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ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー

フェレー司教



二〇一四年十月三日

司牧は当然、教義に従わなければならない

司教は九月二十三日にミュラー枢機卿と謁見されました。二〇〇五年にベネディクト十六世と謁見された後に出された公式発表では既に、両者は「完全な交わりを目指し……段階的に、適当な期間にわたって話し合いを進める」とされていましたが、今回のバチカン報道局よりの公式発表はこの文言を繰り返したものとなっています。一方、二〇一四年の公式発表では「完全な和解」という言葉が使われています。これは、新規蒔き直しを計るという意味なのでしょうか?

フェレー司教 : その人の立場によっては、答えはイエスでもありノーでもあります。新しいことは何もありません、それは、教義についていまだに意見の相違があり──それは二〇〇九年から二〇一一年の間の神学的対話の際にきわめて明確になったのですが──そのため、二〇一一年以来教理聖省が私たちに提案している教義前提書に私たちが署名できない、ということを私たちの対話の相手も私たち自身も認識している、という意味においてです。

では、新しいこととは何でしょうか?

フェレー司教 : 新たな教皇と新たな教理聖省長官がおられることです。今回の面談が示していることは、先方も私たちも互いの関係を壊すことを望んでいないということです。すなわち、教会法的承認がなされる前に教義的問題を明確にする必要性があると、双方とも主張しているのです。これこそが、ローマ当局者の側からすると、私たちに教義前提書の承認を要求している理由であり、私たちの側からすると、その文書の曖昧さの故に署名できない理由なのです。

さらに新たな事実としては、教会内の危機が現在悪化していることがあります。家庭に関するシノドスを目前にして、離婚したのち再婚したカトリック信者による聖体拝領に関するカスパー枢機卿の提案に対して、枢機卿数名が行なった厳粛かつ理にかなった批判が明るみに出て来ています。かつてオッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿による「新しいミサ形式の短い批判的研究」(1969年のいわゆる「オッタヴィアーニ介入」)による批判が出て以来、ローマではこのようなことはありませんでした。しかし、いまだ変わっていないのは、ローマの当局者が私たちの公会議批判を考慮に入れていないことです。その理由は、今、教会内での深刻な問題があっても、ローマの当局者は私たちの公会議批判を二次的なもの、さらには現実離れしたものであるかのように思っているからです。教会の当局者たちは、今教会を頂点から──現在では枢機卿たちの間でも──揺るがしている危機を理解してはいますが、この前代未聞の危機の主な原因が公会議自体かも知れないとは考えません。これは「耳の聞こえない者同士の対話」のようです。

具体例を挙げていただけますか?

フェレー司教 : カスパー枢機卿の、離婚したのち再婚した人々による聖体拝領に好意的な提案は、私たちがまさに公会議のせいであるとしていることの実例です。今年の二月二十日、カスパー枢機卿が枢機卿会議の席上で他の枢機卿たちに行なった講話の中で提案したことは、公会議で行なわれたことをもう一度行なうことでした。すなわちそれは、カトリック教義を再確認しながら司牧的提案を提示することです。ジャーナリストとの数多くのインタビューで、枢機卿は教義と司牧的実践の区別を執拗に主張しています。枢機卿は、理論上教義は変えられないと言いながら、具体的には、現実的には、教義を適用できない状況が存在するという考え方を持ち出します。そうすると、彼の意見によれば、司牧的アプローチによってのみ解決策が見いだせるというのです……教義を犠牲にすることによってです。

一方私たちは、教義と司牧的実践との間に不自然な区別をしているという点において、 公会議に問題があると考えています。司牧的実践は教義に従わなければならないからです。数多くの司牧的な譲歩を通して実質的な変更が教会内に導入され続けており、教会の教義にも影響が及んでいます。これこそが、公会議の間に、そして公会議の後に起こったことです。今、結婚の倫理に対して用いられようとしている同じ策略も、私たちは非難するのです。

しかし間接的に教義に影響を及ぼした公会議での変更は司牧的な変更だけだったのでしょうか?

フェレー司教 : いいえ、実際には教義そのものについて重大な変更が導入されたことを認めざるをえません。つまり信教の自由、司教団体主義、エキュメニズム等においてです。ですが、これらの変更は具体的な司牧的適用の中に、より明白に、より明らかに現れているのは事実です。なぜなら公会議の文書の中ではこれらの変更は簡単な提案であったり、ほのめかされたりしているだけで、その多くが明確にされてはいないからです……ですからこれらの変更は、前総長であるシュミットバーガー神父の言葉によれば、「時限爆弾」となっているのです。

カスパー枢機卿の提案の中で、公会議中に導入された教義的変更がより明らかになるような司牧的な適用はどこにあるとお考えですか?「時限爆弾」はどこにあるとお考えですか?

フェレー司教 : 枢機卿は、九月十八日のバチカン付記者アンドレア・トルニエッリとのインタビューでこう述べています。「教会の教義というものは閉鎖された制度ではない。第二バチカン公会議が教えることは、教義には発展があり、すなわち教義を更に検討することができるということだ。私たちが教会学で成した、より深い理解と同じようなことをこのケース(すなわち、離婚した後に民事的再婚をしたカトリック信者のケース)に当てはめられるのではないだろうか。カトリック教会はキリストの真の教会であるがカトリック教会の組織的境界を超えたところにも教会的な要素が存在する。秘跡による結婚の要素の一部もまた、民事的結婚の一部のケースにおいて認めることはできないだろうか?例えば、 生涯にわたる献身、互いへの愛と配慮、キリスト教的生活と、内縁関係には存在しないような公的な誓約の宣言である。」

カスパー枢機卿の説はきわめて論理的であり、一切の矛盾がありません。エキュメニズムの名のもとに公会議で詳しく定めされた教会の新原則、すなわち、カトリック教会の外にも教会的な要素があるという新原則を、結婚に対して司牧的に適用することを提案しているのです。枢機卿は教会のエキュメニズムを婚姻のエキュメニズムに論理的に導いています。従って、彼の説によれば、秘跡による結婚の外にもキリスト教的結婚の要素がある、ということになります。これを具体的に考えるには、結婚生活の「エキュメニカルな」忠実、あるいは多様性の中の忠実についてどう思うかと夫婦に対して尋ねるだけで充分でしょう!また同じように、多様性の中で一致した「エキュメニカルな」教義的一致といわれるものを、私たちはいったいどのように考えればよいというのでしょうか?このような結果こそが私たちが非難していることなのですが、教理聖省はこれを理解していないか、あるいは理解したとしてもそれを認めません。

バチカンの公式声明にある「段階的に進める」という表現を、私たちはどう理解すれはよいでしょうか?

フェレー司教 : 教義についての話し合いを、これまでよりもっと幅広い、非公式な枠組みで続けることを、ローマと聖ピオ十世会が相互に望んでいるということです。

ですが二〇〇九年から二〇一一年の教義についての話し合いでは何も達成されませんでした。より幅広いやり方とはいえ、話し合いを再開することに何の意味があるのでしょうか?

フェレー司教 : その理由は、ローマ当局からの招きに応じて必ずローマに赴いたルフェーブル大司教 の例にならって、聖伝に対する私たちの忠実の理由を尋ねる人々に、いつも答えるようにしているからです。私たちはこの責任から逃れるようなことはできませんし、前回の総会で定義された精神と義務に基づいて、これをまっとうしてゆきます。

二〇〇五年にベネディクト十六世が私に接見してくださったことに先ほどちょうど触れてくださったので、そのとき私が「もしも教会が聖伝を守るなら現代世界における教会は、より強固なものとなるということを私たちは示したかった」と言ったことを思い出します。今日も私はこのことを繰り返して言いたいと思います。私たちの証言を教会に捧げたいのです。つまり、教会が現在陥っている悲劇的な危機を終わりにしたいなら、聖伝こそがこの危機への答えです。これこそが、私たちが深く愛している永遠のローマ、真理の母であり教師である教会に対する、子としての私たちの忠誠を示す方法なのです。

これは証言を与えることだとおっしゃいますが、むしろ信仰を告白することではないのでしょうか?

フェレー司教 : どちらか一方だけということではありません。私たちの創立者ルフェーブル大司教は、私たちが信仰を告白するのに用いる神学的議論というのはローマの当局者には必ずしも理解されないが、そうだからといって私たちがそのような神学的議論をする義務から免れるわけではない、とよくおっしゃっていました。加えてルフェーブル大司教は持ち前の超自然的な現実主義から、聖伝の具体的な実り、すなわち、神学校、学校、修道院や、司祭、修道士、修道女の数、また神学生、平信者の数もまた証拠として大きな価値を持っているとおっしゃっていました。これらの目に見える事実に対してうわべだけの議論は通用しません。ラテン語では contra factum non fit argumentum.(事実に反して議論はできない。)といわれます。この場合、このラテン語のことわざを翻訳するとすれば、イエズス・キリストのみことば「木はその実によってわかる」になるでしょう。この意味で、私たちは信仰を告白すると同時に、聖伝の生命力をも証言してゆかなければならないのです。



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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Communiqué from the General House of the Society of Saint Pius X

Entretien avec Mgr Fellay après sa rencontre avec le cardinal Müller
Intervista con Mons. Fellay dopo il suo incontro con il Cardinal Müller
Gespräch mit Msgr. Fellay nach seinem Treffen mit Kardinal Müller
Entrevista a Mons. Fellay luego de su encuentro con el Cardenal Müller
Entrevista de Dom Fellay após o seu encontro com o Cardeal Müller

 


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