2019年10月6日(主日)聖霊降臨後第17主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者カトリック巡回教会にようこそ。
今日は2019年10月6日、聖霊降臨後第17主日のミサを行なっております。
今日の御ミサにいらっしゃった、カトリック信徒の方もそうでない方も、全ての方を心から歓迎致します。この聖伝のカトリックのミサの事をご存知ない方は、ミサの間ずっとお席に座って頂いても構いません。信者の方々と一緒に立ったり座ったり、跪いて下さっても結構です。
ミサの終わり頃、パンの形をした御聖体が信者の方々に授けられます。成聖の状態にあるカトリックの信者のみが、御聖体を受ける事ができます。カトリックの信者の方は、ここに来られて跪いて、口で聖体拝領なさって下さい。カトリック教会で洗礼を受けていらっしゃらない方々は、席に着いたままでいらして下さるようにお願い致します。
ミサの終了後、ミサの後の祈りを日本語で、そしてアンジェルスの祈りをラテン語で、皆で唱えます。皆さんも是非、これらの祈りに心を合わせて唱えて頂ければ幸いです。
このミサの後の祈りの直後に、聖体降福式という儀式もあります。これは、御聖体を皆で礼拝する、という簡単な儀式です。皆さんも参加して頂ければと思っております。
その後、少しの休息の後に、司祭は赤ちゃんを産んだお母さんに祝別を与えます。司祭による儀式の説明の後に、儀式を始めるにあたって、司祭とお母さんは入り口の方に参ります。これは、お潔めの式をなさった聖母に倣って「お母さんも教会に迎え入れる」という意味があります。その後またここに戻って、その続きを行ないますので、参列者の信者の方々やご友人の方々、ご招待客の皆様におかれては、この儀式の間その場に留まって下さるようにお願い致します。どうぞお母さんの為に、赤ちゃんの為にもお祈り下さい。
そのお母さんの祝別の後、私たちの将来である赤ちゃんのお誕生をお祝いするという意味で、皆さんと一緒にパーティーを開きたいと思っています。ここにいらっしゃる皆さん全員を、是非ともこのパーティーにご招待致します。是非ご参加の上、この私たちの喜びを分かち合って頂ければと思います。そうすれば大変光栄です。
「心を尽くし、力を尽くし、全霊を尽くして、汝の主なる天主を愛せよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、そしてミサに参列された皆さん、友人の皆さん、今日ミサの中で、私たちの主イエズス・キリストが、「最も大切な掟は何か?」という事を尋ねられました。
すぐ答えて、
「心を尽くして、力を尽くして、全てを超えて、天主なる主を愛する。」
「そして第2には、隣人を自分の如く愛する。」
「これにこそ、全ての律法と預言が含まれている、かかっている」と説明されました。
今日はこの事を、この黙想を深めていきたいと思っています。
⑴「主を愛する」というのは、どういう事で、どうしたら良いのだろうか?
⑵愛するには、何か、愛の対象を知らなければ、どういう方を知らなければならないのじゃないか?
⑶私たちはどうしたら良いのか?とても良い方法がある。
という事をぜひ、皆さんに知って頂きたいと思っています。そして今日このミサが終わった時に、「あぁ、カトリック教会では、ああいう風にして主を愛するという事を実践しているのだなぁ。あぁ、そういう事か」と、ご理解してお帰り下さるという事が、私の今日のお話の目標であります。それが達成できれば非常に嬉しく思います。
⑴「天主を愛する。全てを超えて愛する。自分自身に超えて愛する」という事はどういう事なのでしょうか?
天主というのは、私たちに全ての善を与えてくれる、この全ての全宇宙を創った御方を指します。全ての善の究極の根源であり、そして私たちの究極の目的です。私たちが最も望むべきその御方こそ、最高の善、終わりのない命、もうこれ以上ない完成された状態、この尽きる事のない喜びと幸せ、失う事のない至福、間違いのない、そして疑いのない真理、これこそが私たちの求める天主であって、私たちはこれを、「全てに超えて追求せよ」と命じられています。
なぜかというと、私たちはその為にこの世に生を受けたからです。この為にここに生きて、今現在生きているからです。私たちが現在、今この地上にいるのは、日本のここに今いるのは、儚い、あっという間に過ぎてしまう楽しみの為ではありません。
フルトン・シーンという司教様の本を読んでいたら、こういう自分の失敗談が載っていました。自分がまだ小さかった頃、お母さんがクッキーを焼いていたそうです。クッキーで、甘いバターの匂いと、砂糖の香りと、美味しい匂いがしていて、「あぁ、楽しみだ。クッキーを食べたい」と思っていたのですが、でもバターが特に好きだったので、バターをお母さんの所からとって、バターだけを食べて、たくさん食べてしまった。そしたらお腹が痛くなって、クッキーを食べる事ができなかった。ちょうど、これは本当に儚い例えですけれども、この地上の儚いものを、一部だけを間違って愛するが為に、本当の完成された善を、天主を失ってしまった、という事に似てないか、とこの司教様は書いていました。
私たちはですから、全てを超えて、この地上ではなく、究極の、最高の完成された善を、つまり天主を愛さなければなりません。
⑵では第2に、どうしたらそれを得る事ができるでしょうか?愛する事ができるでしょうか?
その為には、愛の対象を知らなければなりません。なぜ私たちがそれを愛する、それに相応しいのか、それを知らなければなりません。その事を知れば知るほど、ますます愛が深くなっていくからです。
天主というのは、私たちに何もしてくれずに、そして何もほったらかしにしておいて、ただ自分の愛だけを独裁的に要求する、暴君のような存在ではありません。北朝鮮のリーダーのような存在ではありません。そうではなくて、私たちを愛して、私たちに全ての善を与えて、私たちを愛で包むがゆえに、そのそれの反応として、私たちからの少しの愛を、私たちの愛を求める天主です。
⑶では、どうやったらその愛を知る事ができるでしょうか?どうやったら私たちが愛に包まれている、という事を知る事ができるのでしょうか?一体何をしたら良いのでしょうか?
それの一番良い方法として「ロザリオ」というお祈りがあります。
皆さんは、「ロザリオ」という言葉を聞いた事があるかもしれませんが、あるいは見た事があるかもしれません。これは昔からカトリック信者が、マリア様に対するお祈りを数える為に使っていた数珠で、そして輪っかのようになっていて、十字架が付いていて、53の玉が付いています。
なぜこのようなものがあるかというと、旧約聖書には、「詩篇」という150の、天主ヤーウェに対する歌があります。その歌を、聖職者・司祭や修道者たちは、それを今でも唱えています。しかし全ての人が、本を持ってラテン語でそれを唱える事ができるわけではありませんでした。そこでその代わりに、聖書の天使が言ったマリア様への言葉を、150回それを繰り返す、というお祈りが発達しました。そしてそのカトリック教会ではそれをお祈りします。
ただそれをお祈りするのみならず、このマリア様へのお祈りを唱えながら、イエズス・キリストが、天主が私たちになさって下さったその愛の業を黙想しながら、考えながら、そのお祈りを何度も繰り返します。
ちょうど、どこかで劇で、劇団が何かの劇をする時、あるいは映画で何かの劇をする時に、ただ俳優がおしゃべりを、セリフを言うだけではあまり効果がありません。その時にバックグラウンドミュージックがあったり、あるいはモーツァルトの曲が流れたり、あるいはその場面に従ってその音楽が流れる事に、効果音がある事によって引き立ちますが、何かそのような感じで、黙想をしながら、マリア様へのお祈りを何度も繰り返します。
何度も繰り返すというのはなぜかというと、私たちがこの受けた御恵みを感謝しているからです。つまり私たちが何度も、「ありがとう」と言ったり、あるいはお母さんが子供に、「あぁ、いい子だね。おぉ、勉強よくやった。あぁ、いい子だ、いい子だ」とか、あるいは恋人が相手に、「愛してるよ」と、何度も何度も絶えずに、絶え間なく繰り返すのと同じです。
そう同じ愛の言葉を繰り返しながら、何を考えるかというと、3つの事を考えます。それは、天主が人となって、私たちと同じ人生を送られた、イエズス・キリストがお生まれになった、という神秘です。これを「喜びの玄義」と言います。
次に、私たちの罪人の代わりに、本当に罪が無かった、義人であった、聖人であった天主御自身が、私たちの代わりにその罪を担って、死刑を受けて、苦しみを受けて、血を流されて、命を捧げられた。「苦しみの玄義」と言います。
最後に、「私たちの人生の究極の目的は、この地上ではなく、天国にある」という事、復活にある。永遠の命だ」という事を黙想させる、「栄えの玄義」です。
キリストの、イエズス・キリスト様の復活と、昇天、そして聖霊が降臨された事、あるいはマリア様が天に昇られた事などを黙想します。
そして私たちの心を天に高く上げます。私たちはこのロザリオを唱える事によって、ますます、どれほど愛を受けているか、という事を知らされます。
つい最近数ヶ月前、横浜で、キリシタンの遺物が発見されました。それによると、それはロザリオの15のこの神秘が、玄義が描かれていました。日本の古代から、キリシタンたちがずっと熱心に黙想して祈っていたのは何か?非常に大切な物として、今でも保存されているものは何か?というと、このロザリオの玄義の事でした。
日本ではこのキリシタンの時代から今に至るまで、このロザリオを非常に大切に黙想して、どれほど私たちが愛を受けているか、どれほど私たちは主を愛さなければならないか、という事を知る為の縁(よすが)にしていました。
10月は特に「ロザリオの月」と言われていて、ロザリオをたくさん唱えるとされています。ですから今日、この主を愛する最も良い手段の内の一つとして、ぜひ皆さんにロザリオの事を知って頂きたい思って、この話を申し上げました。そして是非皆さんに、ロザリオを手に取って頂いて、できればこのロザリオを唱えて下さるようにお願いします。
一つだけこの逸話を入れて、このお話を終えたいと思います。これも先ほど申し上げたフルトン・シーン司教様のお話なのですけれども、第1次世界対戦の時に、あるユダヤ人がオーストリア軍で西部戦線で戦っていて、オーストリアの4名の兵士と一緒にいたのだそうです。
そして塹壕に穴に入っているのですけれども、爆弾がたくさん来て、そのうちにオーストリアの兵士が4名が亡くなってしまいます。一人残されたユダヤ人は、カトリックでもキリスト教徒でもなかったのですけれども、同僚が残したロザリオを手に取って、それを唱えました。なぜかというと、他の同僚と一緒に、彼らが死ぬ前に時々ロザリオを唱えた事があったからです。
そこで唱えていると、何か非常な感覚があって、「ここにいては危ない」と思った時があったのです。そして場所を変えると、その直後にその穴に弾が来て、もしもそのまま残っていたら死んでしまう事だった。そしてそういう事が4回あって、最後に生き残って助かって、フルトン・シン司教様に会いました。そして彼にその話をした、と残しています。そのユダヤ人は、その「ロザリオの力の素晴らしい事に驚いた」と報告しました。
どうぞ皆さん、そのロザリオは、私たちがただ単に主を愛するという事をするのみならず、私たちは更に多くの愛を受ける、保護を受ける手段であるという事も知って下さい。
マリア様に是非お祈り致しましょう。このマリア様は100年前に、ファチマという所に現れて、子供たちにお願いしました、「ロザリオを毎日唱えなさい。戦争は終わるでしょう。世界の平和が来るでしょう。」「ロザリオを唱えなさい。そうすれば世界に平和が来るでしょう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
Photo Credit
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者カトリック巡回教会にようこそ。
今日は2019年10月6日、聖霊降臨後第17主日のミサを行なっております。
今日の御ミサにいらっしゃった、カトリック信徒の方もそうでない方も、全ての方を心から歓迎致します。この聖伝のカトリックのミサの事をご存知ない方は、ミサの間ずっとお席に座って頂いても構いません。信者の方々と一緒に立ったり座ったり、跪いて下さっても結構です。
ミサの終わり頃、パンの形をした御聖体が信者の方々に授けられます。成聖の状態にあるカトリックの信者のみが、御聖体を受ける事ができます。カトリックの信者の方は、ここに来られて跪いて、口で聖体拝領なさって下さい。カトリック教会で洗礼を受けていらっしゃらない方々は、席に着いたままでいらして下さるようにお願い致します。
ミサの終了後、ミサの後の祈りを日本語で、そしてアンジェルスの祈りをラテン語で、皆で唱えます。皆さんも是非、これらの祈りに心を合わせて唱えて頂ければ幸いです。
このミサの後の祈りの直後に、聖体降福式という儀式もあります。これは、御聖体を皆で礼拝する、という簡単な儀式です。皆さんも参加して頂ければと思っております。
その後、少しの休息の後に、司祭は赤ちゃんを産んだお母さんに祝別を与えます。司祭による儀式の説明の後に、儀式を始めるにあたって、司祭とお母さんは入り口の方に参ります。これは、お潔めの式をなさった聖母に倣って「お母さんも教会に迎え入れる」という意味があります。その後またここに戻って、その続きを行ないますので、参列者の信者の方々やご友人の方々、ご招待客の皆様におかれては、この儀式の間その場に留まって下さるようにお願い致します。どうぞお母さんの為に、赤ちゃんの為にもお祈り下さい。
そのお母さんの祝別の後、私たちの将来である赤ちゃんのお誕生をお祝いするという意味で、皆さんと一緒にパーティーを開きたいと思っています。ここにいらっしゃる皆さん全員を、是非ともこのパーティーにご招待致します。是非ご参加の上、この私たちの喜びを分かち合って頂ければと思います。そうすれば大変光栄です。
「心を尽くし、力を尽くし、全霊を尽くして、汝の主なる天主を愛せよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、そしてミサに参列された皆さん、友人の皆さん、今日ミサの中で、私たちの主イエズス・キリストが、「最も大切な掟は何か?」という事を尋ねられました。
すぐ答えて、
「心を尽くして、力を尽くして、全てを超えて、天主なる主を愛する。」
「そして第2には、隣人を自分の如く愛する。」
「これにこそ、全ての律法と預言が含まれている、かかっている」と説明されました。
今日はこの事を、この黙想を深めていきたいと思っています。
⑴「主を愛する」というのは、どういう事で、どうしたら良いのだろうか?
⑵愛するには、何か、愛の対象を知らなければ、どういう方を知らなければならないのじゃないか?
⑶私たちはどうしたら良いのか?とても良い方法がある。
という事をぜひ、皆さんに知って頂きたいと思っています。そして今日このミサが終わった時に、「あぁ、カトリック教会では、ああいう風にして主を愛するという事を実践しているのだなぁ。あぁ、そういう事か」と、ご理解してお帰り下さるという事が、私の今日のお話の目標であります。それが達成できれば非常に嬉しく思います。
⑴「天主を愛する。全てを超えて愛する。自分自身に超えて愛する」という事はどういう事なのでしょうか?
天主というのは、私たちに全ての善を与えてくれる、この全ての全宇宙を創った御方を指します。全ての善の究極の根源であり、そして私たちの究極の目的です。私たちが最も望むべきその御方こそ、最高の善、終わりのない命、もうこれ以上ない完成された状態、この尽きる事のない喜びと幸せ、失う事のない至福、間違いのない、そして疑いのない真理、これこそが私たちの求める天主であって、私たちはこれを、「全てに超えて追求せよ」と命じられています。
なぜかというと、私たちはその為にこの世に生を受けたからです。この為にここに生きて、今現在生きているからです。私たちが現在、今この地上にいるのは、日本のここに今いるのは、儚い、あっという間に過ぎてしまう楽しみの為ではありません。
フルトン・シーンという司教様の本を読んでいたら、こういう自分の失敗談が載っていました。自分がまだ小さかった頃、お母さんがクッキーを焼いていたそうです。クッキーで、甘いバターの匂いと、砂糖の香りと、美味しい匂いがしていて、「あぁ、楽しみだ。クッキーを食べたい」と思っていたのですが、でもバターが特に好きだったので、バターをお母さんの所からとって、バターだけを食べて、たくさん食べてしまった。そしたらお腹が痛くなって、クッキーを食べる事ができなかった。ちょうど、これは本当に儚い例えですけれども、この地上の儚いものを、一部だけを間違って愛するが為に、本当の完成された善を、天主を失ってしまった、という事に似てないか、とこの司教様は書いていました。
私たちはですから、全てを超えて、この地上ではなく、究極の、最高の完成された善を、つまり天主を愛さなければなりません。
⑵では第2に、どうしたらそれを得る事ができるでしょうか?愛する事ができるでしょうか?
その為には、愛の対象を知らなければなりません。なぜ私たちがそれを愛する、それに相応しいのか、それを知らなければなりません。その事を知れば知るほど、ますます愛が深くなっていくからです。
天主というのは、私たちに何もしてくれずに、そして何もほったらかしにしておいて、ただ自分の愛だけを独裁的に要求する、暴君のような存在ではありません。北朝鮮のリーダーのような存在ではありません。そうではなくて、私たちを愛して、私たちに全ての善を与えて、私たちを愛で包むがゆえに、そのそれの反応として、私たちからの少しの愛を、私たちの愛を求める天主です。
⑶では、どうやったらその愛を知る事ができるでしょうか?どうやったら私たちが愛に包まれている、という事を知る事ができるのでしょうか?一体何をしたら良いのでしょうか?
それの一番良い方法として「ロザリオ」というお祈りがあります。
皆さんは、「ロザリオ」という言葉を聞いた事があるかもしれませんが、あるいは見た事があるかもしれません。これは昔からカトリック信者が、マリア様に対するお祈りを数える為に使っていた数珠で、そして輪っかのようになっていて、十字架が付いていて、53の玉が付いています。
なぜこのようなものがあるかというと、旧約聖書には、「詩篇」という150の、天主ヤーウェに対する歌があります。その歌を、聖職者・司祭や修道者たちは、それを今でも唱えています。しかし全ての人が、本を持ってラテン語でそれを唱える事ができるわけではありませんでした。そこでその代わりに、聖書の天使が言ったマリア様への言葉を、150回それを繰り返す、というお祈りが発達しました。そしてそのカトリック教会ではそれをお祈りします。
ただそれをお祈りするのみならず、このマリア様へのお祈りを唱えながら、イエズス・キリストが、天主が私たちになさって下さったその愛の業を黙想しながら、考えながら、そのお祈りを何度も繰り返します。
ちょうど、どこかで劇で、劇団が何かの劇をする時、あるいは映画で何かの劇をする時に、ただ俳優がおしゃべりを、セリフを言うだけではあまり効果がありません。その時にバックグラウンドミュージックがあったり、あるいはモーツァルトの曲が流れたり、あるいはその場面に従ってその音楽が流れる事に、効果音がある事によって引き立ちますが、何かそのような感じで、黙想をしながら、マリア様へのお祈りを何度も繰り返します。
何度も繰り返すというのはなぜかというと、私たちがこの受けた御恵みを感謝しているからです。つまり私たちが何度も、「ありがとう」と言ったり、あるいはお母さんが子供に、「あぁ、いい子だね。おぉ、勉強よくやった。あぁ、いい子だ、いい子だ」とか、あるいは恋人が相手に、「愛してるよ」と、何度も何度も絶えずに、絶え間なく繰り返すのと同じです。
そう同じ愛の言葉を繰り返しながら、何を考えるかというと、3つの事を考えます。それは、天主が人となって、私たちと同じ人生を送られた、イエズス・キリストがお生まれになった、という神秘です。これを「喜びの玄義」と言います。
次に、私たちの罪人の代わりに、本当に罪が無かった、義人であった、聖人であった天主御自身が、私たちの代わりにその罪を担って、死刑を受けて、苦しみを受けて、血を流されて、命を捧げられた。「苦しみの玄義」と言います。
最後に、「私たちの人生の究極の目的は、この地上ではなく、天国にある」という事、復活にある。永遠の命だ」という事を黙想させる、「栄えの玄義」です。
キリストの、イエズス・キリスト様の復活と、昇天、そして聖霊が降臨された事、あるいはマリア様が天に昇られた事などを黙想します。
そして私たちの心を天に高く上げます。私たちはこのロザリオを唱える事によって、ますます、どれほど愛を受けているか、という事を知らされます。
つい最近数ヶ月前、横浜で、キリシタンの遺物が発見されました。それによると、それはロザリオの15のこの神秘が、玄義が描かれていました。日本の古代から、キリシタンたちがずっと熱心に黙想して祈っていたのは何か?非常に大切な物として、今でも保存されているものは何か?というと、このロザリオの玄義の事でした。
日本ではこのキリシタンの時代から今に至るまで、このロザリオを非常に大切に黙想して、どれほど私たちが愛を受けているか、どれほど私たちは主を愛さなければならないか、という事を知る為の縁(よすが)にしていました。
10月は特に「ロザリオの月」と言われていて、ロザリオをたくさん唱えるとされています。ですから今日、この主を愛する最も良い手段の内の一つとして、ぜひ皆さんにロザリオの事を知って頂きたい思って、この話を申し上げました。そして是非皆さんに、ロザリオを手に取って頂いて、できればこのロザリオを唱えて下さるようにお願いします。
一つだけこの逸話を入れて、このお話を終えたいと思います。これも先ほど申し上げたフルトン・シーン司教様のお話なのですけれども、第1次世界対戦の時に、あるユダヤ人がオーストリア軍で西部戦線で戦っていて、オーストリアの4名の兵士と一緒にいたのだそうです。
そして塹壕に穴に入っているのですけれども、爆弾がたくさん来て、そのうちにオーストリアの兵士が4名が亡くなってしまいます。一人残されたユダヤ人は、カトリックでもキリスト教徒でもなかったのですけれども、同僚が残したロザリオを手に取って、それを唱えました。なぜかというと、他の同僚と一緒に、彼らが死ぬ前に時々ロザリオを唱えた事があったからです。
そこで唱えていると、何か非常な感覚があって、「ここにいては危ない」と思った時があったのです。そして場所を変えると、その直後にその穴に弾が来て、もしもそのまま残っていたら死んでしまう事だった。そしてそういう事が4回あって、最後に生き残って助かって、フルトン・シン司教様に会いました。そして彼にその話をした、と残しています。そのユダヤ人は、その「ロザリオの力の素晴らしい事に驚いた」と報告しました。
どうぞ皆さん、そのロザリオは、私たちがただ単に主を愛するという事をするのみならず、私たちは更に多くの愛を受ける、保護を受ける手段であるという事も知って下さい。
マリア様に是非お祈り致しましょう。このマリア様は100年前に、ファチマという所に現れて、子供たちにお願いしました、「ロザリオを毎日唱えなさい。戦争は終わるでしょう。世界の平和が来るでしょう。」「ロザリオを唱えなさい。そうすれば世界に平和が来るでしょう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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