「聖ピオ十世会は両手に一つ宝を持っています」―パリャラーニ神父インタビュー
2018年10月12日 fsspx.newsサイト より
聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父本人とのインタビューが、「ヌヴェル・ド・クレティエンテ」(キリスト教世界に関するニュース)173号に最初に発表された。
[インタビュア] 総長様、24年間、聖ピオ十世会の総長を務め、さらにあなたを司祭に叙階した司教の後をあなたは継ぎました。彼の後を継ぐことについて、どう感じておられますか。
[パリャラーニ神父] 前にも似たような質問を受けました。それは私がラ・レハ(アルゼンチン)の神学校の校長に任命されたときでした。二人の司教が私の前任者で、その責を負っていたからです。今度はもう少し複雑だと言いましょうか。フェレー司教様は、聖ピオ十世会の歴史において重要な人物の一人です。なぜなら、聖ピオ十世会が存在した期間の半分の間、総長を務められたからです。この長い期間は、試練なしでは済みませんでした。にもかかわらず、聖ピオ十世会は今でも、高い水準の聖伝を保持したまま、ここに存在しています。私が思うには、この聖ピオ十世会の使命への忠実さは、ある意味で、私の前任者のご自分の使命への忠実さの反映です。私は、みなになり代わって、そのことについて彼に感謝したいと思います。
[インタビュア] それにもかかわらず、あなたの性格を前任者の性格とは非常に異なっていると見なそうとする人々がこれまでいました。本当に異なっていると感じる点が何かありますか。
[パリャラーニ神父] 私は、お塩の一粒で味付けして [cum grano salis ユーモアで味付けして]、認めなければなりません。私は、電子メディアがどうしようもないほど例外なく苦手なんです。自分の見解を変えるのは絶望的です。一方、フェレー司教様は、エレクトロニックについては得意です。
[インタビュア] あなたがこれから12年間総長を務めなければならない聖ピオ十世会について、あなたはどのように思っておられますか。
[パリャラーニ神父] 聖ピオ十世会は両手に一つ宝を持っています。この宝は教会のものだと繰り返し強調する人々がいますが、十分な権利によって私たちのものでもあると言うことができると、私は思っています。その宝は私たちのものであり、これが、聖ピオ十世会が完全に教会のわざである理由です。今でもそうです。
聖伝は一つの宝ですが、それを保存するために、私たちは自分たちが土の器であることを知らなければなりません。私たちの未来についての鍵は、ここに見いだされます。それは、私たちの弱さを知ることと、油断なく自分たち自身を見張る必要性を知ることです。私たちの生活が、この信仰全体をたびたび、そして具体的に表現しないのなら、信仰をすべて告白するだけでは十分ではありません。聖伝を生きることが、聖伝を守ることなのであり、聖伝のために取り組むことなのであり、そして、まず私たち自身と私たちの家庭において聖伝が凱旋し、そのあと全教会で聖伝が凱旋するよう闘うことなのです。
私たちの最も好む望みは、公式の教会が、聖伝を重荷あるいは一連の時代遅れの古い事物とみなすのをやめ、むしろ教会自体を再生させることのできる唯一の方法だと認めるようになることです。しかしながら、主要な教理の議論をしてみても、このわざを完成させるには十分ではないでしょう。まず、私たちは霊魂たちにあらゆる種類の犠牲をする準備をさせなければなりません。このことは、奉献された人々と平信徒の両方に当てはまります。
私たち自身が常に、聖伝に関する私たちの見解を更新しなければなりません。それは純粋に神学的方法によってではなく、まことの超自然的な方法によって、私たちの主イエズス・キリストの十字架上の犠牲の観点からです。このことが、しばしば互いに強め合う二つの対照的な危険、すなわち悲観主義的あるいは敗北主義的沈滞と、一種の不毛な主知主義とから、私たちを保護してくれます。
私たちが遭遇するであろう種々の困難に直面するときの鍵となるものを、私たちがここに持っていると私は確信しています。
[インタビュア] 教会の危機のうちで主要な問題を含めてですか。
[パリャラーニ神父] こんにちの重要な話題は何でしょうか。召命、司祭の聖化、霊魂の世話です。教会の悲劇的な状況があっても、私たちの心に、もう義務を果たすことはできないというほどの大きな心理的衝撃を与えることは決してありません。私たちが先を見通せたとしても、それで私たちが麻痺して活動できなくなることは決してありません。たとえ教会の悲劇的状況があろうとも、それが闇に向かおうともです。危機を十字架の観点から考察すれば、私たちは平静を保ち、一歩引くことができます。なぜなら、私たちが確かな判断を下すことになるならば、平静さと客観性の両方とも、なくてはならないものだからです。
教会の置かれている現在の状況は、悲劇的な衰退の状態です。召命、司祭の数、信仰の実践の急激な減少、キリスト教的慣習や、天主についての最も基本的な感覚の消失といったものであり、これらは、ああ、自然の道徳の破壊において、こんにち明白になっています。
さて、聖ピオ十世会は、聖伝に立ち返る運動をけん引するのに必要なすべての手段を持っています。もっと正確に言えば、私たちは二つの要求に直面しなければなりません。
― 一方で、真理を思い起こさせ、誤謬を非難することによって、私たちのアイデンティティーを保つことです。「Praedica verbum: insta opportune, importune: argue, obsecra, increpa.」「み言葉を宣教せよ。よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ、とがめ、勧め、非難せよ」(ティモテオ後書4章2節)。
― 他方では、「in omni patientia, et doctrina,」「すべての忍耐と教えをもって」(同)、その方向に歩んでいる人々を聖伝に惹きつけ、励まし、少しずつ戦いへと、増えつつある勇気ある態度へと導くことです。真理に渇くカトリックの霊魂たちは、確かにまだ存在しており、私たちには彼らに対して、無関心な、あるいは高慢な態度によって、福音という一杯の水を拒否する権利はありません。これらの霊魂たちは、彼ら自身の持つ勇気と決意によって、最後にはしばしば私たちを勇気づけてくれるのです。
この二つの要求は補い合うものです。私たちは、この二つを切り離すことが出来ません。つまり、第二バチカン公会議から由来する誤謬への非難だけに全力をそそぐ、あるいは、教会の危機に気がついて教えを受ける必要のある人々に対して私たちの義務として助けることだけに力を注ぐ、など一方を他方から離すことはできません。この二重の要求は深いところで一つの要求です。なぜなら、これは真理への愛のみを表現だからです。
[インタビュア] 真理に渇く霊魂たちへのこの助けは、どのようにして具体的な形を取るのでしょうか。
[パリャラーニ神父] 私たちは御摂理に対して限界を置くべきではないと、私は思います。御摂理はさまざまな状況に対して適切な手段を、ケースバイケースで私たちに与えてくれるからです。それぞれの霊魂は、自分の中にある一つの世界であり、背景には個人的な経緯がありますから、効果的に助けが来るような位置にあるように、個別に霊魂を知ることが必要です。これが、私たちが自分の中に養成しなければならない基本的な態度、他人への助けが来るための優先すべき心の持ちようであって、誰にでも適用される普遍性のある取扱説明書を作るというありえないことへの関心を持つのではありません。
いくつか具体的な例を挙げてみましょう。私たちの神学校は現在、聖ピオ十世会の外部の司祭を受け入れています。ツァイツコーフェンに3人、ラ・レハに2人です。彼らは、教会の状況を明確に見たいと思っており、何にもまして自分たちの司祭職を完全に生きたいと望んでいます。
司祭職の影響力は、教会が聖伝に立ち返るための唯一の手段です。私たちは、この確信を全面的によみがえらせなければなりません。聖ピオ十世会は、もうすぐ48周年を迎えます。天主の恩寵によって、世界中に大きな広がりを持つに至りました。あらゆるところで増加している仕事、多くの司祭や管区、修道院、学校などを持っています。この広がりの持つ否定的な面は、当然のことながら初期の宣教精神が弱まっていくことです。そうするつもりはなくとも、私たちは、この発展から生じる毎日の問題に対処することによって、ますます自らを失っていきます。その結果として、使徒的な精神は弱まるかもしれません。起こり得る危険は、偉大な理想が消えていくであろうことです。私たちは、1970年に聖ピオ十世会が創立されてから第三世代の司祭です。創立者が私たちに注ぎ込んでくださった宣教の熱意を再発見する必要があります。
[インタビュア] この危機において、何が聖伝に忠実な多くの信者たちを苦しめているのでしょうか、私たちはローマと聖ピオ十世会の関係についてどのように考えるべきでしょうか。
[パリャラーニ神父] ここでもまた、私たちは、超自然の見方を保ち、この疑問を障害物にすることを避けるよう努力しなければなりません。なぜなら、あらゆる障害物は主観的に精神を悩ませ、精神がその目標である客観的な真理に到達するのを妨げるからです。
こんにちにおいては特に以前よりも、私たちは、急いで判断を下すのを避けなければなりません。その判断はしばしば、現代のコミュニケーション手段によって助長されているからです。私たちは、ローマの文書や微妙な話題について、「断定的な」コメントをし始めてはなりません。コメントを7分でさっと作って、1分でオンラインに投稿するといったことは避けるべきです。「スクープ」を入手したり「無駄話」を作ったりするのは、ソーシャルメディアによる新しい要求ですが、このようにしてソーシャルメディアが発する情報は非常に表面的なもので、さらに悪いことには、長い期間にわたって、真剣で深い黙想を全くできなくさせてしまうのです。情報を読んだ人、聞いた人、見た人は悩まされます。この心配は、彼らが情報を受け取る方法に影響を与えます。聖ピオ十世会は、この不健全かつ、最終的な分析によれば、この世的な傾向から、非常に多くの苦しみを受けてきました。この傾向は、私たちみなが緊急に正そうとしなければなりません。私たちがインターネットに接続する時間が少なければ少ないほど、よりよく精神の平安と落ち着いた判断を再発見するでしょう。スクリーンを見る時間が少なければ少ないほど、よりよく実際の出来事とその正確な受け入れについての客観的な評価をすることができるでしょう。
ローマとの関係について
[インタビュア] ローマとの関係について、本当のところはどうなっているのでしょうか。
[パリャラーニ神父] かつてローマの神学者たちと教理的な議論をして以来、私たちは二つの連絡窓口と相対していると言えます。注意深く区別しなければならない二つのレベルに構築された二種類の関係です。
1. 公的で公式の明確な窓口であり、それは今でも、本質的に同じ教理の内容を持つ声明を私たちに押し付けています。
2. 一人またはもう一人の教皇庁のメンバーから発せられる別の窓口で、興味深い私的な交流です。その内容には、公会議の相対的価値、教理のあれやこれやなどに関する新しい要素があります。これらは、新しく興味深い議論であり、確かに追求すべきものですが、それにもかかわらず非公的、非公式で私的な議論であって、一方で公式のレベルにおいては、言い回しに一定の進展はあるものの、同じ要求が常に繰り返されているのです。
確かに、私たちは私的に言われた肯定的なことを、注意深く心に留めておきますが、それは実際にローマが言っていることではありません。これは、善意ある小心なニコデモたちであり、彼らは公式な位階階級にはいません。ですから、公式な文書に厳密に従う必要があり、私たちがその文書をなぜ受け入れることができないのかを説明する必要があります。
最新の公式文書―たとえば2017年6月付のミュラー枢機卿からの手紙―は、常に同じ要求を表現しています。前提条件として公会議を受け入れなければならず、そのあとで聖ピオ十世会について明確でないことを議論していくことが可能であり、そうすることによって、彼らは、私たちの反対意見を、読む際と理解する際における主観的な難しさのせいだと格下げするのです。そして、彼らは、公会議が本当に言っていることを私たちが正しく理解するのを助けると約束するのです。ローマの当局は、この最初に受け入れることを、信仰と原則に関する質問に変えています。彼らは、このことをはっきりと言います。こんにちの彼らの要求は、30年前と同じです。第二バチカン公会議は、教会の聖伝の継続性によって、その聖伝に統合された一部として、受け入れられなければならない、と。彼らは、聖ピオ十世会の側に説明に値する留保があり得るという私たちの指摘については譲歩して認めていますが、そのような公会議の教えの拒否は決して認めていません。[彼らにとって]これは、純粋かつ単純に教導権による教えなのですから。
さて、問題はまさにここに、常に同じところにあります。私たちは問題を他のところに移すことはできません。【教義的ではなく】司牧的であろうとした公会議の教義的権威とは、いったい何なのでしょうか【そんなものがあるのでしょうか】?第二バチカン公会議が教えたこれらの新しい原理は組織的に、完全に適用されてきましたし、公会議と公会議後の両方の期間、責任のある位階階級によって教えられてきたことと完璧な継続性をもっていますが、これらの新しい原理の価値とは何でしょうか?この現実の公会議とは、信教の自由を宣言した公会議であり、団体主義の公会議、エキュメニズムの公会議、いわゆる「生ける聖伝」【聖伝は生きているから変化するという言い訳】の公会議、云々であって、残念ながら、公会議を間違って解釈した結果ではありません。このことを証明しているのは、この現実の公会議は、正当な当局によって正されたり修正されたりしたことがないということです。この公会議は、教会についての、一つの精神、一つの教え、一つの考え方を伝えています。その内容は、霊魂の聖化のためには障害物となっています。その悲劇的結果は、知的に誠実な人々の目の前で、善意のすべての人々の目の前で、あまりにも明らかです。この現実の公会議のために、「天主の民」に押し付けられてきた、一つの教理的教え【エキュメニズムなどを含める新しい教え】と、教会の日常生活の或る実践【カリスマ運動を含める新しい典礼やエキュメニカルな集会などの新しい実践】とが同時に生じています。私たちは、この現実の公会議をそれ以外の公会議のような公会議の一つとして受け入れることを拒否しています。これが、私たちが第二バチカン公会議の権威について議論している、しかし常に愛徳の精神をもって義論を行っている理由です。なぜなら、私たちは教会の善と霊魂の救い以外には何も望んでいないからです。私たちの議論は単なる神学的な論戦の場ではなく、実際、「議論の余地」のない主題についてなされています。ここでは間違いなく、教会のいのちが懸かっています。それは、天主が私たちをお裁きになるそのことなのです。
ですから、これは、私たちがローマからの公式な文書に執着する際の見方であり、尊重しつつも現実主義でもあるのです。右か左か、強硬派か穏健派かではありません。単に現実主義的であるに過ぎません。
[インタビュア] 待っている間に、何をすべきでしょうか。
[パリャラーニ神父] 私は、いくつかの優先事項を申し上げることをもってのみ、お答えすることしかできません。第一に、御摂理を信頼してください。御摂理は、私たちを見放すことはできず、その御保護と御慈悲のしるしを常に私たちに与えてきてくださっています。疑うこと、ためらうこと、御摂理から他の保証を求めることは、感謝の念が著しく欠けていることになってしまいます。私たちの揺るぎのなさと強さは、天主に対する私たちの信頼にかかっています。私たちみなが、そういった事柄について、自分の良心を吟味すべきだと思います。
さらに言えば、私たちが両手に持っている宝を毎日再発見する必要があり、この宝が主ご自身から来ていること、この宝は主に御血を流すという犠牲を負わせて得られたものだということを思い起こす必要があります。栄光の中にあるこれらの崇高な現実の前に、定期的にもう一度自分を置くことによって、私たちの霊魂は常に礼拝し続け、試練の日に必要なように強められるでしょう。
私たちはまた、子どもの教育への関心高めなければなりません。私たちが到達したいと望む目標、十字架について、主のご受難について、小さき者に対する主の愛について、犠牲について、子どもたちに話すのを恐れないことを望むという目標を、明確に心に留めておくことが必要です。子どもたちの霊魂は、この世の精神が彼らを誘惑し、夢中にさせる前に、ごく幼い年齢で主の愛に捉えられることが絶対に必要です。この問題は、絶対的に優先すべきであり、もし私たちが受けたものを伝達するのにうまく対応しなかったとしたら、それは私たちがそのことを十分に確信していないというしるしです。
最後に、私たちは、ある種の知的怠惰と闘わねばなりません。教理は実際、教会と霊魂のための私たちの闘いに、その存在理由を与えるものです。昨今の大きな出来事についての分析を更新する努力をすることが必要です。その更新は、不幸にもインターネットが --- またここでもインターネットです --- 良くやっている怠惰な「コピー・アンド・ペースト」で満足せずに、永続的な教理の観点からなされるべきです。智慧はものごとを、いつでも、秩序立て、また、秩序良く整えてくれ、一つ一つのことは、そのあるべき正確な場所を見いだします。
ルフェーブル大司教のミサ十字軍
[インタビュア] もっと実践的には、信者は何ができますか。
[パリャラーニ神父] ミサにおいて、信者は、洗礼のときに司祭によって発せられるエフェッタ、すなわち「開けよ」のこだまを発見します。信者の霊魂は、聖なる犠牲の恩寵に対して、もう一度開かれます。ごく年少だとしても、ミサにあずかる子どもたちは、聖伝の典礼が表現する聖なる意味に敏感です。何にもまして、ミサにあずかることは、結婚した夫婦の生活を、あらゆる試練によって、実りあるものにさせます。そして、その生活に、主の犠牲から流れ出る婚姻の秘蹟の恩寵についての深い超自然の意味を与えます。ミサにあずかることは、天主のわざのうちで最も美しいもの、すなわち彼らの子どもたちの霊魂を聖化し保護すること、への協力者として、彼らを使おうと天主がお望みになっているということを、彼らに思い起こさせることです。
1979年の金祝のとき、ルフェーブル大司教様は私たちをミサ十字軍に招待してくださいました。それは、天主が、司祭職を更新すること、そして司祭職によって、こんにちあらゆる方面から攻撃を受けている家庭を更新することをお望みになっているからです。そのときの大司教様の見通しは預言的でした。現在では、誰もが見て分かるようになっています。大司教様が予見なさったことを、私たちは今、自分の目の前で見ているのです。
「そのとき、私たちが行うべく残されたものは何ですか、親愛なる兄弟の皆さん。私たちが、ミサという偉大なる神秘の理解を深めるならば、私たちは十字軍を持つべきだと言うことができると思います。それによって、ミサの聖なる犠牲を、私たちの主イエズス・キリストを強調し、ミサの聖なる犠牲というその無敵の岩かつ無尽蔵の恩寵の源泉を強調するのです。皆さんは、ミサの聖なる犠牲を愛するがゆえに、ここにいるのです。エコンやアメリカ、ドイツで勉強しているこれらの若い神学生たちは、聖なるミサのために、全時代のミサのために、私たちの神学校にやって来ました。このミサこそが、恩寵の源泉であり、聖霊の源泉であり、キリスト教文明の源泉なのですから。そのために、司祭が存在しているのですから。さて、ですから、私たちは十字軍を行わなければなりません。教会が望んだように、教会が常に行ってきたように、同じ原則をもって、同じミサの犠牲をもって、同じ秘蹟をもって、同じカテキズムをもって、同じ聖書をもって、キリスト教世界を再創造するために、キリスト教世界を再建するためにです」(パリのポルト・ド・ベルサイユで1979年9月23日の司祭叙階50周年の機会に行われたルフェーブル大司教の説教)
このキリスト教世界は、良き主が私たちを置かれたまさにその場所で、私たちの生きている状態に応じた義務を忠実に行うことによって、毎日の生活で再創造されねばなりません。ある人々は、教会と聖ピオ十世会があるべき状態にないという事実を悲しんでいます。彼らは、自分たちが、自分たちの立場で、自分たちの個人的な聖化によって、この欠陥を癒やす手段であるということを忘れています。そこにおいては、誰もが総長なのです。選ばれる総会は必要なく、毎日、その教会の一部分を聖化することが必要です。その一部分は絶対的な主人、その人の霊魂なのですから。
ルフェーブル大司教は続けます。「私たちはこのキリスト教世界を再創造しなければなりません。そして皆さん、親愛なる兄弟の皆さん、皆さんは地の塩であり、世の光(マテオ5章13-14節)です。皆さんは、私たちの主イエズス・キリストが次のようにおっしゃった人々なのです。主は皆さんに、『わが血による霊的な実を無駄に使うな。わがカルワリオを捨て去るな、わが犠牲を捨て去るな』と言われました。ですから、十字架の下にたたずみ給う童貞マリアは、同じように皆さんに言われます。御心をつるぎで貫かれ、苦しみと悲しみに満ちながらも、同時にご自分を天主の御子の犠牲と一致させた喜びに満ちた聖母は、同じようにこう言われます。『キリスト教徒でいましょう、カトリックでいましょう』。この世の考えによって、私たちを罪と地獄に引き寄せる昨今のこの世の思想によって、心を奪われないようにしましょう。天国に行きたいなら、私たちは私たちの主イエズス・キリストに従わなければならず、自分の十字架を担って私たちの主イエズス・キリストに従い、十字架において、苦しみにおいて、犠牲において主に倣わなければなりません」。
ですから、聖ピオ十世会の創立者は、若者たちのために、キリスト教徒の家庭のために、家庭の長のために、司祭のために、十字軍を起動しました。彼は、雄弁をもって強く主張しました。それは、40年後のこんにちでも私たちを感動させます。私たちは、この良薬が現代の悪に対してどれほど多く用いられるかを見ているのですから。
「イエズス・キリストが私たちに与えてくださった遺産は、その犠牲です。それは主の御血であり、主の十字架です。そしてそれは、キリスト教文明の、私たちを天国に連れて行くことになっているすべてのもののパン種です。私たちの主イエズス・キリストのこの証しを守ってください。私たちの主イエズス・キリストの犠牲を守ってください。全時代のミサを守ってください。そうすれば、皆さんはキリスト教文明が再び栄えるのを見るでしょう」。
40年後の今、私たちはこの十字軍の責任を逃れることはできません。そのためには、教会と霊魂に対する、さらなる求められる熱意と、さらなる熱心な奉仕を必要とします。このインタビューの最初に申し上げたように、聖伝は完全に私たちのものですが、その栄誉は重大な責任を生み出します。私たちは、私たちが受けたものを伝えることの忠実さについて、裁きを受けることになるでしょう。
[インタビュア] 総長様、締めくくりの前に、もう少し個人的な質問をするのをお許しください。あなたが今年の7月11日に両肩に担った責任を思うと、恐れを感じませんか。
[パリャラーニ神父] はい、私はそれを認めなければなりません。少し恐れを感じ、お受けする前に気持ちにためらいさえもありました。私たちはみな、土の器であり、これは総長に選ばれた人間にとっても同じです。それがもっと見ることができ、かつもっと大きな器であったとしても、それにもかかわらず壊れやすいものなのです。
いとも聖なる童貞を思うことは、私たちが恐れに打ち勝つようにしてくれる唯一のことです。私は自分の信頼を聖母のみに置いており、全面的にそうしています。聖母は土でできていません。象牙でできているからです。聖母は壊れやすい器ではありません。難攻不落の塔、[聖母の連祷の中で言うように]turris eburnea[象牙の塔]だからです。聖母は戦列を整えし軍勢、terribilis ut castrorum acies ordinata[雅歌6章3節]であり、この軍勢は、勝利が唯一の起こり得る結果だと、あらかじめ知っているのです。「最後には私の汚れなき心が凱旋するでしょう」。
2018年10月12日 fsspx.newsサイト より
聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父本人とのインタビューが、「ヌヴェル・ド・クレティエンテ」(キリスト教世界に関するニュース)173号に最初に発表された。
[インタビュア] 総長様、24年間、聖ピオ十世会の総長を務め、さらにあなたを司祭に叙階した司教の後をあなたは継ぎました。彼の後を継ぐことについて、どう感じておられますか。
[パリャラーニ神父] 前にも似たような質問を受けました。それは私がラ・レハ(アルゼンチン)の神学校の校長に任命されたときでした。二人の司教が私の前任者で、その責を負っていたからです。今度はもう少し複雑だと言いましょうか。フェレー司教様は、聖ピオ十世会の歴史において重要な人物の一人です。なぜなら、聖ピオ十世会が存在した期間の半分の間、総長を務められたからです。この長い期間は、試練なしでは済みませんでした。にもかかわらず、聖ピオ十世会は今でも、高い水準の聖伝を保持したまま、ここに存在しています。私が思うには、この聖ピオ十世会の使命への忠実さは、ある意味で、私の前任者のご自分の使命への忠実さの反映です。私は、みなになり代わって、そのことについて彼に感謝したいと思います。
[インタビュア] それにもかかわらず、あなたの性格を前任者の性格とは非常に異なっていると見なそうとする人々がこれまでいました。本当に異なっていると感じる点が何かありますか。
[パリャラーニ神父] 私は、お塩の一粒で味付けして [cum grano salis ユーモアで味付けして]、認めなければなりません。私は、電子メディアがどうしようもないほど例外なく苦手なんです。自分の見解を変えるのは絶望的です。一方、フェレー司教様は、エレクトロニックについては得意です。
[インタビュア] あなたがこれから12年間総長を務めなければならない聖ピオ十世会について、あなたはどのように思っておられますか。
[パリャラーニ神父] 聖ピオ十世会は両手に一つ宝を持っています。この宝は教会のものだと繰り返し強調する人々がいますが、十分な権利によって私たちのものでもあると言うことができると、私は思っています。その宝は私たちのものであり、これが、聖ピオ十世会が完全に教会のわざである理由です。今でもそうです。
聖伝は一つの宝ですが、それを保存するために、私たちは自分たちが土の器であることを知らなければなりません。私たちの未来についての鍵は、ここに見いだされます。それは、私たちの弱さを知ることと、油断なく自分たち自身を見張る必要性を知ることです。私たちの生活が、この信仰全体をたびたび、そして具体的に表現しないのなら、信仰をすべて告白するだけでは十分ではありません。聖伝を生きることが、聖伝を守ることなのであり、聖伝のために取り組むことなのであり、そして、まず私たち自身と私たちの家庭において聖伝が凱旋し、そのあと全教会で聖伝が凱旋するよう闘うことなのです。
私たちの最も好む望みは、公式の教会が、聖伝を重荷あるいは一連の時代遅れの古い事物とみなすのをやめ、むしろ教会自体を再生させることのできる唯一の方法だと認めるようになることです。しかしながら、主要な教理の議論をしてみても、このわざを完成させるには十分ではないでしょう。まず、私たちは霊魂たちにあらゆる種類の犠牲をする準備をさせなければなりません。このことは、奉献された人々と平信徒の両方に当てはまります。
私たち自身が常に、聖伝に関する私たちの見解を更新しなければなりません。それは純粋に神学的方法によってではなく、まことの超自然的な方法によって、私たちの主イエズス・キリストの十字架上の犠牲の観点からです。このことが、しばしば互いに強め合う二つの対照的な危険、すなわち悲観主義的あるいは敗北主義的沈滞と、一種の不毛な主知主義とから、私たちを保護してくれます。
私たちが遭遇するであろう種々の困難に直面するときの鍵となるものを、私たちがここに持っていると私は確信しています。
[インタビュア] 教会の危機のうちで主要な問題を含めてですか。
[パリャラーニ神父] こんにちの重要な話題は何でしょうか。召命、司祭の聖化、霊魂の世話です。教会の悲劇的な状況があっても、私たちの心に、もう義務を果たすことはできないというほどの大きな心理的衝撃を与えることは決してありません。私たちが先を見通せたとしても、それで私たちが麻痺して活動できなくなることは決してありません。たとえ教会の悲劇的状況があろうとも、それが闇に向かおうともです。危機を十字架の観点から考察すれば、私たちは平静を保ち、一歩引くことができます。なぜなら、私たちが確かな判断を下すことになるならば、平静さと客観性の両方とも、なくてはならないものだからです。
教会の置かれている現在の状況は、悲劇的な衰退の状態です。召命、司祭の数、信仰の実践の急激な減少、キリスト教的慣習や、天主についての最も基本的な感覚の消失といったものであり、これらは、ああ、自然の道徳の破壊において、こんにち明白になっています。
さて、聖ピオ十世会は、聖伝に立ち返る運動をけん引するのに必要なすべての手段を持っています。もっと正確に言えば、私たちは二つの要求に直面しなければなりません。
― 一方で、真理を思い起こさせ、誤謬を非難することによって、私たちのアイデンティティーを保つことです。「Praedica verbum: insta opportune, importune: argue, obsecra, increpa.」「み言葉を宣教せよ。よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ、とがめ、勧め、非難せよ」(ティモテオ後書4章2節)。
― 他方では、「in omni patientia, et doctrina,」「すべての忍耐と教えをもって」(同)、その方向に歩んでいる人々を聖伝に惹きつけ、励まし、少しずつ戦いへと、増えつつある勇気ある態度へと導くことです。真理に渇くカトリックの霊魂たちは、確かにまだ存在しており、私たちには彼らに対して、無関心な、あるいは高慢な態度によって、福音という一杯の水を拒否する権利はありません。これらの霊魂たちは、彼ら自身の持つ勇気と決意によって、最後にはしばしば私たちを勇気づけてくれるのです。
この二つの要求は補い合うものです。私たちは、この二つを切り離すことが出来ません。つまり、第二バチカン公会議から由来する誤謬への非難だけに全力をそそぐ、あるいは、教会の危機に気がついて教えを受ける必要のある人々に対して私たちの義務として助けることだけに力を注ぐ、など一方を他方から離すことはできません。この二重の要求は深いところで一つの要求です。なぜなら、これは真理への愛のみを表現だからです。
[インタビュア] 真理に渇く霊魂たちへのこの助けは、どのようにして具体的な形を取るのでしょうか。
[パリャラーニ神父] 私たちは御摂理に対して限界を置くべきではないと、私は思います。御摂理はさまざまな状況に対して適切な手段を、ケースバイケースで私たちに与えてくれるからです。それぞれの霊魂は、自分の中にある一つの世界であり、背景には個人的な経緯がありますから、効果的に助けが来るような位置にあるように、個別に霊魂を知ることが必要です。これが、私たちが自分の中に養成しなければならない基本的な態度、他人への助けが来るための優先すべき心の持ちようであって、誰にでも適用される普遍性のある取扱説明書を作るというありえないことへの関心を持つのではありません。
いくつか具体的な例を挙げてみましょう。私たちの神学校は現在、聖ピオ十世会の外部の司祭を受け入れています。ツァイツコーフェンに3人、ラ・レハに2人です。彼らは、教会の状況を明確に見たいと思っており、何にもまして自分たちの司祭職を完全に生きたいと望んでいます。
司祭職の影響力は、教会が聖伝に立ち返るための唯一の手段です。私たちは、この確信を全面的によみがえらせなければなりません。聖ピオ十世会は、もうすぐ48周年を迎えます。天主の恩寵によって、世界中に大きな広がりを持つに至りました。あらゆるところで増加している仕事、多くの司祭や管区、修道院、学校などを持っています。この広がりの持つ否定的な面は、当然のことながら初期の宣教精神が弱まっていくことです。そうするつもりはなくとも、私たちは、この発展から生じる毎日の問題に対処することによって、ますます自らを失っていきます。その結果として、使徒的な精神は弱まるかもしれません。起こり得る危険は、偉大な理想が消えていくであろうことです。私たちは、1970年に聖ピオ十世会が創立されてから第三世代の司祭です。創立者が私たちに注ぎ込んでくださった宣教の熱意を再発見する必要があります。
[インタビュア] この危機において、何が聖伝に忠実な多くの信者たちを苦しめているのでしょうか、私たちはローマと聖ピオ十世会の関係についてどのように考えるべきでしょうか。
[パリャラーニ神父] ここでもまた、私たちは、超自然の見方を保ち、この疑問を障害物にすることを避けるよう努力しなければなりません。なぜなら、あらゆる障害物は主観的に精神を悩ませ、精神がその目標である客観的な真理に到達するのを妨げるからです。
こんにちにおいては特に以前よりも、私たちは、急いで判断を下すのを避けなければなりません。その判断はしばしば、現代のコミュニケーション手段によって助長されているからです。私たちは、ローマの文書や微妙な話題について、「断定的な」コメントをし始めてはなりません。コメントを7分でさっと作って、1分でオンラインに投稿するといったことは避けるべきです。「スクープ」を入手したり「無駄話」を作ったりするのは、ソーシャルメディアによる新しい要求ですが、このようにしてソーシャルメディアが発する情報は非常に表面的なもので、さらに悪いことには、長い期間にわたって、真剣で深い黙想を全くできなくさせてしまうのです。情報を読んだ人、聞いた人、見た人は悩まされます。この心配は、彼らが情報を受け取る方法に影響を与えます。聖ピオ十世会は、この不健全かつ、最終的な分析によれば、この世的な傾向から、非常に多くの苦しみを受けてきました。この傾向は、私たちみなが緊急に正そうとしなければなりません。私たちがインターネットに接続する時間が少なければ少ないほど、よりよく精神の平安と落ち着いた判断を再発見するでしょう。スクリーンを見る時間が少なければ少ないほど、よりよく実際の出来事とその正確な受け入れについての客観的な評価をすることができるでしょう。
ローマとの関係について
[インタビュア] ローマとの関係について、本当のところはどうなっているのでしょうか。
[パリャラーニ神父] かつてローマの神学者たちと教理的な議論をして以来、私たちは二つの連絡窓口と相対していると言えます。注意深く区別しなければならない二つのレベルに構築された二種類の関係です。
1. 公的で公式の明確な窓口であり、それは今でも、本質的に同じ教理の内容を持つ声明を私たちに押し付けています。
2. 一人またはもう一人の教皇庁のメンバーから発せられる別の窓口で、興味深い私的な交流です。その内容には、公会議の相対的価値、教理のあれやこれやなどに関する新しい要素があります。これらは、新しく興味深い議論であり、確かに追求すべきものですが、それにもかかわらず非公的、非公式で私的な議論であって、一方で公式のレベルにおいては、言い回しに一定の進展はあるものの、同じ要求が常に繰り返されているのです。
確かに、私たちは私的に言われた肯定的なことを、注意深く心に留めておきますが、それは実際にローマが言っていることではありません。これは、善意ある小心なニコデモたちであり、彼らは公式な位階階級にはいません。ですから、公式な文書に厳密に従う必要があり、私たちがその文書をなぜ受け入れることができないのかを説明する必要があります。
最新の公式文書―たとえば2017年6月付のミュラー枢機卿からの手紙―は、常に同じ要求を表現しています。前提条件として公会議を受け入れなければならず、そのあとで聖ピオ十世会について明確でないことを議論していくことが可能であり、そうすることによって、彼らは、私たちの反対意見を、読む際と理解する際における主観的な難しさのせいだと格下げするのです。そして、彼らは、公会議が本当に言っていることを私たちが正しく理解するのを助けると約束するのです。ローマの当局は、この最初に受け入れることを、信仰と原則に関する質問に変えています。彼らは、このことをはっきりと言います。こんにちの彼らの要求は、30年前と同じです。第二バチカン公会議は、教会の聖伝の継続性によって、その聖伝に統合された一部として、受け入れられなければならない、と。彼らは、聖ピオ十世会の側に説明に値する留保があり得るという私たちの指摘については譲歩して認めていますが、そのような公会議の教えの拒否は決して認めていません。[彼らにとって]これは、純粋かつ単純に教導権による教えなのですから。
さて、問題はまさにここに、常に同じところにあります。私たちは問題を他のところに移すことはできません。【教義的ではなく】司牧的であろうとした公会議の教義的権威とは、いったい何なのでしょうか【そんなものがあるのでしょうか】?第二バチカン公会議が教えたこれらの新しい原理は組織的に、完全に適用されてきましたし、公会議と公会議後の両方の期間、責任のある位階階級によって教えられてきたことと完璧な継続性をもっていますが、これらの新しい原理の価値とは何でしょうか?この現実の公会議とは、信教の自由を宣言した公会議であり、団体主義の公会議、エキュメニズムの公会議、いわゆる「生ける聖伝」【聖伝は生きているから変化するという言い訳】の公会議、云々であって、残念ながら、公会議を間違って解釈した結果ではありません。このことを証明しているのは、この現実の公会議は、正当な当局によって正されたり修正されたりしたことがないということです。この公会議は、教会についての、一つの精神、一つの教え、一つの考え方を伝えています。その内容は、霊魂の聖化のためには障害物となっています。その悲劇的結果は、知的に誠実な人々の目の前で、善意のすべての人々の目の前で、あまりにも明らかです。この現実の公会議のために、「天主の民」に押し付けられてきた、一つの教理的教え【エキュメニズムなどを含める新しい教え】と、教会の日常生活の或る実践【カリスマ運動を含める新しい典礼やエキュメニカルな集会などの新しい実践】とが同時に生じています。私たちは、この現実の公会議をそれ以外の公会議のような公会議の一つとして受け入れることを拒否しています。これが、私たちが第二バチカン公会議の権威について議論している、しかし常に愛徳の精神をもって義論を行っている理由です。なぜなら、私たちは教会の善と霊魂の救い以外には何も望んでいないからです。私たちの議論は単なる神学的な論戦の場ではなく、実際、「議論の余地」のない主題についてなされています。ここでは間違いなく、教会のいのちが懸かっています。それは、天主が私たちをお裁きになるそのことなのです。
ですから、これは、私たちがローマからの公式な文書に執着する際の見方であり、尊重しつつも現実主義でもあるのです。右か左か、強硬派か穏健派かではありません。単に現実主義的であるに過ぎません。
[インタビュア] 待っている間に、何をすべきでしょうか。
[パリャラーニ神父] 私は、いくつかの優先事項を申し上げることをもってのみ、お答えすることしかできません。第一に、御摂理を信頼してください。御摂理は、私たちを見放すことはできず、その御保護と御慈悲のしるしを常に私たちに与えてきてくださっています。疑うこと、ためらうこと、御摂理から他の保証を求めることは、感謝の念が著しく欠けていることになってしまいます。私たちの揺るぎのなさと強さは、天主に対する私たちの信頼にかかっています。私たちみなが、そういった事柄について、自分の良心を吟味すべきだと思います。
さらに言えば、私たちが両手に持っている宝を毎日再発見する必要があり、この宝が主ご自身から来ていること、この宝は主に御血を流すという犠牲を負わせて得られたものだということを思い起こす必要があります。栄光の中にあるこれらの崇高な現実の前に、定期的にもう一度自分を置くことによって、私たちの霊魂は常に礼拝し続け、試練の日に必要なように強められるでしょう。
私たちはまた、子どもの教育への関心高めなければなりません。私たちが到達したいと望む目標、十字架について、主のご受難について、小さき者に対する主の愛について、犠牲について、子どもたちに話すのを恐れないことを望むという目標を、明確に心に留めておくことが必要です。子どもたちの霊魂は、この世の精神が彼らを誘惑し、夢中にさせる前に、ごく幼い年齢で主の愛に捉えられることが絶対に必要です。この問題は、絶対的に優先すべきであり、もし私たちが受けたものを伝達するのにうまく対応しなかったとしたら、それは私たちがそのことを十分に確信していないというしるしです。
最後に、私たちは、ある種の知的怠惰と闘わねばなりません。教理は実際、教会と霊魂のための私たちの闘いに、その存在理由を与えるものです。昨今の大きな出来事についての分析を更新する努力をすることが必要です。その更新は、不幸にもインターネットが --- またここでもインターネットです --- 良くやっている怠惰な「コピー・アンド・ペースト」で満足せずに、永続的な教理の観点からなされるべきです。智慧はものごとを、いつでも、秩序立て、また、秩序良く整えてくれ、一つ一つのことは、そのあるべき正確な場所を見いだします。
ルフェーブル大司教のミサ十字軍
[インタビュア] もっと実践的には、信者は何ができますか。
[パリャラーニ神父] ミサにおいて、信者は、洗礼のときに司祭によって発せられるエフェッタ、すなわち「開けよ」のこだまを発見します。信者の霊魂は、聖なる犠牲の恩寵に対して、もう一度開かれます。ごく年少だとしても、ミサにあずかる子どもたちは、聖伝の典礼が表現する聖なる意味に敏感です。何にもまして、ミサにあずかることは、結婚した夫婦の生活を、あらゆる試練によって、実りあるものにさせます。そして、その生活に、主の犠牲から流れ出る婚姻の秘蹟の恩寵についての深い超自然の意味を与えます。ミサにあずかることは、天主のわざのうちで最も美しいもの、すなわち彼らの子どもたちの霊魂を聖化し保護すること、への協力者として、彼らを使おうと天主がお望みになっているということを、彼らに思い起こさせることです。
1979年の金祝のとき、ルフェーブル大司教様は私たちをミサ十字軍に招待してくださいました。それは、天主が、司祭職を更新すること、そして司祭職によって、こんにちあらゆる方面から攻撃を受けている家庭を更新することをお望みになっているからです。そのときの大司教様の見通しは預言的でした。現在では、誰もが見て分かるようになっています。大司教様が予見なさったことを、私たちは今、自分の目の前で見ているのです。
「そのとき、私たちが行うべく残されたものは何ですか、親愛なる兄弟の皆さん。私たちが、ミサという偉大なる神秘の理解を深めるならば、私たちは十字軍を持つべきだと言うことができると思います。それによって、ミサの聖なる犠牲を、私たちの主イエズス・キリストを強調し、ミサの聖なる犠牲というその無敵の岩かつ無尽蔵の恩寵の源泉を強調するのです。皆さんは、ミサの聖なる犠牲を愛するがゆえに、ここにいるのです。エコンやアメリカ、ドイツで勉強しているこれらの若い神学生たちは、聖なるミサのために、全時代のミサのために、私たちの神学校にやって来ました。このミサこそが、恩寵の源泉であり、聖霊の源泉であり、キリスト教文明の源泉なのですから。そのために、司祭が存在しているのですから。さて、ですから、私たちは十字軍を行わなければなりません。教会が望んだように、教会が常に行ってきたように、同じ原則をもって、同じミサの犠牲をもって、同じ秘蹟をもって、同じカテキズムをもって、同じ聖書をもって、キリスト教世界を再創造するために、キリスト教世界を再建するためにです」(パリのポルト・ド・ベルサイユで1979年9月23日の司祭叙階50周年の機会に行われたルフェーブル大司教の説教)
このキリスト教世界は、良き主が私たちを置かれたまさにその場所で、私たちの生きている状態に応じた義務を忠実に行うことによって、毎日の生活で再創造されねばなりません。ある人々は、教会と聖ピオ十世会があるべき状態にないという事実を悲しんでいます。彼らは、自分たちが、自分たちの立場で、自分たちの個人的な聖化によって、この欠陥を癒やす手段であるということを忘れています。そこにおいては、誰もが総長なのです。選ばれる総会は必要なく、毎日、その教会の一部分を聖化することが必要です。その一部分は絶対的な主人、その人の霊魂なのですから。
ルフェーブル大司教は続けます。「私たちはこのキリスト教世界を再創造しなければなりません。そして皆さん、親愛なる兄弟の皆さん、皆さんは地の塩であり、世の光(マテオ5章13-14節)です。皆さんは、私たちの主イエズス・キリストが次のようにおっしゃった人々なのです。主は皆さんに、『わが血による霊的な実を無駄に使うな。わがカルワリオを捨て去るな、わが犠牲を捨て去るな』と言われました。ですから、十字架の下にたたずみ給う童貞マリアは、同じように皆さんに言われます。御心をつるぎで貫かれ、苦しみと悲しみに満ちながらも、同時にご自分を天主の御子の犠牲と一致させた喜びに満ちた聖母は、同じようにこう言われます。『キリスト教徒でいましょう、カトリックでいましょう』。この世の考えによって、私たちを罪と地獄に引き寄せる昨今のこの世の思想によって、心を奪われないようにしましょう。天国に行きたいなら、私たちは私たちの主イエズス・キリストに従わなければならず、自分の十字架を担って私たちの主イエズス・キリストに従い、十字架において、苦しみにおいて、犠牲において主に倣わなければなりません」。
ですから、聖ピオ十世会の創立者は、若者たちのために、キリスト教徒の家庭のために、家庭の長のために、司祭のために、十字軍を起動しました。彼は、雄弁をもって強く主張しました。それは、40年後のこんにちでも私たちを感動させます。私たちは、この良薬が現代の悪に対してどれほど多く用いられるかを見ているのですから。
「イエズス・キリストが私たちに与えてくださった遺産は、その犠牲です。それは主の御血であり、主の十字架です。そしてそれは、キリスト教文明の、私たちを天国に連れて行くことになっているすべてのもののパン種です。私たちの主イエズス・キリストのこの証しを守ってください。私たちの主イエズス・キリストの犠牲を守ってください。全時代のミサを守ってください。そうすれば、皆さんはキリスト教文明が再び栄えるのを見るでしょう」。
40年後の今、私たちはこの十字軍の責任を逃れることはできません。そのためには、教会と霊魂に対する、さらなる求められる熱意と、さらなる熱心な奉仕を必要とします。このインタビューの最初に申し上げたように、聖伝は完全に私たちのものですが、その栄誉は重大な責任を生み出します。私たちは、私たちが受けたものを伝えることの忠実さについて、裁きを受けることになるでしょう。
[インタビュア] 総長様、締めくくりの前に、もう少し個人的な質問をするのをお許しください。あなたが今年の7月11日に両肩に担った責任を思うと、恐れを感じませんか。
[パリャラーニ神父] はい、私はそれを認めなければなりません。少し恐れを感じ、お受けする前に気持ちにためらいさえもありました。私たちはみな、土の器であり、これは総長に選ばれた人間にとっても同じです。それがもっと見ることができ、かつもっと大きな器であったとしても、それにもかかわらず壊れやすいものなのです。
いとも聖なる童貞を思うことは、私たちが恐れに打ち勝つようにしてくれる唯一のことです。私は自分の信頼を聖母のみに置いており、全面的にそうしています。聖母は土でできていません。象牙でできているからです。聖母は壊れやすい器ではありません。難攻不落の塔、[聖母の連祷の中で言うように]turris eburnea[象牙の塔]だからです。聖母は戦列を整えし軍勢、terribilis ut castrorum acies ordinata[雅歌6章3節]であり、この軍勢は、勝利が唯一の起こり得る結果だと、あらかじめ知っているのです。「最後には私の汚れなき心が凱旋するでしょう」。