2019年7月20日(土)聖ピオ十世会司祭 小野田神父 霊的講話
「フランス革命で一体何が起こったか」
最初のフランス人権宣言は、1789年8月26日に宣言されて、ルイ16世によって批准され、そして1791年に採決されます。
フランス革命の第一憲法の序文になっています。そして世界中の宣言の模範となっています。ですからこの人権宣言によって、1789年から国民が至上の権威として位置付けられています。天主の玉座の代わりに、人間が最高の権威者として立つようになりました。
ところが、この「国民」というのは、代表者を通じて、代表者たちによって、自分の意思を表示しようとします。ですから「代議者、あるいは代表者、代議人が行なう事」が、「国民の名」においてなされます。
人権宣言は、自然の権利を確認して、そして全ての皆の為の幸せの為に、この「最高存在」(天主という名前ではないのですけれども)、最高存在の保護の元に置く、と言います。
そしてこの1789年8月26日に宣言された人権宣言第一条は、
「人間は、自由かつ、権利において平等な者として生まれ、生存する」と言います。
第二条は「全ての政治的結合の目的は、人の時効によって消滅する事のない、自然的諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全及び圧制への抵抗である。」
1793年5月には、4年間の激しいフランス王国の大混乱の中で、新しい人権宣言が出て、そして「圧政への抵抗という権利はある」という事を確認します。
人権宣言第十三条で「政府が人民の権利を侵害する時は、反乱が、自分にとって且つ、人民の各部分にとって、最も神聖な権利であり、最も欠くべからず義務である。」
つまり圧制への抵抗は、権利であり義務となります。
以上が今日の話の第一部です。これがフランス革命の言った事です。
では、これから第二部として、いくつか事例を挙げます。実際にあった事です。
国王を倒す為に、国民の間で行なわれた事を幾つかの事例を挙げます。
1792年6月20日、オルレアン公によって買収された、パリの郊外から集まった反逆者たちは、チュイルリー宮殿を占領して、独裁者である国王の発動した「拒否権」を撤回するように要求しました。
これは、国王は2つの法案に対して拒否権を発動していました。
1つは、「『フランス革命に忠誠を誓う』という事を拒否した司祭たちは、カトリック司祭たちは、国外追放する」というのを王は拒否しました。
そして2番目の、「パリの周辺に革命軍を、2万名の革命軍が住むという事を許可する」という法案を王は拒否しました。
この「拒否権」というのは、国王の憲法上の権利でした。そしてこの拒否権というのは、非常に正当なものであって、公安上も必要であって、宗教の、カトリック教会を守って、パリを守る為の非常に正当なものでした。「革命政府の言いなりにならない」と言いました。
これに対して革命政府は、撤回するように求めました。なぜかというと、もしもそのような敵が革命軍が2万名もいれば、王は実は無防備だという事です。憲法上保障されている近衛兵たちが、実は無断で解体させられていたからです。
そのような時に国民は何をしたでしょうか?
まず王がこう言います。
「反逆者らの威嚇や罵倒に対して、国王は公に対する愛と良心だけで向かい合う。反逆者がどこまでするかを王は知らない。しかし、フランス国民に対して、次の事を言う義務がある。どれほどの暴力が発揮されても、どれほどの過剰な行為に追い詰められたとしても、公に反対するような事に、私国王が同意する事は一切ないし、させない。」
「フランス国民の世襲上の代表者として、国王は果たすべき厳格な義務を持ち、王は自分の安全を犠牲にする事はできても、国王の義務を犠牲にする事は一切できない。」
「当局が陥っている危機の中で、王は最後まで毅然とした態度と、勇敢の模範を、全ての当局に与える意思である。したがって王は、あらゆる行政上の機関と市町村に、人々の、国民の財産の安全が保証されるように命令する。」
この書簡を発表すると、全地方から国王の支持がありました。
またパリの市民は1万6千人の請願書にサインをして、それを16の公証人に提出します。それでこの撤回の為のこの反乱に対して、国民は、はっきりとして声を上げて、「この撤回を私たちは受け入れない!国王の拒否権を支持する!」と、フランス全国民は表明しました。
ところがこの請願書の提出の2ヶ月後、これにサインをした全ての人々は、公民権が剥奪されて、そしてこの「苦情を言い出した」という意味で、公的な地位に就く事ができなくなり、無能力者として宣言されました。これが国民の名においてなされました。
次に、国民の声はとうやって革命政府に届くように組織されたでしょうか?パリの住民たちは48の地域があって、それは48の小教区でした。その地区では、会長、副会長と、数人の秘書がいます。「国民の声がよく聞こえるように、革命政府は組織した」と言います。
具体的にどういう風に運行するかと言うと、一人が動議を打ち出します。すると、集会はその動議を採決して、一人の役人を任命して、次の地区に同じ動議を運んで、別の地区でも同じ事をします。午後の8時頃、このように動議が打ち出されて、真夜中にこの地域を回って、翌朝国会に届きます。しかしその間は普通は、普通の人は、夜寝てますので、特殊な人しか夜中に起きてはいません。このようにして、「国民の名」によって、「国民の希望」が国会に届けられました。
一般の人々の働いている、あるいは寝ている間に、審議が進められます。例えばこのようにして、王を倒す準備が進められました。
8月4日、Saint-Jacques de l'hôpital教会という所で、次の議事録を残しています。
「600名以上の市民が集まって、祖国の危険について審議したルイ16世が、国民の信頼を失ったという事を考慮して、国家機関は世論によってのみ権力を持ち、この世論を表明する為に、全市民の厳格な神聖な義務を果たす為に、この残酷な王の廃位を宣言する為に団結する」と宣言しました。
そして「8月9日までに王が退位されないなら、周囲の二つの町の革命家が、教会の鐘を鳴らして、大衆を動員して、王の住んでいるチュイルリー宮殿を進撃する」と言います。
ところが、あるその中のこの地区にいたある人たちが、「それは違憲だ!」と言いました。また、なぜかというと、欠席者がいたにも関わらず、欠席者のサインがされて、採決されたからです。それ、この人は怒って、「これは違法だ!!」と言います。
でも、何のためらいもなく、そのまま通ってしまいました。インチキで通ってしまいました。「国民の名」において通ってしまいました。
1792年8月10日、王は倒れます。パリコミューンの専制政治が始まります。
実はその前に、1638年2月10日ルイ13世は、つまりルイ16世の先祖は、フランス国を聖母マリア様に奉献しています。そしてルイ13世の願いによって、「毎年8月15日には、聖母の行列をする。フランスのマリア様に対する奉献を更新する」という決定を勅令を出しています。
ところが、パリコミューンでたった一人の市民が、「これをもうやめよう」と言ったので、このマリア様の行列は廃止されました。国民の名前によって。
殺人と暴動によって権力を牛耳るようになったパリコミューン、これが「国民の声」になりました。「国民の声」というのは実は、「革命者の声」の事でした。一人の声であっても、革命者の声であれば、国民の声になりました。
何万人いても、何千万人いても、革命者の言う通りでなければ、国民の声にはなりませんでした。
1792年8月11日、王様が亡くなると、次々に牢屋が満たされました。多くの王党派の人々が牢屋に入ってきました。逮捕されました。
9月2日には、牢屋はもういっぱいになり、入れる所がないので、ギロチンで虐殺をしなければなりません。牢屋の子供たちと女性たちを含めて、1500人の民間人の囚人が、刃物で殺されます。虐殺されます。国民護衛隊はそのすぐ近くに配属されていましたけれども、何も守りませんでした。殺し屋たちが革命政府からお金をもらって虐殺をしました。
虐殺中止を訴えた全ての試みは、失敗に終わりました。地区の議員の一人のマンダール(Mandar)という人と、新聞記者のプルドン(Prudhomme)という人は、虐殺を止めるように、ロベスピエール(Robespierre)とダントン(Danton)に説得しようとします。しかし5人の殺し屋は血まみれの姿で、パリ市長と大臣の前に現れて、そして「牢屋にいる80人の囚人を処分しなければならない」と言うのです。するとパリ市長は、「じゃあ頑張れ」と言って酒を飲ませます。こうやって虐殺は「国民の名」において遂行されました。
ロベスピエールは後にこう言います、「これは国民運動だった。同類の殺害の為に買収された数人の悪党による反乱だった、と愚かにも想定されたけれども、そうではない。」
でもそれは嘘です。私たちは今、歴史の資料によって、誰が殺したかその名前も知っているし、幾ら貰ったかという事も分かっています。領収書もあります。
虐殺の間に、本当のフランス国民は恐怖によって麻痺していました。町では多くの血が流れていました。殺し屋の名前も、住所も、職業も、サインも、確認されています。国民たちはそれでも抵抗しようとしましたが、何もされませんでした。「国民の名」において。
そのような血が流れて恐ろしい時に、国民公会という議会が開かれます。これは8月10日に制定されました。
「女性を除いて、二十一歳以上のフランス人の皆に投票権がある」とします。まず集会が選挙人を任命して、選挙人が議員を選びます。この恐怖に包まれた空気で開かれます。パリは閉鎖されています。パリを出るには通行証が必要でした。
この選挙の集会は、このように行なわれました。まず、名前が出ます。
「〇〇はいるか!?」
「はい!ここにいます!」
「誰に投票するか!?」
「〇〇です!」
皆の前で、公開の投票をしなければなりません。匿名投票という権利はありませんでした。威嚇、脅しが待っていました。「恐怖」というのは言葉だけではなくて、町では大量の血が流されています。
では一体、このような恐れおののく人々は、誰が誰を投票するのでしょうか?
まず90%が棄権しました。恐ろしくて。投票権のある700万(男性だけです)の内、70万人しか投票しませんでした。ですからこれは、国民の5%です。国会は749人の議員から構成されて、人口の半分のうちの1割を、つまり5%を代表した人々が選ばれました。
ところで、共和国は9月21日に全員一致で宣言されますが、フランス共和国を宣言した時にいたのは、200人しかいませんでした、議員は。なぜかというと、そのフランス共和国を宣言した時に、他の議員たちはまだ議会に到着していなかったからです。つまり1/4の議員で、フランス共和国が成立しました。
これの1/4という事は、この200人というのは、人口の半分の1割の1/4なので、投票可能年齢のフランス人の人口の0.01%でしかありませんでした。ですからこの法律上を見ると、フランス共和国の、最初の共和国の宣言は全く違法でした。恐怖の圧力を受けて束縛されていた200人の議員が、「国民の名」において、12世紀続いた君主制を廃止しました。国民の名前において。
国王は最後に国民に呼びかけをして、「国民の皆さんからの声を聞きたい」という発言をします。動義を発動します。でもそれは拒否されました。国民の名において。
長くなるので最後に1つ、この話をさせて下さい。
リヨンにはその当時、15万人の住民が住んでいました。ところでリヨンの市長は革命家のお友達で、革命家の真似をしようとします。そこでリヨン市長はパリと同じような虐殺を企んで、貴族の200人の容疑者の名簿が作られます。
ところが国民護衛隊が動いて、計画遂行を妨げて、虐殺は実行されませんでした。ただ3人の公務員と、4名のカトリック司祭が、寝ている間に捕まえられて殺されるだけでした。国民護衛隊は彼らを救う事ができませんでした。
でも殺し屋たちは、この殺された人たちの頭を上げて町を行進します。そして王の死刑執行要求請願書を強制的に通させようとします。でもリヨンの人たちは抵抗します。市民選挙が行なわれるのです。しかし皆が棄権するので、結局革命家が絶対多数を占めるようになりました。
そこでその時を同じくして、パリでは国民公会で新しい人権宣言が選択されて、「政府が人民の権利を侵害する時は、反乱が、人民にとって最も神聖な権利であり、最も欠くべからざる義務である」と宣言がされていました。
リヨンではこの人権宣言のその直後、自分たちを圧迫する市長に対して、蜂起します。自分たちを殺そうとする反逆者たちに、皆が住民を守って、リヨンらしい市長や役人を取り戻そうとします。蜂起した人たちは、革命家や市長たちを逮捕します。そして市民たちの一致の元で、この元革命家のリヨン市長シャリエ(Chalier)という人は裁かれて、判決が行なわれます。
リヨンの人々は一致して、「革命は嫌だ!」と言いました。ところがパリの国民公会は、「リヨンに対して弾圧を加えるべきだ!」と宣言して、リヨンの市役所と公務員を全員罷免します。正当な選挙によって選ばれたはずなのに、反逆者として罷免されます。
そしてリヨンに軍隊が送られます。ケレルマン(Kellerman)という将軍が率いる革命軍が、リヨンを包囲します。リヨンに対して宣戦布告をして、降伏を要求します、「リヨンの住民たちよ!国民公会の命令に従って、リヨンにおいて共和国的な秩序を取り戻す為に、我々は諸君の前にいる。共和国に忠誠する軍隊と共にいる。兵士たちは全員、独裁者たちの死を待っている。」
「我々は諸君の解放者である。貴族によって閉じ込められた愛国者たちを解放に来た。ヴァンデの反撃者たちの道を歩むな!」
こうやって、リヨンに対して大砲が打たれました。40日間、大砲の着弾は1日当たり、1万6千200でした。
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リヨンの革命軍の指揮官の次の手紙があります、「この都市には12万人います。そのうち愛国者(つまり革命支持者)は1500人すら、殺さなくて済む1500人すらいません。」リヨンの住民の99%を絶滅する事が要求されています。
つまり、「革命を支持するリヨンの国民は1%もいなかった、99%が革命を拒否していた」という事です。
しかし、午後4時から翌朝8時まで砲撃が続きます。リヨンの人々は対抗します。リヨンの人たちが抵抗するので、何日も何日も何十日も抵抗するので、国民公会の代議者がこれを見て怒って、「リヨンの死体を全て放置せよ!腐ってペスト、疫病が発生するのに任せよ!」と命令します。「捕虜を捕ってはいけない!その場で虐殺せよ!」
8月10日から始まった攻撃は、9月7日8日の夜、そしてその翌日の夜も、爆弾500弾、焼夷弾1000発がリヨンに着弾します。9月の9日から21日まで、攻撃は休まずに継続します。9月の末には、リヨンは食料不足になるので、リヨンの香水の製造に使われる脂肪で雑草を焼いて食べたほどでした。飢餓が始まります。
こうして10月8日、リヨンは降伏します。
すると、反逆したこの都市に対する鎮圧が開始して、まず住民たちは家から追い出されて、全ての財産が没収されます。略奪、殺人、ギロチン、強姦、まだ人が住んでいるにも関わらず、家は破壊されます。
「共和国の為に何もしない消極的な者を、誰であれ罰しないわけにはいかない。」
「国民とその敵との間に、剣以外には共通点は無い。正義を以て統一されない人々は、剣を以て統治すべきだ。」
「リヨンという名前は、共和国の都市のリストから消される。リヨンの廃墟の上に記念碑を立てよ。次の碑文を刻め、『リヨンは自由に敵対して戦った。リヨンはもう存在しない。』そこでは貧困者の家と、人類の教育の為の家しか残らないだろう。」
革命軍の兵士を民間人の家に駐屯させて、夫はギロチンにかけ、その妻と娘たちは思うままに利用されました。リヨンの美しい広場の美しい建物も破壊されました。まだ建物に住んでいて財産を守ろうとしながら、その途中でも建物は壊されます。解体する人たちは「共和国万歳!!」と叫ぶ中、住んでいた人たちは瓦礫と共に窓から落ちます。
このリヨンの破壊、解体作業は半年続きます。多くの略奪がありました。殺人がありました。犯罪がありました。解体の作業員には2万人使われました。大砲も使われました。
若者たちは、そのリヨンの平野で銃殺されたり、刃物でトドメが刺されたりしました。その若者たちの嫁や、母親や、姉妹たちは、革命裁判所に喪服のベールをかぶって容赦を願いますが、彼らを大砲で威嚇して追い払い、そしてリヨンでは女性たちの集会は禁止されます。禁止令を無視して集まっていた女性は捕まえられて、死刑執行され、ギロチンの柱に6時間ほど縛られて辱めを受けます。総計1万7千ほど死刑されて、この中には4歳から7歳までの乳児や犬もいました。証人として一羽のオウムを聞いた裁判もありました。
そうしてリヨンの住民は、15万人から8万以下になりました。
「国民の名前」において、「国民の皆の幸せの為」に。
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以上のようなことをマリオン・シゴーさんは話してくれました。まだそれ以外にもありました。
このような惨事を正当化する理由は、「国民の幸せの為」でした。国民の名において、人口が削減されて、憐れみもなく、全て殺されていきました。
「恐怖から虐殺」という連鎖において、革命家たちは二度も「国民の主権と圧制への抵抗権」というものを宣言します。
でも結局は革命家は、自分の意見に抵抗する人たちを全て排除し続けます。国民に対する犯罪は全て、国民の名によって実行されました。
これがフランス革命で一体何が起こったかのほんの一部です。
では、何故フランス革命が起こったのか、それについては今すぐ話をする事はできないので、また後の機会に致しましょう。
最後に、ルイ16世は、愛徳深く、全ての苦しみを耐え忍んだのです。このフランス王のプリンス王子ルイ17世には、革命家が、その教育のために、娼婦を与えて、非常に虐待を受けて、亡くなっています。
このマリオン・シゴーという人も、元々はフランスの歴史の教科書のまま、そのままを信じていたのですけれども、歴史家で勉強して、勉強して、回心して、それで「実は、フランスのその革命というのは、革命家が嘘で固めたものを皆聞かされているのだけれども、本当の姿は、本当は違う」という事を今、歴史の資料を基に実証して、「これが事実だ」という事を、淡々と求めているという、今すごい研究が進んでいるのです。
それで、「私たちが聞かされていた歴史」というのは、実は「革命家が作り上げた歴史の話」であって、本当の話ではなかったのです。
この王様の生活が良くなかったとか、王様が残酷だったとかというのは、王様が人民を圧政したというのは全く嘘で、非常に責任感があって、「王の責務を、どんなに犠牲があっても果たす」という、この最後まで、フランスの皆の善と、皆の公安を考えていたのは、王しかいなかったのです。
そして革命家は、自分たちの事と、革命する事しか考えていなくて、全てを破壊して、殺してしまうことしか考えませんでした。
ありがとうございます。
「フランス革命で一体何が起こったか」
最初のフランス人権宣言は、1789年8月26日に宣言されて、ルイ16世によって批准され、そして1791年に採決されます。
フランス革命の第一憲法の序文になっています。そして世界中の宣言の模範となっています。ですからこの人権宣言によって、1789年から国民が至上の権威として位置付けられています。天主の玉座の代わりに、人間が最高の権威者として立つようになりました。
ところが、この「国民」というのは、代表者を通じて、代表者たちによって、自分の意思を表示しようとします。ですから「代議者、あるいは代表者、代議人が行なう事」が、「国民の名」においてなされます。
人権宣言は、自然の権利を確認して、そして全ての皆の為の幸せの為に、この「最高存在」(天主という名前ではないのですけれども)、最高存在の保護の元に置く、と言います。
そしてこの1789年8月26日に宣言された人権宣言第一条は、
「人間は、自由かつ、権利において平等な者として生まれ、生存する」と言います。
第二条は「全ての政治的結合の目的は、人の時効によって消滅する事のない、自然的諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全及び圧制への抵抗である。」
1793年5月には、4年間の激しいフランス王国の大混乱の中で、新しい人権宣言が出て、そして「圧政への抵抗という権利はある」という事を確認します。
人権宣言第十三条で「政府が人民の権利を侵害する時は、反乱が、自分にとって且つ、人民の各部分にとって、最も神聖な権利であり、最も欠くべからず義務である。」
つまり圧制への抵抗は、権利であり義務となります。
以上が今日の話の第一部です。これがフランス革命の言った事です。
では、これから第二部として、いくつか事例を挙げます。実際にあった事です。
国王を倒す為に、国民の間で行なわれた事を幾つかの事例を挙げます。
1792年6月20日、オルレアン公によって買収された、パリの郊外から集まった反逆者たちは、チュイルリー宮殿を占領して、独裁者である国王の発動した「拒否権」を撤回するように要求しました。
これは、国王は2つの法案に対して拒否権を発動していました。
1つは、「『フランス革命に忠誠を誓う』という事を拒否した司祭たちは、カトリック司祭たちは、国外追放する」というのを王は拒否しました。
そして2番目の、「パリの周辺に革命軍を、2万名の革命軍が住むという事を許可する」という法案を王は拒否しました。
この「拒否権」というのは、国王の憲法上の権利でした。そしてこの拒否権というのは、非常に正当なものであって、公安上も必要であって、宗教の、カトリック教会を守って、パリを守る為の非常に正当なものでした。「革命政府の言いなりにならない」と言いました。
これに対して革命政府は、撤回するように求めました。なぜかというと、もしもそのような敵が革命軍が2万名もいれば、王は実は無防備だという事です。憲法上保障されている近衛兵たちが、実は無断で解体させられていたからです。
そのような時に国民は何をしたでしょうか?
まず王がこう言います。
「反逆者らの威嚇や罵倒に対して、国王は公に対する愛と良心だけで向かい合う。反逆者がどこまでするかを王は知らない。しかし、フランス国民に対して、次の事を言う義務がある。どれほどの暴力が発揮されても、どれほどの過剰な行為に追い詰められたとしても、公に反対するような事に、私国王が同意する事は一切ないし、させない。」
「フランス国民の世襲上の代表者として、国王は果たすべき厳格な義務を持ち、王は自分の安全を犠牲にする事はできても、国王の義務を犠牲にする事は一切できない。」
「当局が陥っている危機の中で、王は最後まで毅然とした態度と、勇敢の模範を、全ての当局に与える意思である。したがって王は、あらゆる行政上の機関と市町村に、人々の、国民の財産の安全が保証されるように命令する。」
この書簡を発表すると、全地方から国王の支持がありました。
またパリの市民は1万6千人の請願書にサインをして、それを16の公証人に提出します。それでこの撤回の為のこの反乱に対して、国民は、はっきりとして声を上げて、「この撤回を私たちは受け入れない!国王の拒否権を支持する!」と、フランス全国民は表明しました。
ところがこの請願書の提出の2ヶ月後、これにサインをした全ての人々は、公民権が剥奪されて、そしてこの「苦情を言い出した」という意味で、公的な地位に就く事ができなくなり、無能力者として宣言されました。これが国民の名においてなされました。
次に、国民の声はとうやって革命政府に届くように組織されたでしょうか?パリの住民たちは48の地域があって、それは48の小教区でした。その地区では、会長、副会長と、数人の秘書がいます。「国民の声がよく聞こえるように、革命政府は組織した」と言います。
具体的にどういう風に運行するかと言うと、一人が動議を打ち出します。すると、集会はその動議を採決して、一人の役人を任命して、次の地区に同じ動議を運んで、別の地区でも同じ事をします。午後の8時頃、このように動議が打ち出されて、真夜中にこの地域を回って、翌朝国会に届きます。しかしその間は普通は、普通の人は、夜寝てますので、特殊な人しか夜中に起きてはいません。このようにして、「国民の名」によって、「国民の希望」が国会に届けられました。
一般の人々の働いている、あるいは寝ている間に、審議が進められます。例えばこのようにして、王を倒す準備が進められました。
8月4日、Saint-Jacques de l'hôpital教会という所で、次の議事録を残しています。
「600名以上の市民が集まって、祖国の危険について審議したルイ16世が、国民の信頼を失ったという事を考慮して、国家機関は世論によってのみ権力を持ち、この世論を表明する為に、全市民の厳格な神聖な義務を果たす為に、この残酷な王の廃位を宣言する為に団結する」と宣言しました。
そして「8月9日までに王が退位されないなら、周囲の二つの町の革命家が、教会の鐘を鳴らして、大衆を動員して、王の住んでいるチュイルリー宮殿を進撃する」と言います。
ところが、あるその中のこの地区にいたある人たちが、「それは違憲だ!」と言いました。また、なぜかというと、欠席者がいたにも関わらず、欠席者のサインがされて、採決されたからです。それ、この人は怒って、「これは違法だ!!」と言います。
でも、何のためらいもなく、そのまま通ってしまいました。インチキで通ってしまいました。「国民の名」において通ってしまいました。
1792年8月10日、王は倒れます。パリコミューンの専制政治が始まります。
実はその前に、1638年2月10日ルイ13世は、つまりルイ16世の先祖は、フランス国を聖母マリア様に奉献しています。そしてルイ13世の願いによって、「毎年8月15日には、聖母の行列をする。フランスのマリア様に対する奉献を更新する」という決定を勅令を出しています。
ところが、パリコミューンでたった一人の市民が、「これをもうやめよう」と言ったので、このマリア様の行列は廃止されました。国民の名前によって。
殺人と暴動によって権力を牛耳るようになったパリコミューン、これが「国民の声」になりました。「国民の声」というのは実は、「革命者の声」の事でした。一人の声であっても、革命者の声であれば、国民の声になりました。
何万人いても、何千万人いても、革命者の言う通りでなければ、国民の声にはなりませんでした。
1792年8月11日、王様が亡くなると、次々に牢屋が満たされました。多くの王党派の人々が牢屋に入ってきました。逮捕されました。
9月2日には、牢屋はもういっぱいになり、入れる所がないので、ギロチンで虐殺をしなければなりません。牢屋の子供たちと女性たちを含めて、1500人の民間人の囚人が、刃物で殺されます。虐殺されます。国民護衛隊はそのすぐ近くに配属されていましたけれども、何も守りませんでした。殺し屋たちが革命政府からお金をもらって虐殺をしました。
虐殺中止を訴えた全ての試みは、失敗に終わりました。地区の議員の一人のマンダール(Mandar)という人と、新聞記者のプルドン(Prudhomme)という人は、虐殺を止めるように、ロベスピエール(Robespierre)とダントン(Danton)に説得しようとします。しかし5人の殺し屋は血まみれの姿で、パリ市長と大臣の前に現れて、そして「牢屋にいる80人の囚人を処分しなければならない」と言うのです。するとパリ市長は、「じゃあ頑張れ」と言って酒を飲ませます。こうやって虐殺は「国民の名」において遂行されました。
ロベスピエールは後にこう言います、「これは国民運動だった。同類の殺害の為に買収された数人の悪党による反乱だった、と愚かにも想定されたけれども、そうではない。」
でもそれは嘘です。私たちは今、歴史の資料によって、誰が殺したかその名前も知っているし、幾ら貰ったかという事も分かっています。領収書もあります。
虐殺の間に、本当のフランス国民は恐怖によって麻痺していました。町では多くの血が流れていました。殺し屋の名前も、住所も、職業も、サインも、確認されています。国民たちはそれでも抵抗しようとしましたが、何もされませんでした。「国民の名」において。
そのような血が流れて恐ろしい時に、国民公会という議会が開かれます。これは8月10日に制定されました。
「女性を除いて、二十一歳以上のフランス人の皆に投票権がある」とします。まず集会が選挙人を任命して、選挙人が議員を選びます。この恐怖に包まれた空気で開かれます。パリは閉鎖されています。パリを出るには通行証が必要でした。
この選挙の集会は、このように行なわれました。まず、名前が出ます。
「〇〇はいるか!?」
「はい!ここにいます!」
「誰に投票するか!?」
「〇〇です!」
皆の前で、公開の投票をしなければなりません。匿名投票という権利はありませんでした。威嚇、脅しが待っていました。「恐怖」というのは言葉だけではなくて、町では大量の血が流されています。
では一体、このような恐れおののく人々は、誰が誰を投票するのでしょうか?
まず90%が棄権しました。恐ろしくて。投票権のある700万(男性だけです)の内、70万人しか投票しませんでした。ですからこれは、国民の5%です。国会は749人の議員から構成されて、人口の半分のうちの1割を、つまり5%を代表した人々が選ばれました。
ところで、共和国は9月21日に全員一致で宣言されますが、フランス共和国を宣言した時にいたのは、200人しかいませんでした、議員は。なぜかというと、そのフランス共和国を宣言した時に、他の議員たちはまだ議会に到着していなかったからです。つまり1/4の議員で、フランス共和国が成立しました。
これの1/4という事は、この200人というのは、人口の半分の1割の1/4なので、投票可能年齢のフランス人の人口の0.01%でしかありませんでした。ですからこの法律上を見ると、フランス共和国の、最初の共和国の宣言は全く違法でした。恐怖の圧力を受けて束縛されていた200人の議員が、「国民の名」において、12世紀続いた君主制を廃止しました。国民の名前において。
国王は最後に国民に呼びかけをして、「国民の皆さんからの声を聞きたい」という発言をします。動義を発動します。でもそれは拒否されました。国民の名において。
長くなるので最後に1つ、この話をさせて下さい。
リヨンにはその当時、15万人の住民が住んでいました。ところでリヨンの市長は革命家のお友達で、革命家の真似をしようとします。そこでリヨン市長はパリと同じような虐殺を企んで、貴族の200人の容疑者の名簿が作られます。
ところが国民護衛隊が動いて、計画遂行を妨げて、虐殺は実行されませんでした。ただ3人の公務員と、4名のカトリック司祭が、寝ている間に捕まえられて殺されるだけでした。国民護衛隊は彼らを救う事ができませんでした。
でも殺し屋たちは、この殺された人たちの頭を上げて町を行進します。そして王の死刑執行要求請願書を強制的に通させようとします。でもリヨンの人たちは抵抗します。市民選挙が行なわれるのです。しかし皆が棄権するので、結局革命家が絶対多数を占めるようになりました。
そこでその時を同じくして、パリでは国民公会で新しい人権宣言が選択されて、「政府が人民の権利を侵害する時は、反乱が、人民にとって最も神聖な権利であり、最も欠くべからざる義務である」と宣言がされていました。
リヨンではこの人権宣言のその直後、自分たちを圧迫する市長に対して、蜂起します。自分たちを殺そうとする反逆者たちに、皆が住民を守って、リヨンらしい市長や役人を取り戻そうとします。蜂起した人たちは、革命家や市長たちを逮捕します。そして市民たちの一致の元で、この元革命家のリヨン市長シャリエ(Chalier)という人は裁かれて、判決が行なわれます。
リヨンの人々は一致して、「革命は嫌だ!」と言いました。ところがパリの国民公会は、「リヨンに対して弾圧を加えるべきだ!」と宣言して、リヨンの市役所と公務員を全員罷免します。正当な選挙によって選ばれたはずなのに、反逆者として罷免されます。
そしてリヨンに軍隊が送られます。ケレルマン(Kellerman)という将軍が率いる革命軍が、リヨンを包囲します。リヨンに対して宣戦布告をして、降伏を要求します、「リヨンの住民たちよ!国民公会の命令に従って、リヨンにおいて共和国的な秩序を取り戻す為に、我々は諸君の前にいる。共和国に忠誠する軍隊と共にいる。兵士たちは全員、独裁者たちの死を待っている。」
「我々は諸君の解放者である。貴族によって閉じ込められた愛国者たちを解放に来た。ヴァンデの反撃者たちの道を歩むな!」
こうやって、リヨンに対して大砲が打たれました。40日間、大砲の着弾は1日当たり、1万6千200でした。
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リヨンの革命軍の指揮官の次の手紙があります、「この都市には12万人います。そのうち愛国者(つまり革命支持者)は1500人すら、殺さなくて済む1500人すらいません。」リヨンの住民の99%を絶滅する事が要求されています。
つまり、「革命を支持するリヨンの国民は1%もいなかった、99%が革命を拒否していた」という事です。
しかし、午後4時から翌朝8時まで砲撃が続きます。リヨンの人々は対抗します。リヨンの人たちが抵抗するので、何日も何日も何十日も抵抗するので、国民公会の代議者がこれを見て怒って、「リヨンの死体を全て放置せよ!腐ってペスト、疫病が発生するのに任せよ!」と命令します。「捕虜を捕ってはいけない!その場で虐殺せよ!」
8月10日から始まった攻撃は、9月7日8日の夜、そしてその翌日の夜も、爆弾500弾、焼夷弾1000発がリヨンに着弾します。9月の9日から21日まで、攻撃は休まずに継続します。9月の末には、リヨンは食料不足になるので、リヨンの香水の製造に使われる脂肪で雑草を焼いて食べたほどでした。飢餓が始まります。
こうして10月8日、リヨンは降伏します。
すると、反逆したこの都市に対する鎮圧が開始して、まず住民たちは家から追い出されて、全ての財産が没収されます。略奪、殺人、ギロチン、強姦、まだ人が住んでいるにも関わらず、家は破壊されます。
「共和国の為に何もしない消極的な者を、誰であれ罰しないわけにはいかない。」
「国民とその敵との間に、剣以外には共通点は無い。正義を以て統一されない人々は、剣を以て統治すべきだ。」
「リヨンという名前は、共和国の都市のリストから消される。リヨンの廃墟の上に記念碑を立てよ。次の碑文を刻め、『リヨンは自由に敵対して戦った。リヨンはもう存在しない。』そこでは貧困者の家と、人類の教育の為の家しか残らないだろう。」
革命軍の兵士を民間人の家に駐屯させて、夫はギロチンにかけ、その妻と娘たちは思うままに利用されました。リヨンの美しい広場の美しい建物も破壊されました。まだ建物に住んでいて財産を守ろうとしながら、その途中でも建物は壊されます。解体する人たちは「共和国万歳!!」と叫ぶ中、住んでいた人たちは瓦礫と共に窓から落ちます。
このリヨンの破壊、解体作業は半年続きます。多くの略奪がありました。殺人がありました。犯罪がありました。解体の作業員には2万人使われました。大砲も使われました。
若者たちは、そのリヨンの平野で銃殺されたり、刃物でトドメが刺されたりしました。その若者たちの嫁や、母親や、姉妹たちは、革命裁判所に喪服のベールをかぶって容赦を願いますが、彼らを大砲で威嚇して追い払い、そしてリヨンでは女性たちの集会は禁止されます。禁止令を無視して集まっていた女性は捕まえられて、死刑執行され、ギロチンの柱に6時間ほど縛られて辱めを受けます。総計1万7千ほど死刑されて、この中には4歳から7歳までの乳児や犬もいました。証人として一羽のオウムを聞いた裁判もありました。
そうしてリヨンの住民は、15万人から8万以下になりました。
「国民の名前」において、「国民の皆の幸せの為」に。
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以上のようなことをマリオン・シゴーさんは話してくれました。まだそれ以外にもありました。
このような惨事を正当化する理由は、「国民の幸せの為」でした。国民の名において、人口が削減されて、憐れみもなく、全て殺されていきました。
「恐怖から虐殺」という連鎖において、革命家たちは二度も「国民の主権と圧制への抵抗権」というものを宣言します。
でも結局は革命家は、自分の意見に抵抗する人たちを全て排除し続けます。国民に対する犯罪は全て、国民の名によって実行されました。
これがフランス革命で一体何が起こったかのほんの一部です。
では、何故フランス革命が起こったのか、それについては今すぐ話をする事はできないので、また後の機会に致しましょう。
最後に、ルイ16世は、愛徳深く、全ての苦しみを耐え忍んだのです。このフランス王のプリンス王子ルイ17世には、革命家が、その教育のために、娼婦を与えて、非常に虐待を受けて、亡くなっています。
このマリオン・シゴーという人も、元々はフランスの歴史の教科書のまま、そのままを信じていたのですけれども、歴史家で勉強して、勉強して、回心して、それで「実は、フランスのその革命というのは、革命家が嘘で固めたものを皆聞かされているのだけれども、本当の姿は、本当は違う」という事を今、歴史の資料を基に実証して、「これが事実だ」という事を、淡々と求めているという、今すごい研究が進んでいるのです。
それで、「私たちが聞かされていた歴史」というのは、実は「革命家が作り上げた歴史の話」であって、本当の話ではなかったのです。
この王様の生活が良くなかったとか、王様が残酷だったとかというのは、王様が人民を圧政したというのは全く嘘で、非常に責任感があって、「王の責務を、どんなに犠牲があっても果たす」という、この最後まで、フランスの皆の善と、皆の公安を考えていたのは、王しかいなかったのです。
そして革命家は、自分たちの事と、革命する事しか考えていなくて、全てを破壊して、殺してしまうことしか考えませんでした。
ありがとうございます。