2019年8月4日(主日)聖霊降臨後第8主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年8月4日、聖霊降臨後第8主日で、今日は8月の第1主日ですので、ミサの後に御聖体降福式を行ないたいと思います。
特にこの御聖体降福式を、来たる教皇様の来日の為にも、多くの日本の方々が、イエズス様の福音を知るきっかけになりますように、お祈り致しましょう。教皇様の訪問が、霊的に実りのあるものとなりますように、お祈り致しましょう
次のミサは8月18日、2週間後の主日です。
明日も7時からミサがあります。
それから、嬉しいニュースがあります。皆さんのお祈りをお願いした私たちの姉妹の一人が、無事に赤ちゃん女の子を産みました。お母さんも赤ちゃんも元気です。ただそのお母さんと赤ちゃんは、大事をとってミサに与る事ができません、家に居てお祈りしています。
皆さんのお祈りをお願いします。予定としては、赤ちゃんの方に私の方で向かって、今日洗礼を授けます。
明日は夕方に岩国に行って、やはり海兵隊の赤ちゃんが生まれたという事で、その洗礼式があります。お祈り下さい。
「お前は一体何をしたのか?さぁ、計算書を出しなさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、教会の典礼ではそろそろ、「世の終わり」について、「私たちの死」について準備をさせる時がやってきました。
これから教会のテーマは、主日のテーマは、「私たちの死の準備」、あるいは「世の終わり」について語られる事が非常に頻繁になります。
そこで今日は、私たちの主が仰って下さった、この今日の例えを黙想致しましょう。
⑴一体教父たちは何を、これから私たちに教えようとしているか?と、解説しているか?
⑵その解説を敷衍して、その私たちは一体どんな事が考えられるだろうか?黙想を深めてみます。
⑶そしてその黙想の結果、私たちはまさに身近に、そのように教えられた通りに、イエズス様の教えられた通りに生きた模範を示した方々がいるのではないか?という事を提示して、
⑷そして遷善の決心を取る事に致しましょう。
⑴イエズス様は言います「お前について何か変な噂を聞いている。書類が合わない。さぁ書類を出せ。3年間ぐらいお前と話をしようとしているのに、お前は『話をしたくない』と言って、のらりくらりとしているのじゃないか。さぁ早く、何とかお前に渡したものがどうなっているか、説明しなさい。そうしないと、あなたは管理人としてやっていけなくなるよ」と言われた、という話が載っています。
するとその管理人は、ずるをするのです。
「自分は穴を掘る事もできないし、乞食もできないし、肉体労働もできないし、何もできない。じゃあどうしたら良いだろうか?」
そして不正を働き、するとその雇人の主人は、この不正を働いた管理人の事を褒めるのです、「彼は賢明に行なった」と。
え!?一体私たちは、この「主が、何でこの彼の事を褒めたのか」を、まず考察しましょう。
そして、教父たちはこの話について、「主が教えようとした事は何か」と見てみます。すると「2つ」、教父たちは「注意しなければならない」と言います。
「私たちの主が褒めたのは、この不正な事を褒めたのではなくて、賢明だったから褒めた。自分の将来を準備したから褒めた。その場限りの、刹那的に、それだけで終わって、それで良いのではなくて、自分の持てる能力を、今与えられたその機会を使って、自分のより良い将来を準備した。」
その「賢明さ」を褒めました。
そして教父たちが、「もう一つ注意しなければならない」と言う事があります。
「『不正の富を使って、友人を作れ』という事はどういう事かと言うと、不正に富を稼いで、という事ではなくて、富はよく不正の為に使われるけれども、しかしその富を善用し、善の為に使って、天国の友人を作れ。」ということだ。
教父たちは私たちに、「特に私たちの持っている財産を、善の為に使う事によって、特に貧しい人や、あるいは教会や、その他の為に、その持てる富を善用する事によって、私たちは天に徳を積む事ができる」と言っています。
⑵では私たちはその、この事を見て、お金の話とか富の話だけなのでしょうか?教会にたくさん献金すれば、それで良いのでしょうか?
更に私はこう思います。教会は今、私たちの死の準備をさせようとしているので、私たちが持っているのはポケットマネーだけではありません。私たちが持っているのは、「才能」であったり、「時間」であったり、あるいは私たちの何か、「持てる何らかの力」というものがあります。それはともすると、お金と同じように、悪の為に使われているのではないでしょうか。
せっかくイエズス様から与えられた大切な時間、この大切な時間を使って、本当ならば私たちの救霊の為に役立つようなものの為に使ったり、あるいは高度な科学技術の製品を作ったり、あるいは何か善の為に使う事ができるのですけれども、しかしもしかしたら、私たちがせっかく頂いた時間は、悪魔の為にその時間を横流ししてしまったり、悪魔の罠にかかって、その大切な時間を下らない事に、あるいは罪の為に使ってしまったり、自分の持てる健康や、あるいは能力を、霊魂の為ではなく、霊魂の敵の為に使ってしまったり、あるいはその他の為に、イエズス様から「ちゃんとこの為に使います」と言ってもらった以外の為に使ったりして、私たちは無駄に、与えられた能力、あるいはその受けた御恵みを乱用をしているのではないでしょうか。
そうすればイエズス様から、「あ、お前の為にこれだけの時間を与えたのにも関わらず、お前は私に返してくれたのはたったこれだけか。」
「え!?」
「お前は30年、この私の為に使う為に与えたのに、私の為には、ほんの一日、正確には5時間3分だ。他の時間はどうなったのか?」
もしも会社の社長が、あるいは日本の政府が、色々な輸出を管理し、色々なものについて管理を厳しくしているとしたら、イエズス様は私たちに対してどのような管理を要求されるでしょうか。「お前の時間の使い方については、お前の能力の使い方については、お前のやり方については、あれだけ与えたにも関わらず、どうもおかしいんじゃないか。さぁ、計算書を出してくれ。一体どのように使ったのか?どのように人生送ったのか?さぁ。」
ちょうど聖パウロは言っています、「私たちには負債がある。」“Debitores sumus non carni.”
しかし肉ではなく、肉にしたがって生きるための、肉に対する負債をおってはいない。もしも肉の通りに生きるならば、私たちは死ぬだろう。
しかし霊によって、肉を殺して生きるならば、つまり天主の子として生きるならば、生きるだろう。私たちはもはや肉の借金ではなくて、天主のもとにあるものとして、天主から受けたものを天主に返す為にある者であって、もしもそうするならば、私たちは天主の子供となる、天主の遺産の相続人となる。そしてキリストと共に共同相続人になる」と言っています。
私たちが与えられたこのものは、全ては、主から頂いたものですから、これをその主の為に使う、それこそが私たちの喜びであり、特権であり、将来への糧です、将来への証です、将来への保証となります。
主日にミサに与る事ができるというのも、何という特権であり、何という喜びであるでしょうか。
もしも「義務である」とか「負債である」と考えると、沈んでしまうかもしれませんが、しかしよく考えると、私たちにとってミサ聖祭に与ることができるという事は、素晴らしい特権です。
“Suscepimus, Deus, misericordiam tuam in medio templi.”
「私たちは主の祭壇のど真ん中で、憐れみを受けた。そして私たちは憐れみを受けている。」
⑶日本の殉教者聖堂に集まる皆さんは是非、「そのような方々が日本にたくさんいた」
という事を是非知って下さい。
日本で殉教を受けていた方は、わざと緩く柱に縛られていました。そして火で燃え上がらないように、火は周りにありました、遠くにありました、そして煙によって苦しむように。そしてもしも機会があれば、逃げる事ができるようになっていました。そして逃げようと思えば、逃げる事ができました。
しかしそうする事は、これは背教だったのです。「イエズス様を捨てた」という印だったのです。その為に、多くの何千という人々は、私たちの先祖は、煙の中でそのまま留まって、殉教していきました。
穴吊るしというのもあります。水攻めというのもあります。水攻めというのは、たくさん水を飲まされてブクブクにして、うつ伏せにされて、お腹をドンドンと叩いて、わざと吐かせる。血と水が吐かされた。
あるいは竹の棒を、尖った棒を指に刺した、爪の間に刺した。あるいは雲仙の硫黄を、傷付いた肌にかけた。燃える灼熱のお湯に浸かせた。あるいは逆さ吊りに吊るして、何日も何日も縛って、穴吊りにした。
それを耐えた、聖歌を歌いながら耐えた、という殉教者がたくさんいます。
そしてその殉教者の頂点に立つのが、殉教者の元后である童貞マリア様です。私たちはそのマリア様の被昇天を、あと10日で祝います。マリア様の栄光、マリア様のその美しさ、マリア様の持てる永遠の若さ、マリア様の忠誠、忠実、マリア様のそのそれは天使の、何千何万何億の天使をはるかに超えて、燦然と輝いています。
なぜでしょうか?イエズス様はマリア様についてこう言うでしょう、マリア様を誉め讃えて、「なぜならば、マリア様は賢明に生きたから。私たちは主がいなければ生きる事ができない。だから主の御旨のままに生きた。霊に従って生きた。天主の娘として生きた。霊によって、肉の負債を殺して生きた。」
ですからマリア様は誉め讃えられています。そして多くの殉教者と共に、この主の憐れみを讃美しているに違いありません。
⑷では愛する兄弟の皆さん、私たちもマリア様に、日本の殉教者に、乞い願いましょう。いつか私たちは主に会計報告をしなければならない日が来ます。
その時には慌てずに「主よ、ここにあります」と。「御身から頂いた者を、つたないながら、お恵みで、御身のために使わせていただきました。」
そしてその時に、私たちの為にと取り次いで下さる多くの友達を、天国に作っておきましょう。多くの祈りと多くの犠牲を、天国に積んでおきましょう。
「では、計算書を出せ。私はお前の事を雇っておく事はできない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年8月4日、聖霊降臨後第8主日で、今日は8月の第1主日ですので、ミサの後に御聖体降福式を行ないたいと思います。
特にこの御聖体降福式を、来たる教皇様の来日の為にも、多くの日本の方々が、イエズス様の福音を知るきっかけになりますように、お祈り致しましょう。教皇様の訪問が、霊的に実りのあるものとなりますように、お祈り致しましょう
次のミサは8月18日、2週間後の主日です。
明日も7時からミサがあります。
それから、嬉しいニュースがあります。皆さんのお祈りをお願いした私たちの姉妹の一人が、無事に赤ちゃん女の子を産みました。お母さんも赤ちゃんも元気です。ただそのお母さんと赤ちゃんは、大事をとってミサに与る事ができません、家に居てお祈りしています。
皆さんのお祈りをお願いします。予定としては、赤ちゃんの方に私の方で向かって、今日洗礼を授けます。
明日は夕方に岩国に行って、やはり海兵隊の赤ちゃんが生まれたという事で、その洗礼式があります。お祈り下さい。
「お前は一体何をしたのか?さぁ、計算書を出しなさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、教会の典礼ではそろそろ、「世の終わり」について、「私たちの死」について準備をさせる時がやってきました。
これから教会のテーマは、主日のテーマは、「私たちの死の準備」、あるいは「世の終わり」について語られる事が非常に頻繁になります。
そこで今日は、私たちの主が仰って下さった、この今日の例えを黙想致しましょう。
⑴一体教父たちは何を、これから私たちに教えようとしているか?と、解説しているか?
⑵その解説を敷衍して、その私たちは一体どんな事が考えられるだろうか?黙想を深めてみます。
⑶そしてその黙想の結果、私たちはまさに身近に、そのように教えられた通りに、イエズス様の教えられた通りに生きた模範を示した方々がいるのではないか?という事を提示して、
⑷そして遷善の決心を取る事に致しましょう。
⑴イエズス様は言います「お前について何か変な噂を聞いている。書類が合わない。さぁ書類を出せ。3年間ぐらいお前と話をしようとしているのに、お前は『話をしたくない』と言って、のらりくらりとしているのじゃないか。さぁ早く、何とかお前に渡したものがどうなっているか、説明しなさい。そうしないと、あなたは管理人としてやっていけなくなるよ」と言われた、という話が載っています。
するとその管理人は、ずるをするのです。
「自分は穴を掘る事もできないし、乞食もできないし、肉体労働もできないし、何もできない。じゃあどうしたら良いだろうか?」
そして不正を働き、するとその雇人の主人は、この不正を働いた管理人の事を褒めるのです、「彼は賢明に行なった」と。
え!?一体私たちは、この「主が、何でこの彼の事を褒めたのか」を、まず考察しましょう。
そして、教父たちはこの話について、「主が教えようとした事は何か」と見てみます。すると「2つ」、教父たちは「注意しなければならない」と言います。
「私たちの主が褒めたのは、この不正な事を褒めたのではなくて、賢明だったから褒めた。自分の将来を準備したから褒めた。その場限りの、刹那的に、それだけで終わって、それで良いのではなくて、自分の持てる能力を、今与えられたその機会を使って、自分のより良い将来を準備した。」
その「賢明さ」を褒めました。
そして教父たちが、「もう一つ注意しなければならない」と言う事があります。
「『不正の富を使って、友人を作れ』という事はどういう事かと言うと、不正に富を稼いで、という事ではなくて、富はよく不正の為に使われるけれども、しかしその富を善用し、善の為に使って、天国の友人を作れ。」ということだ。
教父たちは私たちに、「特に私たちの持っている財産を、善の為に使う事によって、特に貧しい人や、あるいは教会や、その他の為に、その持てる富を善用する事によって、私たちは天に徳を積む事ができる」と言っています。
⑵では私たちはその、この事を見て、お金の話とか富の話だけなのでしょうか?教会にたくさん献金すれば、それで良いのでしょうか?
更に私はこう思います。教会は今、私たちの死の準備をさせようとしているので、私たちが持っているのはポケットマネーだけではありません。私たちが持っているのは、「才能」であったり、「時間」であったり、あるいは私たちの何か、「持てる何らかの力」というものがあります。それはともすると、お金と同じように、悪の為に使われているのではないでしょうか。
せっかくイエズス様から与えられた大切な時間、この大切な時間を使って、本当ならば私たちの救霊の為に役立つようなものの為に使ったり、あるいは高度な科学技術の製品を作ったり、あるいは何か善の為に使う事ができるのですけれども、しかしもしかしたら、私たちがせっかく頂いた時間は、悪魔の為にその時間を横流ししてしまったり、悪魔の罠にかかって、その大切な時間を下らない事に、あるいは罪の為に使ってしまったり、自分の持てる健康や、あるいは能力を、霊魂の為ではなく、霊魂の敵の為に使ってしまったり、あるいはその他の為に、イエズス様から「ちゃんとこの為に使います」と言ってもらった以外の為に使ったりして、私たちは無駄に、与えられた能力、あるいはその受けた御恵みを乱用をしているのではないでしょうか。
そうすればイエズス様から、「あ、お前の為にこれだけの時間を与えたのにも関わらず、お前は私に返してくれたのはたったこれだけか。」
「え!?」
「お前は30年、この私の為に使う為に与えたのに、私の為には、ほんの一日、正確には5時間3分だ。他の時間はどうなったのか?」
もしも会社の社長が、あるいは日本の政府が、色々な輸出を管理し、色々なものについて管理を厳しくしているとしたら、イエズス様は私たちに対してどのような管理を要求されるでしょうか。「お前の時間の使い方については、お前の能力の使い方については、お前のやり方については、あれだけ与えたにも関わらず、どうもおかしいんじゃないか。さぁ、計算書を出してくれ。一体どのように使ったのか?どのように人生送ったのか?さぁ。」
ちょうど聖パウロは言っています、「私たちには負債がある。」“Debitores sumus non carni.”
しかし肉ではなく、肉にしたがって生きるための、肉に対する負債をおってはいない。もしも肉の通りに生きるならば、私たちは死ぬだろう。
しかし霊によって、肉を殺して生きるならば、つまり天主の子として生きるならば、生きるだろう。私たちはもはや肉の借金ではなくて、天主のもとにあるものとして、天主から受けたものを天主に返す為にある者であって、もしもそうするならば、私たちは天主の子供となる、天主の遺産の相続人となる。そしてキリストと共に共同相続人になる」と言っています。
私たちが与えられたこのものは、全ては、主から頂いたものですから、これをその主の為に使う、それこそが私たちの喜びであり、特権であり、将来への糧です、将来への証です、将来への保証となります。
主日にミサに与る事ができるというのも、何という特権であり、何という喜びであるでしょうか。
もしも「義務である」とか「負債である」と考えると、沈んでしまうかもしれませんが、しかしよく考えると、私たちにとってミサ聖祭に与ることができるという事は、素晴らしい特権です。
“Suscepimus, Deus, misericordiam tuam in medio templi.”
「私たちは主の祭壇のど真ん中で、憐れみを受けた。そして私たちは憐れみを受けている。」
⑶日本の殉教者聖堂に集まる皆さんは是非、「そのような方々が日本にたくさんいた」
という事を是非知って下さい。
日本で殉教を受けていた方は、わざと緩く柱に縛られていました。そして火で燃え上がらないように、火は周りにありました、遠くにありました、そして煙によって苦しむように。そしてもしも機会があれば、逃げる事ができるようになっていました。そして逃げようと思えば、逃げる事ができました。
しかしそうする事は、これは背教だったのです。「イエズス様を捨てた」という印だったのです。その為に、多くの何千という人々は、私たちの先祖は、煙の中でそのまま留まって、殉教していきました。
穴吊るしというのもあります。水攻めというのもあります。水攻めというのは、たくさん水を飲まされてブクブクにして、うつ伏せにされて、お腹をドンドンと叩いて、わざと吐かせる。血と水が吐かされた。
あるいは竹の棒を、尖った棒を指に刺した、爪の間に刺した。あるいは雲仙の硫黄を、傷付いた肌にかけた。燃える灼熱のお湯に浸かせた。あるいは逆さ吊りに吊るして、何日も何日も縛って、穴吊りにした。
それを耐えた、聖歌を歌いながら耐えた、という殉教者がたくさんいます。
そしてその殉教者の頂点に立つのが、殉教者の元后である童貞マリア様です。私たちはそのマリア様の被昇天を、あと10日で祝います。マリア様の栄光、マリア様のその美しさ、マリア様の持てる永遠の若さ、マリア様の忠誠、忠実、マリア様のそのそれは天使の、何千何万何億の天使をはるかに超えて、燦然と輝いています。
なぜでしょうか?イエズス様はマリア様についてこう言うでしょう、マリア様を誉め讃えて、「なぜならば、マリア様は賢明に生きたから。私たちは主がいなければ生きる事ができない。だから主の御旨のままに生きた。霊に従って生きた。天主の娘として生きた。霊によって、肉の負債を殺して生きた。」
ですからマリア様は誉め讃えられています。そして多くの殉教者と共に、この主の憐れみを讃美しているに違いありません。
⑷では愛する兄弟の皆さん、私たちもマリア様に、日本の殉教者に、乞い願いましょう。いつか私たちは主に会計報告をしなければならない日が来ます。
その時には慌てずに「主よ、ここにあります」と。「御身から頂いた者を、つたないながら、お恵みで、御身のために使わせていただきました。」
そしてその時に、私たちの為にと取り次いで下さる多くの友達を、天国に作っておきましょう。多くの祈りと多くの犠牲を、天国に積んでおきましょう。
「では、計算書を出せ。私はお前の事を雇っておく事はできない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit