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「永遠の命について」 聖霊降臨後第21主日の説教:聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様

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聖霊降臨後第二十一主日の説教
ピーター・フォルティン神父(聖ピオ十世会)

「主人は怒って、負債を全部返すまで、しもべを拷問係に引き渡した」(マテオ18章34節)

本日の福音では、主人の仕事をうまく管理できず、主人に1万タレントの負債のあることが分かった、しもべがいます。主人は決算を要求し、しもべはあわれみを乞いながら、こう言いました。「しばらくお待ちください。そうすればきっと全部返します」。主人はあわれに思い、まったく寛大な心をもって全部の負債を許してやりました。しもべ仲間の一人が、以前このしもべに100ペンス(1万タレントに比べればごく小さな額)の負債があり、全額を返すから待ってくれるように頼みました。この悪しきしもべは、その仲間を牢に入れました。それを聞いた他のしもべたちは、そのことを良き主人に告げ、主人は悪しきしもべを呼んで、自分が大きな額を許したのに、なぜおまえは、ごく小さな額のために、しもべ仲間にあわれみを示すのを拒んだのか、と言いました。そして、主人は、この悪しきしもべを拷問係に引き渡しました。

このたとえにおいて主は、痛悔をしない霊魂について、私たちに話しておられます。生きている間の罪のために天主に負債のある者として死に、その後生きている間の負債を返すことができず、そのため正義を回復させるために地獄で永遠の時を過ごさなければならない罪びとのことです。

聖アウグスティノによれば、永遠について考えることは非常に大切なことです。彼はこう書いています。「私たちはキリスト教徒であるから、来るべき世のことを常に考えることができるのである」。日々終末がどんどん近づきつつあることを考えることによって、権力があり成功した多くの人々が、この世から離れ、修道院に入り、清貧に生きて、償いのわざをするよう導かれました。この同じ考えが、多くの殉教者を、永遠[の喜び]を手に入れるために自分たちの受ける苦しみを耐え忍ぶよう導きました。聖パウロはヘブライ人に対して、「私たちはここに不変の都を持たず、来るべき都を探している」(ヘブライ13章14節)と書き送っています。聖アンブロジオは、死のときに私たちは喜びあるいは苦しみの家のどちらかに入ることになる、と明確に述べています。この地上は私たちの国ではなく、私たちはこの地を通っている巡礼者に過ぎないのです。

霊魂が行くべきところでは、霊魂は永遠にそこに留まります。伝道の書には、こう書かれています。「木が南か北かに倒れると、倒れたところに横たわる」(コヘレット11章3節)。聖ヒラリオは、「人が終わりと考えるところが始まりである」と書いています。それは始まりに過ぎません。千年が過ぎても、それは永遠の始まりでさえありません。初めも終わりもありません。永遠に失われてしまった霊魂たちは、もし自分たちの受ける罰が永遠に続かないようになるのなら、もしもっと多くの苦しみと交換できるなら、そうさせてほしいときっと思うことでしょう。永遠の罰が終わるなら、と。哀歌の書には、「私の終わりは失せた」(哀歌3章18節)と書かれています。

もし地獄が永遠に続かないのであれば、地獄は恐ろしくないことでしょう。トマス・ア・ケンピスは、「時とともに過ぎ去るものはすべて、些細で短いものである」と書いています。私たちが自らに問う疑問は、煉獄についてどう考えたらいいのか、ということです。煉獄に入った霊魂が大変な苦しみを受けることを私たちは知っていますが、その苦しみは、それがたぶん数千年でないとしても、いつかは終わります。私たちがここ地上での肉体的な苦しみのことを考えれば、それは比較的すぐに終わります。歯痛、頭痛、癌のような痛みがどんなものであっても、それらはすべて一定の期間、堪えることができます。聖アルフォンソは、地獄では同じ苦しみの状態がずっと続くことを考えるよう、書いています。ここ地上では、たとえ非常に楽しいことであったとしても、それを休みなしに繰り返し、繰り返し聞かなければならなかったとしたら、その人は苦しむことでしょう。この事自体恐ろしいことでしょうが、悪しきことを繰り返し、繰り返し経験するということは、もっと恐ろしいことです。第二法の書[申命記]には「私は彼らの上に悪を積み重ねる」(第二法32章23節)と書かれており、その悪には終わりがありません。

この苦しみは終わりがなく、どんな少しの程度も減ることがありません。永遠においては、その程度は不変であるため、変化がないのです。この思いによって、自分たちが永遠に苦しまなければならないことをあらかじめ感じ、確実にその苦しみが増すことになります。永遠という思いが、自分たちが永遠に苦しむことになると知っている失われた霊魂の一人一人を苦しめるのです。

天主はなぜ、ほんの一瞬の間しか続かない罪に対して、永遠の刑罰を用いて、正しく罰せられることになるのでしょうか? 時間の幅が問題なのではなく、その悪意の大きさが問題なのです。聖トマスは、一つの大罪の悪意には限りがない、と書いています。人には限りがあるため、限りのない方法で苦しむことはできませんから、その期間が限りのない永遠でなければならないのです。

人生においてまことに恐るべきものである死を、地獄に失われた霊魂たちは待ち望んでいます。でも彼らは、決してそれを見つけることがありません。「そのとき、人々は死を求めても与えられず、死にたいと思っても、死は逃げていくのである」(黙示録9章6節)。失われた霊魂には、解放される機会はありません。彼らは、自分たちの目の前に、自分の罪と永遠の有罪宣告を終わりなく見つづけることになるのです。「私はお前を断罪する」(詩篇49章21節)。

私たちの永遠の救いが、私たちの唯一の関心事であるようにしましょう。聖エウケリオは、「私たちが闘い、求めるのは、永遠である」と書いています。私たちの永遠が、終わりなき幸せか、終わりなきみじめさであるか、という問題です。聖トマス・モアが、イングランド王ヘンリー八世によって死刑の宣告を受けたとき、彼の妻は彼に近寄って、彼が生き延びられるように王の姦淫を受け入れるよう言いました。聖トマス・モアは彼女に対して、そうすれば自分があとどれだけ長く生きられるだろうか、もう二十年だろうか、と尋ねました。そして彼は、地上であと二十年生きるために永遠を危険にさらすほどの愚か者になるつもりはない、と言って彼女の申し出を退けました。

もし永遠というものが疑わしいことだったとしても、人は永遠の苦しみの可能性をすべて避けるよう務めるのではないでしょうか。しかし、永遠は、疑いのない信仰箇条です。聖テレジアは、非常に多くのキリスト教徒が失われているのは信仰がないからです、と書いています。私たちは、ミサのときの信経にある言葉、「Vitam aeternam」、永遠のいのち、を聞くたびに、自分の信仰を強め、もう一つのいのち、すなわち永遠のいのちがある、ということを思い起こさなくてはなりません。


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