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M君らしい質問と願いに答える

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、

M君の質問とお願いを拝見しました。相変わらず君らしい質問でしたね。

なぜなら、第一に、内容よりも、どこから引用したのかと引用元に興味を示しているからです。

まず、M君の質問に答えましょう。
『参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

M君は、これの引用元を尋ねましたね。

 Monsignor Van Noort は、その有名な『キリストの教会』Christ's Church という本の中でそう言っています。

Dogmatic Theology, Volume II, Christ's Church, by Monsignor G. Van Noort, S.T.D.は、ここでも読むことが出来ます。

その本の中で、Van Noort は、不可謬性の「副次的な対象」について説明しています。(Christ's Church p110を見てください。)繰り返して言えば、不可謬性の第二の対象(副次的対象)とは、天主によって主要に(formally)啓示されたものではないが、啓示された遺産に緊密に関係している事柄です。

煩わしくなるので、Van Noort の説明の一部を引用します。詳しくは、上記のリンクをインターネット上でご覧ください。

One can easily see why matters connected with revelation are called the secondary object of infallibility. Doctrinal authority and infallibility were given to the Church's rulers that they might safeguard and confidently explain the deposit of Christian revelation. That is why the chief object of infallibility, that, namely, which by its very nature falls within the scope of infallibility, includes only the truths contained in the actual deposit of revelation. Allied matters, on the other hand, which are not in the actual deposit, but contribute to its safeguarding and security, come within the purview of infallibility not by their very nature, but rather by reason of the revealed truth to which they are annexed. As a result, infallibility embraces them only secondarily. It follows that when the Church passes judgment on matters of this sort, it is infallible only insofar as they are connected with revelation.

Van Noort は、次の5つの事柄が、不可謬性の副次的対象であると列挙しています。

1. 神学的結論 theological conclusions;
2. 教義的事実 dogmatic facts;
3. 教会の一般的規律 the general discipline of the Church;
4. 修道会の承認 approval of religious orders;
5. 列聖 canonization of saints.

(繰り返します。もちろん、別のサイトから全文コピペすることが出来ますが、煩わしいので、ここでは一部だけを引用します。もしも疑う場合には、上記のサイトをご覧ください。)

When theologians go on to break up the general statement of this thesis into its component parts, they teach that the following individual matters belong to the secondary object of infallibility:
1. theological conclusions;
2. dogmatic facts;
3. the general discipline of the Church;
4. approval of religious orders;
5. canonization of saints.

Assertion 1: The Church's infallibility extends to theological conclusions. This proposition is theologically certain.

Assertion 2: The Church's infallibility extends to dogmatic facts. This proposition is theologically certain.

Assertion 3: The Church's infallibility extends to the general discipline of the Church. This proposition is theologically certain.

Assertion 4: The Church's infallibility extends to the approval of religious orders. This proposition is theologically certain.

Assertion 5: The Church's infallibility extends to the canonization of saints. This is the common opinion today.

第二に、M君らしいと思ったのは、私が発言していないことを発言したと読もうとする(読んでいる)、からです。これは、M君の三つの質問全てに言えます。そして、別の意味に理解して、それはどこに書かれているのか?と尋ねています。

例えば、最初の質問です。

『副次的対象については、カトリック教会が不可謬的に決定することが出来るか否かを第一バチカン公会議で取り上げる予定でした。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

これを素直に読めばわかるように、私の主張したことは次です。

「カトリック教会は、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来るか否かを宣言することがありませんでした。ですから、これについては、信仰の内容(de fide)ではなく、神学的に確実(sententia certa)であると考えられているだけです。」

つまり、

「"カトリック教会が、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来る"ということは、神学的に確実(theologically certain)であるが、信仰の内容(de fide)ではない。」

ということです。上の命題の内容が、M君の理解した次の内容と異なっていることに気が付きましたか? 私の主張は「確実性の程度」の議論です。

しかし、M君はこう理解しました。
「副次的対象については教会からの決定が未だ出ていない、だから列聖、規律、教会法の不可謬性については信じる必要性がない」

M君の理解は、「信じる必要性」があるかないかです。この違いが分かりますか?


第二の質問ですが、やはり、私の言っていない別のことを読もうとしています。猜疑心からかな?

『参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

という文章を読めばわかるように、

Van Noort は、カトリック教会の不可謬性が列聖にまで及ぶ、というのは、共通意見である、と位置付けている。
Assertion 5: The Church's infallibility extends to the canonization of saints. This is the common opinion today.

これが私の主張です。

少なくとも、Van Noort は、自分自身の主張はともあれ、その本では「カトリック教会の不可謬性が列聖にまで及ぶ」という主張は、共通意見であると述べている、です。つまり、すくなくとも、神学者たちの意見の中で確実性が少ないことは同意しています。

この理解が、M君の次の理解と違っていることが分かりますか?

「彼(Van Noort)は『列聖の不可謬性には絶対的確実性がない』というニュアンスでそう言っている」

M君の理解は、Van Noort 自身の立場についてです。


第三の質問も同じです。アドリアノ六世の言った言葉を私は引用しました。

『たとえば教皇アドリアノ六世はこう言います。
"... plures enim fuere Pontifices Romani haeretici. Item et novissime fertur de Joanne XXII, quod publice docuit, declaravit, et ab omnibus teneri mandavit, quod animas purgatae ante finale judicium non habent stolam, quae est clara et facialis visio Dei."

「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」

なんというパラドクスでしょうか!』(2019年9月03日 クレディディムス 掲載文)

まず、よく読んでください。そこに書かれていることは、次のことです。

教皇アドリアノ六世は、次のように発言した。すなわち「複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。」と。

アドリアノ六世の言ったラテン語を直訳しただけです。

「煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼(=教皇ヨハネ二十二世)は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」と、アドリアノ六世が説教しています。

この引用元については、2019年8月30日付けの「教皇は個人的に異端に陥り得るか? 教皇は公然と異端を主張し得るか? 教皇インノチェンテ三世、教皇アドリアノ六世、ドミンゴ・デ・ソト、サレジオの聖フランシスコらの主張は?」に詳しく書かれています。よくご覧ください。

ラテン語は、ボシュエ全集 p. 20に引用されています。

Oeuvres complètes de Bossuet:XXVIII.
De Adriano VI cur privatim dicendum : unus rem totam conficit : ejus jam Pontificis recusus Romæ liber retractatione nulla.

教皇ヨハネ二十二世については、もちろん、詳しくお話するつもりです。
ただし、別の機会に改めて、詳しく、書きます。もともとそのつもりでした。

M君には、アドリアノ六世の言った言葉の内容も考えていただきたいと思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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