2019年3月17日(主日)四旬節第2主日のミサ
小野田神父説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
多くの皆さんがお集まり下さって大変嬉しく思います。
今日は2019年3月17日、四旬節の第2主日です。
灰の水曜日にここで灰の儀式をしましたけれども、灰の水曜日に灰を受ける事ができなかった方々の為に、感謝のお祈りが終わった後に、灰の式を行ないたいと思います。もしもまだ受けておられない方は受けて下さい。
14時半頃から、「私たちの主の40日間の砂漠でのお祈り」と、その後の「断食」と、そして「悪魔の誘惑」について、30分ほど黙想する事を提案します。
また侍者の会も14時半からある予定です。
15時半から主日の晩課がある予定です。
明日も朝ここで、2階で7時からミサがあります。
次のミサは4月7日で、その時は私たちの兄弟のヨゼフ(仮名)さんの新しく生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受けようとされています。その赤ちゃんの為にたくさんお祈り下さい。
「天主の御旨は、あなたたちの聖化にある。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の第2主日で、教会は私たちを霊的にドムニカの聖母マリア様の元に連れて、そして主の御変容を私たちに見せました。そこで今日は、この意味は一体何なのか?という事を黙想する事を提案します。
第1に、では「ドムニカの聖母マリア」というのは何かと申しますと、これは昔、初代教会では特に「助祭区」というものがありました。助祭区というのは、「助祭が貧しい人の為に世話をした」という所で、いくつかの区に分かれていました。そこでここのドム二カと言われる所もやはりその内の1つです。ドムニカの聖母マリア様の教会が建っているのも、助祭区の内の1つだったのです。そこにマリア様に奉献された教会が建ち、そして特に主日に多くの方々がマリア様に助けを求めて集まった所です。
主日に集まった、特に集まったという事で、「ドムニカ」と名付けられました。
今日は、霊的に私たちはこの主日に集まるマリア様の元で、私たちの人生の究極の目的を、私たちに本当の真実、本当の事を教えようと教会は思っておられます。
聖トマス・アクィナスによると、「もしも私たちの行く道のりが厳しいものであればあるほど、辛いものであればあるほど、その道のりの終わった後に、どれほど楽しい事が待っているか、どれほど美しい景色が見る事ができるか、私たちの究極の目的は何か、という事を見せる必要がある。」
「そこで私たちの主も、御受難の前に、御受難の40日前に、使徒たち特にこの3人を選んで、『御受難の目的は、その後に起こる事は何か』という事を見せようとした」と言っています。
では、イエズス様の御変容の話は私たちはよく知っています。3人の弟子たち、選ばれた使徒たち、ペトロ・ヤコボ・そしてヨハネの前で、イエズス様が御自分の天主の栄光を御現しになりました。
まだ復活はしておられなかったので、これは体にいつも常にある栄光ではありませんでした。しかし天主としての持つ栄光を、霊魂からの溢れる栄光を見せるようにされました。これは、イエズス様がたとえまだ復活されて復活体を持っていなかったとしても、天主としてそのような奇跡を起こす事ができる、例えばマリア様のお腹をすり抜けて生まれる事ができる、あるいは海の上をそのまま歩く事ができる、復活体を持っていなかったにもかかわらずる事ができる、その内の1つでした。
復活した後にはイエズス様はこれを常駐的にする事ができますが、しかしこの時には奇跡的に、一時的に、それをお見せになりました、「こうなるのだ。これこそが天主の、そして皆さんと私たちの受ける栄光である。使徒たちの受ける栄光である。人の子が受ける栄光である」と。
その横にやっぱりあったのが、モーゼとエリアでした。なぜ?
もしかしたら、「この四旬節には、あまりモーゼもエリアも関係ないんじゃないか」と思われるかもしれません。深い関係があります。なぜかというと、モーゼもホレブの山(シナイ山)で十戒を受ける前に、40日間40日夜断食したからです。そしてその浄めを受けて初めて、天主を目の当たりにして、石版を、2つの石版を受けました。
その時に、イスラエルの民たちはものすごい天変地異を見ていたので、「もうこのまま世の終わりが来てしまうのか」と思うほどでした。その前の準備として、天主を目前に見奉るその準備として、モーゼは40日間の断食が必要でした。
エリアも預言者の代表ですけれども、このホレブの山、つまりシナイの山に登る為に、その前に砂漠を歩き通す為に、40日間断食をしました。その前に天使によって養われて、そして40日間何も食べずに山まで砂漠を歩き通しました。
これを見ると、「モーゼの40日間の断食も、エリアの40日間の断食も、天主の愛の為に、天主を愛するという掟を守る為に、天主を間近にする為に必要だったものであり、天主の山に登る為にも必要だった、この世の砂漠のような所を歩く為に必要な準備であった」という事が分かります。
ですから四旬節のこの第2主日に、その3人に、40日間の断食をした3人が1つに集まって、「イエズス様の御変容をされた」という事を私たちに思い出させるのは極めて論理的であって、極めて大きな私たちにとっての効果があります。
つまり、私たちが今やっている40日間というのは、ただ単なる言われたから、単にもしかしたら健康の為に、単にその他の理由、ではなくて、「天主の山に登る為に、天主へと到達する為に」あるいは「栄光の、イエズス様の燦然たる輝きに私たちも似通った者になる為に、これが必要なのだ」と教える為でした。これを指し示す為でした。
私たちも今日はですから、この神秘の山であるミサ聖祭に、タボル山に登る気持ちで、特に今日は2階でやって来ました。イエズス様は光り輝く姿ではないのですけれども、しかしパンの形で、真っ白な形で、私たちの祭壇の上に姿を見せられます。司祭は御聖体を、天主の御体を、皆さんの前に見せます。
ですから私たちも聖ペトロのように、「主よ、私たちがここにいる事はとても良い事です。あなたの元にいる事は何と素晴らしい事でしょうか!」と申し上げましょう。
「ぜひ、御身の為にテントを作らせて下さい。この体を、霊魂を、テントとして使って下さい。そしてこの私の中にどうぞ入って来て下さい。」「我が主、我が天主なり。」そしてその拙い私たちのテントが永遠の幕屋に、エリアとモーゼとイエズス様、そして多くの天使たちとが集う幕屋と、永遠の幕屋となる事ができますようにお祈り致しましょう。
その為に聖パウロは私たちに思い出させてくれています、「一体、私たちの究極の目的は何なのか?この40日間の断食のような人生の目的は何なのか?私たちのこのあっという間に過ぎ去ってしまう人生は、一体、究極の目的は何なのか?何の為に生まれてきたのか?」
「私たちは、天主の私たちの望みは、願いは、御旨は、『私たちが皆、聖なる者となる事』である。私たちは不潔の為に呼ばれたのではなく、聖徳の為に呼ばれている。非常に高いところの為に呼ばれている」という事です。
では最後に、私たちも今日は特に日本では、今日はキリシタンたちが七代に渡って、その今私たちが持っている、この同じ信仰を保っていました、マリア様のおかげで。そしてそのイエズス様を私たちに下さる司祭が来る事を待っていました。そのそれを見つける、それを識別する1つが、マリア様でした。今日教会が、ドムニカのマリア様の元に私たちを呼んで下さったように、私たちもマリア様の元に必ず馳せ参らなければなりません。マリア様をお探しする事に致しましょう。マリア様のいる所にはイエズス様もいますし、マリア様がいればイエズス様へと行く、全き近い、最短の近道が、私たちに与えられるからです。
今日のこの四旬節、マリア様と共に御変容を、私たちの変容を、復活祭まで、良い聖化の道を歩む事ができるように、マリア様に御助けを乞い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
多くの皆さんがお集まり下さって大変嬉しく思います。
今日は2019年3月17日、四旬節の第2主日です。
灰の水曜日にここで灰の儀式をしましたけれども、灰の水曜日に灰を受ける事ができなかった方々の為に、感謝のお祈りが終わった後に、灰の式を行ないたいと思います。もしもまだ受けておられない方は受けて下さい。
14時半頃から、「私たちの主の40日間の砂漠でのお祈り」と、その後の「断食」と、そして「悪魔の誘惑」について、30分ほど黙想する事を提案します。
また侍者の会も14時半からある予定です。
15時半から主日の晩課がある予定です。
明日も朝ここで、2階で7時からミサがあります。
次のミサは4月7日で、その時は私たちの兄弟のヨゼフ(仮名)さんの新しく生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受けようとされています。その赤ちゃんの為にたくさんお祈り下さい。
「天主の御旨は、あなたたちの聖化にある。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の第2主日で、教会は私たちを霊的にドムニカの聖母マリア様の元に連れて、そして主の御変容を私たちに見せました。そこで今日は、この意味は一体何なのか?という事を黙想する事を提案します。
第1に、では「ドムニカの聖母マリア」というのは何かと申しますと、これは昔、初代教会では特に「助祭区」というものがありました。助祭区というのは、「助祭が貧しい人の為に世話をした」という所で、いくつかの区に分かれていました。そこでここのドム二カと言われる所もやはりその内の1つです。ドムニカの聖母マリア様の教会が建っているのも、助祭区の内の1つだったのです。そこにマリア様に奉献された教会が建ち、そして特に主日に多くの方々がマリア様に助けを求めて集まった所です。
主日に集まった、特に集まったという事で、「ドムニカ」と名付けられました。
今日は、霊的に私たちはこの主日に集まるマリア様の元で、私たちの人生の究極の目的を、私たちに本当の真実、本当の事を教えようと教会は思っておられます。
聖トマス・アクィナスによると、「もしも私たちの行く道のりが厳しいものであればあるほど、辛いものであればあるほど、その道のりの終わった後に、どれほど楽しい事が待っているか、どれほど美しい景色が見る事ができるか、私たちの究極の目的は何か、という事を見せる必要がある。」
「そこで私たちの主も、御受難の前に、御受難の40日前に、使徒たち特にこの3人を選んで、『御受難の目的は、その後に起こる事は何か』という事を見せようとした」と言っています。
では、イエズス様の御変容の話は私たちはよく知っています。3人の弟子たち、選ばれた使徒たち、ペトロ・ヤコボ・そしてヨハネの前で、イエズス様が御自分の天主の栄光を御現しになりました。
まだ復活はしておられなかったので、これは体にいつも常にある栄光ではありませんでした。しかし天主としての持つ栄光を、霊魂からの溢れる栄光を見せるようにされました。これは、イエズス様がたとえまだ復活されて復活体を持っていなかったとしても、天主としてそのような奇跡を起こす事ができる、例えばマリア様のお腹をすり抜けて生まれる事ができる、あるいは海の上をそのまま歩く事ができる、復活体を持っていなかったにもかかわらずる事ができる、その内の1つでした。
復活した後にはイエズス様はこれを常駐的にする事ができますが、しかしこの時には奇跡的に、一時的に、それをお見せになりました、「こうなるのだ。これこそが天主の、そして皆さんと私たちの受ける栄光である。使徒たちの受ける栄光である。人の子が受ける栄光である」と。
その横にやっぱりあったのが、モーゼとエリアでした。なぜ?
もしかしたら、「この四旬節には、あまりモーゼもエリアも関係ないんじゃないか」と思われるかもしれません。深い関係があります。なぜかというと、モーゼもホレブの山(シナイ山)で十戒を受ける前に、40日間40日夜断食したからです。そしてその浄めを受けて初めて、天主を目の当たりにして、石版を、2つの石版を受けました。
その時に、イスラエルの民たちはものすごい天変地異を見ていたので、「もうこのまま世の終わりが来てしまうのか」と思うほどでした。その前の準備として、天主を目前に見奉るその準備として、モーゼは40日間の断食が必要でした。
エリアも預言者の代表ですけれども、このホレブの山、つまりシナイの山に登る為に、その前に砂漠を歩き通す為に、40日間断食をしました。その前に天使によって養われて、そして40日間何も食べずに山まで砂漠を歩き通しました。
これを見ると、「モーゼの40日間の断食も、エリアの40日間の断食も、天主の愛の為に、天主を愛するという掟を守る為に、天主を間近にする為に必要だったものであり、天主の山に登る為にも必要だった、この世の砂漠のような所を歩く為に必要な準備であった」という事が分かります。
ですから四旬節のこの第2主日に、その3人に、40日間の断食をした3人が1つに集まって、「イエズス様の御変容をされた」という事を私たちに思い出させるのは極めて論理的であって、極めて大きな私たちにとっての効果があります。
つまり、私たちが今やっている40日間というのは、ただ単なる言われたから、単にもしかしたら健康の為に、単にその他の理由、ではなくて、「天主の山に登る為に、天主へと到達する為に」あるいは「栄光の、イエズス様の燦然たる輝きに私たちも似通った者になる為に、これが必要なのだ」と教える為でした。これを指し示す為でした。
私たちも今日はですから、この神秘の山であるミサ聖祭に、タボル山に登る気持ちで、特に今日は2階でやって来ました。イエズス様は光り輝く姿ではないのですけれども、しかしパンの形で、真っ白な形で、私たちの祭壇の上に姿を見せられます。司祭は御聖体を、天主の御体を、皆さんの前に見せます。
ですから私たちも聖ペトロのように、「主よ、私たちがここにいる事はとても良い事です。あなたの元にいる事は何と素晴らしい事でしょうか!」と申し上げましょう。
「ぜひ、御身の為にテントを作らせて下さい。この体を、霊魂を、テントとして使って下さい。そしてこの私の中にどうぞ入って来て下さい。」「我が主、我が天主なり。」そしてその拙い私たちのテントが永遠の幕屋に、エリアとモーゼとイエズス様、そして多くの天使たちとが集う幕屋と、永遠の幕屋となる事ができますようにお祈り致しましょう。
その為に聖パウロは私たちに思い出させてくれています、「一体、私たちの究極の目的は何なのか?この40日間の断食のような人生の目的は何なのか?私たちのこのあっという間に過ぎ去ってしまう人生は、一体、究極の目的は何なのか?何の為に生まれてきたのか?」
「私たちは、天主の私たちの望みは、願いは、御旨は、『私たちが皆、聖なる者となる事』である。私たちは不潔の為に呼ばれたのではなく、聖徳の為に呼ばれている。非常に高いところの為に呼ばれている」という事です。
では最後に、私たちも今日は特に日本では、今日はキリシタンたちが七代に渡って、その今私たちが持っている、この同じ信仰を保っていました、マリア様のおかげで。そしてそのイエズス様を私たちに下さる司祭が来る事を待っていました。そのそれを見つける、それを識別する1つが、マリア様でした。今日教会が、ドムニカのマリア様の元に私たちを呼んで下さったように、私たちもマリア様の元に必ず馳せ参らなければなりません。マリア様をお探しする事に致しましょう。マリア様のいる所にはイエズス様もいますし、マリア様がいればイエズス様へと行く、全き近い、最短の近道が、私たちに与えられるからです。
今日のこの四旬節、マリア様と共に御変容を、私たちの変容を、復活祭まで、良い聖化の道を歩む事ができるように、マリア様に御助けを乞い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。