アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで、思ったことを書き始めました。
野村よし氏は、カトリック教会の利益のために多く働き、司教様たちに経営者の観点から、マネジメントの観点から、何度も何度も、私的に公式にアドバイスや意見を述べてきた方で、尊敬すべき貴重なカトリック信徒だと思います。このように教会のために献身的になれる方は、多くないと思っています。
私は個人的にも、お会いしたこともなければ、知り合いでもありませんが、その書いたものを読む限りそう思っています。
今回、野村よし氏が執筆に至ったのは、教会を愛するが故に、教会の善を望むが故に、司教様たちに気づいてもらおうと、ついにこのような書を公刊するに至りました。
この書を拝見して思ったこと、前回に書いた私の主張は、次の通りです。
●司教団は「福音宣教」を目的にしていると主張してる。
●しかし、信徒らには、司教団の政治発言は「福音宣教」を妨害していると思える。そのような発言を止めるべきだ、と思われる。目的に合致しない行動を手段としてとることは、誠実ではない、と思われる。
●しかし、司教団は何故「福音宣教」を妨害するような行動を敢えて、使命感に燃えているかのように為し続けているのだろうか?
●前提となっている「福音宣教」の理解が、司教団と信徒とで乖離があると考えるともっとよく説明がつく。
●では、司教団が至上の目的としている「福音宣教」とは何か?司教団の考える「福音宣教」の意味を良く定義する必要がある。
●今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だ。
Photo Credit
ところで、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」をお読みになった方から、次のようなコメントを頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
===引用開始===
「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで
まず感じたのは、私が昔から思っていたことと同じだということです。
すなわち、戦後日本の言論空間にある空気のことです。
この空気には、まず第一に戦前の日本を否定し、悪とみなすという原則があります。
日本軍の悪行を(内実の複雑さを考えずに)断罪し、天皇制のもたらした(と決めつけている)悲惨な結果を非難し、戦争に至る経緯などを考慮しません。
第二に、外国、特に東アジア諸国(中国、韓国、北朝鮮)との関係において戦前日本の悪を強調するという原則です。
これらの国々の醜い姿(中国の周辺民族弾圧や残酷さ、北朝鮮の拉致問題や異常な政治体制、韓国の身勝手さなど)が露呈されたときですら、最後には戦前日本の罪を挙げて、その国々のマイナス面を相対的に小さくしようと試みます。
逆に欧米諸国に対する場合は、そんな遠慮はありません。相手によって使い分けているのです。
この空気は学術、マスコミ界に広く見られ、以前より弱まったものの、依然として力を保持しています。ソ連が崩壊して社会主義の主張が後退した後は、それ以前より戦前日本の悪を強調する傾向が強まっていると感じます。
日本の司教団も日本人として、この空気の中で生きているのですから、人が代わっていけば、その空気の影響を受けます。戦前の状況を体験していない人々が司教になっていけば、司教団もその空気に感染していくのは当然でしょう。
もともとカトリックは、どの国においても皇室、王室に敬意を払ってきたのは歴史的事実です。ですから、戦前は天皇陛下のために祈っていたのです。それがカトリックの本来の姿であり、すでにある秩序は天主の容認を受けているとして尊重するのです。
それを昭和天皇崩御の際に祈るように言わないとは、カトリックであることをやめたとしか考えられません。第四戒「なんじ父母を敬うべし」はどこへ行ったのでしょうか?
左翼思想を取り込んだカトリックとは、いったい何でしょうか? キメラです。
私がノブスオルド教会に通っていたとき、学校の元教師の人が共産党のごとき発言をしていたのを思い出します。例の九条の会のメンバーでした。そんな人が教会の中で役を務めている状況は、幻滅させるのに十分でした。
ですから、カトリック教会がカトリックらしさを取り戻すことが唯一の解決策です。
皇室を敬い、秩序を尊重し、出産を奨励し、つまりは聖伝を取り戻すことです。
===引用終わり===
何故、司教たちは、左翼思想を取り込んでしまったのでしょうか?言い換えると、カトリック教会は、何故、カトリックらしさを失ってしまったのでしょうか?
私はその理由は、第二バチカン公会議にあると主張します。
何故なら、この現象は日本だけではないからです。
例えば韓国では、信徒の方がついに耐えきれずに、野村よし氏のように本を出した方もいます。例えば私の手元にあるのが、「역대 교황의 회칙에 따른 올바른 사회교리 (歴代教皇の回勅による正しい社会教義)」(大韓民国保守天主教人の集い 教義研究書著 대한민국수호천주교인모임 교리연구소 저 2016年)です。
或いは、同じところが公刊している「韓国天主教の残念な現実」Brochure E-bookもあります。
これらは韓国の「天主正義具現司祭団」という左翼思想の司祭たちを問題点を指摘しています。
では、第二バチカン公会議が何故、その原因となったのでしょうか?
【第二バチカン公会議の新しい教え:新しい人間中心主義】
今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義(ニューマニズム)の結果だと私は考えます。
もっと言うと、新しい人間中心主義のために、カトリック教会は、今までの天主教から、民主教への変わりつつある、私は考えます。旧教から新しい教えに変わりつつある、と思います。
新教の民主教とは、別の言葉で言うと、人間の宗教 religion of Man であって、人民による・人民のための・人民の宗教です。Religion of the people, by the peoople, for the people です。
カトリック教会の今までのモットーは、ロヨラの聖イグナチオに代表されるように Ad maiorem Dei gloriam (天主のより大いなる栄光のために)でした。私たちは被造物であり、全てを天主から受けたのであるから、全てを天主に捧げるのが当然であり、ついには天主の御許に至り、天主の超自然の命を分かち合う、そのためにこの地上に生きている、という信仰です。
カトリック教会の方針は、「全ては天主のため、全てを超えて、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くし、全身全霊で天主を愛する、そして天主を愛するが為に隣人を自分の如く愛する」です。天主を信じ、天主に希望し、天主を愛する、です。
ところが、人間中心主義の目的は、人間の尊厳の促進です。つまり、Ad maiorem hominis gloriam (人間のより大いなる栄光のために)です。パウロ六世によれば、これは「世俗の非宗教的な人間中心主義」の目的でもあります。同じパウロ六世によると、この人間中心主義は「最高存在の超越性」を放棄した「自らが神となる人間の宗教」です。
そして、第二バチカン公会議はこの人間中心主義を採用しました。第二バチカン公会議閉会の言葉で、パウロ六世は、公会議が新しい人間中心主義をとっているということを認めています。
「自分たちを現代の人間中心主義者たちと呼び、かつ最も高い現実の超越的な価値を放棄してしまった人々に呼びかけます。この公会議に少なくとも特性を認めて、私たち自身の新しいタイプの人間中心主義(our own new type of humanism)を認めてください。私たちもまた、私たちは誰よりも勝って、人間を崇敬します。」
But we call upon those who term themselves modern humanists, and who have renounced the transcendent value of the highest realities, to give the council credit at least for one quality and to recognize our own new type of humanism: we, too, in fact, we more than any others, honor mankind.
第二バチカン公会議を主催したのはパウロ六世でした。パウロ六世はヨハネ・パウロ二世よりも明確に、公会議の斬新さを認識していました。
パウロ六世は、上記の閉会の言葉では、さらにこうも言っています。
「現代のメンタリティーは、全てのことを有益さという言葉で評価することに慣れていますが、公会議の価値が偉大である、ということをすぐに認めることでしょう、たとえそれが、すべてのことが人間の有用性のために向けられていたが故にと言うことだけだったとしても。それゆえ、誰も、カトリックのような宗教は決して役に立たないとは言うことは決してあり得ません、教会が公会議においてそうであったように、最も深い自覚と効果をもって、全く人間の為に人間に奉仕すると宣言するのを見ているのですから。このやり方で、カトリックの宗教と人間の生活とは、その相互の同盟関係を、たった一つの人間的現実においてこの二つが交わっていることを、再確認します。カトリックの宗教は、人類のためにあります。(…)」
The modern mind, accustomed to assess everything in terms of usefulness, will readily admit that the council's value is great if only because everything has been referred to human usefulness. Hence no one should ever say that a religion like the Catholic religion is without use, seeing that when it has its greatest self-awareness and effectiveness, as it has in council, it declares itself entirely on the side of man and in his service. In this way the Catholic religion and human life reaffirm their alliance with one another, the fact that they converge on one single human reality: the Catholic religion is for mankind. (…)
教皇にとって、カトリックの宗教は人類のためにあり、現代人のために仕え、奉仕し、人間を促進させるために、カトリック教会は新しい態度を取り出しました。この態度の変化に合わせて、カトリック教会は自分が何であるかを再定義したのです。
パウロ六世は、第二バチカン公会議の目的は、新しい人間中心主義でもある、と宣言します。「私たちもまた、そして誰よりも勝って、人間の高揚する者です」と。
【新しい「福音宣教」と新しい人間中心主義はどのような関係があるのか?】
第二バチカン公会議以後、多くのことが変わりました。新しいミサ、新しい典礼、新しい教会法、新しい公教要理、新しい教導職、などなど。旧教から新教になり、新しい教会になってしまったようです。
一体何故、そんなに新しいことを導入したのでしょうか?何故なら、第二バチカン公会議によれば、人類は新しい時代に突入したとされるからです。
「現代世界憲章」は、教会と現代世界との関係を説くものですが、「現代世界のおもな特徴」としてこう言っています。
「今日、人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変革がしだいに全世界に広まりつつある。人間の知識と創造的努力の挑発によって生じたこれらの変革は、人間自身の上に、また個人および団体の判断と欲望の上に、人と物についての考え方と態度の上に、はね返ってくる。こうして、すでに真の社会的、文化的変質について論じることができ、それは宗教生活にまで及んでくる。」(4)
「ますます進歩する新しいマス・コミの手段は事件の報道に寄与し、多くの連鎖反応を呼び起こしながら、思想や意見を極めて迅速広範に普及させる。」(6)
「さらに、新しい諸事情は宗教生活にも影響する。」(7)
「家庭内にも、人口的・経済的・社会的諸条件の重圧や、異なった世代の間に起こる衝突や、男女間の新しい社会関係から不均衡が生じている。」(8)
「発展する世界の現状を前にして、次のような最も基本的な質問をする人、あるいはそれを新しい鋭さをもって感じる人の数が日増しにふえている。」(10)
「現代世界憲章」は、人類は新しい時代に入ったと言います。
「現代人の生活条件は社会的、文化的観点から大きく変動したので、人類史の新時代について語ることができる。」(54)
「全世界において自主精神と責任感がますます増加しているが、このことは人類の精神的・道徳的成熟にとって最も重要なことである。世界の統一と真理および正義の中により良き世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、このヒューマニズムにおいて人間は、まず兄弟たちと歴史とに対するその責任という点から定義される。」(55)
人類は新しい時代に突入した、従って、人間に奉仕する教会も新しくならなければならない、と。それがアジョルナメント(教会の現代化)です。
では、人間中心主義(ヒューマニズム)運動とは何でしょうか?
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで、思ったことを書き始めました。
野村よし氏は、カトリック教会の利益のために多く働き、司教様たちに経営者の観点から、マネジメントの観点から、何度も何度も、私的に公式にアドバイスや意見を述べてきた方で、尊敬すべき貴重なカトリック信徒だと思います。このように教会のために献身的になれる方は、多くないと思っています。
私は個人的にも、お会いしたこともなければ、知り合いでもありませんが、その書いたものを読む限りそう思っています。
今回、野村よし氏が執筆に至ったのは、教会を愛するが故に、教会の善を望むが故に、司教様たちに気づいてもらおうと、ついにこのような書を公刊するに至りました。
この書を拝見して思ったこと、前回に書いた私の主張は、次の通りです。
●司教団は「福音宣教」を目的にしていると主張してる。
●しかし、信徒らには、司教団の政治発言は「福音宣教」を妨害していると思える。そのような発言を止めるべきだ、と思われる。目的に合致しない行動を手段としてとることは、誠実ではない、と思われる。
●しかし、司教団は何故「福音宣教」を妨害するような行動を敢えて、使命感に燃えているかのように為し続けているのだろうか?
●前提となっている「福音宣教」の理解が、司教団と信徒とで乖離があると考えるともっとよく説明がつく。
●では、司教団が至上の目的としている「福音宣教」とは何か?司教団の考える「福音宣教」の意味を良く定義する必要がある。
●今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義という教えの結果だ。
Photo Credit
ところで、野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」をお読みになった方から、次のようなコメントを頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
===引用開始===
「マネジメントから見た司教団の誤り」を読んで
まず感じたのは、私が昔から思っていたことと同じだということです。
すなわち、戦後日本の言論空間にある空気のことです。
この空気には、まず第一に戦前の日本を否定し、悪とみなすという原則があります。
日本軍の悪行を(内実の複雑さを考えずに)断罪し、天皇制のもたらした(と決めつけている)悲惨な結果を非難し、戦争に至る経緯などを考慮しません。
第二に、外国、特に東アジア諸国(中国、韓国、北朝鮮)との関係において戦前日本の悪を強調するという原則です。
これらの国々の醜い姿(中国の周辺民族弾圧や残酷さ、北朝鮮の拉致問題や異常な政治体制、韓国の身勝手さなど)が露呈されたときですら、最後には戦前日本の罪を挙げて、その国々のマイナス面を相対的に小さくしようと試みます。
逆に欧米諸国に対する場合は、そんな遠慮はありません。相手によって使い分けているのです。
この空気は学術、マスコミ界に広く見られ、以前より弱まったものの、依然として力を保持しています。ソ連が崩壊して社会主義の主張が後退した後は、それ以前より戦前日本の悪を強調する傾向が強まっていると感じます。
日本の司教団も日本人として、この空気の中で生きているのですから、人が代わっていけば、その空気の影響を受けます。戦前の状況を体験していない人々が司教になっていけば、司教団もその空気に感染していくのは当然でしょう。
もともとカトリックは、どの国においても皇室、王室に敬意を払ってきたのは歴史的事実です。ですから、戦前は天皇陛下のために祈っていたのです。それがカトリックの本来の姿であり、すでにある秩序は天主の容認を受けているとして尊重するのです。
それを昭和天皇崩御の際に祈るように言わないとは、カトリックであることをやめたとしか考えられません。第四戒「なんじ父母を敬うべし」はどこへ行ったのでしょうか?
左翼思想を取り込んだカトリックとは、いったい何でしょうか? キメラです。
私がノブスオルド教会に通っていたとき、学校の元教師の人が共産党のごとき発言をしていたのを思い出します。例の九条の会のメンバーでした。そんな人が教会の中で役を務めている状況は、幻滅させるのに十分でした。
ですから、カトリック教会がカトリックらしさを取り戻すことが唯一の解決策です。
皇室を敬い、秩序を尊重し、出産を奨励し、つまりは聖伝を取り戻すことです。
===引用終わり===
何故、司教たちは、左翼思想を取り込んでしまったのでしょうか?言い換えると、カトリック教会は、何故、カトリックらしさを失ってしまったのでしょうか?
私はその理由は、第二バチカン公会議にあると主張します。
何故なら、この現象は日本だけではないからです。
例えば韓国では、信徒の方がついに耐えきれずに、野村よし氏のように本を出した方もいます。例えば私の手元にあるのが、「역대 교황의 회칙에 따른 올바른 사회교리 (歴代教皇の回勅による正しい社会教義)」(大韓民国保守天主教人の集い 教義研究書著 대한민국수호천주교인모임 교리연구소 저 2016年)です。
或いは、同じところが公刊している「韓国天主教の残念な現実」Brochure E-bookもあります。
これらは韓国の「天主正義具現司祭団」という左翼思想の司祭たちを問題点を指摘しています。
では、第二バチカン公会議が何故、その原因となったのでしょうか?
【第二バチカン公会議の新しい教え:新しい人間中心主義】
今の日本の司教団の行動は、第二バチカン公会議の新しい教え、つまり、新しい人間中心主義(ニューマニズム)の結果だと私は考えます。
もっと言うと、新しい人間中心主義のために、カトリック教会は、今までの天主教から、民主教への変わりつつある、私は考えます。旧教から新しい教えに変わりつつある、と思います。
新教の民主教とは、別の言葉で言うと、人間の宗教 religion of Man であって、人民による・人民のための・人民の宗教です。Religion of the people, by the peoople, for the people です。
カトリック教会の今までのモットーは、ロヨラの聖イグナチオに代表されるように Ad maiorem Dei gloriam (天主のより大いなる栄光のために)でした。私たちは被造物であり、全てを天主から受けたのであるから、全てを天主に捧げるのが当然であり、ついには天主の御許に至り、天主の超自然の命を分かち合う、そのためにこの地上に生きている、という信仰です。
カトリック教会の方針は、「全ては天主のため、全てを超えて、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くし、全身全霊で天主を愛する、そして天主を愛するが為に隣人を自分の如く愛する」です。天主を信じ、天主に希望し、天主を愛する、です。
ところが、人間中心主義の目的は、人間の尊厳の促進です。つまり、Ad maiorem hominis gloriam (人間のより大いなる栄光のために)です。パウロ六世によれば、これは「世俗の非宗教的な人間中心主義」の目的でもあります。同じパウロ六世によると、この人間中心主義は「最高存在の超越性」を放棄した「自らが神となる人間の宗教」です。
そして、第二バチカン公会議はこの人間中心主義を採用しました。第二バチカン公会議閉会の言葉で、パウロ六世は、公会議が新しい人間中心主義をとっているということを認めています。
「自分たちを現代の人間中心主義者たちと呼び、かつ最も高い現実の超越的な価値を放棄してしまった人々に呼びかけます。この公会議に少なくとも特性を認めて、私たち自身の新しいタイプの人間中心主義(our own new type of humanism)を認めてください。私たちもまた、私たちは誰よりも勝って、人間を崇敬します。」
But we call upon those who term themselves modern humanists, and who have renounced the transcendent value of the highest realities, to give the council credit at least for one quality and to recognize our own new type of humanism: we, too, in fact, we more than any others, honor mankind.
第二バチカン公会議を主催したのはパウロ六世でした。パウロ六世はヨハネ・パウロ二世よりも明確に、公会議の斬新さを認識していました。
パウロ六世は、上記の閉会の言葉では、さらにこうも言っています。
「現代のメンタリティーは、全てのことを有益さという言葉で評価することに慣れていますが、公会議の価値が偉大である、ということをすぐに認めることでしょう、たとえそれが、すべてのことが人間の有用性のために向けられていたが故にと言うことだけだったとしても。それゆえ、誰も、カトリックのような宗教は決して役に立たないとは言うことは決してあり得ません、教会が公会議においてそうであったように、最も深い自覚と効果をもって、全く人間の為に人間に奉仕すると宣言するのを見ているのですから。このやり方で、カトリックの宗教と人間の生活とは、その相互の同盟関係を、たった一つの人間的現実においてこの二つが交わっていることを、再確認します。カトリックの宗教は、人類のためにあります。(…)」
The modern mind, accustomed to assess everything in terms of usefulness, will readily admit that the council's value is great if only because everything has been referred to human usefulness. Hence no one should ever say that a religion like the Catholic religion is without use, seeing that when it has its greatest self-awareness and effectiveness, as it has in council, it declares itself entirely on the side of man and in his service. In this way the Catholic religion and human life reaffirm their alliance with one another, the fact that they converge on one single human reality: the Catholic religion is for mankind. (…)
教皇にとって、カトリックの宗教は人類のためにあり、現代人のために仕え、奉仕し、人間を促進させるために、カトリック教会は新しい態度を取り出しました。この態度の変化に合わせて、カトリック教会は自分が何であるかを再定義したのです。
パウロ六世は、第二バチカン公会議の目的は、新しい人間中心主義でもある、と宣言します。「私たちもまた、そして誰よりも勝って、人間の高揚する者です」と。
【新しい「福音宣教」と新しい人間中心主義はどのような関係があるのか?】
第二バチカン公会議以後、多くのことが変わりました。新しいミサ、新しい典礼、新しい教会法、新しい公教要理、新しい教導職、などなど。旧教から新教になり、新しい教会になってしまったようです。
一体何故、そんなに新しいことを導入したのでしょうか?何故なら、第二バチカン公会議によれば、人類は新しい時代に突入したとされるからです。
「現代世界憲章」は、教会と現代世界との関係を説くものですが、「現代世界のおもな特徴」としてこう言っています。
「今日、人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変革がしだいに全世界に広まりつつある。人間の知識と創造的努力の挑発によって生じたこれらの変革は、人間自身の上に、また個人および団体の判断と欲望の上に、人と物についての考え方と態度の上に、はね返ってくる。こうして、すでに真の社会的、文化的変質について論じることができ、それは宗教生活にまで及んでくる。」(4)
「ますます進歩する新しいマス・コミの手段は事件の報道に寄与し、多くの連鎖反応を呼び起こしながら、思想や意見を極めて迅速広範に普及させる。」(6)
「さらに、新しい諸事情は宗教生活にも影響する。」(7)
「家庭内にも、人口的・経済的・社会的諸条件の重圧や、異なった世代の間に起こる衝突や、男女間の新しい社会関係から不均衡が生じている。」(8)
「発展する世界の現状を前にして、次のような最も基本的な質問をする人、あるいはそれを新しい鋭さをもって感じる人の数が日増しにふえている。」(10)
「現代世界憲章」は、人類は新しい時代に入ったと言います。
「現代人の生活条件は社会的、文化的観点から大きく変動したので、人類史の新時代について語ることができる。」(54)
「全世界において自主精神と責任感がますます増加しているが、このことは人類の精神的・道徳的成熟にとって最も重要なことである。世界の統一と真理および正義の中により良き世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、このヒューマニズムにおいて人間は、まず兄弟たちと歴史とに対するその責任という点から定義される。」(55)
人類は新しい時代に突入した、従って、人間に奉仕する教会も新しくならなければならない、と。それがアジョルナメント(教会の現代化)です。
では、人間中心主義(ヒューマニズム)運動とは何でしょうか?
(続く)