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カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

フランツ・シュミットバーガー神父による「カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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原文はこちら


カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ

二〇一四年四月十二日

 今秋、ローマにおいて、家庭というテーマに関するシノドス(世界代表司教会議)の臨時総会が開かれる予定です。そこでは、世俗主義、すなわち、婚姻を伴わない同棲、離婚、避妊など、世俗性という特徴をもった世界におけるキリスト者の家庭の問題についての議論が重点的に行なわれます。この会議の準備のために、バチカンから司教たちにあてて特別アンケートが送付されました。このアンケートには結婚生活の倫理に関する個別の質問が含まれており、霊的指導者たちはこれに回答するものとされていました。ところが、一部の国、特にドイツ語圏諸国の司教たちは、このアンケートを一部の信者グループが回答するように転送してしまいました。そして彼らの回答は予想通りのものとなりました。

 これらの回答は、かつてはキリスト教国であった国々のキリスト教信者の結婚倫理の腐敗がすでにどれほど進んでいるかを示しています。「いわゆる禁じられた受胎調節の方法を使用したとき、罪の意識がありましたか?」という質問への回答は、「いいえ」が八十六パーセント、「はい」が十四パーセントでした。次の質問、「聖体拝領を控えたことがありますか?」に対しては、九〇パーセントが「いいえ」と答え、十パーセントが「はい」と答えました。アーヘン教区の回答からは、「教会の結婚と性の倫理は……多くの人々にとって信仰に対する妨げとなっている」ことがあきらかになっています。バンベルク教区の回答は、「倫理に関する教義に対して批判的な態度を表明」しています。エッセン教区では、聞き取り調査に回答した人々は「同性愛のカップルを祝福する儀式ができるようにする」ことに賛成でした。フライブルク教区の回答では、「教会で結婚式を挙げる前に同居することは、珍しいことではなく普通のこと」であるとしています。ケルン教区の回答は、「教会の教えは異世界のものであり、この世とずれている」となっています。マグデブルク教区の回答は、「結婚と家庭の領域において、教会はその権威を大部分失ってしまった」としています。マインツ教区の回答では、「人工受胎調節の禁止はほとんどの人々から拒絶されているか、関係のないものと思われている」と書かれています。オズナブリュック教区の回答は、「人々はますます教会に背を向けている」とし、ロッテンブルク教区の回答には、「コンドームの禁止は犯罪的だと考える」と書かれています。 トリーア教区でのアンケートの回答者たちは、「結婚、その失敗、新たなスタート、性関係の問題については、慈悲を」期待しているとしています。[1]

カスパー枢機卿の破壊的役割

 二月十七日から二十二日の一週間、教皇は枢機卿会議を招集され、新しい枢機卿の任命で締めくくられました。枢機卿会議の議題は特にシノドスの準備に当てられました。カスパー枢機卿は教皇から唯一の発言者に指名され、二月二十日木曜日の朝に枢機卿たちに長い講演を行いました。カスパー枢機卿の述べた内容を詳細に見る前に、私たちは彼の神学的立場に少しばかり光を当ててみたいと思います。

 カスパー枢機卿は一九三三年に生まれ、一九五七年に司祭に叙階されました。それから学問に専念し、ハンス・キュンクの神学助教授に任命されました。一九八九年にはロッテンブルク=シュツットガルト教区の司教に任命されました。司教としての十年間のうち、とりわけ一九九三年には、現在のレーマン枢機卿とフリブールのザイエル大司教(故人)とともに、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの聖体拝領を支持する計画を立案していました。この計画は、当時の教理聖省長官ラッツィンガー枢機卿に断固として退けられました。一九九九年、カスパー司教はローマに呼ばれてキリスト教一致推進評議会の秘書官となり、その後すぐ同評議会の議長となりました。彼は一九九九年のカトリックとプロテスタントとの間のアウグスブルク共同宣言の起草と署名に深く関わりました。二〇一〇年には、高齢を理由にその職務から引退しましたが、昨年の教皇選挙ではホルヘ・ベルゴリオ枢機卿を教皇座に上げることを強く支持しました。

 では、カスパー枢機卿の著作をいくつかよく調べてみることで、彼の学術的研究を簡単に見てみることにしましょう。一九六七年、カスパー枢機卿はある記事の中でこのように述べました。「この世界と歴史の上に、不変の存在として王座に就かれる天主というものは、人間に対する侮辱である。人間は自らのためにこのような天主を否定しなければならない。なぜなら、そのような天主は、当然の権利によって人間に属する威厳と名誉を、自分のものであると主張するからである……。私たちはこのような天主に抵抗しなければならないが、それは人間のためだけでなく、天主のためにもなるのである。このような天主はまことの天主ではまったくなく、哀れな偶像なのである。というのは、歴史の傍らに、歴史を越えてのみ存在する天主──すなわち天主自身が歴史ではなければ──それは有限の天主だからである。このような存在を天主と呼ぶなら、では絶対者のため、私たちは絶対的な無神論者にならなければならないのだ。このような天主は融通の利かない世界観から生まれる。この天主は現状維持の保証人であり、新しさの敵である。」[2]

 枢機卿の著作「信仰への入門」の中では、諸々のドグマは「全面的に偏っていて、表面的で、頭が固く、常識のない軽率なもの」だという可能性があるという見解を述べています。[3]

 彼の研究「キリストのイエズス」の中では、新約聖書に書かれている数々の奇跡の報告に関して、このように書いています。「私たちは、文芸批評の観点から、奇跡の重要性を高め、奇跡を誇張し、奇跡を繰り返し書いている傾向があるとみることができる……。従って、奇跡の報告の内容は大幅に縮小される。」[4]さらに、枢機卿の意見によると、奇跡の報告は「イエズスの偉大さと力を強調するために、非キリスト教的モチーフをイエズスに引き写したものである……。形式歴史批判の観点からみれば、奇跡の報告の多くは、復活の経験をイエズスの地上での生活へと写し戻したものであったり、あるいは、栄光のキリストを先行して表象しているものなのである。」[5]これは、特にヤイロの娘、ナインのやもめ、ラザロの死からのよみがえりのことを指しています。「従って、自然を超える力を示している奇跡の数々は、元々の聖伝に派生的に付け加えられていったものにすぎないのである。」[6]

 キリストの復活に関する最古の福音の記述(マルコ16章1節~8節)について、枢機卿はこう述べています。「これらは歴史的な出来事ではなく、むしろ注意を引き、サスペンスを生み出す文体的仕掛けである。」[7] カスパー枢機卿の手にかかると、主の復活に対する信仰のみならず、キリスト教的教理全体が崩されてしまうのです。彼はこう書いています。「共観福音書によれば、イエズスは一度も自分を天主のおん子だと名乗ったことはなかった。であるから、彼が天主のおん子自身であるということは、あきらかに、教会による信仰告白であるにすぎない。」[8]別の箇所ではこうも述べています。「というわけで、イエズスは自分をメシアであるとも、あるいは天主のしもべ、天主のおん子であるとも呼ばず、おそらく人の子とも呼ばなかった。」[9]イエズスが「まことの人間にしてまことの天主である」という教理は、「見直すことが可能な事柄」である。[10]これは厳密な意味での近代主義、純粋な形の近代主義ではないでしょうか?そしてこの人物が、家庭と、現代の家庭が直面している緊急課題についての枢機卿会議で講話をするよう、教皇により指名されているのです!しかし、このような近代主義的信仰がキリスト教道徳の基礎としてなおも役に立つのでしょうか?すべての知恵の始まりである主への畏れのしるしはいったいどこにあるのでしょうか?(詩編110節10章参照)

二〇一四年二月二十日の枢機卿会議でのカスパー枢機卿の講話

 しかし、ドイツの司教全体会議にちょうど間に合うように三月十日にヘルダー社から単行本の形で出版された講義に戻りましょう。これが付け足しの見解であろうと思われるなら、とんでもない思い違いです。

 第一部では、枢機卿は創造の秩序、そしてキリストのあがないの秩序における家庭について考察しており、家庭生活における罪の構造と家庭内教会としての家庭について語っています。この中には、確かに正確で巧みに表現された考えが出てきます。例えば42ページには次の記述があります。「新たな心を持つためには、繰り返し新たな心をつくり、心の文化をもつことが必要である。家庭生活とは、『お願い、ありがとう、許して』という教皇の三つのキーワードに沿って営まれるものである。私たちは互いのための時間を持ち、安息日や主日をともに祝わなければならない。また自制、許し、忍耐を繰り返し実行しなければならない。仁愛の心、感謝の気持ち、優しさ、恩に報いる心、そして愛のしるしが繰り返し必要とされる。共に祈り、赦しの秘跡を受け、ミサを挙げることは、天主が夫婦の周りに置かれた結婚の絆を繰り返し強める助けとなる。年齢を重ねた夫婦、高齢になってもなお成熟したやり方で愛しあう夫婦に出会うのは、常に美しいことだ。これもまた、人類があがなわれたしるしである。」しかし、枢機卿が第4章の最後で主張しているように、家庭は本当に「教会の道」なのでしょうか?そうではなく、教会が家庭の道なのではないでしょうか?

 しかしながら、講話全体の主眼は、間違いなく第5章の離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの問題についてです。枢機卿は崩壊した家庭が増えていることは教会の未来にとっての悲劇であることに着目しており、それはまったく正しいことです。ただ残念なことに、この家庭崩壊の増加のもっと深い理由、つまり信仰の指導が骨抜きにされ、短縮され、改竄されたこと、また、キリストとその花嫁なる教会との間にある絆の写しとしての結婚の聖性について、そしてそのゆえの結婚の絆の非解消性についての指導が何年どころか何十年にもわたってまったく行なわれていなかったことについては、ここでは全く触れられていません。ここでは教区における信仰と道徳の教師としてのみずからの義務を放棄した犯罪を犯した司教たちが明確に告発されなければなりません。例えば、カスパー枢機卿はロッテンブルク司教として、季節を問わず、説教でも要理教育でも講話でも、結婚の聖性と非解消性を擁護してはいませんでした。

 枢機卿が、「私たちは、置き去りにされ、孤独のうちに人生を進む、捨てられた配偶者たちの勇敢さを讃え、支援することができる。」(55ページ)と述べるところでは、間違っていません。しかし、キリスト者はこのような勇敢さを実際必要とすることがありますが、それは人間の力によって作り得るものではなく、天主の恩寵の助けによって可能となるのです。これは現代でも、信仰に忠実にまもっている大勢の捨てられた配偶者たちの行動によって立証されています。聖パウロは、自分を強めてくださるお方において、すべてを成し遂げることができると言ったのではないでしょうか?

 これに続くカスパー枢機卿の文章はぞっとするような内容です。「だが、大勢の捨てられた配偶者たちは、子どもたちのために、新しい絆と新しい民事的結婚に頼り、責任を問われることなしにそれらをふたたび放棄することができない。以前の苦い経験ののち、そのような絆において、彼らはしばしば実に真に天からの贈り物である人間的な幸福を享受している。」(55ページ、下線は筆者)単刀直入に言いましょう。このような新しい絆は、結婚の非解消性に対する攻撃であり、重大な罪でありつづけるのです。このような罪深い絆から生まれる子どもたちのために、その絆を単に放棄する訳にはゆかないことは、私たちは躊躇なく認めますが、二人は兄と妹のように暮らさなければなりません。その結果、次のバラグラフで述べられていることはあまり役に立ちません。「秘跡による結婚の非解消性、そして相手の配偶者が生きている間の二度目の秘跡による婚姻の不可能性は、教会の信仰の聖伝の拘束力ある一部分です。」(55ページ)

 このさらに先の文で、枢機卿や彼と同じ思いを持つ友人たちの考えが本当に明らかになります。そこにはこう書かれています。「私たちは現在、自分たちが先の公会議と似たような状況にいると気づいている。当時、聖職者たちはエキュメニズムや信教の自由の問題について話し合った。その時、前進する道を妨げるような教皇の回勅や聖省の決定が存在した。それにも関わらず、強制力のある教理の聖伝に疑問を問いかけることなく、公会議はドアを開いたのだ。」(57ページ)これこそ聖ピオ十世会が長年非難し続けていることです。すなわち、公会議は誤謬へとドアを開け放ち、その結果、実質的に公会議後の危機の原因となったのです。枢機卿閣下はこの「さらなる発展」を「法的かつ司牧的な解釈で」正当化しました。(60ページ)

 教皇ベネディクト十六世は、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが秘跡としての聖体拝領をすることを許しませんでしたが、カスパー枢機卿によれば、霊的聖体拝領はできると認めていたとのことです。枢機卿は、なぜこのようなカトリック信者たちが聖体拝領できないのか、と問います。答えは簡単です。霊的聖体拝領においては、現在の罪深い生活を悔いて、その罪の現状から抜け出す方法を見つけてくださるよう天主に乞い願うだけです。しかし、秘跡による聖体拝領を許可すれば、罪深い状態を認めてしまうことになり、離婚と同棲を祝福し、罪人がこの世においても永遠においても滅びへの道へ歩むのを承認することになってしまいます。ちなみに、枢機卿が提案した、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが聖体拝領をすることができるまでのつぐのいの期間についても同じです。悲しみと同様、償いには生活を改めるという真剣な目的が伴わなければなりません。そうでないなら意味がないからです。聖霊は、聖パウロの説教や手紙を通して、主のおん体をわきまえずに飲食する者、つまり秘跡による聖体拝領をする者は、自分自身への裁きを飲食することだと宣言したのではないでしょうか?(コリント前書11章29節)では、教会の教えは、これほど無慈悲であり、霊魂たちに対してこれほど残酷で、これほどの不正があるのでしょうか?カトリック教会のカテキズム全書は、全聖伝とともに、罪人への叱責は霊的なあわれみのわざであるとしています。ここでは、公会議後の聖職者たちが、どれほど霊魂の救いという超自然的な見方をほぼ完全に失ってしまったかがわかります。カスパー枢機卿は、罪を憎むことと、罪人にあわれみを示すこととの区別ができていないのは明らかです。枢機卿団の兄弟たちの異議に対する答えにおいて、カスパー枢機卿は、あわれみとは「真理を解釈するための解釈学的原則」だと強調して (79ページ)──この議論をもってすれば、すべての教理は空洞化され得ることになります──エピケイアを持ち出すのです(82ページ)。この法的専門用語が意味するところは、立法者がいない場合、具体的なケースについては、それが明らかに法律の文言に当てはまる場合であっても、立法者がそのような難しいケースにそれを強制する意図がなかったと推定する理由がある、とすることです。しかし、天主は創造主として全ての被造物に自然法を刻まれ、すべての状況を予測され、また現存されるのですから、自然法に関してはエピケイアは当てはまらないのです。

教皇の見解

 木曜日の朝の講話の後、午後の枢機卿会議ではカスパー枢機卿の講話に反対があり、一部の枢機卿は強い反対意見を表明しました。しかし、金曜日の朝、教皇フランシスはこのカスパー枢機卿を高らかに賞賛する言葉を口にしました。「私は教会に対する愛を見いだしました……。もう一つ言っておきたいのは、昨日、カスパー枢機卿の書いた文書を就寝前に──眠り薬としてではありませんが!──何度も何度も読みました」と、教皇は枢機卿会議の二日目の最初に話したのです。フランシス教皇が言っていたのは、カスパー枢機卿の講話のことです。「また、私は枢機卿に感謝したい。これが深遠な神学的研究であり、静謐な神学的省察であると思ったからです。静謐な神学を読むことは喜びです。そして、聖イグナチオがsensus Ecclesiae(教会感)と呼んだ、聖にして母なる教会に対する愛を見いだしました……。それは私にとって善いものであり、私には一つの思いが浮かびました──枢機卿、あなたを当惑させるならどうかご容赦を──私の思いとは『跪いて実行する神学』と私たちが呼ぶものです。ありがとう、ありがとう。」[11]

さらなる数々の結果

 カスパー枢機卿の講話の後、枢機卿会議の席で受けた反対の他に、言うまでもなく、賛成する者もいました。ミュンヘン大司教であるマルクス枢機卿はカスパー枢機卿の講話に熱狂的反応を見せました。マルクス枢機卿は、この講話はその後すぐには終わることのない議論の「序章」であった、と述べました。教理聖省長官であるミュラー枢機卿が、カトリックの教え、特に結婚の非解消性と、その結果として、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが聖体拝領をすることが不可能なことを喚起した時、マークス枢機卿は、ミュラー枢機卿を、公に、辛辣に叱りつけました。ウィーン大司教であるシェーンボルン枢機卿も、この講話に感動したと述べました。シェーンボルン枢機卿はウィーンの大司教区新聞の最新号で、カスパー枢機卿の講話を「素晴らしくよく練られた」ものであり「傑出している」と書きました。シェーンボルン枢機卿は、これは「家族の問題がどこにあるかを探ること」であるとしています。[12]

 カスパー枢機卿の講話によって開かれた傷口は、長い時間をかけて化膿していくでしょうし、枢機卿が教皇に支援されていることもあり、キリストの肢体を酷く傷つけ続けることでしょう。ミュンスターでのドイツ司教全体会議の席では、特に新しい議長を選んだ時、たちまち明白な分裂が見られました。

 今巻き起こり始めた議論は、堤防にできた新しい亀裂です。これは、パウロ六世の回勅フマネ・ヴィテが出た後の「ケーニッヒシュタイン宣言」によって起きた議論に似ています。この宣言文書の中でドイツの司教たちは結婚した夫婦が個人の良心に従うことができると決定しました。フライブルク大司教区の大司教区司牧的ケア・オフィスによって二〇一三年九月に発行された「司牧的ケアに対する援助」という文書を読むと、結婚の倫理に対する今後の結果を予測することができます。そこには、次のようなことも書かれています。

「二度目の結婚の絆は、結婚という秩序ある形をとり永久に同居するという断固たる、公に目に見える形の意志を示した道徳的現実として、相当長い期間にわたって続いたものでなくてはならない……」「二人が共同して実現する人間的価値に基づき、とりわけ互いへの責任を負う意志を公的な、法的拘束力を持つ形で示しているため」、このような伴侶たちは、「道徳的な認定を受けるに値する……。この二人は、自分たちの生活の中で天主から配慮を受け、守られているとみずから確信できることを望んでいる。二人は新たな人生計画の大胆な門出のための力づけと信頼を与える司牧的ケアを受けることを望んでいる……。このしるしとしての祝福とろうそくの儀式を行なう……」

 これに従って、このような二人を祝福する典礼儀式が行われます。「復活の大ろうそくから一本のろうそくを灯し、二人はそのろうそくを一緒に持つ。」そして次のような祈りをすることが勧められています。「祈りましょう。永遠の天主よ、私たちはあなたのうちに許し、愛、新しい命を見いだします。あなたはすべての命を輝かせてくださいます。このろうそくを祝福してください。ちょうどこのろうそくの光が闇を照らし出すように、あなたはすべての人間の人生の道のりに光を照らしてくださいます。○○と△△のために光となってください。彼らが幸福な日々にあなたを賛美し、逆境においてはあなたの助けを通して回復し、彼らが行うすべてのことにおいてあなたの支えがあると実感できますように。私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン。状況や場所によっては、(新しい)全家庭のための祈り(祝福の本、239ページ)を唱え、家庭の祝福(祝福の本、270ページ)を行なうのがよい。」

 これは、同棲を祝福し、従って罪を祝福することにならないはずがないではありませんか?

 カスパー枢機卿は、その提案において、秘跡による聖体拝領は、同棲状態で暮らしているカトリック信者たちのうちの一握りの少数のためだけになるであろうとしています。しかし、この選別をする責任者は誰なのでしょうか?そうすると、それ以外の人たちはすべて愚かな人に見えるのではないのでしょうか?「ケーニッヒシュタイン宣言」の時と同様に、ダムは既に決壊しており、問題とされている人々による汚聖的な聖体拝領は、たちまちあらゆるところで例外ではなく原則になってしまうことでしょう。

 新近代主義者たちは、公会議において、また公会議後に、信仰と教会の聖伝を著しく傷つけましたが、少なくとも公けには、教会の道徳的教えをある程度まで擁護していました。カスパー枢機卿は今や、これをも攻撃するためのトランペットを吹き鳴らしているのです。

結婚に関する教会の教え

 キリスト者の結婚は、天主がその民と交わした契約、いやむしろ、イエズス・キリストと彼の教会との間の婚姻的一致を霊的に写したものです。一旦婚姻がなされれば解消はできず、また婚姻は主ご自身によって、まことの、正当な秘跡として制定されたものです。婚姻の第一の目的は命を伝え、天主によって与えられた子どもたちをまことのキリスト者にするよう養育することです。第二の目的は配偶者相互の扶助と聖化です。加えて、無秩序な肉の欲望に対する薬でもあります。

 男女の絆としての婚姻の尊厳と聖性と非解消性を擁護するため、キリストのみことばを引用しましょう。「人は神がお合わせになったものを離してはならない」(マテオ19章6節)、また「自分の妻を出してほかの女と結婚する人は姦通をおかし、夫から出された女と結婚する人も姦通をおかすのである。」(ルカ16章18節)ですから、キリスト者が自分の配偶者が生きている間に新しい民事的結婚を行なうなら、それは姦淫であり、秘跡にあずかるのを妨げる重大な罪です。「思い誤るな、姦通するものは……神の国を嗣がない。」(コリント前書6章9節参照)これこそが教会の永遠の教えであり、一五六三年十一月十一日、トリエント公会議が第24総会の第7カノンにおいて最高の明確さをもって、改めて定めたものです。婚姻の秘跡についてのカノン7にはこう書かれています。

「婚姻の絆は、配偶者の一方が姦淫を犯したという理由で解消することができず、姦淫の機会を与えることのなかった無辜の配偶者も含め、配偶者の双方が、相手方の配偶者の生存中に別の婚姻をすることができず、姦淫を犯した女を去らせた後に他の女と結婚する男は姦淫の罪を犯すこと、また姦淫を犯した男を去らせた後に他の男と結婚する女も同様に姦淫の罪を犯すこと、これらのことを聖書と使徒たちの教理[マテオ5章32節、19章9節、マルコ10章11節以下、ルカ16章18節、コリント前書7章11節参照]に基づいて、教会が過去にも現在でも教えていることについて、教会が誤っていると言う者は排斥される。」[13]

 最近では、教理聖省が一九九四年九月十四日付の手紙の中で、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの聖体拝領について、これを否定しました。これに対して強硬な反対があったため、ラッツィンガー枢機卿は、抗議と非難とに答えて結婚の非解消性についての教会の教えを再度確認しました。

 十五世紀には、イギリスのヘンリー八世が女官のアン・ブーリンと新しい結婚をしようと試みたとき、ローマ聖座は、結果として一つの国全体がローマ教会から離れてしまうという高い代価を払っても、婚姻の聖性を守りました。さらにさかのぼれば、すでに洗者ヨハネが不義を犯したヘロデを咎めています。「兄弟の妻をめとるのはよろしくない。」(マルコ6章18節)この証言をしたために、洗者ヨハネは自分の命を捨て、血を流しました。教会の聖職者たち、誰よりもまず、司教たちとローマ聖座の代表者たちが、真理と揺るぎなさに対する愛を示すことによってのみ、キリスト教世界を回復させることができるのです。


二〇一四年三月二十五日、ツァイツコーフェンにて
聖母へのお告げの祝日
フランツ・シュミットバーガー神父
イエズスの聖心神学校校長
聖ピオ十世会前総長

†††

[1] 引用は雑誌「Der Spiegel」vol. 2014, no. 5.より。
[2] ノルベルト・クチュキ編「Gott heute: 15 Beiträge zur Gottesfrage」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 1967)中のエッセイ、ヴァルター・カスパー「“Gott in der Geschichte”」、強調点は筆者。
[3] ヴァルター・カスパー「Einführung in den Glauben」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 1974, 19837)、9.4章、148ページ。
[4] ヴァルター・カスパー「Jesus der Christus」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 19787)、パートII: Geschichte und Geschick Jesu Christi, III章, 105-106ページ。
[5] 上掲書、106ページ。
[6] 上掲書、106ページ。
[7] 上掲書、149-150ページ。
[8] 上掲書、129ページ。
[9] Theologische Meditationenシリーズ(Zürich, Einsiedeln, Köln, 1973)第32巻、ヴァルター・カスパー、ユルゲン・モルトマン「Jesus ja―Kirche nein?」中のヴァルター・カスパー「“Jesus und der Glaube”」、20ページ。
[10] ヴァルター・カスパー「Einführung in den Glauben」、55ページ。
[11] 「“Pope Francis greets Ukrainian Cardinals and praises Cardinal Kasper’s ‘kneeling theology’”」、Vatican Information Service、2014年2月21日。
[12] ジウゼッペ・ナルディ、Katholisches.info、2014年2月27日。
[13] デンツィンガー、「The Sources of Catholic Dogma」、Roy J. Deferrari翻訳[1955]、原書はHeinrich Denzingerの「Enchiridion Symbolorum」第30版(Fitzwilliam, NH: Loreto Publications, no date)、297ページ。

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