自身のことを思い煩うべきではないけれど、子どもたちは善い神様からの贈り物だ。あの子たちに必要なものを与えることで、私たちの感謝を示さなければならない」と、ルイジが説明したようにです。
さて、マリアはどうだったのでしょうか? マリアが六歳の時、従順であること、よく祈ること、そして天主とそのおん母を愛することを娘に教えたのは、母親の功績だと父緒は考えていました。他の六歳の子どもたちと同じようにマリアは遊んだし、野原を駆け回り、花を摘んだりしていて、にこにことよく笑う子どもでした。わずか六歳であっても、マリアには年齢を超えた理解力があったようだと、母アスンタは私たちに伝えています。マリアは従順でしたが、助けを願われるのを待っているよりも、自分からこの名誉を乞い願うのでした。遊ぶことが大好きでしたが、弟たちを面白がらせようと一緒に遊んでやり、彼らが母親に面倒をかけないようにしていました。マリアの列福のために証言した人々は、彼女がほがらかであったと口を揃えて言いました。
マリアが八歳のとき、一家はポンティノ沼地(Agro Pontino, Marais pontins, Pontine Marshes)へ引っ越しました。この土地の大部分は農地改革によって現在は改善されていますが,一家が引っ越した時には、イタリアで一番痩せた土地の一つでした。湿地帯であったため疫病が蔓延していました──特に蚊が原因でした。空気でさえ健康には良くないと言われていました。マリアの父は、仕事仲間のセレネリ氏とその十六歳の息子、アレッサンドロとともに、マッゾレーニ伯爵の小作人になりました。
フェリエーレ・ディ・コンカ(Ferriere di Conca)というところで、ゴレッティ一家とセレネリ一家は古い乳牛小屋の二階の家屋へと移り住みました。これ以前に、ゴレッティ家はこのポンティノ沼地の最悪の地域へと引っ越すことを話し合ったとき、ルイジはここの雰囲気が子どもたちに及ぼす影響について憂えていました。アスンタは、マリアはどこにいても自分たちの喜びとなってくれるでしょうと予言しました。その通り、マリアは幸せな、頼りになる子どものままでした。マリアはマリエッタと呼ばれ、優れた善い性質のおかげで、彼女を知るすべての人々から愛されました。マリアは長い明るい栗色の髪の毛の可愛らしい子でした。いつもきれい好きでこざっぱりしていましたが、うぬぼれたところは少しもありませんでした。マリアの友人や遊び友だちの多くは、宝石やレースがないときは、ばらの花で髪の毛を飾っていました。ポンティノ沼地でルイジが最初に小作人となって働いた地主は、見回りの途中、髪飾りの花をつけていないこの少女に気づきました。地主は小作人の親方にマリアを紹介するように頼み、少しばかり会話を交わした後、マリアは遊び友だちのところへ戻されました。親方は地主に「マリエッタはみんなの人気者なんでさ。可愛い上に気だてもいいし、あの年の子にしちゃ頭も冴えてますよ」と説明しました。マリアの美しさを引き立てるためには、ばらの花など必要ないのだと地主にはわかりました。
マリアが九歳になる頃には、一家の雑用を引き受けることになりました。彼女はいつも親切に時間を割いて使い走りをこなし、自分を必要としている家へとできるだけ早く戻るのでした。町中でのちょっとした立ち話のときでさえ、行商人たちは、家事をするために送られるこの子が、特別なものを持った少女だと感じ取っていました。彼らはたいていマリアにささやかな贈り物をしました。マリアが心から感謝してくれるからでした。ある日、マリアは食料品店で少しばかり買い物をしました。店の主人のジョバンニは「ほら、お嬢ちゃん、あんたのためにおいしいりんごを取っておいたよ」と言いました。マリアは大喜びで彼に感謝すると、りんごを買い物袋に滑り込ませました。ジョバンニは驚いて、りんごをどうするつもりなのかと尋ねました。マリアは元気よく、弟のアレッサンドリーノにあげるのだと答えました。りんごは弟の好物だったからです。これを聞くと、ジョバンニはシュガー・クッキーをマリアにあげました。マリアはもう一度彼に心からお礼を述べましたが、クッキーを食べようとはしませんでした。ジョバンニは「マリエッタ、そのクッキーをどうするつもりなんだい?」と聞きました。マリアはひどく申し訳なさそうに、家にいる妹のエルシリアに持って行くつもりだと説明しました。彼女は自分たち一家にとてもよくしてくれた店の主人に感謝して、帰ろうとしました。けれどもジョバンニはマリアのために何かをしてやらねばと決意し、マリアが自分のささやかな贈り物を受け取ってくれないなら、とても辛いよと告げました。彼はクッキーをもう一つマリアに手渡し、これはマリアのためのクッキーだからと言いました。ジョバンニをがっかりさせたくないので、マリアはその場でクッキーを食べ、もう一度彼にお礼を述べました。
マリアの人並み優れた資質──親切、ほがらかさ、従順、そして人なつこさ──のために、この地域の多くの人々は、彼女に注目していろいろと噂をするのでした。マリアはこの噂にはまったく気づいていませんでしたが、母親の耳には入りました。母親は「あの子は自分のやるべきことをやっているだけですよ」と答えるのが常でした。でも、時が経つにつれ、マリアは本当に特別な子どもだと母は感じたのでした。マリアの死後、何年も経ってから、アスンタは、マリアが自分から機嫌を悪くしたり、背いたりしたことをまったく思い出せないと述べるでしょう。ゴレッティ家は経済的にはうまくいったように見えました。セレネリ家と協力して働いた時ですらそうでした。過労のために疲労困憊したルイジは、湿地帯でおなじみの多発していた病──チフス、マラリア、髄膜炎、肺炎にかかりました。彼が死ぬまでの十日間、アスンタは夫の病床に付き添いました。十歳のマリアがすべての料理を作り、雑務をこなし、弟や妹たちをなだめるのでした。マリアもまた絶えず祈っていました。マリアは手首にロザリオを巻きつけておき、すぐ手元にロザリオがあることで、空いた時間に祈ることができるようにしました。一九〇〇年五月、ルイジは死の前に、子どもたちを連れてコリナルドに帰るようアスンタに懇願しました。
ルイジの死によってアスンタは、畑で男がする肉体労働を引き受けなければならなくなりました。アスンタは、この土地から引っ越すことは無理だと感じていたので、一家はポンティノ沼地に住み続けました。マリアはゴレッティ家と、そしてセレネリ家のために必要な家事をしながら「母の務め」の立場を引き受けました。マリアは料理が得意ではありませんでしたが、料理がまずいと責められると、アスンタのように料理ができないことを、ただ詫びました。不幸なことに、一家はさらに悲惨な貧しさへと落ち込んでいきました。原因の大部分はセレネリ氏の吝嗇にありました。彼はある時、自分の食事のとき以外に子どもたちが食べられないよう、食器棚に鍵をかけておきました。アスンタはこの問題を解決するために地主に頼る他はなく、この行動は、セレネリ氏の目にアスンタが反抗していると映り、もう一つの争いの原因となったのでした。
マリアが当時、自分の義務だと心得ていたことの一つは、彼女が教えられたように弟妹たちを教えることでした。マリアは祈りを教え、物語を聞かせてやりました。正式な教育を受けたことはないにも関わらず、マリアはいつも教会から帰ると、教わった聖書の物語をほとんど一字一句間違いなく繰り返すのでした。この当時の一家を知っていた人々の証言によると、マリアが父親の死後、すべての責任を受け入れ、効率よくだけでなく、喜びとほがらかさをもって実行していたという事実が残されています。マリアは疲れた様子をまったく見せませんでした。マリアが遊んでいる時は、自分が楽しむためではなく弟や妹たちを喜ばせるためでした。一家にスープの鍋を運んできた友だちは、マリアは最初、自分以外の全員にスープを配り、自分のためにはほんのわずかしか取っておかなかったと記憶しています。このことを不審に思われると、お母さんと兄さんは重労働をしなければならないので栄養が必要だし、弟や妹たちはまだ小さいのだから、ごちそうが与えられるべきだと言い訳するのでした。それに加え、マリアはたびたび母を慰め、元気づけ、必要なものとご保護を求めて、天主と聖母に全面的に頼るよう勧めるのでした。父の死は、マリアのうちに蓄えられた精神の強さを引き出したのです。
父を失ったことに加え、マリアが口にしていたもう一つの唯一の悲しみは、初聖体まで長く待たされたことでした。アスンタはこの秘跡に対して大いなる敬意を持っていたので、マリアが読み書きができないから、また、一家にはお金がないのでドレスを用意してやれないからだと説明しました。アスンタはマリアが待たなければならないのを心配しました。マリアの返事は「大丈夫よ、ママ、神様がお計らいくださるわ」でした。マリアはというと、自分に要理を教えてくれる人について考えていました。その人は要理の勉強のためコンカへ歩いて行く前に、家事の義務をすべて放棄することを約束しました。一九〇二年の春の間中、十一歳のマリアは聖主をいただくための準備をするにつれて、精神的に成長したように見えました。この天主の愛は、周囲の人々のために、日々の仕事を喜んで、よりいっそう積極的に果たすための意欲へと変えられていったのでした。
五月には教区の司祭がマリアをテストしてみると、マリアがご聖体を受けるための準備がよくできていることがわかりました。白いドレスとレースと真珠をマリアのためには準備できませんでした。その代わり、一九〇二年五月二十九日の朝、マリアはベッドから起き上がると近所の貧しい人がくれた贈り物で身支度しました。贈り主はそのことを名誉に思っていました。アスンタは細かい白の水玉模様のあるワインカラーのドレスを用意しました。ある友人は新しい靴を一足、もう一人はヴェール、三人目はろうそくを持ってきてくれました。さらに別の友人は生花で作ったリースを持ってきました。最後の仕上げに、アスンタは夫ルイジがくれた二つの宝物──珊瑚のネックレスと金のイヤリングを持ってきて、娘を飾り立てました。
マリアの繊細な良心は、もう一つ、最後の準備へと自分を向かわせました。家の中をあちこち回って、自分の家族とセレネリ一家に、犯したかも知れないすべてのあやまちの許しを乞いました。その後、一家全員はもう一度初聖体の儀式のためにコンカへと歩き出しました。初聖体拝領をする子たちに主席司祭が与えた言葉は「いかなる犠牲を払ってでも潔(きよ)くありなさい」でした。マリアがこの教訓をどれほどよく自分のものとしたかは、二ヶ月と経たないうちに証明されたのです。
マリアは六月中に、さらに四回の聖体拝領をしました。またこの月の間に、アレッサンドロ・セレネリは二回、マリアに言い寄りました。アレッサンドロは二回とも家の中でマリアと二人きりになろうとしました。この二十歳になろうとしていた青年に、マリアは兄弟のように接していましたが、彼は急にマリアにおべっかを言い出し、近づいて彼女に触ろうとしました。本能的に、マリアは彼が何をしようとしているのかを悟り、純潔な彼女の霊魂は嫌悪を抱きました。アレッサンドロはマリアがもし誰かにこのことを話したら殺してしまうぞと二回とも脅しました。マリアは沈黙を守りましたが、殺されるかも知れないという恐れからではありませんでした。そうではなく、アレッサンドロの悪事を暴露したら、母に心配をかけ、一家が路頭に迷うことになるかも知れなかったからです。六月の間、マリアはできるだけアレッサンドロに近づかないようにし、彼がいるときにはいつも母から離れないようにしていました。こうすることでアレッサンドロと向き合うどんな機会をもマリアは避けようとしたのです。この残酷な殺人者、マリアを強姦しようと企んでいたアレッサンドロとは、どんな人物なのでしょうか? 彼が幼少期に母親を亡くした後、荒々しく乱暴な父親に育てられたということに、精神分析医は興味を抱くかも知れません。十代の数年間を孤独のうちに過ごし、波止場で働きながら、彼はありとあるゆる悪習の中にさらされました。少しばかりの教育を受けましたが、彼の一家はゴレッティ家と変わらない貧しさの中でずっと生きてきました。アレッサンドロは無口でたいへん内気で、アスンタはのちに、アレッサンドロはいつも自分の部屋に閉じこもっていたと証言しました。彼は自室で暴力描写であふれ返った新聞を読んでいました。伝記作家の何人かは、彼がボルノを読みふけっていたと言っていますが、正確に言えば、こういった新聞は官能的というより、暴力や殺人のニュースを報道して、それを煽るような記事を書いていました。いずれにせよ,不健康な読み物でした。
一方、アレッサンドロと父親がゴレッティ家と共同生活を始めた頃、アレッサンドロは善い性質をたくさん見せていました。ミサにあずかり、ゴレッティ家とともに家族で唱えるロザリオの祈りにたびたび加わりました。畑では働き者で、時には父親の暴言に対抗して、何度となくゴレッティ一家を擁護したのです。アレッサンドロ自身の証言によると、一家で唱えるロザリオの祈りの時に、彼はマリアがどんなに美しいか初めて気づいたのでした。また、祈りの時、この少女はただ口先だけで唱えていたのではなく、心から祈っていたことにも気づいていました。
一九〇二年七月五日、土曜日の朝、ゴレッティとセレネリの一家は、家から約一三〇ヤード離れた畑で働いていました。昼食の後、セレネリ氏は階段の下で眠り込み、他の者たちは畑に戻りました。マリアは踊り場に腰を下ろして、縫い物をしながら眠っている赤ん坊の妹の子守りをしていました。ゴレッティ家の他の子どもたちは、ギイギイと音を立てる脱穀機に母親と一緒に乗っていました。アレッサンドロはアスンタと一緒にいた先頭の牛たちの後ろに移動し、家へ戻りました。彼はマリアを無視して自室へ行き、ハンカチを持ってもう一度マリアの前を通り過ぎ、階下の貯蔵庫へと入って行きました。後になってわかったことですが、彼は九インチ半の長さの先の尖った鋭いナイフを所持していたということでした。彼はふたたび家へ戻り、マリアに自分のところに来るよう呼びました。
マリアが理由を聞き返すと、アレッサンドロは自分の要求を繰り返しました。マリアはなぜなのか理由を言わない限り行くつもりはないと伝えました。アレッサンドロは踊り場へ出て来ると彼女を家の中へと引きずり込みました。マリアのあげた悲鳴は、照りつける太陽のもとでぐるぐる回り続ける脱穀機の立てる大きな音にかき消されました。アレッサンドロによると、マリアの言葉は「だめ、絶対にだめです! 何をするつもり? 私に触らないで! それは罪です──あなたは地獄へ行くわ!」でした。マリアは自分の身を守ろうとの本能的な戦い以上に、アレッサンドロを地獄に落とす罪の機会について考えていたのです。彼女は全力で抵抗しましたが、 頑健な若い男に長時間の抵抗は無理でした。アレッサンドロはマリアの口にハンカチを押し込んで猿ぐつわの代わりにしましたが、自分よりも強力な意志に直面して彼女に触れることはできませんでした。
この時点でアレッサンドロはナイフを取り出し、マリアを刺し始めたのでした。刺し傷がいくつあったのか、報告はまちまちですが、病院では十四カ所の大きな刺し傷を治療しました。脱穀機の音のせいで、畑にいた人々はマリアの助けを求める悲鳴が聞こえませんでした。踊り場にいた赤ん坊が物音に目を覚まし、泣き出しました。赤ん坊の泣き声は階段の下にいたアレッサンドロの父親を起こし、そちらのほうをちらりと見たアスンタは赤ん坊のそばに誰もおらず、踊り場から落ちる危険に気づきました。セレネリ氏とアスンタは家の方へ走って行き、そこで二人はドアに向かって這い寄ろうとしていたマリアを発見したのでした。何があったのかと聞かれ、マリアはアレッサンドロに刺されたのだとはっきり答えました。「彼は私に悪いことをさせようとしたの。私は拒みました」
その地方の医者が到着し、マリアの傷を包帯で縛った時、マリアは苦痛のせいで悲鳴も出ませんでした。ですが、時間が経つにつれ「おお、アレッサンドロ、なんてかわいそうな人! あなたは地獄へ行くわ!」と言いました。救急車が到着するまでには人だかりができていました。何人かが自室に閉じこもっていたアレッサンドロを引きずり出し、警察が彼を連行しなかったら暴行を受けていたかも知れませんでした。多くの人々は救急車の後を追い、徒歩で病院までついて行きました。病院に着くまでの間、死ぬ前の二十時間の激しい苦痛に苛まれた時をマリアは過ごしました。マリアは長い間意識がありました。一言も文句を言わず、痛みで呻き声をあげることもありませんでした。マリアは水を飲ませて欲しいと二回頼みましたが(傷が内蔵にまで達していて、水を飲むともっと傷が酷くなるからと拒まれました)、不満を言わずにこの慰めを放棄しました。また夜の間、母親がそばについているという慰めも同じく放棄しました。面会人は病院には泊まれないという病院の規則があり、アスンタは仕方なく救急車の後部座席で眠りました。
マリアが病院に着いてまもなく司祭が呼ばれました、医者たちは手術しましたが、三人の医者にはもう手の施しようがありませんでした。司祭が到着すると、Bartoli医師は「神父様、できることは限られています。私たちは死の淵にいる少女を残して行きますが、あなたは天使を見つけるでしょう」と言い切りました。
マリアの初聖体の時にご聖体を与えたのと同じ司祭が、最後のご聖体を運んできました。臨終の聖体拝領の前に、司祭は殺人者を心から許すかどうかマリアに尋ねました。マリアはなんのためらいもなく「はい、イエズス様への愛のために、私も彼を許します……天国で私と一緒に天国にいてもらいたいのです……私が彼を許したのですから、神様も彼を許してくださいますように」マリアは午後三時を過ぎてすぐに亡くなりました。
アレッサンドロの裁判は一九〇二年十月十六日、マリアの誕生日に開始されました。アレッサンドロは精神異常であったという口実で弁護されたものの、有罪判決を受けました。未成年だったので禁固三十年の判決でした。シシリア島に送られ、そこで八年間は自分の犯した罪に対してまったく反省や後悔のしるしを見せませんでした。ですが、魂が死んだままの数年間を生きてきたある夜、アレッサンドロは夢を見ました。彼は花畑にいるマリアを見ました。マリアは腕に抱えた白いゆりの花を何本か彼に差し出しました。この夢から数日のうちに、教区の司教がアレッサンドロに会見したいと要求し、それは叶えられました。一九一〇年十一月十日、アレッサンドロは司教に手紙を書き、自分が犯した恐ろしい罪の許しを乞いました。
アスンタは、夫ルイジの最後の望みに従って、子どもたちを連れてコリナルドに帰りました。そこで彼女は一家を養いました。教区司祭の賄い婦としての職を得て、何十年も働きました。マリアの英雄的な生涯と死は忘れ去られませんでした。ご受難会の司祭たちは、マリアの亡骸を恩寵の聖母教会へと移す許可をアスンタに願いました。この願いは一九二九年に果たされました。聖ピオ十世はすでにマリアを、まことの献身の模範、そして若者たちに勇気を与える存在として掲げていました。この同じ年に、アレッサンドロはマリアの列福調査のために証言するよう求められていました。彼はこのときまでには釈放されており、労働者として静かな生活を送っていました。アレッサンドロはあらゆる非難を受ける覚悟で、進んで証言をし、マリアは襲われた時でさえ彼の霊魂の救いを考えていたこと、回心へと導いた夢の話を繰り返しました。一九三七年のクリスマス・イブ、アレッサンドロは司祭館で働くアスンタ自身の口から、確かな許しの言葉を聞くために、彼女を訪ねました。彼は涙を流してアスンタの許しを乞いました。マリアがあんなにも熱心に彼を許したならば、それを拒んだりはできないとアスンタは答えました。アスンタとアレッサンドロは、マリア・ゴレッティに捧げられた教会で、深夜のクリスマスのミサに一緒にあずかりました。
一九四七年、教皇ピオ十二世はマリアを列福しました。彼女の死は殉教であるからとして、列福のためには奇跡は必要なかったのですが、その後、マリアの助けを求める人々の声が上がりだし、彼女の取り次ぎによって大変多くの願いが聞き入れられ、列聖に必要な二つの奇跡が、あっという間になんの疑いもなく証明されました。一九五〇年六月二十五日、マリアの列聖式が執り行われました。列福からわずか三年後のことでした。
そのときまでにはすでに年老いていたマリアの母は、列聖式に出席しました。大変な人ごみだったので、儀式は聖ペトロ大聖堂を前に、外で行われなければなりませんでした。列福から列聖までの期間が最も短かった聖人の一人としてバチカンでは記録されています。
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●ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)
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