アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛するM君、こんにちは!
今日は、聖伝の典礼暦によると、聖ピオ十世の祝日ですね。
M君の主張する理論(O神父様によるセデヴァカンティズム批判論駁 第一回 2019年8月24日修正アップデート済み)によると、次の三段論法が使われるとのことですね。すなわち、
A)真の聖なるローマカトリック教会とその真の教皇たちは、第二バチカン公会議前のどの期間を取り出してみても、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった。
B)しかし第二バチカン教会(現在カトリックと自称する公会議教会)とその“教皇たち”は異端と誤謬を教えている。
C)従って、第二バチカン教会とその“教皇たち”は真の教会でも真の教皇でもない。
大前提となる、A)が言いたいことは、
「全ての真の教皇は、第二バチカン公会議以前まで、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった」が本当なら、「全ての真の教皇は、常に、誤謬を教える可能性がないし、誤謬を教えない」が予想される、
であると理解します。
何故なら、「全ての真の教皇は、第二バチカン公会議以前まで、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった」という表現では、M君の言いたいことがうまく言えていないと思うからです。
M君が言いたいことは、次のような論理だと理解します。
大前提
E 真の教会と全ての真の教皇は、常に誤謬を教えることができない。
E 真の教皇と全ての真の教皇は、誤謬を教えたことがない。
従って
E 誤謬を教えることができる者は、真の教会と全ての真の教皇ではない。
E 誤謬をも教えたことがあるものは、真の教皇と全ての真の教皇ではない。
小前提
I ある教会のある教皇は、誤謬を教えることができた。
I ある教会のある教皇は、誤謬を教えた。
結論
O ある教会とある教皇は、真の教会と全ての真の教皇ではない。
ところで、この大前提A)に注目してみると、教皇自身が、私たちの知る限り少なくとも二名(教皇インノチェンテ三世、教皇アドリアノ六世)が、教皇は信仰に関して間違いうるし、異端を教えうるとさえ言っています。
たとえば教皇アドリアノ六世はこう言います。
"... plures enim fuere Pontifices Romani haeretici. Item et novissime fertur de Joanne XXII, quod publice docuit, declaravit, et ab omnibus teneri mandavit, quod animas purgatae ante finale judicium non habent stolam, quae est clara et facialis visio Dei."
「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」
なんというパラドクスでしょうか!
真の教会と全ての真の教皇は、誤謬を教えることができないはずなのに、その真の教皇が「真の教皇らが異端者だった」と教えているのですから!
私たちは、教皇の不可謬性を正しく理解しなければなりません。
カトリック教会の教えによれば、教皇の不可謬性は常に現実態として常駐しているのではなく、特別の条件がそろったときに教皇が誤りを犯すことを防ぐという限定されたものです。
M君もご存じの通り、不可謬性は、天主が人間を動かして言わせたり書かせたりする聖霊の息吹(inspiration)ではありません。
また、不可謬性は、天主からの特別な方法による真理の伝達である啓示(Revelation)でもありません。
不可謬性は、天主から既に啓示された真理、つまり信仰の遺産に含まれた真理を守り説明するために、あるものです。
不可謬性は、真理であることを教えるように、あるいは、啓示された真理を擁護するように、教皇に与えられる聖霊の息吹でもありません。
不可謬性は、教皇の考えを真理と善との最終の基準と打ち立てるものでもありません。
不可謬性は、ただ単に、限定された条件の下で、教皇が誤謬を教えることを防ぐだけです。
これらは、M君もよく知っているとおりです。
第一バチカン公会議の最中に、ガッサー司教は、こう答弁しました。
「(…)私は答えてオープンに認める。教皇の不可謬性はどのような意味においても絶対的ではない。何故なら、絶対的な不可謬性は天主にのみに属しているからだ。天主こそが、第一の本質的な真理であり、天主は騙すことも誤ることも決してあり得ないからだ。その他のすべての不可謬性は、特定の目的のために伝達されたものとして、その限界と条件があり、その下で不可謬性が存在すると考えられる。ローマ教皇の不可謬性についても、同じことが有効である。何故ならこの不可謬性は、ある制限と条件に縛られているからだ。(…)
(03) Note well. It is asked in what sense the infallibility of the Roman Pontiff is "absolute." I reply and openly admit: in no sense is pontifical infallibility absolute, because absolute infallibility belongs to God alone, who is the first and essential truth and who is never able to deceive or be deceived. All other infallibility, as communicated for a specific purpose, has its limits and its conditions under which it is considered to be present. The same is valid in reference to the infallibility of the Roman Pontiff. For this infallibility is bound by certain limits and conditions. What those conditions may be should be deduced not "a priori" but from the very promise or manifestation of the will of Christ. ...
教皇が不可謬であるための条件は、第一バチカン公会議によって明確に提示されています。第一バチカン公会議は、教皇の不可謬権を正確に定義したからです。第一バチカン公会議はこう教えています。
「教皇が教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である天主は、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した天主の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。」
Itaque Nos traditioni a fidei Christianæ exordio perceptæ fideliter inhærendo, ad Dei Salvatoris nostri gloriam, religionis Catholicæ exaltationem et Christianorum populorum salutem, sacro approbante Concilio, docemus et divinitus revelatum dogma esse definimus: Romanum Pontificem, cum ex cathedra loquitur, id est, cum omnium Christianorum pastoris et doctoris munere fungens pro suprema sua apostolica auctoritate doctrinam de fide vel moribus ab universa Ecclesia tenendam definit, per assistentiam divinam ipsi in beato Petro promissam, ea infallibilitate pollere, qua divinus Redemptor Ecclesiam suam in definienda doctrina de fide vel moribus instructam esse voluit; ideoque eiusmodi Romani Pontificis definitiones ex sese, non autem ex consensu Ecclesiae, irreformabiles esse.
Si quis autem huic Nostræ definitioni contradicere, quod Deus avertat, præsumpserit: anathema sit.
(Pastor aeternus, DS 3074)
キリストが、教皇の不可謬性を与える条件は、4つあることが分かります。
すなわち、
(1)教皇は、「全キリスト信者の牧者として教師として」、つまり、個人的な意見を述べるのではなく、教会の頭として、キリストから直接に受けた「その最高の使徒伝来の権威」をはっきりと行使して、宣言しなければなりません。
(2)教皇が宣言する内容は、「信仰と道徳についての教義」でなければなりません。
(3)この「信仰と道徳についての教義」は、教えられるだけではいけません。教皇は「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義する」のでなければなりません。つまり、教義を強制しなければなりません。
(4)この強制は、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。
この項は続きます。
聖ピオ十世!われらのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛するM君、こんにちは!
今日は、聖伝の典礼暦によると、聖ピオ十世の祝日ですね。
M君の主張する理論(O神父様によるセデヴァカンティズム批判論駁 第一回 2019年8月24日修正アップデート済み)によると、次の三段論法が使われるとのことですね。すなわち、
A)真の聖なるローマカトリック教会とその真の教皇たちは、第二バチカン公会議前のどの期間を取り出してみても、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった。
B)しかし第二バチカン教会(現在カトリックと自称する公会議教会)とその“教皇たち”は異端と誤謬を教えている。
C)従って、第二バチカン教会とその“教皇たち”は真の教会でも真の教皇でもない。
大前提となる、A)が言いたいことは、
「全ての真の教皇は、第二バチカン公会議以前まで、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった」が本当なら、「全ての真の教皇は、常に、誤謬を教える可能性がないし、誤謬を教えない」が予想される、
であると理解します。
何故なら、「全ての真の教皇は、第二バチカン公会議以前まで、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった」という表現では、M君の言いたいことがうまく言えていないと思うからです。
M君が言いたいことは、次のような論理だと理解します。
大前提
E 真の教会と全ての真の教皇は、常に誤謬を教えることができない。
E 真の教皇と全ての真の教皇は、誤謬を教えたことがない。
従って
E 誤謬を教えることができる者は、真の教会と全ての真の教皇ではない。
E 誤謬をも教えたことがあるものは、真の教皇と全ての真の教皇ではない。
小前提
I ある教会のある教皇は、誤謬を教えることができた。
I ある教会のある教皇は、誤謬を教えた。
結論
O ある教会とある教皇は、真の教会と全ての真の教皇ではない。
ところで、この大前提A)に注目してみると、教皇自身が、私たちの知る限り少なくとも二名(教皇インノチェンテ三世、教皇アドリアノ六世)が、教皇は信仰に関して間違いうるし、異端を教えうるとさえ言っています。
たとえば教皇アドリアノ六世はこう言います。
"... plures enim fuere Pontifices Romani haeretici. Item et novissime fertur de Joanne XXII, quod publice docuit, declaravit, et ab omnibus teneri mandavit, quod animas purgatae ante finale judicium non habent stolam, quae est clara et facialis visio Dei."
「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」
なんというパラドクスでしょうか!
真の教会と全ての真の教皇は、誤謬を教えることができないはずなのに、その真の教皇が「真の教皇らが異端者だった」と教えているのですから!
私たちは、教皇の不可謬性を正しく理解しなければなりません。
カトリック教会の教えによれば、教皇の不可謬性は常に現実態として常駐しているのではなく、特別の条件がそろったときに教皇が誤りを犯すことを防ぐという限定されたものです。
M君もご存じの通り、不可謬性は、天主が人間を動かして言わせたり書かせたりする聖霊の息吹(inspiration)ではありません。
また、不可謬性は、天主からの特別な方法による真理の伝達である啓示(Revelation)でもありません。
不可謬性は、天主から既に啓示された真理、つまり信仰の遺産に含まれた真理を守り説明するために、あるものです。
不可謬性は、真理であることを教えるように、あるいは、啓示された真理を擁護するように、教皇に与えられる聖霊の息吹でもありません。
不可謬性は、教皇の考えを真理と善との最終の基準と打ち立てるものでもありません。
不可謬性は、ただ単に、限定された条件の下で、教皇が誤謬を教えることを防ぐだけです。
これらは、M君もよく知っているとおりです。
第一バチカン公会議の最中に、ガッサー司教は、こう答弁しました。
「(…)私は答えてオープンに認める。教皇の不可謬性はどのような意味においても絶対的ではない。何故なら、絶対的な不可謬性は天主にのみに属しているからだ。天主こそが、第一の本質的な真理であり、天主は騙すことも誤ることも決してあり得ないからだ。その他のすべての不可謬性は、特定の目的のために伝達されたものとして、その限界と条件があり、その下で不可謬性が存在すると考えられる。ローマ教皇の不可謬性についても、同じことが有効である。何故ならこの不可謬性は、ある制限と条件に縛られているからだ。(…)
(03) Note well. It is asked in what sense the infallibility of the Roman Pontiff is "absolute." I reply and openly admit: in no sense is pontifical infallibility absolute, because absolute infallibility belongs to God alone, who is the first and essential truth and who is never able to deceive or be deceived. All other infallibility, as communicated for a specific purpose, has its limits and its conditions under which it is considered to be present. The same is valid in reference to the infallibility of the Roman Pontiff. For this infallibility is bound by certain limits and conditions. What those conditions may be should be deduced not "a priori" but from the very promise or manifestation of the will of Christ. ...
教皇が不可謬であるための条件は、第一バチカン公会議によって明確に提示されています。第一バチカン公会議は、教皇の不可謬権を正確に定義したからです。第一バチカン公会議はこう教えています。
「教皇が教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である天主は、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した天主の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。」
Itaque Nos traditioni a fidei Christianæ exordio perceptæ fideliter inhærendo, ad Dei Salvatoris nostri gloriam, religionis Catholicæ exaltationem et Christianorum populorum salutem, sacro approbante Concilio, docemus et divinitus revelatum dogma esse definimus: Romanum Pontificem, cum ex cathedra loquitur, id est, cum omnium Christianorum pastoris et doctoris munere fungens pro suprema sua apostolica auctoritate doctrinam de fide vel moribus ab universa Ecclesia tenendam definit, per assistentiam divinam ipsi in beato Petro promissam, ea infallibilitate pollere, qua divinus Redemptor Ecclesiam suam in definienda doctrina de fide vel moribus instructam esse voluit; ideoque eiusmodi Romani Pontificis definitiones ex sese, non autem ex consensu Ecclesiae, irreformabiles esse.
Si quis autem huic Nostræ definitioni contradicere, quod Deus avertat, præsumpserit: anathema sit.
(Pastor aeternus, DS 3074)
キリストが、教皇の不可謬性を与える条件は、4つあることが分かります。
すなわち、
(1)教皇は、「全キリスト信者の牧者として教師として」、つまり、個人的な意見を述べるのではなく、教会の頭として、キリストから直接に受けた「その最高の使徒伝来の権威」をはっきりと行使して、宣言しなければなりません。
(2)教皇が宣言する内容は、「信仰と道徳についての教義」でなければなりません。
(3)この「信仰と道徳についての教義」は、教えられるだけではいけません。教皇は「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義する」のでなければなりません。つまり、教義を強制しなければなりません。
(4)この強制は、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。
この項は続きます。
聖ピオ十世!われらのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)