2019年7月15日(月)聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様霊的講話
「私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対とかだけではなく、命に逆らう全ての『文化』というものに対する、反対を表明するもの」
同時通訳:小野田圭志神父
親愛なる友人の皆さん、フランスでは数日前に、ある一人の人が亡くなりました。普通、多くの人は亡くなっています、毎日たくさんの方が数秒ごとに亡くなっています。
この数日前に亡くなった人は、とても特別なケースで、ヴァンサン・ランベール(Vincent Lambert)という名前の人です。このヴァンサン・ランベールという方は、数年前に結婚した方ですけれども、車の事故で非常に大きな負傷を負って、そして植物状態になりました。
このヴァンサンさんは10年間、病院で生活をしています。意識はないのですけれども、しかし治療をする必要はありません。何か、ただヴァンサンさんに必要なのは、栄養分を摂って、水を補給されることでした。そうすれば、それで生きていました。
ところで、家族でちょっと意見の相違が生じました。ヴァンサンのご両親は、「そのまま養分を与えて、水を与えて、生かしてあげたい」と考えます、ちょうど赤ちゃんのように。ところがその結婚した奥さんは、「いや、もうこれは十分だ。ご飯もあげないし、水もあげたくない」と言います。
家族のこの言い分が結局、家族内で収まらずに、これが裁判に持ち込まれました。色々な裁判があったのですけれども、ついに最近、裁判官が、「このヴァンサンさんの栄養を与えるのを中止しなさい」という命令を出しました。その為にヴァンサンさんは亡くなりました。
国家がこのヴァンサンさんに、医療行為を禁止したのではなくて(その必要はなかったかので)、「ただ、栄養を与える」のを禁止したからです。
残念な事に、フランスの司教様たちはこの事について声を上げずに、裁判にも国家に対しても、影響を及ぼす事をしませんでした。
ですからこれは殺人のケースでした。確かに生きている人を殺してしまいました。食べ物を与えない事によって。
フランスでは35年前、ヴェイユという名前の大臣が堕胎を導入しました、立法化しました。今ですからこのヴァンサンさんのケースを使って、少しずつ国家は、自分の事を守る事ができない無抵抗の老人や病気の人を殺そうとする事を、殺人を立法化しようと、合法化しようとする動きがあります。
フランスで今このような事がなされていますけれども、既にオランダでは、例えば「薬を投入する事によって、老人や病の人を殺す、殺害する」という事が許されています。
西洋ではもはや今後、罪のない人たちに対する生命の尊敬は、敬意はありません。
例えばフランスでは、あるいはヨーロッパでは、強盗、あるいは強姦犯、あるいは幼児の虐待をする人々、あるいは本当に犯罪者が、確かに裁判所では断罪されますけれども、面白おかしく生きる事ができます、生き延びる事ができます。
しかしその反対に、罪の無い赤ちゃんたちが堕胎によって殺されて、あるいは罪の無い老人、病の人が殺害されています。
人間の「命」のみならず、人間のこの「本性」、「人間自身」が今、軽蔑されています。つまり尊重されていません。この「自然、人間の本性」というものが尊重されていないが為に、新しい法律、新しいものが今導入されつつあって、例えばジェンダーという考えが導入されて、そして本当は婚姻という事はできないのですけれども、「誰とでも、自然と反して、カッコ付きで〈結婚〉できる」という法律が今成立しています。
このような出来事は「全て」なのです。つまりこれはただ単に、「堕胎」とか、あるいは「同性愛の〈結婚〉」とか、あるいは「安楽死」とか、そういう一つ一つのただケースではなくて、これは全てを含む「精神」その「考え方」があります。
これは、「罪の精神」であって、「悪魔の精神」です。
この聖書によれば、アダムとエヴァが最初に罪を犯した、その直後に犯した罪というのは、「殺害」でした。兄弟殺しでした。アベルがカインによって殺されました。
悪魔が人間の世界に導入させようとした「罪」という事と、「人間の命の破壊、殺害」という事は、非常に緊密に結び付いています。
天主の十戒を見ても、それは「命」と非常に密接に関わっています。
まず最初の三つの掟は天主に関するものですが、それは「私たちに命を与えて下さった天主に、礼拝を捧げる」というものです。
第四の掟では、私たちは両親を尊敬しなければなりませんが、なぜかというと、「両親は私たちに、命を与えてくれたから」です。
第五戒には、私たちは「人を殺してはならない」とありますけれども、なぜかというと、「命というのは、私たちに属するものではなくて、天主のみに属するものであるから」です。
そして第六戒、第九戒は、「命の伝達に反する行為」について、私たちに禁止しています。
そして第七戒、十戒は、私たちが良い普通の状況で生活する事を邪魔するような、盗みなどについて禁止しています。
第八戒では、これは非常に固有のものですけれども、私たちの精神的な生命、「知性の命」について、「嘘をついてはいけない」それを守る、「知性的な命を守る為」にあります。
ですから、「命を攻撃する時」というのは、「罪の精神がある」という事です。そしてこれは自由を求める、「自由放埒の精神」であって、そして「個人主義の精神」です。
なぜ女性は、子供がいらない、子供を堕胎しようと思うのでしょうか?
なぜかというと、自由になって、自分の好きな事をしたいと思うからです。
なぜ老人を邪魔者扱いにして、この世から消そうとするのでしょうか?
なぜかというと、それは重荷であって、自由を奪うものであるかのように思われて、そして私たちがこの世を楽しんだりするものの邪魔者だからです。そして私たちが個人で、個人的に、個人主義を、自分の思い通りにする事を妨害するからです。
この「自由の精神」というのは、すなわち、『革命の精神』です。
『革命の精神』というのは何かというと、単的に言うと、『人間が天主となろうとする事』です。
「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとする」それが革命の精神です。
これは啓蒙精神であって、そしてもっと遡れば、たとえばデカルトが、「私たちは自然に服従しなければならない」と言ったその精神です。
この人間主義、あるいは人間中心主義というのは、結局は「人間の死」に行き着きます。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になります。
なぜかというと、「命」というのは、私たちに「喜び」と、そして「幸福」を与えてくれますが、「死」は、私たちに「不幸」を与えるのみだからです。
ですから、「死の文化」という今私たちが住んでいる、生きている現代社会というのは、「組織化された自殺」「人類の自殺の文化」です。
ですから私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対というものではなくて、そうではなくて、この「命に逆らう全てのこの『文化』というものに対する、反対を表明するもの」です。
私たちはこのような事、このマーチなどをして戦う事が必要です。なぜかというと、確かにこう「堕胎」とか、あるいはその他の「殺人」、「殺害」はありますけれども、しかしその「全体的な精神」というのを、この目で見る事はできないからです。
このまずマーチに参加するという事は、命の為の行進に参加するという事は、勇気のある事です。なぜかというと、国の定めた法律に反対の声を上げるからです。それと同時にこのマーチは、皆さん自身を守る戦いです。何に対して守るかというと、私たちの「知性」、そして私たちの「意志」を、この「罪の精神」から、「自由放埒を求める精神」から、「革命の精神」から、あるいは「個人主義の精神」から守る戦いです。
聖フィリッポ・ネリは毎朝、こうお祈りしたのです、「主よ、この哀れなフィリッポをお守り下さい。御身の助けがなければ今晩、私はきっとイスラム教徒になっているでしょう。」
そしてですから皆さんも、このマーチに参加しながら、どうぞお祈りなさって下さい、「主よ、主によって、私たちが守られますように。」「アメリカの精神から、あるいは西洋の自由、個人主義第一の精神から守られるように」と、お祈りなさって下さい。
またこのマーチというのは、あるいはプロライフというのは、何か「自然なものを守る」というだけではありません。これは「超自然の行為」であって、そして「信仰宣言」です。
私たちの主はこう言いました、「私は命である。」また最後の福音でミサの時にこう読む所では、毎日司祭はこう言います、「彼は命であった。人間に与えられた命であった」と。
私たちは命を「持って」いますけれども、天主は命を「持って」いません、天主御自身が「命である」からです。「人間の命」というのは、天主によって、その似姿に従って創られた創造されたものであって、全て天主に属しています。「天主のもの」です。
天主は命です。そしてこの命である天主が、人間となりました。天主の命が、人間の命となりました。そして天主の命が人間となって、私たちに、「どれほど、人間の命がこの御自分にとって大切なものであるか」という事を御見せになりました。
主は、私たちの命を贖う為に、救う為に、この地上にやって来られました。主は人間となって、この子供の赤ちゃんの時代から、全ての人生の段階を経て、体験なさいました。
主は、童貞聖マリアの御胎内に御孕りになりました。この「マリア様の御胎内に隠された状態がどれほど大切だったか」という事は、まずマリア様の御胎内におられながら、母の胎内の中にまだ居た、洗者聖ヨハネの罪を赦しました。
また主は、色んな方々の命を救おうとされました、公生活の時に。福音書を見ると、どのページにも、病の人、あるいは癩病の人、あるいはその他患っている人たちが、主の元にやって来て救いを求めると、主は彼らの命を癒します。
更に素晴らしい事は、既に死んでいた方に命をもう一度与える、という事も何回かされました。例えばラザロとか、あるいはナインの息子などです。
こうやって復活させる事によって、「主が、人間の命をどれほど大切にしているか」という事を見せました。
あるいは堕胎、あるいは安楽死によって、人間の命を軽蔑する人々は、私たちの主の、イエズス様のなさった仕事、御事業をも軽蔑します。そして遂にはこのような人々は、私たちの主イエズス・キリスト御自身も軽蔑します。
では、何で主は、「人間の命がそれほど大切だ」という事を思ったのでしょうか?
なぜかというと、「体」を生かしているのは、「霊魂の命」だからです。「霊魂の命」というのは、「霊的な命」です。
そしてこの「霊的な命」というのは、不死で、死ぬ事がありません、消滅する事がありません。肉体は滅ぼす事ができますけれども、しかし霊魂を消す事はできません。
ところで、人間のこの命を、取り外す事なく、霊魂を殺す事ができます。
「霊魂を殺す」とはどういう事でしょうか?
これは、「私たちの霊魂に、天主に対する敵対を置く事」で、つまり「私たちを、罪の状態に置く事」です。私たちが罪の状態にいる、霊魂が罪の状態にいるという事は、この報いとして、「永遠に地獄に行かなければならない」という報いが待っています。
ですから、「死の文化」というのは、「罪の文化」のみならず、「地獄の文化」です。
レオ13世があるビジョンを見て、「悪魔たちが、この地獄から鎖を解き放されて、この地上に罪を広める」というビジョンを見ました。残念な事に不幸な事に、この今現代世界、この地上にいる政府たちは、この悪魔の地獄のこの手の支配の下にいるかのようです。特にヨーロッパでは、フランス革命以後そうです。
1917年、ファチマで7月にマリア様がお現れになって、そして手から光線を放して、この光線は地上を開いて、3人の子供たち、すなわちフランシスコ・ルチア・ジャシンタに地獄の光景を見せました。
子供たちはこの地獄を見ると、霊魂たちが、この雪のようにパラパラパラパラと落ちているその様子を見ました。このビジョンというのは非常に劇的でした。子供たちはこれに恐怖におののいて、恐れるばかりでした。ルチアは言っています、「もしもマリア様が、私を天国に連れて行ってくれると約束しなかったら、恐ろしさのあまり、もうその瞬間死んでいただろう」と。
これは1917年の事です。1917年には、まだ堕胎がありませんでした。安楽死もありませんでした。教会はまだ多くの信徒がいました。そしてカトリック教会はまだ強い影響力を持っていました。しかしそれにも関わらず、そうでした。
もしもマリア様が今日、こんにちこの地上にお現れになったら、何と仰る事でしょうか。もしも今日、マリア様が手を開いて地獄の様子を私たちに見せて下さるとしたら、一体どれほど多くの、より多くの霊魂たちが、バラバラと地獄に落ちているのを見せてくれる事でしょうか。
マリア様は一つの事しかなさらないでしょう。秋田でもなさったように、ただ涙を流すばかりです。ここのドラマは、「霊魂の命の殺害」です。肉体の命の殺害もそうですけれども、霊魂の命を殺す事は、もっと重大な事です。
私たちは今マーチに参加しようとしますけれども、もちろん子供たちが、胎内の子供たちが生きる事を願って、そして老人たちがこのまま生きる事を願って歩きますけれども、しかし、「霊魂が、超自然の命を生きる事を願って」歩きましょう。
今日、こんにちヨーロッパでは、特にフランスやオランダでは、学校では子供たちに罪を教えています。これは堕胎よりも更に悪い罪です。なぜかというと、「子供たちを地獄行きへの道に乗らせるようにする」からです。
堕胎、安楽死、同性愛の〈結婚〉、ジェンダー、あるいは性教育、あるいは罪の教育というのは、「一つ」です、全体です。これは全て、「肉体と霊魂の命を殺害する、殺す、抹殺する」という全てです。
このマーチに、命の為の行進に参加するというのは良い事です。なぜかというと、それによって私たちは命に対して、そして私たちの主が見せた、「人間の命に対する敬意を払う」という事を私たちが見せるからです。
しかしもっと大切なのは、最も大切なのは、行進するという事よりは、「祈る」事です。
二つのやり方で祈る事ができます。「個人的に祈る」という事と「公に祈る」事です。
カトリック信者には、公に祈る義務があります。それは、私たちの信仰を告白する為、また私たちが、命である主イエズス・キリストに属している事を見せる為です。
今日の午後、大切なのは、歩く事ではありません、祈る事だけでもありません、大切なのは、「歩きながら祈る事」です。
またこの同世代の人々に、周りの人々に、「命を守るという事が大切だ」という事を訴えると同時に、それと同時に、祈りながら私たちはもっと高貴な、もっと重要な、より重要な命に属している、「霊魂の命、超自然の命を守っているのだ」という事を見せなければなりません。
「霊魂の命」というのは「天主の命」であって、「イエズス様の命」、「私たちの霊魂における天主の命」であります。
この命、「霊魂の命」というのは、本物の、「本当の光」です。“Vita erat Lux vera.”「命は、真の光であった」と福音に書かれています。
私たちは祈りながら命を守るのみならず、この周りの現代の同世代の人々に対する「光」とならなければなりません。こうする事によって、真に私たちの主の弟子となります。なぜかというと、「命」と「光」をもたらす者になるからです。
またこの命を守る、擁護の為の最高の最善の方法は、祈る事、「ロザリオを祈る事」です。
ファチマでマリア様は子供たちに地獄の様子をお見せになった時に、同時に、地獄に行かないようにする薬も、法もお見せになりました。ではこの薬とは何でしょうか?
それは「ロザリオ」です。「ロザリオを祈りなさい」と仰いました。
このロザリオというのは非常に単純な祈りで、この単純さは、「本当に天主から来た」という事を表しています。天主は本当に単純な方であり、そして天主が人間に与えるものも単純です。単純なので、ロザリオは普遍的なものです。子供でさえも、3歳の子供でさえも両親と一緒にロザリオを唱える事ができる、というのを見るのは、本当に司祭にとっても大きな慰めです。
そして今現代の人々が殺そうとしている、邪魔者扱いしている老人たちでさえも、たとえ目が見えない、あるいは聞く事もできない、何もできないと言っても、ロザリオは唱える事ができます。
「頻繁に、また多くロザリオ唱える事ができる」というのは、「天国の命を約束されている証拠」です。
またお仕事をなさって、この世俗の世界で生きている皆さんにとっても、ロザリオはとても簡単なものであるはずです。この色々な忙しい事がある現代社会ですけれども、3分ちょっと身を引いて、ロザリオを一連唱える事ができます。ですから例えば、今3分、あるいは別の機会に3分、あるいは3分、とすると、1日の終わりには、「あ、あっという間に1環以上唱える事ができた」という事になります。
旧約時代には、癩病を持っていたある将軍が、エリアに治してもらいに行きます。そこでその自分の癩病を治してほしい為に、この預言者がものすごい大奇跡を起こしてくれるのを期待していました。ところでエリアはこの男に、「あぁ、ヨルダン川に行って、7回洗いなさい。」
ところでこの人は非常に怒って、「何だ!もっと大きいすごい奇跡をするのかと思ったら、川に行って洗えとは何だ!」と言うのですけれども、しかし非常に簡単な方法で、この癒しを与えようとされたのです。
天主様はいつも私たちに、簡単な事を、単純な事を要求されます。今日午後、私は皆さんに、「よく、ロザリオをよく唱えるように」と励ましたいと思います。そして今日のみならず、いつも、ロザリオをよく唱えるように致しましょう。
そしてまた、このファチマの聖母と一緒に歩きますので、そのファチマの聖母は、「ロザリオの聖母」とも言う事ができます。ロザリオはフランス語で“Chapelet”と言いますが、これは「王冠」という意味なのです。それでマリア様のバラの王冠を作って下さって、皆さんが今なさった事を、その王冠を私たちは唱えます。
ちょうど私たちが、「肉体の命」と「霊魂の命」を守る為に行くように、今日私たちは「物理的な王冠」と、そして「霊的な王冠」のロザリオで、マリア様を崇敬しましょう。
ありがとうございました。
Photo Credit
「革命の精神とは人間が天主となろうとすること。「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとすること」人間中心主義は、結局は「人間の死」に行き着く。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になる。」
「私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対とかだけではなく、命に逆らう全ての『文化』というものに対する、反対を表明するもの」
同時通訳:小野田圭志神父
親愛なる友人の皆さん、フランスでは数日前に、ある一人の人が亡くなりました。普通、多くの人は亡くなっています、毎日たくさんの方が数秒ごとに亡くなっています。
この数日前に亡くなった人は、とても特別なケースで、ヴァンサン・ランベール(Vincent Lambert)という名前の人です。このヴァンサン・ランベールという方は、数年前に結婚した方ですけれども、車の事故で非常に大きな負傷を負って、そして植物状態になりました。
このヴァンサンさんは10年間、病院で生活をしています。意識はないのですけれども、しかし治療をする必要はありません。何か、ただヴァンサンさんに必要なのは、栄養分を摂って、水を補給されることでした。そうすれば、それで生きていました。
ところで、家族でちょっと意見の相違が生じました。ヴァンサンのご両親は、「そのまま養分を与えて、水を与えて、生かしてあげたい」と考えます、ちょうど赤ちゃんのように。ところがその結婚した奥さんは、「いや、もうこれは十分だ。ご飯もあげないし、水もあげたくない」と言います。
家族のこの言い分が結局、家族内で収まらずに、これが裁判に持ち込まれました。色々な裁判があったのですけれども、ついに最近、裁判官が、「このヴァンサンさんの栄養を与えるのを中止しなさい」という命令を出しました。その為にヴァンサンさんは亡くなりました。
国家がこのヴァンサンさんに、医療行為を禁止したのではなくて(その必要はなかったかので)、「ただ、栄養を与える」のを禁止したからです。
残念な事に、フランスの司教様たちはこの事について声を上げずに、裁判にも国家に対しても、影響を及ぼす事をしませんでした。
ですからこれは殺人のケースでした。確かに生きている人を殺してしまいました。食べ物を与えない事によって。
フランスでは35年前、ヴェイユという名前の大臣が堕胎を導入しました、立法化しました。今ですからこのヴァンサンさんのケースを使って、少しずつ国家は、自分の事を守る事ができない無抵抗の老人や病気の人を殺そうとする事を、殺人を立法化しようと、合法化しようとする動きがあります。
フランスで今このような事がなされていますけれども、既にオランダでは、例えば「薬を投入する事によって、老人や病の人を殺す、殺害する」という事が許されています。
西洋ではもはや今後、罪のない人たちに対する生命の尊敬は、敬意はありません。
例えばフランスでは、あるいはヨーロッパでは、強盗、あるいは強姦犯、あるいは幼児の虐待をする人々、あるいは本当に犯罪者が、確かに裁判所では断罪されますけれども、面白おかしく生きる事ができます、生き延びる事ができます。
しかしその反対に、罪の無い赤ちゃんたちが堕胎によって殺されて、あるいは罪の無い老人、病の人が殺害されています。
人間の「命」のみならず、人間のこの「本性」、「人間自身」が今、軽蔑されています。つまり尊重されていません。この「自然、人間の本性」というものが尊重されていないが為に、新しい法律、新しいものが今導入されつつあって、例えばジェンダーという考えが導入されて、そして本当は婚姻という事はできないのですけれども、「誰とでも、自然と反して、カッコ付きで〈結婚〉できる」という法律が今成立しています。
このような出来事は「全て」なのです。つまりこれはただ単に、「堕胎」とか、あるいは「同性愛の〈結婚〉」とか、あるいは「安楽死」とか、そういう一つ一つのただケースではなくて、これは全てを含む「精神」その「考え方」があります。
これは、「罪の精神」であって、「悪魔の精神」です。
この聖書によれば、アダムとエヴァが最初に罪を犯した、その直後に犯した罪というのは、「殺害」でした。兄弟殺しでした。アベルがカインによって殺されました。
悪魔が人間の世界に導入させようとした「罪」という事と、「人間の命の破壊、殺害」という事は、非常に緊密に結び付いています。
天主の十戒を見ても、それは「命」と非常に密接に関わっています。
まず最初の三つの掟は天主に関するものですが、それは「私たちに命を与えて下さった天主に、礼拝を捧げる」というものです。
第四の掟では、私たちは両親を尊敬しなければなりませんが、なぜかというと、「両親は私たちに、命を与えてくれたから」です。
第五戒には、私たちは「人を殺してはならない」とありますけれども、なぜかというと、「命というのは、私たちに属するものではなくて、天主のみに属するものであるから」です。
そして第六戒、第九戒は、「命の伝達に反する行為」について、私たちに禁止しています。
そして第七戒、十戒は、私たちが良い普通の状況で生活する事を邪魔するような、盗みなどについて禁止しています。
第八戒では、これは非常に固有のものですけれども、私たちの精神的な生命、「知性の命」について、「嘘をついてはいけない」それを守る、「知性的な命を守る為」にあります。
ですから、「命を攻撃する時」というのは、「罪の精神がある」という事です。そしてこれは自由を求める、「自由放埒の精神」であって、そして「個人主義の精神」です。
なぜ女性は、子供がいらない、子供を堕胎しようと思うのでしょうか?
なぜかというと、自由になって、自分の好きな事をしたいと思うからです。
なぜ老人を邪魔者扱いにして、この世から消そうとするのでしょうか?
なぜかというと、それは重荷であって、自由を奪うものであるかのように思われて、そして私たちがこの世を楽しんだりするものの邪魔者だからです。そして私たちが個人で、個人的に、個人主義を、自分の思い通りにする事を妨害するからです。
この「自由の精神」というのは、すなわち、『革命の精神』です。
『革命の精神』というのは何かというと、単的に言うと、『人間が天主となろうとする事』です。
「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとする」それが革命の精神です。
これは啓蒙精神であって、そしてもっと遡れば、たとえばデカルトが、「私たちは自然に服従しなければならない」と言ったその精神です。
この人間主義、あるいは人間中心主義というのは、結局は「人間の死」に行き着きます。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になります。
なぜかというと、「命」というのは、私たちに「喜び」と、そして「幸福」を与えてくれますが、「死」は、私たちに「不幸」を与えるのみだからです。
ですから、「死の文化」という今私たちが住んでいる、生きている現代社会というのは、「組織化された自殺」「人類の自殺の文化」です。
ですから私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対というものではなくて、そうではなくて、この「命に逆らう全てのこの『文化』というものに対する、反対を表明するもの」です。
私たちはこのような事、このマーチなどをして戦う事が必要です。なぜかというと、確かにこう「堕胎」とか、あるいはその他の「殺人」、「殺害」はありますけれども、しかしその「全体的な精神」というのを、この目で見る事はできないからです。
このまずマーチに参加するという事は、命の為の行進に参加するという事は、勇気のある事です。なぜかというと、国の定めた法律に反対の声を上げるからです。それと同時にこのマーチは、皆さん自身を守る戦いです。何に対して守るかというと、私たちの「知性」、そして私たちの「意志」を、この「罪の精神」から、「自由放埒を求める精神」から、「革命の精神」から、あるいは「個人主義の精神」から守る戦いです。
聖フィリッポ・ネリは毎朝、こうお祈りしたのです、「主よ、この哀れなフィリッポをお守り下さい。御身の助けがなければ今晩、私はきっとイスラム教徒になっているでしょう。」
そしてですから皆さんも、このマーチに参加しながら、どうぞお祈りなさって下さい、「主よ、主によって、私たちが守られますように。」「アメリカの精神から、あるいは西洋の自由、個人主義第一の精神から守られるように」と、お祈りなさって下さい。
またこのマーチというのは、あるいはプロライフというのは、何か「自然なものを守る」というだけではありません。これは「超自然の行為」であって、そして「信仰宣言」です。
私たちの主はこう言いました、「私は命である。」また最後の福音でミサの時にこう読む所では、毎日司祭はこう言います、「彼は命であった。人間に与えられた命であった」と。
私たちは命を「持って」いますけれども、天主は命を「持って」いません、天主御自身が「命である」からです。「人間の命」というのは、天主によって、その似姿に従って創られた創造されたものであって、全て天主に属しています。「天主のもの」です。
天主は命です。そしてこの命である天主が、人間となりました。天主の命が、人間の命となりました。そして天主の命が人間となって、私たちに、「どれほど、人間の命がこの御自分にとって大切なものであるか」という事を御見せになりました。
主は、私たちの命を贖う為に、救う為に、この地上にやって来られました。主は人間となって、この子供の赤ちゃんの時代から、全ての人生の段階を経て、体験なさいました。
主は、童貞聖マリアの御胎内に御孕りになりました。この「マリア様の御胎内に隠された状態がどれほど大切だったか」という事は、まずマリア様の御胎内におられながら、母の胎内の中にまだ居た、洗者聖ヨハネの罪を赦しました。
また主は、色んな方々の命を救おうとされました、公生活の時に。福音書を見ると、どのページにも、病の人、あるいは癩病の人、あるいはその他患っている人たちが、主の元にやって来て救いを求めると、主は彼らの命を癒します。
更に素晴らしい事は、既に死んでいた方に命をもう一度与える、という事も何回かされました。例えばラザロとか、あるいはナインの息子などです。
こうやって復活させる事によって、「主が、人間の命をどれほど大切にしているか」という事を見せました。
あるいは堕胎、あるいは安楽死によって、人間の命を軽蔑する人々は、私たちの主の、イエズス様のなさった仕事、御事業をも軽蔑します。そして遂にはこのような人々は、私たちの主イエズス・キリスト御自身も軽蔑します。
では、何で主は、「人間の命がそれほど大切だ」という事を思ったのでしょうか?
なぜかというと、「体」を生かしているのは、「霊魂の命」だからです。「霊魂の命」というのは、「霊的な命」です。
そしてこの「霊的な命」というのは、不死で、死ぬ事がありません、消滅する事がありません。肉体は滅ぼす事ができますけれども、しかし霊魂を消す事はできません。
ところで、人間のこの命を、取り外す事なく、霊魂を殺す事ができます。
「霊魂を殺す」とはどういう事でしょうか?
これは、「私たちの霊魂に、天主に対する敵対を置く事」で、つまり「私たちを、罪の状態に置く事」です。私たちが罪の状態にいる、霊魂が罪の状態にいるという事は、この報いとして、「永遠に地獄に行かなければならない」という報いが待っています。
ですから、「死の文化」というのは、「罪の文化」のみならず、「地獄の文化」です。
レオ13世があるビジョンを見て、「悪魔たちが、この地獄から鎖を解き放されて、この地上に罪を広める」というビジョンを見ました。残念な事に不幸な事に、この今現代世界、この地上にいる政府たちは、この悪魔の地獄のこの手の支配の下にいるかのようです。特にヨーロッパでは、フランス革命以後そうです。
1917年、ファチマで7月にマリア様がお現れになって、そして手から光線を放して、この光線は地上を開いて、3人の子供たち、すなわちフランシスコ・ルチア・ジャシンタに地獄の光景を見せました。
子供たちはこの地獄を見ると、霊魂たちが、この雪のようにパラパラパラパラと落ちているその様子を見ました。このビジョンというのは非常に劇的でした。子供たちはこれに恐怖におののいて、恐れるばかりでした。ルチアは言っています、「もしもマリア様が、私を天国に連れて行ってくれると約束しなかったら、恐ろしさのあまり、もうその瞬間死んでいただろう」と。
これは1917年の事です。1917年には、まだ堕胎がありませんでした。安楽死もありませんでした。教会はまだ多くの信徒がいました。そしてカトリック教会はまだ強い影響力を持っていました。しかしそれにも関わらず、そうでした。
もしもマリア様が今日、こんにちこの地上にお現れになったら、何と仰る事でしょうか。もしも今日、マリア様が手を開いて地獄の様子を私たちに見せて下さるとしたら、一体どれほど多くの、より多くの霊魂たちが、バラバラと地獄に落ちているのを見せてくれる事でしょうか。
マリア様は一つの事しかなさらないでしょう。秋田でもなさったように、ただ涙を流すばかりです。ここのドラマは、「霊魂の命の殺害」です。肉体の命の殺害もそうですけれども、霊魂の命を殺す事は、もっと重大な事です。
私たちは今マーチに参加しようとしますけれども、もちろん子供たちが、胎内の子供たちが生きる事を願って、そして老人たちがこのまま生きる事を願って歩きますけれども、しかし、「霊魂が、超自然の命を生きる事を願って」歩きましょう。
今日、こんにちヨーロッパでは、特にフランスやオランダでは、学校では子供たちに罪を教えています。これは堕胎よりも更に悪い罪です。なぜかというと、「子供たちを地獄行きへの道に乗らせるようにする」からです。
堕胎、安楽死、同性愛の〈結婚〉、ジェンダー、あるいは性教育、あるいは罪の教育というのは、「一つ」です、全体です。これは全て、「肉体と霊魂の命を殺害する、殺す、抹殺する」という全てです。
このマーチに、命の為の行進に参加するというのは良い事です。なぜかというと、それによって私たちは命に対して、そして私たちの主が見せた、「人間の命に対する敬意を払う」という事を私たちが見せるからです。
しかしもっと大切なのは、最も大切なのは、行進するという事よりは、「祈る」事です。
二つのやり方で祈る事ができます。「個人的に祈る」という事と「公に祈る」事です。
カトリック信者には、公に祈る義務があります。それは、私たちの信仰を告白する為、また私たちが、命である主イエズス・キリストに属している事を見せる為です。
今日の午後、大切なのは、歩く事ではありません、祈る事だけでもありません、大切なのは、「歩きながら祈る事」です。
またこの同世代の人々に、周りの人々に、「命を守るという事が大切だ」という事を訴えると同時に、それと同時に、祈りながら私たちはもっと高貴な、もっと重要な、より重要な命に属している、「霊魂の命、超自然の命を守っているのだ」という事を見せなければなりません。
「霊魂の命」というのは「天主の命」であって、「イエズス様の命」、「私たちの霊魂における天主の命」であります。
この命、「霊魂の命」というのは、本物の、「本当の光」です。“Vita erat Lux vera.”「命は、真の光であった」と福音に書かれています。
私たちは祈りながら命を守るのみならず、この周りの現代の同世代の人々に対する「光」とならなければなりません。こうする事によって、真に私たちの主の弟子となります。なぜかというと、「命」と「光」をもたらす者になるからです。
またこの命を守る、擁護の為の最高の最善の方法は、祈る事、「ロザリオを祈る事」です。
ファチマでマリア様は子供たちに地獄の様子をお見せになった時に、同時に、地獄に行かないようにする薬も、法もお見せになりました。ではこの薬とは何でしょうか?
それは「ロザリオ」です。「ロザリオを祈りなさい」と仰いました。
このロザリオというのは非常に単純な祈りで、この単純さは、「本当に天主から来た」という事を表しています。天主は本当に単純な方であり、そして天主が人間に与えるものも単純です。単純なので、ロザリオは普遍的なものです。子供でさえも、3歳の子供でさえも両親と一緒にロザリオを唱える事ができる、というのを見るのは、本当に司祭にとっても大きな慰めです。
そして今現代の人々が殺そうとしている、邪魔者扱いしている老人たちでさえも、たとえ目が見えない、あるいは聞く事もできない、何もできないと言っても、ロザリオは唱える事ができます。
「頻繁に、また多くロザリオ唱える事ができる」というのは、「天国の命を約束されている証拠」です。
またお仕事をなさって、この世俗の世界で生きている皆さんにとっても、ロザリオはとても簡単なものであるはずです。この色々な忙しい事がある現代社会ですけれども、3分ちょっと身を引いて、ロザリオを一連唱える事ができます。ですから例えば、今3分、あるいは別の機会に3分、あるいは3分、とすると、1日の終わりには、「あ、あっという間に1環以上唱える事ができた」という事になります。
旧約時代には、癩病を持っていたある将軍が、エリアに治してもらいに行きます。そこでその自分の癩病を治してほしい為に、この預言者がものすごい大奇跡を起こしてくれるのを期待していました。ところでエリアはこの男に、「あぁ、ヨルダン川に行って、7回洗いなさい。」
ところでこの人は非常に怒って、「何だ!もっと大きいすごい奇跡をするのかと思ったら、川に行って洗えとは何だ!」と言うのですけれども、しかし非常に簡単な方法で、この癒しを与えようとされたのです。
天主様はいつも私たちに、簡単な事を、単純な事を要求されます。今日午後、私は皆さんに、「よく、ロザリオをよく唱えるように」と励ましたいと思います。そして今日のみならず、いつも、ロザリオをよく唱えるように致しましょう。
そしてまた、このファチマの聖母と一緒に歩きますので、そのファチマの聖母は、「ロザリオの聖母」とも言う事ができます。ロザリオはフランス語で“Chapelet”と言いますが、これは「王冠」という意味なのです。それでマリア様のバラの王冠を作って下さって、皆さんが今なさった事を、その王冠を私たちは唱えます。
ちょうど私たちが、「肉体の命」と「霊魂の命」を守る為に行くように、今日私たちは「物理的な王冠」と、そして「霊的な王冠」のロザリオで、マリア様を崇敬しましょう。
ありがとうございました。
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「革命の精神とは人間が天主となろうとすること。「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとすること」人間中心主義は、結局は「人間の死」に行き着く。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になる。」