アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「私たちの十字架の道を共に歩いてくださる御母」という記事に、Агни Парфене / Ἁγνὴ Παρθένε(アグ二・パルセネ)という歌の日本語訳を作って掲載してくださっています。
とても知性的で素晴らしい訳です。
この歌は、最後の一節がリフレーンとなって、何度も何度も繰り返されます。つまり、これが最高に強調される内容です。
リフレーンは、Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε「喜べ、おお未婚の花嫁!」です。
ところで、この日本語訳を読んでいて、ふと思いました。未婚の花嫁、というのはそんなに特別なのだろうか、と?
花嫁というのは普通は未婚の女性がなるのではないだろうか?
バツイチではない、女性が花嫁になって、何が特別なのだろうか?
聖母マリアが、聖ヨゼフと婚姻の契りを結んだとき、未婚の女性だったのは本当だけれども、他の女性も普通はそうではないのだろうか?
という単純な疑問です。
ウィキペディアの英語版にある、ギリシア語に忠実に訳された英語訳は O unwedded Bride!でした。確かに「結婚しなかった花嫁」です。
では、一体ギリシア語ではどうなっているのだろう?
Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε
Χαῖρε 喜べ!(これは大天使ガブリエルが童貞聖マリアに言った挨拶の言葉です。ラテン語では Ave ! 「めでたし!」です。)
Νύμφη 花嫁よ
Ἀνύμφευτε この単語をよく見ると、否定の Ἀとνύμφηとから合成されているので、直訳すると「ニンフィ(花嫁)でなかった」「非花嫁だった」という意味になります。
この歌は、「ニンフィであり且つニンフィではない聖母」を讃える歌なのです。
では、「非花嫁だった花嫁」つまり「花嫁でない花嫁」とは、一体どういうことでしょうか?花嫁であって同時に花嫁ではない、とは?
聖ヨゼフに対しては、終生童貞なる聖マリアは貞潔を守り童貞を守りましたが、しかし法律上は婚姻をしたので、花嫁ではないとは言うことが出来ません。
聖母マリアは、童貞であり同時に母でした。「花嫁でない花嫁」とは、母なる童貞女、童貞女なる母親という意味でしょうか? いえ、母と童貞女という言葉は概念が違います。しかし、このリフレーンは同じ「花嫁」を同時にそうでありそうでないと言っています。
一体どういうことでしょうか?
ここで聖マキシミリアノ・コルベと教父らの教えに従って、聖母マリアが聖霊の浄配であるという表現に行き着きます。
つまり、聖母は、聖霊のイコンであり、聖霊の充満を受けていたので、聖母と聖霊とはあたかも「婚姻」で結ばれたかのように一つになっていた、という教えです。そのことに思い当たると、「花嫁でない花嫁」の意味が理解できます。聖母は被造物で人間であるので、天主なる聖霊と「婚姻」などすることができるわけがありません。聖母は聖霊の「花嫁」ではありえません。しかし、聖母が、聖寵に充ち満ちたお方であり、天主の御旨を完全に行う方であったので、あたかも聖霊と聖母とは一つであり、聖母が聖霊の生き写しであったかのようなので、「花嫁」あるいは「浄配」と呼ばれているのです。
だから、聖母は婚姻しなかった浄配、「花嫁でない花嫁」です。
そこで、巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんの日本語訳に手を加えてみました。たとえば、ギリシア語の呼格を英語で表現するとき Oh を付けたりしますが、なるべくギリシア語に近づけてみました。最後の部分の日本語訳にも挑戦してみました。
内容は、非常に単純で、聖母に色々な呼称や敬称で呼びかけて、リフレーンを繰り返します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
純潔なる童貞女よ!
純潔なる童貞女よ、女王よ*、汚れなき天主の母よ、喜べ、花嫁でない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
童貞女なる母にして元后よ、露滴る羊の毛よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* 判事の書のゲデオンの故事から「わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。」
「露滴る羊の毛」は、「聖寵満ちみてる」聖母の前兆であった。判事の書には、さらに、地だけが露で濡れていたにもかかわらず乾いていた羊の毛の奇跡も起こった。これは、聖母だけが原罪の汚れを免れて宿った無原罪の御孕りの前兆であった。]
天よりもいとも高き方よ、いとも輝かしい光線よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天使たちをいとも凌駕する、童貞女らの群れの歓びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天よりもいとも輝くお方、光よりもいとも透き通った方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天軍の大群よりも、いとも聖なるお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
------
終生童貞なるマリアよ、全宇宙の主よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Κυρία = Domina]
全く純潔にして汚れなき花嫁よ、全く聖なる女王よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
花嫁にして元后なるマリアよ、我らの喜びの源よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
誉れ高き乙女なる女王よ、全く聖なる母よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
ケルビムよりも貴き方よ、いとも栄光に満ちたお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
肉体を持たぬセラフィムよりも、座天使らよりも凌ぐお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
-----
喜べ、ケルビムの歌よ、喜べ、天使らの讃歌よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、セラフィムの頌歌よ、大天使らの喜びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、平和よ、喜べ、喜びよ、救いの港よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
御言葉の花嫁部屋よ、萎れぬ芳香の花よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
{* ἱερά, ἄνθος τῆς ἀφθασίας]
喜べ、天国の歓喜よ*、とこしえの命、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Παράδεισε τρυφῆς]
喜べ、いのちの木、不死の泉よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
-----
私は御身に懇願する、女主権者よ、御身を今呼び求める、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私は御身に乞い求める、全ての主権者よ、御身の恵みを与え給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
いとも清き敬うべき童貞女よ、全き聖なる女王*よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Δέσποινα]
熱烈に御身に懇願する、聖なる神殿よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Θερμώς επικαλούμε Σε, Ναέ ηγιασμένε,]
【別のバージョン*:私の祈りを聞き給え、全宇宙の女主人よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!】
[* ἐπάκουσόν μου ἄχραντε, κόσμου παντὸς Κυρία,]
私を助け、戦争から解放し給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私を永遠の命の相続者となし給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
Photo Credit
愛する兄弟姉妹の皆様、
巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「私たちの十字架の道を共に歩いてくださる御母」という記事に、Агни Парфене / Ἁγνὴ Παρθένε(アグ二・パルセネ)という歌の日本語訳を作って掲載してくださっています。
とても知性的で素晴らしい訳です。
この歌は、最後の一節がリフレーンとなって、何度も何度も繰り返されます。つまり、これが最高に強調される内容です。
リフレーンは、Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε「喜べ、おお未婚の花嫁!」です。
ところで、この日本語訳を読んでいて、ふと思いました。未婚の花嫁、というのはそんなに特別なのだろうか、と?
花嫁というのは普通は未婚の女性がなるのではないだろうか?
バツイチではない、女性が花嫁になって、何が特別なのだろうか?
聖母マリアが、聖ヨゼフと婚姻の契りを結んだとき、未婚の女性だったのは本当だけれども、他の女性も普通はそうではないのだろうか?
という単純な疑問です。
ウィキペディアの英語版にある、ギリシア語に忠実に訳された英語訳は O unwedded Bride!でした。確かに「結婚しなかった花嫁」です。
では、一体ギリシア語ではどうなっているのだろう?
Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε
Χαῖρε 喜べ!(これは大天使ガブリエルが童貞聖マリアに言った挨拶の言葉です。ラテン語では Ave ! 「めでたし!」です。)
Νύμφη 花嫁よ
Ἀνύμφευτε この単語をよく見ると、否定の Ἀとνύμφηとから合成されているので、直訳すると「ニンフィ(花嫁)でなかった」「非花嫁だった」という意味になります。
この歌は、「ニンフィであり且つニンフィではない聖母」を讃える歌なのです。
では、「非花嫁だった花嫁」つまり「花嫁でない花嫁」とは、一体どういうことでしょうか?花嫁であって同時に花嫁ではない、とは?
聖ヨゼフに対しては、終生童貞なる聖マリアは貞潔を守り童貞を守りましたが、しかし法律上は婚姻をしたので、花嫁ではないとは言うことが出来ません。
聖母マリアは、童貞であり同時に母でした。「花嫁でない花嫁」とは、母なる童貞女、童貞女なる母親という意味でしょうか? いえ、母と童貞女という言葉は概念が違います。しかし、このリフレーンは同じ「花嫁」を同時にそうでありそうでないと言っています。
一体どういうことでしょうか?
ここで聖マキシミリアノ・コルベと教父らの教えに従って、聖母マリアが聖霊の浄配であるという表現に行き着きます。
つまり、聖母は、聖霊のイコンであり、聖霊の充満を受けていたので、聖母と聖霊とはあたかも「婚姻」で結ばれたかのように一つになっていた、という教えです。そのことに思い当たると、「花嫁でない花嫁」の意味が理解できます。聖母は被造物で人間であるので、天主なる聖霊と「婚姻」などすることができるわけがありません。聖母は聖霊の「花嫁」ではありえません。しかし、聖母が、聖寵に充ち満ちたお方であり、天主の御旨を完全に行う方であったので、あたかも聖霊と聖母とは一つであり、聖母が聖霊の生き写しであったかのようなので、「花嫁」あるいは「浄配」と呼ばれているのです。
だから、聖母は婚姻しなかった浄配、「花嫁でない花嫁」です。
そこで、巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんの日本語訳に手を加えてみました。たとえば、ギリシア語の呼格を英語で表現するとき Oh を付けたりしますが、なるべくギリシア語に近づけてみました。最後の部分の日本語訳にも挑戦してみました。
内容は、非常に単純で、聖母に色々な呼称や敬称で呼びかけて、リフレーンを繰り返します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
純潔なる童貞女よ!
純潔なる童貞女よ、女王よ*、汚れなき天主の母よ、喜べ、花嫁でない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
童貞女なる母にして元后よ、露滴る羊の毛よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* 判事の書のゲデオンの故事から「わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。」
「露滴る羊の毛」は、「聖寵満ちみてる」聖母の前兆であった。判事の書には、さらに、地だけが露で濡れていたにもかかわらず乾いていた羊の毛の奇跡も起こった。これは、聖母だけが原罪の汚れを免れて宿った無原罪の御孕りの前兆であった。]
天よりもいとも高き方よ、いとも輝かしい光線よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天使たちをいとも凌駕する、童貞女らの群れの歓びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天よりもいとも輝くお方、光よりもいとも透き通った方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天軍の大群よりも、いとも聖なるお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
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終生童貞なるマリアよ、全宇宙の主よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Κυρία = Domina]
全く純潔にして汚れなき花嫁よ、全く聖なる女王よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
花嫁にして元后なるマリアよ、我らの喜びの源よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
誉れ高き乙女なる女王よ、全く聖なる母よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
ケルビムよりも貴き方よ、いとも栄光に満ちたお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
肉体を持たぬセラフィムよりも、座天使らよりも凌ぐお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
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喜べ、ケルビムの歌よ、喜べ、天使らの讃歌よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、セラフィムの頌歌よ、大天使らの喜びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、平和よ、喜べ、喜びよ、救いの港よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
御言葉の花嫁部屋よ、萎れぬ芳香の花よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
{* ἱερά, ἄνθος τῆς ἀφθασίας]
喜べ、天国の歓喜よ*、とこしえの命、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Παράδεισε τρυφῆς]
喜べ、いのちの木、不死の泉よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
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私は御身に懇願する、女主権者よ、御身を今呼び求める、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私は御身に乞い求める、全ての主権者よ、御身の恵みを与え給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
いとも清き敬うべき童貞女よ、全き聖なる女王*よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Δέσποινα]
熱烈に御身に懇願する、聖なる神殿よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Θερμώς επικαλούμε Σε, Ναέ ηγιασμένε,]
【別のバージョン*:私の祈りを聞き給え、全宇宙の女主人よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!】
[* ἐπάκουσόν μου ἄχραντε, κόσμου παντὸς Κυρία,]
私を助け、戦争から解放し給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私を永遠の命の相続者となし給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
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