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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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人類を裁くべき最高の裁判官イエズス・キリストの聖心には赦しと憐れみと愛のみで満たされていた。私たちの考えとどれほど離れている事か。

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苦しみの玄義 第2玄義黙想 2019年7月6日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

初土の信心として、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。今日は7月は御血の、イエズスのいと尊き御血の聖なる月ですので、苦しみの玄義の第2玄義、イエズス様が鞭打たれ給う、そして全身で御血を流され給う、その玄義を黙想する事を提案します。



イエズス様の聖心の、燃えるような私たちへの愛、この愛は、何をもイエズス様をひるませませんでした。どのような苦しみも、辛い事も、残酷な拷問も、喜んで受けて立つ、その愛で燃えていました。

私たちがその受けるべき、肉の罪によって受けるべき苦しみを、罰を、イエズス様が全て、御自分の身に引き受け給い給うたのです。刑吏の残酷な鞭の前に、清らかな肌を晒し給うて、マリア様からお受けになったその繊細な御体、頑丈な肉体、それが鞭によって砕かれ、傷付き、血潮でまみれ、御筋肉も、肌を通して骨が見えるかのように、鞭はイエズス様の御肉体をえぐり、傷付け、痛めつけました。

イエズス様は、不平を漏らさず、この侮辱を、私たちの為に御捧げになっておられます。

「私は彼に、何の罪も見出さなかった。だから、鞭打ちの罰を凝らして、解放しよう。」

罪が無かったにも関わらず、残酷な鞭打ちを受けたイエズス・キリスト。イエズス様のこの御痛みと、私たちに対する愛を黙想致しましょう。

鞭打たれ給うイエズス様の聖心の御考えは、何だったのでしょうか。

受けた不正義への不平、文句、あるいは皆の前で受ける屈辱、辱め、それへの抗議、あるいはその痛みと苦痛の、それに対する反感、あるいは復讐の思いだったのでしょうか?

いえ、イエズス様の聖心は、ただ「聖父への愛」と、「哀れな私たちに対する愛」だけで満たされていました。

「私たちを赦そう。」聖父に赦しを乞う、その祈り。「苦しみを捧げよう」というその望み。「人類を赦したい」というその愛。それしかありませんでした。

人類を裁くべき最高の裁判官、イエズス・キリスト。イエズス様のその聖心には、赦しと、憐れみと、私たちに対する愛のみで満たされていました。私たちの考えとどれほど離れている事でしょうか。

不正な裁判を受け、人民によって裁かれた、不当な宣告を受けた天主。辱めに飽かされ、全身傷だらけになりながら、私たちの罪を償う事のみ望む、イエズスの聖心。

その聖心を遠くにご覧になったマリア様の心は、どれほど感動と、祈りに満ちておられた事でしょうか。

イエズス様を馬鹿にする、冒瀆する人々の声を聞き、イエズス様に対して為される暴力を見て、その鞭の音を聞き、飛び散る血潮をご覧になり、悪の、罪の重さを目前にして、マリア様の汚れなき聖心は、イエズス様と共に、私たちへの愛と赦しを求める心でますます満たされます。

「マリア様、イエズス様のこのような御苦難を見て、鞭打ちを見て、私の心はあまりにも冷淡で、無関心で、冷たい心をいつも取っていました。マリア様の汚れなき御心にあやからせて下さい。」

イエズス様を打つ鞭の音が聞こえます。イエズス様を罵る人々の呪いの声が、冒瀆の声が聞こえます。

「私はあまりにも無関心でした。非常にしばしば、冒瀆の声に一緒になってイエズス様を鞭打っていました。マリア様の心にあやからせて下さい。聖母と共に、イエズス様をお慰めする恵みをお祈り下さい。イエズス様を冒瀆する声は、テレビで、インターネットで、映画で、ラジオで、新聞で、雑誌で、ますます声が大きくなっています。マリア様の心に、御心に近付くを得させて下さい。」


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