2019年8月11日(主日)聖霊降臨後第9主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月11日、聖霊降臨後第9主日のミサをしております。
今日は遠くから小さなお友達がたくさん来てくれて、嬉しく思います。
8月15日は聖母の被昇天で、残念ながら今年はミサをする事ができませんが、皆さんで「お祈りの会をしよう」という話を聞きました。「朝の10時半からロザリオを唱えよう」と。ここに来られる事ができなくても、どうぞロザリオをたくさん唱えて下さい。
次の主日、来週の18日には、やはり夕方からミサがあります。その日はフォルティン神父様、アメリカの神父様が来て下さいます。
“Eo quod non cognoveris tempus visitationis tuae.”
「お前は、お前を訪問する時を知る事ができなかったから。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo credit
愛する兄弟と皆さん、今日私たちの与っているミサは、典礼歴が行くにしたがって公教会は、「私たちの最後の審判」や、「世の終わり」や、「私たちの死の準備をするように」と、ますます準備をしています。
今日もやはり、同じテーマでミサが構成されています。今日のテーマは、少し私たちに、「さぁ、注意しなさい。イエズス様は私たちの事をとても深く愛しています。でも、もしも私たちが、そのイエズス様がこんなにも愛しているにかかわらず、こんなにも私たちの為にして下さるにもかかわらず、私たちがその恩を、その愛を認識しないならば、私たちがその愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。つまり地獄にさえも落ちてしまうかもしれない。その危険がある」という事を警告しています。
一体どういう事なのでしょうか?
その今日は、3つのポイントで黙想してみましょう。
⑴1つは、聖パウロの書簡です。今日聖パウロが何を言っているのか?という事に耳を澄まして聞いて下さい。
⑵第2には、福音です。今日イエズス様が一体何を福音で仰っているのか?という事を聞いて下さい。今日は仰っている事よりも、その「御姿」を見て下さい。
⑶最後に、では今日の良い決心を立てる事にしましょう。
この黙想をする時に、では今日は、「イエズス様の聖心が、涙を流して泣いている」という姿を想像して下さい。秋田のマリア様の御像は、涙は流されました。ラ・サレットの聖母も涙されました。今日、ファチマのマリア様も涙を流していると想像してみて下さい。こんなに私たちを愛しているにも関わらず、霊魂がその愛に応えないその様子を見て、流している涙です。
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⑴では書簡では、聖パウロは何と言っているのでしょうか?
聖パウロはとても悲しい事実を私たちに言います。「イスラエル」という、天主様から特別に愛された民族があります。世界中のあらゆる民族の中から特別に選ばれて、この民族だけは特別に預言者を送り、特別な光を以て導き、そして真理を教え、特別な愛情を注いで育て上げた、特別な民です。今でもこの民族からは、そのおかげか、立派な頭の良い人たちがたくさん出ています。
これほど天主から愛されて、これほど御恵みを溢れるばかりに受けて、そして天主様がもう嫉妬、妬み深い愛を以て、この民を愛していました。
歴史を見ると本当にそうです。
エジプトで奴隷状態だった時には、その奴隷状態から奇跡を以て解放しました。モーゼという指導者を送りました。そしてファラオというものすごい強力な軍隊があった、エジプトの軍隊があったのですけれども、それを徹底的に全滅させました。その軍隊から追われた時には、紅海という海を真っ二つに分けて、乾いた土地を海の底を歩いて行きました。でもエジプト軍は、この海に全て巻き込まれてしまいました。呑まれてしまいました。全滅です。
シナイの砂漠を約束の地まで導く為に、特別にその道しるべとなるように、昼間の間は雲の柱が、そして夜には火の柱が、その民を導き、守っていました。砂漠では食べる物が無かったので、空から「マンナ」という特別のパンを降らして、養っていました。何十年。
水が無かったので、岩から奇跡的に、水を湧き出しました。
多くの勝利がありました。カナアンという地にいた王たちは、このイスラエルを滅ぼそうとしましたけれども、却って滅ぼされました。
イスラエルは、多くの素晴らしい預言者や王たちを輩出させて、その建てた神殿、その宮殿は、皆の感嘆の的でした。
これほど愛と御恵みを受けた民ですけれども、一体彼らは何をしたかというと、その天主様の御恵みを受けながらも、悪を犯しました。「してはいけない」と言われていたのにもかかわらず、それをしました。偶像崇拝、不潔ないやらしい事をしたり。
ある日は、その為に天主はどうしても罰せざるを得ずに、1日の間に、2万3千人滅ぼされました。
聖パウロはそういう事を言いながら、こう言います、「彼らは前兆として、前印として、こういう事が起こっている。なぜかというと、これは私たちに対しての教えとなる為に。」
では何を教えているかというと、「それほど愛された民でも、悪をすると、それは滅ぼさなければならない、悪はそのまま、悪い事をすればしたまま、そのままいる事ができない。どうしても天主の正義は、それを罰せざるを得ない」という事です。
福音を見て下さい。イエズス様は泣いているのです。創造主、全宇宙を創って、その支配している贖い主、最後の審判の時の審判官、人類の最高の主権者、最高の方が、イエズス様が、自分の愛する、特別に愛した民を見て、涙を流している。これほど愛した事がない、これほどの愛を注いだ事がない、その人たちと一緒に生活しようとさえ望んだ、その人たちが、天主を拒否し、認めようとしなかったから。
考えて下さい。誰かお友達がいて、「危ない!行ってはいけない!そうしたら事故に遭ってしまう!」
「大丈夫だよ。」
本当に事故に遭ったとします。あれほど仲良かった友達が怪我をした。どれほど残念でしょうか。
お父さんやお母さんが愛して、いつも目にかけていた子供が、あるいは娘が、あるいは息子が、悪い、悪の道に染まってしまった。どうしてもその悪の道にはまってしまって、がんじがらめになってしまって、もう出られない。ヤクザの道に入ってしまった。どれほど心が痛む事でしょうか。もう泣いても泣いても、「あぁ、もううちの子は本当に…」と言って、泣き暮れる日々を送るかもしれません。
イエズス様の悲しみは、更にそれよりも強かったのです。あれほどの、あれほど愛されたその民が、天主の恵みを受け入れなかった。
何という悲しい事でしょうか。イエズス様は涙を流されました。
平和をもたらすものを認めなかったから。もしも今、今この時に、それを認めてさえいたら、そんな事はないのに。しかし、もうレッドラインを超えてしまいました。もうやってはいけない事さえ、し始めてしまいました。
イエズス様はですから、その論理的な結果を予言するしかありませんでした、「残念だけれども、エルサレムは崩壊する。無くなってしまう。神殿の上には、石の上に石も残らなくなってしまう。真っ平らになってしまう。」
本当に起こりました。西暦70年、ローマ皇帝ヴェスパシアヌス。どうしてもその軍隊を起こさずには得なくなってしまい、ユダヤ人が反乱をしたので、それを平定する為に行きました。ローマ皇帝は、「神殿を残したい、できればそれを残したい」と思いつつも、しかしユダヤ人たちがローマ人を挑発したので、そしてどうしても火が飛んで、そして本当に、エルサレムは全く無くなってしまいました。名前さえも変えられてしまいました。
⑵では一体今日、私たちに一体福音はどういう事を教えてるのでしょうか?
これは、私たちはイエズス様から天主様から、ものすごい愛を受けています。光を受けています。御恵みを受けています。教えを受けています。特別の聖寵を受けて、助けられています。「これを私たちは、決して無駄にしてはいけない」という事です。
聖パウロは言います、「だから、もしも今立っていると思う者があるならば、注意して倒れないようにせよ。私たちが今立っているのは、今私たちが良い道を歩く事ができるのは、これは全て御恵みのおかげだから。私たちが自分で、一人でやっているのではないから。」
私たちが今こうあるのも、御恵みです。お父さんもお母さんもいらして、そしてこう助けられて、今天主様からの御恵みで、こうあるのだ。だから私たちは、いつも警戒して、そして謙遜に道を歩まなければならない、という事を教えています。
天主様は私たちを、悪の道から、罪の危険から逃れるように、特別の御恵みを与えています。時々は、私たちがたまたま読んだ、あるいは聞いた一言、あるいは先生が、あるいはお母さん、あるいは神父様が言った「これが良いよ」と言うその言葉。
あるいはたまたま、「あ、こうじゃないか」という特別の聖霊からの息吹。
「あぁ、自分はこんな欠点があるなぁ」と分かった事。
もっとイエズス様の事を「あぁ、こうなんだ」と、「だから悪に近寄ってはいけない」と理解した時。
でも、もしもそのような特別の御恵みを受けながら、それを無視して、「大丈夫だよ。僕は一人で、自分の事をやれるから大丈夫だ」と言うと、大体の場合には、悲しい辛い結果があって、一生悔やむ事になります、「あぁ、あの時ああすれば良かったなぁ」と。
でもその時には、もしもその事が重大であれば重大であるほど、そして悪魔は少しずつ、少しずつ、悪へと誘うので、注意して下さい。
悪への誘いのみならず、天主様は、「もっと善に上がるように、良い聖徳を積むように、お祈りの生活がよくできるように、あるいはますます愛徳のあるように、生活ができるように」と、私たちを招いて、特別の御恵みで満たして下さいます。
「あぁ、こんなに聖なる素晴らしい生活が、こんなに立派な人になったら良いなぁ。」「あぁ、こうする為にはどうしたら良いのだろうか。」「あぁ、」色々な御恵みが与えられます。
その時には時々は私たちは、「あぁ、そうすると自分の好きな事ができないから。」「あぁ、好きなテレビも見られないし、コンピューターゲームもできないし、インターネットも、YouTubeも…」と言うと、その自分のやりたい事の為に、天主様が望んでいる聖徳が、拒否される危険があります。そして多くの場合、自分の為に、自分を愛するが為に、御恵みが無駄になってしまって、どれほど多くの御恵みが残念な事に、愛が、無駄になっているでしょうか。
時々私たちが見る立派な模範や、聖人たちの模範、聖人伝などを見ると、本当に立派なもので、それらに私たちは励まされて、善の道を、より良い道を歩むように致しましょう。
⑶では、その為にはどうしたら良いでしょうか?
「私たちの心を、私たちの霊魂を、私たちの体を、祈りの家にしなさい」と、今日福音で言っています。私たちの心から余分なものを取り払って、「私の家は、祈りの家と言われている」とイエズス様は教えています。私たちの心を、祈りで満たす事に致しましょう。
マリア様はそうでした、そうなさっていました。どうぞマリア様にお祈りして下さい、私たちがいつも危険から免れますように、イエズス様やマリア様を御悲しませするという事がありませんように、お祈りなさって下さい。その為にたくさん、マリア様にお祈りして下さい。
「お前が、その訪問の時を知らなかったから。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月11日、聖霊降臨後第9主日のミサをしております。
今日は遠くから小さなお友達がたくさん来てくれて、嬉しく思います。
8月15日は聖母の被昇天で、残念ながら今年はミサをする事ができませんが、皆さんで「お祈りの会をしよう」という話を聞きました。「朝の10時半からロザリオを唱えよう」と。ここに来られる事ができなくても、どうぞロザリオをたくさん唱えて下さい。
次の主日、来週の18日には、やはり夕方からミサがあります。その日はフォルティン神父様、アメリカの神父様が来て下さいます。
“Eo quod non cognoveris tempus visitationis tuae.”
「お前は、お前を訪問する時を知る事ができなかったから。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo credit
愛する兄弟と皆さん、今日私たちの与っているミサは、典礼歴が行くにしたがって公教会は、「私たちの最後の審判」や、「世の終わり」や、「私たちの死の準備をするように」と、ますます準備をしています。
今日もやはり、同じテーマでミサが構成されています。今日のテーマは、少し私たちに、「さぁ、注意しなさい。イエズス様は私たちの事をとても深く愛しています。でも、もしも私たちが、そのイエズス様がこんなにも愛しているにかかわらず、こんなにも私たちの為にして下さるにもかかわらず、私たちがその恩を、その愛を認識しないならば、私たちがその愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。つまり地獄にさえも落ちてしまうかもしれない。その危険がある」という事を警告しています。
一体どういう事なのでしょうか?
その今日は、3つのポイントで黙想してみましょう。
⑴1つは、聖パウロの書簡です。今日聖パウロが何を言っているのか?という事に耳を澄まして聞いて下さい。
⑵第2には、福音です。今日イエズス様が一体何を福音で仰っているのか?という事を聞いて下さい。今日は仰っている事よりも、その「御姿」を見て下さい。
⑶最後に、では今日の良い決心を立てる事にしましょう。
この黙想をする時に、では今日は、「イエズス様の聖心が、涙を流して泣いている」という姿を想像して下さい。秋田のマリア様の御像は、涙は流されました。ラ・サレットの聖母も涙されました。今日、ファチマのマリア様も涙を流していると想像してみて下さい。こんなに私たちを愛しているにも関わらず、霊魂がその愛に応えないその様子を見て、流している涙です。
Photo Credit
⑴では書簡では、聖パウロは何と言っているのでしょうか?
聖パウロはとても悲しい事実を私たちに言います。「イスラエル」という、天主様から特別に愛された民族があります。世界中のあらゆる民族の中から特別に選ばれて、この民族だけは特別に預言者を送り、特別な光を以て導き、そして真理を教え、特別な愛情を注いで育て上げた、特別な民です。今でもこの民族からは、そのおかげか、立派な頭の良い人たちがたくさん出ています。
これほど天主から愛されて、これほど御恵みを溢れるばかりに受けて、そして天主様がもう嫉妬、妬み深い愛を以て、この民を愛していました。
歴史を見ると本当にそうです。
エジプトで奴隷状態だった時には、その奴隷状態から奇跡を以て解放しました。モーゼという指導者を送りました。そしてファラオというものすごい強力な軍隊があった、エジプトの軍隊があったのですけれども、それを徹底的に全滅させました。その軍隊から追われた時には、紅海という海を真っ二つに分けて、乾いた土地を海の底を歩いて行きました。でもエジプト軍は、この海に全て巻き込まれてしまいました。呑まれてしまいました。全滅です。
シナイの砂漠を約束の地まで導く為に、特別にその道しるべとなるように、昼間の間は雲の柱が、そして夜には火の柱が、その民を導き、守っていました。砂漠では食べる物が無かったので、空から「マンナ」という特別のパンを降らして、養っていました。何十年。
水が無かったので、岩から奇跡的に、水を湧き出しました。
多くの勝利がありました。カナアンという地にいた王たちは、このイスラエルを滅ぼそうとしましたけれども、却って滅ぼされました。
イスラエルは、多くの素晴らしい預言者や王たちを輩出させて、その建てた神殿、その宮殿は、皆の感嘆の的でした。
これほど愛と御恵みを受けた民ですけれども、一体彼らは何をしたかというと、その天主様の御恵みを受けながらも、悪を犯しました。「してはいけない」と言われていたのにもかかわらず、それをしました。偶像崇拝、不潔ないやらしい事をしたり。
ある日は、その為に天主はどうしても罰せざるを得ずに、1日の間に、2万3千人滅ぼされました。
聖パウロはそういう事を言いながら、こう言います、「彼らは前兆として、前印として、こういう事が起こっている。なぜかというと、これは私たちに対しての教えとなる為に。」
では何を教えているかというと、「それほど愛された民でも、悪をすると、それは滅ぼさなければならない、悪はそのまま、悪い事をすればしたまま、そのままいる事ができない。どうしても天主の正義は、それを罰せざるを得ない」という事です。
福音を見て下さい。イエズス様は泣いているのです。創造主、全宇宙を創って、その支配している贖い主、最後の審判の時の審判官、人類の最高の主権者、最高の方が、イエズス様が、自分の愛する、特別に愛した民を見て、涙を流している。これほど愛した事がない、これほどの愛を注いだ事がない、その人たちと一緒に生活しようとさえ望んだ、その人たちが、天主を拒否し、認めようとしなかったから。
考えて下さい。誰かお友達がいて、「危ない!行ってはいけない!そうしたら事故に遭ってしまう!」
「大丈夫だよ。」
本当に事故に遭ったとします。あれほど仲良かった友達が怪我をした。どれほど残念でしょうか。
お父さんやお母さんが愛して、いつも目にかけていた子供が、あるいは娘が、あるいは息子が、悪い、悪の道に染まってしまった。どうしてもその悪の道にはまってしまって、がんじがらめになってしまって、もう出られない。ヤクザの道に入ってしまった。どれほど心が痛む事でしょうか。もう泣いても泣いても、「あぁ、もううちの子は本当に…」と言って、泣き暮れる日々を送るかもしれません。
イエズス様の悲しみは、更にそれよりも強かったのです。あれほどの、あれほど愛されたその民が、天主の恵みを受け入れなかった。
何という悲しい事でしょうか。イエズス様は涙を流されました。
平和をもたらすものを認めなかったから。もしも今、今この時に、それを認めてさえいたら、そんな事はないのに。しかし、もうレッドラインを超えてしまいました。もうやってはいけない事さえ、し始めてしまいました。
イエズス様はですから、その論理的な結果を予言するしかありませんでした、「残念だけれども、エルサレムは崩壊する。無くなってしまう。神殿の上には、石の上に石も残らなくなってしまう。真っ平らになってしまう。」
本当に起こりました。西暦70年、ローマ皇帝ヴェスパシアヌス。どうしてもその軍隊を起こさずには得なくなってしまい、ユダヤ人が反乱をしたので、それを平定する為に行きました。ローマ皇帝は、「神殿を残したい、できればそれを残したい」と思いつつも、しかしユダヤ人たちがローマ人を挑発したので、そしてどうしても火が飛んで、そして本当に、エルサレムは全く無くなってしまいました。名前さえも変えられてしまいました。
⑵では一体今日、私たちに一体福音はどういう事を教えてるのでしょうか?
これは、私たちはイエズス様から天主様から、ものすごい愛を受けています。光を受けています。御恵みを受けています。教えを受けています。特別の聖寵を受けて、助けられています。「これを私たちは、決して無駄にしてはいけない」という事です。
聖パウロは言います、「だから、もしも今立っていると思う者があるならば、注意して倒れないようにせよ。私たちが今立っているのは、今私たちが良い道を歩く事ができるのは、これは全て御恵みのおかげだから。私たちが自分で、一人でやっているのではないから。」
私たちが今こうあるのも、御恵みです。お父さんもお母さんもいらして、そしてこう助けられて、今天主様からの御恵みで、こうあるのだ。だから私たちは、いつも警戒して、そして謙遜に道を歩まなければならない、という事を教えています。
天主様は私たちを、悪の道から、罪の危険から逃れるように、特別の御恵みを与えています。時々は、私たちがたまたま読んだ、あるいは聞いた一言、あるいは先生が、あるいはお母さん、あるいは神父様が言った「これが良いよ」と言うその言葉。
あるいはたまたま、「あ、こうじゃないか」という特別の聖霊からの息吹。
「あぁ、自分はこんな欠点があるなぁ」と分かった事。
もっとイエズス様の事を「あぁ、こうなんだ」と、「だから悪に近寄ってはいけない」と理解した時。
でも、もしもそのような特別の御恵みを受けながら、それを無視して、「大丈夫だよ。僕は一人で、自分の事をやれるから大丈夫だ」と言うと、大体の場合には、悲しい辛い結果があって、一生悔やむ事になります、「あぁ、あの時ああすれば良かったなぁ」と。
でもその時には、もしもその事が重大であれば重大であるほど、そして悪魔は少しずつ、少しずつ、悪へと誘うので、注意して下さい。
悪への誘いのみならず、天主様は、「もっと善に上がるように、良い聖徳を積むように、お祈りの生活がよくできるように、あるいはますます愛徳のあるように、生活ができるように」と、私たちを招いて、特別の御恵みで満たして下さいます。
「あぁ、こんなに聖なる素晴らしい生活が、こんなに立派な人になったら良いなぁ。」「あぁ、こうする為にはどうしたら良いのだろうか。」「あぁ、」色々な御恵みが与えられます。
その時には時々は私たちは、「あぁ、そうすると自分の好きな事ができないから。」「あぁ、好きなテレビも見られないし、コンピューターゲームもできないし、インターネットも、YouTubeも…」と言うと、その自分のやりたい事の為に、天主様が望んでいる聖徳が、拒否される危険があります。そして多くの場合、自分の為に、自分を愛するが為に、御恵みが無駄になってしまって、どれほど多くの御恵みが残念な事に、愛が、無駄になっているでしょうか。
時々私たちが見る立派な模範や、聖人たちの模範、聖人伝などを見ると、本当に立派なもので、それらに私たちは励まされて、善の道を、より良い道を歩むように致しましょう。
⑶では、その為にはどうしたら良いでしょうか?
「私たちの心を、私たちの霊魂を、私たちの体を、祈りの家にしなさい」と、今日福音で言っています。私たちの心から余分なものを取り払って、「私の家は、祈りの家と言われている」とイエズス様は教えています。私たちの心を、祈りで満たす事に致しましょう。
マリア様はそうでした、そうなさっていました。どうぞマリア様にお祈りして下さい、私たちがいつも危険から免れますように、イエズス様やマリア様を御悲しませするという事がありませんように、お祈りなさって下さい。その為にたくさん、マリア様にお祈りして下さい。
「お前が、その訪問の時を知らなかったから。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。