2019年7月19日(金)証聖者聖ヴィンチェンチオ・ア・パウロのミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月19日、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ証聖者の祝日を祝っております。今日この御ミサの後で、いつものように感謝のお祈りがあり、その後にいつものように聖務日課の終課を皆さん一緒に祈りましょう。
明日も10時半からミサがあります。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、聖伝の御ミサにようこそ。このラテン語のミサは世界で、キリスト教と名前が付く典礼の中で一番歴史の古いものです。ローマの最も初期の時代から、このミサがこの形で行なわれていました。特にこの中核の典文、「カノン」と言われている部分は、言語学者によれば、「おそらく聖ペトロに由来している」と言われるほど非常に古いものです。
つい最近文化財になった近畿地方の古墳も古いものですけれども、この聖伝のラテン語のこのミサはもっと古いものです。約2000年の歴史を持っています。
これは「ラテン語のミサ」とも言われていますが、本当はラテン語のミサではありません。ラテン語とギリシャ語とヘブライ語の、3つの言葉が入っています。十字架の言葉が使われています。
今日はこのミサでは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロという有名なフランスの聖人の祝日を祝っていますので、今日、
⑴この方がどういう人だったのか?という事を垣間見て、
⑵そしてこの方の事を聖伝のミサでは、どのように描写しているのか?
⑶そして最後に私たちは、一体2019年の今日、この聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに何を教えているのか?という事を黙想したいと思います。
⑴聖ヴィンセンチオ・ア・パウロという方は、生まれた時には貧しい羊飼いでした。しかしこの子供の頃から、貧しい人に対して非常に優しい態度を取る子供でした。この態度は、特に貧しい人、可哀想な人たちに対する特別の優しい愛情というのは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは一生忘れた事がありませんでした。
大きくなると神学を勉強します。非常に優秀で、司祭になりますが、司祭になるや、トルコ人の手に落ちて、そして奴隷となってしまいます。奴隷となってその主人を、やはり愛徳を以て、カトリック信仰を以て接した結果、この主人がカトリックになります。そして一緒になってローマに逃亡します。
その次にフランスに逃げて戻ってきます。なぜかというと、主人が「イスラム教を捨てた」という事になると、大きな社会的な制裁が待っていたからです。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはフランスに戻ると、ある小教区の主任司祭になって、そして船を漕ぐ人々の指導司祭、つまりチャプレンになります。
また聖フランシスコ・デ・サレジオの依頼を受けて、40年間、訪問童貞会のシスターたちの霊的指導者、指導を非常に素晴らしく、賢明に行ないます。
この司祭生活の間、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは、イスラム教徒の奴隷となったカトリック信者を贖って、その身代金を払って、それを解放するように努めたり、あるいは捨てられた子供たち、孤児の面倒を見たり、あるいは危険、身の危険のある青少年を守ったり、あるいは不幸にも身を堕としてしまった少女たちが、身を持ち直すように尽くしたり、あるいは巡礼者の世話をしたり、病気の人々の看病をしたり、あるいは施したり、貧しい人には、乞食ものもらいの人々には、何とかその彼らの生活が立ち行くようにと、非常な努力をしました。また頭のおかしい狂ったような人にも優しく尽くしました。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのその愛徳の行ないは、フランス全国に広まりました。その当時フランスは、フランス革命の前でしたが、飢饉や社会的な気候の悪さなどで、貧しい人もいました。あるいはペストもありました。そのような苦しい人や貧しい人たちを、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは献身的に助けていました。
この愛徳の業によって、特にフランス王ルイ13世の死の床に付き添ったその愛徳の業によって、特にフランスの王家、王室の信頼を受けて、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロに、このフランスの司教を誰にするか、あるいはフランスの教会の名誉ある地位モンシニョール、あるいはそのような地位を誰が受けるかという事は、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが承認しなければそれができないほど、権威のある地位を続けていました。
貧しい聖ヴィンセンチオ・ア・パウロですが、その手は、フランスの王の、あるいはフランスの貴族たちの献金や、あるいは援助がスルッと、ものすごく莫大な富が、貧しい人たちの方に流れて行きました。その莫大なお金や、あるいは地位や、その司教様の任命などについての権威を持っていたにも関わらず、自分は非常に謙遜で、清貧で、そして柔和で、いつも特に貧しい人たちに対する優しさと慈しみをたたえていました。
自分が小さい時も貧しかった時も、地位のある今でも、いつも同じ優しさと、謙遜を、清貧を保っていました。
1633年には、愛徳姉妹会を創立しました。また司祭たちの会、ラザリストというミッション会を創ります。特に愛徳姉妹会の創立300周年の時には、1933年、大阪には愛徳姉妹会がシスターたちが最初に日本で修道院を設置して、日本でもその活動を開始しました。
このロザリオの前に会長が私たちに教えて下さったように、聖カタリナ・ラブレに聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは現れて、不思議のメダイを受けるその準備をされます。
こうして歴史家によると「聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはたった一人で、フランス革命が起こるのを遅らせた」と言われています。
Photo Credit
⑵では一体、カトリック教会はこのミサで、どのように聖ヴィンセンチオ・ア・パウロの事を誉め称えているでしょうか?
入祭誦はあたかも、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは主の庭園に咲く大きな棕櫚の木、あるいは杉の木であるかのようです。大木で、その枝は世界中に広がっているかのようです。日本にもその愛の枝が届きました。実りが届いています。
書簡では、聖パウロの言葉を借りて、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに語りかけているかのようです。
「自分は貧しく、自分は馬鹿にされて、あたかもこの世で死んだかのようであるけれども、悪口を受ければ祝福する、死んだ者であるかのように思われているけれども、実は生きていて、他の人たちに善を施している。」
あたかも聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのようです。私たちもその、「この彼に倣うように」と招かれているかのようです。
聖福音ではイエズス様が私たちに、「主の畑で働く人たちが足りない。だから働く人たちが送られるように祈れ」と言っているこの言葉を聞きます。
「まさにこの主が求めているのは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのような、愛の、主を愛するが故に隣人を愛し、そしてこの世の全ての富を主の為にのみ使う、自分の事は一切忘れる、その奉献の献身的な精神の司祭が必要だ。働き人が必要だ。だから私たちは、そのような聖なる司祭が、聖なる働き手が出るように祈れ」と招いているかのようです。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは当時の人々から、「ムシュー・ヴァンサン」と、「ヴァンサンさん」と言われて、非常に愛されていました。フランス語で「ヴァンサン Vincent」というのは、ラテン語の「Vincens」と言う言葉に由来しています。「Vincentius」というのは、これは「勝った、勝つ」「愛徳によってこの世に勝った、愛と信仰によってこの世に打ち勝った」という事です。
⑶これは私たちに今日現代、何を教えているでしょうか?
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは、1660年9月27日に亡くなります。フランス革命はその約130年後に起こります。
フランス革命の時に聖職者がやった事と、多くの聖職者たちがやった事と、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのやった事というのは、全く反対だったという事を思いました。
本来ならカトリックの聖職者こそが、革命が起こらないように阻止すべきだったにも関わらず、却って当時の聖職者たちは「啓蒙思想」、啓蒙主義思想というものに犯されて、それに感染して、その毒を飲んで、その思想に染まっていて、その啓蒙思想に従って行動してしまいました。
そこで司祭たちが、本来ならば天主の作ったその秩序を守るように、あるいは天主の御旨を尊重する代わりに、例えば司祭たちが、司祭たちの身分を議会で離れて、第三部会と言われる、「貧しい一般の市民たちの方に、自分は交流する」と言うのです。
司教様たちは司祭たちにそうしてはならないと言いました。確かに貧しいお金のない司祭だったのですけれども、やはり司祭は司祭です。一般市民とは違う、司祭は司祭でした。聖職者でした。
しかし司教様から「彼らに行ってはいけない。お前たちは聖職者だ」といわれても、「いや、私はあなたと同じ市民です」と答えて、第三部の方に行ってしまいました。残念ながら、聖職者がフランス革命を引き起こしてしまった、と言う事ができるかもしれません。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは私たちに今日、「そうではなくて、」その革命の結果、何を言ったかと言うと、「貧しい人たちを助ける」という名目で、「国民の為」という名目で、「私たちは、その自分の持っている財産を国家にあげる教会」という事で、カトリック教会は財産を持つ事ができなくなりました。
そして今まで教会が持っていた財産、あるいは司祭が持っていた財産、これは「司祭のもの」というよりは、「貧しい人たちのもの」でした。「財産を持ってない人たちを助ける為のもの」でした。
それが全て没収され、国営のものとなり、そして遂には破壊され、「愛徳」という国民を助けていた福祉の、無料の福祉、無料の教育、あるいは人々との繋がりというセメントの絆の役割をしていたものを、全て聖職者たちが放棄してしまい、破壊してしまいました。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはその反対を行きました、「これは自分のものではない」だから「自分が勝手に放棄するものではなくて、自分が与えられたその地位を使って、それを利用して、貧しい人たちを優先的に助ける。自分の所には何も留まらずに、全て流していた。」
これによってフランスでは多くの方が、そして世界中で、この聖ヴィンセンチオ・ア・パウロの精神を、これを果たそうとする多くの方々が、多くの利益を、霊的な、物体的な物質的な利益を得ました。
では私たちも、このような聖なる聖職者が日本から、世界中から出ますように、お祈り致しましょう。マリア様の御助けと御取次ぎを願って、第2、第3、第4の聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに与えられますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月19日、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ証聖者の祝日を祝っております。今日この御ミサの後で、いつものように感謝のお祈りがあり、その後にいつものように聖務日課の終課を皆さん一緒に祈りましょう。
明日も10時半からミサがあります。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、聖伝の御ミサにようこそ。このラテン語のミサは世界で、キリスト教と名前が付く典礼の中で一番歴史の古いものです。ローマの最も初期の時代から、このミサがこの形で行なわれていました。特にこの中核の典文、「カノン」と言われている部分は、言語学者によれば、「おそらく聖ペトロに由来している」と言われるほど非常に古いものです。
つい最近文化財になった近畿地方の古墳も古いものですけれども、この聖伝のラテン語のこのミサはもっと古いものです。約2000年の歴史を持っています。
これは「ラテン語のミサ」とも言われていますが、本当はラテン語のミサではありません。ラテン語とギリシャ語とヘブライ語の、3つの言葉が入っています。十字架の言葉が使われています。
今日はこのミサでは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロという有名なフランスの聖人の祝日を祝っていますので、今日、
⑴この方がどういう人だったのか?という事を垣間見て、
⑵そしてこの方の事を聖伝のミサでは、どのように描写しているのか?
⑶そして最後に私たちは、一体2019年の今日、この聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに何を教えているのか?という事を黙想したいと思います。
⑴聖ヴィンセンチオ・ア・パウロという方は、生まれた時には貧しい羊飼いでした。しかしこの子供の頃から、貧しい人に対して非常に優しい態度を取る子供でした。この態度は、特に貧しい人、可哀想な人たちに対する特別の優しい愛情というのは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは一生忘れた事がありませんでした。
大きくなると神学を勉強します。非常に優秀で、司祭になりますが、司祭になるや、トルコ人の手に落ちて、そして奴隷となってしまいます。奴隷となってその主人を、やはり愛徳を以て、カトリック信仰を以て接した結果、この主人がカトリックになります。そして一緒になってローマに逃亡します。
その次にフランスに逃げて戻ってきます。なぜかというと、主人が「イスラム教を捨てた」という事になると、大きな社会的な制裁が待っていたからです。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはフランスに戻ると、ある小教区の主任司祭になって、そして船を漕ぐ人々の指導司祭、つまりチャプレンになります。
また聖フランシスコ・デ・サレジオの依頼を受けて、40年間、訪問童貞会のシスターたちの霊的指導者、指導を非常に素晴らしく、賢明に行ないます。
この司祭生活の間、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは、イスラム教徒の奴隷となったカトリック信者を贖って、その身代金を払って、それを解放するように努めたり、あるいは捨てられた子供たち、孤児の面倒を見たり、あるいは危険、身の危険のある青少年を守ったり、あるいは不幸にも身を堕としてしまった少女たちが、身を持ち直すように尽くしたり、あるいは巡礼者の世話をしたり、病気の人々の看病をしたり、あるいは施したり、貧しい人には、乞食ものもらいの人々には、何とかその彼らの生活が立ち行くようにと、非常な努力をしました。また頭のおかしい狂ったような人にも優しく尽くしました。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのその愛徳の行ないは、フランス全国に広まりました。その当時フランスは、フランス革命の前でしたが、飢饉や社会的な気候の悪さなどで、貧しい人もいました。あるいはペストもありました。そのような苦しい人や貧しい人たちを、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは献身的に助けていました。
この愛徳の業によって、特にフランス王ルイ13世の死の床に付き添ったその愛徳の業によって、特にフランスの王家、王室の信頼を受けて、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロに、このフランスの司教を誰にするか、あるいはフランスの教会の名誉ある地位モンシニョール、あるいはそのような地位を誰が受けるかという事は、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが承認しなければそれができないほど、権威のある地位を続けていました。
貧しい聖ヴィンセンチオ・ア・パウロですが、その手は、フランスの王の、あるいはフランスの貴族たちの献金や、あるいは援助がスルッと、ものすごく莫大な富が、貧しい人たちの方に流れて行きました。その莫大なお金や、あるいは地位や、その司教様の任命などについての権威を持っていたにも関わらず、自分は非常に謙遜で、清貧で、そして柔和で、いつも特に貧しい人たちに対する優しさと慈しみをたたえていました。
自分が小さい時も貧しかった時も、地位のある今でも、いつも同じ優しさと、謙遜を、清貧を保っていました。
1633年には、愛徳姉妹会を創立しました。また司祭たちの会、ラザリストというミッション会を創ります。特に愛徳姉妹会の創立300周年の時には、1933年、大阪には愛徳姉妹会がシスターたちが最初に日本で修道院を設置して、日本でもその活動を開始しました。
このロザリオの前に会長が私たちに教えて下さったように、聖カタリナ・ラブレに聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは現れて、不思議のメダイを受けるその準備をされます。
こうして歴史家によると「聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはたった一人で、フランス革命が起こるのを遅らせた」と言われています。
Photo Credit
⑵では一体、カトリック教会はこのミサで、どのように聖ヴィンセンチオ・ア・パウロの事を誉め称えているでしょうか?
入祭誦はあたかも、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは主の庭園に咲く大きな棕櫚の木、あるいは杉の木であるかのようです。大木で、その枝は世界中に広がっているかのようです。日本にもその愛の枝が届きました。実りが届いています。
書簡では、聖パウロの言葉を借りて、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに語りかけているかのようです。
「自分は貧しく、自分は馬鹿にされて、あたかもこの世で死んだかのようであるけれども、悪口を受ければ祝福する、死んだ者であるかのように思われているけれども、実は生きていて、他の人たちに善を施している。」
あたかも聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのようです。私たちもその、「この彼に倣うように」と招かれているかのようです。
聖福音ではイエズス様が私たちに、「主の畑で働く人たちが足りない。だから働く人たちが送られるように祈れ」と言っているこの言葉を聞きます。
「まさにこの主が求めているのは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのような、愛の、主を愛するが故に隣人を愛し、そしてこの世の全ての富を主の為にのみ使う、自分の事は一切忘れる、その奉献の献身的な精神の司祭が必要だ。働き人が必要だ。だから私たちは、そのような聖なる司祭が、聖なる働き手が出るように祈れ」と招いているかのようです。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは当時の人々から、「ムシュー・ヴァンサン」と、「ヴァンサンさん」と言われて、非常に愛されていました。フランス語で「ヴァンサン Vincent」というのは、ラテン語の「Vincens」と言う言葉に由来しています。「Vincentius」というのは、これは「勝った、勝つ」「愛徳によってこの世に勝った、愛と信仰によってこの世に打ち勝った」という事です。
⑶これは私たちに今日現代、何を教えているでしょうか?
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは、1660年9月27日に亡くなります。フランス革命はその約130年後に起こります。
フランス革命の時に聖職者がやった事と、多くの聖職者たちがやった事と、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのやった事というのは、全く反対だったという事を思いました。
本来ならカトリックの聖職者こそが、革命が起こらないように阻止すべきだったにも関わらず、却って当時の聖職者たちは「啓蒙思想」、啓蒙主義思想というものに犯されて、それに感染して、その毒を飲んで、その思想に染まっていて、その啓蒙思想に従って行動してしまいました。
そこで司祭たちが、本来ならば天主の作ったその秩序を守るように、あるいは天主の御旨を尊重する代わりに、例えば司祭たちが、司祭たちの身分を議会で離れて、第三部会と言われる、「貧しい一般の市民たちの方に、自分は交流する」と言うのです。
司教様たちは司祭たちにそうしてはならないと言いました。確かに貧しいお金のない司祭だったのですけれども、やはり司祭は司祭です。一般市民とは違う、司祭は司祭でした。聖職者でした。
しかし司教様から「彼らに行ってはいけない。お前たちは聖職者だ」といわれても、「いや、私はあなたと同じ市民です」と答えて、第三部の方に行ってしまいました。残念ながら、聖職者がフランス革命を引き起こしてしまった、と言う事ができるかもしれません。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは私たちに今日、「そうではなくて、」その革命の結果、何を言ったかと言うと、「貧しい人たちを助ける」という名目で、「国民の為」という名目で、「私たちは、その自分の持っている財産を国家にあげる教会」という事で、カトリック教会は財産を持つ事ができなくなりました。
そして今まで教会が持っていた財産、あるいは司祭が持っていた財産、これは「司祭のもの」というよりは、「貧しい人たちのもの」でした。「財産を持ってない人たちを助ける為のもの」でした。
それが全て没収され、国営のものとなり、そして遂には破壊され、「愛徳」という国民を助けていた福祉の、無料の福祉、無料の教育、あるいは人々との繋がりというセメントの絆の役割をしていたものを、全て聖職者たちが放棄してしまい、破壊してしまいました。
聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはその反対を行きました、「これは自分のものではない」だから「自分が勝手に放棄するものではなくて、自分が与えられたその地位を使って、それを利用して、貧しい人たちを優先的に助ける。自分の所には何も留まらずに、全て流していた。」
これによってフランスでは多くの方が、そして世界中で、この聖ヴィンセンチオ・ア・パウロの精神を、これを果たそうとする多くの方々が、多くの利益を、霊的な、物体的な物質的な利益を得ました。
では私たちも、このような聖なる聖職者が日本から、世界中から出ますように、お祈り致しましょう。マリア様の御助けと御取次ぎを願って、第2、第3、第4の聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに与えられますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit