教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ
ルフェーブル大司教の公開書簡 その22
第22章 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
声をあげなければならないときが、すでに来ています。『現代世界憲章』が「歴史の経過そのものも、動きが早く、各個人がそれについてゆけないほどである」と、歴史の流れについて語るとき、それは、自由主義社会が分解と大混乱へとまっさかさまに突進していることが理解できます。私たちはこうした動きに巻き込まれないように注意しなければなりません。
国の指導者たちがあらゆる権威を破壊していく一方で、自分たちはキリスト教徒だなどと称するのは、理解に苦しむところです。本来はむしろ、天主からの権利を与えられた二つの自然社会、すなわち家族と市民社会の中において、天主の摂理によって定められた権威を再確立することが重要なのです。これらの影響は重大です。そして近年、強烈な打撃を受けて苦しんでいるのは家族です。フランスやスペインのような国々では、社会主義への改革が、この歩みをよりいっそう速めてしまいました。
次々となされる法的な政策は、家族という組織単位を破壊しようとする決意のもとに集結していることを明らかに示しています。
父親の威厳は損なわれ、簡単に離婚が起きるようになり、夫婦の交わりにおける責任感は消失し、無効であるはずの男女関係さらには同性愛カップルまでもが法的に承認されるようになりました。少年少女は同棲し、試験的結婚が登場し、大家族に対する金銭的、社会的援助も減らされてしまいました。他にもたくさんのことが起きています。そして、自国の利益が気になる国はようやく、出生率の低下という現象の影響に目を向けるようになり、近い将来、経済活動の一線から退いた高齢者たちの養老年金を、これから育ってくる若者たちがどうやって維持させていくことができるのだろうかと、途方に暮れています。ですが、人々が精神面で受ける影響の深刻さは、それどころの比ではありません。
カトリック信者はこれらに倣うべきではないものの、国民のひとりとして、何が要求されているかを見極めてその負担を正しく担うために全力をあげなければなりません。これが、信徒らが政治に無関心でいるわけにはいかない理由です。ですがこうした努力も、自分たちの子供を教育において特にその効果をあげるものでなければなりません。
この問題では、「子は親の所有物ではない」と宣言する人々によって、権威なるものが根底で疑問視されています。彼らはこのように宣言することで、教育というものは、学校、託児所、幼稚園などをとおして国が施すものであると言い、自分たちの信仰上の信念にしたがって自分の子供を育てていこうとする親たちはその子供たちの「良心の自由」を尊重していないと言って、親たちをとがめて非難します。
このような考え方は、17世紀の英国の哲学者たちにまで遡ることができます。彼らは、人間とは生まれた瞬間から独立した一個人であって、いかなる権威からも解き放たれた自由かつ平等な存在である、という考えを支持しました。私たちは、この考え方が誤りであることが分かります。子供はあらゆるもの、すなわち、食べるもの、知性、教育、道徳、そして社会的な糧のすべてを、自分の父親や母親から与えられるからです。親たちは、子供たちの心の中で権威を分かち合ってくれる教師たちに支えられています。子供たちは自分自身の体験や観察をとおして自分自身の中に取り込んだ知識よりも、それが親だけからであっても、あるいは親と教師たちから学んだものであっても、若い時期に彼らから学び、受け、受領した知識のほうが遙かに大きいのです。知識のほとんどは、それを伝える権威あるところから与えられたものです。生徒たちは、自分の親や教師、教科書を信頼して、そして知識が育くまれていくものなのです。
このことは、信仰、伝統、慣習に従った宗教的な知識、宗教的な実践、あるいは道徳的行動において、さらに真実となります。世界中の国々を観察してみれば分かるように、人間は普通、家族の習慣に従って生活しています。ですから、子供時代に受けた宗教から他の宗教へ移行していくということは、深刻な問題にぶつかるものなのです。
家族や生い立ちが人に与える絶大な影響は、天主様によって意図されました。天主様は御自分の祝福が、まず最初に家族をとおして与えられることを望まれました。父親たる存在が、天主様によって、家族の中で妻や子たちに対して大いなる威厳と力を与えられた理由は、そこにあります。子供はとてつもなくか弱い状態で生まれてくるため、安定して持続する解消されえない家庭が絶対に必要となります。
家庭の威厳を損なってまで、子供の個性や自意識を高揚しようとすることは、子供の不幸を作ることであり、彼らを親に反抗し、軽蔑するようにと促すことです。しかし、親を敬う子供たちには長寿が天主によって約束されているのです。聖パウロはこのことに触れて、父は子を怒らせてはならず、むしろ主を畏れる者として鍛錬しなさい、と諭しています。
もし私たちが、宗教的な真理が理解できるまで、信じて回心することを待たなければならないのだとしたら、今日、キリスト教徒はほとんど存在していなかったでしょう。私たちは、あかししてくれる人々の聖徳、利己主義を捨てた態度、愛徳に満ちたその様子をとおして、これらの人々が信じるにふさわしいからこそ、宗教の真理を信じているのです。また、聖アウグスチヌスが言っているように、信仰が理解を与えるものなのです。
両親の役割が、とても難しくなってきました。私たちが見てきたように、多くのカトリック・スクールは事実上、公立の学校と変わらない世俗的な存在となりました。そこでは真の宗教どころか、世俗の学問を信仰に照らして教えることすらもなされていません。公教要理の時間は近代主義思想を喧伝しています。多忙を極める近代生活は、人々から時間的なゆとりを奪い、専門職の義務は、かつては子育てに協力してくれた祖父母から親子を引き離しています。カトリック信者は混乱しているだけでなく、無防備な状態に置かれているのです。
ですが、両親が非常に大切な部分を保証することまでできなかったとしても、この欠乏を埋め合わせるはずの天主様の恩寵があります。それでは、何をしなければならないのでしょうか? 数は非常に限られているものの、本当の意味でのカトリック・スクールは存在しています。仮にそれが金銭的な重荷を強いるものであっても、あなたがたは自分の子供をそこに行かせるようにして下さい。他の人々がすでにそうしたように、新しい学校を建てなさい。もしもあなたがたが、教育が荒廃した学校に頼るしかないのならば、そのことを申し立て、要求しなさい。それらの学校の教師に、我が子の信仰を失わせがままにさせてはなりません。
最も素晴らしく、最も健全で、最も完璧なトリエントの公教要理を家族でよく読みなさい。良い司祭による霊的な指導のもとで、「公式のものとは別の」教理講座を開きなさい。私たちがそう言われたように「野蛮」と呼ばれることを怖れてはなりません。それどころか、あなたたちの子供を喜んで迎え入れてくれるような多くのグループがすでに活動を始めています。
近代主義者の毒に染まった本を捨てなさい。助言を求めなさい。素晴らしい書籍を出版している勇敢な出版社があります。彼らはまた、近代主義者によってかつては破壊された優れた書籍の再出版もしています。
どんな聖書でも買い求めればよい、というものではありません。どんなカトリック信者の家庭も、忠実に訳されたヴルガタ訳の聖書を使いなさい。これは、4世紀に聖イエロニモがラテン語に訳して、教会で列聖された聖書です。聖書の正しい解釈から離れてはなりません。かつてはどこでも行なわれていたような本物のミサと秘蹟に与りなさい。
現在、教会は悪魔から激しい攻撃を受けています。これは事実です。おそらく私たちは、悪魔の最後の戦い、総力をあげた決死の戦いの証人なのです。悪魔はあらゆるところで最前線を攻撃しています。ファチマの聖母が、いつの日か悪魔は教会の最も崇高な部分までをも貫くでしょう、とおっしゃったのならば、それが現実に起きこりうることなのです。私が個人的に主張していることは何もありません。ですが、ローマの最も高位な中枢部に居る人々が信仰を失っていると私たちに感じさせる数々の兆しがあります。
霊的な面での緊急対策が必要とされています。私たちは祈り、償いをしなければなりません。聖母マリアがお望みになられたように、家庭でロザリオを唱えなければなりません。過去に起きた様々な戦争では、爆弾が降り注ぎ始めると、人々が共に祈りを捧げ始めるのを、私たちは見てきました。これと全く同じように、爆弾がこの瞬間にも降ってきているのです。私たちは信仰喪失の崖っぷちに立たされているのです。人間は、世界規模での経済危機や原子爆弾による戦争のような災いを怖れてきました。ですが、私たちが置かれているこの状況が、それ以上に深刻なものであるということを、あなたがたは認識しているでしょうか?
刷新が絶対的に必要とされています。しかし、このことで若者を頼ることなどできない、と決めてかかってはいけません。若者は、必ずしもすべてが堕落してしまったわけではなく、一部の若者たちは、自分がそうではないことを私たちに証明しようとしています。彼らの多くは理想を持っています。他の多くの若者たちに対しては、理想を差し出すだけで十分なのです。彼らの寛大さに訴えて成功した運動の例は数え切れないほどあります。聖伝に忠実な修道院は若者たちを魅了し、養成を受けたいと望む若い神学生や修練者たちからの召命には事欠くことがありません。使徒から与えられた指示にしたがって果たすべき崇高な仕事があります。“Tenetetraditions... Permanete in iis quae didicistis.”「私たちが・・・教えた伝えを守れ。?テサロニケ2:15(バルバロ訳)」
消え去るように呼ばれている古い世界とは、中絶を主唱する世界です。聖伝に忠実な家族とは、大人数の家族でもあり、彼らの本物の信仰が子孫の繁栄を保証してくれています。「生めよ、ふえよ!」教会がいつも教えてきたことから離れずにいるならば、未来は保証されているのです。
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ
01. なぜ今カトリック者たちは、困惑しているのか。原因は、カトリック教会に侵入した新しい精神。それは教会の過去の教えと生命とを疑問視させる。
02. 私たちの宗教は変えられようとしている!
03. 典礼改革:ミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられている。非神聖化。聖なる物の喪失。
04. 永遠のミサと現代のミサ。典礼改革は意図的に犠牲を食事に変える。
05. 「それは昔の話ですよ!」
06. 洗礼と婚姻、悔悛と終油の秘蹟の新しい仕方
07. 新しい司祭職
08. 新しい公教要理
09. 現代の神学
10. エキュメニズム(キリスト教一致運動)
11. 信教の自由
12. 「同志」および「同伴者」たち
13. フランス革命のフリーメーソン的スローガン「自由・平等・博愛」は、第二バチカン公会議の「信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛」となった
14. 「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」(スーネンス枢機卿)
15. 教会と革命の結合:リベラル派は教会を革命と結婚・合体さようとし、歴代の教皇たちはこのリベラルなカトリック主義を排斥し続けてきた
16. 信仰を瓦解させる新近代主義
17. 聖伝とは何か:聖伝とは「数世紀を経て教導職により伝えられてきた信仰の遺産」と定義される
18. 本当の従順と偽物の従順:「従順」の名によって全聖伝に不従順であることは本物の従順ではない。
19. エコンの神学校とローマ
20. 永遠のミサ
21. 異端でもなく、離教でもなく
22. 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
23. 「作り上げること」と「壊し尽くすこと」との闘い
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス Pascendi Dominici Gregis』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(1)
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス Pascendi Dominici Gregis』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(2)
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス Pascendi Dominici Gregis』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(3)
マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にした歴史的な説教:聖伝を維持しながらこそ、ペトロの後継者(教皇)に対する私たちの愛と素直さと従順を表すことができる
聖ピオ五世教皇の勅書「クォー・プリームム」Bulla Quo Primum (1570年7月14日発布)の羅和対訳 Latin - Japanese bilingual
ルフェーブル大司教のローマにおける1974年11月21日の宣言
PIUS PP. X, MOTU PROPRIO, PRO ITALIA ET INSULIS ADIACENTIBUS DE STUDIO DOCTRINAE S. THOMAE AQUINATIS IN SCHOLIS CATHOLICIS PROMOVENDO
"Doctoris Angelici nemo sincere catholicus eam ausit in dubium vocare sententiam": Acta Apostolicis Sedis Vol 6, 1914 p. 336.
Doctoris angelici (ラテン語 text)
Doctoris Angelici (英語訳)
ルフェーブル大司教の公開書簡 その22
第22章 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
声をあげなければならないときが、すでに来ています。『現代世界憲章』が「歴史の経過そのものも、動きが早く、各個人がそれについてゆけないほどである」と、歴史の流れについて語るとき、それは、自由主義社会が分解と大混乱へとまっさかさまに突進していることが理解できます。私たちはこうした動きに巻き込まれないように注意しなければなりません。
国の指導者たちがあらゆる権威を破壊していく一方で、自分たちはキリスト教徒だなどと称するのは、理解に苦しむところです。本来はむしろ、天主からの権利を与えられた二つの自然社会、すなわち家族と市民社会の中において、天主の摂理によって定められた権威を再確立することが重要なのです。これらの影響は重大です。そして近年、強烈な打撃を受けて苦しんでいるのは家族です。フランスやスペインのような国々では、社会主義への改革が、この歩みをよりいっそう速めてしまいました。
次々となされる法的な政策は、家族という組織単位を破壊しようとする決意のもとに集結していることを明らかに示しています。
父親の威厳は損なわれ、簡単に離婚が起きるようになり、夫婦の交わりにおける責任感は消失し、無効であるはずの男女関係さらには同性愛カップルまでもが法的に承認されるようになりました。少年少女は同棲し、試験的結婚が登場し、大家族に対する金銭的、社会的援助も減らされてしまいました。他にもたくさんのことが起きています。そして、自国の利益が気になる国はようやく、出生率の低下という現象の影響に目を向けるようになり、近い将来、経済活動の一線から退いた高齢者たちの養老年金を、これから育ってくる若者たちがどうやって維持させていくことができるのだろうかと、途方に暮れています。ですが、人々が精神面で受ける影響の深刻さは、それどころの比ではありません。
カトリック信者はこれらに倣うべきではないものの、国民のひとりとして、何が要求されているかを見極めてその負担を正しく担うために全力をあげなければなりません。これが、信徒らが政治に無関心でいるわけにはいかない理由です。ですがこうした努力も、自分たちの子供を教育において特にその効果をあげるものでなければなりません。
この問題では、「子は親の所有物ではない」と宣言する人々によって、権威なるものが根底で疑問視されています。彼らはこのように宣言することで、教育というものは、学校、託児所、幼稚園などをとおして国が施すものであると言い、自分たちの信仰上の信念にしたがって自分の子供を育てていこうとする親たちはその子供たちの「良心の自由」を尊重していないと言って、親たちをとがめて非難します。
このような考え方は、17世紀の英国の哲学者たちにまで遡ることができます。彼らは、人間とは生まれた瞬間から独立した一個人であって、いかなる権威からも解き放たれた自由かつ平等な存在である、という考えを支持しました。私たちは、この考え方が誤りであることが分かります。子供はあらゆるもの、すなわち、食べるもの、知性、教育、道徳、そして社会的な糧のすべてを、自分の父親や母親から与えられるからです。親たちは、子供たちの心の中で権威を分かち合ってくれる教師たちに支えられています。子供たちは自分自身の体験や観察をとおして自分自身の中に取り込んだ知識よりも、それが親だけからであっても、あるいは親と教師たちから学んだものであっても、若い時期に彼らから学び、受け、受領した知識のほうが遙かに大きいのです。知識のほとんどは、それを伝える権威あるところから与えられたものです。生徒たちは、自分の親や教師、教科書を信頼して、そして知識が育くまれていくものなのです。
このことは、信仰、伝統、慣習に従った宗教的な知識、宗教的な実践、あるいは道徳的行動において、さらに真実となります。世界中の国々を観察してみれば分かるように、人間は普通、家族の習慣に従って生活しています。ですから、子供時代に受けた宗教から他の宗教へ移行していくということは、深刻な問題にぶつかるものなのです。
家族や生い立ちが人に与える絶大な影響は、天主様によって意図されました。天主様は御自分の祝福が、まず最初に家族をとおして与えられることを望まれました。父親たる存在が、天主様によって、家族の中で妻や子たちに対して大いなる威厳と力を与えられた理由は、そこにあります。子供はとてつもなくか弱い状態で生まれてくるため、安定して持続する解消されえない家庭が絶対に必要となります。
家庭の威厳を損なってまで、子供の個性や自意識を高揚しようとすることは、子供の不幸を作ることであり、彼らを親に反抗し、軽蔑するようにと促すことです。しかし、親を敬う子供たちには長寿が天主によって約束されているのです。聖パウロはこのことに触れて、父は子を怒らせてはならず、むしろ主を畏れる者として鍛錬しなさい、と諭しています。
もし私たちが、宗教的な真理が理解できるまで、信じて回心することを待たなければならないのだとしたら、今日、キリスト教徒はほとんど存在していなかったでしょう。私たちは、あかししてくれる人々の聖徳、利己主義を捨てた態度、愛徳に満ちたその様子をとおして、これらの人々が信じるにふさわしいからこそ、宗教の真理を信じているのです。また、聖アウグスチヌスが言っているように、信仰が理解を与えるものなのです。
両親の役割が、とても難しくなってきました。私たちが見てきたように、多くのカトリック・スクールは事実上、公立の学校と変わらない世俗的な存在となりました。そこでは真の宗教どころか、世俗の学問を信仰に照らして教えることすらもなされていません。公教要理の時間は近代主義思想を喧伝しています。多忙を極める近代生活は、人々から時間的なゆとりを奪い、専門職の義務は、かつては子育てに協力してくれた祖父母から親子を引き離しています。カトリック信者は混乱しているだけでなく、無防備な状態に置かれているのです。
ですが、両親が非常に大切な部分を保証することまでできなかったとしても、この欠乏を埋め合わせるはずの天主様の恩寵があります。それでは、何をしなければならないのでしょうか? 数は非常に限られているものの、本当の意味でのカトリック・スクールは存在しています。仮にそれが金銭的な重荷を強いるものであっても、あなたがたは自分の子供をそこに行かせるようにして下さい。他の人々がすでにそうしたように、新しい学校を建てなさい。もしもあなたがたが、教育が荒廃した学校に頼るしかないのならば、そのことを申し立て、要求しなさい。それらの学校の教師に、我が子の信仰を失わせがままにさせてはなりません。
最も素晴らしく、最も健全で、最も完璧なトリエントの公教要理を家族でよく読みなさい。良い司祭による霊的な指導のもとで、「公式のものとは別の」教理講座を開きなさい。私たちがそう言われたように「野蛮」と呼ばれることを怖れてはなりません。それどころか、あなたたちの子供を喜んで迎え入れてくれるような多くのグループがすでに活動を始めています。
近代主義者の毒に染まった本を捨てなさい。助言を求めなさい。素晴らしい書籍を出版している勇敢な出版社があります。彼らはまた、近代主義者によってかつては破壊された優れた書籍の再出版もしています。
どんな聖書でも買い求めればよい、というものではありません。どんなカトリック信者の家庭も、忠実に訳されたヴルガタ訳の聖書を使いなさい。これは、4世紀に聖イエロニモがラテン語に訳して、教会で列聖された聖書です。聖書の正しい解釈から離れてはなりません。かつてはどこでも行なわれていたような本物のミサと秘蹟に与りなさい。
現在、教会は悪魔から激しい攻撃を受けています。これは事実です。おそらく私たちは、悪魔の最後の戦い、総力をあげた決死の戦いの証人なのです。悪魔はあらゆるところで最前線を攻撃しています。ファチマの聖母が、いつの日か悪魔は教会の最も崇高な部分までをも貫くでしょう、とおっしゃったのならば、それが現実に起きこりうることなのです。私が個人的に主張していることは何もありません。ですが、ローマの最も高位な中枢部に居る人々が信仰を失っていると私たちに感じさせる数々の兆しがあります。
霊的な面での緊急対策が必要とされています。私たちは祈り、償いをしなければなりません。聖母マリアがお望みになられたように、家庭でロザリオを唱えなければなりません。過去に起きた様々な戦争では、爆弾が降り注ぎ始めると、人々が共に祈りを捧げ始めるのを、私たちは見てきました。これと全く同じように、爆弾がこの瞬間にも降ってきているのです。私たちは信仰喪失の崖っぷちに立たされているのです。人間は、世界規模での経済危機や原子爆弾による戦争のような災いを怖れてきました。ですが、私たちが置かれているこの状況が、それ以上に深刻なものであるということを、あなたがたは認識しているでしょうか?
刷新が絶対的に必要とされています。しかし、このことで若者を頼ることなどできない、と決めてかかってはいけません。若者は、必ずしもすべてが堕落してしまったわけではなく、一部の若者たちは、自分がそうではないことを私たちに証明しようとしています。彼らの多くは理想を持っています。他の多くの若者たちに対しては、理想を差し出すだけで十分なのです。彼らの寛大さに訴えて成功した運動の例は数え切れないほどあります。聖伝に忠実な修道院は若者たちを魅了し、養成を受けたいと望む若い神学生や修練者たちからの召命には事欠くことがありません。使徒から与えられた指示にしたがって果たすべき崇高な仕事があります。“Tenetetraditions... Permanete in iis quae didicistis.”「私たちが・・・教えた伝えを守れ。?テサロニケ2:15(バルバロ訳)」
消え去るように呼ばれている古い世界とは、中絶を主唱する世界です。聖伝に忠実な家族とは、大人数の家族でもあり、彼らの本物の信仰が子孫の繁栄を保証してくれています。「生めよ、ふえよ!」教会がいつも教えてきたことから離れずにいるならば、未来は保証されているのです。
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ
01. なぜ今カトリック者たちは、困惑しているのか。原因は、カトリック教会に侵入した新しい精神。それは教会の過去の教えと生命とを疑問視させる。
02. 私たちの宗教は変えられようとしている!
03. 典礼改革:ミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられている。非神聖化。聖なる物の喪失。
04. 永遠のミサと現代のミサ。典礼改革は意図的に犠牲を食事に変える。
05. 「それは昔の話ですよ!」
06. 洗礼と婚姻、悔悛と終油の秘蹟の新しい仕方
07. 新しい司祭職
08. 新しい公教要理
09. 現代の神学
10. エキュメニズム(キリスト教一致運動)
11. 信教の自由
12. 「同志」および「同伴者」たち
13. フランス革命のフリーメーソン的スローガン「自由・平等・博愛」は、第二バチカン公会議の「信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛」となった
14. 「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」(スーネンス枢機卿)
15. 教会と革命の結合:リベラル派は教会を革命と結婚・合体さようとし、歴代の教皇たちはこのリベラルなカトリック主義を排斥し続けてきた
16. 信仰を瓦解させる新近代主義
17. 聖伝とは何か:聖伝とは「数世紀を経て教導職により伝えられてきた信仰の遺産」と定義される
18. 本当の従順と偽物の従順:「従順」の名によって全聖伝に不従順であることは本物の従順ではない。
19. エコンの神学校とローマ
20. 永遠のミサ
21. 異端でもなく、離教でもなく
22. 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
23. 「作り上げること」と「壊し尽くすこと」との闘い
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス Pascendi Dominici Gregis』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(1)
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス Pascendi Dominici Gregis』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(2)
回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス Pascendi Dominici Gregis』 近代主義の誤謬について 聖ピオ十世教皇(3)
マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にした歴史的な説教:聖伝を維持しながらこそ、ペトロの後継者(教皇)に対する私たちの愛と素直さと従順を表すことができる
聖ピオ五世教皇の勅書「クォー・プリームム」Bulla Quo Primum (1570年7月14日発布)の羅和対訳 Latin - Japanese bilingual
ルフェーブル大司教のローマにおける1974年11月21日の宣言
PIUS PP. X, MOTU PROPRIO, PRO ITALIA ET INSULIS ADIACENTIBUS DE STUDIO DOCTRINAE S. THOMAE AQUINATIS IN SCHOLIS CATHOLICIS PROMOVENDO
"Doctoris Angelici nemo sincere catholicus eam ausit in dubium vocare sententiam": Acta Apostolicis Sedis Vol 6, 1914 p. 336.
Doctoris angelici (ラテン語 text)
Doctoris Angelici (英語訳)