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2016年聖母小黙想会 霊的講話【12】 8月13日 シュテーリン神父様「マリア様はイエズス様の聖心に深く入る鍵をくださる」

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2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【12】
同時通訳:小野田圭志神父

イエズス様のそのペルソナが、その人柄が、イエズス様の謙遜において、柔和さにおいて、優しさにおいて、私たちに今、輝いてきます。

でも、この「優しさ」というのはまだ入り口であって、この奥に深く入らなければなりません。それはイエズス様の「聖心」です。

ちょうど使徒たち、二人の使徒たちがイエズス様の方に来た時に、イエズス様は、「おぉ、知りたいか?じゃあ付いて来なさい、私の家に来なさい」と言われたその事と似ています。洗者聖ヨハネは、「天主の小羊を見よ」と証言をします。ですからこの二人の弟子たちは、その証言に従って、イエズス様の後を付いて行きます。

イエズス様は尋ねます、「一体何を求めているのか?」 弟子たちは質問します、「主よ、あなたはどこにお住みですか?」「来てみなさい。」その時に、「午後の16時頃であった」(ὥρα ἦν ὡς δεκάτη. hora autem erat quasi decima.)と書かれています。

イエズス様と知り合ってみると、イエズス様は「来てみなさい」と言うので、私たちはイエズス様のその家の、聖心の深く中にまで入るように招かれます。

喜びの玄義は、「私たちの主が、私たちの所に現存している」という事を強調します。でも隠れた生活では、イエズス様は言葉を発しません、仰りません、奇跡も行ないません、ただいらっしゃるだけです。ですから喜びの玄義では、イエズス様がいらっしゃる、という事をよくご覧になって、イエズス様の御人柄、イエズス様のその立ち振舞いをよくご覧になって下さい。

イエズス様はただ、私たちの間に住み給うだけに来られたのではありません。行動される為に、何かをなす為に、成し遂げられる為に来られました。

この世に来られた理由、その目的は、この目的についてイエズス様は、「私の時間、私の時が来た」と言います。この時の為に、この時を非常に待ち望んでいた、その時についてイエズス様は「切にのぞんでいた、望みに望んだ」【ルカ22:15】(desiderio desideravi hoc pascha manducare vobiscum antequam patiar)と言われます。イエズス様の尊き御血による贖いの神秘、これが苦しみの玄義です。

この地上での巡礼への道を、イエズス様が苦しみの玄義で教えてくれます。私たちの通るべき道は、十字架の道行きです。十字架の道を通る事によってのみ初めて、主の掟を守る事ができるようになります。なぜかというと、イエズス様が私の為にそんなに苦しんでいるのを見るならば、私は愛に燃えざるを得ないからです。聖人たちの教えによると、「イエズス様の御受難は、私たちの愛の学校である」と。

皆さんたちも考えて下さい。もしも重い十字架を担がなければならない、担わなければならないと考えて下さい。最初はもちろん、意気揚々と担ぎますけれども、だんだん重く感じられます。霊的生活のレベルをいつも高く守っていくには力が必要です。十字架がますます重くなってくると、その何か他に楽しみがないか、十字架が無くならないか、等と考えるようになってしまいます。私たちが辱められたり、屈辱を受けた時に、どれほど暗い闇が私たちの心を覆うでしょうか。私たちは孤独になる事を恐れています。もしもイエズス様の御元に、十字架を担うイエズス様の元に行かないならば、どうやって毎日のこの「十字架を担おう」という動機付けができるでしょうか。

そしてこの十字架の道行きこそが、私たちの人生の本当の意味を理解させてくれます。この私たちがどこに行っても、他の人たちは、この人生の目的は何か、という別の事を教えます。

彼らは本当に嘘ばかり言います。でも本当は、この私たちの人生の本当の目的とは、この地上の楽しみを追求する事ではありません。この涙の谷であるこの現代世界を地上の楽園に変える事でもありません。明日幸せな1日を送る、という事を願望する事でもありません。

もしも主の、イエズス様の生涯が、日々十字架の連続であって、苦しみの連続であったならば、私たちの生活もこれと同じであるべきです。最も高貴な行動というのは、「全てを、いけにえとして、犠牲として捧げる事」です。

ファチマで天使が2回目に出現した時に、天使は子供たちに聞きました、「お前たちは一体、何をしているのか?」 天使は子供たちに、「全ての事を祈り、全ての事を犠牲として、いけにえとして捧げなさい」と頼みました。これによって子供たちは聖人になりました。

苦しみの玄義は、「私たちの人生において一番大切で、一番高貴で価値のあるものは何か」という事を教えています。

実は、このキリスト教信者たちにとって、この地上で本当に偉大であって、価値があって、意味があるものは、この地上での呪いであって、一番嫌なものであって、何とかしてこれを排除しようとしているものです。この世の人々は、「何としてでも苦しみたくない。何としてでも、薬を飲んでも、お医者さんに頼んでも、どのような手段をかけても、お金を払っても、苦しみたくない」と考えています。この世の苦しみというのは、この世に悪があるのは仕方ない、と言ってそれを忍耐するのではありません。そうではなくて、この世がもっとも悪いと考えているものは、実は最善のものなのです。この世にとって最も悪い、最悪なもの、最低なものというのは、「苦しみ」であって、「十字架」です。

この世で一番悪いものというのは、この世の人々にとっては、苦しみであって、死であって、孤独であって、捨てられる事であって、屈辱です。しかしイエズス様の十字架と、苦しみの玄義によって、最高のものに変えられます。霊魂を救う為の最高の武器になります。私たちの最も良い慰めの元となります。私たちの愛の最も深い表現となります。イエズス様は言いました、「友人の為に命を与えるほどの、大いなる愛はない」と。

聖人たちが天国に行って、この悲しみ、残念だなぁと思う事は、「イエズス様がせっかく贈って下さった十字架を、多くを投げ捨ててしまって、そしてその十字架から逃げてしまった事だ」と言います。なぜかというと、凱旋の時に私たちに栄光を与えるのは一体何でしょうか?何が永遠の価値を持つでしょうか?それは、イエズス様への愛と霊魂の救いの為に、愛を以て為した何かです。特に天主の栄光の為に、霊魂の救いの為に、私たちが苦しんだ時に、その価値がますます高くなります。

ここには、そんなにはたくさんいらっしゃらないのですけれども、少数、数名、お年を召した方がいらっしゃいます。そのお年を召した方にお伺いしますけれども、引退されて、お仕事から身を引いて、この過去の数年、何をなさいましたか?

「私の人生はもうこれで終わったようなもんです。もう意味がありません。もう役に立たないし、もう早く逝ってしまった方が良いんじゃないかなと思っています。」

あたかももう用が無くなったかのように、脇に置かれたかのように感じているかもしれません。そしてもう、これで人生もうほとんど終わってしまったかのように思っているかもしれません。もう役に立たない、死ぬのを待っているだけであるかのように思っているかもしれません。

でも本当は、その反対なのです。実は本当は、今、頂点に到達する為のラストスパートの時なのです。今、今まで長い海の中の嵐の中を渡って来て、この船が今ちょうど安全な港に到着しようとしているその時なのです。

「あぁ、昔はよくお祈りもしたけれども、もう今ではもうお祈りもできないし、お祈りをしようとするともう眠くなるし、」「昔は料理もよく作ったけれども、料理をする事もできないし、」ですから「もう悲しくて、もうちょっと憂鬱で、もう何の役にも立たない。」

でも、天主様の御旨がそこにある、という事にお気付きではありませんか?イエズス様の愛がそこにある、とお気付きではありませんか?

でも、ますますお年を取ると、ますます苦しみが増えます。骨は古くなるし、肩は痛いし、ここは痛いし、腰は痛いし、足は痛いし、あちこち痛みでいっぱいです。この世の色んな活動から遠ざかっているので、孤独を感じているかもしれません。残念ながら、この世の老人の方は、そのテレビの前でずっと時間を潰したり、コンピューターゲームをしたりして時間を無駄にしています。

でもイエズス様は、今、そのような老人の方々に最高の仕事をする時間を与えているのです。なぜならば、他の仕事から解放されたからです。もう天主様は、もう皆さんに、「料理をする事も必要ないし、庭で働く必要もないし、買い物をする必要もない。もっと別の事に時間を使いなさい」と言っているのです。そして「何もしないで良い」とさえも言われているのです。それから年金さえもあるではないですか。

では、何をしなければならないのでしょうか?

朝起きると、体中が痛みます。「あぁ、主よ、私は今日この痛みで、多くの霊魂を救う事ができます。この痛みを通して、御身と汚れなき御心を慰める事ができます。この痛みを通して、神父様たちの最前線に立って、この痛みを捧げる事によって、多くの霊魂を勝ち取る事ができます。」

頭痛がしたり、骨が痛い、腰が痛い時には、「あぁ、主よ感謝します」と捧げる事ができます。「あぁ、」頭が痛い時には、「あぁ、こんなに頭が痛くなった、あぁ腰も痛くなった、あぁブツブツブツ…」と言う代わりに、もちろん皆さん、そうやって皆さんがこう仰らなくても、誰もが苦しんで痛がっているのを知っています。

では、お仕事とは何でしょうか?

自由時間がまずあります。4時間、5時間、自由な時間があります。ロザリオをたくさん唱える事ができます。ゆっくりと唱える事ができます、黙想しながら唱える事ができます。ロザリオを唱えながら、もちろんお年を取るとよく眠くなってしまって、ロザリオを唱えながら眠ってしまいます。知っていますか?お祈りをしながら眠ってしまうと、居眠りがお祈りになります。そして目を覚ましたら、「あぁ、今ロザリオの途中だった」という事で、その続きができます。でも時間はまだあります。

終日、一日中ずっと、射祷を唱える事ができます。すると一つの射祷を、一人の霊魂、一人の日本の方の為にすると、でも1日にもしかしたら1億回の射祷を唱える事ができるかもしれないと考えていますけれども、ちょっとこれは無理かもしれません(^_^;)

そして腰が痛い、肩が痛い、という全ての痛みを、過去した自分の下らない罪の、償いとして捧げる事ができます。

私の94才の母を見て下さい。母は春から秋にかけて、ずっと教会の修道院の庭で仕事をして、台所で仕事をしています。冬になると、教会の中でお祈りして、居間で本を読んでいます。神父様たちが食事をする為にこう食事を取りに来ます。信徒の方が私の母を訪問に来ます。この訪問する人は訪問客は、「あぁ、ここが痛くて、頭が痛くて、腰が痛い」という話をすると、私の母はそのような人たちに、つい最近読んだ本を、「こんな事が書いてあった、」聖人伝を、「このような事が書いてあった」と話して聞かせます。するとその訪問客はとても喜びます。

グリニョン・ド・モンフォールは、苦しみの玄義をもっと深く黙想する事を望んでいます。グリニョン・ド・モンフォールはマリア様から鍵をもらって、その鍵を開ける事によって今まで閉ざされていたドアが開かれて、もっと深く理解する事ができるようになりました。喜びの玄義の鍵は、「イエズス様の現存」、「イエズス様がいつも私たちと一緒にいる」という事、「イエズス様の優しさ」という事です。

苦しみの玄義の鍵は何でしょうか?「苦しみの玄義を深く理解する為には、何が起こったとか、その事実の事を思い出だすだけでは足りない」と言います。これは本当に良いアドバイスです。特に、「その苦しみを取り巻いていた状況を黙想するべきだ」と言います。

例えば、茨の冠を被せられた時とか、あるいは鞭打たれた時を黙想する時には、「一体、誰が苦しんでいるのか」という事を黙想します。あるいは「誰の為に苦しんでいるのか」「どれほど苦しんでいるのか」「どのように、その苦しみの質はどうなのか」「この苦しみは、どこからどこまでなのか」すると、今まで考えていたよりももっと深みのある意味ができて、別の意味を持ってきます。

例えば例を挙げると、ゲッセマニの園での苦しみを取ってみます。死ぬ前のこの苦しみというのは、最も苦しいものです。もちろんイエズス様がゲッセマニの園で苦しんだ事を知っています。あまりにも苦しんだので、その苦しみのあまり、血潮さえも汗のように流れ出した、という事も知っています。あまりにも苦しかったので、イエズス様は使徒たちの方に向かって、「祈れ」そして「誘惑に陥らないように目覚めて祈れ」と仰いました。そしてその使徒たちから慰めを受けようとさえもします。しかしそれを受ける事ができませんでした。そして、これから来る数時間の間に多くの苦しみを受けなければならない、という事を覚悟します。罪と、屈辱、侮辱、全てを、この御自分の肩に背負わなければならない、と悟ります。

これが事実ですけれども、更にグリニョン・ド・モンフォールは、そのそれを取り巻く状況を黙想するように提案します。

まず、「誰が」苦しむのか?

これは単なる預言者、単なる人間ではなくて、天主の聖子が苦しんでいる。天地の創造主が苦しんでいる。私たちを創って、私たちに力を与える、その方が苦しんでいる。自分を殺そうとする人々を生かして、そのそれに力を与えるその創造主が苦しんでいる。聖なる天主、闇のない光である天主が。

誰も、私たちの内一人として、罪のその醜さの深みを理解し尽くす事ができる人はいません。でもイエズス様は知っています。

皆さん、この歴史上のものすごい悲惨な戦争や、この非道な行ない、この歴史の全ての最も悪い行ないを集めてきたとします。そしてそれを集めてきたとしても、それは天主に対して犯される1つの罪と比べれば、何でもありません。イエズス様はその1つの罪のビジョンでさえも、耐える事ができないほどものすごい嫌悪感を抱きます。美しい宮殿の中に住んでいる、全てが美しい人、そのような所に住んでいる人を見て下さい。そこでその人がドアを開けてみると、その目の前に最も汚い汚物が、もう悪臭と醜さを放って、こう有るのを見ます。これを見ただけでこの人は、本当に気絶して倒れてしまうほどです。でもイエズス様が今しなければならない事は、そのただ見るだけではなく、その中に入って、その中に座って、それに身を任せる事でした。それを自分の肩にかけて運ぶ事でした。そしてそのイエズス様の美しい服、肌、手、全ては汚く汚されて、傷付いてしまうのでした。

今このように申し上げた事も、イエズス様が本当に受けた事と比べれば、全く何でもありません。

一体、「誰の為に」この苦しみを受けたのでしょうか?

もしも、この皆さんの大親友がやって来て、大親友がその彼の為に「命が欲しい」と言ったら、ちょっとそれも難しいかもしれません。でも全く赤の他人がやって来て、誰も何も知らないような人がやって来て、その人が「命が欲しい」と言ったらどうするでしょうか?マキシミリアノ・コルベ神父様はそのような事をしました。

でも、もしも私たちを憎しむ、私たちの敵がやって来て、「命を欲しい」と言ったらどうするでしょうか?この人は皆さんを憎しんで、憎んで、殺そうとし、そして侮辱し、辱めて、その外に追い出してしまって、敵対しかないそのような人の為に、命を与える事ができるでしょうか?例えそのような人に命を与えたとしても、感謝すらしません。

その事を考えると、イエズス様がなさったこの苦しみは、本当に信じられないほどの意味を持ってきます。

では、「どれほど」苦しまれたでしょうか?

この忘恩、冒瀆の、お礼をする事さえ知らないような私たち、この罪深い私たちに対して為したのは、一滴血を流された事だけではありませんでした。イエズス・キリストがなさった事は、もうこの皮膚、体中で、傷の無い所が無いほど、全て全身傷だらけで、血だらけの苦しみをお受けになりました。

グリニョン・ド・モンフォールは説明します、「イエズス様は、この五感全てにおいて苦しんだ。この全ての五感は、苦しみの中に沈んでしまった。」

「まずその御目は、侮辱して、馬鹿にして、辱める、その汚い顔を見なければならなかった。そしてその目で、愛する弟子たちが、あるいは愛する者たちが、皆自分を捨てて逃げてしまうのを見なければならなかった。」

「その耳は、嘘の証言や、侮辱の言葉、屈辱の言葉を聞かなければならなかった。邪悪な舌からこの吐き出す汚い言葉や、嘘の讒言、あるいは冒瀆の言葉を聞かなければならなかった。」

「嗅覚では、イエズス様に投げつけられた汚物や、唾や、その他悪臭を放つものを嗅がなければならなかった。」

「イエズス様のその味覚においては、喉が渇いているにもかかわらず、喉の癒しは与えられず、その代わりに苦い酢を与えられた。」

「そして触覚には、皮膚全体においては、茨の冠を被せられたその痛み、あるいは手と足には十字架に付けられたその痛みを感じた。」

これは肉体の痛みですけれども、この心と霊魂においてはもっと、霊的に苦しまれました。霊魂はもっと苦しまれました。なぜかというと、罪を犯す事によって、自分の愛する聖父が侮辱され、屈辱されているからです。なぜならば、罪によって多くの霊魂たちは、天国には行けずに、地獄に落ちなければならないからです。

このイエズス様の苦しみは、苦しんだ時間の長さによっても増長しました。グリニョン・ド・モンフォールは教父たちと一緒に同じように、「イエズス様の苦しみは、御託身のその最初の瞬間から始まった」と言いました。イエズス様は天主であって、天主にとっては時が無いので、イエズス様の苦しみがいつも、御自分の目の前に現存していました。イエズス様の十字架の苦しみは既に、子供の幼年時代からありました。例えばエジプトに逃亡しなければならない時、ヘロデによって迫害された時など、もう既に感じていました。

聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「このイエズス様の苦しまれたその状況だけではなく、どれほどの愛を以てこれを苦しまれたか、という事を考慮すべきだ」と。なぜかというと、この愛がどれほど込められたという事によって、他の人の苦しみと全く区別されるからです。

私たちにはどういう事が起こるでしょうか?もしも苦しみが身に降りかかってきた時、受け身で私たちはそれを受け取ります。もしもそれがあまりにも大きい時に、私たちの体がそれを受け取る事ができなくて、気絶してしまいます。あまりにもきつい打撃を受けた時には、気絶をしてしまって、それを感じるのはちょっと後になってようやくです。

イエズス様は天主ですから、そのような事が起こる事を許さなければなりません。そしてそのような攻撃を与える人に、その攻撃の力を与えなければなりません、同意しなければなりません。ですからイエズス様は、その最初の苦しみの時から、最後のその苦しみの程度まで、全てそれに同意して、それを感じなければなりませんでした。

イエズス様は原罪の無い方ですから、そして原罪の結果から逃れている方ですから、第2のアダムとして最も強い男でした、人間でした。肉体上の力強さも、私たちをはるかに超えていました。この力強さを、1つの目的の為だけに使います。それは、「私たちをはるかに超えた苦しみを、耐え忍ぶ事ができる為」です。

皆さんがもしも、この茨の冠の、茨の1つでも頭にこう突き刺されたとしたら、5分の後にもうそのまま命を失ってしまうでしょう。ところがイエズス様は、その茨のたくさん付いた冠をグイグイと押し付けられて、その痛みは私たちがとても耐え忍ぶ事ができないものでした。

トリノの聖骸布の研究者によれば、「鞭打ちの時に使った道具を使って、もしも私たちがこれと同じ物を打ったら、10回打たれただけでもきっと死んでしまった事だろう」と。しかしイエズス様は何百と打たれました。

そして十字架の釘付けと、重い十字架の担ぎがありました。もしも誰かが、皆さんの手にドン!と釘を刺したとしたら、本当にもうほんのちょっとで皆さんはどうかなってしまいます。イエズス様が担がれた十字架の、重い十字架は、5mも歩いただけでも倒れてしまうでしょう。

イエズス様の苦しまれたほんの小さな苦しみでさえも、この地上での最も力強い、強い人でも耐え忍ぶ事ができないものでした。それをイエズス様は、全て合わせて苦しまれました。それは、皆さんと私の為でした。イエズス様は御神性と、天主の性と一緒になっていたので、それに支えられていたので、人間では普通耐え忍ぶ事ができない事も、終わりまで耐え忍ぶ事ができました。

この苦しみの玄義を黙想する事によって、私たちの心にイエズス様に対する愛が燃え立たなければなりません。アシジの聖フランシスコと共にこう言わなければなりません、「あぁ、私の十字架に付けられた愛よ、あなたの愛は愛されていません!」
パッチの聖マグダレナはこう言っていました、十字架の像のイエズス様に接吻をしながら、「あぁ、あなたの愛はどれほど知られていない事でしょうか。」

この鍵を持って私たちは、イエズス様の聖心の深い所に入って行かなければなりません。そして「イエズス様の為に何かする」という動機付けがなければなりません。「おぉイエズス様、御身は私の為にそれほど苦しまれたので、私の頭痛を捧げる事を許して下さい。」

先ほど喜びの玄義を黙想する事を提案したので、今は苦しみの玄義を黙想するようになさって下さい。ファチマの13日の犠牲として、夕食後小さな講話があります。

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