聖体の制定された理由
聖体はキリスト信者の慰めである
礼拝 聖体の中に隠れたもうあわれみ深く慈愛あつい救い主イエズスを礼拝しよう。そして最後の晩餐において、主との別離を憂い悲しんだ弟子たちをやさしく慰められた主の御言葉を思い起こそう。『今や憂いなんじらの心に満てり、されどわれ再び帰り来たる。われなんじらを孤児として残さじ』と。
主のご昇天は、われらの救霊のためにも、また、天父の光栄を目的としてすべての労苦をいとわなかった主に対する報賞のためにも、きわめて必要なことであった。
しかしどうかして、なんらかの方法によって地上にとどまろうというのが主の聖心のお望みになるところであり、またそれは私たちにも必要であった。すなわち、主は救霊のわざを完成されるためにも、また私たちの弱さを助けてくださるためにも、この地上におとどまりにならずにはいられなかったのである。
こうして聖体の秘跡は、師を失う使徒たちを慰め、苦難に際してキリスト信者を力づけるために制定された。聖トマは、パンとともにぶどう酒が秘跡の材料として採用された主要な理由のひとつはそれであると教えている。実に聖体は『すべて重荷を負える者よ、われに来たれ』との主の限りなくやさしい御約束が、常にどこででも繰り返され、苦しみ悩むどのような人も、この御言葉を思い越こして勇気をふるい起こすように定められたものである。
まことに、主はここにおいでになるのである。主は万人のために聖体の中にとどまって、万人にご自身をお与えになる。イエズスは最上の善、無限の富、諸天使諸聖人の歓喜、光明、幸福である。天にある諸霊が永遠の至福を楽しめるのは、主が彼らとともにおいでになって、彼らのすべてになっておられるからである。はたしてそうであるならば、今日の地上で、私たちが主を受けるなら、主は私たちにとってもいっさいとなり、わたしたちはこれによってこのうえもない幸福を得、どのような試練の時でも、主によって慰められるはずであろう。たとえ、ほかの何ものを欠いても、主さえ私たちのものであるなら、これがすべての欠乏を補ってあまりあるはずである。
地上では天国と異なっていて、主は、その御面(おも)を隠し、ただ信仰によってだけ知ることができる神秘的な方法をもって存在しておいでになる。また、主の存在にかかわらず、この世には苦悩があり、しかも時として私たちが主をお愛ししているにもかかわらず、この苦悩がだんだんと増していくことがあるのも事実である。これが原罪以来の人生の状態である。聖体は私たちが罪を償い、天国をかち得るために必要な艱難をなくすものではなく、また、このちくたくの地を、すぐに光栄の楽園と化すものでもない。それは、ただ悲しみを忍びやすくして、試練に功徳を与え、涙をあまりにがくないようにするために、すなわち、私たちの希望をささえ、強め、動かないものとし、慰めのない悲哀、恐ろしい苦痛のただなかにあってもこれによりすがり『われは主に希望するゆえに倒れることなし。われは十字架に釘づけられたり。されどそはイエズスとともなり。主の愛よりわれを引き離すものはなんぞ』と叫ばせるために存在しておられるのである。
感謝 イエズスを有することによって生じてくる慰めの力を味わい、いろいろな悩みの中にも、なぜこのように適切に、またこのように確実に私たちの希望が強められるか、その理由を細かく調べよう。それは主ご自身がほんとうにお苦しみになったからであって、私たちのいっさいの悲しみよりも、もっと大きい悲しみをお味わいになったからである。『主は自らわれらの弱さをとり、われらの悲しみをにないたまえり』と聖書にしるされているとおりである。
主はすべての慰めを失い、悲しみのほかに何ものももたない悲しみの人となって、このご自分の経験から苦難を知り、そのきわみをはかられた。苦しみを経験した者でなければ、他人の苦痛を理解してこれに同情することができない。しかしこれに反して自分で苦しんだことのある者は、自分の経験から他人の苦痛を理解し、この理解が他人に慰めを与えるための第一の必要な条件となるのである。だからイエズスは私たちの苦しみに同情して私たちにあわれみを得させようと、すすんですべての恐ろしい苦痛をお受けになったのである。
聖体は実にこのご受難の記念であり、同時に日ごとに私たちの目前で繰り返されるいけにえである。そしてまた、それは、私たちを主の御血と御母の涙とにうるおされた十字架の道を歩かせるためのご模範である。この道には今もなお、主をめぐる人々のひぼう、攻撃、のろいの声が響き、また、弟子らの背信、御母との別離、天父からの遺棄を歎かれる主のご苦悩さえ聞こえるのである。
しかし聖体の中においでになる主は、死を征服し、光栄をもってよみがえり、天父の右に世々におすわりになる主であるから、また同時に、もし私たちが天主のみ名のためにしばしの苦痛をしのぐなら、この苦痛は化して終わりない生命、天主との永遠の一致、無限の幸福と変わることを、声高く告げられるのである。
ああ悲しみに沈み、困難に気をふさがれた信者たちよ、聖体を受けて主とともにおとどまりせよ。あなたたちの唯一の不幸はイエズスから離れ、世の中のタッタひとりの真実な慰め主より遠ざかっていることである。
償い それゆえ私たちが艱難の時にあたって、祈りをやめ聖体拝領を中止するのは、罪であるばかりでなく、罪以上の愚かさである。それはあたかも病人が必要な薬を拒むのに似ている。実際それは、私たち自身に対し、また同時に慈愛深い救い主の聖心に対する最も残酷なふるまいである。私たちが困難にあうときに、まことの慰め主を捨て、世間の快楽のうちに慰めを求めようとするなら、それはもう盲目以上の狂気である。精神は錯乱し、霊魂は夢幻の中に空想の幸福の国をさまよい、それで平和をつかむことができた思いこんでしまう。しかし夢がさめて現実に戻ったとき、私たちはどんなにか憂うつになって、絶望的な孤独を感じることであろう。かつて苦しみに悩んだときに、あなたがとった態度を思い出して、慰め主なるイエズスのみ前で。あなたの過去のふるまいを、どのように償うかを考えよ。
祈願 苦痛に出あうとき、いつも聖体を思い出す恩恵を願おう。このような時、まず第一に聖体の御もとに走り寄り、試練のつづくかぎり聖ひつにのがれ場を求め、それが激しければ激しいほど、聖体拝領を怠ることがないように決心すべきである。
聖体を受けても祈ることができない、考えることができない、などとあまり心配しないように。あなたは聖体拝領をする権利をもっているのである。あなたの苦しみそれ自身がすでにりっぱな準備である。イエズスを信じよう。主に向かって『われをあわれみたまえ』と叫びながら、あなたの苦痛を示すなら、それで十分である。
実行 悩み苦しむときには、常に倍して聖体を訪問しよう。
聖体はキリスト信者の慰めである
礼拝 聖体の中に隠れたもうあわれみ深く慈愛あつい救い主イエズスを礼拝しよう。そして最後の晩餐において、主との別離を憂い悲しんだ弟子たちをやさしく慰められた主の御言葉を思い起こそう。『今や憂いなんじらの心に満てり、されどわれ再び帰り来たる。われなんじらを孤児として残さじ』と。
主のご昇天は、われらの救霊のためにも、また、天父の光栄を目的としてすべての労苦をいとわなかった主に対する報賞のためにも、きわめて必要なことであった。
しかしどうかして、なんらかの方法によって地上にとどまろうというのが主の聖心のお望みになるところであり、またそれは私たちにも必要であった。すなわち、主は救霊のわざを完成されるためにも、また私たちの弱さを助けてくださるためにも、この地上におとどまりにならずにはいられなかったのである。
こうして聖体の秘跡は、師を失う使徒たちを慰め、苦難に際してキリスト信者を力づけるために制定された。聖トマは、パンとともにぶどう酒が秘跡の材料として採用された主要な理由のひとつはそれであると教えている。実に聖体は『すべて重荷を負える者よ、われに来たれ』との主の限りなくやさしい御約束が、常にどこででも繰り返され、苦しみ悩むどのような人も、この御言葉を思い越こして勇気をふるい起こすように定められたものである。
まことに、主はここにおいでになるのである。主は万人のために聖体の中にとどまって、万人にご自身をお与えになる。イエズスは最上の善、無限の富、諸天使諸聖人の歓喜、光明、幸福である。天にある諸霊が永遠の至福を楽しめるのは、主が彼らとともにおいでになって、彼らのすべてになっておられるからである。はたしてそうであるならば、今日の地上で、私たちが主を受けるなら、主は私たちにとってもいっさいとなり、わたしたちはこれによってこのうえもない幸福を得、どのような試練の時でも、主によって慰められるはずであろう。たとえ、ほかの何ものを欠いても、主さえ私たちのものであるなら、これがすべての欠乏を補ってあまりあるはずである。
地上では天国と異なっていて、主は、その御面(おも)を隠し、ただ信仰によってだけ知ることができる神秘的な方法をもって存在しておいでになる。また、主の存在にかかわらず、この世には苦悩があり、しかも時として私たちが主をお愛ししているにもかかわらず、この苦悩がだんだんと増していくことがあるのも事実である。これが原罪以来の人生の状態である。聖体は私たちが罪を償い、天国をかち得るために必要な艱難をなくすものではなく、また、このちくたくの地を、すぐに光栄の楽園と化すものでもない。それは、ただ悲しみを忍びやすくして、試練に功徳を与え、涙をあまりにがくないようにするために、すなわち、私たちの希望をささえ、強め、動かないものとし、慰めのない悲哀、恐ろしい苦痛のただなかにあってもこれによりすがり『われは主に希望するゆえに倒れることなし。われは十字架に釘づけられたり。されどそはイエズスとともなり。主の愛よりわれを引き離すものはなんぞ』と叫ばせるために存在しておられるのである。
感謝 イエズスを有することによって生じてくる慰めの力を味わい、いろいろな悩みの中にも、なぜこのように適切に、またこのように確実に私たちの希望が強められるか、その理由を細かく調べよう。それは主ご自身がほんとうにお苦しみになったからであって、私たちのいっさいの悲しみよりも、もっと大きい悲しみをお味わいになったからである。『主は自らわれらの弱さをとり、われらの悲しみをにないたまえり』と聖書にしるされているとおりである。
主はすべての慰めを失い、悲しみのほかに何ものももたない悲しみの人となって、このご自分の経験から苦難を知り、そのきわみをはかられた。苦しみを経験した者でなければ、他人の苦痛を理解してこれに同情することができない。しかしこれに反して自分で苦しんだことのある者は、自分の経験から他人の苦痛を理解し、この理解が他人に慰めを与えるための第一の必要な条件となるのである。だからイエズスは私たちの苦しみに同情して私たちにあわれみを得させようと、すすんですべての恐ろしい苦痛をお受けになったのである。
聖体は実にこのご受難の記念であり、同時に日ごとに私たちの目前で繰り返されるいけにえである。そしてまた、それは、私たちを主の御血と御母の涙とにうるおされた十字架の道を歩かせるためのご模範である。この道には今もなお、主をめぐる人々のひぼう、攻撃、のろいの声が響き、また、弟子らの背信、御母との別離、天父からの遺棄を歎かれる主のご苦悩さえ聞こえるのである。
しかし聖体の中においでになる主は、死を征服し、光栄をもってよみがえり、天父の右に世々におすわりになる主であるから、また同時に、もし私たちが天主のみ名のためにしばしの苦痛をしのぐなら、この苦痛は化して終わりない生命、天主との永遠の一致、無限の幸福と変わることを、声高く告げられるのである。
ああ悲しみに沈み、困難に気をふさがれた信者たちよ、聖体を受けて主とともにおとどまりせよ。あなたたちの唯一の不幸はイエズスから離れ、世の中のタッタひとりの真実な慰め主より遠ざかっていることである。
償い それゆえ私たちが艱難の時にあたって、祈りをやめ聖体拝領を中止するのは、罪であるばかりでなく、罪以上の愚かさである。それはあたかも病人が必要な薬を拒むのに似ている。実際それは、私たち自身に対し、また同時に慈愛深い救い主の聖心に対する最も残酷なふるまいである。私たちが困難にあうときに、まことの慰め主を捨て、世間の快楽のうちに慰めを求めようとするなら、それはもう盲目以上の狂気である。精神は錯乱し、霊魂は夢幻の中に空想の幸福の国をさまよい、それで平和をつかむことができた思いこんでしまう。しかし夢がさめて現実に戻ったとき、私たちはどんなにか憂うつになって、絶望的な孤独を感じることであろう。かつて苦しみに悩んだときに、あなたがとった態度を思い出して、慰め主なるイエズスのみ前で。あなたの過去のふるまいを、どのように償うかを考えよ。
祈願 苦痛に出あうとき、いつも聖体を思い出す恩恵を願おう。このような時、まず第一に聖体の御もとに走り寄り、試練のつづくかぎり聖ひつにのがれ場を求め、それが激しければ激しいほど、聖体拝領を怠ることがないように決心すべきである。
聖体を受けても祈ることができない、考えることができない、などとあまり心配しないように。あなたは聖体拝領をする権利をもっているのである。あなたの苦しみそれ自身がすでにりっぱな準備である。イエズスを信じよう。主に向かって『われをあわれみたまえ』と叫びながら、あなたの苦痛を示すなら、それで十分である。
実行 悩み苦しむときには、常に倍して聖体を訪問しよう。