2019年2月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月1日、2月の初金曜日で、アンティオキアの聖イグナチオ殉教者司教の祝日でもあります。
今日は初金曜日です。ミサが終わった後に、いつもの通り聖時間を行ないましょう。
御聖体の前で、イエズス様に対して犯される罪を償いましょう。そして多くの霊魂がイエズス様を知り、愛する事ができますように、特別の御恵みを乞い求めましょう。
明日は、聖母の御浄めの祝日であります。10時半からミサがあります。
2月10日と11日にもミサがあります。
「願わくは、キリストが私たちの心に、信仰を通して、そして愛徳において根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれるように。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は初金曜日で、いつものように聖パウロの美しい書簡を読みました、「イエズス様が私たちの心に、一人一人の心に住まわれますように。それは信仰を通して、また愛徳に根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれますように。」
「信仰という真理において、また天主への愛というものに深く根付いて、そこに深い基礎を置いて、イエズス様が私たちの心一人一人に住み、生き、私たちを導かれますように。そして願わくは、そのイエズス様のその愛の深さと、広さと、幅広さと、その深さと、高さと、その長さを、私たちが把握する事ができるように」と書いています。聖パウロは夢中になって、イエズス様への愛に夢中になっているので、もう文法の事など忘れているかのようです。
ところで、このイエズス様への愛に熱烈に燃え立ったのは、聖パウロだけではありません。初代のキリスト教信者がそうでした。使徒行録によると、「初代のキリスト教信者たちは、心も、そして霊魂も一つになって、一つの共同体となって住んでいた」と言います。「そして特にアンティオキアでは、彼らはキリスト者と呼ばれた。クリスティアナと呼ばれていた」と、「キリストに従う者と呼ばれていた」と書かれています。
アンティオキアでは、聖ペトロがローマに行く前に司教座を作って、聖ペトロの使徒座を作りました。ですからローマとアンティオキアは非常に重要な使徒座で、今では残念ながらトルコ、イスラムの手に落ちていますが、昔からアンティオキアはローマに次ぐ、聖ペトロの座として非常に大切なものでした。
その聖ペトロの3代目の、聖ペトロ、それからもう一人おいて、もう一人が、今日祝日の聖イグナチオです、アンティオキアの司教。そしてアンティオキアの司教として素晴らしく、愛徳に満ちて統治した後に、慕われつつ、多くの司教、周りの司教様たち、あるいは司祭、信徒たちから、助祭たちから慕われつつ、しかしトライアノローマ皇帝のもとにおいて、ローマに連行されて、そしてローマで野獣の、獰猛な動物たち、ライオンの餌食となる為に、コロセウムで見世物となる為に、ローマに連れて行かれました。
聖イグナチオはローマに行くのは、はたから見ると、十字架の道行きでした。しかし聖イグナチオにとってこれは、婚宴に、結婚式に与る花嫁の旅でした。
ローマに行く道まで、アンティオキアからローマに行く道のりは長く、10人のローマの兵士たちが、非常に乱暴に、残酷に扱っていました。聖イグナチオは7ヶ所、おそらくそれ以上の所で立ち留まったと思いますけれども、その留まった所で手紙を書いています。ローマに行く途中でも、イエズス様の事を説教していました。そして手紙の中で、自分のこの手紙をその送るその相手に、「どれほど、イエズス様の愛に自分が燃えているか」という事を書き示しています。
私たちにとって、その7ヶ所の手紙を書いた場所は、十字架の道行きの7つの、第1留から第7留かもしれませんが、しかし聖イグナチオにとってはそれは、結婚式に与る為に、イエズス様に対して書くラブレターのようなものでした。
その7つの手紙は、初代のキリスト教の非常に大切な聖伝の文献として、私たちにまで残っています。イエズス様について、「イエズス様は真に、本当に、童貞から生まれた。童貞なる母から生まれた。」また、「本当に、私たちの為に十字架に釘付けられた。」そして「私たちの為に、私たちを愛するが為に復活された」と証言しています。
その手紙の一つ一つは、愛に、イエズス様への愛に満ちて、「私は早く、イエズス様の元に行きたい。死んでイエズス様の元に行く、という事だけを考えている。その事は、この全地を支配するよりも、もっと私にとって良い事だ。イエズス様が私の為に釘付けにされ、そして私の為に復活された。その愛を思うと、私はイエズス様の事を愛して、その愛に燃え立っている」という事を書いています。
そしてローマの信徒たちには、「私はこれから、獰猛な動物たちの餌になって、食いちぎられる。そして私は一粒の麦となって地に落ちるけれども、私がイエズス様の元に行くのをどうぞ、どうぞ引き止めないでほしい。他の殉教者たちは不思議な事に、動物たちが、あれほど獰猛で空腹だった動物たちが、殉教者たちの前にきょとんとして何も近付こうとしなかった、危害を与えようとしなかったけれども、そのような奇跡を私の為に祈らないでほしい。私はイエズス様の元に行きたい。一粒の麦となって地に落ちたい。そしてイエズス様の為の清いパンとなりたい」という事を、愛に満ちて、感動的に書き綴っています。
実際、107年ローマで、コロセウムで、ライオンたちの牙に食い潰されて、一粒の綺麗な麦として地に落ちて、そしてイエズス様のパンとして、聖イグナチオは自分の肉体と血を流して、イエズス様に愛を込めて捧げて、一生を終えました、殉教をしました。これは純粋に、イエズス様を愛するが為のものでした。
では、聖イグナチオはその書簡の中で既に、「イエズス様の元に与るこの私たちは、カトリック教会だ」という、「カトリック」という言葉を書いています。たとえ新約聖書の中には無かったとしても、既に聖イグナチオはそれを使っています。もちろん使徒信経の中にも私たちは使っています。
私たちにとって、この初金を祝う、初金のミサをしている私たちにとって、一体今日、どのような事を、イエズス様は聖イグナチオと共に教えようとしているのでしょうか?
聖パウロの言葉が耳に響きます、「信仰を通して、そして愛徳に根付いて、深く基礎を固められて、私たち一人一人の心に、イエズス様が住まわれますように。」
イエズス様は言われました、「もしも私を愛するならば、私は聖父と共に、聖霊と共に、お前たちの心にやって来て、住まうだろう。」
最後の晩餐の時に、イエズス様は言われました、「互いに愛し合え。そうすれば、この世の人たちは、お前たちが私の弟子であるという事を知るだろう。」
イエズス様の教えが真理であるという事は、あまりにも深くて、この世の人がすぐに理解する事ができないかもしれません。しかし、私たちがイエズス様を愛し、イエズス様を愛するが為に互いに愛し合う、という事をすると、これについては人々はすぐに理解できます。
「互いに愛し合う」というのは、これは世俗の流行歌が歌うような事ではありません。世俗の、あるいはこの現代の世界が言っているような、天主の無いイエズス・キリストの無い愛ではありません。あるいは感傷的なフィーリングだけのものではありません。第二バチカン公会議が言うような、「この世での地上での平和の為なら、どんなものも犠牲にして良い。真理でも、イエズス・キリストを隠してでも、この地上でのいわゆるフリーメイソン的な兄弟愛があれば良い」のではありません。
イエズス・キリストの仰る「互いに愛し合え」というのは、聖イグナチオが実践した愛徳であって、イエズス・キリストを愛するが為に、私たちも天主の贈る十字架を愛徳を以って担う、私たちの家族、あるいは隣人、友人、同僚から受ける、あるいは嫌がらせや、あるいは過失、あるいは失敗などを、寛大に許してあげる、あるいは理解してあげる。
そしてあるいは、その相手の利益を、心から親身になって考えてあげる。時にはその為に自分の事を忘れるほど、相手の為に立場になってあげる。あるいは「何でこの人はこんなに反応するのだろうか?何でこう怒っているのだろうか?何を悲しんでいるのだろうか?なぜこうなのだろうか?」と思いやってあげる、配慮してあげる。あるいは家族であれば家庭であれば、一緒に時を過ごして、そして自分のこのやりたい事も、それを家族と共に過ごす為にお捧げする。あるいは微笑みや、あるいはちょっとした忍耐、愛徳を実行するという、いわば聖イグナチオが、アンティオキアの聖イグナチオがローマへの道すがら、その警護の軍人から残酷に扱われたにもかかわらず、それを愛徳を以って忍んだように、私たちもイエズス様への愛の為に、隣人に愛徳を実践する、イエズス・キリストを愛するが為に。
これこそ、初代から伝わった、そして初代の使徒たちが実践して、今でも私たちが実践しようとする、イエズス・キリストの聖心への愛であり、カトリック教会の生き方です。これこそ、第二バチカン公会議が教えない、聖伝の、イエズス様の聖心への信仰と愛に深く根付いて築かれた生き方であって、イエズス様が私たちの心に、イエズス・キリストが生き生きと生きられる、生活される、住まわれる生き方です。これこそ、私たちの信じているカトリック教会の教えであって、イエズス・キリストの教えたキリスト教の教えであって、そしてイエズス様の聖心の愛の教えです。
では、今日の聖イグナチオの模範を見つつ、私たちもこのイエズス様への愛に燃えて、聖イグナチオの模範とはまだ遠く離れていますけれども、イエズス様に捧げられる一粒の麦となり、そして清いパンとなる事ができますように、私たちの心にイエズス様への愛がますます燃え立ちますように、最後にマリア様に汚れなき御心にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月1日、2月の初金曜日で、アンティオキアの聖イグナチオ殉教者司教の祝日でもあります。
今日は初金曜日です。ミサが終わった後に、いつもの通り聖時間を行ないましょう。
御聖体の前で、イエズス様に対して犯される罪を償いましょう。そして多くの霊魂がイエズス様を知り、愛する事ができますように、特別の御恵みを乞い求めましょう。
明日は、聖母の御浄めの祝日であります。10時半からミサがあります。
2月10日と11日にもミサがあります。
「願わくは、キリストが私たちの心に、信仰を通して、そして愛徳において根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれるように。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は初金曜日で、いつものように聖パウロの美しい書簡を読みました、「イエズス様が私たちの心に、一人一人の心に住まわれますように。それは信仰を通して、また愛徳に根付いて、そしてそこに基礎を置いて住まわれますように。」
「信仰という真理において、また天主への愛というものに深く根付いて、そこに深い基礎を置いて、イエズス様が私たちの心一人一人に住み、生き、私たちを導かれますように。そして願わくは、そのイエズス様のその愛の深さと、広さと、幅広さと、その深さと、高さと、その長さを、私たちが把握する事ができるように」と書いています。聖パウロは夢中になって、イエズス様への愛に夢中になっているので、もう文法の事など忘れているかのようです。
ところで、このイエズス様への愛に熱烈に燃え立ったのは、聖パウロだけではありません。初代のキリスト教信者がそうでした。使徒行録によると、「初代のキリスト教信者たちは、心も、そして霊魂も一つになって、一つの共同体となって住んでいた」と言います。「そして特にアンティオキアでは、彼らはキリスト者と呼ばれた。クリスティアナと呼ばれていた」と、「キリストに従う者と呼ばれていた」と書かれています。
アンティオキアでは、聖ペトロがローマに行く前に司教座を作って、聖ペトロの使徒座を作りました。ですからローマとアンティオキアは非常に重要な使徒座で、今では残念ながらトルコ、イスラムの手に落ちていますが、昔からアンティオキアはローマに次ぐ、聖ペトロの座として非常に大切なものでした。
その聖ペトロの3代目の、聖ペトロ、それからもう一人おいて、もう一人が、今日祝日の聖イグナチオです、アンティオキアの司教。そしてアンティオキアの司教として素晴らしく、愛徳に満ちて統治した後に、慕われつつ、多くの司教、周りの司教様たち、あるいは司祭、信徒たちから、助祭たちから慕われつつ、しかしトライアノローマ皇帝のもとにおいて、ローマに連行されて、そしてローマで野獣の、獰猛な動物たち、ライオンの餌食となる為に、コロセウムで見世物となる為に、ローマに連れて行かれました。
聖イグナチオはローマに行くのは、はたから見ると、十字架の道行きでした。しかし聖イグナチオにとってこれは、婚宴に、結婚式に与る花嫁の旅でした。
ローマに行く道まで、アンティオキアからローマに行く道のりは長く、10人のローマの兵士たちが、非常に乱暴に、残酷に扱っていました。聖イグナチオは7ヶ所、おそらくそれ以上の所で立ち留まったと思いますけれども、その留まった所で手紙を書いています。ローマに行く途中でも、イエズス様の事を説教していました。そして手紙の中で、自分のこの手紙をその送るその相手に、「どれほど、イエズス様の愛に自分が燃えているか」という事を書き示しています。
私たちにとって、その7ヶ所の手紙を書いた場所は、十字架の道行きの7つの、第1留から第7留かもしれませんが、しかし聖イグナチオにとってはそれは、結婚式に与る為に、イエズス様に対して書くラブレターのようなものでした。
その7つの手紙は、初代のキリスト教の非常に大切な聖伝の文献として、私たちにまで残っています。イエズス様について、「イエズス様は真に、本当に、童貞から生まれた。童貞なる母から生まれた。」また、「本当に、私たちの為に十字架に釘付けられた。」そして「私たちの為に、私たちを愛するが為に復活された」と証言しています。
その手紙の一つ一つは、愛に、イエズス様への愛に満ちて、「私は早く、イエズス様の元に行きたい。死んでイエズス様の元に行く、という事だけを考えている。その事は、この全地を支配するよりも、もっと私にとって良い事だ。イエズス様が私の為に釘付けにされ、そして私の為に復活された。その愛を思うと、私はイエズス様の事を愛して、その愛に燃え立っている」という事を書いています。
そしてローマの信徒たちには、「私はこれから、獰猛な動物たちの餌になって、食いちぎられる。そして私は一粒の麦となって地に落ちるけれども、私がイエズス様の元に行くのをどうぞ、どうぞ引き止めないでほしい。他の殉教者たちは不思議な事に、動物たちが、あれほど獰猛で空腹だった動物たちが、殉教者たちの前にきょとんとして何も近付こうとしなかった、危害を与えようとしなかったけれども、そのような奇跡を私の為に祈らないでほしい。私はイエズス様の元に行きたい。一粒の麦となって地に落ちたい。そしてイエズス様の為の清いパンとなりたい」という事を、愛に満ちて、感動的に書き綴っています。
実際、107年ローマで、コロセウムで、ライオンたちの牙に食い潰されて、一粒の綺麗な麦として地に落ちて、そしてイエズス様のパンとして、聖イグナチオは自分の肉体と血を流して、イエズス様に愛を込めて捧げて、一生を終えました、殉教をしました。これは純粋に、イエズス様を愛するが為のものでした。
では、聖イグナチオはその書簡の中で既に、「イエズス様の元に与るこの私たちは、カトリック教会だ」という、「カトリック」という言葉を書いています。たとえ新約聖書の中には無かったとしても、既に聖イグナチオはそれを使っています。もちろん使徒信経の中にも私たちは使っています。
私たちにとって、この初金を祝う、初金のミサをしている私たちにとって、一体今日、どのような事を、イエズス様は聖イグナチオと共に教えようとしているのでしょうか?
聖パウロの言葉が耳に響きます、「信仰を通して、そして愛徳に根付いて、深く基礎を固められて、私たち一人一人の心に、イエズス様が住まわれますように。」
イエズス様は言われました、「もしも私を愛するならば、私は聖父と共に、聖霊と共に、お前たちの心にやって来て、住まうだろう。」
最後の晩餐の時に、イエズス様は言われました、「互いに愛し合え。そうすれば、この世の人たちは、お前たちが私の弟子であるという事を知るだろう。」
イエズス様の教えが真理であるという事は、あまりにも深くて、この世の人がすぐに理解する事ができないかもしれません。しかし、私たちがイエズス様を愛し、イエズス様を愛するが為に互いに愛し合う、という事をすると、これについては人々はすぐに理解できます。
「互いに愛し合う」というのは、これは世俗の流行歌が歌うような事ではありません。世俗の、あるいはこの現代の世界が言っているような、天主の無いイエズス・キリストの無い愛ではありません。あるいは感傷的なフィーリングだけのものではありません。第二バチカン公会議が言うような、「この世での地上での平和の為なら、どんなものも犠牲にして良い。真理でも、イエズス・キリストを隠してでも、この地上でのいわゆるフリーメイソン的な兄弟愛があれば良い」のではありません。
イエズス・キリストの仰る「互いに愛し合え」というのは、聖イグナチオが実践した愛徳であって、イエズス・キリストを愛するが為に、私たちも天主の贈る十字架を愛徳を以って担う、私たちの家族、あるいは隣人、友人、同僚から受ける、あるいは嫌がらせや、あるいは過失、あるいは失敗などを、寛大に許してあげる、あるいは理解してあげる。
そしてあるいは、その相手の利益を、心から親身になって考えてあげる。時にはその為に自分の事を忘れるほど、相手の為に立場になってあげる。あるいは「何でこの人はこんなに反応するのだろうか?何でこう怒っているのだろうか?何を悲しんでいるのだろうか?なぜこうなのだろうか?」と思いやってあげる、配慮してあげる。あるいは家族であれば家庭であれば、一緒に時を過ごして、そして自分のこのやりたい事も、それを家族と共に過ごす為にお捧げする。あるいは微笑みや、あるいはちょっとした忍耐、愛徳を実行するという、いわば聖イグナチオが、アンティオキアの聖イグナチオがローマへの道すがら、その警護の軍人から残酷に扱われたにもかかわらず、それを愛徳を以って忍んだように、私たちもイエズス様への愛の為に、隣人に愛徳を実践する、イエズス・キリストを愛するが為に。
これこそ、初代から伝わった、そして初代の使徒たちが実践して、今でも私たちが実践しようとする、イエズス・キリストの聖心への愛であり、カトリック教会の生き方です。これこそ、第二バチカン公会議が教えない、聖伝の、イエズス様の聖心への信仰と愛に深く根付いて築かれた生き方であって、イエズス様が私たちの心に、イエズス・キリストが生き生きと生きられる、生活される、住まわれる生き方です。これこそ、私たちの信じているカトリック教会の教えであって、イエズス・キリストの教えたキリスト教の教えであって、そしてイエズス様の聖心の愛の教えです。
では、今日の聖イグナチオの模範を見つつ、私たちもこのイエズス様への愛に燃えて、聖イグナチオの模範とはまだ遠く離れていますけれども、イエズス様に捧げられる一粒の麦となり、そして清いパンとなる事ができますように、私たちの心にイエズス様への愛がますます燃え立ちますように、最後にマリア様に汚れなき御心にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。