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2016年聖母小黙想会 霊的講話【9】 8月13日 シュテーリン神父様「信心を実行するために必要なもの」

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2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【9】
同時通訳:小野田圭志神父

201から212番、また137から138番の、「マリア様が私たちの母であり、元后である、女王様である」という事について深い黙想ができた事と思います。

この本は、皆さんも日本語で読む事ができるので、気が付いたと思いますが、単純な言葉の中に、読めば読むほど、深い意味が隠されている、という事が分かります。

天主様の御旨に従って、マリア様は一体私にとってどなたであるか、という事を黙想しました。天主聖父が皆さんに対するものすごい愛を捧げている、という事も黙想しました。天主様は私たちを救われたい、と思っている事を黙想しました。それと同時に、私の冷たい心、無関心、怠惰、そして私のこの原罪の後の傷付いた状態についても黙想しました。

そこで、そんな傷付いた弱い私たちを助ける為に、地上で最も緊密な関係、つまり「母親と子供」の関係を使う事を考えられました。こうする事によって天主様は、石のような冷たい私たちの心を触ろうとしました。なぜかというと、冷たい氷のような石のような心でも、自分の母親であると、それが溶けてしまう、という事は皆が知っているからです。

天主様からの招き、私の霊魂を救う、という招きを受け入れなければなりません。「天地の元后である、もうほぼ全能に等しいようなものすごい権力を持った御稜威の女王様であり、元后であるマリア様が、私の母親となって下さった」という事です。そのマリア様は、女王様は、私の為に全てを下さいます。

その御前において、無数の大群の数え切れないほどの天使たちが膝をかがめて讃美し、誉め讃え、その従順に従う、その女王であるマリア様が、私の所にやって来て、「お願いだから、母である事を許してほしい」と頼みに来るのです。天地の元后である、この御稜威高い神々しいこの御方が、この地上の素晴らしい大聖人、素晴らしい高貴な方の母となりたい、と思うのではなくて、私のような罪深い、弱々しい、もうろくでもないガラクタのような者にやって来て、「母親になりたい」とやって来るのです。

そのようなマリア様が私の母になる事ができるのは、私がそれに同意する、私がそれを受け入れて、初めてなる事ができます。

「それに同意する」という事は、「マリア様の子供になるという事に同意する」事です。もしもマリア様が私の女王様であるならば、元后であるならば、私はそれに同意しなければなりません。つまり、「マリア様が、私の人生に命令する権利がある」という事を認める事です。「マリア様が私の上に権威を持っている」と認識する事です。そうする事によって、マリア様の騎士となり、奴隷となります。これがマリア様に対して持つ事のできる完璧な関係です。これがですから、完璧なまことの信心になります。

この講話では、「私たちの側で、では何をしなければならないか。このまことの信心をする為にはどうやって生活しなければならないか」という事を黙想しましょう。

これは私たちに二重の構造が待っています。一つは私の「知性」で、もう一つは私の「意志」です。

まず「知性」で、マリア様が私の母でありたい、私の女王でありたいというマリア様は、一体どなたなのかを認識する事です。私は知らない人を愛する事はできません。この聖母黙想会での一番の利益は、「マリア様の事を深くよく知る事ができる」という事です。マリア様の生活の中に入る為に、マリア様を知るという事は、本質的に必要な要素です。

次に、「意志」の働きがなければなりません。そのような真理を受け入れる、マリア様がそうである事を認めて、それを望むという意志です。これが私のマリア様への奉献です。

この事を私たちは今、黙想しましょう。


私たちはまず、「被造物」です。被造物という事は、「創られたもの」という事で、「奴隷」という事です。奴隷という事は、「全面的に誰かに依存している」という事で、「私たちは全面的に創造主に依存している」という意味です。

しかし、罪を犯す事によって人間は、悪魔を、サタンを、主人としてしまいます。罪の中に生活している人は、サタンを主人としています。でもイエズス様は、そのような悪魔の支配下のもとにあった私たちを買い戻して、解放してくれました。買い戻したその贖いの値というのは、御自分の「天主の血潮」であって、「御受難」であって、「屈辱」でした。

私たちがその贖いを達成する為に、その「贖われた」という事を受け入れて、私たちはこの「悪魔から解放される」という事に同意して、そして私たちはイエズス様に完全に奉献されなければなりません。

この「私たちがイエズス様に奉献される」という事は、最高の愛を示します。イエズス様は自由な答えを求めています。「お前無しにお前を創った方は、お前無しにお前を救う事ができない。」

私たちが望もうと望まないと、どうしても私たちは創造主である天主に全く全面的に依存しています。私たちが今こうして在らしめられてあるのも、天主のおかげです。でもそれは、不思議な神秘的な事ですけれども、今この世に住んでいる人はこの事実を、この真実を認識していません、その事を認めようとしません。

「天主は、」最後のミサの福音の中で、ヨハネの一章にありますけれども、「天主は自分のものの元に来たけれども、しかし彼らはそれを認めなかった、受け入れなかった」とあります。これは不幸な事に、人間の一般的な態度です。ヨハネはしかしその福音の中で続けて、「しかし、イエズス様を受け入れる者は、この天主の子供となる事を力を与えた」とあります。

イエズス様は、私たちがその真理を、現実を、認識する事を求めています。嘘と幻想の世界に生活する事をやめる事です。今朝、今日もまた私に命を与えて、生かせて下さって、健康と肉体と食べ物と全てを与えて下さいました。「御身無しには私は何もする事ができません。私はこの事実、この現実を認めます。ですから私は、私の王として、私をあなたに従わせます。」

では、イエズス様の命令とは、御旨とは何でしょうか?

「私は、あなたたちに模範を与えた。私がやったように、お前たちもやるように。」(ヨハネ13章15節)

「では、あなたはどんな模範を与えて下さいましたか?」
「では、子よ、この地上に私は何年いたか覚えているか。33年だった。その33年の間、何をしただろうか。」
「主よ、あなたは私の為に、十字架の上で命を捧げられました。」
「あぁ、しかしそれは、最後の三日間の間にそれをした。」
「では、御身はこの地上におられる間、御説教をされて、この天の御国に入る為の福音を教え宣べ伝えられました。」
「それは、最後の3年間そうしただけだ。では、その3年の前の30年間は何をしただろうか。」
「あぁ主よ、私が思うには、御身は大工さんでした。御身はナザレトにおられました。」
「子よ、ではこのナザレトで何をしただろうか?私は、母に従順に従った。奴隷であるかのように。私は常に、母の御旨のままに働いた。私は彼女を造った創造主であったにもかかわらず、私は彼女を救った救い主であるにもかかわらず、しかし私は全く彼女に依存していた。私ほどマリア様に奉献されたものはない。私はお前たちに模範を与えた。私がやったように、お前もせよ。私が母に従順に従ったように、お前も従順に従え。私は命を彼女に委ねたように、お前の命を委ねよ。この地上において、全ての事について、マリア様に全て委ねて、奉献しなさい。」

では、マリア様に奉献して、マリア様の奴隷となる、というのはどういう事なのでしょうか?

これについてはたくさん読まなければならない事があります。これを2つの部分に分けます。なぜかというと、次の講話ではですね、このまだ日本語に訳されていない部分についてお話するので、今回たくさん読んで下さい。聖グリニョン・ド・モンフォールが書いたこれの次に偉大なものが、「永遠の知恵に対する愛」というものです。これは、このまことの信心を補完する補足するものであって、これで2つで1つになるからです。そこで本来なら、1つで1回で話す事をですね、2つに分けて、まずこの最初に、今回最初の部分を、そして次の講話で、今回話すべきところの後ろの部分を紹介します。

今の講話の後には、69番から77番までをお読み下さい。そしてその次には、120番から134番。次の講話で話す内容は、実はこの本に書かれていない内容なのですけれども、しかし日本語では読む事ができないので、この120番から134番を代わりにお伝えします。内容は実は、今からお話し致します。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「では奴隷という事は、一体どういう意味なのだろうか?」と私たちに説明します。なぜかというと、マリア様が御母で、私がマリア様の子供だ、という事は誰でも理解するのは容易だからです。

昨日、でもその「お母さん」という言葉を深く考えながら、マリア様に対して「お母さん」と言う時に、その持っている深い意味が、実は軽々しく使われてしまって、軽々しい意味しか私たちが理解できていなかった、という事を見ました。昨日、お母さんという言葉は一体何を意味するのかを見ました。そこまでは考えつかなかったという事で、皆さん驚かれたかなと思います。

口では、「マリア様、私はあなたの子供であり、御身は私の母であり、私は御身の奴隷であり、騎士であり、」と言うのは簡単ですけれども、では一体何を意味するのだろうか?という事はよく考えなければなりません。

このグリニョン・ド・モンフォールは、この言葉を深く理解する事ができるように、比較をします。そこで、「しもべ」というものと「奴隷」の違いをまず考えます。

「しもべ」とはまず何か、と言います。そしてそのしもべと奴隷がどう違うかを見ましょう。

71番を見ると、「5つほど違う点がある」という事を主張します。「しもべ或いは使用人」と、「奴隷」の間にはこういう違いがあります。

使用人は、自分の全存在、自分が持っているもの、自分が他人を通してあるいは自分で獲得できる全ての人を主人に与えるわけではありません。でも奴隷は全てを与えます。

第2に、しもべとかあるいは使用人は、仕事をするとそれの俸給をもらいます、給料をもらいます。しかし奴隷はどんなに一生懸命働いても、給料はありません。

使用人は契約期間があって、契約期間が終わると、それでもうその仕事を終わって、主人の元を離れる事ができますけれども、でも奴隷は決して離れる事ができません。

主人は、使用人に対しては、仕事に関して権威を持っていて、この仕事に関して何か命令をする事はできますけれども、その仕事以外のプライベートな事や私生活に対して、いちいち口を挟む事はできません。しかし奴隷に対しては、口を挟む事ができます。主人は奴隷に対しては、自分の好きな事をする事ができます。

ですから、カトリック教会は奴隷制度を否定しています、排斥しています、「これは悪い事だ」と。なぜかというと誰も、他人の命を生かすか殺すかの権利を、誰も持つ事ができないからです。ですから、その意味で奴隷制度は悪いものです。しかし、例えばイスラム教徒などではイスラム教の国家では、法律によってこの奴隷制度が立法化されていて、「主人は、奴隷の命さえも奪う事ができる」という事が立法化されています。

これは、「人間同士」の間ではそのこのような事は相応しくありませんが、「人間と天主」との間ではこれは相応しいものです。

第5番目には、使用人は一定期間、時間に限りがありますけれども、奴隷は限りがありません。

72番をご覧になると、ちょっと聖グリニョン・ド・モンフォールの書いた事を見てびっくりするかもしれません。どのような世界でも、自分から進んで奴隷になる、というほど完璧なものはありません。3つの種類の奴隷の状態があります。それは70番に、3つの種類が書かれています。

1つは、生まれつきの奴隷です。あるいは第2番目には、強制的に或いは戦争などでやむを得ずなった奴隷。第3には、愛によって、自ら進んで奴隷になろうと思った奴隷です。

私たちが今マリア様に対してするものは、第3のものです。では、この最初にマリア様の奴隷になったのは誰でしょうか?

イエズス様です。聖パウロはフィリピ人への手紙の中で、「イエズス様は奴隷の姿を取った」(フィリピ2章7節)と言います。イエズス様は奴隷の姿を取ったのみならず、マリア様とヨゼフ様に完璧に服従しました。

マリア様も奴隷でした。なぜかというと、「我は主の婢女なり」とマリア様は仰っているからです。「主の婢女」というのはつまり、「主の女奴隷」という事です。

マリア様はご生涯の間、一度も、自分のやりたい事をやった、という事はありませんでした。自分の権利、主張を押し通した事ありませんでした。天主様を主として、天主様の御旨のままに生活されました。殉教の最も苦しい事さえも、従順に従って、十字架の下で立ち留まりました。

使徒たちも、「イエズス・キリストの奴隷だ」という事を、奴隷と呼ばれる事を名誉としました。

トリエント公会議の公教要理によれば、「キリストの奴隷」という言い方が作られています。トリエント公会議の公教要理によれば、“mancipia Christi”「キリストの奴隷」と言っています。そこで、私たちの主の教えによれば、私たちはキリストに従う者として、奴隷として生活しなければなりません。

グリニョン・ド・モンフォールは言います、“私たちは、洗礼の前は悪魔の奴隷だった。しかし洗礼後は、キリストの奴隷だ。”

キリストの軍隊にも属さずに、悪魔の軍隊にも属さずに、中立である、という事はできません。どちらかの奴隷にかを選ばなければなりません。光か闇かのどちらかです。光の外に出てしまうと、闇の中にいるという事です。つまり悪魔の奴隷であるか、キリストの奴隷状態であるか、どちらかを選ぶしかないという事です。

74番をご覧下さい。そこで、“さっき絶対的な表現でイエズス様について述べた事は、マリア様についても相対的に言える”と言います。教父たちをたくさん引用して、この「キリストの奴隷になる」という事を、「これは天主の御旨である」と言います。

120番からの文章をご覧下さい。120からはまず、「奴隷とは何か」という事を見ます。奴隷という事は一体、具体的に何を私たちに意味しているのでしょうか?

“私たちの完徳の全ては、私たちがイエズス・キリストに変容する事、つまりイエズス・キリストと全く一つになり、イエズス・キリストに全く捧げ尽くされる事にあります。ですから、あらゆる信心の中で一番完全なのは、疑いもなく、私たちを一番完全にイエズス・キリストに変容をさせてくれるもの、イエズス・キリストと全く一つにしてくれるもの、イエズス・キリストに全く自分を捧げ尽くしさせてくれるものでなければなりません。”

“ですから、イエズス・キリストへの全く完全な自己奉献というのは、マリア様への完全な自己奉献と表裏一体をなしています。”

では121番を見ると、では何をしなければならないか、という事が書かれています。つまり、「イエズス様に全てを捧げ尽くさなければならない」という事ですが、一体どういう事でしょうか?ちょっと分析してみます。マリア様を通してイエズス様に自分を与え尽くす為には、どうしたら良いでしょうか?

まず、「私たちの体、霊魂、私たちの所有物、霊的な所有物、過去・現在・未来の全ての功徳、全て、私たちの存在するものを例外なく、イエズス様にマリア様を通して奉献する」という事です。

自然も超自然も全て、イエズス様に奉献します。例外なく全て捧げなければなりません。そしてこれを永久に捧げます。そしてその返答に、そのお返しに何かを受けるという事さえも放棄します。たとえ、マリア様は優しい方なので私たちが期待しなくても、マリア様はどうしても私たちにお礼をしたくてたまらないと、そしてそうなさると知ってはいても、それでも期待しない、という事です。

では122番には、「マリア様に奴隷が捧げる事ができる、最も貴重なものは何か」という事が書かれています。これは、私たちの「善業と罪の償いと功徳」です。

今から聖グリニョン・ド・モンフォールが言う事は、現代世界のカトリック教会ではもう忘れ去られてしまったような事です。これは「功徳と罪の償い」の教えです。私たちの人生において最も価値がある事は何か、という事を、現代では忘れ去られてしまっています。聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様に捧げる事ができる最高のものは、この「功徳、罪の償いだ」と言うのですけれども、現代の世界ではもう、何を意味しているのか理解していません。

よく私は聞くのですけれども、「マリア様の奴隷になりたい、マリア様に自分を奉献したい」と言うのですけれども、「でもこの122番に書かれている事はあまりよく分かりません。」

私の人生で一番価値があるのは何でしょうか?何が実りをもたらすでしょうか?

では、まずその反対側に、実りをもたらさないもの、価値の無いものを見ましょう。悪であって、破壊をもたらすものは何でしょうか?これは「罪」です。

それでなくてもこの人生には、全く価値も意味も無いものがたくさんあります。罪ではないとはいえ、時間の無駄です。ある意味で時間を、あるいは何かを盗む事です。天主様は私たちに「時間」という貴重なものを与えたのですけれども、その貴重な時間を私たちが盗んでしまう。

1タレント、5タレント、10タレントの例え話を覚えて下さい。
1タレントしか頂かなかった人は、この1タレントを隠しておいて、何も働かずに、何も活用せずに、そのまま時を過ごして、そしてその1タレントをそのまま返して、するとイエズス様は、「全く邪悪な使用人だ、邪悪な者だ」と罰を受けます。

この今、現代世界ほど、人類の生活は、これほど時間の無駄と下らない事に使われている事はありません。90%の普通のこの世の人々は、時間の無駄で終わっています。なぜかというと、映画を見たり、あるいはコンピューターゲームで時間を費やしたり、あるいは何かどこかにこうウロウロ歩いて、それで時間を使ってしまっているからです。

では、ちょっと価値があるようなものは何かを見てみましょう。「ちょっと価値がある」というのは、実は「ちょっと実りがもたらされる」からです。「何かの善を生産する」からです。

良い義務を果たすとか、掃除をするとか、子供の教育とか、仕事をする、車を洗う、この市民社会の建築・建設の為に力を尽くすとか、先生であれば学校で数学を教えたり社会科を教えたりするとか、これらの事には価値があります。良い行ないです。

でもこの価値には限度があります、範囲があります。この人生が終わった時に、その価値も終わってしまいます。なぜかというと、この小さな、この世での生活と共に終わってしまう事だからです。そしてそのような行為の善行の報いは、この地上で受けてしまっています。例えば、そのような良い仕事に対して、給料をもらっています。良い教育のおかげで、良い子供が報いとなります。一生懸命台所で働けば、良い美味しい食べ物が食べられます。

では、私たちの生活の中で一番価値があるものは何でしょうか?これは、「最も高い価値のある、実りをもたらすもの」です。これは、私たちの人生が終わったとしても、まだ永久に永遠に価値を持ち続ける何かです。

これが、「功徳」であって、これが「罪の償い」の価値なのです。私たちの行動が、永遠の価値を持つ実りをもたらします。

これは、私たちがどのような事をしようとも、「天主様の栄光の為に」、あるいは「霊魂の救いの為に、救霊の為にしよう」という意向をもってする時に、この価値が出ます。

ですから、この天主様の栄光と救霊の為にしたほんの小さなお祈りは、ちょっと小さな仕事は、私たちが綺麗な宮殿を何千何百と建てるよりも価値があります。なぜかというと、この地上でのこの何千何百という黄金の宮殿も、いつかは終わりがあって、それで破壊されてしまう時が来るからです。しかし祈りは、私たちの永遠の栄光をますます高めてくれます。このような祈りによって、永遠の破滅から霊魂たちを救う事ができるからです。多くの煉獄の霊魂たちを苦しみから早く、一刻も早く救う事ができるからです。

私たちは本当の、人生において本当の価値のある事に戻らなければなりません。

聖伝のカトリック信者でさえも、また多くのカトリック信者が、人生にとって一番大切な事を失っています。もしも皆さんが、この、これほど素晴らしい実りをもたらす、永久の価値のあるものに心を砕く事ができれば、そうすれば、ただ単に仕事をするだけでは終わらずに、全てのことにおいて永遠の価値を持たせることが出来ます。

車を運転するとか、家を掃除するとか、家を建てるとか、学校で教えるとか、天使のように歌うとか、何をするにも、もしも皆さんの心の中にいつも、いつも絶えざる、「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え」という意向と祈りがあれば、あるいは「イエズス様、愛しています。イエズス様、我が主よ、我が天主よ」等という祈りを以て仕事をすれば、このような射祷をする事によって、多くの永遠の永久の実りをもたらす事ができます。どんな平凡な仕事であれ、私たちがこの「イエズス様の為にする」とするならば、永遠の価値を持ちます。

もしも皆さんが過去、日常生活を無意識に送り、射祷による永遠の価値を失ったとしても、もちろん私たちは至福を得ることが出来ます。

ちょうど、この世の終わりに私たちが審判を受ける時に、天主様の前で、霊魂を、ちょうどコップのようなものとして持ち、天主様の前に行きます。すると天主様は、栄光でこのコップを満たして下さいます。私たちの霊魂をコップの縁のスレスレまで満杯に満たしてくれます。このほんのちょっとの一滴でさえも、この地上で受ける事のできる喜びと、楽しみと、全ての幸福が詰まっているほどのものです。

しかし、もしも皆さんがこの永遠に価値のある事をすればするほど、日々もっともっと射祷を唱えて、もっともっとイエズス様の為に捧げると、この霊魂のコップはもっと大きなコップになって、もっとたくさん受け入れる事ができるようになります。

天主はどんなに大きなコップであっても至福で満たしてくれます。イエズス様はそのスレスレまで、満杯まで、幸せを満たしてくれます。

そして皆さんが本当に良い方で、受ける悲しみ、苦しみ、十字架、全てをそのまま受けて、イエズス様に捧げたとしたら、そうしたら、皆さんのコップはもっと大きくなります。そしてこのコップの大きさが大きく、大きく、大きくなるには、限りがありません。皆さんがどれだけ寛大であるか、という事によって、このコップの大きさが決まります。

これが、皆さんが同じ人生の間に、どれほど超自然の価値を増やす事ができるか、という事です。

皆さん、この「自分の為にする」という事はまず1つの事です。この祈りや犠牲など、永遠の、自分の永遠の命の為にこれを捧げる事ができます。そして「他の神秘体のメンバーの為」にもする事ができます。もしも彼らが亡くなっていて煉獄に居るならば、その煉獄の苦しみを短くする事ができます。罪の償いの価値があるといいます。もしもまだこの地上に生きている方であれば、地獄に落ちるのを食い止める事ができて、そしてより早く、より多い天国の功徳を積む事ができるように、助ける事ができます。

そして皆さんが積んだ功徳というのは、皆さんだけのものであって、誰も皆さんから奪う事ができません。

ところでこの信心は、「こうして積んだ功徳を、マリア様に与える」という事です。123番です。

“私たちはこの信心によって、イエズス・キリストに一番完全な仕方で、マリア様の御手を通して捧げますから、その完全な仕方でイエズス様に捧げる事のできる、全てを捧げるのです。”

最も厳しい修道会であっても、この功徳さえも捧げてしまう、というのは要求していません。この点は非常に大切なので、また30分後に、10時半からもう一度、元に戻ってお話をします。

この夕方、もう一度 「拷問(=講話)」 を夕方に付け加える事にします。忍耐して下さい。

では今から69番から77番までをお読みになって、黙想なさって下さい。お祈りをします。


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