アヴェ・マリア・インマクラータ!
2019年5月2日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【4】
「霊的生活の内的手段、祈り」
同時通訳:小野田圭志神父
霊的生活の内的手段の内の最後のものは、最初の3つをまとめてそれを同和させるもの、それは「祈り」です。
この「祈り」の中には、天主様との一致を求めるという大きな望み、あるいは天主と自分に関する知識を深める事、天主の現存に身を置く事、あるいは天主の御旨に自分を全く委ねきってしまう、これが全てが含まれます。
今までの3つのものが、この例えば骨であり、あるいは肉であり、あるいはその体の要素だとすると、祈りは、その全ての中に流れる血液です。
ダマスケネスの聖ヨハネによると、祈りの定義は、「祈りとは、霊魂を天主へと上げる事である」と言います。あるいはある聖人は、「祈りというのは、天主、創造主との親しい会話である」と言います、「語らいである」と言います。
しかし、「霊魂あるいは精神を、天主へと引き上げる」というこの祈りの定義は、多くの場合全く適合します。
なぜ「上げる」と言うかというと、この地上のものから私たちの心をですね、離す、天主の方に向ける努力が必要であるからです。
この心の上げ方も色んなやり方があります。よくこの4つの、心の上げ方は4つの目的によって区別されます。
1つは「礼拝」。あるいは「罪の償い」。あるいは「感謝」。あるいは「祈願、懇願」。
「礼拝」という事は、祈りの中で最も最高の形態です、形です。礼拝という事で私たちは、「天主様が私たち全てを支配している」という事を認めて、「そして私たちは天主に依存している」という事を表明します。
人類の創造の最初の瞬間から、被造物であるが故に、創造主に対する生贄が捧げられました、礼拝が捧げられました。私たちはまず人類の最初から、「天主に依存している」という事を示す礼拝がありました。私たちの生き方を見て、私たちの命を以て、全て天主に依存している、天主の被造物である、という事を見せて礼拝しました。
そこでもちろん天主様は私たちに、私たちが礼拝を捧げるという時に、私たちの命を捧げるという事は望みません。しかし私たちの命を支える食べ物、例えば穀物とかを天主に捧げる、という事を要求しました。
そして非常に初期の最初から、天主から与えられた例えば動物や、私たちの食べ物とするような動物や、穀物、あるいは魚とか、木の実などの一番良いものを創造主に捧げて、その捧げたしるしとして、これを全部焼き尽くして、あるいはこれを破壊して屠って、これを象徴的に天主にへと御捧げしました。
もちろんアブラハムやイサアクに要求したように、人間の命を要求するという権利は持っていましたが、しかしその権利は実行しませんでした。例えばアブラハムに要求したように、「もしもお前が私を最高の創造主として礼拝するならば、子供を生贄として捧げよ」と言う事も、天主の全能の支配の力によって、要求する事もできました。
天主は全く最上の最高の存在であるので、私たちは全て天主によって依存して、天主から受けたものであるので、天主に全てを返す、これが礼拝です。
例えば御聖体の現存の前では、私たちは片膝をついて、自分の低さを、私たちが依存している天主から全てを受けている、という事を示します。これも礼拝の一つです。
その次に、礼拝の第2の次には、これに礼拝に非常によく結び付いているものとして、「感謝」があります。
なぜかというと、天主は私たちの最高の恩人であって、私たちの持っている全ての自然と超自然の善は、全て、例外なく、天主から由来するからです。
天主の御恵みを乾かして、ストップさせてしまう原因の一つは、最大のものは、忘恩です、感謝をしない事です。感謝というのは、礼拝の次に重要なものです。
第3の霊魂の天主への上げ方は、「罪の償い」であり、「悔悛」の、「罪を痛悔」する事です。
私たちが罪を償う、あるいは悔悛する、罪を忌み憎む、など色々な言い方がありますが、その要素の本質的な核の部分は、罪を何とかして、それを罪滅ぼしをする、罪の為にそれを補う、罪を贖う、罪を払い戻す、という事です。
マリア様の多くの御出現地で、「誰かが、罪の償いを彼らに代わってしなければならない」とマリア様は要求しています。
ところでカトリック教会は、観想修道会、例えば外に出ずに、使徒職をせずに、修道院の中に閉じ込もって、お祈りと犠牲と労働だけに専念しているような修道会を、非常に大切に思っています。修道院の壁の中にずっと留まったまま、祈りと犠牲と罪の償いの生活をしている霊魂たちです。人類の罪の償いの為に、彼らが祈りと償いとの為に犠牲となっています。
そして第4番目は、よく非常に頻繁に起こるやり方ですけれども、私たちは「天主に御恵みを懇願」します、お願いします。
イエズス様も直接言いました、「祈れ、求めよ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」天主様は私たちに多くのものを与えようと提示しているのですけれども、祈らなければそれは与えられません。
不思議のメダイでこんな話があります。
聖カタリナ・ラブレは、マリア様の手から光線が出ているのを見るのですけれども、一つの手から光線が出ていないのを見て、「何でですか?」
「それは、この光線は、私が霊魂たちに与える御恵みの光線です。しかし光線が出ていないのは、本当は光線が出る事ができるにもかかわらず、祈り求められなかったので、与える事ができなかったものです。」
私たちが教会に足を運んだり、そしてマリア様にお祈りする時に、私たちは何かを求めてお祈りしますけれども、それはとても良いやり方で、教会でもミサの時に、懇願の為に、色々なものを懇願する為に、特別の随意祈祷文、集祷文があります。例えば為政者の為に、あるいは家族の為、あるいは平和の為に。司祭が随意集祷文を付ける事ができる35の特別の期間を教会は準備しています。例えば雨が降る祈願、祈りとか、困難や艱難の為の祈りとか、あるいは誘惑を受けた時の祈りとか、あるいはいかなるものであれ、その信徒の必要とするものの為に、御恵みの為に。
教会の知っている通り、これらの祈りや懇願は私たちにとってとても重要であって、天主も私たちがそれを求める事を望んでいます。
もちろん、このような目的に合わせた祈りの区別もありますけれども、その他にも分類として、「口祷、声に出す祈り」と、あるいは「黙祷、あるいは念祷、声に出さない祈り」、あるいは「私的な祈り」、あるいは「公的な祈り」の区別などもあります。
例えば念祷は、私たちは声には出さずに、心の中で天主に心を上げて親しく会話する事です。
二人以上が一緒にお祈りすると、公的な祈りにもなります。もしも例えば、子供たちが集まってお父さんに、「お父さん、これを下さい」と子供たちがお願いしたら、どうして優しい父親が子供たちの要求を退ける事ができるでしょうか。一人で子供がやって来てお願いするよりも、子供たちが全部集ってやって来る方が更に力があります。
私たちの主も、「2人か3人が、私の名によって集まるならば、私はそこにいるだろう」と約束しました。
そしてこのような公的な祈りの最も最高の形は、キリストの花嫁である教会が公式に行なう祈りです。一般の個人は、祈りの生活の為に多忙であったり、あるべきやり方で祈りをする事ができません。そこで教会はある特別の人を指定して、「教会の名前によって、公式の祈りを捧げるように」と要求します。そしてあるいは修道士、あるいは修道女、あるいは司祭、司教など、教会が任命した特別の人々は、「聖務日課」と呼ばれる教会の公式の祈りを、教会の名前によって捧げます。
聖務日課には、教会の花嫁の祈りとして特別の価値が、特別の力が、天主の御前にあります。レランスの聖ヴィンセンシオ(Saint Vincent of Lérins)によれば、「聖務日課のたった一部であったとしても、それは個人的な一年の多くの祈りよりも価値がある」と言います。例えば皆さんが司祭と一緒に聖務日課を、終課を唱えますが、それは皆さんが唱えた1年の価値よりも更に価値があります。これを聞くのはショッキングな話ですけれども、しかしこれが事実です。
もちろん個人的な祈りは価値があって、必要なもので、大切なものですけれども、聖務日課は更に力があります。
また更に、「ミサ聖祭」、教会の聖なる典礼、これは更に力があります、価値があります。
その教会の祈りの重要さ、その力強さ、それについて詳しく話せばもちろん一週間ぐらい話がありますが、今回はそれをする事ができません。
また個人的なものだとしても、『主の祈り』、私たちの主が教えてくださった祈りは特別なものです、価値があります。弟子たちが、「主よ、どうやってお祈りしたら良いですか?」と聞いた時に、直々に教えて下さった祈りで、ありとあらゆる私たちが求めるべき最高のものが順序よく含まれています。この『天にまします』の祈りは、本当に単純ではありますけれども、しかし非常に深い、一生をかけてその祈りの意味を黙想して、味わう事ができるものです。
では、祈りはどうして完徳に至る為にそれほど重要なものなのでしょうか?
聖人たちはこう言います、「よく祈る人は、よく生きる人である。」まず、私たちがこの世のものから、愛着から離脱する事を祈りは助けてくれます。もしも天主との一致に妨げとなるようなものがあるとしたら、それらの愛着から離脱させてくれます。被造物から心が離れれば離れるほど、天主に近付けば近付くほど、その被造物がどの所にいなければならないかを理解する事ができます。私たちの心が天主に近付けば近付くほど、私たちを罪へと誘うようなものを憎む事ができます。天主へと近付けば近付くほど、この地上の良いものは、天主へと行く手段にしか過ぎない、という事が分かります。
祈る人は、この世の価値について、正しい、あるべき判断を下す事ができます。
「成聖の定義」というのは、「天主との一致」ですけれども、祈れば祈るほど、この天主との一致へと導かれます。まず祈る事によって、知性が天主の事をよく理解して、そして意志は天主の御旨に従おうと動きます。祈れば祈るほど、私たちの心は天主を愛して、そして虚しいものを、そして天主に逆らうようなものを憎む事ができます。
まとめて言いますと、祈る霊魂は、この世のものをあるべき所に見出して、あるべき地位の所に置いて、そして私たちの霊魂を天主へとますます近付かせる事ができるという事です。祈る事によって、天主の生活に、命に、ますます近寄る事になります。
主は言いました、「絶えず祈れ」と。
では一体、絶え間なく、「絶えず祈れ」という事はどうしたら祈る事ができるでしょうか?修道生活をしている人でもいつも祈りをしているわけではなく、肉体労働をしている時もあります。
これは聖人たちの聖徳の秘訣というか、秘密で、どのような生活でも、どんな活動でも、祈りの形にできる、するやり方があります。
まず朝起きたらすぐに、心を天主に上げて、祈って、そして一日を全てをまず捧げます。
そして第2に、最初の瞬間から黙想によって、天主の現存に身を置きます。天主と共に生活を始めます。
そして言葉を以って、「私は1日の全ての行ないと、思いと、言葉、全て、そして休息も、食事も、全て天主への礼拝として捧げます」と。
そして私たちの身分上の御恵みの義務に従って、仕事も、食事も、休息も、あるいは遊びも、全て、天主の御栄えの為に、礼拝の為に捧げると、奉献すると、私たちの生活は祈りになります。
聖パウロも同じ事を言います、「このお前たちが何をするにも、食べるにつけ、飲むにつけ、あるいは何をするにつけ、天主の栄光の為に行なえ。」
そうする事によって、主が言ったように「絶えず祈れ」という命令を成就する事ができます、従う事ができます。
では今日はここまでにして、明日、外的な手段として、霊的指導、あるいは生活のルール・生活表・時間割、第3に霊的読書、第4に隣人との交流や付き合いについて、全て霊的生活の手段として考察してみましょう。
ではレジナ・チェリを歌います。
2019年5月2日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【4】
「霊的生活の内的手段、祈り」
同時通訳:小野田圭志神父
霊的生活の内的手段の内の最後のものは、最初の3つをまとめてそれを同和させるもの、それは「祈り」です。
この「祈り」の中には、天主様との一致を求めるという大きな望み、あるいは天主と自分に関する知識を深める事、天主の現存に身を置く事、あるいは天主の御旨に自分を全く委ねきってしまう、これが全てが含まれます。
今までの3つのものが、この例えば骨であり、あるいは肉であり、あるいはその体の要素だとすると、祈りは、その全ての中に流れる血液です。
ダマスケネスの聖ヨハネによると、祈りの定義は、「祈りとは、霊魂を天主へと上げる事である」と言います。あるいはある聖人は、「祈りというのは、天主、創造主との親しい会話である」と言います、「語らいである」と言います。
しかし、「霊魂あるいは精神を、天主へと引き上げる」というこの祈りの定義は、多くの場合全く適合します。
なぜ「上げる」と言うかというと、この地上のものから私たちの心をですね、離す、天主の方に向ける努力が必要であるからです。
この心の上げ方も色んなやり方があります。よくこの4つの、心の上げ方は4つの目的によって区別されます。
1つは「礼拝」。あるいは「罪の償い」。あるいは「感謝」。あるいは「祈願、懇願」。
「礼拝」という事は、祈りの中で最も最高の形態です、形です。礼拝という事で私たちは、「天主様が私たち全てを支配している」という事を認めて、「そして私たちは天主に依存している」という事を表明します。
人類の創造の最初の瞬間から、被造物であるが故に、創造主に対する生贄が捧げられました、礼拝が捧げられました。私たちはまず人類の最初から、「天主に依存している」という事を示す礼拝がありました。私たちの生き方を見て、私たちの命を以て、全て天主に依存している、天主の被造物である、という事を見せて礼拝しました。
そこでもちろん天主様は私たちに、私たちが礼拝を捧げるという時に、私たちの命を捧げるという事は望みません。しかし私たちの命を支える食べ物、例えば穀物とかを天主に捧げる、という事を要求しました。
そして非常に初期の最初から、天主から与えられた例えば動物や、私たちの食べ物とするような動物や、穀物、あるいは魚とか、木の実などの一番良いものを創造主に捧げて、その捧げたしるしとして、これを全部焼き尽くして、あるいはこれを破壊して屠って、これを象徴的に天主にへと御捧げしました。
もちろんアブラハムやイサアクに要求したように、人間の命を要求するという権利は持っていましたが、しかしその権利は実行しませんでした。例えばアブラハムに要求したように、「もしもお前が私を最高の創造主として礼拝するならば、子供を生贄として捧げよ」と言う事も、天主の全能の支配の力によって、要求する事もできました。
天主は全く最上の最高の存在であるので、私たちは全て天主によって依存して、天主から受けたものであるので、天主に全てを返す、これが礼拝です。
例えば御聖体の現存の前では、私たちは片膝をついて、自分の低さを、私たちが依存している天主から全てを受けている、という事を示します。これも礼拝の一つです。
その次に、礼拝の第2の次には、これに礼拝に非常によく結び付いているものとして、「感謝」があります。
なぜかというと、天主は私たちの最高の恩人であって、私たちの持っている全ての自然と超自然の善は、全て、例外なく、天主から由来するからです。
天主の御恵みを乾かして、ストップさせてしまう原因の一つは、最大のものは、忘恩です、感謝をしない事です。感謝というのは、礼拝の次に重要なものです。
第3の霊魂の天主への上げ方は、「罪の償い」であり、「悔悛」の、「罪を痛悔」する事です。
私たちが罪を償う、あるいは悔悛する、罪を忌み憎む、など色々な言い方がありますが、その要素の本質的な核の部分は、罪を何とかして、それを罪滅ぼしをする、罪の為にそれを補う、罪を贖う、罪を払い戻す、という事です。
マリア様の多くの御出現地で、「誰かが、罪の償いを彼らに代わってしなければならない」とマリア様は要求しています。
ところでカトリック教会は、観想修道会、例えば外に出ずに、使徒職をせずに、修道院の中に閉じ込もって、お祈りと犠牲と労働だけに専念しているような修道会を、非常に大切に思っています。修道院の壁の中にずっと留まったまま、祈りと犠牲と罪の償いの生活をしている霊魂たちです。人類の罪の償いの為に、彼らが祈りと償いとの為に犠牲となっています。
そして第4番目は、よく非常に頻繁に起こるやり方ですけれども、私たちは「天主に御恵みを懇願」します、お願いします。
イエズス様も直接言いました、「祈れ、求めよ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」天主様は私たちに多くのものを与えようと提示しているのですけれども、祈らなければそれは与えられません。
不思議のメダイでこんな話があります。
聖カタリナ・ラブレは、マリア様の手から光線が出ているのを見るのですけれども、一つの手から光線が出ていないのを見て、「何でですか?」
「それは、この光線は、私が霊魂たちに与える御恵みの光線です。しかし光線が出ていないのは、本当は光線が出る事ができるにもかかわらず、祈り求められなかったので、与える事ができなかったものです。」
私たちが教会に足を運んだり、そしてマリア様にお祈りする時に、私たちは何かを求めてお祈りしますけれども、それはとても良いやり方で、教会でもミサの時に、懇願の為に、色々なものを懇願する為に、特別の随意祈祷文、集祷文があります。例えば為政者の為に、あるいは家族の為、あるいは平和の為に。司祭が随意集祷文を付ける事ができる35の特別の期間を教会は準備しています。例えば雨が降る祈願、祈りとか、困難や艱難の為の祈りとか、あるいは誘惑を受けた時の祈りとか、あるいはいかなるものであれ、その信徒の必要とするものの為に、御恵みの為に。
教会の知っている通り、これらの祈りや懇願は私たちにとってとても重要であって、天主も私たちがそれを求める事を望んでいます。
もちろん、このような目的に合わせた祈りの区別もありますけれども、その他にも分類として、「口祷、声に出す祈り」と、あるいは「黙祷、あるいは念祷、声に出さない祈り」、あるいは「私的な祈り」、あるいは「公的な祈り」の区別などもあります。
例えば念祷は、私たちは声には出さずに、心の中で天主に心を上げて親しく会話する事です。
二人以上が一緒にお祈りすると、公的な祈りにもなります。もしも例えば、子供たちが集まってお父さんに、「お父さん、これを下さい」と子供たちがお願いしたら、どうして優しい父親が子供たちの要求を退ける事ができるでしょうか。一人で子供がやって来てお願いするよりも、子供たちが全部集ってやって来る方が更に力があります。
私たちの主も、「2人か3人が、私の名によって集まるならば、私はそこにいるだろう」と約束しました。
そしてこのような公的な祈りの最も最高の形は、キリストの花嫁である教会が公式に行なう祈りです。一般の個人は、祈りの生活の為に多忙であったり、あるべきやり方で祈りをする事ができません。そこで教会はある特別の人を指定して、「教会の名前によって、公式の祈りを捧げるように」と要求します。そしてあるいは修道士、あるいは修道女、あるいは司祭、司教など、教会が任命した特別の人々は、「聖務日課」と呼ばれる教会の公式の祈りを、教会の名前によって捧げます。
聖務日課には、教会の花嫁の祈りとして特別の価値が、特別の力が、天主の御前にあります。レランスの聖ヴィンセンシオ(Saint Vincent of Lérins)によれば、「聖務日課のたった一部であったとしても、それは個人的な一年の多くの祈りよりも価値がある」と言います。例えば皆さんが司祭と一緒に聖務日課を、終課を唱えますが、それは皆さんが唱えた1年の価値よりも更に価値があります。これを聞くのはショッキングな話ですけれども、しかしこれが事実です。
もちろん個人的な祈りは価値があって、必要なもので、大切なものですけれども、聖務日課は更に力があります。
また更に、「ミサ聖祭」、教会の聖なる典礼、これは更に力があります、価値があります。
その教会の祈りの重要さ、その力強さ、それについて詳しく話せばもちろん一週間ぐらい話がありますが、今回はそれをする事ができません。
また個人的なものだとしても、『主の祈り』、私たちの主が教えてくださった祈りは特別なものです、価値があります。弟子たちが、「主よ、どうやってお祈りしたら良いですか?」と聞いた時に、直々に教えて下さった祈りで、ありとあらゆる私たちが求めるべき最高のものが順序よく含まれています。この『天にまします』の祈りは、本当に単純ではありますけれども、しかし非常に深い、一生をかけてその祈りの意味を黙想して、味わう事ができるものです。
では、祈りはどうして完徳に至る為にそれほど重要なものなのでしょうか?
聖人たちはこう言います、「よく祈る人は、よく生きる人である。」まず、私たちがこの世のものから、愛着から離脱する事を祈りは助けてくれます。もしも天主との一致に妨げとなるようなものがあるとしたら、それらの愛着から離脱させてくれます。被造物から心が離れれば離れるほど、天主に近付けば近付くほど、その被造物がどの所にいなければならないかを理解する事ができます。私たちの心が天主に近付けば近付くほど、私たちを罪へと誘うようなものを憎む事ができます。天主へと近付けば近付くほど、この地上の良いものは、天主へと行く手段にしか過ぎない、という事が分かります。
祈る人は、この世の価値について、正しい、あるべき判断を下す事ができます。
「成聖の定義」というのは、「天主との一致」ですけれども、祈れば祈るほど、この天主との一致へと導かれます。まず祈る事によって、知性が天主の事をよく理解して、そして意志は天主の御旨に従おうと動きます。祈れば祈るほど、私たちの心は天主を愛して、そして虚しいものを、そして天主に逆らうようなものを憎む事ができます。
まとめて言いますと、祈る霊魂は、この世のものをあるべき所に見出して、あるべき地位の所に置いて、そして私たちの霊魂を天主へとますます近付かせる事ができるという事です。祈る事によって、天主の生活に、命に、ますます近寄る事になります。
主は言いました、「絶えず祈れ」と。
では一体、絶え間なく、「絶えず祈れ」という事はどうしたら祈る事ができるでしょうか?修道生活をしている人でもいつも祈りをしているわけではなく、肉体労働をしている時もあります。
これは聖人たちの聖徳の秘訣というか、秘密で、どのような生活でも、どんな活動でも、祈りの形にできる、するやり方があります。
まず朝起きたらすぐに、心を天主に上げて、祈って、そして一日を全てをまず捧げます。
そして第2に、最初の瞬間から黙想によって、天主の現存に身を置きます。天主と共に生活を始めます。
そして言葉を以って、「私は1日の全ての行ないと、思いと、言葉、全て、そして休息も、食事も、全て天主への礼拝として捧げます」と。
そして私たちの身分上の御恵みの義務に従って、仕事も、食事も、休息も、あるいは遊びも、全て、天主の御栄えの為に、礼拝の為に捧げると、奉献すると、私たちの生活は祈りになります。
聖パウロも同じ事を言います、「このお前たちが何をするにも、食べるにつけ、飲むにつけ、あるいは何をするにつけ、天主の栄光の為に行なえ。」
そうする事によって、主が言ったように「絶えず祈れ」という命令を成就する事ができます、従う事ができます。
では今日はここまでにして、明日、外的な手段として、霊的指導、あるいは生活のルール・生活表・時間割、第3に霊的読書、第4に隣人との交流や付き合いについて、全て霊的生活の手段として考察してみましょう。
ではレジナ・チェリを歌います。