2018年10月21日(主日)聖霊降臨後第22主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会のようこそ。
今日は2018年10月21日、聖霊降臨後第22主日です。
明日は7時からミサがあります。今日は14時半から公教要理がありますが、特に次のミサの為の聖歌の練習をしたいと思っています。16時からは晩課があります。
11月のミサは少しイレギュラーになっております。第一の主日と最後の主日になっています。
「チェザルのものはチェザルに、そして天主のものは天主に与えよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日ミサが始まると、聖歌隊は、“Si iniquitates observaveris, Domine, Domine, quis sustinebit?”「もしも御身が邪悪に目を止めるならば、誰がそれに耐える事ができるでしょうか?」と歌いました。
ますます教会は、最後の審判について、私たちの人生の終わりについて、この世の終わりについて、黙想を深めるように招いています。あたかも、審判の裁きの座に入ろうとする霊魂の歌を歌っているかのようです。この地上の短い逐謫(ちくたく)の身において、私たちは天主の助けを求めたいと思います。
そこで、聖パウロは私たちに、「私たちが正義の実りの実に満ち溢れるように」と勧告し、そしてイエズス様は今日の福音で、「チェザルのものはチェザルに、王に属するものは王に、そして天主に属するものは天主に与えよ。」
つまり「正義」の事について話しています。私たちの義務について、私たちの聖徳について話しています。
そこで、特に、「チェザルのものはチェザルに与える、天主のものは天主に与える、という事は、一体詳しく言うとどんな事になるのか?」という事を黙想する事を提案したいと思います。
もちろん、「天主のものを天主に与える」という事は、これは「愛徳」です。しかし別の意味で、「天主のものを天主に返す」というのは、これは「正義」でもあります。
「愛徳」というのは、たとえそれが私たちの義務ではなかったとしても、私たちはそれを、その善を愛するが故に、その善を望むが故に、愛するものを追求する事です。しかし「正義」の徳は、それがなされて当然だから行ないます。
そこで今日私の提案するのは、特に天主に対して当然なされるべき「正義」の徳についての黙想です。
「天主を愛する、たとえ義務でなかったとしても愛する」をはるかに超えて、その土台にある、「天主に当然私たちが捧げなければならない、返さなければならない義務がある」という事です。
そこで今回は、ではその天主に当然返さなければならないものは「正義」と言われますけれども、
⑴その「正義」というものは一体何か?という事を簡単に黙想します。
⑵その次に、その正義を達成する為に、天主には一体どのようなものがなされるべきか?という事を黙想して、
⑶最後に遷善の決心を取る事に致しましょう。
⑴「正義」というのは、私たちがそのなさなければならないものを、他者に対して等しく変換する事です。等しく帰属させる事です。
例えば、「誰かが1万円を受け取らなければならない。なぜならば、1万円に相当する価値のものを私は受け取ったからだ。その為に私はその人に1万円を与える。」これが正義です。
もしもある人が、1万円の価値のあるものをもらったにも関わらず、私はそれを与えなかった、あるいはちょんぼした、不足して与えた、というのは、これは正義に欠ける事になります。不正をなす事になります。
そこで、正義の徳には2つの要素がある事を知って下さい。
1つは、「当然なすべきもの」という概念です。なされるべきもの。
もう1つは、「イコール関係、等合関係、等しいもの、それに等しい事」という事です。それを他者にする事です。負い目を、義務を、等しく正確に、それだけ、多くもなく少なくもなく、それだけ返す、それだけ与える、これが正義です。
ところで、この私たちの人間生活を送る中に、社会においては、その正義を等しく等号関係で与える、という事ができない部分があります。その等合関係ができないけれども、それにあまりにも不足しているけれども、それでもできる限りをする、というところに、その対象に、「天主」があります。
天主からは全てを受けているので、私たちは全てを返しても、まだそれでも足りません。そこで、天主と私たちの関係は、正義の関係ですけれども、完全な正義ではありません。完全な等合が成り立たないからです。ですからこのような関係の事を、「宗教の関係」と言います。
もう1つあります。それは「親子」の関係です。親から私たちは命を受け、教育を受け、色々な援助を受けました。それで親にはその事を感謝して、それにお礼をしたいのですけれども、お礼をし尽くす事ができません。そこでこの親子の関係は、孝行の関係であって、ラテン語では“pietas(ピエタス)”と言います。
実はまだあるのです。この社会が成り立つ為には、この社会に徳のある人たちが、良い人たちが存在しなければなりません。その良い人たちが当然受けるべき称讃とか、あるいは感謝とか、あるいは治世者、あるいは上に立つ人たちに対しては、敬意が払われなければなりません。
ところがその私たちが、その善行や良い行ないに対して、それに等合関係の敬意を払い尽くす事ができるとは必ずしも限りません。私たちが与える事ができるのは、賞状とか、金メダルとか、その程度のものです。
ですからその等合関係が必ずしも成立していない、しかし正義は私たちに何かをする事を要求する、という事があります。
もう1つは、私たちがどうしてもしなければならない事であって、これは2つの種類があります。
「法律で決められているからしなければならない事」と、もう1つは、「法律で決められていなくても、私たちが誠実であるが為に、私たちが善徳を持っているが為に、私たちが徳のある人であるが為に、私たちが良識があるが為に、私たちが文化人であるが為に、道徳的にそうする必要性があるもの」です。
そして、その「法律でたとえ決められていなかったとしても、当然私たちがして為すべき」というものにはいくつかあります。
一番私たちがしなければならない義務というのは、「真実を語る事」です。
いつも、正確に、その事実通り、現実の通りに真実である、という事です。これは私たち皆が負っている義務です。
もしも私たちがその真実に現実に反する事を、「そうだ」と主張する事は、これは社会を崩壊させる事です。例えば、「人間はイヌと結婚するとかが当然の事である」とか等です。
あるいは「当然のものを受ける」ということです。
例えば、「善をした人は、これはその称讃を受けるべきである」とか、「悪をした人は罰せられるべきである」という事は、社会が成り立つ為に、真実を語ると共に必要な、私たちの正義をする為に必要なものです。「良いものには賞賛を褒美を、そして悪には罰則を。」これが正義です。
それほど厳しい義務、厳しく私たちが支払わなければならない、というわけではないけれども、しかし私たちが良ければ良い人であるほど、徳があれば徳があるほど、崇高であれば崇高であるほど、私たちが当然なさなければならないものもあります。必ずしもこれがなければ社会が成立せざるを得ない、というわけでもないのですけれども、しかし当然すべきものがあります。
それは、目上の人に対しては私たちは申しました、「孝行」とか「宗教」とかあるいは「敬意」などですが、同じ人には、「友情」とかあるいは「調和」とか「穏やかな関係」とか、あるいは目下に対しては子供たちに対しては、「愛情」とかあるいは必要であれば「援助」とか「助け」とか「救済」などが必要です。これが正義の徳ですけれども、特に『宗教』について私たちは見る事にします。
⑵「愛徳」は、天主を直接にその目的として愛す、それを天主を最高の善として愛する事を、その徳の行為とします。
ところが「宗教の徳」というのは、正義の徳の一部としての宗教の徳、宗教は、この全ての善の源であって、私たちが究極的に帰らなければならない、最高の究極の目的である天主へと私たちを秩序付けるものであって、そしてこの天主のその素晴らしさ、その憐れみ、その良さ善良さ、その正義、その大自然をはるかに超えるその崇高さに対して、私たちは当然なすべき感謝や、礼拝や、あるいはいけにえ、祈り、黙想などを捧げる事にあります。
ですから、「愛徳」と「宗教」の違いというのは、愛徳の直接の対象は「天主」であるとすると、宗教の直接の対象は「天主の素晴らしさ」にあります。そしてこれに対して当然なすべき礼拝を捧げる事にあります。
カトリック教会の教えの下で、全ては、法律も、経済も、社会も、教育も、家庭も、福祉も、全社会が、この天主を頂点とする秩序に基づいていました。そしてカトリック教会の教えによって、当然、「親に払うべきものは孝行。そして社会の長上に対しては敬意を。天主に対しては宗教を、真の宗教の礼拝を捧げるように。心と体を以て捧げるように。そして王でさえも、高貴な者も、貧しい者も、男も、女も、全て天主に捧げるように、礼拝を捧げるように」と指導してきました。
唯一の天主、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会の下で、人間は幸せに生活する事ができました。
しかし、もしもこの天主へのなすべき、この当然なすべきものをされないとしたら、それを最初に大きな運動として、しない事を始めたのは、マルチン・ルターでした。「ミサを廃止しよう。そして教会の代わりに聖書にすげ替えよう。そして聖伝あるいは教導権の代わりに、自分の理性で、自分の自由解釈ですげ替えよう、取り替えよう」としたところから、社会は不幸へと道を始めてしまいました。
結局は、「信仰から切り離された人間の理性が社会を作ろう」あるいは「人間の経済的な利益だけが、全ての測りだ。だから社会は、国家は、他の人が自分の利益に邪魔をしないように、自由を守るだけで良い」等として、その反動として、共産主義が起こったり、その他のイデオロギーが起こったのは、私たちはよく知っています。
⑶では、イエズス様は私たちに、この典礼暦の終わりに、何を教えようとしているのでしょうか?
この世の終わりの裁きの日には、そして私たちの人生の終わりにも、この正義について私たちは裁かれます、「天主に捧げるものを、捧げたか、否か。」
私たちの人生はどうだったでしょうか?
マリア様にぜひ御取り次ぎを願いしましょう。私たちが主を愛して、全てに越えて主を愛し、そして天主に捧げるべき、当然捧げるべきものをできるだけ捧げる事ができますように、最高の礼拝と、祈りと、感謝と、讃美と、そして罪の償い、祈りを、黙想を捧げる事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会のようこそ。
今日は2018年10月21日、聖霊降臨後第22主日です。
明日は7時からミサがあります。今日は14時半から公教要理がありますが、特に次のミサの為の聖歌の練習をしたいと思っています。16時からは晩課があります。
11月のミサは少しイレギュラーになっております。第一の主日と最後の主日になっています。
「チェザルのものはチェザルに、そして天主のものは天主に与えよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日ミサが始まると、聖歌隊は、“Si iniquitates observaveris, Domine, Domine, quis sustinebit?”「もしも御身が邪悪に目を止めるならば、誰がそれに耐える事ができるでしょうか?」と歌いました。
ますます教会は、最後の審判について、私たちの人生の終わりについて、この世の終わりについて、黙想を深めるように招いています。あたかも、審判の裁きの座に入ろうとする霊魂の歌を歌っているかのようです。この地上の短い逐謫(ちくたく)の身において、私たちは天主の助けを求めたいと思います。
そこで、聖パウロは私たちに、「私たちが正義の実りの実に満ち溢れるように」と勧告し、そしてイエズス様は今日の福音で、「チェザルのものはチェザルに、王に属するものは王に、そして天主に属するものは天主に与えよ。」
つまり「正義」の事について話しています。私たちの義務について、私たちの聖徳について話しています。
そこで、特に、「チェザルのものはチェザルに与える、天主のものは天主に与える、という事は、一体詳しく言うとどんな事になるのか?」という事を黙想する事を提案したいと思います。
もちろん、「天主のものを天主に与える」という事は、これは「愛徳」です。しかし別の意味で、「天主のものを天主に返す」というのは、これは「正義」でもあります。
「愛徳」というのは、たとえそれが私たちの義務ではなかったとしても、私たちはそれを、その善を愛するが故に、その善を望むが故に、愛するものを追求する事です。しかし「正義」の徳は、それがなされて当然だから行ないます。
そこで今日私の提案するのは、特に天主に対して当然なされるべき「正義」の徳についての黙想です。
「天主を愛する、たとえ義務でなかったとしても愛する」をはるかに超えて、その土台にある、「天主に当然私たちが捧げなければならない、返さなければならない義務がある」という事です。
そこで今回は、ではその天主に当然返さなければならないものは「正義」と言われますけれども、
⑴その「正義」というものは一体何か?という事を簡単に黙想します。
⑵その次に、その正義を達成する為に、天主には一体どのようなものがなされるべきか?という事を黙想して、
⑶最後に遷善の決心を取る事に致しましょう。
⑴「正義」というのは、私たちがそのなさなければならないものを、他者に対して等しく変換する事です。等しく帰属させる事です。
例えば、「誰かが1万円を受け取らなければならない。なぜならば、1万円に相当する価値のものを私は受け取ったからだ。その為に私はその人に1万円を与える。」これが正義です。
もしもある人が、1万円の価値のあるものをもらったにも関わらず、私はそれを与えなかった、あるいはちょんぼした、不足して与えた、というのは、これは正義に欠ける事になります。不正をなす事になります。
そこで、正義の徳には2つの要素がある事を知って下さい。
1つは、「当然なすべきもの」という概念です。なされるべきもの。
もう1つは、「イコール関係、等合関係、等しいもの、それに等しい事」という事です。それを他者にする事です。負い目を、義務を、等しく正確に、それだけ、多くもなく少なくもなく、それだけ返す、それだけ与える、これが正義です。
ところで、この私たちの人間生活を送る中に、社会においては、その正義を等しく等号関係で与える、という事ができない部分があります。その等合関係ができないけれども、それにあまりにも不足しているけれども、それでもできる限りをする、というところに、その対象に、「天主」があります。
天主からは全てを受けているので、私たちは全てを返しても、まだそれでも足りません。そこで、天主と私たちの関係は、正義の関係ですけれども、完全な正義ではありません。完全な等合が成り立たないからです。ですからこのような関係の事を、「宗教の関係」と言います。
もう1つあります。それは「親子」の関係です。親から私たちは命を受け、教育を受け、色々な援助を受けました。それで親にはその事を感謝して、それにお礼をしたいのですけれども、お礼をし尽くす事ができません。そこでこの親子の関係は、孝行の関係であって、ラテン語では“pietas(ピエタス)”と言います。
実はまだあるのです。この社会が成り立つ為には、この社会に徳のある人たちが、良い人たちが存在しなければなりません。その良い人たちが当然受けるべき称讃とか、あるいは感謝とか、あるいは治世者、あるいは上に立つ人たちに対しては、敬意が払われなければなりません。
ところがその私たちが、その善行や良い行ないに対して、それに等合関係の敬意を払い尽くす事ができるとは必ずしも限りません。私たちが与える事ができるのは、賞状とか、金メダルとか、その程度のものです。
ですからその等合関係が必ずしも成立していない、しかし正義は私たちに何かをする事を要求する、という事があります。
もう1つは、私たちがどうしてもしなければならない事であって、これは2つの種類があります。
「法律で決められているからしなければならない事」と、もう1つは、「法律で決められていなくても、私たちが誠実であるが為に、私たちが善徳を持っているが為に、私たちが徳のある人であるが為に、私たちが良識があるが為に、私たちが文化人であるが為に、道徳的にそうする必要性があるもの」です。
そして、その「法律でたとえ決められていなかったとしても、当然私たちがして為すべき」というものにはいくつかあります。
一番私たちがしなければならない義務というのは、「真実を語る事」です。
いつも、正確に、その事実通り、現実の通りに真実である、という事です。これは私たち皆が負っている義務です。
もしも私たちがその真実に現実に反する事を、「そうだ」と主張する事は、これは社会を崩壊させる事です。例えば、「人間はイヌと結婚するとかが当然の事である」とか等です。
あるいは「当然のものを受ける」ということです。
例えば、「善をした人は、これはその称讃を受けるべきである」とか、「悪をした人は罰せられるべきである」という事は、社会が成り立つ為に、真実を語ると共に必要な、私たちの正義をする為に必要なものです。「良いものには賞賛を褒美を、そして悪には罰則を。」これが正義です。
それほど厳しい義務、厳しく私たちが支払わなければならない、というわけではないけれども、しかし私たちが良ければ良い人であるほど、徳があれば徳があるほど、崇高であれば崇高であるほど、私たちが当然なさなければならないものもあります。必ずしもこれがなければ社会が成立せざるを得ない、というわけでもないのですけれども、しかし当然すべきものがあります。
それは、目上の人に対しては私たちは申しました、「孝行」とか「宗教」とかあるいは「敬意」などですが、同じ人には、「友情」とかあるいは「調和」とか「穏やかな関係」とか、あるいは目下に対しては子供たちに対しては、「愛情」とかあるいは必要であれば「援助」とか「助け」とか「救済」などが必要です。これが正義の徳ですけれども、特に『宗教』について私たちは見る事にします。
⑵「愛徳」は、天主を直接にその目的として愛す、それを天主を最高の善として愛する事を、その徳の行為とします。
ところが「宗教の徳」というのは、正義の徳の一部としての宗教の徳、宗教は、この全ての善の源であって、私たちが究極的に帰らなければならない、最高の究極の目的である天主へと私たちを秩序付けるものであって、そしてこの天主のその素晴らしさ、その憐れみ、その良さ善良さ、その正義、その大自然をはるかに超えるその崇高さに対して、私たちは当然なすべき感謝や、礼拝や、あるいはいけにえ、祈り、黙想などを捧げる事にあります。
ですから、「愛徳」と「宗教」の違いというのは、愛徳の直接の対象は「天主」であるとすると、宗教の直接の対象は「天主の素晴らしさ」にあります。そしてこれに対して当然なすべき礼拝を捧げる事にあります。
カトリック教会の教えの下で、全ては、法律も、経済も、社会も、教育も、家庭も、福祉も、全社会が、この天主を頂点とする秩序に基づいていました。そしてカトリック教会の教えによって、当然、「親に払うべきものは孝行。そして社会の長上に対しては敬意を。天主に対しては宗教を、真の宗教の礼拝を捧げるように。心と体を以て捧げるように。そして王でさえも、高貴な者も、貧しい者も、男も、女も、全て天主に捧げるように、礼拝を捧げるように」と指導してきました。
唯一の天主、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会の下で、人間は幸せに生活する事ができました。
しかし、もしもこの天主へのなすべき、この当然なすべきものをされないとしたら、それを最初に大きな運動として、しない事を始めたのは、マルチン・ルターでした。「ミサを廃止しよう。そして教会の代わりに聖書にすげ替えよう。そして聖伝あるいは教導権の代わりに、自分の理性で、自分の自由解釈ですげ替えよう、取り替えよう」としたところから、社会は不幸へと道を始めてしまいました。
結局は、「信仰から切り離された人間の理性が社会を作ろう」あるいは「人間の経済的な利益だけが、全ての測りだ。だから社会は、国家は、他の人が自分の利益に邪魔をしないように、自由を守るだけで良い」等として、その反動として、共産主義が起こったり、その他のイデオロギーが起こったのは、私たちはよく知っています。
⑶では、イエズス様は私たちに、この典礼暦の終わりに、何を教えようとしているのでしょうか?
この世の終わりの裁きの日には、そして私たちの人生の終わりにも、この正義について私たちは裁かれます、「天主に捧げるものを、捧げたか、否か。」
私たちの人生はどうだったでしょうか?
マリア様にぜひ御取り次ぎを願いしましょう。私たちが主を愛して、全てに越えて主を愛し、そして天主に捧げるべき、当然捧げるべきものをできるだけ捧げる事ができますように、最高の礼拝と、祈りと、感謝と、讃美と、そして罪の償い、祈りを、黙想を捧げる事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。