復活節の説教「預言者ヨナについて」
2019年5月12日(大阪)・19日(東京)
エティエンヌ・ドモルネ神父(聖ピオ十世会)
はじめに
旧約は、新約についての予告であり準備、私たちの主イエズス・キリストとその教会が行ったり言ったりするであろうことについての予告であり準備であったのは、皆さんご存じの通りです。今は復活節で、イエズス・キリストがご受難ののち死者の中から復活されたことをお祝いしています。イエズスのご受難とご復活は、旧約において予告されたのでしょうか? そうです、預言者ヨナによって予告されました。私たちの主イエズスは、御自らご自分とヨナとの関係を立証されました。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」(マテオ12章40節)。
本日は、預言者ヨナの話を考察し、それによってご受難とご復活における私たちの主をもっと深く理解できるようにしましょう。
1.ヨナの不従順:話の要約
ヨナは、エリアやエリゼオに続くまことの預言者でした。しかし、大きな違いが一つあります。エリアとエリゼオは、イスラエルで自分たちの民の回心のために活動しましたが、ヨナは、異邦人すなわちニネべの町に住む人々の回心のために活動するよう天主によって遣わされました。天主はなぜ、この異邦人に彼を遣わされたのでしょうか? それは、ユダヤ人を恥じ入らせるためでした。異邦人が天主の警告と掟を聞き入れようとする素直さをもっていることを、 天主にひどく反逆していたユダヤ人が見るようにするためでした。それは、天主が預言者エゼキエルに言われたことでした。「もしおまえが異邦人に送られたら、彼らはおまえの言うことを聞くだろう。だが、イスラエルの家は、私の言うことを聞かないのであるから、おまえの言うことを聞かない。なぜなら、イスラエルの家はみな、固い額と強情な心を持っているからである」(エゼキエル3章6-7節)。
ヨナは、この使命、役割をまったくうれしく思いませんでした。第一に、ヨナはすべての異教徒に対して、その偶像崇拝や不道徳に対して、強い嫌悪を持っていたからです。さらにヨナは、異邦人の回心がイスラエルの使命の終わりを意味することを預言書から知っていました。ヨナは自分の民を愛していましたから、その没落に繋がることにはまったく手を貸したくはなかったのです。そして最終的に、ヨナがのちに言ったように、天主がニネべの人々を御あわれみによってお赦しになるであろうこと、ニネべの破滅という彼の預言が実現しないこと、そのため自分が自分の言うことが分かっていない愚か者のようにみなされるであろうことを、ヨナは予見しました。そこで、ヨナは、イスラエルから遠く離れて行く船に乗って、天主から逃げ出そうと試みました。ここで私たちは驚くのです。ヨナはいったい、どうして天主から逃げ出すことができるなどと思ったのでしょうか? 彼は天主がどこにでもおられることを知らなかったのでしょうか? 彼は、天主がどこにでもおられること、そしてすべては天主の支配下にあることを知ってはいましたが、天主が通常イスラエルの外では目に見える形で介入されることはないことも知っており、イスラエルから遠く離れたところに逃げ出すことによって、ヨナは天主が自分に対して何もなさることはないことを望んだのです。
実際には、天主は彼に対して介入されました。大あらしが海の上に起こりましたが、ヨナの乗った船の上だけにとどまりました。水夫たちは、このあらしが自然のあらしではなく、乗客のうちの一人のせいだと、すぐに理解しました。彼らはヨナこそがその乗客だと突き止め、ヨナもそれを告白しました。そこで水夫たちは、自分たちのいのちを脅かしているこのあらしを鎮めるために何をすればよいかを丁重にヨナに尋ねました。するとヨナは自らを犠牲にしようとして、勇敢に言いました。「私を捕らえて、海に投げ込んでください。そうすれば、海は鎮まるでしょう」(ヨナ1章12節)。しかし水夫たちは良き人々だったので、乗客の一人を海に投げ込むという考えを受け入れることはできませんでした。そこで、懸命にこいで、岸に戻ろうとしました。しかし、あらしはあまりにも強かったため、無駄でした。ついに、ヨナが海に投げ込まれることが天主のご意志だと分かり、彼らは次の見事な祈りを唱えました。「主よ、この男のいのちのために、私たちを死なせないでください。罪のない者の血を、私たちのせいにしないでください。主よ、あなたがこう行われたのは、み旨によることだからです」(ヨナ1章14節)。彼らはヨナを捕らえて、聖伝によると、丁重に、海に投げ込みました。すると、海は怒りを鎮めました。水夫たちはまことの天主を信じ、天主にいけにえを捧げました。
2.ヨナの不従順:神秘的な意味
さて、この箇所において、どのようにヨナが私たちの主イエズスの象徴であったかを見てみましょう。
ヨナは、自分の民を愛していましたから、異邦人に対して宣教したくはありませんでした。私たちの主イエズスも、ユダヤ人を愛していましたから、ユダヤ人に対する宣教に限定しておられました。例えば、主は、自分の娘の癒やしを求めたカナンの女に対して、こう言われました。「私は、イスラエルの家の迷える羊以外に対しては遣わされていない」(マテオ15章24節)。主は使徒たちにはっきりとこう言われました。「あなたたちは異邦人の国への道には行ってはならぬ。サマリア人の町にも入るな」(マテオ10章5節)。私たちの主イエズスはご自分の民を愛しておられ、例えばエルザレムについて嘆かれたとき、それを示されました。主は、ご自分の宣教と死のあと、ユダヤ人たちが世界中で軽蔑され、天主の御子、いとも美しい人の子、人類のほまれと栄光である主を十字架につけたという恥ずべき汚名を背負う民となるであろうことを完全にご存じでした。それゆえに、私たちの主イエズスは、ユダヤ人に対して回心するためのさらなる時間と最後の機会をお与えになるため、あたかも異邦人への宣教を遅らせたいと思っておられたかのようです。
船の上のヨナは、聖ペトロの船におられるイエズスのかたどりであり、その船は、主の使命を継続するために主が創立された教会の象徴です。海のあらしは、ユダヤ人のイエズスに対するあらゆる憎しみ、嫉妬とおそろしい迫害を意味します。ヨナが水夫たちに、あらしを鎮めて自分たちを救う唯一の方法は、彼を海に投げ込むことだと言ったように、私たちの主イエズスは、世を救うためにご自分の死が必要であることについて使徒たちに何度も言われました。水夫たちが最初はヨナを海に投げ込むことを拒否したように、使徒たちはイエズスの死という天主のご計画を拒否しました。聖ペトロははっきりと、それに反対しました。ついには、自分たちの死という緊急の危険に直面し、自分たちが強いられて行ったことの罪を自分たちに負わせないように天主に祈り、丁重にヨナを海に下ろした水夫たちは、キリストの死とはどうあるべきだったのかということのかたどりでした。それは、罪の赦しに必要な天主のご意志であったため、なさなくてはいけないことでしたが、天主に対する深い敬意とけんそんな祈りが伴うべきだったのです。その反対に、ユダヤ人たちは、信じられないほどの残酷さをもってイエズスを辱めて扱い、高慢にも自分たちと自分たちの子孫に主の無実の血を流した責任を望んだのです。
3.クジラに飲み込まれるヨナ:話の要約
ヨナの話に戻りましょう。ヨナが海に捨てられるやいなや、天主は、聖書がクジラと言っている巨大な魚を送られて、ヨナを生きたまま飲み込ませました。明らかな天主の奇蹟によって、ヨナは生きたまま三日三晩、深い海にいるそのクジラの腹にとどまりました。ヨナは三日間祈り続けていました。そののち、クジラはヨナをイスラエルの海岸に吐き出しました。それは、ニネベの民に宣教するよう天主によって彼に与えられた使命を、彼が行って果たすためでした。
4.クジラに飲み込まれるヨナ:神秘的な意味
このヨナがクジラの腹にとどまったことは、私たちの主イエズスの埋葬と復活の予告でした。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」。
しかし、ここで私たちは不思議に思います。イエズスは三日三晩、墓の中におられたのではなく、約36時間に過ぎません。聖アウグスティノは、この疑問を次のように説明しました。ユダヤ人は全体のものをその一部によって名付けるのが普通であった。それゆえに、この場合、実際には一日のうちの数時間であったものを「一日」と呼び、あるいは実際には一晩のうちの数時間であったものを「一晩」と呼んだのである。イエズスは、聖金曜日の一日の昼間にあたる最後の数時間と、真夜中までの晩の間、墓の中におられた。これが最初の一日と最初の一晩であった。その後、イエズスは土曜日の一日中、墓の中におられた。これが二日目と二晩目であった。最後に、イエズスは日曜日の朝、晩の最後の数時間と朝の最初の数時間、墓におられた。これが三晩目と三日目であった。
行ってニネべの民に宣教し、彼らに罪を悔い改めるよう告げたヨナは、教会を通じて人々に宣教し、あがないの実を授けようとする私たちの主イエズスのかたどりです。
結論
では結論として言うべきことは何でしょうか? 私たちの主イエズスの警告を知っておきましょう。「裁きの日、ニネべの人は今の代の人とともに立ち上がり、今の代を罪に定めるだろう。彼らはヨナの言葉を聞いて悔い改めたからである。しかもヨナにまさる者がここにいる」(マテオ12章41節)。ですから、キリストとその教会の言うことを注意して聞き、私たちの罪を悔い改めましょう。天主がニネべの民を赦されたように、御あわれみによって私たちを赦し、死者の中から復活された私たちの主イエズスの功徳を私たちに授けてくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださいますように。アーメン。
2019年5月12日(大阪)・19日(東京)
エティエンヌ・ドモルネ神父(聖ピオ十世会)
はじめに
旧約は、新約についての予告であり準備、私たちの主イエズス・キリストとその教会が行ったり言ったりするであろうことについての予告であり準備であったのは、皆さんご存じの通りです。今は復活節で、イエズス・キリストがご受難ののち死者の中から復活されたことをお祝いしています。イエズスのご受難とご復活は、旧約において予告されたのでしょうか? そうです、預言者ヨナによって予告されました。私たちの主イエズスは、御自らご自分とヨナとの関係を立証されました。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」(マテオ12章40節)。
本日は、預言者ヨナの話を考察し、それによってご受難とご復活における私たちの主をもっと深く理解できるようにしましょう。
1.ヨナの不従順:話の要約
ヨナは、エリアやエリゼオに続くまことの預言者でした。しかし、大きな違いが一つあります。エリアとエリゼオは、イスラエルで自分たちの民の回心のために活動しましたが、ヨナは、異邦人すなわちニネべの町に住む人々の回心のために活動するよう天主によって遣わされました。天主はなぜ、この異邦人に彼を遣わされたのでしょうか? それは、ユダヤ人を恥じ入らせるためでした。異邦人が天主の警告と掟を聞き入れようとする素直さをもっていることを、 天主にひどく反逆していたユダヤ人が見るようにするためでした。それは、天主が預言者エゼキエルに言われたことでした。「もしおまえが異邦人に送られたら、彼らはおまえの言うことを聞くだろう。だが、イスラエルの家は、私の言うことを聞かないのであるから、おまえの言うことを聞かない。なぜなら、イスラエルの家はみな、固い額と強情な心を持っているからである」(エゼキエル3章6-7節)。
ヨナは、この使命、役割をまったくうれしく思いませんでした。第一に、ヨナはすべての異教徒に対して、その偶像崇拝や不道徳に対して、強い嫌悪を持っていたからです。さらにヨナは、異邦人の回心がイスラエルの使命の終わりを意味することを預言書から知っていました。ヨナは自分の民を愛していましたから、その没落に繋がることにはまったく手を貸したくはなかったのです。そして最終的に、ヨナがのちに言ったように、天主がニネべの人々を御あわれみによってお赦しになるであろうこと、ニネべの破滅という彼の預言が実現しないこと、そのため自分が自分の言うことが分かっていない愚か者のようにみなされるであろうことを、ヨナは予見しました。そこで、ヨナは、イスラエルから遠く離れて行く船に乗って、天主から逃げ出そうと試みました。ここで私たちは驚くのです。ヨナはいったい、どうして天主から逃げ出すことができるなどと思ったのでしょうか? 彼は天主がどこにでもおられることを知らなかったのでしょうか? 彼は、天主がどこにでもおられること、そしてすべては天主の支配下にあることを知ってはいましたが、天主が通常イスラエルの外では目に見える形で介入されることはないことも知っており、イスラエルから遠く離れたところに逃げ出すことによって、ヨナは天主が自分に対して何もなさることはないことを望んだのです。
実際には、天主は彼に対して介入されました。大あらしが海の上に起こりましたが、ヨナの乗った船の上だけにとどまりました。水夫たちは、このあらしが自然のあらしではなく、乗客のうちの一人のせいだと、すぐに理解しました。彼らはヨナこそがその乗客だと突き止め、ヨナもそれを告白しました。そこで水夫たちは、自分たちのいのちを脅かしているこのあらしを鎮めるために何をすればよいかを丁重にヨナに尋ねました。するとヨナは自らを犠牲にしようとして、勇敢に言いました。「私を捕らえて、海に投げ込んでください。そうすれば、海は鎮まるでしょう」(ヨナ1章12節)。しかし水夫たちは良き人々だったので、乗客の一人を海に投げ込むという考えを受け入れることはできませんでした。そこで、懸命にこいで、岸に戻ろうとしました。しかし、あらしはあまりにも強かったため、無駄でした。ついに、ヨナが海に投げ込まれることが天主のご意志だと分かり、彼らは次の見事な祈りを唱えました。「主よ、この男のいのちのために、私たちを死なせないでください。罪のない者の血を、私たちのせいにしないでください。主よ、あなたがこう行われたのは、み旨によることだからです」(ヨナ1章14節)。彼らはヨナを捕らえて、聖伝によると、丁重に、海に投げ込みました。すると、海は怒りを鎮めました。水夫たちはまことの天主を信じ、天主にいけにえを捧げました。
2.ヨナの不従順:神秘的な意味
さて、この箇所において、どのようにヨナが私たちの主イエズスの象徴であったかを見てみましょう。
ヨナは、自分の民を愛していましたから、異邦人に対して宣教したくはありませんでした。私たちの主イエズスも、ユダヤ人を愛していましたから、ユダヤ人に対する宣教に限定しておられました。例えば、主は、自分の娘の癒やしを求めたカナンの女に対して、こう言われました。「私は、イスラエルの家の迷える羊以外に対しては遣わされていない」(マテオ15章24節)。主は使徒たちにはっきりとこう言われました。「あなたたちは異邦人の国への道には行ってはならぬ。サマリア人の町にも入るな」(マテオ10章5節)。私たちの主イエズスはご自分の民を愛しておられ、例えばエルザレムについて嘆かれたとき、それを示されました。主は、ご自分の宣教と死のあと、ユダヤ人たちが世界中で軽蔑され、天主の御子、いとも美しい人の子、人類のほまれと栄光である主を十字架につけたという恥ずべき汚名を背負う民となるであろうことを完全にご存じでした。それゆえに、私たちの主イエズスは、ユダヤ人に対して回心するためのさらなる時間と最後の機会をお与えになるため、あたかも異邦人への宣教を遅らせたいと思っておられたかのようです。
船の上のヨナは、聖ペトロの船におられるイエズスのかたどりであり、その船は、主の使命を継続するために主が創立された教会の象徴です。海のあらしは、ユダヤ人のイエズスに対するあらゆる憎しみ、嫉妬とおそろしい迫害を意味します。ヨナが水夫たちに、あらしを鎮めて自分たちを救う唯一の方法は、彼を海に投げ込むことだと言ったように、私たちの主イエズスは、世を救うためにご自分の死が必要であることについて使徒たちに何度も言われました。水夫たちが最初はヨナを海に投げ込むことを拒否したように、使徒たちはイエズスの死という天主のご計画を拒否しました。聖ペトロははっきりと、それに反対しました。ついには、自分たちの死という緊急の危険に直面し、自分たちが強いられて行ったことの罪を自分たちに負わせないように天主に祈り、丁重にヨナを海に下ろした水夫たちは、キリストの死とはどうあるべきだったのかということのかたどりでした。それは、罪の赦しに必要な天主のご意志であったため、なさなくてはいけないことでしたが、天主に対する深い敬意とけんそんな祈りが伴うべきだったのです。その反対に、ユダヤ人たちは、信じられないほどの残酷さをもってイエズスを辱めて扱い、高慢にも自分たちと自分たちの子孫に主の無実の血を流した責任を望んだのです。
3.クジラに飲み込まれるヨナ:話の要約
ヨナの話に戻りましょう。ヨナが海に捨てられるやいなや、天主は、聖書がクジラと言っている巨大な魚を送られて、ヨナを生きたまま飲み込ませました。明らかな天主の奇蹟によって、ヨナは生きたまま三日三晩、深い海にいるそのクジラの腹にとどまりました。ヨナは三日間祈り続けていました。そののち、クジラはヨナをイスラエルの海岸に吐き出しました。それは、ニネベの民に宣教するよう天主によって彼に与えられた使命を、彼が行って果たすためでした。
4.クジラに飲み込まれるヨナ:神秘的な意味
このヨナがクジラの腹にとどまったことは、私たちの主イエズスの埋葬と復活の予告でした。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」。
しかし、ここで私たちは不思議に思います。イエズスは三日三晩、墓の中におられたのではなく、約36時間に過ぎません。聖アウグスティノは、この疑問を次のように説明しました。ユダヤ人は全体のものをその一部によって名付けるのが普通であった。それゆえに、この場合、実際には一日のうちの数時間であったものを「一日」と呼び、あるいは実際には一晩のうちの数時間であったものを「一晩」と呼んだのである。イエズスは、聖金曜日の一日の昼間にあたる最後の数時間と、真夜中までの晩の間、墓の中におられた。これが最初の一日と最初の一晩であった。その後、イエズスは土曜日の一日中、墓の中におられた。これが二日目と二晩目であった。最後に、イエズスは日曜日の朝、晩の最後の数時間と朝の最初の数時間、墓におられた。これが三晩目と三日目であった。
行ってニネべの民に宣教し、彼らに罪を悔い改めるよう告げたヨナは、教会を通じて人々に宣教し、あがないの実を授けようとする私たちの主イエズスのかたどりです。
結論
では結論として言うべきことは何でしょうか? 私たちの主イエズスの警告を知っておきましょう。「裁きの日、ニネべの人は今の代の人とともに立ち上がり、今の代を罪に定めるだろう。彼らはヨナの言葉を聞いて悔い改めたからである。しかもヨナにまさる者がここにいる」(マテオ12章41節)。ですから、キリストとその教会の言うことを注意して聞き、私たちの罪を悔い改めましょう。天主がニネべの民を赦されたように、御あわれみによって私たちを赦し、死者の中から復活された私たちの主イエズスの功徳を私たちに授けてくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださいますように。アーメン。