アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
元教理省長官であったミュラー枢機卿が最近発表した「信仰の宣言(マニフェスト)」Das Manifest des Glaubens の日本語を参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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信仰の宣言(マニフェスト)
Glaubensmanifest
「心を騒がせることはない!」(ヨハネ14章1節)
信仰の教理に関する混乱が増大するのに直面して、カトリック教会の多くの司教、司祭、修道者、平信徒が、私が啓示の真理に関する公の証言をするように求めてきています。自分たちにゆだねられた人々を、救いへの道へと導くのは、まさに牧者たち自身の任務です。彼らがこの救いの道を知り、自らこの救いの道に従うならば、これは間違いなくうまくいくでしょう。かの使徒の次の言葉が、ここで当てはまります。「私が第一にあなたたちに伝えたことは私自身受けたことである」(コリント前書15章3節)。こんにち、多くのキリスト教徒が、もう基本的なカトリックの教えを知りさえしていませんから、永遠のいのちに至る道を失うという危険が増大しています。しかしながら、人類をイエズス・キリストへと、諸民族の光(教会憲章[Lumen Gentium]1参照)へと導くための教会の目的そのものはそのままです。この状況において、方向付けについての問題が起きています。ヨハネ・パウロ二世によると、カトリック教会のカテキズムは「信仰の教理についての安全な規範」(使徒憲章「ゆだねられた信仰の遺産」4)です。このカテキズムは、「相対主義による独裁」によって自分たちの持つ信条が大きく疑問視されてきた兄弟姉妹の信仰を強めるという目的で書かれました。[注1]
1.イエズス・キリストによって啓示された一にして三位一体の天主
すべてのキリスト教徒の信仰の要約は、至聖なる三位一体についての告白に見られます。私たちは、御父と御子と聖霊との御名によって洗礼を受けることによって、イエズスの弟子に、天主の子にして友になったのです。一体の天主における三つのペルソナの区別(CCC254)は、天主への信仰および人間観という点で、他の宗教のそれとは基本的な違いを見せています。諸宗教は、まさにキリストであるイエズスへのこの信仰をめぐって不一致があるのです。イエズスはまことの天主にしてまことの人間であり、聖霊によって宿り、童貞マリアよりお生まれになりました。天主の御子である肉となったみ言葉は、唯一の世の救い主(CCC679)にして天主と人間との唯一の仲介者(CCC846)です。それゆえに、ヨハネの第一の手紙は、イエズスの神性を否定する者を反キリストと述べている(ヨハネ第一書2章22節)のであり、それは天主の御子であるイエズス・キリストが永遠より御父なる天主とともに存在する(CCC663)お方であるからです。私たちは、明確な決意をもって古代の諸異端、イエズス・キリストをただの良き人物や兄弟、友人、預言者や道徳家とみなす異端が再発するのに抵抗すべきです。イエズスはまず第一に、天主とともにあったみ言葉、天主とともにあるみ言葉、天主の御子であって、私たちを贖うために人間性を取り給い、生ける人と死せる人を裁かんために来り給うお方です。私たちは、イエズスのみを、御父と聖霊と一致して、唯一のまことの天主として礼拝するのです(CCC691)。
2.教会
イエズス・キリストは、カトリック教会において現実のものとなった、目に見えるしるしかつ救いの道具として、教会を創立されました(816)。キリストは、「十字架上で亡くなられたキリストの脇腹から出てきた」(766)彼の教会に、御国が最終的な完成を見るまで継続される秘蹟的な組織をお与えになりました(CCC765)。体の肢体として、頭であるキリストと信徒は神秘的な一つのペルソナ(CCC795)であり、それが教会が聖である理由です。なぜなら、唯一の仲介者が、その目に見える組織を設立し、支えているからです(CCC771)。それを通じて、キリストの贖いのわざが、聖なる諸秘蹟、特に感謝のいけにえ[Eucharistic Sacrifice]、聖なるミサの執行を通して時間と空間のうちに現存するようになるのです(CCC1330)。教会は、キリストの権威をもって、天主の啓示を伝えるのであり、この啓示は教理に関するあらゆることがらに広がり、「倫理の教えを含めて、それを欠いては、救いをもたらす信仰の真理を守り、説明し、遵守することができません」(CCC2035)。
3.叙階の秘蹟
教会は、イエズス・キリストにおける救いの普遍的秘蹟です(CCC776)。教会は、自らをではなく、教会の顔の上に輝くキリストの光を反映します。しかし、これは、イエズス・キリストにおいて啓示された真理が基準点になる場合に限って起こるのであり、多数派の見解や時代の精神によって起こるのではありません。なぜなら、キリスト御自らがカトリック教会に満ちあふれる恩寵と真理をゆだねられた(CCC819)からであり、キリスト御自らが教会の諸秘蹟において現存されるからです。
教会は、成員が投票してその意思を示す構造を持った人間につくられた団体ではありません。教会は、天主に由来するものなのです。「キリストご自身が、教会における奉仕職の源です。キリストがこれを定め、これに権威と使命、方向と目的とをお与えになりました」(CCC874)。使徒たちの警告は、こんにちでも依然として有効であり、つまり、「私たち自身がそれを伝えたのであるにせよ、天からの天使であるにせよ」(ガラツィア1章8節)、別の福音を宣教する誰もが呪われるのです。信仰の仲介は、その伝達者の人間的な信頼性と密接に関係があります。ある場合には、伝達者が自分にゆだねられた人々を捨てて、彼らを動揺させ、彼らの信仰に深刻な損害を与えてしまうからです。ここで、聖書の言葉は、真理に耳を傾けずに自分たちの望みに従い、健全な教えを忍ぶことができないがゆえに自分たちの耳を喜ばせる人々のことを述べています(ティモテオ後書4章3-4節参照)。
教会の教導職の任務は、「真正な信仰を誤りなく宣言する客観的な可能性を保証する」ために、「天主の民を逸脱と誤りから守る」(CCC890)ことです。このことは、特に七つの秘蹟すべてに関して当てはまります。聖なる感謝の祭儀[ご聖体]は、「キリスト教生活の泉であり頂点」(CCC1324)です。十字架のいけにえのうちにキリストが私たちを含めている感謝のいけにえ[ご聖体]は、キリストとの最も親密な一致に向けられています(CCC1382)。それゆえに、聖書はご聖体を受けることについて、私たちにこう忠告しています。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の御体と御血に対して罪を犯すことになる」(コリント前書11章27節)。「大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前に赦しの秘蹟を受けなければなりません」(CCC1385)。この秘蹟の内在する論理から、離婚した人で民法上の再婚をした人は、その秘蹟による[前の]結婚は天主の御前に存在しているのであり、カトリック信仰と教会との完全な一致にはないキリスト教徒と同様に、ちょうど正しい心構えにないすべての人のように、実り豊かに、ご聖体を受けることはできません(CCC1457)。なぜなら、そうすることは彼らに救いをもたらさないからです。このことを指摘することは、霊的なあわれみのわざに該当します。
少なくとも年に一度の聖なる告解で罪を告白することは、教会の掟の一つです(CCC2042)。信徒がもう自分の罪を告白せず、もう罪の赦しを経験しないなら、救いは不可能になります。結局のところ、イエズス・キリストは私たちを罪から贖うために人間になられたのです。復活した主が使徒たちとその後継者たちに司教や司祭の奉仕職においてお与えになった罪を赦す権能は、私たちが洗礼ののちに犯す大罪および小罪にも適用されます。現在広まっている告解のやり方では、信徒の良心が十分には形成されないのは明らかです。天主の御あわれみが私たちに与えられますが、それは、私たちが天主の聖なるご意志と一つになるように天主の掟を守るためであって、悔い改めへの呼びかけを避けるためではありません(CCC1458)。
「司祭はこの世で贖いのわざを続けている」(CCC1589)。司祭の叙階は「彼に聖なる権能を与える」(CCC1592)のであり、これはかけがえのないものです。なぜなら、それを通して、イエズスがその救いの行為において秘蹟的に現存されるようになるからです。それゆえに、司祭は、「新しいいのちのしるし」(CCC1579)として自由意志をもって独身であることを選ぶのです。それは、キリストおよびその来るべき御国への奉仕における自己犠牲に関することなのです。三つの段階を持つこの奉仕職において叙階を受けるべく、教会は「主ご自身によるこの選択に従う義務があるのです。したがって、女性が叙階されることはありえません」(CCC1577)。この女性の叙階が不可能であることが、何か女性に対する一種の差別であるとほのめかすことは、単にこの秘蹟に対する理解の欠如を示しているだけです。この秘蹟は、この世の権能に関することではなく、教会の花婿であるキリストの代理権に関することなのですから。
4.道徳律
信仰と生活[いのち]は分離することができません、なぜなら、行いから離れた信仰は死んだものであるからです(CCC1815)。道徳律は天主の英知の行いであって、人間を約束された至福へと導きます(CCC1950)。その結果として、善を行い、この目的に達するためには、「天主的な自然法についての知識が必要です」(CCC1955)。この真理を受け入れることは、すべての善意の人々に必要不可欠です。なぜなら、痛悔をせずに大罪の状態のまま死ぬ人は、永遠に天主から離れるからです(CCC1033)。このことは、キリスト教徒の生活[いのち]において現実に直面する結果へと至るのですが、こんにちではそれはしばしば無視されているのです(2270-2283、2350-2381参照)。道徳律は重荷ではなく、自由にする真理(ヨハネ8章32節参照)の一部であって、その真理を通してキリスト教徒は救いの道を歩むのであり、その真理は相対化されることはありません。
5.永遠のいのち
多くの人々はこんにち、司教が、信仰の教師として福音を宣教することよりも、むしろ政治家であることを好んでいる場合であっても、教会が今でもこの世においてどのような目的を持っているのかということに驚きます。教会の役割は、つまらない物事によって決して弱められることはなく、その正しい場所が与えられなければなりません。人類はみな、不死の霊魂を持っており、その霊魂は死によって肉体から離れ、死者のうちからの復活を待ち望みます(CCC366)。死は、人間が天主を求めるか、天主に逆らうかの決定を確定するのです。すべての人が、死のあとすぐに私審判に直面しなければなりません(CCC1021)。清めを必要とするのか、あるいは直接に天国の至福へ行って顔と顔を合わせて天主を見るのを許されるか、のどちらかです。人が本当の最後まで天主に逆らったままで、決定的に天主の愛を拒絶することによって、「直ちに、そして永遠に自分に対して地獄を宣告する」(CCC1022)という恐ろしい可能性もあります。「天主は私たちなしに私たちをお造りになりましたが、私たちなしに私たちをお救いになろうとはお思いになりませんでした」(CCC1847)。地獄の罰が永遠であることは恐ろしい現実であり、それは―聖書の証言によれば―「大罪の状態で死ぬ」(CCC1035)すべての人を引き込むのです。キリスト教徒は狭き門より入ります。それは、「門は広く、滅びに至る道は広く、多くの者がそれを通る」(マテオ7章13節)からです。
それゆえに、信仰に関するこれらの真理、そして他の真理について沈黙しつつ、人々に教えることは、カテキズムが厳しく警告している最もひどい欺きです。それは、教会の最後の試練を表しており、人を宗教上の迷いへ、「彼らの背教の代償」(CCC675)へと至らせるのです。それは、反キリストの欺きです。「彼は、不正な手段によって滅びる人々を欺くでしょう。人々は、自分たちが救われる真理の愛を受け入れないからです」(テサロニケ後書2章10節)。
呼びかけ
主のぶどう畑の働き手として、私たちはみな、私たち自身が受けたことに固守することによって、これらの基本的な真理を思い起こす責任があります。私たちは、決然としてイエズス・キリストの道を行く励ましを与えたいと望んでいます。キリストの掟に従うことによって、永遠のいのちを得るために(CCC2075)。
カトリック信仰という賜物が、いかに素晴らしいかを私たちに知らせてくださるよう主に願いましょう。それを通して、永遠のいのちへの扉が開かれるのですから。「この罪深い不義の代において、私と私の言葉を恥じる者を、人の子もまた御父と聖天使たちの栄光をもって下り来るその時恥じるだろう」(マルコ8章38節)。それゆえに、私たちは、イエズス・キリストご自身である真理を告白することによって、信仰を強めるために力を尽くすのです。
私たちも、特に私たち司教および司祭も、イエズス・キリストの使徒パウロがその伴侶にして後継者であるティモテオに、次の忠告をするとき、それは私たちに向けられています。「私は、天主の御前で、また生ける人々と死せる人々を裁き給うイエズス・キリストの御前で、その現れと御国のために、あなたに切に願う。み言葉を宣教せよ。よい折があろうとなかろうと、すべての忍耐と教えをもって、とがめ、嘆願し、反駁せよ。なぜなら、人々がもはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、作り話に耳を傾ける時が来るであろう。しかしあなたは警戒し、すべてにおいて努力し、福音者のわざを行い、あなたの務めを果たせ。賢明であれ」(ティモテオ後書4章1-5節)。
天主の御母であるマリアが、イエズス・キリストに関する真理の告白を揺るがすことなく忠実にとどまる恩寵を私たちのために懇願してくださいますように。
信仰と祈りにおいて一致して
ゲルハルト・ミュラー枢機卿
教理省長官(2012年―2017年)
[注1]本文中の数字は、カトリック教会のカテキズム(CCC)を参照。
Das Manifest des Glaubens
Cardinal Müller Issues ‘Manifesto of Faith’
愛する兄弟姉妹の皆様、
元教理省長官であったミュラー枢機卿が最近発表した「信仰の宣言(マニフェスト)」Das Manifest des Glaubens の日本語を参考資料として愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
Image may be NSFW.
Clik here to view.

Photo Credit
信仰の宣言(マニフェスト)
Glaubensmanifest
「心を騒がせることはない!」(ヨハネ14章1節)
信仰の教理に関する混乱が増大するのに直面して、カトリック教会の多くの司教、司祭、修道者、平信徒が、私が啓示の真理に関する公の証言をするように求めてきています。自分たちにゆだねられた人々を、救いへの道へと導くのは、まさに牧者たち自身の任務です。彼らがこの救いの道を知り、自らこの救いの道に従うならば、これは間違いなくうまくいくでしょう。かの使徒の次の言葉が、ここで当てはまります。「私が第一にあなたたちに伝えたことは私自身受けたことである」(コリント前書15章3節)。こんにち、多くのキリスト教徒が、もう基本的なカトリックの教えを知りさえしていませんから、永遠のいのちに至る道を失うという危険が増大しています。しかしながら、人類をイエズス・キリストへと、諸民族の光(教会憲章[Lumen Gentium]1参照)へと導くための教会の目的そのものはそのままです。この状況において、方向付けについての問題が起きています。ヨハネ・パウロ二世によると、カトリック教会のカテキズムは「信仰の教理についての安全な規範」(使徒憲章「ゆだねられた信仰の遺産」4)です。このカテキズムは、「相対主義による独裁」によって自分たちの持つ信条が大きく疑問視されてきた兄弟姉妹の信仰を強めるという目的で書かれました。[注1]
1.イエズス・キリストによって啓示された一にして三位一体の天主
すべてのキリスト教徒の信仰の要約は、至聖なる三位一体についての告白に見られます。私たちは、御父と御子と聖霊との御名によって洗礼を受けることによって、イエズスの弟子に、天主の子にして友になったのです。一体の天主における三つのペルソナの区別(CCC254)は、天主への信仰および人間観という点で、他の宗教のそれとは基本的な違いを見せています。諸宗教は、まさにキリストであるイエズスへのこの信仰をめぐって不一致があるのです。イエズスはまことの天主にしてまことの人間であり、聖霊によって宿り、童貞マリアよりお生まれになりました。天主の御子である肉となったみ言葉は、唯一の世の救い主(CCC679)にして天主と人間との唯一の仲介者(CCC846)です。それゆえに、ヨハネの第一の手紙は、イエズスの神性を否定する者を反キリストと述べている(ヨハネ第一書2章22節)のであり、それは天主の御子であるイエズス・キリストが永遠より御父なる天主とともに存在する(CCC663)お方であるからです。私たちは、明確な決意をもって古代の諸異端、イエズス・キリストをただの良き人物や兄弟、友人、預言者や道徳家とみなす異端が再発するのに抵抗すべきです。イエズスはまず第一に、天主とともにあったみ言葉、天主とともにあるみ言葉、天主の御子であって、私たちを贖うために人間性を取り給い、生ける人と死せる人を裁かんために来り給うお方です。私たちは、イエズスのみを、御父と聖霊と一致して、唯一のまことの天主として礼拝するのです(CCC691)。
2.教会
イエズス・キリストは、カトリック教会において現実のものとなった、目に見えるしるしかつ救いの道具として、教会を創立されました(816)。キリストは、「十字架上で亡くなられたキリストの脇腹から出てきた」(766)彼の教会に、御国が最終的な完成を見るまで継続される秘蹟的な組織をお与えになりました(CCC765)。体の肢体として、頭であるキリストと信徒は神秘的な一つのペルソナ(CCC795)であり、それが教会が聖である理由です。なぜなら、唯一の仲介者が、その目に見える組織を設立し、支えているからです(CCC771)。それを通じて、キリストの贖いのわざが、聖なる諸秘蹟、特に感謝のいけにえ[Eucharistic Sacrifice]、聖なるミサの執行を通して時間と空間のうちに現存するようになるのです(CCC1330)。教会は、キリストの権威をもって、天主の啓示を伝えるのであり、この啓示は教理に関するあらゆることがらに広がり、「倫理の教えを含めて、それを欠いては、救いをもたらす信仰の真理を守り、説明し、遵守することができません」(CCC2035)。
3.叙階の秘蹟
教会は、イエズス・キリストにおける救いの普遍的秘蹟です(CCC776)。教会は、自らをではなく、教会の顔の上に輝くキリストの光を反映します。しかし、これは、イエズス・キリストにおいて啓示された真理が基準点になる場合に限って起こるのであり、多数派の見解や時代の精神によって起こるのではありません。なぜなら、キリスト御自らがカトリック教会に満ちあふれる恩寵と真理をゆだねられた(CCC819)からであり、キリスト御自らが教会の諸秘蹟において現存されるからです。
教会は、成員が投票してその意思を示す構造を持った人間につくられた団体ではありません。教会は、天主に由来するものなのです。「キリストご自身が、教会における奉仕職の源です。キリストがこれを定め、これに権威と使命、方向と目的とをお与えになりました」(CCC874)。使徒たちの警告は、こんにちでも依然として有効であり、つまり、「私たち自身がそれを伝えたのであるにせよ、天からの天使であるにせよ」(ガラツィア1章8節)、別の福音を宣教する誰もが呪われるのです。信仰の仲介は、その伝達者の人間的な信頼性と密接に関係があります。ある場合には、伝達者が自分にゆだねられた人々を捨てて、彼らを動揺させ、彼らの信仰に深刻な損害を与えてしまうからです。ここで、聖書の言葉は、真理に耳を傾けずに自分たちの望みに従い、健全な教えを忍ぶことができないがゆえに自分たちの耳を喜ばせる人々のことを述べています(ティモテオ後書4章3-4節参照)。
教会の教導職の任務は、「真正な信仰を誤りなく宣言する客観的な可能性を保証する」ために、「天主の民を逸脱と誤りから守る」(CCC890)ことです。このことは、特に七つの秘蹟すべてに関して当てはまります。聖なる感謝の祭儀[ご聖体]は、「キリスト教生活の泉であり頂点」(CCC1324)です。十字架のいけにえのうちにキリストが私たちを含めている感謝のいけにえ[ご聖体]は、キリストとの最も親密な一致に向けられています(CCC1382)。それゆえに、聖書はご聖体を受けることについて、私たちにこう忠告しています。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の御体と御血に対して罪を犯すことになる」(コリント前書11章27節)。「大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前に赦しの秘蹟を受けなければなりません」(CCC1385)。この秘蹟の内在する論理から、離婚した人で民法上の再婚をした人は、その秘蹟による[前の]結婚は天主の御前に存在しているのであり、カトリック信仰と教会との完全な一致にはないキリスト教徒と同様に、ちょうど正しい心構えにないすべての人のように、実り豊かに、ご聖体を受けることはできません(CCC1457)。なぜなら、そうすることは彼らに救いをもたらさないからです。このことを指摘することは、霊的なあわれみのわざに該当します。
少なくとも年に一度の聖なる告解で罪を告白することは、教会の掟の一つです(CCC2042)。信徒がもう自分の罪を告白せず、もう罪の赦しを経験しないなら、救いは不可能になります。結局のところ、イエズス・キリストは私たちを罪から贖うために人間になられたのです。復活した主が使徒たちとその後継者たちに司教や司祭の奉仕職においてお与えになった罪を赦す権能は、私たちが洗礼ののちに犯す大罪および小罪にも適用されます。現在広まっている告解のやり方では、信徒の良心が十分には形成されないのは明らかです。天主の御あわれみが私たちに与えられますが、それは、私たちが天主の聖なるご意志と一つになるように天主の掟を守るためであって、悔い改めへの呼びかけを避けるためではありません(CCC1458)。
「司祭はこの世で贖いのわざを続けている」(CCC1589)。司祭の叙階は「彼に聖なる権能を与える」(CCC1592)のであり、これはかけがえのないものです。なぜなら、それを通して、イエズスがその救いの行為において秘蹟的に現存されるようになるからです。それゆえに、司祭は、「新しいいのちのしるし」(CCC1579)として自由意志をもって独身であることを選ぶのです。それは、キリストおよびその来るべき御国への奉仕における自己犠牲に関することなのです。三つの段階を持つこの奉仕職において叙階を受けるべく、教会は「主ご自身によるこの選択に従う義務があるのです。したがって、女性が叙階されることはありえません」(CCC1577)。この女性の叙階が不可能であることが、何か女性に対する一種の差別であるとほのめかすことは、単にこの秘蹟に対する理解の欠如を示しているだけです。この秘蹟は、この世の権能に関することではなく、教会の花婿であるキリストの代理権に関することなのですから。
4.道徳律
信仰と生活[いのち]は分離することができません、なぜなら、行いから離れた信仰は死んだものであるからです(CCC1815)。道徳律は天主の英知の行いであって、人間を約束された至福へと導きます(CCC1950)。その結果として、善を行い、この目的に達するためには、「天主的な自然法についての知識が必要です」(CCC1955)。この真理を受け入れることは、すべての善意の人々に必要不可欠です。なぜなら、痛悔をせずに大罪の状態のまま死ぬ人は、永遠に天主から離れるからです(CCC1033)。このことは、キリスト教徒の生活[いのち]において現実に直面する結果へと至るのですが、こんにちではそれはしばしば無視されているのです(2270-2283、2350-2381参照)。道徳律は重荷ではなく、自由にする真理(ヨハネ8章32節参照)の一部であって、その真理を通してキリスト教徒は救いの道を歩むのであり、その真理は相対化されることはありません。
5.永遠のいのち
多くの人々はこんにち、司教が、信仰の教師として福音を宣教することよりも、むしろ政治家であることを好んでいる場合であっても、教会が今でもこの世においてどのような目的を持っているのかということに驚きます。教会の役割は、つまらない物事によって決して弱められることはなく、その正しい場所が与えられなければなりません。人類はみな、不死の霊魂を持っており、その霊魂は死によって肉体から離れ、死者のうちからの復活を待ち望みます(CCC366)。死は、人間が天主を求めるか、天主に逆らうかの決定を確定するのです。すべての人が、死のあとすぐに私審判に直面しなければなりません(CCC1021)。清めを必要とするのか、あるいは直接に天国の至福へ行って顔と顔を合わせて天主を見るのを許されるか、のどちらかです。人が本当の最後まで天主に逆らったままで、決定的に天主の愛を拒絶することによって、「直ちに、そして永遠に自分に対して地獄を宣告する」(CCC1022)という恐ろしい可能性もあります。「天主は私たちなしに私たちをお造りになりましたが、私たちなしに私たちをお救いになろうとはお思いになりませんでした」(CCC1847)。地獄の罰が永遠であることは恐ろしい現実であり、それは―聖書の証言によれば―「大罪の状態で死ぬ」(CCC1035)すべての人を引き込むのです。キリスト教徒は狭き門より入ります。それは、「門は広く、滅びに至る道は広く、多くの者がそれを通る」(マテオ7章13節)からです。
それゆえに、信仰に関するこれらの真理、そして他の真理について沈黙しつつ、人々に教えることは、カテキズムが厳しく警告している最もひどい欺きです。それは、教会の最後の試練を表しており、人を宗教上の迷いへ、「彼らの背教の代償」(CCC675)へと至らせるのです。それは、反キリストの欺きです。「彼は、不正な手段によって滅びる人々を欺くでしょう。人々は、自分たちが救われる真理の愛を受け入れないからです」(テサロニケ後書2章10節)。
呼びかけ
主のぶどう畑の働き手として、私たちはみな、私たち自身が受けたことに固守することによって、これらの基本的な真理を思い起こす責任があります。私たちは、決然としてイエズス・キリストの道を行く励ましを与えたいと望んでいます。キリストの掟に従うことによって、永遠のいのちを得るために(CCC2075)。
カトリック信仰という賜物が、いかに素晴らしいかを私たちに知らせてくださるよう主に願いましょう。それを通して、永遠のいのちへの扉が開かれるのですから。「この罪深い不義の代において、私と私の言葉を恥じる者を、人の子もまた御父と聖天使たちの栄光をもって下り来るその時恥じるだろう」(マルコ8章38節)。それゆえに、私たちは、イエズス・キリストご自身である真理を告白することによって、信仰を強めるために力を尽くすのです。
私たちも、特に私たち司教および司祭も、イエズス・キリストの使徒パウロがその伴侶にして後継者であるティモテオに、次の忠告をするとき、それは私たちに向けられています。「私は、天主の御前で、また生ける人々と死せる人々を裁き給うイエズス・キリストの御前で、その現れと御国のために、あなたに切に願う。み言葉を宣教せよ。よい折があろうとなかろうと、すべての忍耐と教えをもって、とがめ、嘆願し、反駁せよ。なぜなら、人々がもはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、作り話に耳を傾ける時が来るであろう。しかしあなたは警戒し、すべてにおいて努力し、福音者のわざを行い、あなたの務めを果たせ。賢明であれ」(ティモテオ後書4章1-5節)。
天主の御母であるマリアが、イエズス・キリストに関する真理の告白を揺るがすことなく忠実にとどまる恩寵を私たちのために懇願してくださいますように。
信仰と祈りにおいて一致して
ゲルハルト・ミュラー枢機卿
教理省長官(2012年―2017年)
[注1]本文中の数字は、カトリック教会のカテキズム(CCC)を参照。
Das Manifest des Glaubens
Cardinal Müller Issues ‘Manifesto of Faith’