アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様
今日は、聖ヨゼフの大祝日ですね!
大阪では四季の斎日の金曜日、土曜日のミサを捧げ、東京では四旬節の第二主日のミサをお捧げすることが出来ました。天主に感謝いたします。
ミサのご報告を頂きました。感謝して愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
聖ヨゼフよ、われらのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
ミサの参列者数
男: 25人(内、子供4人)
女: 29人(内、子供5人)
計: 54人(内、子供9人)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
この日は特別に、ご聖体が光り輝く御復活のお姿に御変容されたイエズス様であることをおもいながら、窓から差し込む日の光に輝く真っ白いご聖体を深く跪いて礼拝し拝領することができました。
10日ほど前に灰をいただき、すでに四旬節に入っていて、何度かの大小斎を過ごしながらレントの第二主日を迎えました。四旬節に入って感じていたことは食べ物の誘惑というよりも、もっと違う何かでした。けれど、”天主のみ旨はあなたたちの聖化にある”という人生の究極の目的のことをお話しくださり、なるほどと感じられました。(聖徳とは何かという神父様の大阪でのお説教を読んで、人生の目的へ達するのは大変なことであって簡単なことでないと思いました。)
少しでもイエズス様のお示しくださったほうへ向かおうとしていると、妨げの力が内からとか外側からとかやってくるのが感じられることがあります。妨げの力は、ほんとうに厳しいです。
神父様は、「厳しいからこそこの道の終わりには何があるのかを知らされることが大切で、そのためにイエズス様はまだ復活体を持つ前だったにもかかわらず奇跡をおこなって、栄光の光り輝くお姿をお見せくださったのです」とお話しくださいました。それはいまこのミサの中でご聖体という真っ白い栄光のお姿を見せてくださるのと同じことだと教えてくださいました。
まだ、40日間の断食が終わっていないので(まだ人生の荒野を最後の道のりまで歩ききっていないので)、イエズス様の栄光を間近に仰ぐことはできなくても(堅忍してそのようにできるかどうかさえまだわからないとしても)、こうしてご聖体を礼拝し拝領させていただくことは、ほんとうに慰めで励ましです。
今日この聖福音が読まれるのは、いま歩んでいる道のりが厳しいものであればあるほどその道のりの終わった後にどれほど素晴らしいことが待っているかどれほど良いことが待っているかはっきり知るようにとのことなのですね。モーゼとエリヤも、主の栄光を見る前に40日間の断食が必要だったのであり、イエズス様も私たちへの模範のために荒野で断食をされたのであり、40日間の断食はこの世の砂漠のようなところを歩くための準備として必要だということをお聞きして、カトリック信仰をもってこの世を生きることの心構えを考え直しました。モーゼやエリヤがシナイ山(ホレブの山)に登るために荒野での断食が必要であったように、私たちも自分を少しでも聖化しようとするならその荒野での断食の態度が必要であることを教えられているのだと思いました。
三人の弟子たちが「主よ、私たちがここにいることは良いことです。イエズス様とモーゼとエリヤのために幕屋を作りましょう。」といったように、ご聖体拝領では自分のうちにイエズス様にお留まりいただけるように「このテントの中においで下さい」「私のなかに入り来てください」とお迎えすることにいたしましょうと教えていただいたことがうれしく、そのように心から望みそのように努めました。このことを記憶に留めて、いつもイエズス様と一緒にいることができますように毎日を注意深く過ごせたらとおもいます。
信仰をもって生きることの厳しさの中、昔のカトリック信者も主日ごとにマリア様のいる聖堂に集まり助けを仰いだことの表れが今日の指定巡礼教会の由来ですとのこと、私もマリア様に助けを求めました。自分にあまり枷を課していないだらしない私でしたが、残りの四旬節中だけでもいろいろ工夫して節制を課し償いを少しでもお捧げして、願わくは少しでも浄められた心で4月には復活のイエズス様に出会えますように努めたいと思います。
小野田神父様四旬節第二主日のミサをありがとうございました。
(四旬節に入って、この主日の日に気づかされたのは自然に沸き起こる感情を聖なる無関心でやり過ごすことも、一つの節制の形なのかもしれないということでした。それは、何かを食べたいとか飲みたいとかいうものを我慢するようなそういう辛さと似通ったものであるかもしれないと思いました。意識すればするほどそれが大きくクローズアップされてしまうところも似ているように思います。煉獄ではきっと、そういった自分の自然の感情が動き回っているままエントロピー的に落ち着くまで活発に動き回りいわば潜在していた感情も含めてあらゆる悲しみと喜びの変動がおこなわれてしまうのかもしれないと想像してしまいました。それは何かを食べたいという思いのように自分の気持ちをいらつかせるように思います。それでこの四旬節に一番努めなければならないと感じさせられたのは、聖なる無関心という自分の感情の望むことを無視して静かにするべきことに向かう態度だと思いました。この聖なる無関心をもって物事を静かに受け止めるということも、四旬節の断食と荒野での試練のなかの体験となるのかもしれないと感じました。私は、まだまだとても聖なる無関心などというような徳をもつことはできないけれど。
―「このテントの中においで下さい」とイエズス様に申し上げる―
私の浄められていない感情や欲求の数々によって自分の気持ちがあちこちに引っ張られていこうとするのを、この幕屋の中にいらしてくださるイエズス様が、静かに戻してくださることを願います。たくさんの欲や望みや虚栄心や自己満足や虚しい誇りこの世の考えなどのすべてに引っ張られていくのを感じても、自分の努力だけでは止められない時があることを痛感して、この聖なる御方によってだけ鎮められることができると思いました。それからマリア様がどれほどご謙遜であられたかを深く心に留めるようにしてこの四旬節すこしでも心を清めて過ごすことができますように、と祈りました。)
【報告】
Ave Maria Immaculata!
公教要理をありがとうございます。この日は、イエズス様がどうして断食をされたのか誘惑されたのはどうしてだったのかということを黙想しました。
私は、第一のアダムが「木の実を食べエデンの園から荒野に追放された」そして、第二のアダムであるイエズス・キリストが「荒野に行ってゲッセマニの園(オリーヴの園)に行きそれからご胎内の実を木に架けた」というところのお話が印象に残りました。
特に“ご胎内の実”というところが印象深く、神秘に包まれたその言葉を心に刻んできました。
あとでその部分を一人でゆっくり黙想しました。実を食べたことが罪の元となり死がもたらされた、一方そののち、マリア様のご胎内の実によって命がもたらされた、最初の命よりもっと素晴らしいいのちがもたらされた・・・。木に成っている実を勝手に食べてアダムに死がもたらされた、そののち、そしてマリア様のご胎内の実が木に架けられ、それをいただく(食べる)ものに復活のいのちがもたらされるようになる・・・。人間のいのちについての神秘が感じられました。
毎日何度も祈る天使祝詞の「ご胎内の御子イエズスも祝せられ給う」というフレーズがどうしても蘇ります。
だれも、十字架に架けられた御子の肉を食べなければ、新しいいのちに変えられることができない。けれど、そんなことを誰ができようかとほとんどのものが言った当時の人たちと同じように、主のみことばを理解しようとせず、御聖体をただのパンに貶めようとする力が、今も教会の中にも働いているのかもしれない。御聖体は食卓のパンに過ぎない、マリア様の胎の実ではない、人の子の肉ではないと、信仰を替えようとする力が働いているのかもしれない。
現代の日本のほとんどのカトリック教会のミサの中では、ホスチアに“大地の恵み労働の実り私たちの命の糧となるものです”、と呼びかけるようです。このように新しいミサ典書には記載され憶えてしまうのです。(私の記憶が間違っていなければ)。けれど、永遠のミサと列聖されたラテン語のミサ典書では、ご聖体に向かって一言も“労働のみのり”と呼びかけることをしてないように思います。むしろ救いのためのいけにえです。ご聖体は私たちの主の御受難の再現そのものを表しているので、私たちはご聖体のイエズス様に向かって自分の罪を告白して赦しを願い永遠のいのちを賜るよう願い、跪いて深く礼拝させていただきます。特にこの四旬節は、自分の罪を少しでも償うことができますよう努めて、赦しを願うにおいて心からの悔い改めができますよう心しなければと思ったのでした。
公教要理のお話から、確かにご聖体は清らかなパンであるけれど、そのホスチアはマリア様のご胎内の実が十字架の木に架けられてなった御受難の実でありいのちのパンだということを気付かせていただきました。私たちがいただこうとしている永遠のいのちは、マリア様がおられなければいただくことのできないものだということがよくわかったように思います。
マリア様はどれほどこのミサが替えられてしまうことをお悲しみになられていることでしょうか。
ミサが霊魂の救いのためのものとならなくなるとしたら、救いを求めてカトリック教会にやってくる自分の子供たちを救うことができなくなります。それは本当にマリア様への冒涜のように感じられます。聖伝のミサがけっしてなくなりませんようにと心から願います。聖母のけがれなき御心への信心によるマリア様への侮辱を償うために祈りと犠牲をお捧げするのはどうしてなのかを、また一つはっきりとわからせていただいたように思います。
あれれ、“荒野での断食”というのがこの日の黙想のテーマのような気がしたので、少しずれてしまったかもしれません。
聖アンブロシオによれば、イエズス様の荒野での40日間の断食は旧約の預言と律法を完成させるためにおこなわれたということでした。モーゼとエリアのそれぞれの40日間の荒野で断食をしてシナイ山ホレブの山に登ったことも関係しているとのお話に、この日の聖福音で読まれたことが思い出されました。
イエズス様が誘惑を受けられたのも私たちの模範となるためであったとのこと、たとえ洗礼を受けたとしても断食をしていても悪魔からの誘惑はやってきて身体を維持することへの過度の気がかりや虚栄心や高慢や権力欲などのすべての傲慢を助長させるよう働きかけてくることのですというお話に、しかと注意と準備を怠らず警戒をしなければと思いました。マリア様のご謙遜にわずかでも倣うことができますようにと思います。アダムの罪を償うための公生活を始める準備として荒野で断食をされたイエズス様を見習うことができますように、残りの四旬節に断食を心の断食も含めて頑張ろうと思いました。
小野田神父様、とても大切な公教要理のお話をありがとうございました。
愛する兄弟姉妹の皆様
今日は、聖ヨゼフの大祝日ですね!
大阪では四季の斎日の金曜日、土曜日のミサを捧げ、東京では四旬節の第二主日のミサをお捧げすることが出来ました。天主に感謝いたします。
ミサのご報告を頂きました。感謝して愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
聖ヨゼフよ、われらのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
ミサの参列者数
男: 25人(内、子供4人)
女: 29人(内、子供5人)
計: 54人(内、子供9人)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
この日は特別に、ご聖体が光り輝く御復活のお姿に御変容されたイエズス様であることをおもいながら、窓から差し込む日の光に輝く真っ白いご聖体を深く跪いて礼拝し拝領することができました。
10日ほど前に灰をいただき、すでに四旬節に入っていて、何度かの大小斎を過ごしながらレントの第二主日を迎えました。四旬節に入って感じていたことは食べ物の誘惑というよりも、もっと違う何かでした。けれど、”天主のみ旨はあなたたちの聖化にある”という人生の究極の目的のことをお話しくださり、なるほどと感じられました。(聖徳とは何かという神父様の大阪でのお説教を読んで、人生の目的へ達するのは大変なことであって簡単なことでないと思いました。)
少しでもイエズス様のお示しくださったほうへ向かおうとしていると、妨げの力が内からとか外側からとかやってくるのが感じられることがあります。妨げの力は、ほんとうに厳しいです。
神父様は、「厳しいからこそこの道の終わりには何があるのかを知らされることが大切で、そのためにイエズス様はまだ復活体を持つ前だったにもかかわらず奇跡をおこなって、栄光の光り輝くお姿をお見せくださったのです」とお話しくださいました。それはいまこのミサの中でご聖体という真っ白い栄光のお姿を見せてくださるのと同じことだと教えてくださいました。
まだ、40日間の断食が終わっていないので(まだ人生の荒野を最後の道のりまで歩ききっていないので)、イエズス様の栄光を間近に仰ぐことはできなくても(堅忍してそのようにできるかどうかさえまだわからないとしても)、こうしてご聖体を礼拝し拝領させていただくことは、ほんとうに慰めで励ましです。
今日この聖福音が読まれるのは、いま歩んでいる道のりが厳しいものであればあるほどその道のりの終わった後にどれほど素晴らしいことが待っているかどれほど良いことが待っているかはっきり知るようにとのことなのですね。モーゼとエリヤも、主の栄光を見る前に40日間の断食が必要だったのであり、イエズス様も私たちへの模範のために荒野で断食をされたのであり、40日間の断食はこの世の砂漠のようなところを歩くための準備として必要だということをお聞きして、カトリック信仰をもってこの世を生きることの心構えを考え直しました。モーゼやエリヤがシナイ山(ホレブの山)に登るために荒野での断食が必要であったように、私たちも自分を少しでも聖化しようとするならその荒野での断食の態度が必要であることを教えられているのだと思いました。
三人の弟子たちが「主よ、私たちがここにいることは良いことです。イエズス様とモーゼとエリヤのために幕屋を作りましょう。」といったように、ご聖体拝領では自分のうちにイエズス様にお留まりいただけるように「このテントの中においで下さい」「私のなかに入り来てください」とお迎えすることにいたしましょうと教えていただいたことがうれしく、そのように心から望みそのように努めました。このことを記憶に留めて、いつもイエズス様と一緒にいることができますように毎日を注意深く過ごせたらとおもいます。
信仰をもって生きることの厳しさの中、昔のカトリック信者も主日ごとにマリア様のいる聖堂に集まり助けを仰いだことの表れが今日の指定巡礼教会の由来ですとのこと、私もマリア様に助けを求めました。自分にあまり枷を課していないだらしない私でしたが、残りの四旬節中だけでもいろいろ工夫して節制を課し償いを少しでもお捧げして、願わくは少しでも浄められた心で4月には復活のイエズス様に出会えますように努めたいと思います。
小野田神父様四旬節第二主日のミサをありがとうございました。
(四旬節に入って、この主日の日に気づかされたのは自然に沸き起こる感情を聖なる無関心でやり過ごすことも、一つの節制の形なのかもしれないということでした。それは、何かを食べたいとか飲みたいとかいうものを我慢するようなそういう辛さと似通ったものであるかもしれないと思いました。意識すればするほどそれが大きくクローズアップされてしまうところも似ているように思います。煉獄ではきっと、そういった自分の自然の感情が動き回っているままエントロピー的に落ち着くまで活発に動き回りいわば潜在していた感情も含めてあらゆる悲しみと喜びの変動がおこなわれてしまうのかもしれないと想像してしまいました。それは何かを食べたいという思いのように自分の気持ちをいらつかせるように思います。それでこの四旬節に一番努めなければならないと感じさせられたのは、聖なる無関心という自分の感情の望むことを無視して静かにするべきことに向かう態度だと思いました。この聖なる無関心をもって物事を静かに受け止めるということも、四旬節の断食と荒野での試練のなかの体験となるのかもしれないと感じました。私は、まだまだとても聖なる無関心などというような徳をもつことはできないけれど。
―「このテントの中においで下さい」とイエズス様に申し上げる―
私の浄められていない感情や欲求の数々によって自分の気持ちがあちこちに引っ張られていこうとするのを、この幕屋の中にいらしてくださるイエズス様が、静かに戻してくださることを願います。たくさんの欲や望みや虚栄心や自己満足や虚しい誇りこの世の考えなどのすべてに引っ張られていくのを感じても、自分の努力だけでは止められない時があることを痛感して、この聖なる御方によってだけ鎮められることができると思いました。それからマリア様がどれほどご謙遜であられたかを深く心に留めるようにしてこの四旬節すこしでも心を清めて過ごすことができますように、と祈りました。)
【報告】
Ave Maria Immaculata!
公教要理をありがとうございます。この日は、イエズス様がどうして断食をされたのか誘惑されたのはどうしてだったのかということを黙想しました。
私は、第一のアダムが「木の実を食べエデンの園から荒野に追放された」そして、第二のアダムであるイエズス・キリストが「荒野に行ってゲッセマニの園(オリーヴの園)に行きそれからご胎内の実を木に架けた」というところのお話が印象に残りました。
特に“ご胎内の実”というところが印象深く、神秘に包まれたその言葉を心に刻んできました。
あとでその部分を一人でゆっくり黙想しました。実を食べたことが罪の元となり死がもたらされた、一方そののち、マリア様のご胎内の実によって命がもたらされた、最初の命よりもっと素晴らしいいのちがもたらされた・・・。木に成っている実を勝手に食べてアダムに死がもたらされた、そののち、そしてマリア様のご胎内の実が木に架けられ、それをいただく(食べる)ものに復活のいのちがもたらされるようになる・・・。人間のいのちについての神秘が感じられました。
毎日何度も祈る天使祝詞の「ご胎内の御子イエズスも祝せられ給う」というフレーズがどうしても蘇ります。
だれも、十字架に架けられた御子の肉を食べなければ、新しいいのちに変えられることができない。けれど、そんなことを誰ができようかとほとんどのものが言った当時の人たちと同じように、主のみことばを理解しようとせず、御聖体をただのパンに貶めようとする力が、今も教会の中にも働いているのかもしれない。御聖体は食卓のパンに過ぎない、マリア様の胎の実ではない、人の子の肉ではないと、信仰を替えようとする力が働いているのかもしれない。
現代の日本のほとんどのカトリック教会のミサの中では、ホスチアに“大地の恵み労働の実り私たちの命の糧となるものです”、と呼びかけるようです。このように新しいミサ典書には記載され憶えてしまうのです。(私の記憶が間違っていなければ)。けれど、永遠のミサと列聖されたラテン語のミサ典書では、ご聖体に向かって一言も“労働のみのり”と呼びかけることをしてないように思います。むしろ救いのためのいけにえです。ご聖体は私たちの主の御受難の再現そのものを表しているので、私たちはご聖体のイエズス様に向かって自分の罪を告白して赦しを願い永遠のいのちを賜るよう願い、跪いて深く礼拝させていただきます。特にこの四旬節は、自分の罪を少しでも償うことができますよう努めて、赦しを願うにおいて心からの悔い改めができますよう心しなければと思ったのでした。
公教要理のお話から、確かにご聖体は清らかなパンであるけれど、そのホスチアはマリア様のご胎内の実が十字架の木に架けられてなった御受難の実でありいのちのパンだということを気付かせていただきました。私たちがいただこうとしている永遠のいのちは、マリア様がおられなければいただくことのできないものだということがよくわかったように思います。
マリア様はどれほどこのミサが替えられてしまうことをお悲しみになられていることでしょうか。
ミサが霊魂の救いのためのものとならなくなるとしたら、救いを求めてカトリック教会にやってくる自分の子供たちを救うことができなくなります。それは本当にマリア様への冒涜のように感じられます。聖伝のミサがけっしてなくなりませんようにと心から願います。聖母のけがれなき御心への信心によるマリア様への侮辱を償うために祈りと犠牲をお捧げするのはどうしてなのかを、また一つはっきりとわからせていただいたように思います。
あれれ、“荒野での断食”というのがこの日の黙想のテーマのような気がしたので、少しずれてしまったかもしれません。
聖アンブロシオによれば、イエズス様の荒野での40日間の断食は旧約の預言と律法を完成させるためにおこなわれたということでした。モーゼとエリアのそれぞれの40日間の荒野で断食をしてシナイ山ホレブの山に登ったことも関係しているとのお話に、この日の聖福音で読まれたことが思い出されました。
イエズス様が誘惑を受けられたのも私たちの模範となるためであったとのこと、たとえ洗礼を受けたとしても断食をしていても悪魔からの誘惑はやってきて身体を維持することへの過度の気がかりや虚栄心や高慢や権力欲などのすべての傲慢を助長させるよう働きかけてくることのですというお話に、しかと注意と準備を怠らず警戒をしなければと思いました。マリア様のご謙遜にわずかでも倣うことができますようにと思います。アダムの罪を償うための公生活を始める準備として荒野で断食をされたイエズス様を見習うことができますように、残りの四旬節に断食を心の断食も含めて頑張ろうと思いました。
小野田神父様、とても大切な公教要理のお話をありがとうございました。