アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛するM君、
教皇が不可謬性をキリストから受けえる条件の一つに、その内容が「信仰と道徳について」であること、があります。
教皇の不可謬性のみならず、カトリック教会におけるその他の機関の不可謬性(たとえば公会議や通常普遍教導権など)も、同じことが言えます。
M君はおそらくご存じだと思いますが、念のために、言います。
神学者たちは、不可謬性の対象に二つを区別しています。つまり、「主要な対象、一次的対象 Primary object」と、「副次的対象、二次的対象、secondary object」です。
「不可謬性の主要な対象・一次的対象」とは、
天主によって主要に(formally)啓示された真理のことです。つまり、聖書と聖殿という啓示の源泉に含まれている真理です。
これには、決定的な肯定的判決と否定的判決が含まれます。専門用語で、わかりにくい言い方で、申し訳ありません。
肯定的判決とは、公会議や教皇の聖座宣言や使徒信経などで、決定的に何々はこうである、と肯定的に断言する判決です。例えば、聖母の無原罪の御孕りとか、聖母の被昇天とかです。
否定的判決とは、啓示された教えに反対するものとして特定の誤謬を排斥する判決です。
カトリック教会が、信仰と道徳に関する事柄を、天主によって主要に(formally)啓示された真理として信じるように決定的に提示するとき、「天主的及びカトリック的信仰により」fide divina et catholica信じなければなりません。
「天主的及びカトリック的信仰」とは、真理を啓示する天主の権威により、不可謬のカトリック教会によって天主の啓示として提示された教えとして信じる信仰です。
不可謬性の第二の対象(副次的対象)とは、
天主によって主要に(formally)啓示されたものではないが、啓示された遺産に緊密に関係している事柄です。たとえば、神学的な結論が教義的な事実などがあります。
神学的な結論とは、二つの前提のうち、一つが啓示された内容で、もう一つが理性による真理であるとき、その二つから導き出される結論です。
教義的事実とは、歴史的な事実です。
これらは、啓示された真理に親密に関係しているので、啓示された遺産の内に暗黙の内に(virtually)含まれていると言われます。
確実性の程度は様々ですが、神学者たちは、教会の普遍的な規律や列聖も、不可謬性の第二の対象の中に含めています。(これについては、後にまた詳しく取り上げたいと思います。)
ですから、不可謬性は、これらについては副次的にのみ関わり、啓示と関係している限りにおいて不可謬であるにすぎないと言われています。
不可謬性の副次的対象が、カトリック教会によって提示された場合、それは教会的信仰によって fide ecclesiastica 信じられます。教会的信仰とは、教導する教会の権威により信仰するものであり、啓示する天主の権威により信仰するのではありません。
ところで、今現在、カトリック教会が啓示された真理(主要な対象)について決定的で信ずべきものと宣言するとき、それは不可謬であると言うことは信ずべき事柄(de fide)です。
副次的対象については、カトリック教会が不可謬的に決定することが出来るか否かを第一バチカン公会議で取り上げる予定でした。しかし普仏戦争が勃発し、ローマが侵略されて、決議を出す前に第一バチカン公会議は中断してしまいました。
カトリック教会は、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来るか否かを宣言することがありませんでした。ですから、これについては、信仰の内容(de fide)ではなく、神学的に確実(sententia certa)であると考えられているだけです。
参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。
Photo Credit
以上をまとめてみます。
不可謬性の対象は、天主によって啓示された信仰と道徳に関する教え(主要な対象)と、啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)がある。
カトリック教会が、前者(不可謬性の主要な対象)について不可謬的に発言することが出来るというのは、信仰の対象(de fide)である。
カトリック教会が、後者(副次的対象)について、不可謬的に発言することが出来るというのは、神学的に確実とされる。ただし、列聖については、第二バチカン公会議以前は、共通意見とされることさえあった。(第二バチカン公会議以後は、共通意見でさえもないかもしれない。これについては、後に取り上げたいと思います。)
Photo Credit
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛するM君、
教皇が不可謬性をキリストから受けえる条件の一つに、その内容が「信仰と道徳について」であること、があります。
教皇の不可謬性のみならず、カトリック教会におけるその他の機関の不可謬性(たとえば公会議や通常普遍教導権など)も、同じことが言えます。
M君はおそらくご存じだと思いますが、念のために、言います。
神学者たちは、不可謬性の対象に二つを区別しています。つまり、「主要な対象、一次的対象 Primary object」と、「副次的対象、二次的対象、secondary object」です。
「不可謬性の主要な対象・一次的対象」とは、
天主によって主要に(formally)啓示された真理のことです。つまり、聖書と聖殿という啓示の源泉に含まれている真理です。
これには、決定的な肯定的判決と否定的判決が含まれます。専門用語で、わかりにくい言い方で、申し訳ありません。
肯定的判決とは、公会議や教皇の聖座宣言や使徒信経などで、決定的に何々はこうである、と肯定的に断言する判決です。例えば、聖母の無原罪の御孕りとか、聖母の被昇天とかです。
否定的判決とは、啓示された教えに反対するものとして特定の誤謬を排斥する判決です。
カトリック教会が、信仰と道徳に関する事柄を、天主によって主要に(formally)啓示された真理として信じるように決定的に提示するとき、「天主的及びカトリック的信仰により」fide divina et catholica信じなければなりません。
「天主的及びカトリック的信仰」とは、真理を啓示する天主の権威により、不可謬のカトリック教会によって天主の啓示として提示された教えとして信じる信仰です。
不可謬性の第二の対象(副次的対象)とは、
天主によって主要に(formally)啓示されたものではないが、啓示された遺産に緊密に関係している事柄です。たとえば、神学的な結論が教義的な事実などがあります。
神学的な結論とは、二つの前提のうち、一つが啓示された内容で、もう一つが理性による真理であるとき、その二つから導き出される結論です。
教義的事実とは、歴史的な事実です。
これらは、啓示された真理に親密に関係しているので、啓示された遺産の内に暗黙の内に(virtually)含まれていると言われます。
確実性の程度は様々ですが、神学者たちは、教会の普遍的な規律や列聖も、不可謬性の第二の対象の中に含めています。(これについては、後にまた詳しく取り上げたいと思います。)
ですから、不可謬性は、これらについては副次的にのみ関わり、啓示と関係している限りにおいて不可謬であるにすぎないと言われています。
不可謬性の副次的対象が、カトリック教会によって提示された場合、それは教会的信仰によって fide ecclesiastica 信じられます。教会的信仰とは、教導する教会の権威により信仰するものであり、啓示する天主の権威により信仰するのではありません。
ところで、今現在、カトリック教会が啓示された真理(主要な対象)について決定的で信ずべきものと宣言するとき、それは不可謬であると言うことは信ずべき事柄(de fide)です。
副次的対象については、カトリック教会が不可謬的に決定することが出来るか否かを第一バチカン公会議で取り上げる予定でした。しかし普仏戦争が勃発し、ローマが侵略されて、決議を出す前に第一バチカン公会議は中断してしまいました。
カトリック教会は、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来るか否かを宣言することがありませんでした。ですから、これについては、信仰の内容(de fide)ではなく、神学的に確実(sententia certa)であると考えられているだけです。
参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。
Photo Credit
以上をまとめてみます。
不可謬性の対象は、天主によって啓示された信仰と道徳に関する教え(主要な対象)と、啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)がある。
カトリック教会が、前者(不可謬性の主要な対象)について不可謬的に発言することが出来るというのは、信仰の対象(de fide)である。
カトリック教会が、後者(副次的対象)について、不可謬的に発言することが出来るというのは、神学的に確実とされる。ただし、列聖については、第二バチカン公会議以前は、共通意見とされることさえあった。(第二バチカン公会議以後は、共通意見でさえもないかもしれない。これについては、後に取り上げたいと思います。)
Photo Credit
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)