2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【8】
同時通訳:小野田圭志神父
最後に挙げた例で、「マリア様が私たちにどれほど必要であるか」という事がよく理解できたと思います。そしてそれによって私たちの心に平和がやって来ます。マリア様は私たちにとって、仲介者の役割を取って下さいます。
では、終末の時代に私たちを聖人とする、「マリア様へのまことの信心」とはどんな特徴を持っているでしょうか?
それは、「マリア様が母である」という事と、「元后である」という事をよく理解しなければなりません。私たちの方では、「マリア様の忠実な子供であり、また奴隷である」という事を理解しなければなりません。これは、まことの信心とは実は、「子供が母に対するそういう態度」これがその中核のその本質にあります。
ですからこの話では講話では、「母親」という事と、「元后、女王」という事の、この2つの言葉について黙想しましょう。
十字架の下で、マリア様は私の母として指名されました。マリア様はそのいつも、いつも、私たちの母であります。問題は、私がその事を理解できていないという事です。私は、私こそがマリア様からいつも離れている子供である、という事が問題です。ですから、「この母親とは一体どのような方か」という事を理解しなければなりません。母、御母、み母マリア、マリア様が母である、という事はどういう事かを理解して下さい。
そこで次の点を見て下さい。201から212番をご覧下さい。このグリニョン・ド・モンフォールの書いた事をよく理解する為に、必要な事をまず申し上げます。なぜかというと、グリニョン・ド・モンフォールは旧約聖書の中から、子供を非常に愛する母親の例を取っているからです。
この母の名前はレベッカと言います。そのレベッカの愛する子供はヤコブと言います。誰が皆さんの中で旧約聖書の話をよくご存知でしょうか。ヤコブとエザウの二人の子供がいました。ヤコブは天主を愛しますが、エザウはあまりそうではありませんでした。なぜかというと、エザウは邪悪だったからです。でもエザウが最初にやって来て生まれて来て、次にヤコブが生まれて来ました。エザウがですから、長子権、長男の権利を、遺産の相続の権利を持っていました。
ヤコブは信心深い男でした。エザウはところが狩人で野生的な男でした。エザウは飲んだり食べたり、楽しみを求めていました。ある時にはエザウは、お腹が空いたあまり、ヤコブが持っていたスープを長子権の代わりに引き換えてしまいました。でもお父さんイザアクはこの事を知らなかったので、エザウが長男であり続けると思っていました。
そこで、「エザウが長子権を受けるように」と祝福をする日がやってきました。そこでお父さんはエザウに、「じゃあ狩りに行って、私の好きな料理を作りなさい。そうしたら祝福をしてあげよう」と言います。その話をレベッカは聞いた時に、レベッカは少し心配しました。邪悪なエザウが長子権を握ってしまうのではないかと思って、それでヤコブにその事を言います。レベッカは既に、そのスープの代価として長子権をヤコブに売り飛ばしたという事を知っていたので、そうする事が正しいと知っていました。
母親のレベッカはやはりそのヤコブの為に、お父さんのイザアクの好きな料理をします。それでその料理を持って行けと言うのですけれども、お父さんイザアクは子供に聞きます、「おぉ、お前、そんなに料理早くできたのか。誰か、誰なのか?」と聞くと、「私はあなたの長男エザウです」とヤコブは答えます。そういう風に言え、とお母さんはレベッカは言うのですけれども、ヤコブはお母さんに言います、「お母さん、そんな事はできません。お父さんが僕の手に触って、その毛があまり無いので自分が誰か分かってしまうからバレてしまいます。」するとレベッカは強い言葉で言います、「呪いは私に降りかかりますように。だからエザウの一番良い服をお前が着て、そしてエザウは毛深い男だから、お前の手に毛深いようなものを作ってあげる。だからそれを着けて行きなさい。」
そこでヤコブは震える手で、エザウの服を着て、お母さんの作った料理を持って、お父さんの元に近付きます、「お父さん、」するとイザアクが言います、「おぉ、お前は誰なのか?」するとヤコブは、「私は、あなたの最初の長男、エザウです。」イザアクは、「おぉそうか。ではこっちに来なさい。私がお前の手を触ろう。」そしてイザアクはヤコブの体を手を触ると、その時にエザウの着物の匂いがしました。そしてその時に非常に喜びました。「声はヤコブだけれども、でも服はエザウだ。」そこでイザアクはヤコブに全ての祝福を与えます。そしてこうやって、イザアクの全ての遺産の権利を受ける事ができます。
ヤコブが行って、ご飯を食べ終わってくると、エザウがやって来ます、「お父さん、やってきました。今、狩りが終わって、この美味しく料理ができました。」「お前は一体誰なのか?」「あなたの長男、エザウです。」「おぉ!するとさっき私の祝福を受けたのは一体誰なのか!?」するとエザウは非常に自分の弟に向かって怒り狂います。「長子権を私から奪ったのみならず、こうやって祝福さえも奪ってしまった!」でもエザウはこれは本当の事を言っていません。なぜかというと、ヤコブは盗んだわけではなくて、エザウ自身がそれを売り飛ばしたからです。
これを見ると、ある人は、「あぁ、旧約聖書には嘘をついている話があるから」と言います。しかし聖アウグスティヌスをはじめ多くの教父たちは、「これは嘘のように見えるけれども、これは神秘を語っている」と言っています。「実はこの中に、イエズス・キリストと贖われた人たちの姿が隠れている、その神秘がある」と説明します。
レベッカは「天主の御母」のシンボルです。ヤコブはその「マリア様の子供たち」のシンボルです。エザウは長子、最初に生まれた子供のシンボルであって、「イエズス・キリスト」のシンボルです。このエザウの態度ではなくて、エザウのこの「長子権」において、イエズス・キリストを表しています。
聖グリニョン・ド・モンフォールもこの例えを使っています。これを使って、「どれほど御母、み母マリア様が私たちを愛しているか」という事を説明します。レベッカがヤコブにして、そしてヤコブが祝福と長子権を得たようにと同じような事を、マリア様が私にして下さる、という事です。
友人の皆さん、ですから私たちは、このお母様マリア様に、特別の御恵みを求めましょう、「マリア様、インマクラータなるマリア様、御身が私の母である、という事をどうぞ私に示して下さい。」
まず母の第一のしるしというのは、「ご自分の子供を愛する」という事です。「私は、私を愛する人を愛する」(格言の書(箴言)8章17節)と言われている通り、マリア様は、マリア様を愛する人々を特に愛します。なぜマリア様が皆さんと私を愛するかという事を、グリニョン・ド・モンフォールは4つの理由を挙げています。理由は非常に単純です、と同時に、非常に深い意味があります。
201番、第1の理由は、マリア様が本当に私たちの母だからです。マリア様は、イエズス様の十字架の梺に立って、イエズス様がこういうのを聞きました、「見よ、お前の母を見よ。自分の胎内の実である子供を愛さない母親がいるだろうか。」
第2の理由は、マリア様は少しでも愛し返さなければならないからです。なぜかというと、私たちがマリア様の近くに行って、私たちのお母様である、という事を認めたので、マリア様はその認めてくれた、という事を非常に喜んでいるからです。マリア様は私たちがこの泥の中でこう汚くなっていたり、あるいは牢獄で鎖に繋がっていて、「お母さん、助けて下さい」と言うのを聞く時に、「お母さん」と呼ばれるのを聞いて、非常に嬉しくて、「何とかしたい」と思うからです。
第3の理由は、マリア様は、私たちが天主から愛されているので、私たちを愛しています。素晴らしい論理です。皆さんは、イエズス様から天主から愛されているので、マリア様は愛する他ありません。
第4の理由は、皆さんも私も、マリア様にすっかり捧げて、マリア様のものになりたい、と思っているので、マリア様は愛するのです。
202番に、非常に有名なこの言葉を、皆さん暗記して下さい。皆さんはこの言葉を信じなければなりません。この言葉を皆さんの木のような頭の中に入れなければなりません。皆さんは、「お母様、マリア様は聖母だ。マリア様は私の母だ」と口では言いますけれども、でも信じてはいません。ここに書かれている事を皆さん信じていますか?
“マリア様は皆さんを優しい心でお愛しになります。全ての母親の優しい心を1つに集めたものよりも、もっともっと優しい心でお愛しになります。”
これを信じますか?
全世界の全ての母親がその子に対して持っている全ての愛情を、ただ一人の母親がその一人の子に対して持っている愛に注ぎ入れたと仮定して下さい。
この世の中にどれほど多くの高貴な母親がいた事でしょうか。数え切れないほどいらっしゃいます。例えば聖モニカのように、自分の子供の為に何年もお祈りと犠牲を捧げた母親、聖アレットという聖ベルナルドのお母さん、聖ヨハネ・ボスコのお母さんマルガリタや、聖ピオ十世のお母さん、聖なる高貴な、信心深い敬虔な母親が世の中にはたくさんいました。聖モニカのアウグスティヌスに対する18年に渡る、朝、昼、夜もないたくさんの祈りと犠牲の数々、この多くの母親たちの何百の大きな母親の愛を取って下さい。
その全ての母親の愛情の深さを、一人の母親に注ぎ入れて下さい。このそれぞれの素晴らしい母親から愛された子供たちが受けたその愛情、注がれた愛情を、一人の子供に注がれたとします。
全ての愛情深い母親たちの、何百何千万の母親の心を一人のお母さんの心に入れて、愛された子供たちの全ての愛情を一人の子供に入れて、それとマリア様が皆さん一人一人に対する愛情と比べてみると、その愛情をはるかに超えたほど、マリア様は皆さんの事を愛しておられます。
これは理解を超えています。この事を実は信じようとしていません。もちろんマリア様は私たちを愛している、とは知っています。でも私たちの想像をはるかにはるかに超えたものすごいやり方で、私たちをマリア様は愛しておられます。これを黙想して下さい。
聖マキシミリアノ・コルベは、自分の頭をマリア様の足元に置いてお祈りしました。聖マキシミリアノ・コルベと同じように私たちも、同じ言葉でお祈りしなければなりません、「マリア様、本当にそのように私を愛しておられるのですか?マリア様、あなたは聖モニカが聖アウグスティヌスを愛したよりも、もっとお愛しなのですか?マリア様、あなたは全ての母親が愛したよりも、もっと深く私を愛しておられるのですか?」この神秘の中に深く入ると、皆さんは理解した事になります。
問題は、マリア様の事を、「お母様」「お母様」「お母さん」と口では言うのですけれども、でもその意味を理解していない、という事が問題です。この母親というのは、その何百万の母親たちは、「子供の為になら命を捨てても良い」と思っています。でもマリア様は、そのお母さんたち全てを合わせたよりももっと愛している、という意味は何でしょうか?
マリア様はそうやって愛情深い、愛情の面だけでそうやって強いのみならず、効果的でもあります。単に高貴な感情や感傷やフィーリングだけではなくて、ただ単に子供を自分の胸に抱きかかえてそれを接吻するだけではなくて、マリア様は実効的であって、実際的であって、この効果的であって、実りをもたらします。私たちの各瞬間、毎瞬間、私たちにとって必要な良い御恵みを全てマリア様が勝ち取って下さる、という事です。これをマリア様は単に、私たちを愛しているが為にそれをして下さいます。マリア様は私たちがそれを、その御恵みを得るに相応しいか相応しくないか、というのは考慮しません。なぜなら私たちは皆それを受ける価値がないのですから。
ではこの実効的な、実践的な、効果的な愛を、マリア様はどうやってなさっているのでしょうか?203番にこう書いてあります。“しもべたちに良い事をしてあげる為の、また彼らを霊的に成長させ富ませる為の好機会を始終狙っておいでです。”
ヤコブの為にレベッカがそうしたように、ヤコブが祝福を受ける為に必要なものを全て整えたように、マリア様も私たちが祝福を受ける為に全て必要なものを配慮してくれます。私たちが必要とする全ての御恵みを配慮して下さいます。物事を前もってより良いように取り計らって下さいます。必要な御恵みを全ての瞬間に準備して下さいます。この私たちの人生の間に、愛するマリア様の目から逃れるものは一つもありません。
マリア様はこの私に、とても良いアドバイスも下さいます。レベッカがヤコブにちょうど良いアドバイスをしたように、マリア様も私に良いアドバイスをしてくれます。レベッカがヤコブに言ったように、マリア様は私にも2匹の子ヤギ、つまり「体」と「霊魂」をご自分の所に持って来るように、そしてそれを材料にして天主の口に合う美味しい料理を作る為に、自分に捧げ尽くすように、とアドバイスを下さいます。もしもマリア様に全て属するならば、マリア様が全てなさって下さいます。
レベッカの例を取ってみます。レベッカはどうやってヤコブの為に全てをしたでしょうか?ヤコブが2匹の子ヤギを持って来ると、まずヤコブの持って来た子ヤギを屠ります。つまりマリア様は、私たちの霊魂と肉体の2つの中で、悪いものを取って古いアダムを殺します。料理を作る為にこの皮を剥ぎ取らなければなりません。これは大変な、汚い仕事です。この皮を剥ぎ取るという事は、私たちの持っている自己愛とか、利己主義とか、被造物への愛着という皮を剥ぎ取るという事です。子ヤギを焼いてローストする為に、清めなければなりません。マリア様も私たちの霊魂と肉体を、一切の汚れや欠点や罪から浄めて下さいます。レベッカが美味しい料理を子ヤギで作ったように、レベッカはイザアクのどんな味が好きなのかをよく知っていました。マリア様だけが、天主様の口にどのような料理が合うのか、という事をよく知っています。そうやってマリア様は、皆さんの霊魂と肉体を、天主様の御口に合うように綺麗に料理して下さいます。
206番には、マリア様が、イエズス様の前に私たちを連れてどうやって姿を見せたら良いか、という事を教えてくれます。まずマリア様は、私たちに新しい服を着せて下さいます。それは長男エザウの晴れ着、つまり「イエズス・キリストの高貴な、香り高い服を着せて下さる」という事です。イエズス・キリストについて聖父はこう言いました、「これは我が愛する子である。これに私は喜ぶ。彼に聞け」と。このイエズス様の服は、マリア様の管理の元にあります。マリア様の使命は、マリア様の役割は任務は、「私たちにイエズス様の宝、イエズス様の服を着せる」という事です。皆さんは相応しくないものですけれども、マリア様が相応しいものにして下さいます。皆さんの霊魂は汚らしいものですけれども、マリア様が綺麗にして下さいます。皆さんの霊魂は臭い臭い汚れでいっぱいですけれども、マリア様はそれを香り高い、綺麗なものに変えて下さいます。
聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、“この服をマリアは、ご自分の家に、つまりご自分の権限の元に保管しておいでになるのです。マリアは永遠普遍に、御子イエズス・キリストの功徳と徳の保管者であり、分配者だからです。マリア様は、私の首と手に、殺して皮を剥がした子ヤギのフサフサした毛皮をぐるぐる巻いて下さいます。つまり私の善業と功徳の価値でこれを装って下さいます。”
マリア様は、私の善業と功徳の価値で装って下さるのです。これがちょうど先程申し上げた、腐ったりんごの例えで申し上げた事です。私たちは、私たちの為すべき、与えるべきものは、ただ腐ったりんごだけでしたけれども、マリア様は私たちにイエズス様の服を着せて、そして手にさえも首にさえも、フサフサした毛皮を巻いて下さって、そして籠にはたくさんの果物をつけて、「聖父に渡すように」と言うのです。
207番に移りますと、“こうやって準備を整えて下さったマリア様は私に、天の聖父の祝福を受けさせて下さるのです。”
私たちは、本性としては天主の祝福を受ける資格はありません。でもこの良い母のおかげで、この資格を、これを受ける事ができるようになりました。聖パウロはこう言います、「イエズス・キリストを着よ」と。「イエズス・キリストを生きろ。」「私ではなく、イエズス・キリストが私において生きている。」
このイエズス・キリストと私との一致は、この崇高な一致は、どうしたら起こるでしょうか?マリア様がして下さいます。私の技術や、私の功徳や、私の行動、栄光ではなくて、マリア様のおかげで、私にこれができるのです。
これがマリア様が、「母なるマリア様が、私たちを母として愛して下さる」という事の説明です。愛する母の役割です。私と私の救霊の事にいつも心を砕いて下さっています。あたかも私がこの全世界でたった一人しか存在していないかのように、マリア様は私たちに憐れみの御眼を我らに注ぎ給うのです。“illos tuos misericordes oculos ad nos converte.”私たちがしなければならない事は、「マリア様の手をしっかりと握っている」事です。
これはどういう事でしょうか?これは、頻繁にマリア様に、「あぁマリア様、どうしたら良いでしょうか?何をしたら良いでしょうか?」と尋ねる事です。
心配事があるではないでしょうか。どうしたら良いか、考えて、考えて、考えますけれども、私の空っぽの頭には何も入ってきません。ですから私たちはもうイライラしてしまって、もう失望してしまって、怒ってしまいます。なぜかというと、お母さんをそのままほっぽらかしにしているからです。マリア様から離れて、遠く離れて逃げてしまっているからです。お母さんの手を握っていれば、「お母さん、どうしたら良いでしょうか?助けて下さい」とすぐ言います。
何が起こってもそうです。誘惑を感じた時に、お母様の所に行って下さい。聖ベルナルドはこうやって言いました、「星を見よ。“Respice stellam.”星を見よ、マリア様をご覧なさい。太陽の燦然と輝く日も、あるいは暗い闇の日も、嵐の日も、マリア様をご覧なさい。」
208番で、まだ聖グリニョン・ド・モンフォールは言葉を続けます。マリア様は皆さんの全ての必要な体、霊魂、全般に渡って養って下さいます。「マリア様、御母よ、御身は私の体と霊魂に必要なものを全て整えて下さいました」と言いながらも、私たちはそれを信じていません。
「お母様、マリア様、御身は天主の食卓の最高の料理、つまり命のパンを、イエズス・キリストで私たちを養って下さいます。どのような時にもマリア様は、私たちに御子イエズスを与えようと思っています。私がもしもそうやって倒れてしまえば、私を赦して下さるイエズス様を与えて下さいます。弱い時には私を強めて下さるイエズス様を与えて下さいます。今命が絶えようする時には、命を与えるイエズス様を与えてくれます。暗闇にいる時には、光を与えるイエズス様を与えてくれます。疑いのある時には、光と真理と解決を与えて下さるイエズス様を与えてくれます。」
209番には、マリア様が、「導く役割を果たしている」という事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは説明します。「海の星でいらっしゃるマリア様」と先ほど聖ベルナルドの言葉を言いましたけれども、ここに書かれています。「もしもマリア様に従うならば、道を誤る事はありません。」聖ベルナルドによれば、“マリアの子供である私たちは、悪魔にそそのかされたり、異端に落ちこむ心配はありません。”
マリア様は私たちを守り、保護してくれます。なぜかというと、たくさんの敵に囲まれているからです。レベッカがヤコブを多くの危険から守ってくれたように、マリア様も私たちを守ってくれます。もしも皆さんの周りにキリストの兵士に囲まれているとしたら、皆さんは悪魔の軍隊に対して一緒になって戦う事でしょう。でももしもそうでなければ、皆さんは負けてしまうでしょう。
もしも皆さんが全ての人から打ち捨てられて、たった一人で孤独にいるとします。何か孤独を感じる事がありますか?この霊的な砂漠の中で、「たった一人である」という事を感じる時があるかもしれません。地獄の門が開いたかのように、悪霊が皆さんに誘惑をかけて、仕掛けて、攻撃を仕掛ける時があるかもしれません。でも皆さんには何も起こらないでしょう。マリア様がいれば、彼らを一言でやっつけてしまうからです。しかしもしも、もしもマリア様と一緒でなければ、皆さんは負けてしまいます。しかし、たとえ一緒に戦う人が誰もいなかったとしても、マリア様さえいらっしゃれば、皆さんは勝ちます。
これが今現代、生きている現代の状況です。私たちに今残されているのは、マリア様だけです。これが天主様の御旨です。マリア様が天主の大傑作であって、マリア様が何をする事ができるか、という事を皆に見せる為です。
この今申し上げたこの番号を黙想して下さい。それからこの本を、少なくとも一年に一度読んで下さい。これは、この本の中の中核にあるもので、とても深いものがあるので、これを今日今から黙想して、また夕食後も黙想して、終課が終わった後も黙想して、それから明日の朝起きて最初のお話を聞く前にも黙想して下さい。これは聖グリニョン・ド・モンフォールが、「マリア様が私たちの母である」という事で、この「母であるとは何か」という事を今黙想しました。
でも、「マリア様が母である」という事は素晴らしいのですけれども、マリア様がなさっている役割というのは、まだ母というのだけでは足りないのです。マリア様は私たちの女王であり、元后であります。マリア様がどなたであるかという事は、「母である」という事と、「女王である」という事の2つを理解しなければなりません。この私たちの朝の奉献は、「あぁ、我が御母にして元后」この2つの言葉が必要です。
「マリア様が私たちの元后である」という事は、37と38番に聖グリニョン・ド・モンフォールが説明します。
「母」というのは、私たちにとって緊密であって、素晴らしい事であって、愛すべきものであります。でもその事があまりにも強いので、私たちにとって感傷に陥ってしまう危険があります。そのような素晴らしい母を持っているのは、イエズス様の他にありません。
この地上で見る事ができる、この愛深いこの関係があったとします。この愛の関係よりも、マリア様が私を愛しているその親密な愛に比べれば、何でもありません。
それと同時に、マリア様は私の女王でもあります。マリア様は御母であると同時に、天地の元后、天地の女王であります。
全ての天使たちを合わせて、その天使の階級の一番下の階級の数を数えただけでも、この地上にいる全ての人類よりもはるかに多い数の天使たちがいます。この一番下の階級の天使たちよりも上に8の、合計9つの階級が天使たちにはあります。この何千何億何兆のものすごい数の天使たちの上に、そのトップもあります。全世界が一人の、たった一人の皇帝によって支配されていると考えて下さい。このような人はかつて全歴史に存在した事もありませんし、将来もあり得ないでしょう。しかしもしもそのような人がいるとしたら、どれほどの権力を持っている事でしょうか。この何億人の中国人、あるいは1億何百の日本人、あるいは2億のアメリカ人、あるいはヨーロッパの何億の全ての人々、アフリカの何億の人々、インドの何億の人々全てが集まる上に立つ、一人の大皇帝がいたとします。しかしこの、そのような皇帝が、世界の皇帝がいたとしても、天使たちの皇帝と比べれば天使のリーダーと比べれば、何でもありません。
この天界の全ての聖人聖女、聖ヨゼフ、洗者聖ヨハネ、そして天使たちの、一位の天使を頂点とする9つの階級の天の大群、その天の大群とその天の宮廷の天使や聖人や聖女とその大群衆が、マリア様の前に跪いて、そのマリア様に尊敬を払っています。そしてこの天使たちや聖人聖女たちは、私たちと一緒に声を合わせて、「おぉ、汚れなき御母インマクラータよ、天地の元后よ」と讃美を捧げています。このものすごい数の天使の大群と聖人たちの大群が、このマリア様の前に本当に小さなものとなって、讃美を捧げています。
そのようなマリア様に向かって皆さんが、「あぁ、マリア様、愛しています」と言う皆さんは一体誰でしょうか?もしもそのような天地の元后に、そのような相応しくない態度を取るとしたら、何か問題があると言わなければなりません。ここには信仰の欠如があります。マリア様の偉大さに関する信仰が欠けているという事です。
天使たちとあるいは聖人たちを全て集めて、池に入れたとします。そしてマリア様と、その天使たちや聖人たちを比較したとします。天使たちや聖人たちは小さな池だとしても、マリア様はたった一人で大洋の海原に例えられます。あるいはこの小さな丘や小さな小山だとすると、聖人たちが丘だとすると、マリア様は富士山のようにそびえています。
私たちはこのマリア様の、「偉大な元后である」という事と、それと同時にマリア様が、「私たちを緊密に親密に愛して下さる母」というこの2つを考えなければなりません。
この天地の元后である、その天使たちや聖人たちがその前に膝をかがめる、その御稜威の女王様、元后、天地の元后が、私をそれほどまで愛してくれる母となって下さっている、という事に対して、私は驚かなければなりません。「あぁ、インマクラータよ、天地の元后よ、私を愛する我が母よ。」
この奉献の祈りを黙想会の終わりに、8月15日に更新する事に致しましょう。この黙総会をよくなさって、そして新しい別の深い意味を込めて、この奉献の祈りを、その8月15日に唱えて下さい。では黙想をなさって下さい。
同時通訳:小野田圭志神父
最後に挙げた例で、「マリア様が私たちにどれほど必要であるか」という事がよく理解できたと思います。そしてそれによって私たちの心に平和がやって来ます。マリア様は私たちにとって、仲介者の役割を取って下さいます。
では、終末の時代に私たちを聖人とする、「マリア様へのまことの信心」とはどんな特徴を持っているでしょうか?
それは、「マリア様が母である」という事と、「元后である」という事をよく理解しなければなりません。私たちの方では、「マリア様の忠実な子供であり、また奴隷である」という事を理解しなければなりません。これは、まことの信心とは実は、「子供が母に対するそういう態度」これがその中核のその本質にあります。
ですからこの話では講話では、「母親」という事と、「元后、女王」という事の、この2つの言葉について黙想しましょう。
十字架の下で、マリア様は私の母として指名されました。マリア様はそのいつも、いつも、私たちの母であります。問題は、私がその事を理解できていないという事です。私は、私こそがマリア様からいつも離れている子供である、という事が問題です。ですから、「この母親とは一体どのような方か」という事を理解しなければなりません。母、御母、み母マリア、マリア様が母である、という事はどういう事かを理解して下さい。
そこで次の点を見て下さい。201から212番をご覧下さい。このグリニョン・ド・モンフォールの書いた事をよく理解する為に、必要な事をまず申し上げます。なぜかというと、グリニョン・ド・モンフォールは旧約聖書の中から、子供を非常に愛する母親の例を取っているからです。
この母の名前はレベッカと言います。そのレベッカの愛する子供はヤコブと言います。誰が皆さんの中で旧約聖書の話をよくご存知でしょうか。ヤコブとエザウの二人の子供がいました。ヤコブは天主を愛しますが、エザウはあまりそうではありませんでした。なぜかというと、エザウは邪悪だったからです。でもエザウが最初にやって来て生まれて来て、次にヤコブが生まれて来ました。エザウがですから、長子権、長男の権利を、遺産の相続の権利を持っていました。
ヤコブは信心深い男でした。エザウはところが狩人で野生的な男でした。エザウは飲んだり食べたり、楽しみを求めていました。ある時にはエザウは、お腹が空いたあまり、ヤコブが持っていたスープを長子権の代わりに引き換えてしまいました。でもお父さんイザアクはこの事を知らなかったので、エザウが長男であり続けると思っていました。
そこで、「エザウが長子権を受けるように」と祝福をする日がやってきました。そこでお父さんはエザウに、「じゃあ狩りに行って、私の好きな料理を作りなさい。そうしたら祝福をしてあげよう」と言います。その話をレベッカは聞いた時に、レベッカは少し心配しました。邪悪なエザウが長子権を握ってしまうのではないかと思って、それでヤコブにその事を言います。レベッカは既に、そのスープの代価として長子権をヤコブに売り飛ばしたという事を知っていたので、そうする事が正しいと知っていました。
母親のレベッカはやはりそのヤコブの為に、お父さんのイザアクの好きな料理をします。それでその料理を持って行けと言うのですけれども、お父さんイザアクは子供に聞きます、「おぉ、お前、そんなに料理早くできたのか。誰か、誰なのか?」と聞くと、「私はあなたの長男エザウです」とヤコブは答えます。そういう風に言え、とお母さんはレベッカは言うのですけれども、ヤコブはお母さんに言います、「お母さん、そんな事はできません。お父さんが僕の手に触って、その毛があまり無いので自分が誰か分かってしまうからバレてしまいます。」するとレベッカは強い言葉で言います、「呪いは私に降りかかりますように。だからエザウの一番良い服をお前が着て、そしてエザウは毛深い男だから、お前の手に毛深いようなものを作ってあげる。だからそれを着けて行きなさい。」
そこでヤコブは震える手で、エザウの服を着て、お母さんの作った料理を持って、お父さんの元に近付きます、「お父さん、」するとイザアクが言います、「おぉ、お前は誰なのか?」するとヤコブは、「私は、あなたの最初の長男、エザウです。」イザアクは、「おぉそうか。ではこっちに来なさい。私がお前の手を触ろう。」そしてイザアクはヤコブの体を手を触ると、その時にエザウの着物の匂いがしました。そしてその時に非常に喜びました。「声はヤコブだけれども、でも服はエザウだ。」そこでイザアクはヤコブに全ての祝福を与えます。そしてこうやって、イザアクの全ての遺産の権利を受ける事ができます。
ヤコブが行って、ご飯を食べ終わってくると、エザウがやって来ます、「お父さん、やってきました。今、狩りが終わって、この美味しく料理ができました。」「お前は一体誰なのか?」「あなたの長男、エザウです。」「おぉ!するとさっき私の祝福を受けたのは一体誰なのか!?」するとエザウは非常に自分の弟に向かって怒り狂います。「長子権を私から奪ったのみならず、こうやって祝福さえも奪ってしまった!」でもエザウはこれは本当の事を言っていません。なぜかというと、ヤコブは盗んだわけではなくて、エザウ自身がそれを売り飛ばしたからです。
これを見ると、ある人は、「あぁ、旧約聖書には嘘をついている話があるから」と言います。しかし聖アウグスティヌスをはじめ多くの教父たちは、「これは嘘のように見えるけれども、これは神秘を語っている」と言っています。「実はこの中に、イエズス・キリストと贖われた人たちの姿が隠れている、その神秘がある」と説明します。
レベッカは「天主の御母」のシンボルです。ヤコブはその「マリア様の子供たち」のシンボルです。エザウは長子、最初に生まれた子供のシンボルであって、「イエズス・キリスト」のシンボルです。このエザウの態度ではなくて、エザウのこの「長子権」において、イエズス・キリストを表しています。
聖グリニョン・ド・モンフォールもこの例えを使っています。これを使って、「どれほど御母、み母マリア様が私たちを愛しているか」という事を説明します。レベッカがヤコブにして、そしてヤコブが祝福と長子権を得たようにと同じような事を、マリア様が私にして下さる、という事です。
友人の皆さん、ですから私たちは、このお母様マリア様に、特別の御恵みを求めましょう、「マリア様、インマクラータなるマリア様、御身が私の母である、という事をどうぞ私に示して下さい。」
まず母の第一のしるしというのは、「ご自分の子供を愛する」という事です。「私は、私を愛する人を愛する」(格言の書(箴言)8章17節)と言われている通り、マリア様は、マリア様を愛する人々を特に愛します。なぜマリア様が皆さんと私を愛するかという事を、グリニョン・ド・モンフォールは4つの理由を挙げています。理由は非常に単純です、と同時に、非常に深い意味があります。
201番、第1の理由は、マリア様が本当に私たちの母だからです。マリア様は、イエズス様の十字架の梺に立って、イエズス様がこういうのを聞きました、「見よ、お前の母を見よ。自分の胎内の実である子供を愛さない母親がいるだろうか。」
第2の理由は、マリア様は少しでも愛し返さなければならないからです。なぜかというと、私たちがマリア様の近くに行って、私たちのお母様である、という事を認めたので、マリア様はその認めてくれた、という事を非常に喜んでいるからです。マリア様は私たちがこの泥の中でこう汚くなっていたり、あるいは牢獄で鎖に繋がっていて、「お母さん、助けて下さい」と言うのを聞く時に、「お母さん」と呼ばれるのを聞いて、非常に嬉しくて、「何とかしたい」と思うからです。
第3の理由は、マリア様は、私たちが天主から愛されているので、私たちを愛しています。素晴らしい論理です。皆さんは、イエズス様から天主から愛されているので、マリア様は愛する他ありません。
第4の理由は、皆さんも私も、マリア様にすっかり捧げて、マリア様のものになりたい、と思っているので、マリア様は愛するのです。
202番に、非常に有名なこの言葉を、皆さん暗記して下さい。皆さんはこの言葉を信じなければなりません。この言葉を皆さんの木のような頭の中に入れなければなりません。皆さんは、「お母様、マリア様は聖母だ。マリア様は私の母だ」と口では言いますけれども、でも信じてはいません。ここに書かれている事を皆さん信じていますか?
“マリア様は皆さんを優しい心でお愛しになります。全ての母親の優しい心を1つに集めたものよりも、もっともっと優しい心でお愛しになります。”
これを信じますか?
全世界の全ての母親がその子に対して持っている全ての愛情を、ただ一人の母親がその一人の子に対して持っている愛に注ぎ入れたと仮定して下さい。
この世の中にどれほど多くの高貴な母親がいた事でしょうか。数え切れないほどいらっしゃいます。例えば聖モニカのように、自分の子供の為に何年もお祈りと犠牲を捧げた母親、聖アレットという聖ベルナルドのお母さん、聖ヨハネ・ボスコのお母さんマルガリタや、聖ピオ十世のお母さん、聖なる高貴な、信心深い敬虔な母親が世の中にはたくさんいました。聖モニカのアウグスティヌスに対する18年に渡る、朝、昼、夜もないたくさんの祈りと犠牲の数々、この多くの母親たちの何百の大きな母親の愛を取って下さい。
その全ての母親の愛情の深さを、一人の母親に注ぎ入れて下さい。このそれぞれの素晴らしい母親から愛された子供たちが受けたその愛情、注がれた愛情を、一人の子供に注がれたとします。
全ての愛情深い母親たちの、何百何千万の母親の心を一人のお母さんの心に入れて、愛された子供たちの全ての愛情を一人の子供に入れて、それとマリア様が皆さん一人一人に対する愛情と比べてみると、その愛情をはるかに超えたほど、マリア様は皆さんの事を愛しておられます。
これは理解を超えています。この事を実は信じようとしていません。もちろんマリア様は私たちを愛している、とは知っています。でも私たちの想像をはるかにはるかに超えたものすごいやり方で、私たちをマリア様は愛しておられます。これを黙想して下さい。
聖マキシミリアノ・コルベは、自分の頭をマリア様の足元に置いてお祈りしました。聖マキシミリアノ・コルベと同じように私たちも、同じ言葉でお祈りしなければなりません、「マリア様、本当にそのように私を愛しておられるのですか?マリア様、あなたは聖モニカが聖アウグスティヌスを愛したよりも、もっとお愛しなのですか?マリア様、あなたは全ての母親が愛したよりも、もっと深く私を愛しておられるのですか?」この神秘の中に深く入ると、皆さんは理解した事になります。
問題は、マリア様の事を、「お母様」「お母様」「お母さん」と口では言うのですけれども、でもその意味を理解していない、という事が問題です。この母親というのは、その何百万の母親たちは、「子供の為になら命を捨てても良い」と思っています。でもマリア様は、そのお母さんたち全てを合わせたよりももっと愛している、という意味は何でしょうか?
マリア様はそうやって愛情深い、愛情の面だけでそうやって強いのみならず、効果的でもあります。単に高貴な感情や感傷やフィーリングだけではなくて、ただ単に子供を自分の胸に抱きかかえてそれを接吻するだけではなくて、マリア様は実効的であって、実際的であって、この効果的であって、実りをもたらします。私たちの各瞬間、毎瞬間、私たちにとって必要な良い御恵みを全てマリア様が勝ち取って下さる、という事です。これをマリア様は単に、私たちを愛しているが為にそれをして下さいます。マリア様は私たちがそれを、その御恵みを得るに相応しいか相応しくないか、というのは考慮しません。なぜなら私たちは皆それを受ける価値がないのですから。
ではこの実効的な、実践的な、効果的な愛を、マリア様はどうやってなさっているのでしょうか?203番にこう書いてあります。“しもべたちに良い事をしてあげる為の、また彼らを霊的に成長させ富ませる為の好機会を始終狙っておいでです。”
ヤコブの為にレベッカがそうしたように、ヤコブが祝福を受ける為に必要なものを全て整えたように、マリア様も私たちが祝福を受ける為に全て必要なものを配慮してくれます。私たちが必要とする全ての御恵みを配慮して下さいます。物事を前もってより良いように取り計らって下さいます。必要な御恵みを全ての瞬間に準備して下さいます。この私たちの人生の間に、愛するマリア様の目から逃れるものは一つもありません。
マリア様はこの私に、とても良いアドバイスも下さいます。レベッカがヤコブにちょうど良いアドバイスをしたように、マリア様も私に良いアドバイスをしてくれます。レベッカがヤコブに言ったように、マリア様は私にも2匹の子ヤギ、つまり「体」と「霊魂」をご自分の所に持って来るように、そしてそれを材料にして天主の口に合う美味しい料理を作る為に、自分に捧げ尽くすように、とアドバイスを下さいます。もしもマリア様に全て属するならば、マリア様が全てなさって下さいます。
レベッカの例を取ってみます。レベッカはどうやってヤコブの為に全てをしたでしょうか?ヤコブが2匹の子ヤギを持って来ると、まずヤコブの持って来た子ヤギを屠ります。つまりマリア様は、私たちの霊魂と肉体の2つの中で、悪いものを取って古いアダムを殺します。料理を作る為にこの皮を剥ぎ取らなければなりません。これは大変な、汚い仕事です。この皮を剥ぎ取るという事は、私たちの持っている自己愛とか、利己主義とか、被造物への愛着という皮を剥ぎ取るという事です。子ヤギを焼いてローストする為に、清めなければなりません。マリア様も私たちの霊魂と肉体を、一切の汚れや欠点や罪から浄めて下さいます。レベッカが美味しい料理を子ヤギで作ったように、レベッカはイザアクのどんな味が好きなのかをよく知っていました。マリア様だけが、天主様の口にどのような料理が合うのか、という事をよく知っています。そうやってマリア様は、皆さんの霊魂と肉体を、天主様の御口に合うように綺麗に料理して下さいます。
206番には、マリア様が、イエズス様の前に私たちを連れてどうやって姿を見せたら良いか、という事を教えてくれます。まずマリア様は、私たちに新しい服を着せて下さいます。それは長男エザウの晴れ着、つまり「イエズス・キリストの高貴な、香り高い服を着せて下さる」という事です。イエズス・キリストについて聖父はこう言いました、「これは我が愛する子である。これに私は喜ぶ。彼に聞け」と。このイエズス様の服は、マリア様の管理の元にあります。マリア様の使命は、マリア様の役割は任務は、「私たちにイエズス様の宝、イエズス様の服を着せる」という事です。皆さんは相応しくないものですけれども、マリア様が相応しいものにして下さいます。皆さんの霊魂は汚らしいものですけれども、マリア様が綺麗にして下さいます。皆さんの霊魂は臭い臭い汚れでいっぱいですけれども、マリア様はそれを香り高い、綺麗なものに変えて下さいます。
聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、“この服をマリアは、ご自分の家に、つまりご自分の権限の元に保管しておいでになるのです。マリアは永遠普遍に、御子イエズス・キリストの功徳と徳の保管者であり、分配者だからです。マリア様は、私の首と手に、殺して皮を剥がした子ヤギのフサフサした毛皮をぐるぐる巻いて下さいます。つまり私の善業と功徳の価値でこれを装って下さいます。”
マリア様は、私の善業と功徳の価値で装って下さるのです。これがちょうど先程申し上げた、腐ったりんごの例えで申し上げた事です。私たちは、私たちの為すべき、与えるべきものは、ただ腐ったりんごだけでしたけれども、マリア様は私たちにイエズス様の服を着せて、そして手にさえも首にさえも、フサフサした毛皮を巻いて下さって、そして籠にはたくさんの果物をつけて、「聖父に渡すように」と言うのです。
207番に移りますと、“こうやって準備を整えて下さったマリア様は私に、天の聖父の祝福を受けさせて下さるのです。”
私たちは、本性としては天主の祝福を受ける資格はありません。でもこの良い母のおかげで、この資格を、これを受ける事ができるようになりました。聖パウロはこう言います、「イエズス・キリストを着よ」と。「イエズス・キリストを生きろ。」「私ではなく、イエズス・キリストが私において生きている。」
このイエズス・キリストと私との一致は、この崇高な一致は、どうしたら起こるでしょうか?マリア様がして下さいます。私の技術や、私の功徳や、私の行動、栄光ではなくて、マリア様のおかげで、私にこれができるのです。
これがマリア様が、「母なるマリア様が、私たちを母として愛して下さる」という事の説明です。愛する母の役割です。私と私の救霊の事にいつも心を砕いて下さっています。あたかも私がこの全世界でたった一人しか存在していないかのように、マリア様は私たちに憐れみの御眼を我らに注ぎ給うのです。“illos tuos misericordes oculos ad nos converte.”私たちがしなければならない事は、「マリア様の手をしっかりと握っている」事です。
これはどういう事でしょうか?これは、頻繁にマリア様に、「あぁマリア様、どうしたら良いでしょうか?何をしたら良いでしょうか?」と尋ねる事です。
心配事があるではないでしょうか。どうしたら良いか、考えて、考えて、考えますけれども、私の空っぽの頭には何も入ってきません。ですから私たちはもうイライラしてしまって、もう失望してしまって、怒ってしまいます。なぜかというと、お母さんをそのままほっぽらかしにしているからです。マリア様から離れて、遠く離れて逃げてしまっているからです。お母さんの手を握っていれば、「お母さん、どうしたら良いでしょうか?助けて下さい」とすぐ言います。
何が起こってもそうです。誘惑を感じた時に、お母様の所に行って下さい。聖ベルナルドはこうやって言いました、「星を見よ。“Respice stellam.”星を見よ、マリア様をご覧なさい。太陽の燦然と輝く日も、あるいは暗い闇の日も、嵐の日も、マリア様をご覧なさい。」
208番で、まだ聖グリニョン・ド・モンフォールは言葉を続けます。マリア様は皆さんの全ての必要な体、霊魂、全般に渡って養って下さいます。「マリア様、御母よ、御身は私の体と霊魂に必要なものを全て整えて下さいました」と言いながらも、私たちはそれを信じていません。
「お母様、マリア様、御身は天主の食卓の最高の料理、つまり命のパンを、イエズス・キリストで私たちを養って下さいます。どのような時にもマリア様は、私たちに御子イエズスを与えようと思っています。私がもしもそうやって倒れてしまえば、私を赦して下さるイエズス様を与えて下さいます。弱い時には私を強めて下さるイエズス様を与えて下さいます。今命が絶えようする時には、命を与えるイエズス様を与えてくれます。暗闇にいる時には、光を与えるイエズス様を与えてくれます。疑いのある時には、光と真理と解決を与えて下さるイエズス様を与えてくれます。」
209番には、マリア様が、「導く役割を果たしている」という事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは説明します。「海の星でいらっしゃるマリア様」と先ほど聖ベルナルドの言葉を言いましたけれども、ここに書かれています。「もしもマリア様に従うならば、道を誤る事はありません。」聖ベルナルドによれば、“マリアの子供である私たちは、悪魔にそそのかされたり、異端に落ちこむ心配はありません。”
マリア様は私たちを守り、保護してくれます。なぜかというと、たくさんの敵に囲まれているからです。レベッカがヤコブを多くの危険から守ってくれたように、マリア様も私たちを守ってくれます。もしも皆さんの周りにキリストの兵士に囲まれているとしたら、皆さんは悪魔の軍隊に対して一緒になって戦う事でしょう。でももしもそうでなければ、皆さんは負けてしまうでしょう。
もしも皆さんが全ての人から打ち捨てられて、たった一人で孤独にいるとします。何か孤独を感じる事がありますか?この霊的な砂漠の中で、「たった一人である」という事を感じる時があるかもしれません。地獄の門が開いたかのように、悪霊が皆さんに誘惑をかけて、仕掛けて、攻撃を仕掛ける時があるかもしれません。でも皆さんには何も起こらないでしょう。マリア様がいれば、彼らを一言でやっつけてしまうからです。しかしもしも、もしもマリア様と一緒でなければ、皆さんは負けてしまいます。しかし、たとえ一緒に戦う人が誰もいなかったとしても、マリア様さえいらっしゃれば、皆さんは勝ちます。
これが今現代、生きている現代の状況です。私たちに今残されているのは、マリア様だけです。これが天主様の御旨です。マリア様が天主の大傑作であって、マリア様が何をする事ができるか、という事を皆に見せる為です。
この今申し上げたこの番号を黙想して下さい。それからこの本を、少なくとも一年に一度読んで下さい。これは、この本の中の中核にあるもので、とても深いものがあるので、これを今日今から黙想して、また夕食後も黙想して、終課が終わった後も黙想して、それから明日の朝起きて最初のお話を聞く前にも黙想して下さい。これは聖グリニョン・ド・モンフォールが、「マリア様が私たちの母である」という事で、この「母であるとは何か」という事を今黙想しました。
でも、「マリア様が母である」という事は素晴らしいのですけれども、マリア様がなさっている役割というのは、まだ母というのだけでは足りないのです。マリア様は私たちの女王であり、元后であります。マリア様がどなたであるかという事は、「母である」という事と、「女王である」という事の2つを理解しなければなりません。この私たちの朝の奉献は、「あぁ、我が御母にして元后」この2つの言葉が必要です。
「マリア様が私たちの元后である」という事は、37と38番に聖グリニョン・ド・モンフォールが説明します。
「母」というのは、私たちにとって緊密であって、素晴らしい事であって、愛すべきものであります。でもその事があまりにも強いので、私たちにとって感傷に陥ってしまう危険があります。そのような素晴らしい母を持っているのは、イエズス様の他にありません。
この地上で見る事ができる、この愛深いこの関係があったとします。この愛の関係よりも、マリア様が私を愛しているその親密な愛に比べれば、何でもありません。
それと同時に、マリア様は私の女王でもあります。マリア様は御母であると同時に、天地の元后、天地の女王であります。
全ての天使たちを合わせて、その天使の階級の一番下の階級の数を数えただけでも、この地上にいる全ての人類よりもはるかに多い数の天使たちがいます。この一番下の階級の天使たちよりも上に8の、合計9つの階級が天使たちにはあります。この何千何億何兆のものすごい数の天使たちの上に、そのトップもあります。全世界が一人の、たった一人の皇帝によって支配されていると考えて下さい。このような人はかつて全歴史に存在した事もありませんし、将来もあり得ないでしょう。しかしもしもそのような人がいるとしたら、どれほどの権力を持っている事でしょうか。この何億人の中国人、あるいは1億何百の日本人、あるいは2億のアメリカ人、あるいはヨーロッパの何億の全ての人々、アフリカの何億の人々、インドの何億の人々全てが集まる上に立つ、一人の大皇帝がいたとします。しかしこの、そのような皇帝が、世界の皇帝がいたとしても、天使たちの皇帝と比べれば天使のリーダーと比べれば、何でもありません。
この天界の全ての聖人聖女、聖ヨゼフ、洗者聖ヨハネ、そして天使たちの、一位の天使を頂点とする9つの階級の天の大群、その天の大群とその天の宮廷の天使や聖人や聖女とその大群衆が、マリア様の前に跪いて、そのマリア様に尊敬を払っています。そしてこの天使たちや聖人聖女たちは、私たちと一緒に声を合わせて、「おぉ、汚れなき御母インマクラータよ、天地の元后よ」と讃美を捧げています。このものすごい数の天使の大群と聖人たちの大群が、このマリア様の前に本当に小さなものとなって、讃美を捧げています。
そのようなマリア様に向かって皆さんが、「あぁ、マリア様、愛しています」と言う皆さんは一体誰でしょうか?もしもそのような天地の元后に、そのような相応しくない態度を取るとしたら、何か問題があると言わなければなりません。ここには信仰の欠如があります。マリア様の偉大さに関する信仰が欠けているという事です。
天使たちとあるいは聖人たちを全て集めて、池に入れたとします。そしてマリア様と、その天使たちや聖人たちを比較したとします。天使たちや聖人たちは小さな池だとしても、マリア様はたった一人で大洋の海原に例えられます。あるいはこの小さな丘や小さな小山だとすると、聖人たちが丘だとすると、マリア様は富士山のようにそびえています。
私たちはこのマリア様の、「偉大な元后である」という事と、それと同時にマリア様が、「私たちを緊密に親密に愛して下さる母」というこの2つを考えなければなりません。
この天地の元后である、その天使たちや聖人たちがその前に膝をかがめる、その御稜威の女王様、元后、天地の元后が、私をそれほどまで愛してくれる母となって下さっている、という事に対して、私は驚かなければなりません。「あぁ、インマクラータよ、天地の元后よ、私を愛する我が母よ。」
この奉献の祈りを黙想会の終わりに、8月15日に更新する事に致しましょう。この黙総会をよくなさって、そして新しい別の深い意味を込めて、この奉献の祈りを、その8月15日に唱えて下さい。では黙想をなさって下さい。