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2019年3月6日 灰の水曜日ミサの前 「灰と灰をつける意味について」

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2019年3月6日(初水)灰の水曜日のミサ ミサの前の説明
小野田神父

今からミサが始まりますが、ミサが始まる前に、今行なった式を簡単に説明させて下さい。

この式は、初代教会が公の罪人に対して行なった式です。

「公の罪人」というのは例えば、大きな罪を犯した、スキャンダルを起こした、という人々に対して教会が、その罪の償いとして、「教会において御聖体を受ける事ができない」、そして四旬節のその最初の日に、司教様が彼らを呼んで、彼らに特別の償いの服を着せて、頭には灰を被せて、そして司教様と一緒に、教会の外に行きました。「これからは教会の門で跪いて、教会に入る事はできずに、復活祭まで聖木曜日まで入る事ができずに、教会の外で祈りをしなければならない。御聖体も拝領できない。」そして司教様から、「パンと水だけで罪の償いをせよ」と命じられました。

しかし、公の罪人でない一般の人々も、これを見て、「私も罪を犯した。主の前に罪を犯した」という悔悛の心で、罪の痛悔の心で、「ぜひ私にも灰を下さい」と願ったところから始まります。

特に有名なのが、シャルルマーニュです。ローマ皇帝であったにも関わらず、自分の配下の者を連れて、司教様に灰を授けて下さるようにお願いしました。公の罪人であるかのように、「罪人を憐れんでほしい」と主に願いました。そしてもちろん、「皇帝がするのであれば私たちも、」我も我もと、全てのカトリック信者がこれを受けるのが習慣となりました。そして現在これに至っています。

この祝別された灰は特別の恵みを、準秘跡として特別の恵みを持っています。なぜ私たちに死があるのか、苦しみがあるのか、というこれは、罪のせいです。アダムとエヴァは罪を犯した時に、この言葉を聞きました、「お前たちは塵であり、塵に戻るという事を覚えよ!」まさに、地上の楽園から追放されたアダムとエヴァは、灰の、人類最初の灰の水曜日を受けました。

もはや地上の楽園で永遠に永久に生きる事ができない、命の木の実を取る事も食べる事もできなくなったアダムとエヴァは、罪を犯した後に、悲しみと苦しみと、そして死を迎えなければなりません。この現実を、どうしても私たちが否定する事のできない、「罪による、罪の原因である死、悲しみ、苦しみ」という事を、教会は私たちに思い起こさせようとします。

しかしこの灰は同時に、祝福をもたらすものとなります。「十字架」という死、あるいは苦しみは、「救い」の元となりました。私たちも、罪の償いと、苦業と、断食と、そして寛大な愛徳の善業は、私たちに赦しと、祝福と、憐れみを勝ち取らせてくれます。

教会は私たちに、「謙遜であるように」と訴えています。それと同時に、「私たちのこの罪の償いが、あるいは断食が、あるいは苦業が、私たちの心と生き方を改革させる、より良くさせるものとなるように」と願っています。もしもこの罪の悔悛、罪を悔い改めようとする心がなければ、私たちの40日間の断食も意味の無いものとなってしまいます。ですから今日は謙遜に、灰を頂きました。

今日から始まる四旬節が、終わりまで実り豊かなものとなりますように、最後まで堅忍する事ができますように、復活の喜びをますます深く味わう事が、喜ぶ事ができますように、私たちの罪の償いと回心を、イエズス様にお捧げしましょう。

その為にも、マリア様に御取次ぎを乞い願いましょう。マリア様こそ、罪が無かったにも関わらず、御謙遜な方であり、罪が無かったにも関わらず、最も苦しまれ、そしてイエズス様の苦しみに一致された方であるからです。

では今からミサが始まります。

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