アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛するM君、お元気ですか?
「O神父様によるセデヴァカンティズム批判論駁 第三回」を拝見させていただきました。
M君(Veritas liberabit vos!さん、と呼ぶのは、あまりによそよそしいので、いつものように霊名で呼びます)も忙しい中を書いてくれているので、私もできる限り時間を見つけて、体力の許す限りお返事をしようと思います。
M君によると、今現在、バチカンで教皇として世界中で認識されている人(つまり教皇フランシスコ)を教皇と認めることが「似非カトリック教会のメンバーと化す」ことであって、
彼を教皇ではないと個人的に判断することが、「真のカトリック教会へと方向転換」することだと主張していますね。
私の理解が正しければ、M君にとって、二つの点が問題になっているようです。
(1)なぜO神父は、「荘厳/特別教導権」にも「普遍通常教導権」に属さない、教導権の第三レベルである「正統[ママ]教導権(Authentic Magisterium)」のことに言及しないのか。例えこの教導権が不可謬性を有していないとしても、キリストの権威を有する性質上、カトリック教皇は、それを教える際「霊魂にとって有害な」発言や命令を公布する事が出来ないはずだ。何故言及を避けたのか?知りながらそれに言及しなかったとすれば、それは聖ピオ十世会の過ちを隠蔽する為だ。
(2)O神父が『教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているからです』と主張するなら、主張を擁護する歴史上の例をいくつか挙げるべきだった。しかし、例を挙げないのは、そうすることが出来ないからだ。何故なら『キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布する事など不可能』だからだ。教皇の教えは、荘厳教導権以外では、全て「正統[ママ]教導権」であり、その教えは不完全であり得ても、決して霊魂を害する教えであり得えない。
【回答】
(1)の点については、Authentic Magisteriumについては、「第2バチカン公会議とは --- 第2バチカン公会議の権威 --- 」という論文の要旨を日本語にした時に、言及しました。ただし authentic(正真正銘・真正の)は、orthodox(正統の)という言葉を区別するために、「正真の(authenticum)教導職」と訳しました。
例えば、福者の列福がこれにあたります。そのとき、これに敬虔な同意(assensus relisiosus)をする必要があります。(Thesis 15. Salaverri, Sacrae Theologiae Summa, Tomus I: Theologia Fundamentalis, Madrid, BAC, 1962, p. 705)
「正真の(authenticum)教導権」には、敬虔な同意(assensus relisiosus)が求められますが、信仰(fides)ではありません。
信仰は対神徳で、信仰の同意(assent of faith)は絶対的です。
敬虔な同意(religious assent)は、従順の徳に属するもので倫理徳です。つまり、やり過ぎと欠如との間の中庸に成立する徳です。つまり、絶対的でもなければ無条件でもありません。
正真の教導者、つまり、教会において本当の権威を持っている者(すなわち教える権利と義務を持つ当局)が、自分が持っている権威の充満を行使せずに(つまり厳格な決定的な判断を下すことを意図せずに)、教える職務を行使する時、敬虔な同意が求められます。ただし、「敬虔な同意」という「従順の徳」だけです。
たとえば、第二バチカン公会議について、どのような「同意」が求められているか、と言う質問に、第二バチカン公会議の事務総長であったフェリチ枢機卿はこう言いました。
「第二バチカン公会議は、司牧公会議であり、教義決定の公会議ではないので、不可謬の公会議ではありません。総会の終わりに私たちはフェリチ大司教にこう質問しました。「神学者たちが公会議の "神学的性格" と呼んでいるものを私たちに与えてくれることができないでしょうか?」
フェリチ大司教はこう答えました。「過去、既に教義的に定義の対象になったものを、草案や章ごとに従って、区別しなければなりません。ところで、新しい性格を持った宣言については、私たちは留保しなければなりません。」
(ルフェーブル大司教「教会がどうなってしまったか分からなくなってしまったカトリック信徒たちへの手紙」第14章)
A non-dogmatic, pastoral council is not a recipe for infallibility. When, at the end of the sessions, we asked Cardinal Felici, “Can you not give us what the theologians call the ‘theological note of the Council?’” He replied, “We have to distinguish according to the schemas and the chapters those which have already been the subject of dogmatic definitions in the past; as for the declarations which have a novel character, we have to make reservations.”
(Open letter chapt 14)
(2)については、『キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布』した例として、ヨハネ二十二世、ホノリウスを挙げます。
ここでは、以上、簡単に回答をするにとどめます。
「正真な教導権」が、教皇が誤りを教えることが出来るか否かについて、何を教えていたか、について
また、
教皇ヨハネ二十二世、教皇ホノリウスの例について、
などについては、時を改めて、詳しくご紹介いたします。
さらに「真正な教導権」についても、将来、紹介する予定です。
最後に、M君は、聖アルフォンソ・デ・リゴリオの言葉を引用していますね。
『もし何時の日か教皇が、個人として、異端に陥るとしたら、彼は直ちに教皇職から転落するだろう。しかしながら、もし悪名高く反抗的な異端者となる事を神が教皇に許す事となれば、彼はこの様な事実によって(自動的に)教皇ではなくなり、使徒座は空位となるだろう。』
“If ever a Pope, as a private person, should fall into heresy, he should at once fall from the Pontificate. If, however, God were to permit a pope to become a notorious and contumacious heretic, he would by such fact cease to be pope, and the apostolic chair would be vacant.”
これを見て、M君らしくないなと思いました。何故なら、
(1)聖アルフォンソのどの本の何ページから引用したのか、出典を出さないで引用しているから。
(2)「キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布する事など不可能」と主張しておきながら、いきなり、「キリストの権威を有する教皇が、個人としてという形式で、異端に陥るなら」という可能性について話しているから。
M君は、教皇が、個人として、異端に陥ることが出来ると考えているのだろうか?
それとも、教皇は、個人としても、異端に陥ることは出来ないと考えているのだろうか?
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
Pope John XXII : Photo Credit
愛するM君、お元気ですか?
「O神父様によるセデヴァカンティズム批判論駁 第三回」を拝見させていただきました。
M君(Veritas liberabit vos!さん、と呼ぶのは、あまりによそよそしいので、いつものように霊名で呼びます)も忙しい中を書いてくれているので、私もできる限り時間を見つけて、体力の許す限りお返事をしようと思います。
M君によると、今現在、バチカンで教皇として世界中で認識されている人(つまり教皇フランシスコ)を教皇と認めることが「似非カトリック教会のメンバーと化す」ことであって、
彼を教皇ではないと個人的に判断することが、「真のカトリック教会へと方向転換」することだと主張していますね。
私の理解が正しければ、M君にとって、二つの点が問題になっているようです。
(1)なぜO神父は、「荘厳/特別教導権」にも「普遍通常教導権」に属さない、教導権の第三レベルである「正統[ママ]教導権(Authentic Magisterium)」のことに言及しないのか。例えこの教導権が不可謬性を有していないとしても、キリストの権威を有する性質上、カトリック教皇は、それを教える際「霊魂にとって有害な」発言や命令を公布する事が出来ないはずだ。何故言及を避けたのか?知りながらそれに言及しなかったとすれば、それは聖ピオ十世会の過ちを隠蔽する為だ。
(2)O神父が『教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているからです』と主張するなら、主張を擁護する歴史上の例をいくつか挙げるべきだった。しかし、例を挙げないのは、そうすることが出来ないからだ。何故なら『キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布する事など不可能』だからだ。教皇の教えは、荘厳教導権以外では、全て「正統[ママ]教導権」であり、その教えは不完全であり得ても、決して霊魂を害する教えであり得えない。
【回答】
(1)の点については、Authentic Magisteriumについては、「第2バチカン公会議とは --- 第2バチカン公会議の権威 --- 」という論文の要旨を日本語にした時に、言及しました。ただし authentic(正真正銘・真正の)は、orthodox(正統の)という言葉を区別するために、「正真の(authenticum)教導職」と訳しました。
例えば、福者の列福がこれにあたります。そのとき、これに敬虔な同意(assensus relisiosus)をする必要があります。(Thesis 15. Salaverri, Sacrae Theologiae Summa, Tomus I: Theologia Fundamentalis, Madrid, BAC, 1962, p. 705)
「正真の(authenticum)教導権」には、敬虔な同意(assensus relisiosus)が求められますが、信仰(fides)ではありません。
信仰は対神徳で、信仰の同意(assent of faith)は絶対的です。
敬虔な同意(religious assent)は、従順の徳に属するもので倫理徳です。つまり、やり過ぎと欠如との間の中庸に成立する徳です。つまり、絶対的でもなければ無条件でもありません。
正真の教導者、つまり、教会において本当の権威を持っている者(すなわち教える権利と義務を持つ当局)が、自分が持っている権威の充満を行使せずに(つまり厳格な決定的な判断を下すことを意図せずに)、教える職務を行使する時、敬虔な同意が求められます。ただし、「敬虔な同意」という「従順の徳」だけです。
たとえば、第二バチカン公会議について、どのような「同意」が求められているか、と言う質問に、第二バチカン公会議の事務総長であったフェリチ枢機卿はこう言いました。
「第二バチカン公会議は、司牧公会議であり、教義決定の公会議ではないので、不可謬の公会議ではありません。総会の終わりに私たちはフェリチ大司教にこう質問しました。「神学者たちが公会議の "神学的性格" と呼んでいるものを私たちに与えてくれることができないでしょうか?」
フェリチ大司教はこう答えました。「過去、既に教義的に定義の対象になったものを、草案や章ごとに従って、区別しなければなりません。ところで、新しい性格を持った宣言については、私たちは留保しなければなりません。」
(ルフェーブル大司教「教会がどうなってしまったか分からなくなってしまったカトリック信徒たちへの手紙」第14章)
A non-dogmatic, pastoral council is not a recipe for infallibility. When, at the end of the sessions, we asked Cardinal Felici, “Can you not give us what the theologians call the ‘theological note of the Council?’” He replied, “We have to distinguish according to the schemas and the chapters those which have already been the subject of dogmatic definitions in the past; as for the declarations which have a novel character, we have to make reservations.”
(Open letter chapt 14)
(2)については、『キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布』した例として、ヨハネ二十二世、ホノリウスを挙げます。
ここでは、以上、簡単に回答をするにとどめます。
「正真な教導権」が、教皇が誤りを教えることが出来るか否かについて、何を教えていたか、について
また、
教皇ヨハネ二十二世、教皇ホノリウスの例について、
などについては、時を改めて、詳しくご紹介いたします。
さらに「真正な教導権」についても、将来、紹介する予定です。
最後に、M君は、聖アルフォンソ・デ・リゴリオの言葉を引用していますね。
『もし何時の日か教皇が、個人として、異端に陥るとしたら、彼は直ちに教皇職から転落するだろう。しかしながら、もし悪名高く反抗的な異端者となる事を神が教皇に許す事となれば、彼はこの様な事実によって(自動的に)教皇ではなくなり、使徒座は空位となるだろう。』
“If ever a Pope, as a private person, should fall into heresy, he should at once fall from the Pontificate. If, however, God were to permit a pope to become a notorious and contumacious heretic, he would by such fact cease to be pope, and the apostolic chair would be vacant.”
これを見て、M君らしくないなと思いました。何故なら、
(1)聖アルフォンソのどの本の何ページから引用したのか、出典を出さないで引用しているから。
(2)「キリストの権威を有する教皇には、どんな形式であれ、霊魂にとって有害な教えを公布する事など不可能」と主張しておきながら、いきなり、「キリストの権威を有する教皇が、個人としてという形式で、異端に陥るなら」という可能性について話しているから。
M君は、教皇が、個人として、異端に陥ることが出来ると考えているのだろうか?
それとも、教皇は、個人としても、異端に陥ることは出来ないと考えているのだろうか?
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
Pope John XXII : Photo Credit